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ペリー

英米に伝えられた攘夷の日本(1-5)

ペリーは幕府側に、中国で反乱があり、南京が占拠されたと言いかけて、幕府の役人から「反乱の話をしない方がよろしい」と諌められたのですが、太平天国の乱は同時代人のイギリス人からどう受け止められていたのでしょうか。

太平天国の乱

ギリスの読者に伝えられた情報という点で、1866年にロンドンで出版された『太平天国—太平革命の歴史—』(注1)から引用します。著者はLin-Leと中国名を使っていますが、リンドリー(Augustus Frederick Lindley:1840-1873)というイギリス人貿易商、冒険家で、彼の序によると太平天国のリーダーに依頼されて、革命の歴史を記したそうです。 ペリーが日本側に「暴徒による反乱が起こり、暴徒は南京とアモイを占拠し、新たな宗教を導入しようとしている」と言ったのは1853年7月14日です。『太平天国—太平革命の歴史—』によると、革命軍が南京を占拠したのは1853年3月19日です。アモイ(Amoy,福建省廈門)を占拠したのは太平軍ではなく、トライアド(Triads)と呼ばれる反体制組織で、7月末頃とされています(p.166)。この本の解説によると、トライアドの行動が穏やかなので、非常に人気があり、村人が食料物資を供給し、政府軍と戦ったのはこれら村人たちだったそうです。トライアドは太平軍に参加したいと申し出たそうですが、規律の厳しさに耐えられず、全員が参加することにはならなかったが、関係は近いものがあったと言っています。 日本では清朝として知られている政府は、この本では一貫してManchoo government(満州政府)、Manchoo Emperor(満州皇帝)と称され、民衆はChinese(中国人)と呼ばれているのに対し、満州王朝の人々はTartars(タタール人)と称されています。太平天国の乱の原因としてリンドリーが上げているのは、満州王朝の残酷さです。「満州支配の野蛮さは古代歴史上でも、現代史上でも、匹敵するものがないほどである。彼らの拷問による処罰の悪魔的性質、特に反逆に対する処罰と、彼らが制定した『処罰委員会』の記録は人類史の中で最も危険な地域をなしている」(p.105)と書いた上で、ヴィクトリアの司教(香港, George Smith: 1815-1871)の1854年の文章を引用して革命が起こった理由を説明しています。
政府は腐敗しており、学者たちは弱く、抵抗もせず、上流階級は臆病で隷従し、下層階級は生存の闘いで精一杯で、国全体が精神的エネルギーが麻痺したまま手足を縛られた状態であった。彼らの知的機能は阻まれ、人権や自由権は権力にしっかり握られ、また、頽廃した官能の影響下[アヘンの影響]にあった。 この中から改革者が現れることはありそうもなかった。(中略)しかし、この難局と落胆の状況の中から、現在の運動が起こった。その主要人物たちと彼らの達成したことを見ることができる栄誉を神に感謝する。(p.105)

太平天国を興した人物

 リンドリーは太平天国を興した人物、Hung-Sui-Tshuen[洪秀全:1813-1864]について、洪秀全の側近から直接聞いた話と、セオドア・ハンバーグ[Theodore Hamburg: 1819-1854]の『洪秀全の幻想』(The Visions of Hung-Siu-Tshuen, 1854, 日本語訳1941)、そして『太平天国—太平革命の歴史—』の中でも度々引用しているヴィクトリアの司教の本を基に概説していますので、太平天国までの主要点を抄訳します。
 洪秀全は1813年に広東の近くの小さな村で生まれた。祖先は広東省の北東部の出身だったが、満州のタタール人による中国支配がほぼ完全になった1685年頃に、満州政府の迫害を逃れて、広東省の最南端に移った。この人々は現在に至るまで移住者という意味のハッカ(Hakkas客家)と呼ばれてきた。 洪秀全の家族は中国で最も古い家柄の一つで、11世紀の宋代の頃から著名な知識階級だった。洪は小さい時から学問に優れ、18歳の時に村の教師に選ばれた。この頃から科挙試験に挑戦したが、満州政府の腐敗のため、官僚に賄賂を与えることしか合格の道がなく、彼は合格できなかった。そんな時、街で明代の衣服を着た男に出会い、洪がやがて最高の地位を得ると言われる。翌日、2人の男たちに会い、9冊の本を渡される。「時代を導くいい話」(Good Words for Exhorting the Age)という題名で、洪は読みもせずに本箱にしまった。 1837年に試験に再挑戦した。高得点だったにもかかわらず、ランクが下げられ、試験官の不公平さに落胆して、病気になってしまう。そして不思議な夢を見る。(pp.31-36)その後、数年間、洪は勉強を続け、村の教師としての役割も果たしていく。ある日、従兄弟のリーが洪の本箱を眺めるうちに、「時代を導くいい話」を見つけ、借りて読む。それは聖書の翻訳だった。それらが中国の本とは全く違う、素晴らしい内容だとリーから聞いて、洪は精読し始める。その内容が6年前に見た夢を説明するものだったので、驚嘆する。洪は長い夢から目覚めたような思いで、天国への道を見つけた喜びと、永遠の生と幸福に希望を見つけた。そして、本に書いてある通りの洗礼方法でお互い洗礼の儀式を行う。 洪とリーは友人や親戚を改宗させ、やがて宣教の旅に出る。1845-46年に洪は多くの宗教的読物を書き、それが後に修正されて「太平天国宣言」になる。1847年に広東のキリスト教宣教師ロバート氏のアシスタントに洪の宣教活動が伝わり、洪は広東でキリスト教を学ぶよう招待されて、しばらくロバート氏の元で学ぶ。その後、宣教の旅に再び出て、この原始的キリスト教は2000人もの教徒を得るまでになり、その数は日毎に増えていた。洪は教徒にアヘンやタバコ、酒を禁じ、安息日は厳格に守るように指導した。 すでに地域の当局から迫害を受け始め、逮捕され、殺害される者が増えてきていた。満州政府が軍隊を送って迫害しようとしていた時、洪秀全は迎え撃つ準備を始めた。洪秀全のグループに参加したのは、不満を持つ客家、トライアド、無法者、満州政府に反対する者たちで、独自の政府を樹立する流れができた。ヴィクトリアの司祭によると、洪秀全の文学的才能、道徳的偉大さ、管理能力、知的エネルギー、秀でた指揮力などから、リーダーに選ばれ、1851年末に中国王朝が宣言された。洪秀全は最初、4人のリーダー仲間と共同で最高権威者になろうと申し出たが、信者たちの熱烈な歓呼で皇帝に選ばれた。(pp.37-54)
 「太平天国の乱」をコロンビア大学の「教育者のためのアジア」サイト(注2)では、1850〜1864年としています。1853年3月に太平軍による南京占拠の成功が誇張されて上海のイギリス軍に伝えられ、革命軍が上海も襲うという噂が広まりました。満州王朝が盛んに「外国の『野蛮人』が南京の暴徒を退治するために軍艦を送る」という噂を広めたために、イギリスの中国全権大使ジョージ・ボーナム卿(Sir George Bonham: 1803-1863)は1853年4月に南京に行って、太平革命軍に対し、イギリスは完全に中立の立場を取ると宣言します(pp.138-145)。太平天国の乱の勢いは凄かったようですし、彼らのキリスト教的宗教観もリンドリーには好もしく映っていたようで、革命軍に同情的です。 なぜ満州王朝が中国全土を支配できたかの理由を、1863年7月発行のFriend of Chinaという新聞から引用しています。3点挙げられていますが、その第一番目は弁髪です。「中国人全員に前頭部分を剃らせ、テールを作らせた。従わない者は反逆者として斬首した。満州政府がこれに成功するには長い年月がかかり、南部には全く従わない人々もいた」(p.104)と解説されています。太平軍と政府軍の兵士の髪型が80ページに挿入されています。

太平天国の乱に対する英仏の対応

 リンドリーは母国イギリスの対応について批判的です。イギリス軍の軍事介入さえなければ、革命軍の北京占拠も可能だっただろうと述べています。後に日本に派遣されるイギリス公使たちやイギリス海軍の提督が、この頃の中国でイギリス政府を代表していた人々なので、彼らが太平天国の乱にどう対応したのか興味のあるところです。 1854年9月に上海がトライアドに占拠され、まずフランスが、次にイギリスが満洲政府の支援という形で革命軍だけでなく、市民をも虐殺した様子をリンドリーは複数の証言をもとに語っています。
 トライアドが上海を占領している間に、ヨーロッパのコミュニティーの中で、最初は秘密裏に、狡猾で恐ろしい革命軍対策—イエズス会の暴力的陰謀—が進行していた。(中略)太平天国の成功は、イエズス会がしてきたことと中国で築いてきた彼らの地位を脅かすため、太平天国に参加すると言っているトライアドを打倒する策略を始めた。フランス領事と上官は二人とも司祭の支配下にあり、頑迷な男たちで、帝国軍を支援して、トライアドを追い出したが、そこには正義や正当な理由は微塵もなかった。 1854年12月に、フランス海軍提督が彼自身の野望とイエズス会の仲間の不正な目的のために動く時が来たと決断した。トライアドは何の挑発行為もしなかったのに、突然襲われ、フランス水兵に虐殺された。提督は2万人の無辜の民が住んでいた上海の町を爆撃し、残忍な満州軍とフランス軍が共に町を封鎖した。(中略)1855年2月17日頃、フランス軍に投降したトライアド300人は満州軍に引き渡され、拷問されて死んだ。その後3日間に町の無辜の民と反逆者2,000人が虐殺された。(中略) 一方、トライアドが上海を占領した時に殺したのは2人、拷問は1人もせず、私有財産は尊重した。上海の新聞は「フランス軍と帝国軍が市を占拠した時、虐殺が起こった。市の壁の周囲には斬首された頭がぶら下げられ、橋には19も下げられ、所によってはうず高く積み上げられていた」と書いている。 ジョン・スカース牧師が著書『中国での12年間』(注3)の中で、その場で目撃したことを述べているので引用する。「中国軍とイギリス海兵隊がトライアドのリーダーと上海の市民を捕らえようとしていた。[イギリスの]副領事代行(驚くべき動機を持っているようだった)が随行していた」。 このようなことを知っている者には、この「驚くべき」企みが何かわかるが、中国事情を知らない人は、副領事の友人である[満州]政府役人がトライアドのリーダーの首に15,000ドルの報奨金をかけていたことはわからないかもしれない。イギリスの役人たちが満州同盟に食指を動かしたのは、1855年の上海虐殺だけではなかった。1854年から1856年にかけて、イギリスは抑圧された中国人の蜂起を鎮圧するための介入を続けたのである。 1854年ボウリング卿(Sir James Bowring: 1792-1872, イギリスの中国全権大使)は帝国軍と同盟してイギリス軍艦を送り、広東州の絶滅戦略に貢献したのである。帝国軍が広東市の男、女、子どもの絶滅と、革命軍が通った村々のほぼ全部を焼き払うのに忙しくしている間、イギリス海軍の戦艦複数は革命軍の船を追って中国沿岸を航行した。革命軍の船をいかに破壊したか、『中国での12年間』から引用する。 「ジャンクの数々は破壊され、乗組員は射殺されるか、溺死し、最後に総勢1,000人ほどを帝国軍が岸で虐殺するのを[イギリス軍が]手伝った! イギリス戦艦に対する海賊行為の証拠が、犠牲者が処刑された後で[強調原文のまま]集められた(『香港ガゼット』、1855年10月12日)」。 過去10年間のイギリスの中国政策は中国税関の傭兵数人に影響されていた。彼らは満州政府に雇われ、ボウリング卿だけでなく、エルギン伯爵[James Bruce, Earl of Elgin:
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英米に伝えられた攘夷の日本(1-4)追記

2016〜2017年の日米関係が「黒船トランプ?:日本はNOと言えるか」とアメリカのメディアに評されています。

21世紀の日米交渉

 160年以上前の日米のやり取りを訳しながら、現在起こっていることと通じるという思いを強くしました。特に2017年2月10〜12日に行われた日米首脳会談をめぐって、アメリカのメディアでどう報じられたかに焦点を当てると、安倍自民党政権の対米交渉が、国を守ろうとした幕府と真逆の対応であることに絶望します。 倍首相の訪米直前に発行された『Newsweek日本版』(2017年2月14日号、(注1))のカバー・ストーリーは「黒船トランプ?:日本はNOと言えるか」で、ペリー提督の軍服を着たトランプ大統領の姿が大きく印刷されています。特別レポートは「トランプの『外圧』は理不尽か:通商関係や為替について不満をこぼすトランプ米大統領だが新政権の対日姿勢は大騒ぎするほどのものではない」という見出しで、トランプ氏の発言に対し日本のメディアが過剰に反応して、「あろうことか先週、安倍政権がアメリカで70万人の雇用創出に向けた投資計画を準備していると報じられた。同盟国とはいえ、なぜわざわざ世界第1の経済大国(しかも完全雇用に近い)のために雇用創出プランを作る必要があるのか。(中略)日本はトランプのATMではない」(pp.23-24)と批判しています。そして、「うろたえずに泰然と構え、理不尽な要求には毅然と向き合えばいい」と結んでいるのが、1853年にペリーに対応した幕府の役人たちの態度と重なります。 70万人の雇用を創出するための投資額は51兆円とされ、この巨額をアメリカのインフラ整備に投資するというニュースも世界を駆け巡りました。2月10日のBBCとCNNニュースでも取り上げられましたが、CNNは,借金大国の日本が51兆円もアメリカに投資するというcharm offensiveという伝え方でした。CNNの女性アンカーはcharm offensiveという語を2回も使い、呆れたを通り越した表情だったことも印象的です。Charm offensiveという語は、主に政治家がご機嫌取りのために魅力的なものを計算づくでキャンペーンとして使うという否定的な意味があるようです。また、offensiveには攻撃的という意味以外に、不快な行為というニュアンスもあります。 借金大国日本というのは本当で、2016年の対GDPの国の借金は日本がダントツで、250.35%、2位のアメリカは108.25%で、日本はアメリカの2.3倍、ドイツ(68.17%)の3.7倍もの借金を抱えた国です(注2)。その上、日本の道路(60km/h以上)のインフラ整備水準はアメリカの10分の1、高速道路では33分の1(注3)というお粗末さです。その日本がなぜアメリカのインフラ整備に資金提供しなければならないのでしょう。 安倍外交がcharm offensiveだという表現は、イギリスの主要メディア『ガーディアン』(2017年2月10日、(注4))も使って報道しています。該当箇所を抄訳します。
安倍は手ぶらでワシントンに来るわけではない。外務大臣・岸田文雄と財務大臣・麻生太郎とともにやってきて、高速電車やその他のインフラに公的・民間資金から投資して、70万の雇用を生み出す野心的な政策パッケージをトランプに開陳して直接アピールするとみられる。(中略)安倍はトランプの移民政策を批判しなかった数少ない世界のリーダーの一人である。(中略)今週末の会談は安倍のcharm offensiveの集大成である。それは11月にまだ次期大統領だったトランプと会った時に始まった。この時、二人は「ゴルフ外交」の基礎を固めた。トランプは安倍にゴルフ・シャツを、安倍は$3,700の金色のゴルフ・クラブをお返しした。ニューヨークから戻ると、安倍はトランプが世界が信頼できるリーダーだと主張したが、大統領就任後に選挙中の公約であったTPPからの離脱を実行して東京を絶望に陥れた。

国民の年金を世界一の経済大国に貢ぐ安倍自民党政権

 70万の雇用を生み出す投資資金が日本国民の年金から出ることも世界のメディアで大きく取り上げられています。『エコノミスト』は「日本の首相がドナルド・トランプと『また』会う—安倍晋三は豪華な投資のオファーを携えてやってくる」(2017年2月11日、(注5))という見出しで、以下の点が報道されています。
    トランプが当選した直後に「飛行機に飛び乗って次期大統領に会いに行き、金メッキのゴルフ・クラブを贈り物として持って行った」。 「2017年2月9日に安倍氏はまたアメリカに飛び、今度はもっと豪華な贈り物:70万の雇用を生み出すプランを持ってくる」。 「安倍のプランはアメリカ軍艦の老朽化した原子力発電の廃炉や、ハイテック兵器の開発などに投資するというもので、その資金は世界最大である日本の135兆円の公的年金からも出る」。
 この前日には福島第一原発の2号機格納容器内が毎時650シーベルト(注6)、1週間前には530シーベルトと報道されましたが(注7)、この線量を浴びれば即死ですから、廃炉作業など不可能だという事実が次々と表面化しています。日本国内の安全も確保できずに、アメリカの廃炉事業に国民の年金を投資するとは、安倍自民党政権は何を狙っているのでしょう。福島第一の廃炉作業と超高線量に対する責任ある対応を日本政府に求めるという声明が中国政府から出されました(注8)。近隣諸国は気が気ではないでしょう。 『フィナンシャル・タイムズ』は「安倍晋三はトランプに言い寄るためにビジネス誓約を大宣伝—日本企業は大統領向けのプレゼンテーションにアメリカ投資を列挙せよと要求」(2017年2月7日、[ref]Robin Harding, Leo Lewis and Kana Inagaki, “Shinzo Abe drums up business 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(1-3)

ペリーの第一次日本遠征の対応をした浦賀与力がアメリカ側に対して、大統領の親書を運ぶために、なぜ4隻も軍艦で来たのかと質問したというアメリカ側の通訳の記録は、ペリーの報告書から抜けています。

ペリーの『日本遠征記』の記述内容に関する疑問

リーの『日本遠征記』(1856)とウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』(1910)の記述に、正反対の箇所があることに気づきました。きっかけはジェームズ・マードック(James Murdoch: 1856-1921)の『日本史 第3巻 徳川時代 1652-1868』(1926)をチェックした時です。その場にいた主任通訳のウィリアムズの印象と正反対で、この違いはいったいどこから来ているのか、出典を探しました。マードックの参考文献にウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis: 1843-1928)の『マシュー・カルブレイス・ペリー:典型的なアメリカ海軍将校』(1887)という本が上がっていたので、こちらも調べました。マードックと同じような記述ですが、グリフィスの本には出典がありません。そして、ペリーの『日本遠征記』をチェックして、これが出典だとわかりました。ただ、マードックの『日本史』には出典としてあがっておらず、逆にウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』があげられています。マードックがどちらの記述を採用したか見てください。それぞれの本文を比較してみます。
●『ペリー日本遠征随行記』((注1),記述日:1853年7月9日):The originals of the letter and credence were then shown them, and also the package containing the translations; they showed little or no admiration at them, but wished to know the reason for sending four ships to carry such a box and letter to the Emperor; yet whether the reason assigned, “to show respect to him,” fully met their doubts as to the reason for such a force could not be inferred from their looks. 手紙のオリジナルと翻訳が入った箱を彼らに見せると、感心した様子はほとんど見せなかった。そして、そのような箱と皇帝宛の手紙を運ぶために、なぜ4隻も船をよこしたのか知りたいと言った。「皇帝に敬意を表するため」という理由を告げると、彼らの表情からは、こんな武力の理由について疑いがますます募ったようだった。
● 『日本遠征記』(1856, [ref]Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853,
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英米に伝えられた攘夷の日本(1-2)

1848-49年にアメリカ漂流民に対して、日本の看守がアメリカの仕返しなんか怖くないと言った理由は、アメリカが日本に対して威嚇的対応しか効果がないと方針を変えたきっかけになりました。

1846年のアメリカ艦隊日本遠征

メリカ人船乗りと日本人看守とのやり取りで、日本の一兵士がアメリカ軍艦の艦長を「ノックダウンしたが、問題にされなかった」という件は、ヒルドレスが詳しく紹介しているので、要約します。ただし、ビドル提督(James Biddle: 1783-1848)率いる艦隊が江戸湾に投錨した年を1848年と間違えているので、1846年に訂正してあります。
    アメリカ艦隊を率いるビドル提督は日本の港が使えそうか調査する使命を受けて、1846年7月20日に江戸湾に投錨した。投錨前にオランダ語通訳を連れた役人が乗艦して、来航の目的が何か聞いたので、友好目的であること、日本が中国のように、貿易に門戸を開いたか、もし開いたのなら、通商条約を結びたいと伝えた。 この役人は上層部に伝えるために、来航目的を文書で記すよう、必要物資は与えるが上陸も、軍艦[USSコロンバス号とUSSヴィンセネス号]の間をボートで行き来することも認められないと言った。提督が受け入れられないと言うと、彼はそれ以上主張しなかった。 艦隊の周りには無数の小舟が取り囲み、[提督は]アメリカ軍艦の強さを見せるためと、友好の証として、乗船して見学したい日本人に開放した。 翌日、地位の高そうな役人が乗船してきて、外国船の来航時に武器を放棄することになっていると言ったが、それは商船だけに当てはまると伝えられると、彼は納得したようだった。[アメリカ側は]この役人に最近の中国とイギリス・フランス・アメリカとの条約の中国語コピーを渡そうとしたが、それまでの日本の役人全てが断ったように、彼も受け取らなかった。 水を供給する役人は最初の日に200ガロン以下の水、2日目にはそれ以下しかよこさなかった。これでは1日の消費量以下なので、提督はこの量を続けるのであれば、自分のボートを送って水を入手すると伝えた。これはもちろん受け入れられないので、日本側は次の2日間で22,000ガロン供給してくれた。 [7月]28日に8人の一行が皇帝の手紙を携えて乗船してきた。オランダ人の通訳によって訳された内容は「日本の法律では、日本はオランダと中国以外とは貿易をしないことになっている。アメリカが日本と条約を結ぶことも、貿易をすることも認められない。その他の国とも同様である。外国(strange lands)に関して全ては長崎で対応することになっており、江戸湾ではない。したがって、できるだけ速やかに出航し、二度と日本に来てはならない」というものだった。 日本語のオリジナルは広東で中国語に訳され、中国語から英語に訳された。「このコミュニケーションの目的は、貿易目的で大海を渡ってこの国に来る外国となぜ貿易をしないのかを説明することである。これは太古から我が国の慣習である。これまでに起こった同様の場合も、すべて貿易を断ってきた。様々な所から外国人がやってきたが、同じように対応している。貴殿に関しても、我々は同じ政策を貫くのみである。我々は異なる外国の国々の間に区別をすることはできない。我々はすべて[の国]に等しく対応し、貴国アメリカも他の国と同様の答えを受け入れなければならない。再度試みようとするのは無駄である。同様の申し入れがいくら来ても、答えは絶えず同じだからである。我が国のこの慣習に関して、他国と違うことは承知しているが、どの国も国内を独自の方法で運営する権利がある。 長崎で行われているオランダとの貿易は他国との貿易の前例となると見るべきではない。この場所はほとんど住人がおらず、ビジネスもわずかで、重要性は全くない。皇帝は貴殿が望む許可を断固として拒否すると言わなければならない。即刻出航し、我が国の海岸に再び現れないよう、皇帝は心から勧める」。 この文書は住所も署名も日付もなく、開封された封筒に入っていて、封筒には「説明勅令」(Explanatory Edict)と書かれてあった。これがどう手渡されたかは、提督の言葉で述べるのがいいだろう。 「ここで不快な出来事について述べなければならない。皇帝からの手紙を携えて役人がジャンクに乗ってやってきた朝、手紙を受け取るためにジャンクに乗るように言われた。私は断り、通訳に伝えたことは、私宛の手紙を受け取るには、この船に乗って手渡さなければならないということだ。役人は同意したが、私の手紙はアメリカの船上で手渡されたのだから、皇帝の手紙は日本の船上で手渡されるべきだと思うと言った。この申し出の重要性を日本の役人は主張したが、私が断るとすぐに引っ込めた。私は彼を満足させることも大事だと考え、通訳を通して、ジャンクに乗って手紙を受け取ると伝えた。通訳がジャンクに乗り、1時間後に私は制服を着て船のボートで[ジャンクの]横に行った。私が乗船した瞬間、ジャンクの甲板にいた日本人が私を殴ったか押したので、私はボートに投げ戻された。私はすぐに通訳にその男を捕まえるように叫んで、戦艦に戻った」。 通訳と数人の日本人がついてきて、日本人はこの出来事について非常に心配していると表明し(expressed great concern)、提督が[日本のジャンクに]乗船する意図が理解されなかったと言ったので、提督は納得した。暴行者にどんな罰を与えるか提督に任せ、罰すると言ったが、提督は日本の法律に従うこと、また、これが個人の行為であって、当局の権限のもとに行われたものではないということで、提督は満足した。 ヒルドレスの注:提督が[アメリカ政府から]受けていた指示は、「敵対感情を煽ったり、アメリカ合衆国に不信感を持たれるような」行為をしないよう注意せよというものだった。(上院議会資料、1851-1852, vol.IX.[Ex.Doc.No.59.])((注1), pp.496-498)

ペリーの日本対応

 ビドル提督の日本遠征の教訓は、「ご機嫌取り政策」(humoring policy)が役に立たないことを証明し、日本との交渉ではノーと言わせない断固たる態度をとる以外方法はないと、アメリカ政府は方針を変え、軍艦を追加して使節を送ることにしたとヒルドレスの本で解説されています。
この[ペリーの]使節は、大統領が宣戦布告する権限を持たないので平和的性質のものだったが、日本に対して影響力があるのは、何にもまして軍事力を見せつけることで、明らかに効果があった。(中略)ペリーは、言いなりになって調停しようとするのではなく、最大限威張り、小さな不快なことも一切許さず、お願いとして交渉するのではなく、1文明国からもう1つの文明国に対して当然の礼儀であると、権利として要求するのだと決心していた。(p.508)

浦賀与力の胆力

 この「威嚇政策」に日本側が疑問を呈したと、日本遠征に同行したアメリカ人通訳のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams: 1813-1884)が彼の日誌『ペリー日本遠征随行記』(1910, (注2))の中で述べています。ウィリアムズはアメリカ商船モリソン号(1837)に乗船していた人です。「モリソン号事件」で、日本に送還しようとした日本人漂流民の一人、音吉は後に紹介する『イラステレイテッド・ロンドン・ニュース』でも紹介されています。ウィリアムズは『ペリー日本遠征随行記』の最初に、ペリーに懇願されて気乗りせずに引き受けたと書いています。
[1853年]7月9日金曜日:7時頃、Yezaimon[香山栄左衛門:1821-1877]という浦賀の最高役人が2人の通訳と他に4,5人を連れてやってきた。ブッキャナン船長がキャビンに入れ、3人が入って、座った。栄左衛門は役目上、[アメリカ大統領から皇帝宛の]手紙を受け取ることはできないが、彼個人としては日本の法律が禁じていても受け取りたいと言った。我々は大統領から皇帝宛の手紙を適任者に手渡すことが任務で、日本人が日本の法律に従うのと同じく、我々も自分たちの国の法律に従わなければならないと返答した。(中略)手紙のオリジナルと翻訳が入った箱を彼らに見せると、感心した様子はほとんど見せなかった。そして、そのような箱と皇帝宛の手紙を運ぶために、なぜ4隻も船をよこしたのか知りたいと言った。「皇帝に敬意を表するため」という理由を告げると、彼らの表情からは、こんな武力の理由について疑いがますます募ったようだった。この会談の間中、日本人の態度は威厳があり沈着冷静だった。栄左衛門ははっきりした声で話し、Tatsnoski[堀達之助:1823-1894]がそれをポートマン氏のためにオランダ語に直した。彼らの言っていることはほぼ分かったが、彼らのように話すには相当練習しなければならない。(pp.50-51)
 大統領からの親書を示す件は、ペリーの『日本遠征記』(1856)でも記述され、以下のイラスト([ref]Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(1-1)

R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)と吉田松陰論(1880)を理解するにあたって、幕末の日本について英米の一般読者に何がどう伝えられていたのかを知る必要があると思いました。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されている記事と関連書を概観します。

ペリー提督の日本遠征

 2006年に『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899—』(Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899,(注1))という本が出版されました。この頃の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はかなり「インターネット・アーカイブ」に掲載されていますが、抜けている年も多く、この本と併せて見ていくと、ヴィクトリア時代のイギリス人読者に何がどう伝えられているか見えてきます。なお、金井圓編訳『描かれた幕末明治:イラストレイテッド・ロンドン・ニュース日本通信1853〜1902』(雄松堂書店、1973)で翻訳が出ていますが、絶版です。ずれの本も1853年から始まっています。つまり、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に日本のニュースが登場するのはペリーの浦賀来航(1853年7月8日)の2か月前からです。なお、各記事に付したページ数は注1の本のページ数です。

●1853年5月7日:アメリカの日本遠征(pp.1〜3)

 ペリー提督の日本遠征は、合計15隻、260砲、海兵・水兵・将校合わせて4000人の戦隊だ。この遠征の強さは数で図るべきではない。イギリスの水兵ならみんな知っていることだが、アメリカの軍艦は他のどの国よりも、大きさとトン数(容積)よりも重い金属を有している。アメリカが認めていることは、このような破壊力を持つ砲数と容積の艦隊はかつて世界にないということだ。 この遠征は日本政府と国民に敵意を持って、武力を使おうと考えて出帆したわけではないと言われている。しかし、紛争の原因はいくらでもある。日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた。この非道な行為について、ペリー提督は日本政府に説明を求めるだろう。アメリカが言うには、日本はなぜこの行為をしたのかの説明も、謝罪もしないから、日本に対して拒否できないような方法で、この件に注意を促す必要があるという。したがって、この遠征は「日本政府を力づくで文明化する」(強調は原文のまま)ために行くものである。日本が残虐に扱った船員の国の政府との交渉に、もし日本が同意しなかったら、人間らしさとは何かの教訓を与えてやらなければならない。そして「文明帝国のランクに入れさせてやる」(強調は原文のまま)のだ。 この遠征の副次的な目的は、日本沿岸に石炭の兵站部(貯蔵庫)を建設することである。科学的目的も忘れてはならない。もしペリー提督が日本に差し出すオリーブの枝を受け入れるなら、日本遠征は豊かな果実を実らせることは間違いない。 海軍長官の年次報告によると、日本の開国がすべてのキリスト教国の商業的冒険に必要だと認識されるようになったこと、それはカリフォルニアと中国の間を航海するアメリカの捕鯨船の船主など全員が認めることである。この重要な任務が東インド戦隊の指揮官に与えられたのである。

●1853年10月22日:アメリカの日本遠征(p.5)

(特派員より) 香港, 1853年8月10日 戦隊は[7月]8日に江戸湾に着き、江戸から約30マイルほど離れた浦賀という町に投錨した。2,3日交渉した後、ペリー提督は300〜400人の兵士を上陸させ、皇帝(emperor,(注2))の内閣によってアメリカ応接の役目を任命されたその地域の長(Prince of a province)にアメリカ合衆国の大統領からの親書とペリー提督自身の信任状を渡した。アメリカ軍は海岸に並ぶ4000〜5000人の日本の軍隊に迎えられた。両軍共、警告が出された瞬間に交戦する用意があった。日本側もアメリカ側も裏切り行為に対する懸念を持っていたので、防御体制にあったのである。しかし、すべてが平和裡に経過し、アメリカ戦隊は春に戻ってきて、回答をもらえることになった。非公式の通告では、皇帝は大統領の親書に対して、期待できる回答をするだろうということだった。この会見の翌日、日本の役人が数人、旗艦に上船して、多くの贈り物の交換があった。 贈り物交換の儀式の後、艦隊は湾の奥まで航行し、周囲を調査した。2,3マイル下に帆船が停泊しているのが見えただけで、江戸の町は見えなかった。人々は航行するアメリカの船団を気にしているようには見えなかったが、蒸気船が[日本について]発見しすぎるのではないかと、明らかに恐れているようだった。そして[蒸気]船が風と潮に逆らって、動き回ることが理解できないようだった。江戸湾は世界で最も美しく、広い湾で、周囲の景色の美しさは比類ないものである。詳細な観察の機会はなかったものの、日本人の振る舞いや習慣や衣服など、すべてが2世紀前に描写されたのと全く同じで変わりがなかった。我々が会った部隊の男たちは弓矢と槍で武装していた。火打石マスケット銃30丁と古めかしい火打石が200〜300あった。上陸した日に偶然女性を2,3人見かけたが、上流階級の女性ではなかった。美人は見つからなかったが、皆繊細で慎み深く見えた。
 ペリーの日本遠征記はアメリカ議会への報告書の形で1856年に出版され、その中には以下のようなイラスト((注3), pp.294-295)がふんだんに挿入されています。

1846年のアメリカ漂流民に対する幕府の対応

 1853年5月7日付の記事では、ペリーの日本遠征は武力行使が目的ではないと「言われている」と、建前を語りながら、好戦的な本音が出ていて、軍事力は文明度のバロメーターだという価値観が前面に表されています。その背景にあるのが、「日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた」「非道な行為」に対する報復というニュアンスです。これが当時の英米の一般読者にも共有された事件だったことが、1855年にボストンで出版された『日本—過去と現在—』(注4)からもわかります。 著者のリチャード・ヒルドレス(Richard Hildreth: 1807-1865)は歴史家・哲学者・ジャーナリスト、そして奴隷反対活動家とされています[ref]”Richard Hildreth”, Dictionary of Unitarian 続きを読む