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先住民族

ラングの「未開人」論(4)

The Magazine of Art (1882)掲載のラングの「未開人の芸術」の第一部「I—装飾美術」は4月号に掲載され、第二部「II—描写」(The Art of Savages.—II. Representation.(注1))は5月号に掲載されました。今回は、当時のイギリスと未開人の芸術の表現方法の類似点を強調している個所に注目したいと思います。「ラングの未開人論(3)」で紹介したように、人骨の調査をする形質人類学の専門家がヨーロッパと未開人の違いを強調することによって、ヨーロッパ人の優位性を浮かび上がらせることを目的としていたのに対し、ラングは類似性に着目することによって、アーリア人優位の時代に異を唱えたと読めるからです。 この記事は文章の最初の字をドロップ・キャップ(Drop Cap)という飾り文字を使っていますが、この手法に、アフリカの「ブッシュマンの犬」の絵の1部なのか、先住民族のアートに似せた飾り文字に使っています。最初の文章は”It appeared in a former paper that the art which aims at decoration is better adapted to both the purposes and materials of savages than the art which aims at representation”(前の記事では、装飾を目的とする芸術は描写を目的とする芸術よりも、未開人の目的と材料に適していると述べた)で、最初の文字”I”をドロップ・キャップにしています。走る犬の絵と文の内容とが重なり、巧みなデザインで、これはラングのアイディアなのか、編者のヘンリーか、デザイン担当者がいたのかはわかりませんが、他にも日本の団扇をドロップ・キャップに使うなど、魅力的な装飾が施されていますので、後にご紹介します。 未開人の芸術 II 描写(pp.303〜307)  この記事では「国会の審議中に雄鶏の鳴き声を真似る議員」が「そのスキルを行使するのに私心のない喜びを感じている」のに対し、「未開人」が動物の真似をする時は論理的合理的な理由があると、19世紀の「文明人」の愚かさを皮肉に辛辣に述べています。21世紀の日本では首相が国会審議中に何度も「ヤジ」を飛ばしていることが話題になっています(注2)。以下が「未開人の芸術II」の主要部分です。回は未開人がいかに努力して表現しようとしたかを見なければならない。ここでも、未開人がどんな目的に触発され、どんな材料が手に入るのかを検討しなければならない。未開人の絵には実際的な目的があり、模倣のための模倣が好きだからなどと簡単に結論付けてはならない。確かに、現代のモダン・アートは絵画や彫刻で自然を模倣したいという気持ちが生来の衝動、もって生まれた本能になっているかもしれない。しかし、そうなる理由があったに違いない。私たちが模倣芸術に対する私心のない愛をはるか昔の祖先から受け継いでいる可能性もないわけではないが、彼らの模倣癖には直接的で、私心のある、実際的な目的があった。国会の審議中に雄鶏の鳴き声を真似る議員や、暇つぶしに犬のように吠える浮浪少年(street boy)などは、そのスキルを行使するのに私心のない喜びを感じている。 しかし進歩的な知識人は同意すると思うが、犬や雄鶏やその他の動物の声を真似た最初の人びとは、単に楽しくてやったわけではない。仲間にこれらの動物が近づいていると知らせるという実際的な目的があったのだ。(中略)この理論が正しいか否かは別として、未開人が模倣芸術を試さなければならない実際的理由は確かにあったのだ。(中略) ここに掲載しているアメリカ・インディアン(Red Indian)の絵文字(picture-writing)は北米の原住民に関するコール[Johann Georg Kohl: 1808〜1878,ドイツの地理学者]の本(注3)から採ったものだ。読者はこの未熟な芸術品をたいして重要ではないと思うかもしれないが、実は大洪水を記録したカルデアの粘土板と同じくらい重要な文書なのである。荒っぽく描かれた人物たちはこのアーティストの心にはManabozhoの神話を呼び起こすもので、それはこの大きな湖のそばに住む人びとにとっては、プロメテウスとデウカリオン(注4)、あるいはカインとノアに匹敵する。Manabozhoは偉大な酋長で、二人の妻がいたが、二人は喧嘩していた。ずんぐりした2人の姿[コールの絵で4番が付されている両脇の人物]がこの妻たちを示している。2人の間にある塚はManabozhoの不快感を表している。その隣に見えるのは2本の木にはさまれたManabozhoで、困った状況だが、狼もリスもManabozhoを救うのを拒否している。ピラミッドのような山の上に人がいる図は、Manabozhoが祖母を洪水から守るために置いたことを示している。同じような図が[隣の]自分の山の上にいるManabozhoである。次に見える動物たちは、洪水がどの程度かを確認するためにManabozhoが送り、同時に祖母にメッセージを伝えるために送られた動物たちである。この巻物は文学的素養のあるアメリカインディアンによって、多分白樺の皮に描かれ、コールに差し出された(その動作が右下に描かれている)のは、Manabozhoの洪水のストーリーを決して忘れないためである。ヨーロッパ人が知る限り、アメリカインディアンはいつもこの絵文字を、彼らの伝説や詩やまじないを記憶するために使っている。言うまでもなく、メキシコの絵文字も古代エジプトの象形文字も同じ未開のプロセスから生じている。(中略)図の出典:J.G. コール『スペリオル湖周辺の旅』(1860)、J.G. Kohl, Kitchi-Gami. Wanderings round Lake Superior, Chapman and Hall, London, 1860, p.387.図の題名:「もう1つの白樺の皮」(Another Birch Bark)図の題名:「もう1つの白樺の皮」(Another Birch Bark)  絵文字に加えて、宗教も未開人の具象芸術を発展させた。トカゲかクマを崇拝する人はトカゲやクマを表したお守りや偶像を身につけるのが便利だと思うだろう。未開人の世界観は、似たものは似たものに影響を与えるという理論である。これが肖像画に描かれている人を燃やす行為の源である。ケープ[Cape:南アフリカ]の入植者たちがグラッドストーン氏[William Ewart Gladstone: 1809〜1898, この当時のイギリス首相]の肖像を燃やした時、この政治家に危害を加えてはいないとよくわかっていた。しかし、この儀式を未開時代から引き継いでいて、人間の肖像を燃やしたり、槍で突き刺したり、肖像が蝋人形なら火で溶かしたりすることは、生きている人を溶かし、消し去ることと考えられていた。この考え方は、人間とその肖像を共通とみなす理由からきている。この考え方は未開人が肖像画を描かせないことにつながる。彼らは、肖像画が魔法や悪意のある使い方にされると考えたのだろう。しかし、もしトカゲやクマを崇拝しているなら、祈りや崇拝の行為を動物の像に向かってするなら、その動物たち自身が喜び、動物たちに幸運をもたらすとも考えただろう。  コールの本から図を採用して、図の意味を説明しているラングの注目点に対し、コールがこの絵を描いたインディアンから実際に聞いた説明がどうだったか、要約します。 No.1:地上を流れる川No.2:華やかな戦闘装束のMenaboju(Manabozhoの変化形)。彼は偉大な勇士の酋長。No.3: Menabojuの家。ここで2人の妻と暮らした。No.4: 2人の妻が大げんかをし、間にある岩はMenabojuの「止めろ」という命令を表す。No.5: 森でよく起こることは、隣あった木の枝が風でこすれ、森中にこすりあう音が響いたり、こすれる熱で火事が起こったりする。Menabojuはその音を止めようとしたか、山火事を恐れてか、枝を折ろうと木に登り、挟まってしまう。そこに3日間はさまったまま、飲まず食わずで、通りかかる動物たちに助けを求めるが、最初に来た狼は「あれ、Menabojuよ! お前さん、そこでちゃんと守られてるよ!」と言って、木の下で朝ごはんを食べ、残りを布にくるんで木の下に置いて行ってしまった。次に来たリスはMenabojuに懇願されて、木をかじり始めたが、歯が痛くなったと言った。彼らは甘いナッツを砕くのには慣れているが、こんな硬い木を切る仕事には慣れていないと言い、他の動物たちも同じような弁解をしたが、そのうち、クマが来てMenabojuを苦境から救ってくれた。No.6: Menabojuの孫が狩りに出て、川に行くと、カメの王がいたので、向こう岸に連れて行ってくれと頼む。カメの王は悪者で、助ける代わりに川を広げてしまい、孫は渡ろうとして溺れてしまう。カメは孫を食べてしまうが、その最中にMenabojuに殺される。カメたちはMenabojuに宣戦布告して、大洪水を起こす。No.7: Menabojuは最初に祖母を高い山の上に連れて行く。彼自身も世界一高い山の一番高い松の木に登り、洪水が引くのを待つ。彼の両側に描いた鳥のアビとマスクラットは彼のもとに来た動物だ。No.9: 2つの島はMenabojuが作ったもので、小さい方は彼の重さに耐えられない、大きいものは彼を支えられ、これが新世界になった。 続きを読む

ラングの「未開人」論(3)

The Magazine of Art (1882)掲載の「未開人の芸術I—装飾美術」の続き(pp.250—251)を訳します。 ュージーランド人はオーストラリア人よりはるかに優れた才能に恵まれ、ヨーロッパ人が到来した時には、オーストラリア人と同じく金属の道具は持っていなかったが、ずっと高い文明を持っていた。彼らの石の武器はもっと硬く、鋭く、これで硬い木に彫った様々ならせん形や渦巻き形の例は前ページの道具の装飾と、このページに示す通りだ。ニュージーランドの文化と芸術はアジアを源とすると時に言われる。マオリの酋長の顔に彫られている渦巻きやらせんや、木の家具のデザインにはアジアの影響が見られるかもしれない。この問題はここで触れることはできない。この解決には私たちには手の届かない人類学的、言語学的知識がもっと必要だろう。確かに、地球上の人種は遠くまで移動し、素晴らしく混じり合い、彫られた石や墓碑をうろつく幽霊を保管してくれたおかげで、彼らの移動の痕跡はいたる所に残っている。しかし、文明化しているものと未開のものと、2つの芸術作品が似ている場合、この類似が2つの人種の関係や接触があったとか、影響が1つの人種からもう1つの人種に移入したことを証明するとみなすのは危険である。

キリスト教主教の権威のシンボルはマオリの模様と同じ

 ニュージーランドの作品はアジアが源かもしれないし、数世紀にわたって、より低い文明と未発達な道具によって劣化したのかもしれない。あるいは、ニュージーランド人が既に手に入れていたような原初の形から進化した芸術がアジアの装飾かもしれない。マオリが好きならせん模様は[キリスト教]主教の杖の頭部分(注1)に似ていて、ニュージーランドの巨大なシダに感嘆して、その形を採ったのだと思いたい誘惑にかられる。この類似が初期の自然な考え方が発展したものだと説明できる例はギリシャの初期の土器である。ギリシャ人がアメリカの文明人から借用したとは誰も言うまい。2,3人の熱狂者はアメリカの文明人、特にペルー人は人種としてはアーリア人だと言う。しかし、アルゴスやミケナイのような古代ギリシャ遺跡に残っているペラスジ人の(Pelasgic,(注2))巨大な石の建物(Cyclopean buildings)と、ペルー人の宮殿の遺跡はそのスタイルにおいて、決して似ていないわけではない。可能性としては、同じような社会的条件に暮らし、同じような道具を使う人間は、無意識に意図せずに、似たような結果に到達するということだろう。 この問題に興味を持つ人で、ペルーとミケナイに行って自分の目で建造物の比較研究ができる人はそういないだろう。しかし、世界中の人間の精神の奇妙な一致を研究したい人はみな大英博物館に行って、アメリカと古代ギリシャの土器を調べることができる。ペルーとメキシコの壺は2階の右側の最初の部屋にある。ぴかぴかした古いコートを着た剥製のサイを通り過ぎた場所だ。ギリシャの壺の中心的模様と波模様を比べてほしい。そして、鳥の顔、あるいは鳥の顔に非常によく似ている人間の顔と、シュリーマン博士[Heinrich Schliemann: 1822〜1890]がトロイで発掘した土器の壺に描かれている同じような顔を比べてほしい。後者はトロイに関する博士の本に掲載されている(注3)。ペルーのジャーに描かれているいわゆるカトル・フィッシュ[cuttle-fish, イカの俗名]と、古代ギリシャの壺に描かれている同じ絵を比べてほしい。これらはみな2階の古代の壺の展示室にある。もう1つ、メキシコとペルーの展示室にある小さな粘土の「渦巻き」(whorls)と、シュリーマン博士がヒッサリク(Hissarlik)でたくさん見つけたものと比べてほしい。これらのものすべてが、その形においても、目的においても、装飾の特徴も同じで、その理由が、これらの場所の文明の初期段階では特に、人間の心も材料も同じだという確信を持つことは抑えられなくなる。ペルーのコレクションの中に、古代ギリシャの土器の壺などを紛れ込ませるか、逆に、ヒッサリクの土器の宝庫の間に、メキシコのものをこっそり入れたら、最も賢い考古学者もだまされるだろう。(中略)

スワスティカに宗教的神秘的な意味は全くない

 ギリシャの雷紋様(fret pattern)は特に最初期の人間が学んだ描き方の一つのようだ。「スワスティカ」(svastika)と呼ばれる十字の各腕に右斜めに線を入れているものは、インドでも、ギリシャでも、ペルーでも、自然な飾りの一種として、いたるところでみつかっている。インド人の寓話化好きはこの印に神秘的な意味を与え、知識人たちがこの「前キリスト教の十字」の上に、私には理解不能な宗教的理論の世界を築き上げたが、実際は、この十字は宗教的神秘的意味など全くない。ただ急いで作り上げた装飾作品にすぎないものだ。この種の装飾は人間がこの初期芸術を学ぶと同時に、木や骨から粘土に使われるようになった。オーストラリア人は土器製造技術を獲得しなかったが、そう遠くない地のニューカレドニア人は獲得していた。 らせんと曲線の模様はニュージーランド人などが手に入れるとすぐに、数種類の人種、特にケルト人に好まれるようになった。ミケナイの装飾品や昔のスコットランドやアイルランドの装飾品コレクションを研究する人は、これらの芸術にマオリの装飾の発展した跡を見つけるだろう。一方、古代ギリシャは直線と斜線の古代様式を踏襲し、その後のギリシャ芸術には、渦巻きやらせんの組み合わせへの好みが見られない。ケルト人の渦巻きやらせんへの好みは驚くほどで、同じくミケナイの装飾品の宝庫にも強く現れている。これは多分古代ギリシャの英雄時代のものだろう。装飾の発達におけるこれらの違い、ケルト人の天才が1つの道を進み、その美的限界を極めて初期の「モチーフ」にたどり着いた一方で、古典美術がより厳しい線に進んだという理由は、現時点では確認することはできないだろう。しかし、明らかにわかることは、教育のない人種がすでによく知っていた装飾のアイディアを、後代の芸術は多少発展させた以外何もしていないことである。マオリの顔の刺青(TATOO ON A MAORI’S FACE)16-06-23-001左:マオリのデザイン(A MAORI DESIGN) 右:マオリの顔から(FROM A MAORI FACE)

スワスティカをめぐる問題

 ラングが1882年に「スワスティカ」(かぎ十字、ドイツ語ではハーケンクロイツ)と呼ばれる模様が、「インドでも、ギリシャでも、ペルーでも、自然な飾りの一種として、いたるところでみつかっている」と指摘し、この模様に神秘的意味などない、ただの装飾にすぎないと言っているのは重要です。特にこの半世紀後にナチスが「スワスティカ」をアーリア人優位の象徴として使ったことを思うと、ラングの先見性には目を見張ります。この視点は右傾化が危惧されている21世紀に再び強調されています。BBCが2014年に「ヒトラーが盗むまで、いかに世界がスワスティカを好んだか」(注4)と題する記事を発表しました。日本の寺院の卍の写真も交えて、先史時代のスワスティカ模様の写真を盛り込んだ記事なので、ご覧になってください。 マオリの紋様が19世紀後半のキリスト教主教の杖の紋様と同じだという指摘でも、先住民族が未開だと蔑むなら、キリスト教界の権威のシンボルを見ろと言っていると読めます。翻訳で「比べてほしい」と訳した箇所は、Compareと命令形で、くだけた表現では「比べてごらん」となります。畳み掛けるように「くらべてごらん、わからないかい?」とでも言うように、白人優位主義に警鐘を鳴らしているように読めます。大英博物館を紹介したくだりでは、笑いを誘うようなユーモラスな表現ですし、何よりも、21世紀に通じるような、博物館の活用法を説いているように思います。大英博物館の歴史[ref]”History 続きを読む

ラングの「未開人」論(2)

ラングの一貫性」で紹介した彼の最初の論文(1877)で、先住民族アボリジニを「下等人種」としてヨーロッパ人がばかにすると批判していますが、The Magazine of Artの最初の掲載論文も未開人に注目した内容です。植民地・帝国主義時代のまっただ中のイギリスで、美術に関心のある中流階級の読者に向かってラングが何を言っているか、「未開人の芸術I—装飾芸術」(1882, (注1))を抄訳します。この時ラングは38歳、ロンドンで文芸評論家として出発してから6年目です。この2年後に出版されたラング著『慣習と神話』(Custom and Myth, 1884,(注2))に収録されましたが、内容は多少変えています。こちらは題名からも本の体裁からも、専門家向けと言えるでしょうが、The Magazine of Artは一般読者向けです。1882年当時の段落は長いので、読みやすくするために、段落を増やし、また、小見出しを訳者の独断で付けました。

「未開人の芸術I—装飾美術」(“The Art of Savages.—I. Decorative Art” )

開人の芸術について書くにあたって、芸術の起源とか、人間の芸術的能力といった形而上的抽象的ななぞなぞを論じるつもりはない。そんなトピックについては今までも膨大な量が書かれてきたし、これからも書かれるだろうが、それらは私たちが本当に知りたいことに、新たな知見などほとんどもたらしていない。未開人の芸術的能力やその起源を、たとえ私たちが発見し証明できたとしても、それが動物の習性の中のぼんやりした兆しにたどり着くとしても、それは農民が赤ワインを何本か飲んだ後に言うように「これ以上、行けねえ」(”no forwarder”)。なぜなら、下等動物に強力な美的センスが存在するから、最も美しい斑点のついた鳥や獣やマスが一番立派な伴侶を得て、種はそうやって美的に進化したのだと、ダーウィンの進化論者と共に認めなければならないとすれば、多くの哲学者たちは耳の聞こえない毒ヘビ(adder)の先天的欠陥に苦しんでいることになる。彼らは私たちの話に耳を傾けないし、私たちも賢いから、彼らに惑わされることは決してない。たとえば、彼らが論ずるように、オウムの美しい色がオウムに備わっている美的センスと自然選択説の結果だとしたら、同じ理屈で、人類も模様や青陶磁器(blue china)の鮮やかな色を持ってこの世に生まれてきたかもしれない。なぜなら、幾多の世紀にわたって、知られている限りの人種のほとんどが入れ墨という芸術を実践してきたからだ。ここに示しているダヤク族の入れ墨文様には昔の南京陶磁器の青は含まれていない。もし最も美しいオウムが最も美しい伴侶を見つけて、その豊かな色をヒナに遺産として残していたら、なぜ最も優れた入れ墨の人間の男女が皮膚に彫られた文様と色を遺伝として伝えなかったのだろうか。このこじつけ論に対して、ずる賢い無礼者の進化論者たちはもちろん答えはいくつか持っているが、神の力によって、私たちが荒削りな形に造られたと矛盾なく論じることはできない。とにかく、進化論者の視点から芸術の起源を研究することは時間とスペースの無駄だけでなく、精神の無駄でさえある。(中略)

アリストテレスもカントもヘーゲルも芸術の起源解明には役に立たない

芸術の起源について、形而上学者の視点からアプローチすることも賢明ではない。アリストテレスの『詩学』を引用して、すべての芸術は人間の模倣機能の表れで、模倣に喜びを見いだすのだと断言する人がいるかもしれない。しかし、なぜ人間が模倣に喜びを見いだすのだろうか?それがなぜ、人間が世界の美に見いだす喜びを高めるのだろうか?これらの疑問で、すぐに私たちが考えることは、相反する概念の和解(the reconciliation of antagonisms)、つまり、知覚可能な時間とスペースの「図式」(注3)、ヘーゲルの「概念」(それが何だとしても、概念を持つ人はほとんどいない)、定言命法(注4)、その他の形而上学、正確に言うと、表現不可能なことがらだ。したがって、私たちは芸術の起源というあいまいな問題そのものを避けなければならない。そして、人間は芸術が好きだから芸術に専念するという単純で、女性的とも言える仮説を採用しなければならない。ここで言っておかなければならないことは、芸術が人間の模倣機能の表れだという理論は、私たちが知っている初期芸術から見る限り、正当化されないことである。暫定的に私たちが採用する仮説は、私たちが知っている最初期の芸術は現代の未開人種、あるいは、絶滅した人種の芸術である。ある哲学者は次のように言うかもしれない。私たちが知っている未開人種すべては、初期の文明人の退化した子孫にすぎず、不運にも、また不可解にも、彼らの文明の遺物は残っていないと。しかし、私たちは反対の理論を主張する。たとえば、オーストラリア人の芸術は、ニューカレドニアのような、土器の技術を持っていた人々よりもずっと遅れた未開状態である。ニューカレドニアの人種だって、メキシコやペルーの昔の人種よりはもっとずっと遅れている。メキシコやペルーもエジプトの芸術に対しては多少進んでいた痕跡はあるものの、遅れていた。エジプトの芸術は、少なくとも古代帝国時代後は、完璧なギリシャ芸術の方向に向かってゆっくりと進んでいた。オーストラリア人に関して、未開芸術がいかにしてニュージーランドのような野蛮芸術に発展していったか示すことができる。ペルーやメキシコのような奇妙な文明の芸術が一段と発達している一方で、ギリシャの初期芸術には、ペリクレス[Pericles: アテナイの将軍政治家]よりもずっと前の時代のギリシャ芸術には、野蛮な文明の型の遺物があり、それが次第に美に和らげられていった。しかし、進化の過程で断絶も、継続という解決も必ずある。( pp.246—247) A DYAK’S HAND, (From Bock’s “Head Hunters of Borneo”)ダヤク族の手(ボックの「ボルネオの首狩族」より) A DYAK’S FOOT, (From Bock’s “Head Hunters of Borneo”)ダヤク族の足(ボックの「ボルネオの首狩族」より)(p.217)

未開人の芸術は装飾目的

初期芸術の最も奇妙な問題が私たちの前に立ちはだかっている。それはすでに述べた問題に関係している。芸術は模倣機能の欲求を満たすものなのか? ここで、現代の未開人種のうち、最下等で、最も教育がなく、道具も持たない人種にとって、芸術は大体において、模倣ではなく、装飾である。オーストラリア人の楯やこん棒に描かれている模様や、入れ墨で皮膚に彫る印が自然界のものの模倣という場合はほとんどない。オーストラリア人は、アメリカインディアンやアフリカ人やインドの先住民族、ペルー人、その他のように、家族を様々な動植物の名前で区別している。そこから、自分の家族の血統を誇る。このように、カンガルーと呼ばれる家族は自分たちがカンガルーの子孫だと想像する。他の家族はオウム、黒ヘビというように。地球の多くの地域で、この習慣と迷信は人間の模倣機能と結びついて、芸術の形を生み出し、それによって家族が血統を主張する物を表す。この芸術は一種の未開の紋章、多分、紋章の起源である。このように、もしアメリカインディアン(たとえば、デラウェア族)がカメの家族だとすると、彼は自分の盾や上着にカメの紋章を描くし、多分、自分の胸にカメの入れ墨をしたり、絵を描いたりする。そして彼が死ぬと、墓の上の柱にカメの「逆さ」の絵を描くが、それはちょうど私たちの中世の年代記にあるように、イギリス国王の死亡記録の反対側のエスカッシャン[楯型紋章]の上のヒョウが逆さまになっているのと同じである。しかし、オーストラリア人は自分たちの先祖は動物だと信じてはいるが、ふつう紋章を皮膚に刻むとか、埋葬された場所の近くの木に刻むとかは、私が知る限りしていない。彼らはまだこの模倣芸術の段階まで到達していない。しかし、一種の記号を発明したか、受け継いできたか、棒に刻んだ印でお互いに秘密のメッセージを伝えていた。ただ、アッパー・ダーリング[ダーリング川上流]地域の原住民は家族の紋章を楯に彫っている。模倣芸術の代わりに、ムリの人々[Murri:クイーンズランドとニューサウスウェールズ北西部]は家族の区別を示すのに、腕や胸に模様、線、点などを刺青にしたり、埋葬地の近くの木の皮に彫ったりすると言われているが、どこまで真実かは私にはわからない。とにかく、模倣芸術を生み出す社会的条件すべてを備えている人種に、紋章の未発達な模倣芸術が見られないという事実は注目すべきである。このこと自体が、我々が知っている限り、最も遅れた人種の土着の芸術が基本的に模倣ではないことを示す。オーストラリア人の武器や道具を見た者はみなこの結論にたどり着く。楯と棒は精巧に彫られているが、ほとんどは植物や動物や人間を表していない。一般的に装飾は単純な「杉あや」模様(”herring-bone” pattern)か、その他、らせんや曲線や円を使わずに描けるものである。模様のこの選択には自然で必然的な理由がある。オーストラリア人は硬い木に、フリント[石英]かガラス片か、鋭い貝殻などの道具で彫るため、曲線を彫るのは簡単ではない。(pp.248) オーストラリアの楯(AN AUSTRALIAN SHIELD)オーストラリアの楯(AN AUSTRALIAN SHIELD) オーストラリアの楯(AN AUSTRALIAN SHIELD)

未開人の装飾模様と現代スコットランドの模様の類似

誰もが少年時代に木の皮に名前を彫ったことがあるだろう。その時、MとAを彫るのは簡単なのに、SとGはうまくいかなかったことを覚えているだろう。MとAは真っ直ぐな線か斜めの線だからだ。未開のアーティストも同じく、未発達な武器で曲線やらせんを描くのは難しいのだ。(中略)[オーストラリアの]アーティストも可能なら、完璧な円を彫ったかもしれない。彼の失敗は、少年がGとSを彫れなかったのと全く同じだ。しかしながら、ここに掲載している3つの楯は、古代ケルトの小土瓶(下の3つの図の一番高いもの)のように、未開人の装飾芸術として知られている最古のものを示している。この形は「山形模様」(chevron)とか「杉あや模様」(herring-bone)という名前で今も残っている。この模様は粘土に爪やとがった棒で作る。ろくろを使わずに作る土器の原始的装飾方法は、その他の未開芸術の遺物とともに、スコットランドの西の島々に今でも残っている。オーストラリア人は初期的な土器の小土瓶の作り方は習っていなかったが、昔のケルト人や現代のスコットランドの老女が杉あやの線を彫って土鍋を装飾するように、オーストラリア人も楯を装飾したのだ。色については、オーストラリア人は白と赤の粘土(white clay and red orchre)を好む。それを楯の木の割れ目にすり込む。彼らが待ち伏せを決定すると、身体中を白く塗り、この格好で突然現れる幽霊が敵の最も勇敢な者も震え上がらせると、ちゃんと考えている。しかし、白と黒のこの種の配置は初期の芸術という名にふさわしくない。オーストラリア人の尖った楯に見られるように、彼らは時に人間の形を原始的な装飾として試みた。これらオーストラリアのデザインはブロー・スミス氏[Brough Smyth: 1830—1889]の『ヴィクトリアのアボリジニ』[Aborigines of Victoria, 1878, [ref]R. Brough Smyth, The Aborigines of Victoria: with Notes relating to the Habits of the Natives of 続きを読む

ラングの「未開人」論(1)

ングが最初の論文で、オーストラリア先住民族の文化を研究することによって、イギリス人が「人種の誇りという愚かさを投げ捨てること」を目指したと紹介しましたが、それが彼の一貫性の表れだという視点から、ラングの未開人論を辿ってみたいと思います。「未開人」と訳した語は”savage“で、「野蛮人」という意味もあります。日本語の「未開人」は今では差別用語とされていますが、19世紀の植民地時代には植民地の先住民族をこの語で呼んでいましたので、そのまま翻訳します。ラング自身がグリムのメルヒェン集の英訳『グリムの家庭のお話』(Grimm’s Household Tales, 1884 (注1))の解説の中で定義を述べているので、紹介します。
”savage”という語を、オーストラリア人、ブッシュマン、アルゴンキン族のようなアメリカの部族やマオリのような人種という意味で使う。この膨大な数の種族には微妙に異なる初期文明と「文化」の多くの段階が見られる。しかし、我々が参照する人種はみな今のところ未開であり、彼らは未開の知性の特徴的な性質を示している。(p.xlix)
 これに対し、ラングがヨーロッパの先史時代の人々を指す場合は”barbarian”(野蛮人)という語を使う場合が多いように思いましたので、日本語でも使い分けようと思います。帝国主義時代における”barbarian”という言葉の使い方について、一つの例をご紹介します。1858年にイギリス統治によるインド帝国とされたインドには、10世紀にイランから逃げてきたパルシー(ゾロアスター)教徒が住んでいましたが、19世紀にイギリスが来てくれたおかげで、インド人でない自分たちが「野蛮(barbaric)とみなされていたインドで上位に立てた」と人種的優位性を感じたそうです(注2)

植民地・帝国主義時代のアボリジニの人権

 ラングの未開人論を見る前に、19〜20世紀にかけてのアボリジニの人々に対する政策を概観します。ラングが上記引用の文章で、オーストラリアのアボリジニを「オーストラリア人」と呼んでいることは、当時まだ白人入植者を「オーストラリア人」とは認識していないことの表れでしょうが、その後のアボリジニの人々が受けた仕打ちを知ると、19世紀に「オーストラリア人」と呼んだことが印象的です。 1786年にイギリスはオーストラリアをイギリス国内の囚人の流刑地としました。オーストラリアをイギリス領とできたのは、先住民アボリジニの存在を無視して、「無主」(terra nullius)の地とみなしたことから始まります。200年後の1982年にエディ・マーボ(Eddie Mabo)氏ら5人のアボリジニが原告となってオーストラリア政府に対する訴訟を起こし、10年後の1992年に高裁判決が6対1で、オーストラリアは植民地化が始まった時に「無主」の地ではなかったという判決を下しました(注3)。この時、私は西オーストラリア州のマードック大学で教鞭をとっていましたが、法科の学生たちが小躍りして喜び、興奮しきって授業にならなかったことが強烈な印象として残っています。残念なことに、この時、5人の原告のうち、マーボ氏を含め3人が既に亡くなっていました。 オーストラリア建国記念日の1月26日は、イギリスの囚人たち759人を乗せた最初の船がシドニー湾に到着した日(1788年)で、アボリジニの人々にとっては侵略された日であり、祝うことはできないと、長い間抗議が続いていました。2016年現在、オーストラリアの建国記念日を別の日にすべきだという意見が出ているそうです(注4)。 ラングが「オーストラリア人」と呼んだアボリジニの人々は、1901年にオーストラリアがイギリス植民地から独立国家になってから1967年まで、「オーストラリア人」の資格も与えられず、国勢調査の対象からも外されていました。1967年に国民投票が行われたのですが、それは1901年制定のオーストラリア憲法の条文に含まれているアボリジニに対する差別の是非を問うものでした。この憲法では、議会の立法権について、「アボリジニを除く、すべての人種」の平和と秩序を守るためと記され、さらに、人口調査に「原住民族アボリジニは含まれるべきではない」と書かれています(注5)。アボリジニを除外するという文言を憲法から除外するという案に対して、国民投票で90.77%が賛同し、史上最高の賛成率だったと、国立アーカイブスの解説で述べられています。ところが、現在のオーストラリア議会ホームページ掲載の憲法「大要」(注6)には以下のように書かれています。
オーストラリア憲法は1900年にイギリス議会法の一部として可決され、1901年1月1日に発効した。1901年以前のオーストラリアはイギリスの6自治植民地で、植民地に対する絶対的権力はイギリス議会にあるため、イリギリス法となるのは必要だった。しかし、現実には、この憲法の文書はオーストラリア人によって草案され、オーストラリア人によって認められたのである。(p.iv)
 国家対国家という視点からは、オーストラリア人による、オーストラリア人のための憲法だと誇れるのでしょうが、「オーストラリア人」という名称とその実態をめぐっては見てきたように悲惨な歴史があったのです。

ラングの選んだダンピアの未開人観

 1887年、ラングが40歳の時に出された『神話・儀式・宗教』(Myth, Ritual and Religion,[ref]Myth, Ritual and Religion, Vol. II, Longmans, Green and Co., 1913. 初版は1887年ですが、インターネット・アーカイブ掲載のものは1913年版です。初版から10年近く絶版だったものが1899年に再販され、1901年、1906年、1913年と4刷目です。序の中で、ラングは10年の間に新たな知見が得られたので多少書き換えたと断っています。 続きを読む