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セポイの反乱

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-4)

1858年4月から10月まで英米メディアで報道された第二次アヘン戦争、インドの反乱、日本関連記事を概観します。
    1858年4月17日(NYT,(注1)):「イギリスの中国政策」『ロンドン・タイムズ』4月1日我が政府が成功裏に始めたことを続ける仕事が残っている。イギリス国民は永続する利益を世界に与える機会がある。インドが炎に燃えている時、カントンを封鎖し続ける勇気がある。アワドが再び完全に占領される頃には、中国の島の都市と航行可能な川にイギリス国旗が上がるのを見るだろう[原文は斜体で強調]。(中略)我々が他国の協力を求める原則は誰の目にも明らかだ。それは我々がこの仕事を1国だけではできないという理由からではない。あらゆる国が共通の条約という利益を共有すべきだからである。(中略)舟山[Chusan, Zhoushan]を占領しよう。もし我が隣人フランスが舟山の占領を望んでいれば、彼らにも中国の海に植民地を作らせればいい[原文強調]。中国シルクのフランスへの輸入は非常に大きいが、この貿易は主にイギリスとアメリカの船で行われている。フランスにも植民地を設立する土地を得る資格は公平にある。我が国は隣人たちに嫉妬していないが、我々の東アジアにおける偉大で増え続ける権益があり、自分たちの商業と我々の広大な保護領の商業の発展のために必要な領土的権利を手にいれる完全な自由度は保持しなければならない。 1858年4月24日(ILN,(注2)):「日本とコリアのスケッチ」 1858年5月22日(NYT):一面「アメリカの南方への拡大を願うイギリス」『ロンドン・タイムズ』より アメリカ合衆国による中南米の弱い共和国の吸収はこれ以上遅れてはならない[原文強調]。メキシコとニュー・グラナダ[ヌエバ・グラナダ共和国:現在の中南米の複数の国の一部から構成されていた]は自然の腐敗によって陥落寸前だが、国籍の降伏に向かう動きが始まっている。ベネズエラも似たような運命に向かっている。メキシコに関しては、国土のうち最も豊かな地域の買収が進んでいる。アメリカ政府はもう少し待ちさえすれば、国[メキシコ]そのものを[アメリカの]言い値で手にいれられるかもしれない。(中略)ニュー・グラナダに関しては、たいして時間はかからないだろう。この1,2年この共和国と合衆国の間で紛争があった。共和国の国民がパナマ地峡をめぐる暴動で負傷したので、その賠償をアメリカに求めているからだ。アメリカは地峡の通行権を将来的に保証する条約を求めているが、ボゴタ議会で反対が続いている。もし条約が批准されれば合衆国にとっては重要な権益をもたらす。もし拒否されたら、武力で要求するものすべてを取る理由となるだろう。(中略)ニュー・グラナダがアメリカに併合されたら、ベネズエラの吸収は当然のこととして続いて起こる。(中略)ニカラグア・コスタリカ・サルヴァドール・ホンジュラス・ガテマラなどの小国もこの流れに続く。これらの国々の唯一の障害は、合衆国とイギリスが中央アメリカを支配することを禁じている「クレイトン・ブルワー条約」(注3)である。しかし、ワシントンではこの条約を破棄する動きが進んでいる。 1858年7月15日(NYT):「日本人船乗りの救助—興味深い詳細」 1858年7月17日(ILN):「インドと中国」((注3), p.54)インドと中国からの7月7日付情報によると、中央インドで反乱軍が再び問題になっている。バラックポール(西ベンガル)連隊は解散か中国派兵に応じるかの選択がある。
The 70TH Bengal Native Infantry Drawing Rations at the Commissariat Stores, Canton.カントンの兵站部で配給する第70ベンガル原地人歩兵隊(ILN, 1858年7月17日)
    1858年7月22日(NYT):「キューバ獲得/ コマンチェ・インディアンの略奪」 1858年8月5日(NYT):「満州—中国におけるロシア—アムール川—占領進む」 1858年8月11日(NYT):「同盟国が北京へ進軍」 海河(Peiho)河口の砦を英仏同盟軍が占領。同盟国の軍事力によって遅かれ早かれ中国皇帝は同盟国の要求に同意せざるを得ないだろう。これらの要求の正当性はロシアとアメリカ合衆国によって認められた。残念ながら、我が国の政府は彼ら[イギリス]が使わざるを得ない暴力的方法に反対している。しかし、過去18ヶ月の中国問題の歴史に精通している人なら誰もが武力による以外、武力のみが中国政府と国民に国際法の原則を認め受け入れさせることができるのだという結論に達するだろう。(中略) 中国帝国を文明と貿易に開かせる偉大な仕事がイギリスとフランスによって精力的に始められたが、同様のエネルギーで続けられていないことは遺憾である。中国との交渉で多くの失敗や遅延があったのは無用というよりもっと悪い。 1858年10月9日(ILN, p.335):7月22日付、本紙特別アーティスト・特派員より 3日前、[ここカントンの]繁華街は勤勉な人々の活気に満ち溢れていたのに、わずかの間に本当に恐ろしい荒廃の情景に変わってしまった。全焼し、全壊した家々の骨組みしか残っていないが、そこから巨大な煙の塊が上がっている。[この後、兵士たちによる略奪の様子も描かれていますが、省略します。下の2葉の挿絵がカントンの廃墟と略奪の様子です]
Appearance of a busy street in Canton after a visit from “Ye Barbarians” 「汝ら野蛮人」の訪問の後のカントンの繁華街の様子(ILN, 1858年10月9日, p.335)
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-3)

幕府はインドの反乱について、早い時期に把握していました。当時、日本が置かれた立場を理解するために、英米メディアで報道される第二次アヘン戦争とインドの反乱と並んで、ネイティヴ・アメリカンとの戦争や奴隷貿易、日本との条約交渉を辿ります。

幕府が把握していたインドの反乱

府がインドの反乱について1857年8月には知っていたことが、目付の岩瀬震忠(ただなり:1818-1861)の書簡からわかります。岩瀬が長崎に出張し、到着の挨拶を江戸の同僚に送った書簡が『幕末外國関係文書』に残っています。1857年8月10日(安政4年6月21日)付書簡「六月二十一日長崎へ出張の目付岩瀬伊賀守震忠書翰在府同役へ 清國騒亂蘭船購入貿易談判等の件」(注1)のインドの反乱関係部分を要約します。前日に長崎に到着し、早速オランダ商館から情報を入手した内容の報告ですが、最初に阿部正弘の病状について心配を書いています。「春以来、血色も悪く心配していました。多事の折柄、一日も早く出勤できるようになることを祈っております」という趣旨から始まっている書簡です。
    廣東の騒乱がますます難しくなっている様子の上に、インドでイギリスによる苛政を憤って、イギリス士官を殺し、一揆のような騒ぎになっているそうです。 この地はかねてよりロシアが欲しがっていた地ゆえ、この節の騒乱に乗じて、ロシアが進出を企て、いよいよやかましくなるかなと思います。
岩瀬震忠の手紙はこの後はカントン攻撃にフランスもアメリカも参加し、大国中国も数多くの強敵を引き受けて、どうなるのだろうか、オランダ人も非常に危うい事になってきたと言っていると、情報を伝えています。こんな中で日本が欧米列強と交渉しなければならないという危機感も伝わってきますから、英米の報道に現れた中国の戦争、インドの反乱、日本に関する情報、その他、気になった記事を時系列で紹介します。後に紹介するように、この時代には新聞の力が政治をも変える危険な側面が警告されており、政治家にとっても経済界にとっても新聞を味方につけるなど、メディアを利用する重要性が認識されていましたから、現在のメディアの影響力の功罪を考える上でも参考になると思います。日本関連の記事は見出しだけで、記事内容は後に紹介します。

第二次カントン攻撃、インドの反乱ほか

    1857年6月5日(NYDT):「奴隷貿易の復活」(注2) 1857年7月30日(NYDT):「中国とインド」「インディアン戦争の恐れ/ビッグスー川にインディアンの大集会」セント・ポール・デイリータイムズより、7月24日イエロー・メディスン川(Yellow Medicine River:ミネソタ州)にスー族インディアンが集結して不穏な動きだ。もし戦争が起これば、10,000人のインディアンに対し、200人の部隊で戦うことになる。イエロー・メディスンの白人家族は駐留地に移った。兵卒の報告によると、インディアンはサルのように生意気に部隊を取り囲み、戦えと挑んでいるという。 1857年8月14日(NYDT):「インドの反乱/デリーはまだ陥落せず/セポイの連隊50が反乱/中国の戦争」 1857年8月18日(NYDT)「フォルモサ(台湾)島の占領/中国のアメリカ市民への賠償/ デリー陥落のニュースの一部確認」:NYDT特派員、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年6月9日付 アメリカ海兵隊のJ.D.シムズ大佐が以下の指令を受けた。フォルモサ(台湾)のフォンシャン市にアメリカ国旗を揚げて台湾島を正式に領有することだった。今回の戦争でアメリカ市民が被った損害の賠償として領有するのである。 これは在中国のイギリス当局に大きな満足を与えた。中国とのさらなる衝突に向けて各段階で行われるからだ。私の考えでも、これは中国における我々の権利を確保するための賢明な方法である。我々の損失に対する報酬として確実で安全な方法である。世界のこの地域で我々が領土獲得を求めるなら、中国帝国の領土のうち獲得できるものの中で、フォルモサほど望ましい所はない。鉱物と農産物が豊かで、石炭も価値が高いし、世界の海洋国家が熱望する場所だ。
 1857年9月14日に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が『ニューヨーク・タイムズ』に変更されてからはNYTと省略します。
    1857年9月23日(NYT):二面「インドへのイギリス軍の大規模な補充部隊」 1857年11月19日(NYT): NYT特派員、上海発、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年9月7日付 アメリカ合衆国軍艦ポーツマス号が日本に向けて8月22日に上海を出航した。箱館と下田に寄港する予定だ。箱館にはアメリカの領事代理がおり、下田には総領事がいる。 1857年12月21日(NYT):「中国戦争再開」 Chinese Reading Proclamation宣戦布告を読む中国人『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1858年2月27日号, p.221, (注3)1857年12月31日(NYT):一面「 Friends of Chinaより、1857年10月31日付 カントン攻撃の準備/合衆国と日本との新条約交渉/インドの反乱」:香港発(10月3日)ロンドン・タイムズ特派員 エルギン卿はカントン攻撃の結果がわかるまで香港に滞在するだろう。海兵隊部隊全体が到着次第、作戦が開始される。最初の補充部隊がインペレイター号で28日に到着した。戦艦コモラント号とランターター号がマニラから昨日到着。 1858年1月1日(NYT):一面NYT特派員、香港発、アメリカ軍艦ポーツマス号より、1857年10月29日付「日本からの重要ニュース/ ハリス総領事と[日本]との新条約交渉/下田と箱館にアメリカ市民の居住が許可される/下田沖に危険な礁を発見」、二面「中国におけるイギリスの位置/ ロシアと中国/ インドの反乱」 1858年1月2日(ILN):巻頭言「昨年[を振り返って]」ペルシャ戦争という現実があり、中国との切迫的な戦闘があったが、これら遠くの野蛮国との抗争は我々の見方では、戦争と呼べるものではない。 1858年1月26日(NYT):一面、NYT特派員、上海・呉淞(Woosung)発、アメリカ軍艦サン・ジャシンタ号、1857年11月6日付、一面「ロシアとアメリカの日本との条約」(10月付) 1858年2月6日(ILN, p.131):「日本」 日本からの情報によると、昨年10月16日に長崎において、日本とオランダ政府の間で条約が批准された。上記の日に長崎港はオランダ貿易に開け放たれた。10ヶ月後には箱館港が開放される。同じ情報によると、日本政府は全文明国と同様の条約を締結する用意がある。そして、キリスト像を踏みつける習慣は廃止される。 1858年2月8日(NYT):一面「中国戦争における英仏協力の計画/ 葉への最後通牒/ カントン攻撃間近」、二面「日本—国の様子—現地人の住居、慣習などーアメリカ総領事」1857年12月16日付ほか 1858年2月15日(NYT):一面「[インド]反乱軍の敗北/カントンは即刻攻撃されるべき/最後通牒に従うことを葉は拒絶」1857年12月16日付他 1858年3月6日(ILN, p.227):「中国における戦争:葉の捕虜、カントンで王室宝物を押収」1月14日付シーモア提督の公式報告書:カントン当局は我々[英仏]が市を攻略したことを認めなかったので、1月1日に部隊が市中を行進することにした。女王陛下の領事、パークス氏が喜ばしい情報を持って到着した。葉を捕虜にし、地方の全記録、銀で30万ドル相当の王室宝物を押収入手した。これら一連の行為に対して中国側からの抵抗はなかった。銀はカルカッタ号上で保護している。 1858年3月8日(NYT):「カントン砲撃の詳細/中国、ロシアに宣戦布告/ラクナウ近くの反乱者の敗北」 本社特派員より、アメリカ合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港1857年12月28日 長く延期されていたカントン攻撃が始まった。12月28日夜明けとともにカントンに向けて砲撃が開始された。市内の各所で火があがった。戦艦からは1日に60砲市に向けて撃たれ、3日間続いた。12月29日に英仏部隊が市の後方の2砦を襲い占領した。中国軍は勇敢に抵抗したが、小規模な武器で防戦し、占領されると逃走した。カントン市は完全に破壊されるだろう。 1858年3月11日(NYT):一面「英仏軍によるカントン占領—葉が捕虜」1858年1月15日付Friend of Chinaによると、1月5日に葉が捕らえられた。 1858年3月15日(NYT):一面「葉の捕虜の詳細」1月15日付情報によると、葉はイギリスの病院船に収容された。カントンは英仏同盟国の保護領となり、新政府が設立される。 1858年4月3日(ILN, p.345):「中国における戦争」(本紙特別アーティスト・特派員より、カントン、1月28日)  市内に秩序が次第に戻っている。通りは(もしそう呼べるなら)活気を取り戻し、どこでも開店されつつある。住民は全体的に最近の屈辱に関心がないように見え、新しい支配者に服従している。多くの士官が現地人とすれ違う時はお辞儀をする。これを最下位の中国人役人に対してもする。この小さな儀式が東洋の全ての国々で最重要なことだとみなされている。 1858年4月6日(NYT):「フランスとイギリスに協力するアメリカとロシア」 1858年4月13日(NYT):一面「北京に対する示威運動—英仏同盟によるカントンの要塞化」本社の特派員より、合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港、1858年1月28日  これまでも現在も、中国・日本・マニラの港の必要性が緊急に求められているが、この要求に服従していない。1年間も一人置き去りにされている、[アメリカ]国の船が近くまで来てくれないというハリス領事の苦情は国務省の目を開かせたに違いない。 1858年4月17日(ILN, P.383):「中国」(本紙特別アーティスト・特派員より、香港、2月28日) 葉のやつはインフレキシブル号でカルカッタに行った。そこで彼がどうなるか知らない。カントンは今は静かだ。北部がどうなるか我々は皆待っている。北京[政府]が礼儀正しいか否か、それが5月かどうかもわからない。エルギン卿はまもなく上海に行くだろう。ひょっとすると、北京の前に日本に行くかもしれない。ありえないことではないと思う。あの国[日本]の皇帝は外国列強に対して好意的のようだから、これはいい機会だろう。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-2)

Indian Crisis「インドの危機」挿絵キャプションBritish Attack of Mandarin Junks in Fatsham Creek, Canton River—Sketched from the Fort. カントン川[支流]佛山水道の中国ジャンクを攻撃する英国—砦からのスケッチ出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号((注1), p.129)

中国への攻撃とインドの反乱

節で紹介したイギリスによるカントン攻撃の情報を幕府に伝えたオランダ商館長の幕府への忠告を受けて老中が各部署に出したお達しと、それに対する各部署からの意見書がどんなものだったかを見る前に、第二次カントン攻撃やその他の「戦争」を英米の新聞から辿ります。欧米列強の世界戦略の中で、幕府が置かれていた立場がよく見えてくると思います。 上の中国を攻撃するイギリス軍を描いた挿絵は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号の第一面に掲載されましたが、第一面の記事の見出しは「インドの危機」です。セポイの反乱として知られているインドの反乱は5月から始まっており、挿絵の中国攻撃作戦は6月1日に行われました。これらが英米のメディアでどう伝えられたかを見ていきます。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』経由のロンドン『タイムズ』の報道と、1857年7月以降の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記事を中心に見ます。 「インドの反乱」の最初の詳細ニュースは「ボンベイ発5月11日」の報告が掲載された1857年6月24日の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(注2)です。この頃のアメリカの新聞には「インディアン」の反乱や戦争という見出しが多発し、国内でもインド人との戦争が起こっているのかと驚きますが、国内の「インディアン」とは当時、アメリカ・インディアンと呼ばれていたネイティヴ・アメリカンのことです。 5月11日ボンベイ発の報道では、ボンベイからの報告は誇張されているようだと断った上で、「ベンガル騎兵隊の第三連隊が公然と反乱を起こし、将校数人と兵士が死傷して、将校のバンガローが全焼した」と伝えています。以下にインドの反乱に関する報道の流れを、特徴的な部分だけ抄訳します。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事はNYDT、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はILNと略しています。

1857年7月4日(ILN,(注1), p.19)「インド:現地人部隊の反乱とヨーロッパ人の虐殺」

「インド」(カルカッタ発5月18日;マドラス発5月25日;ボンベイ発5月27日)
    ベンガル軍の反乱は恐るべき方法で広がっている。メーラト[Meerut:インド北部]の第3ベンガル軽騎兵隊の1部隊がパレードで、政府が供給した弾薬筒を装填して発射するよう指令された。90人のうち5人しか指令に従わなかった。拒否した85人は軍法会議にかけられ、5年から10年の厳しい求刑があった。5月9日に部隊全員が見る前で彼らは刑務所に行進した。救助の試みもなく、怪しい動きはなかった。 5月10日、日曜の夕方、連隊が突然、怒りの暴動を市民の参加で起こした。11日と20日はこの地区に駐屯している現地人の歩兵連隊2隊が立ち上がった。彼らは刑務所から仲間たちとその他1,200人の囚人を解放し、血なまぐさい仕事を始めた。 メーラトはインド最大の駐屯地で、軍のヨーロッパ隊は女王陛下の第6ドラゴン衛兵隊、第60ライフル隊、砲兵隊だ。駐屯地の半分は炎に包まれ、我々の兵士たちの妻や子どもたちは激怒した兵士たちの野蛮な手にかかった。彼らは前代未聞の残酷さで殺した。 将校たちはバンガローから飛び出し、男たちに忠誠を呼びかけようとしたが、射殺された。ヨーロッパ部隊が到着する前に、残虐行為はほぼ終わっていた。 男たちは100マイルほど先にあるデリーに逃げた。デリーのベンガル人部隊の間にすでに反乱の種は広まっていた。市に逃亡者として入った反乱者たちはすぐに、この地の3現地人連隊、第38・54・74隊はデリーに駐屯しており、彼らを監視するヨーロッパ部隊はいなかった。その結果は酷いものだった。 反乱した兵士たちは市を完全掌握し、卑屈な従順さからヒンドゥーの性質である残酷な獰猛さに即座に変身し、デリーのヨーロッパ人居住者を年齢性別に関係なく無差別な虐殺を始めた。銀行を略奪し、故皇帝の息子をインドのムガル王と宣言した。 この不満の原因について確かなことはまだ伝えられていないが、カーストに関するインド人の思いを蹂躙する行為があったという疑いに基づいている。セポイ[インド人傭兵]に供給された新しい弾薬筒はイギリスから直接送られたもので、塗られているのは不浄の動物の油脂だとセポイたちは聞かされた。不満が密かにゆっくりと拡散し、デリーでの惨劇は密かに完全に組織化された陰謀が存在していたことを証明している。 メーラトの反乱部隊が宿営地におけるインド兵の対応がヨーロッパ人と平等ではないと思ってデリーに逃げたのは明らかに偶然ではない。デリー駐屯の3連隊が同じ思いを持っていることを知っていて、デリーに行けば、反乱の共謀者が見つかると確信していたに違いない。 ペルシャ湾にいる3ヨーロッパ連隊は和平によって解放されているので、カルカッタに直接航行できる。反乱を鎮圧し、反逆者を罰する作戦がすぐに取られた。全地域の反乱者を圧倒する量の軍隊が行軍した。 月曜朝に公式の報告がロンドンに届くと、午後には閣議が行われた。東インド会社の幹部との長時間の会議も行われ、夜議会で発表される前に、女王陛下の軍隊の大部隊が出発の準備を始めていた。香港の出来事で、4連隊が行先をインドから中国に変えなければならなかった。中国での仕事が済み次第、元々の行く先インドに向かうことになっている。
同じ7月4日号の表紙に「インドの反乱」という見出しの巻頭言が掲載されています。
    インドの我々の家が燃えている。この家には保険がかけられていない。この家を失うことは、我々の力と特権と性格を失い、世界ランキングで地位が落ち、我々の過去の栄光と現在の野望によってではなく、ヨーロッパの地図における我が国のサイズに応じた地位に落ちるということだ。この火はどんなことをしてでも消さなければならない。このような危機の大きさと突然性の前にはあらゆる普通の配慮はなくなる。幸い[英国]インド政府はこの危機に対する十分な力があるし、もし資力がなければ、大英帝国のすべての富・軍事力・エネルギー・リソースで支援されるだろう。その場合は恨み言などないだろう。 我々が剣でインドに勝つことが望ましいかどうかなど、もはや問題ではない。勝ったのだから、インドを保持しなければならない。剣がインドを獲得したのだから、剣がインドを守らなければならない。現在の我が国の力に対する恐れと、我が国の過去の無敵さの記憶によって我々は支配する。この恐れと記憶はいかなる危険があろうとも、いかなる犠牲があろうとも維持されなければならない。

1857年7月8日(NYDT,(注3)):(ロンドン『タイムズ』6月27日)「英印軍における反乱の大拡大/現地民部隊に暴動と反乱/デリーでヨーロッパ人の虐殺」

本節の最初に掲載した8月8日号第一面の記事「インドの危機」は社説のように国民を鼓舞する内容になっていますので、抄訳します。
1857年8月8日(ILN, p.129)第一面「インドの危機」
    [イギリス国民は日常に追われているが]最初の警告の叫びで、彼らは事件の大きさに耳目を開けた。そして、世論と政府の行動によって、インド全体と両側の世界に向かって、東洋の帝国を守るために、いかなる流血や宝物の犠牲を被ろうと、必要なことは躊躇なく行う精神が十分あると証明した。また、3年前に世界の最強の君主国の一つ[である我が国]がヨーロッパの均衡を守るために全力をあげたことを示したように、アジアの均衡を守るために国内外の敵と戦う用意があると、インド全体と世界全体に示す。 増強軍は本国の英国人が海外の英国人と同じくらいの強い目的を持っていると証明するだろう。[インドの]反乱者たちは計画も主導者もなく、英国軍の全力で戦うこの紛争に勝ち目はないと証明するだろう。必要な時は全英国軍が反乱者たちに向かって行くことは確かだと証明するだろう。 反乱者たちは自分たちを野蛮性[の時代]に追い戻すようなアワドの王も、その他の彼のような野蛮で残忍な暴君も望んではない。 そして、もしいつか反乱者たちがヨーロッパの白い顔の異人の支配からの自由と独立に署名するとしても、英国政府より1000倍も酷い暴君にならない首長と頭首を自分たちの人種の中から探すだろうが無駄だ。
The Princes of Oude and Suit—from A Photograph by Mayallアワドの王子たちと随行者たち—写真より左からInterpreter通訳、Brother of the King of Oudeアワド王の兄弟、Eldest Son and the Heir of the Deposed King of 続きを読む