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2017-03-16

英米に伝えられた攘夷の日本(1-3)

ペリーの第一次日本遠征の対応をした浦賀与力がアメリカ側に対して、大統領の親書を運ぶために、なぜ4隻も軍艦で来たのかと質問したというアメリカ側の通訳の記録は、ペリーの報告書から抜けています。

ペリーの『日本遠征記』の記述内容に関する疑問

リーの『日本遠征記』(1856)とウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』(1910)の記述に、正反対の箇所があることに気づきました。きっかけはジェームズ・マードック(James Murdoch: 1856-1921)の『日本史 第3巻 徳川時代 1652-1868』(1926)をチェックした時です。その場にいた主任通訳のウィリアムズの印象と正反対で、この違いはいったいどこから来ているのか、出典を探しました。マードックの参考文献にウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis: 1843-1928)の『マシュー・カルブレイス・ペリー:典型的なアメリカ海軍将校』(1887)という本が上がっていたので、こちらも調べました。マードックと同じような記述ですが、グリフィスの本には出典がありません。そして、ペリーの『日本遠征記』をチェックして、これが出典だとわかりました。ただ、マードックの『日本史』には出典としてあがっておらず、逆にウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』があげられています。マードックがどちらの記述を採用したか見てください。それぞれの本文を比較してみます。

●『ペリー日本遠征随行記』((注1),記述日:1853年7月9日):The originals of the letter and credence were then shown them, and also the package containing the translations; they showed little or no admiration at them, but wished to know the reason for sending four ships to carry such a box and letter to the Emperor; yet whether the reason assigned, “to show respect to him,” fully met their doubts as to the reason for such a force could not be inferred from their looks.

手紙のオリジナルと翻訳が入った箱を彼らに見せると、感心した様子はほとんど見せなかった。そして、そのような箱と皇帝宛の手紙を運ぶために、なぜ4隻も船をよこしたのか知りたいと言った。「皇帝に敬意を表するため」という理由を告げると、彼らの表情からは、こんな武力の理由について疑いがますます募ったようだった。

● 『日本遠征記』(1856, (注2)):At the interview, the original letter of the President, together with the Commodore’s letter of credence, encased in the magnificent boxes which had been prepared in Washington, were shown to his excellency, who was evidently greatly impressed with their exquisite workmanship and costliness; (p.274)
 
大統領の親書のオリジナルと提督の信任状が入った豪華な箱はワシントンで準備されたものだが、会談で、それらを閣下[奉行だと思っているため]にみせたところ、その見事な細工と高価さに非常に感心したことは明らかだった。

● 『マシュー・カルブレイス・ペリー』(1887, (注3)):”His Excellency” (!) the buniō was shown the varnish and key hole of the magnificent caskets containing the letter from the great ruler of the United States. Eve did not eye the forbidden fruit of the tree of knowledge of good and evil with more consuming curiosity, than did that son of an inquisitive race ogle the glittering mysterious box. (p.322) 

奉行「閣下」(!)はアメリカ合衆国の偉大な支配者からの手紙が入った豪華な小箱の鍵穴と表面の飾りを見せられた。この詮索好きな人種の息子がこの光り輝く秘密の箱をたまらない好奇心でいやらしく見つめる姿は、善悪の知恵の木の禁断の果実を見るイヴの好奇心以上だった。

●『日本史』(1926, (注4)):The “Governor” was also shown the President’s letter, and the Commodore’s letter, and the envoy’s credentials, and was so evidently impressed with the exquisite workmanship and costliness of the magnificent boxes in which they were enclosed…(p.581)

「奉行」が大統領の親書と提督の手紙、そして、使節の信任状を見せられると、それらが入っている豪華な箱の見事な細工と高価さに非常に感心した様子だった。

 グリフィスとマードックがペリーのアメリカ議会へ提出した『日本遠征記』を採用したことは間違いないでしょうが、香山栄左衛門とブッキャナン船長とのやり取りに同席したウィリアムズとペリーの報告書との違いはどう理解したらいいのでしょうか。ペリーは同席していませんでしたから、香山栄左衛門一行の表情を見ることはできなかった筈です。しかも、報告書を書いたのはペリーではなく、ペリー自身の日記などを含め、随行員たちの記録を集めて、他の人物によって編集されました。ウィリアムズはペリーに批判的で、ペリーから求められても報告書を出しただけで日誌は出さなかったそうです(注5)

 ウィリアムズの息子によって編纂された『サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの生涯と手紙』(1889, (注6))には、1854年9月6日、12月6日、1855年3月13日付のペリーからウィリアムズ宛の書簡が記録されており、日本遠征の主任通訳を務めたウィリアムズに報告書の執筆か編集、日本の歴史に関する部分の執筆を依頼している内容です。ただ、ウィリアムズが受諾したかどうか記されていません。

 香山栄左衛門の質問についてペリーは記していませんが、ウィリアムズが確かに聞き、感心した様子は、1週間後の1853年7月16日付の弟宛の手紙に書かれているので、ウィリアムズの方が信憑性がありそうです。「江戸湾、アメリカ海軍サスケハナ号にて」と始まる手紙です。該当箇所を含むパラグラフを訳します。

 翌朝、浦賀の最高役人が私たちのミッションについて更に質問するためにやってきました。そして、長崎に行かずに、ここに来たことで私たちが彼らの法律を破っていること、日本の法律は厳しいのだと強調しました。そこで私たちは、アメリカの強力で権力のある皇帝(Caezar)は高位の役人に日本の皇帝に宛てた手紙を託したこと、アメリカ領土の法律は他のどの国よりも厳しいこと、この手紙に従わなければならないこと、また、このミッションは平和的で隣人としての友好的なものだから、そう受け取られることを希望していると返答しました。これらの手紙を彼に見せ、我々の偉大な元首からの手紙と翻訳が入った箱を江戸に持って行くように依頼しました。これらの美辞麗句を付け加えたのも、[事が上手く運ぶのは]全て彼次第だったからです。彼は美しい箱(大統領の手紙が入った)を見て、これは子供騙しじゃないと悟ったようです。彼はこの二つの小さな箱を運ぶのに、なぜこんなにたくさんの船で来たのか尋ねました。「皇帝への敬意を表すため」と言われると、彼の表情は疑いもなく、疑いを示していました。(pp.194-95)

 最後の部分は言葉遊びがあるかと思いますので、原文を記します。’he asked why so many ships came to bring so small a cargo as these two boxes, and when he was told, “Out of respect to the Emperor,” his countenance indicated doubt in no doubtful manner’.

日本人は信用できないという評価

 もう一つの疑問は、この件を紹介するページでマードックは浦賀与力たちが奉行だと偽って接してきたので、日本人は信用できないと強調している点です。ウィリアムズの日誌には書かれていません。例えば、ウィリアムズは7月12日に別の通訳、立石得十郎からYezaimonの肩書きを聞いたと、「浦賀騎士長」と漢字で記し、’literally, the “riding elder scholar”, but what this means I do not know’(p.57)(字句通りには、「浦賀乗馬老学者」だが、実際に何を意味するのかわからない)と書いています。栄左衛門が肩書きを偽ったのかについて、ウィリアムズは疑っていません。こちらも比較します。

●ウィリアムズ『ペリー日本遠征随行記』
1853年7月13日:栄左衛門がこの [ペリーが上陸して親書を手渡す場所を決定する] 任務の信任状とオランダ語訳を持ってきた。しかし、日本語と中国語のコピーがないので、この翻訳の正確さを確かめようがない。それでも、私は策略の心配などないと思う。私がその紙を見に彼に近づいた時、彼はかなり敏感に反応した。そして彼の手から離してはならないのだと主張した。[この後、印の押され方や形などの詳細、紙の質などの描写が続きますが省略] [ペリー提督の]会談の様々な点について決着した。(中略)

 役人たちの疑い深い性格は今日はっきりした。しかし、彼らの質問はそうするように言われたからかもしれない。この場にいない上司を満足させるために、あんなにたくさんの質問をせざるを得ないのだろう。(pp.57-58)

 ウィリアムズが「彼はかなり敏感に反応した」と書いた箇所は、ペリーの報告書では「この宮廷の書簡はヴェルヴェットに包まれ、白檀の箱に入っていた。奉行によって非常にうやうやしく扱われ、彼は誰にも触らせなかった」((注2), p.288)となっています。

● マードック『日本史』(1926)
この時、アメリカ人側は日本人がずっと騙し続けていることを、みじんも疑っていないようだ。香山栄左衛門という浦賀の「奉行」(Governor)は中島[最初に副奉行として接触した応接掛与力の中島三郎助]と同じく、取るに足らない警官(police-officer)以外の何者でもない。ここで述べなければならないのは、浦賀には奉行が二人いて、一人は戸田伊豆守で浦賀在住、もう一人は江戸の井戸石見守で、徳川幕府が各役職に二人置くようにしていることだ。この奉行たちは役職の地位としてはかなり低いことも覚えておかなければならない。ペリーが唯一交渉相手にしようとしていた”Councillors of the Empire”と彼らとの間には少なくとも数レベル以上の差がある。(p.581)

 マードックが”Councillors of the Empire”で老中を指しているのかわかりませんが、それだけアメリカの方がすごいのだという思いが伝わってきます。ヒルドレスがペリー使節の方針として「最大限威張り、権利として要求する」(英米に伝えられた攘夷の日本(1-2)参照)をあげたことが思い出されます。

開国すればアヘン商人が日本を襲う

 ウィリアムズの日誌にはアメリカから強引に開国を迫られる日本を心配する思いも書かれています。ペリー艦隊が琉球に向かう中で、ペリー遠征が成功したら日本はどうなるか想像し始めます。

5月15日:私はもしこの遠征が成功したらどうなるかずっと考えている。中国にいる商人たちがすぐに日本の港にやってきてアヘンを売ろうとするだろう。そして、あらゆる手段を使って、この国の人々にアヘンを吸わせようとするだろう。そんな悲しい結末をどうやったら避けることができるか、私には考えつかない。なぜなら、人々の欲望にはどんな法律も届かないからだ。彼らの目の前に誘惑をぶら下げることに商人が躊躇するような良心はない。(p.5)

 「中国にいる商人たち」(merchants in China)という表現は中国人商人ではなく、英米商人たちという意味で、「この国の人々」と訳した原文は”a people”なので、1国の国民全体と読めます。ウィリアムズは21歳の時、父親の勧めで、広東に開設されたばかりのキリスト教の伝道組織American Boardの出版局を任されることになり、1833年に中国に渡ってから、宣教師、出版業、中国語の翻訳などに携わってましたから、アヘンに苦しむ中国の様子も直に見聞していたようです。

第一次アヘン戦争

 現在、アヘン戦争がどう理解されているかを知るために、「ヴィクトリアン・ウェブ」(注7)から要約します。

 1830年代、イギリスとアメリカの貿易商がイギリス東インド会社の支援で中国へアヘンを輸入し、中国沿岸にアヘン吸引が広がった。取り締まりに乗り出した[中国]政府の試算では、アヘン中毒患者が400万人に上ったと言われる。しかし、当時広東で開業していたイギリス人医師は1,200万人と試算した。1837年の中国への輸入量の57%がアヘンだった。1838年にアヘンを没収するよう皇帝に命じられた官僚の報告には、「アヘン貿易が栄えることを許していたら、2,3年後には敵に立ち向かう兵士がいなくなってしまうだけでなく、軍を装備する資金さえ失ってしまう」とあった。

 1839年に中国政府はアヘンを没収して、焼却を公開し、広東の港を外国人に閉ざした。英国海軍は中国攻撃を開始し、第一次アヘン戦争(1839-1842)に勝利した。1841年春に中国は広東防衛を断念して、イギリスに600万銀ドルを支払い、1842年にイギリスは「不平等条約」を中国に署名させた。1843年の「補足条約」で、アヘンを没収されたイギリス人貿易商への損害賠償900万ドル、香港割譲などが行われた。中国にとって最も重要な国家主権喪失は「治外法権」が中国内のイギリス人に適用されたことである。1844年にはアメリカとフランスにも適用された。

 1842年11月12日の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に、「造幣局に入る中国の貢金」という見出しで挿絵が掲載されています。「インターネット・アーカイブ」には未掲載なので、MIT(マサチューセッツ工科大学)のオープン教材ウェッブに掲載されている挿絵を参照してください(注8)。挿絵の下に付けられた解説は以下の通りです。

第一次アヘン戦争の敗戦国に負わされた屈辱的でコストの高い条件のうち、中国は2000万銀ドルという巨額の賠償金を戦勝国に払わされた。このうち1200万ドルはイギリスの戦争コストをカバーするため、300万はイギリス商人への負債をカバーするため、500万ドルは1839年に焼却されたアヘンの賠償だった(p.2)。

 MITのサイトは1842年にイギリスで発行された「イギリス軍の勝利:1842」と書かれた金メダルの写真も掲載しています。

戦争反対の表明

 帝国主義の時代に、戦争反対とおおっぴらに表明するイギリス人は少なかったかもしれませんが、第一次アヘン戦争開始時に、教育者で歴史家、そして、詩人マシュー・アーノルドの父だったトーマス・アーノルド(Thomas Arnold: 1795-1842)が書簡(1840年3月18日付)の中で書いている文章を「ヴィクトリアン・ウェッブ」が引用しているので、抄訳します。

 中国とのこの戦争はあまりにも邪悪で、考えうる限り最悪のレベルの国家の罪だと、本当に思える。我々が被っている恐ろしい罪の意識に人々の心を目覚めさせるために、請願書とか何とかできることはないだろうか? これほどの不正と卑劣さを併せた戦争が行われたことは歴史上かつてないと思う。征服のための普通の戦争は卑劣さはずっと少ないと思う。[この戦争は]人間を堕落させる麻薬を[中国に]入れるための密輸を続けるためのもので、中国政府は入れさせまいとし、我々は不正な利益を得るために力づくで入れようとしているのだ。我々の信じるところの優越性というプライドのために、この喧嘩で[中国の町を]燃やし、[人々]を殺戮するのだ。(注4)

 第二次アヘン戦争(1856-1860)の最中にカール・マルクスがアメリカの新聞に投稿した記事「貿易かアヘンか?」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1858年9月20日, (注9))も、文明国が半野蛮とみなしている中国が道徳の原則に立ち、文明国は我欲の原則に立っていると批判しています。この記事でマルクスが引用している文章の出典がなかったので調べたところ、イギリス領香港の財務相やイギリスの在中国領事などを務めていたモンゴメリー・マーティン[R. Montgomery Martin: c.1801-1868]という人のイギリス政府に対する報告書『中国—政治・経済・社会—』(1847, (注10))からの引用だとわかりました。まず、マルクスが引用した部分を翻訳します。

なぜ「奴隷貿易」が「アヘン貿易」に比べて慈悲深いのか? 我々はアフリカ人の肉体を破壊しなかった。なぜなら、彼らを生かしておくことが我々の直接の利益だったからだ。我々は彼らの性質を低下させたり、彼らの心を堕落させたり、魂を破壊したり(強調は原文のまま)しなかった。しかし、アヘンの売人は不幸な罪人たちの人的存在[moral being]を堕落させ、低下させ、そして抹殺した後で、肉体を殺害するのだ。毎時モレク[人身御供の神]に新たな犠牲者が供えられ、モレクは満ち足りることがないので、この神殿でイギリス人殺害者と中国人自殺者が供物提供の競い合いをしている。((注10), p.261)

 マーティンは巻1の冒頭に英国女王に6ページにわたる「献辞」を捧げていますが、その中でも、「中国におけるイギリスのアヘン貿易」という章に女王の注意を引きたい、女王陛下の臣民が中国で恐ろしい犯罪の任務に当たっていることを知ってほしいと訴えています。2巻本は1巻が約450ページ、2巻が約530ページ、全体で1000ページの大著です。私は第2巻第4章(87ページ)しか読んでいません。アヘン貿易の経済的側面、アヘンが人間に及ぼす影響、政治的側面など詳細に記しています。

 イギリスの政治家・議員の中にも、「この貿易の非合法的性格」「医療以外のアヘン使用を止めることができれば、人類に対する思いやりとして喜んで止めたい」「アヘン貿易はイギリスの特質に深刻な不名誉という汚点を急速につけている」「我々が行ってきたアヘン貿易をキリスト教国が続けることは恥辱である」「キリスト教を侮辱するような活動は、人類の文明に対する大逆罪である」「キリスト教を信仰する国がこの方法[アヘンはサタンの手にある強力なエンジン]を供給し、その国がイギリスだということを決して忘れてはならない」((注10), pp.184-186)という発言をした人がいることを紹介しています。また中国在住のキリスト教宣教師は中国人から以下のように言われたと述べています。

キリスト教徒はどうしてアヘンを持ってくるのか? しかも、この国の法律に違反して直接持ってくるのか? この卑劣なドラッグは私の息子を毒づけにし、兄弟を破滅させ、私が妻と子ども達に乞食をさせる。こんな有害なものを輸入して、利潤のために私を傷つける人たちが私の幸福を祈るとか、私の宗教よりいい宗教を持っているなんてありえない。まず、この非道な貿易を止めるよう、そしてこの卑劣な習慣を是正する薬をくれと、あなたの国の人たちを説得してくれ。そうしたら、キリスト教の勧誘に耳を貸そう。((注10), p.85)

 イギリスのアヘン貿易に反対する政治家がいるのに、イギリス政府は1844年に何をしたかと、マーティンは続けます。

このキリスト教国の政府は1844年に何をしてきたか? 香港に20軒のアヘン煙吸店を認可したのだ。このような犯罪は死罪にされる中国帝国の銃の射程距離内である!((注10), p.186)

(中略)我々はフランスやロシアに対しても、その国の沿岸地域に禁止されている脅威的な毒物の密輸基地を設立しただろうか? まさかしないだろう。それなら、なぜ、我々の居住地として、商業的交流の場として中国政府によって与えられた島で、この恐ろしい貿易を認可し、保護しなければならないのか?(p.190)

 この後、マーティンはアヘン貿易商の名前を6社あげ、6社だけで55隻の武装された船でアヘン貿易が行なわれている実情を述べています。イギリスの会社が中心ですが、アメリカの会社も含まれ、現在でも名高いジャーディン[現在名Jardine Matheson]が筆頭に挙げられています。創業者のウィリアム・ジャーディン(William Jardine: 1784-1843)について1ページ近く費やして、「非常に有用な資質を持った人たちが、このような悪質な目的に向けてその資質を費やしているのを見るのは、あまりに痛ましい」と、ジャーディアンがそのいい例だと紹介しています。海軍の軍医だった彼が、中国でアヘンで巨額の富を得られると見込んで、20年もの間、全エネルギーを費やして、富を築き、イギリスに戻った途端に亡くなったこと、世間では温厚な紳士として知られていたことなどを述べた上で、「しかし、この恐ろしい貿易に従事していた個人を責めるだけではいけない;主たる責任はイギリス政府と東インド会社にある」(p.260)と批判しています。更に以下のように述べます。

イギリスが海外で毒物と疫病を撒き散らしている時に、国内で平和と繁栄を望むのは合理的だろうか? イギリスの支配者たちと知事たちがアヘン地獄を認可して、その不正行為から得られる利益を最大限に絞り出すための監督を任命する一方で、キリスト教の教会を建設し、キリスト教の牧師を任命することを偽善なしにできるのだろうか?(中略)イギリス国家が中国で今まで、そして現在も毎時間犯している大量殺人に匹敵する邪悪の記録は、世界が創造されて以来かつてない。(中略)

 我々はすべてこの罪に加担している。我々が沈黙していることによっても参加者なのである。根こそぎ取り除かなければ、間もなく神の罰が、たとえゆっくりとでも、降りかかるに違いない。(pp.260-262)

21世紀の日本政府は?

 母国の政府に向けて、このように率直に批判し訴える報告書を提出し、出版できることは21世紀の目からも羨ましいと思います。利益追求のために、他国民の心身を破壊するアヘン貿易を行うイギリス企業をイギリス政府がサポートする点で、21世紀の日本政府(安倍自民党政権)による「カジノ法案」は対照的です。「カジノ法案」が強行採決された途端に、多くの外国企業が参入を計画しているという報道がありました(注11)。CNNのマネー・ページの記事の見出しは強烈です。「カジノの聖杯:日本が300億ドルの産業に門戸を開く」(2016年12月14日, (注12))とあります。「聖杯」(holy grail)という語は英語圏では「偉大な価値があるものとして、求め続けられている物や目標」(an object or goal that is sought after for its great significance)あるいは、「非常に強く望んでいる物だが、手に入れたり、達成することが非常に難しい物」(something that you want very much but that is very hard to get or achieve, (注13))と定義付けられる特別な語です。

 CNNでこんな表現をされるほど、安倍政権によるカジノ合法化はギャンブル関連企業にとって垂涎の対象であったことがわかります。世界中からカジノ関連企業が殺到すると予想されますが、カジノ開始前ですら、ギャンブル機器の世界台数の3分の2が日本に集中しており、日本のギャンブル依存症有病率は世界一ということです。第2位のシンガポールが2.2%に対して、2013年の日本の有病率は4.8%と、2倍以上という恐ろしい現状です(注14)。2014年8月のJapan Timesの記事「日本では500万人以上がギャンブル依存症という研究結果」(注15)の中で、世界では1%のギャンブル依存症に対し、日本では5%という数字まで報道されています。

 「カジノと日本のギャンブル依存症—カジノの合法化は日本のギャンブル問題を悪化させる—」(The Diplomat, 2014年9月23日,(注16))という記事によると、アメリカのカジノ企業が日本への参入を計画していて、合法化を待っていたというのです。この記事はシンガポールの例をあげて、法律で縛りをかけても、シンガポール人のギャンブル依存症と高利貸し事件は2009年から2011年の間に61.5%も増加したから、パチンコその他のギャンプル依存症有病率が極めて高い日本が縛りをかけても効果がないだろうと締めくくっています。

 マーティンのイギリス政府への要望(1847年)が21世紀にも通じる内容なので、抄訳します。

 我々はまだ帝国の戸口に立っっているところです。帝国の領土はほぼヨーロッパの大きさで、人類全人口の1/3を占めています。もっと広い、人口の多い日本、朝鮮、コーチシナ[ベトナム南部]、シャム[タイ]とは全く交流を行っていません。これらの地域には約1億の文明化した人々が住んでいます。イギリスとの貿易と交流に対して開国を許可するよう謹んで求めます。((注17),「女王陛下への献辞」)

1 Samuel Wells Williams, F.W. Williams (ed.), A Journal of the Perry Expedition to Japan (1853-1854), 1910.  https://archive.org/details/journalofperryex00swel
2 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. Compiled by Francis L. Hawks, New York, D. Appleton and Co., 1856, p.280.
https://archive.org/details/narrativeofexped00perr
3 William Elliot Griffis, Mathew Calbraith Perry: A Typical American Naval Officer, Boston, Dupples and Hurd, 1887. https://archive.org/details/matthewcalbrait01grifgoog
4 James Murdoch, revised and edited by Joseph H. Longford, A History of Japan Vol.III The Tokugawa Epoch, 1652-1868, London, Kegan Paul, Trench, Trubner & Co., 1926.
https://archive.org/details/historyofjapan03murd
5 解説「完全復刻版『ペリー日本遠征記』」より。
http://www.nansei-m.co.jp/web/32perry/sample/kaisetsu.html
6 :Frederick Wells Williams (ed.), The Life and Letters of Samuel Wells Williams, LL.D.: Missionary, diplomatist, Sinologue, New York and London, G.P. Putnam’s sons, 1889.
https://archive.org/details/lifeandletterss02willgoog
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/16.html
7 Philip V. Allingham, “The Opium Trade, Seventh through Nineteenth Centuries”(アヘン貿易:7〜19世紀), Last modified 24 June 2006.
http://www.victorianweb.org/history/empire/opiumwars/opiumwars1.html
8 ”The First Opium War: The Anglo-Chinese War of 1839-1842”
https://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/opium_wars_01/ow1_essay04.html
9 Karl Marx, “Trade or Opium?”, New York Daily Tribune, September 20, 1858.
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1853/06/14.htm
10 R. Montgomery Martin, China; political, Commercial, and Social; in an Official Report to her Majesty’s Government, Vol.2, London, James Madden, 1847.
https://archive.org/details/chinapoliticalc00martgoog
11 松丸さとみ「カジノ合法化の動き、世界大手が日本に食指」NewSphere, 2016年12月5日
http://newsphere.jp/business/20161205-1/
12 Jethro Mullen, “Casinos’ holy grail: Japan opens door to potential $30 billion industry”, CNN, December 14, 2016.
http://money.cnn.com/2016/12/14/investing/japan-casinos-gambling-law/
13 ”Definition of Holy Grail”, Merriam-Webster.
https://www.merriam-webster.com/dictionary/Holy%20Grail
Merriam-Webster, Learner’s Dictionary
http://www.learnersdictionary.com/definition/Holy%20Grail
14 雨宮処凛「カジノ法案とギャンブル依存症」Huffington Post, 2016年12月15日
http://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/casino_gamble_b_13640042.html
15 ”More than 5 million people in Japan have a gambling problem, researchers say”, Kyodo, The Japan Times, Aug 20, 2014.
http://www.japantimes.co.jp/news/2014/08/20/national/social-issues/5-million-people-japan-gambling-problem-researchers-say/#.WISLE8fmlAZ
16 Kyla Ryan, “Casinos and Japan’s Gambling Addiction: Legalizing casinos could compound Japan’s ‘gaming’ problem”, The Diplomat, September 23, 2014
http://thediplomat.com/2014/09/casinos-and-japans-gambling-addiction/
17 R. Montgomery Martin, China; political, Commercial, and Social; in an Official Report to her Majesty’s Government, Vol.1, London, James Madden, 1847.
https://archive.org/details/chinapoliticalc01martgoog