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川路聖謨

英米に伝えられた攘夷の日本(2-2)

下田で3回目の日露交渉が始まる3カ月半前にイギリス艦隊が長崎に来航します。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でどう伝えられているでしょうか。クリミア戦争との関連からも見ていきます。

東アジアにおけるクリミア戦争

 1854年9月7日イギリス艦隊の長崎来航の目的がクリミア戦争と関連していたことを、『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』(2015、(注1))をもとに解説します。ギリス海軍の東インド・中国基地の司令官だった海軍少将ジェームズ・スターリング卿は1854年6月時点で、ロシアの脅威は北は中国、東は日本にあると予想していました(p.118)。ロシアが北部中国支配計画を発展させれば、日本と緊密な関係を構築する重要性が明らかになると恐れ、ロシア戦艦を探し、クリミア戦争中はロシアに日本の港と資源を使わせないようにするために長崎に来航したのです(p.142)。イギリス外務省と外務大臣クラレンドン卿は1854年6月に、日本から経済的譲歩を得るよりも、中国における商業的利益とイギリス船舶に対するロシアの脅威と海賊除去が優先すると、明確な指示を出していました(p.142)。したがって、スターリング卿が同行者として選んだのは、外交や通商の代表者ではなく、海軍の交渉専門家で、スターリング卿曰く、彼らは日本を通商ではなく、政治的に最重要な国と見ており、日本の長い伝統[鎖国を意味する?]に逆らって通商を強制すべきではないという考えの持ち主だったそうです(p.143)。 スターリング卿が4隻の戦艦を率いて長崎に到着する1週間前の1854年8月31日にカムチャッカ半島ペトロパブロフスクでロシア軍と英仏連合軍の戦闘が始まりました。英仏軍は地勢を知らず、準備も不足していた上、連携も悪く、惨敗します。負けた連合軍の戦隊がカムチャッカを去った同じ日に、別のイギリス戦隊が長崎に来航したのです。このニュースは1855年1月には下田に「ロシア軍が英仏の蛮人たちに圧勝した」と伝えられたそうです(p.141)。 この頃、ロシアのプチャーチンが日魯通好条約締結のために下田にいました。川路聖謨の日記にはプチャーチンとの厳しい国境問題交渉の最中に、クリミア戦争と日本の関係について以下のように記されています。「皇国へは、天幸いを下し玉うか。此節再び西洋各国みだれて、魯戎と英・仏の二夷、大戦争となりたり。もし此戦、魯戎敗られたらば、遅かるべし。勝たらんには、早かるべし」(安政元年11月29日/1855年1月17日、(注2), p.170)。この2週間後には、ペトロパブロフスクの戦を知ったと書かれています。「アメリカ人はなしにては、英・仏の二夷、魯戎のカムサスカを攻め候て、大に戦い、二夷共に敗軍、英の大将敗死いたし候由」(安政元年12月14日/1855年1月31日、p.185)。

英国戦隊の日本到着

 「英国戦隊の日本到着」という、日本側にとっては恐ろしい題名の記事がアメリカのペリー提督の記事の後、1855年1月13日号に掲載されました。この記事のオリジナルと日本語全訳は「音吉顕彰会」ホームページ掲載のpdf版(注3)で読めますが、私が関心ある部分だけ拙訳します。記事の内容は4ヶ月前に長崎に到着した時の様子です。

英国戦隊の日本到着((注4), p.8)

 [1854年]9月7日イギリス海軍の船、ウィンチェスター号、エンカウンター[遭遇戦]号、バラクータ[クロタチカマス科の細長い魚]号、スティックス[ギリシャ神話の三途の川]号が日本・長崎の外港に投錨した。港のはるか外で、数艘の小舟がそれぞれ12人の漕ぎ手を乗せて、戦隊のそばに近づいてきた。船首の木の屋根の上で2,3人が竹に結びつけた白い旗を振り、戦隊を追い返そうと必死になっているようだった。この激しいジェスチャーは無視されたが、1,2の注意書は船に載せられた。港に入ることは何人にも禁止されており、処罰や危険の対象であると日本語・ロシア語・オランダ語・英語で書かれてあった。 昼頃、奉行の副官である港長(Captain of the Port, the Governor’s Aide-de-Camp)と税関検査官(Inspector of the Customs)が旗艦に上船してきた。17人が随行してきて、それぞれ2本の刀を差していた。その刀の細工は最高級で、カミソリの刃のように鋭く、輝いていた。男たちは刀の絵を描かれるのも、見られるのも、触られるのも嫌がった。 [日本の]士官たちは船長のキャビンに通され、通訳を介して会話が始まった。通訳はオトウ(Otō)という日本人で、提督が上海から連れてきた男である。彼は20年以上前に難破した貿易船に乗っていた。イギリスに行ったことや、故ギュツラフ博士などの宣教師たちに一時雇われたことを含めて、人生の様々な変遷を経て、現在は上海のデント商会のビール氏の倉庫管理人をして、高額を得ている。日本側が彼を上陸させたいと言ったが、彼は上海に妻と子どもがいるので、イギリスの保護下にいる方を選ぶといった。日本人の1人が「妻が悲しみ、子どもが泣く」と言ったが、オトウはその返答として[イギリスの]旗を指差しただけだった。

漂流民・音吉について

 上記の記事はまだ続くのですが、「オトウ」と描かれている日本人について、彼の出身地の愛知県美浜町公式ウェブサイトに「にっぽん音吉漂流の記」(2014年4月1日、(注5))が掲載されています。要約すると、1832年11月に米や陶器を乗せて鳥羽から江戸へ向かう廻船に乗っていた音吉は、当時14,5歳の見習い船員でした。船は14カ月も漂流して、14人の乗組員のうち、音吉を入れて3人だけが生き残り、アメリカからイギリス、マカオへと送られ、マカオでドイツ人宣教師のカール・ギュツラフ(Karl Gutzlaff: 1803〜1851)の世話を受けます。そして、ギュツラフは3人から日本語を学び、彼らの助けを得て聖書のヨハネ伝を翻訳します。この翻訳は明治学院大学デジタルアーカイブスから読むことができます(注6)。シンガポールで1837年頃に出版されたそうです。一方、熊本から漂流した4人の船乗りがマカオに送られてきて、合計7人の日本送還を図ったアメリカ人商人やギュツラフたちは、モリソン号という船で浦賀に行きますが、砲撃され、帰国を諦めます。これがモリソン号事件です。 この後の経緯はシンガポール国立図書館のサイト記事「シンガポールの最初の日本人市民:山本音吉」(注7)から要約します。母国から拒否された音吉は名前をジョン・マシュー・オットサン(John Mathew Ottoson)と改名し、キリスト教徒になります。中国語もできたので、アヘン戦争(1839〜1842)の頃にイギリス政府の通訳として雇われます。同時に日本の漂流民の送還の援助をし、東アジアを幅広く旅して、シンガポールに行きます。 彼はイギリス海軍マリナー号の通訳として、1849年に浦賀に行き、林阿多(Lin Ah Tao)という中国名で上陸しました。この軍艦は地形測量が目的でした。その後、1854年にジェームズ・スターリング提督が日英和親条約を構築する手伝いをしました。この条約によって、長崎がイギリスとフランスに開かれました。音吉はこれらの重要な行いの褒美として、イギリス市民権と報奨金を与えられ、1862年にシンガポールに永住することにしました。彼の最初の妻はマカオの宣教師プレスで会ったスコットランド人の女性で、2番目の妻は上海のデント商会で共に働いている時に知り合ったドイツ系とマレー系のシンガポール・ユーラシアン[欧亜混血の人々を指す]だったそうです。

英国戦隊の日本到着(続き, p.8)

 音吉についての記述の後、記事は日本側とのやり取りを詳細に記しています。
 提督が日本の皇帝宛の書簡を渡し、乗組員の運動のために上陸させてほしいと要求した。日本側からは提督の書簡を江戸の皇帝に送ること、返事は40日かかること、2,3日前に港に着いていたオランダ軍艦はイギリス側とのコミュニケーションを禁じられていることなどが伝えられた。その結果、4隻のイギリス軍艦は3週間も身動きできない状態で停泊させられ、こんな侮辱的な制限に我慢して、いや、礼儀正しく従わされたことはない。 提督が食料を購入したいと申し入れると、日本の法律では外国との貿易は一切禁じられているので、必要な水や食料を供給すると、9月9日に3艘の船で運ばれてきたのは、豚3匹、鳥42羽、梨とサツマイモ8袋、大根、玉ねぎ、卵1カゴだった(重さも記述しています)。 甲板を磨くための砂も所望したところ、最初に運ばれたのは3艘分の石英の砂利だったので役に立たず拒否すると、1,2日のうちに、3艘の船いっぱいの茶色ぽい、クリーンで鋭利な砂が運ばれてきた。 魚釣り用の地引網を島の砂浜に張ることの許可を提督が求めると、許可できないがと言って、[1854年9月]22日に良質の生魚を6,7カゴ分供給してくれた。タイ、ボラ、カレイで、彼らは少量であることを謝罪した。ウインチェスター号の乗組員の1日分でしかなかった。26日に3カゴ分のイワシが供給されたので、エンカウンター号に送った。2番目の小舟にいっぱいの生野菜、鳥2,3羽、4,5ポンド[2,268グラム]程度の良質のお茶が入った壺が提督への贈り物として差し出された。日本人は4隻の船の乗組員が何人か確かめたがり、総勢約1000人と知ると、自分たちが供給したのは十分ではないとわかった。しかし、[イギリスの]船は日本側から無償の食料を受け取ることはできない、ただ「初めまして。ロシア船について情報がありますか? さようなら」と言いに来ただけだと伝えられた。これは日本の無愛想な対応に対してイギリス海軍の最高司令官の最初の訪問の要約としては妥当だと思う。

イギリス海軍の脅し行為?

 この後も不満タラタラの記述が続きますが、そのあとは、4隻のイギリス軍艦が長崎湾で「戦隊点検」を始めるという描写です。海軍の「点検」(inspection)というのは、アメリカ海軍のホームページによると、軍艦があらゆる点で準備ができているかを試すもので、アメリカの場合は1882年に議会で制定されたそうです(注8)

英国戦隊の日本到着(続き, p.9)

 [1854年9月]26日、提督は戦隊のすべての船の点検を行った。武装はしなかったが、全員配備についた。10時に250人の水兵と21人の士官を乗せた22艘のボートが旗艦の周囲を囲んだ。密集隊形で一列を作ったあと、全部の船が帆を広げた。そして、号令によって、魔法のように、すべてのマストと帆を下げた。甲板上の天幕全てが広げられた。ボートはゆっくりと戦隊の周りを漕いだ。そして、岸に沿って、横列隊になった。最後に旗艦に向かって競争した。この美しい港を見下ろす山の上から眺めたら、素晴らし光景だったに違いない。日本の巡視船全てが監視していた。彼らはこの光景が何を意味するのかわからなかった。
この翌日、9月27日にウィンチェスター号の船長と砲術長がボートで島々を探検し、外海の島に良質の石炭を見つけたことが記されています。ボートで運び出せる位置に炭鉱があるので、日本側に船に載せてもらいたいと依頼します。最初、彼らは何のことかとわからないふりをしていたけれど、提督が石炭を見たと知ると、炭鉱はある大名に所属していて、長崎奉行は介入できないと言ったと書かれ、次にスターリング提督が動きます。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(2-1)

1853年の最初のペリー来航の記事の後に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されたのは、クリミア戦争でロシアに宣戦布告したイギリスは、日本に進出しているロシアを追い出さなければいけない、第2回目のペリー来航でアメリカが達成したことをイギリスも追わなければいけないという論調の記事(1854年9月)です。

1854年9月16日:「香港と上海」((注1), p.7)

 南京と上海の他に、ジョン卿は日本訪問を希望している。ロシアが日本に行って、ある種の条約締結に成功したと報告されている。ロシアのコリアにおける植民は間近で、ロシアにとって日本との友好関係を確立することは最重要課題である。戦争が布告された今、我々はロシアをこの地域から追い出さなければならない。我が提督はイギリスがこの地に向かう途中だと言った。 アメリカは日本が彼らの排他的反社会的慣習を多少ゆるめるよう説得した。アメリカは正しい原則に則って日本に働きかけるために行ったのである。アメリカは礼儀をもって受け入れられた。アメリカは日本に鉄道の完全な模型を持って行った。エンジンも車両も必要な付属品すべてである。長さは1マイル(1.6km)で、日本が許可したので、海岸に敷いて、電信装置をつけた。これを見に数千の日本人が集まった。日本人はこれらの現象に驚嘆した。ヤンキーたちは、群衆の中で最も知性が高そうな数人に、エンジンと電信の操作方法を教えた。喜んだ日本人は1週間以上も、昼夜を問わず、休みなく動かし続けた。まるで新しいおもちゃに飽きることを知らない子どものようだった。 アメリカがこのような巧みさとエネルギーを使ったことは称賛に値する。この通商によって大きな利益を得るまでに飛躍するだろう。しかし、アメリカがその独占を享受するままにしてはならないし、彼らはそんな期待もしていない。とは言っても、彼らが先陣を切ったのであり、アメリカはどの国とも、あるいは全ての国と競争する用意は出来ている。
 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には、この後、第2回目のペリー来航で、提督が日本から持ち帰った品々の紹介記事が掲載されています。ペリーが艦隊を江戸に向かわせようとすると、日本人側が刀を差し出して、自分を切ってくれ、そうすれば、切腹せずに済むし、家族に対する不名誉や家族の死を避けることができると言ったと記述され、ペリーは船を戻し、武士たちは切られずに済んだと述べた後、突然、日本の銅貨は素晴らしいと、天保通寳の挿絵が掲載されています。

東アジアにおけるクリミア戦争

記の記事で「戦争が布告された今、我々はロシアをこの地域から追い出さなければならない」という点は、1853年10月に始まったオスマントルコとロシアの間のクリミア戦争に英仏が参戦し、1854年3月にロシアに対し宣戦布告したことを指すのでしょう。 クリミア戦争と当時の日本がどう関係しているのかという疑問に答えてくれた研究書があります。『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』(アンドリュー・ラス著, 2015, (注2))です。この本をもとに、日本をめぐるイギリス・ロシアの駆け引きを概観します。 当時、ロシアは「強欲なイギリスがカムチャッカを征服し、中国と日本の沿岸を支配し、ロシアを太平洋から引き剥がす」(p.113)と恐れ、一方、英仏連合軍はロシアの拡張主義を警戒していました。ロシア海軍の太平洋指揮官、プチャーチン海軍中将に率いられたロシア艦隊は1853年8月に長崎に来航します。ロシア政府はペリー来航の前から日本に艦隊を送ることを計画していましたが、1ヶ月ほど遅れをとったことになります。ロシア艦隊は準備万端で、特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがロシア外務省のアドバイザーとして、日本との交渉にベストなアプローチを助言し、日本を刺激しないように長崎に来航するなどしたことは大きかったといいます(p.146)。1855年2月に下田で日魯通好条約を調印するまで、4回日本に来航しますが、1回目の長崎来航時にクリミア戦争が勃発し、プチャーチンは日本からの回答を待たずに、10月23日に出港します。英仏側はロシアが条約を勝ち取らずに日本を出たことを嘲笑ったと、著者ラスはフランス防衛アーカイブの文書を引用して指摘しています(p.146)。しかし、日本側は別の見方をしていたと、伊豆韮山の代官江川英龍の言葉を引用しています。これはラスが依拠した三谷博著『ペリー来航』(注3)の英訳からの抜粋ですから、現代日本語で訳します。
ロシアは今まで丁寧だったと同じくらい、どこまでも粘り強い恐れがあります。もし拒否されたら、アメリカと同じ立場に置かれ、我が聖なる国は前にも後ろにも敵を持つことになりましょう。これは受け入れがたいので、ロシアに通商を許可する条約を締結すべきです。(中略)これが現在の世界情勢に基づいた私の愚見であります。(p.147)
 ラスはこの後、ロシアとの交渉に当たった川路聖謨としあきらの日記から引用して、日露の交渉役の対応を比較しています。これはプチャーチンが3回目の交渉のために下田に来航した時のことで、川路の「下田日記 第一回下田行」掲載の安政元年11月29日(1855年1月17日)の日記です。なお、ラスも『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』も西暦で記していますし、21世紀の私たちには西暦の方がわかりやすいので、原典の旧暦の後に西暦を付します。 まず、ラスの記述(p.147)を訳し、原典をその下に記します。
ラス(注2):一方、勘定奉行で全権委員の中心だった川路聖謨は日記の中でこう打ち明けている。ロシアは1689年のネルチンスク条約調印以来、「明らかに大国になり」、航海術の能力を「日夜」改良してきた。[出典:川路聖謨『長崎日記・下田日記』1855年1月17日]川路(安政元年11月29日、(注4), p.170):魯戎は其時[二国会盟=ネルチンスク会盟]よりは遥に又大国と成りて、且つ航海のこと、其時よりは雲壌を隔てたり。ラス:川路は「フランスのナポレオンという者が大戦を始め」、一時的にロシアを負かした後、日本が「惨事を免れた」と認めているが、彼は「(日本の)国土には限りがあるが、野蛮人の欲望には限りがない」と評している。川路:文化のはじめ、既に大事に及ばんとせしかど、幸いにまぬがれたり(フランスのボナパルテと申し候者、大戦争を仕かけ、魯西亜一旦は敗北して、其国都迄奪われたり。文化十二年の事也)。(中略)地にかぎり有りて、夷人の欲にかぎりなし。恐るべき事也(pp.170-171)。
 日本が「惨事を免れた」事件は、文化元年(1804)ロシアのレザーノフが長崎に来航し、通商を求めたが拒否されたため、威嚇のために1806〜1807年に樺太・択捉を襲撃した事を指すと、『長崎日記・下田日記』の注に記されています。しかし、ラスは解説していないので、英語圏の読者には引用箇所の意味がよくわからないかもしれません。レザーノフは襲撃事件を計画はしましたが、その前に病死してしまい、実行したのは部下だったそうです。レザーノフの『日本滞在日記:1804-1805』は日露関係の真相が書かれていたため、1994年まで190年も公開されなかったといいます(注5)

イラストレイテッド・ロンドン・ニュースで伝えられた安政東海地震

 川路とプチャーチンは3回目の日露交渉会議を嘉永7年11月1日(1854年12月20日)に下田で始めますが、その3日後の11月4日(12月23日)にマグニチュード8.4(注6)の地震に見舞われます。ロシア一行が経験した地震の様子が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1856年1月5日号)に「日本の地震」という見出しで、1854年12月23日にロシア艦ディアナ号の乗組員が経験したこととして報告されています。繰り返し襲う津波に翻弄される様子ですが、まだ「ツナミ」という言葉はなく、「大波」という表現で、どんな破壊力を持っているかが記されています。 この地震に際して、日露が助け合った様子が『日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」報告書』(注7)に記されています。川路とプチャーチンは地震の対応をしながらも、13日後には外交交渉を再開しています。川路の『長崎日記・下田日記』を『百代の過客—日記に見る日本人—』で取り上げたドナルド・キーンは、この地震でロシア側が見せた人道的支援を目の当たりにした川路の日記には、「魯戎ろじゅう」(ロシアの野蛮人)という言葉が「魯人」に代わられたと指摘しており(注8)、ラスも紹介しています(p.148)。 この指摘を確認しようと、『長崎日記・下田日記』に記載されている「魯人」と「魯戎」の使われ方を調べてみたところ、必ずしも地震の前は「魯戎」で、地震後は「魯人」に代わったわけではないことがわかりました。ロシア人を意味する語の初出は、川路が長崎に到着した翌日、嘉永6年12月9日(1854年1月7日)に江戸より届いたプチャーチンからの日露の国境問題と通商問題の交渉開始を催促する書簡について述べている箇所です。確かに「魯戎」が使われています。でも、その3日後に「魯西亜人共」、5日後は「魯戎」と「魯人」の混用などが続きます。傾向としては、ロシア側が無理難題を主張していると感じた時は、「魯戎共殊の外むつき事共申出候て」(12月15日)などの使い方をしているようですが、統一はされていません。「魯戎使節」(12月14日)、「魯西亜使節」(12月18日)などの混用の後は、「魯人と対話」などが続きます。下田到着後、地震までの13日間も「魯戎」の方が多いにしても、「魯人」も使われています。地震の後は確かに「魯人」使用の方が多いようですが、「魯戎の布恬廷[プチャーチン]」(安政元年12月8日、1855年1月25日)とも表現しています。ただ、この記述ではプチャーチンを賞賛しているので、逆説的な意味合いで使っているようでもあります。国境論争などお互いに譲らずに激論を戦わせるうち、大地震にあい、助け合った二人が賞賛し合うという印象的な文章なので、以下に引用します。
再びおもえば、魯戎の布恬廷は、国を去ること既に十一年(航海三十年に及ぶといいき)、家を隔つること一万里余、海濤の上を住家として、其国の地を広くし、其国を富まさんとしてこころをつくし、去年巳来は英・仏二国より海軍を起して魯国と戦い、彼も海上にて一たびは戦いけん、長崎にて見たりし船は失いて、今は只一艘の軍艦をたのみにて、三たび、四たび日本へ来りて、国境のことを争い、この十一月四日をはじめにて、一たびつなみに逢い、再び神のいぶきにトリヒシガれて、艦は深く千尋ちひろの海底に沈みたり。(中略)常には布恬廷フテイヤツなどいいて、罵りはすれど、よくおもえば、日本の幕府、万衆のうちより御騰[登]用ありて、かく御用いある左衛門尉などの労苦に、十倍とやいわん、百倍とやいわん、実に左衛門尉などに引くらぶれば、真の豪傑也。(pp.181-182)
左衛門尉さえもんのじょう」というのは、川路聖謨の任官後の称号ですから、プチャーチンに比べたら自分の苦労など比べものにならないと賞賛している文章を家族に送ったようです。この中で、クリミア戦争にも言及しています。

川路聖謨の『長崎日記・下田日記』

 『長崎日記・下田日記』には興味深いことがいくつも記されています。川路聖謨はプチャーチンの2回目の長崎来航時に幕府の全権委員に選ばれ、嘉永6年10月30日(1853年11月30日)に江戸を出発して、12月8日(1854年1月6日)に長崎に到着します。当時53歳の川路が碓氷峠越えで、「途中日暮れかかりたれば、飛ぶが如くに歩行したるに、案内の手代坂みちにて息切れて、途中にへたばりたり」(1853年12月4日、p.8)と自慢気に書いています。その後に、自分が元気な理由を、普段から「甲冑歩行」しているからだと述べています。注釈によると、弘化3年(1846)頃から日課として励行している身体鍛錬法で、彼の奈良奉行時代(弘化3〜嘉永4/1846〜1851)の日記『寧府紀事』から引用しています。「孫子軍争篇によれば、敵陣と味方との間、三里は必ずあることなり・・・甲冑惣目かた三貫目位にて、二尺三寸に壱尺三寸の脇差をさし、三里歩行し、馬にて五里往来せねば、武士の役は立たずとしるべし」。約11kgの甲冑をつけ、70cmと40cmの脇差をさして、約12km歩けと言っているので、ある程度は日常的に実行していたのでしょう。 また、熊谷通過の11月1日(1853年12月1日)に「大いにさむし。往来の打水氷たり。四十度位なるべし」(p.6)と初めて温度の記述が始まり、その後度々温度が記されています。これは華氏温度で、摂氏4.4度です。注釈によると、寒暖計を携帯していたらしい事、寒暖計所持の初見は天保11年(1840)なので、その頃入手かとされています。ドナルド・キーンはこの日記が日々の温度を記録した日本で最初の日記だと指摘していますが、天保11年に佐渡奉行だった時の日記『島根のすさみ—佐渡奉行在勤日記—』にも温度が記されているので、こちらが最初かもしれません。 川路聖謨はペリー来航の時に、徳川斉昭に「ぶらかし策」という海防策を述べて、斉昭の信用を得たといいます。日本側から確固たる意思表明をせずに、回答を引き延ばし、外国が退去するのを待つという策です。プチャーチンとの交渉では、国境に関して主張をしながら、粘り強く交渉を続ける様が日記から窺えます。安政元年12月21日(1855年2月7日)に調印された日魯通好条約(日露和親条約)は、「日露間の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間とすること、樺太(カラフト)島には国境を設けずに、これまでどおりの両国民の混住の地とすること」「双務的な領事裁判権」(注9)が規定されました。 慶応4年3月15日(1868年4月7日)が江戸開城と聞いた当日、川路聖謨は自尽します。68歳でした。 続きを読む