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人類学

ラングの「未開人」論(3)

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“”History”

The Magazine of Art (1882)掲載の「未開人の芸術I—装飾美術」の続き(pp.250—251)を訳します。 ュージーランド人はオーストラリア人よりはるかに優れた才能に恵まれ、ヨーロッパ人が到来した時には、オーストラリア人と同じく金属の道具は持っていなかったが、ずっと高い文明を持っていた。彼らの石の武器はもっと硬く、鋭く、これで硬い木に彫った様々ならせん形や渦巻き形の例は前ページの道具の装飾と、このページに示す通りだ。ニュージーランドの文化と芸術はアジアを源とすると時に言われる。マオリの酋長の顔に彫られている渦巻きやらせんや、木の家具のデザインにはアジアの影響が見られるかもしれない。この問題はここで触れることはできない。この解決には私たちには手の届かない人類学的、言語学的知識がもっと必要だろう。確かに、地球上の人種は遠くまで移動し、素晴らしく混じり合い、彫られた石や墓碑をうろつく幽霊を保管してくれたおかげで、彼らの移動の痕跡はいたる所に残っている。しかし、文明化しているものと未開のものと、2つの芸術作品が似ている場合、この類似が2つの人種の関係や接触があったとか、影響が1つの人種からもう1つの人種に移入したことを証明するとみなすのは危険である。

キリスト教主教の権威のシンボルはマオリの模様と同じ

 ニュージーランドの作品はアジアが源かもしれないし、数世紀にわたって、より低い文明と未発達な道具によって劣化したのかもしれない。あるいは、ニュージーランド人が既に手に入れていたような原初の形から進化した芸術がアジアの装飾かもしれない。マオリが好きならせん模様は[キリスト教]主教の杖の頭部分[ref]主教の杖の頭の写真が複数ネット上に掲載されていますので、シダの芽の形のものを参照してください。キーワードは英語原文、bishop’s crozierです。[/ref]に似ていて、ニュージーランドの巨大なシダに感嘆して、その形を採ったのだと思いたい誘惑にかられる。この類似が初期の自然な考え方が発展したものだと説明できる例はギリシャの初期の土器である。ギリシャ人がアメリカの文明人から借用したとは誰も言うまい。2,3人の熱狂者はアメリカの文明人、特にペルー人は人種としてはアーリア人だと言う。しかし、アルゴスやミケナイのような古代ギリシャ遺跡に残っているペラスジ人の(Pelasgic,[ref]William Smith, Dictionary of Greek and Roman Geography(1854)のサイトより。古代ギリシャに広く分布していた人種で、ホメロスも言及していると引用が出ています。http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.04.0064:entry=pelasgi-geo[/ref])巨大な石の建物(Cyclopean buildings)と、ペルー人の宮殿の遺跡はそのスタイルにおいて、決して似ていないわけではない。可能性としては、同じような社会的条件に暮らし、同じような道具を使う人間は、無意識に意図せずに、似たような結果に到達するということだろう。 この問題に興味を持つ人で、ペルーとミケナイに行って自分の目で建造物の比較研究ができる人はそういないだろう。しかし、世界中の人間の精神の奇妙な一致を研究したい人はみな大英博物館に行って、アメリカと古代ギリシャの土器を調べることができる。ペルーとメキシコの壺は2階の右側の最初の部屋にある。ぴかぴかした古いコートを着た剥製のサイを通り過ぎた場所だ。ギリシャの壺の中心的模様と波模様を比べてほしい。そして、鳥の顔、あるいは鳥の顔に非常によく似ている人間の顔と、シュリーマン博士[Heinrich Schliemann: 1822〜1890]がトロイで発掘した土器の壺に描かれている同じような顔を比べてほしい。後者はトロイに関する博士の本に掲載されている[ref]1882年までにラングが読んだと思われるシュリーマンの本は、以下の2点です。Henry Schliemann, Mycenae; A Narrative of Researches and Discoveries at Mycenae and Tiryns, Scribner, Armstrong & Company, New York, 1878https://archive.org/details/mycenaenarrative00schlIlios, the city and country of Trojan: the Results of Researches and Discoveries on the Site of Troy and throughout the Troad in the years 1871-72-73-78-79, Harper, 1881https://archive.org/details/ilioscitycountry00schl[/ref]。ペルーのジャーに描かれているいわゆるカトル・フィッシュ[cuttle-fish, イカの俗名]と、古代ギリシャの壺に描かれている同じ絵を比べてほしい。これらはみな2階の古代の壺の展示室にある。もう1つ、メキシコとペルーの展示室にある小さな粘土の「渦巻き」(whorls)と、シュリーマン博士がヒッサリク(Hissarlik)でたくさん見つけたものと比べてほしい。これらのものすべてが、その形においても、目的においても、装飾の特徴も同じで、その理由が、これらの場所の文明の初期段階では特に、人間の心も材料も同じだという確信を持つことは抑えられなくなる。ペルーのコレクションの中に、古代ギリシャの土器の壺などを紛れ込ませるか、逆に、ヒッサリクの土器の宝庫の間に、メキシコのものをこっそり入れたら、最も賢い考古学者もだまされるだろう。(中略)

スワスティカに宗教的神秘的な意味は全くない

 ギリシャの雷紋様(fret pattern)は特に最初期の人間が学んだ描き方の一つのようだ。「スワスティカ」(svastika)と呼ばれる十字の各腕に右斜めに線を入れているものは、インドでも、ギリシャでも、ペルーでも、自然な飾りの一種として、いたるところでみつかっている。インド人の寓話化好きはこの印に神秘的な意味を与え、知識人たちがこの「前キリスト教の十字」の上に、私には理解不能な宗教的理論の世界を築き上げたが、実際は、この十字は宗教的神秘的意味など全くない。ただ急いで作り上げた装飾作品にすぎないものだ。この種の装飾は人間がこの初期芸術を学ぶと同時に、木や骨から粘土に使われるようになった。オーストラリア人は土器製造技術を獲得しなかったが、そう遠くない地のニューカレドニア人は獲得していた。 らせんと曲線の模様はニュージーランド人などが手に入れるとすぐに、数種類の人種、特にケルト人に好まれるようになった。ミケナイの装飾品や昔のスコットランドやアイルランドの装飾品コレクションを研究する人は、これらの芸術にマオリの装飾の発展した跡を見つけるだろう。一方、古代ギリシャは直線と斜線の古代様式を踏襲し、その後のギリシャ芸術には、渦巻きやらせんの組み合わせへの好みが見られない。ケルト人の渦巻きやらせんへの好みは驚くほどで、同じくミケナイの装飾品の宝庫にも強く現れている。これは多分古代ギリシャの英雄時代のものだろう。装飾の発達におけるこれらの違い、ケルト人の天才が1つの道を進み、その美的限界を極めて初期の「モチーフ」にたどり着いた一方で、古典美術がより厳しい線に進んだという理由は、現時点では確認することはできないだろう。しかし、明らかにわかることは、教育のない人種がすでによく知っていた装飾のアイディアを、後代の芸術は多少発展させた以外何もしていないことである。マオリの顔の刺青(TATOO ON A MAORI’S FACE)16-06-23-001左:マオリのデザイン(A MAORI DESIGN) 右:マオリの顔から(FROM A MAORI FACE)

スワスティカをめぐる問題

 ラングが1882年に「スワスティカ」(かぎ十字、ドイツ語ではハーケンクロイツ)と呼ばれる模様が、「インドでも、ギリシャでも、ペルーでも、自然な飾りの一種として、いたるところでみつかっている」と指摘し、この模様に神秘的意味などない、ただの装飾にすぎないと言っているのは重要です。特にこの半世紀後にナチスが「スワスティカ」をアーリア人優位の象徴として使ったことを思うと、ラングの先見性には目を見張ります。この視点は右傾化が危惧されている21世紀に再び強調されています。BBCが2014年に「ヒトラーが盗むまで、いかに世界がスワスティカを好んだか」[ref]Mukti Jain Campion, “How the world loved the swastika – until Hitler stole it”, 23 October 2014,http://www.bbc.com/news/magazine-29644591[/ref]と題する記事を発表しました。日本の寺院の卍の写真も交えて、先史時代のスワスティカ模様の写真を盛り込んだ記事なので、ご覧になってください。 マオリの紋様が19世紀後半のキリスト教主教の杖の紋様と同じだという指摘でも、先住民族が未開だと蔑むなら、キリスト教界の権威のシンボルを見ろと言っていると読めます。翻訳で「比べてほしい」と訳した箇所は、Compareと命令形で、くだけた表現では「比べてごらん」となります。畳み掛けるように「くらべてごらん、わからないかい?」とでも言うように、白人優位主義に警鐘を鳴らしているように読めます。大英博物館を紹介したくだりでは、笑いを誘うようなユーモラスな表現ですし、何よりも、21世紀に通じるような、博物館の活用法を説いているように思います。大英博物館の歴史[ref]”History 続きを読む

ラングの一貫性

ラングは若い時から死ぬまで一貫した見解の持ち主だった

 ングを評する時に使われる”versatile”という語の意味は「多才、多方面」だというのは、見てきた通りです。ところが、もう一つの意味に「変わりやすい、きまぐれ」があることに着目して、「ラングはversatileではない」と主張した同時代人の評論家がいました。文学評論家のエドモンド・ゴッセ(EdmundGosse: 1849〜1928)がラングの死の翌年に出したエッセイ集『ポートレートとスケッチ』(Portraits and Sketches, 1913, (注1))にラングについて以下のように述べています。尚、翻訳にあたって、[ ]でくくった部分は、訳者として私が参考になると思う内容を付け加えたことをお断りしておきます。
 ラングの功績の巨大さと大量なことには言葉を失う。どこから始め、どこで終わればいいのかわからない。彼の著作物はあまりに多く、その中に分け入って、著書目録を作るのは手に負えない作業になる。どの本も卓越していて、彼の人となりも、知性も品性も同じで、あまりに多くの矛盾に満ちており、早まって断定してしまうと、多くの落とし穴に落ち入ってしまう。衝動的な奇妙な気まぐれが多過ぎて、全体を分析するのは長い作業になるだろうし、すべてに公平な評価を下すことはほとんど出来ない。それでも、あえて書き留めることにする。彼の死に際して、ラングについて書いた人々は多くは好意的に書いていたが、中には不正確な記述や、見逃されていると思えたものもあった。それらを思い出すままに書こうと思う。この前提として、私が彼に頻繁に会っていた1877年から1890年にかけてのラングについて述べる。 彼が亡くなった時、すべての新聞が彼の「多才さ/多方面」(versatility)を声高に書いていた。だが、彼は多才/多方面の正反対だったのではないだろうか。私は、”versatility”を、変わりやすく、移り気で、風見鶏の方向に絶えず転換しやすいことだと理解している。文学分野でそのいい例はラスキン[John Ruskin: 1819〜1900]だ。彼は同じテーマについて、人生の各段階で全く異なる見解を示し、それを同じ情熱で主張した。”versatile”ということは、不安定で変わりやすいということだ。 しかし、ラングは彼の長いキャリアの間、全く変わらず、見解を決して変えなかった。青年時代に好きだったもの、賛美したものを、年とってからも好きだったし、賛美していた。彼の関心と知識は驚くべき多くの道に活発に向かっていったが、豊富ではあっても、変わりやすい(versatility)とは私には思えなかった。(中略)ラングは並外れて多形でありながら、彼のバラエティはオックスフォード大学時代から墓場まで全く一貫していた。[pp.199-200]
 この後、ゴッセはラングの大学時代と文学分野での彼の関心について述べていますが、文学以外の分野については全く触れていません。私が注目したのは、見解が変わらなかったというゴッセの見方がラングの最初の論文(1877年)と死の前年刊の『トーテミズム研究の方法論』(Method in the Study of Totemism , 1911)に共通していることです。終生一貫したテーマを追ったことが窺えます。研究者としての最初の論文は『アリストテレスの政治学』(W.E. Bolland (tr.), Aristotle's Politics Books I. III. IV. (VII.). The Text of Bekker, 1877, (注2))に付けられたラングの解説(Introductory Notes)ですが、驚いたことに、解説文は105ページ(pp.1—105)、W.E. Bollandによる対訳本体は198ページ(pp.107—305)です。解説の最後の章「社会の起源」(The Origin of Society, pp.90—105)で、古代ギリシャ社会とオーストラリア先住民族アボリジニの家族制度との比較をした上で、以下のように締めくくっています。
 家族の起源は不愉快な側面を持つ問題である。私たちが人種の誇りという愚かさを投げ捨てることを家族の研究が教えてくれるなら、この研究の苦しさは報われるかもしれない。人種の誇りという愚かさは、いわゆるアーリア人が「下等人種」をばかにする時に、半科学的言い訳をさせるのである。「下等人種」という理由は、彼らの習慣がアーリア人の制度に影響を与えたことである。
 ラング独特の皮肉を込めたひねりで見解を伝えているように読めます。「アーリア人」という語で、私たちはナチスのアーリア人優越論を思い出しますが、ラングのこの発言はその半世紀も前のことです。ナチスのアーリア人優越論とユダヤ人迫害の犠牲者が戦後50年以上たってから語り始めたというニュースがありました。ナチスに家族を殺された当時、幼い子どもだったその人に、「アーリア人(ユダヤ人以外の白人)」に見えるから、ユダヤ人であることを隠して生き延びろと、逮捕した巡査が忠告して逃がしたというのです。この記事(「家族を殺害したナチスのマスコットになった少年、50年後に真実を語る」2007年9月24日、AFP (注3))を読み、ラングの1877年の発言を読むと、アーリア人優越論が19世紀から顕著だったことが窺えます。

19世紀の「アーリア人仮説」

 1877年のラングのこの見解の背景には、どんな動きがあったのでしょうか。最近第4版が出た『人類学理論の歴史』(A History of anthropological Theory, Fourth Edition, トロント大学出版局、2013)の著者ポール・エリックソン(Paul A. Erickson)が「19世紀自然人類学におけるインド・ヨーロッパ仮説」(”The Indo-European Hypothesis in Nineteenth Century Physical Anthropology” (注4))という1973年発表の論文で説明していることを紹介します。
    「アーリア人種」はペルシャ語・古代ギリシャ語・ラテン語・ドイツ語の構造的類似性に気付いた18世紀の言語学者によって作られた。[古代ペルシャ語でariya-はペルシャ人が自分たちについて使う名前で、イランIranはここから来た。サンスクリット語のarya-は同胞を意味し、その後は貴族という意味で使われた。(注5)] 現代の人類学者は「インド・ヨーロッパ仮説」を冷笑しているが、19世紀に魅力的な仮説になった理由は、(1)言語と人種を同一視する理論に成り立っていたこと、(2)「白人」のアーリア人は西洋文明の源と捉えられたこと、(3)アーリア種族からは多くの人種が除外されたため、人種分離主義(doctrine
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