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2018-06-09

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)

「英国と日本の通商記録」(1852)に、セーリス船長が家康からもらったという特許状を全文掲載しているので検証します。


1613年11月24日平戸にて:ウィリアム・アダムスが貿易を彼個人の利益のために行わないと東インド会社に誓約した手紙の証人として署名したリチャード・コックス等3人とアダムス(注1)

セーリス船長が家康に提出した特許請願書

 『日本及び日本人——日本幽囚記と英国と日本の通商記録』(1852)の解説「英国と日本の通商記録」に、東インド会社のジョン・セーリス船長が1613年に家康からもらったという特許状(article of privilege)の全文が掲載されています。ところが、セーリスが家康からもらったという特許状が、家康が出した朱印状の原文と違うことを、アーネスト・サトウが1900年に指摘しています。サトウの編集・解説付きの『ジョン・セーリス船長の1613年日本渡航記』(1900)で、その経緯の一部が初めて明らかになりました((注2), pp.lxxxi〜lxxxv)。村上直次郎譯註『異國往復書翰集 増訂異國日記抄』(1929)でも同様の指摘がされていますので((注3), pp.184-188)、両方を参考にしながら、経緯を見ていきます。

 セーリスは最初にイギリスが求めている特許の14か条請願書を家康に出しますが、それを短縮するよう求められて、2番目の請願書を提出します。7か条の短縮請願書をセーリスはイギリスに送り、それがサミュエル・パーチェス(Samuel Purchas: c.1577-1626)の『パーチェス廻国記』(Purchas His Pilgrimes, 1625, (注4))に日本語訳(以下)と共に掲載されます。

日本の特許状:各行は右から始まり、下に向かって読むこと。最後の部分は印

 これはセーリスの請願書を日本語訳し、その模写版ということで、この模写版の文は以下の通りです((注3), pp.190-193)。

   覚
一日本へ今度初而渡海仕候、萬商賣方之儀御じゆんろニ被仰付可被下候事、

一兩御所様へ御用之御物之儀は、御目録を以被召上可被下候事、

一、 於日本いきリスふねの荷物、おしかいらうせき不致様に被成可被下候事、

一、 いきりすふね大風にあい、日本の内何れのみなとへ着申候共、無相違様ニ被仰付可被下候、何方ニ而も望のみなとニ家をたて、賣買可仕候間、御屋敷可被下候事、

一、 日本ニ而かい申度物御座候は、其商人相對次第かい取申候様ニ、被仰付可被下候事、

一、 日本人といきりすの者けんくわ仕出候は、理非を御せんさく被成、理非次第、有體ニ被仰仕可被下候事、

一、 いきりすへ歸國仕度候は、何時ニ而も歸國仕候様ニ被成可被下候事但歸國仕候は、立申候家をはうり候て歸申候様ニ、被成可被下候事、

 17世紀初頭の本に日本語原文を掲載する点は評価できますが、『パーチェス廻国記』では、これが「お御所様、日本の皇帝から与えられた特許状」という題名になっています。そして、セーリスの請願書(英文)が続きます。日本語版と英語版の違いに関するサトウと『異國往復書翰集』の解説を読んでも、なかなか理解できませんでしたが、『パーチェス廻国記』の実物を見て合点がいきました。

 以下に『パーチェス廻国記』に掲載されているセーリスの請願書を拙訳します。1625年以降の欧米の読者は、これが「日本の皇帝」が出した朱印状だと理解して読んできたわけです。大きな問題と思われるのは、これが「英国と日本の通商記録」(1852)にも、リチャード・ヒルドレスの『日本—過去と現在—』(1855, 1-1参照)にも、ペリーの『日本遠征記』(1856, 1-1参照)にも丸ごと掲載されて、欧米に広く流布していたことです。これが欧米列強との不平等条約につながっていったのではないかとさえ思えます。「英国と日本の通商記録」の解説者は「これらの条項の将来的重要性はそれをここに挿入する正当性がある」((注5), pp.10-11)と強調しています

  1. 英国王の臣民、東インド会社総督トーマス・スミス卿と東インド会社の冒険商人が我が帝国日本のどこの港へでも永久に安全に行ける無償の許可を与える。船と商品を持ち込むことを妨げず、居住し、すべての国と売買、物々交換をする時の彼らの方法で行い、希望するだけの日数日本に滞在でき、随意に帰国する許可を与える。
  2. 彼らが我が帝国に持ち込んだすべての商品の関税を無税とすることを許可する。また、今後持ち込む商品、その後どの外国にも輸送する商品も無税とする。また、今後到着する船を認可し、イギリスから来る船がその商品を幕府に送ることなく、販売することを認可する。
  3. もしそれらの船が難破の危険がある時は、我が国の国民が援助するだけでなく、救助された船荷も船長、または交易所の商人長か任命された商人に返す。イギリス人は我が帝国のどこにでも自分たちが適当と思う所に、家を1軒ないしそれ以上建ててもよい。帰国の際は、それを自由に売ってもよい。
  4. もしイギリス人商人その他が我が国で死亡したときは、死者の持ち物は交易所の商人の裁量によって自由にできる。イギリス人が犯した罪すべてはこの交易所商人の裁量によって罰せられ、我が国の法律はその人間も物品も制することはない。
  5. 我が国民がイギリス人の商品を買う場合は、合意の値段を遅滞なく払い、または、その商品を彼らに返却する。
  6. イギリス人が持ち込んだ商品、今後持ち込む商品は我々が適切に使用できるものであり、我々の役に立つものであること。我々は阻止はしないが、値段は交易所の商人が他に売るのと同じ値段にすること、そして、商品が届いたときに支払うことを許可する。
  7. もし他国での交易が見つかったり、イギリスの船が戻る際には、人員か食料を必要とするだろう。イギリス人の必要に応じて、我が国民は金銭を取って提供する。
  8. イギリス人が蝦夷地または、我が帝国のその他の地域や周辺の発見に向かうときは、パスポートなしで行ってもよい。

於:駿河の我が城、我が国の年号の18年9月1日
我が国の国璽、署名:源家康(Minna Mottono Yei. Ye. Yeas.)

 日本の国璽が付けられていると偽るのは、文書偽造罪に問われるレベルではないでしょうか。この文書の信ぴょう性を更に印象付けたのが、ウィリアム・アダムスが「日本皇帝の特許状の翻訳」と題したものを、1613年12月付の長い手紙と共に東インド会社に送り、それが1850年に公開されたことです。

アダムス直筆の家康の朱印状の英訳((注1), p.67)

 最後に見える「MINA MOTTONO」は「源家康」の一部で、日付は「英国と日本の通商記録」、ペリーの『日本遠征記』その他に掲載されている「特許状」と同じです。トーマス・ランドール(Thomas Rundall)編『日本帝国の記録:16, 17世紀』(1850)に収められ、活字化されたものが「注Y」((注1), pp.153-155)に掲載されています。

家康のイギリス船通商許可朱印状

 実際に家康がセーリスに渡した朱印状はどんなものだったのでしょうか。江戸から戻ったセーリスとアダムスは家康から「御朱印」を受け取ります。慶長18年8月28日[1613年10月13日]の日付のある「御朱印」です。以下は村上直次郎譯註『異國往復書翰集 増訂異國日記抄』((注3), pp.184-188)に掲載されているものです。この原文は1898年に英訳され、アーネスト・サトウが引用していますので((注2), p.lxxxiii)、その拙訳を各項目の下に加えます。

一、いきりすより日本へ、今度初而渡海之船、萬商賣方之儀、無相違可仕候。渡海仕付而ハ、諸役可令免許事、
[イギリスから日本に今回初めて来る船は、あらゆる種類の貿易品を妨げなく持ち込んでよい。イギリス船の今後の訪問にはあらゆる税が免除される] 

一、船中之荷物ノ義ハ、用次第目録ニ而可召寄事、
[船荷に関して、幕府の要望に従って、目録による要求書が作成される]
[この意味は、将軍が優先的に購入できるように目録を作成させる目的だそうです。(注6), p.10]

一、日本之内、何之湊へ成共、着岸不可有相違、若難風逢、帆楫絶、何之浦々へ寄候共、異儀有之間敷事、
[イギリス船が自由に日本のどの港に行くことも許可する。もし嵐などによって着岸が難しい場合は、どの港に行ってもよい]

一、於江戸望之所ニ、屋敷可遣之間、家を立、致居住、商賣可仕候、歸國之義ハ何時に而も、いきりす人可任心中、付、立置候家ハ、いきりす人可為儘事、
[江戸でイギリス人が望むどの土地も与え、そこに家を建て、居住と交易することを許可する。彼らが帰国を望む時には、自由にいつでも帰国し、建てた家は自由に処分してよい]

一、日本之内ニ而、いきりす人病死なと仕候者、其者之荷物、無相違可遣之事、
[もしイギリス人が日本国内で病死またはその他の原因で死亡した場合、その者の私物は必ず引き渡されなければならない]

一、荷物おかしい狼藉仕間敷事、
[交易品の強制的暴力的な販売は禁じる]

一、いきりす人之内、徒者於有之者、依罪輕重、いきりすの大将次第可申付事、
[もしイギリス人が犯罪を犯した場合は、イギリスの大将が罪の重さに応じて罰すること]
右如件、
 慶長十八年八月廿八日、
御朱印、
  いんきらていら、[ポルトガル語でイギリス]

英訳特許状の問題点

 朱印状原文と「特許状」とされるものの内容の違いについて、アーネスト・サトウの分析で一部分解き明かされています。英訳「特許状」に「蝦夷へのフリーパス」が入っている理由は、家康がアダムスに言ったこととして、もしアダムスが蝦夷地に行くなら、蝦夷地の臣下に友好の手紙を託そうと言ったからだといいます。家康の発言をアダムスが東インド会社に報告しているそうです。また、朱印状には「江戸でイギリス人が望むどの土地も与え」とありますが、特許状には「日本のどこにでも」と記されています。アダムスがセーリスの到着前に家康と話した時に、家康がセーリスはどこに交易所を建てたいと思っているかと尋ね、アダムスは江戸に近い所だろうと答えたため、朱印状に入れられたのだろうが、セーリスの考えは違っていたとサトウは述べています(p.xxxiv)。

 サトウが一番驚いた違いは、イギリス人が日本国内で犯罪を犯した場合の処罰方法です。請願書では日本の当局に任せると書いてあったのに、朱印状ではイギリスの「大将」の裁量によるとされています。ただ、請願書の英文は”When Japanese and Englishmen quarrel that the merits shall be inquired into, and decision given exactly in accordance therewith”(p.lxxxii)だけなので、サトウが理解するように”by the Japanese authorities”(「日本当局により」p.lxxxv)と確実に読めるのかわかりません。請願書の短縮版をアダムスが家康のために日本語に訳したとすれば、その時に「イギリスの大将」が裁くと訳した可能性はないでしょうか。

 セーリスの「請願書」が家康の署名入りの「特許状」とされてペリーの『日本遠征記』(1856, Vol.1, Introduction))やヒルドレスらに引用されていたことにサトウが言及していないのは不思議ですが、イギリス公使館の通訳であり、外交官であった立場が影響しているのでしょうか。

 村上直次郎がその後の出来事を記しています(pp.196-198)。1616年にイギリス船が来航した時に、イギリス商館長コックスが江戸に行って新特許状を得たけれど、旧特許状の交付は得られなかったこと;京阪地方で、外国人との直接取引禁止令が出されたので、コックスが江戸に引き返して旧権の回復を願ったが許されなかったこと、翌年にも伏見に行って運動をしたが成功しなかったと、コックスが日記で述べています。1616年9月(元和2年8月)発行のイギリス人向けの新御朱印の内容のうち、上記の1613年10月(慶長18年8月)の御朱印と同じ点は、嵐の際はどの港に入港してもよい;皇帝が必要なものは支払いを前提に取り置くこと;日本人とイギリス人の間の取引は強制的でなくフレンドリーな取引であること;イギリス人が日本国内で死亡した場合の資産はイギリス商館長が確認するまで、その人物の所有物として保管すること;イギリス船上または陸上でイギリス人の間に生死にかかわる、またはそれ以外の争いが起こった場合、日本の法律の介入なく、船長かイギリス商館長が処理することとなっています。

 大きな違いは、新御朱印状では、イギリス人の入港は平戸に限ること、貿易取引も平戸に限ると明記されていることと、以下の条項が削除されていることです。江戸に土地を与え、家を建ててもよい;あらゆる種類の貿易品を持ち込んでよい;あらゆる税が免税されることです。この後、1858年に日英修好通商条約が調印されますが、その不平等性に真っ向から異議を唱えた馬場辰猪(1850-1888)はロンドンで『日英条約論』(The Treaty between Japan and England, 1876)を出版します。同じくロンドンで出版した『日本語文典』(An Elementary Grammar of the Japanese Language, 1873)が間接的ですが、チャールズ・ボクサー(3-3参照)に影響を与えたことについても、後に紹介します。

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1 Thomas Rundall (ed.), Memorials of the Empire of Japon: in the XVI AND XVII Centuries, London, Hakluyt Society, 1850, p.75.
https://archive.org/details/memorialsofempir00rundrich
2 Ernest M. Satow (ed.), The Voyage of Captain John Saris to Japan, 1613, London, Hakluyt Society, 1900. 該当箇所はIntroduction, p.lxxxiii.
https://archive.org/details/captainjvoyageof00saririch
3 村上直次郎(譯註)『異國叢書(第11)異國往復書翰集 増訂異國日記抄』、駿南社、昭和四年(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876513/100?viewMode=
4 Samuel Purchas, Purchas His Pilgrimes, vol.3, Glasgow, James MacLehose and Sons, 1905. これは1625年刊の本の復刻版ですが、17世紀の英語を現代英語に修正したと断っています。
https://archive.org/details/hakluytusposthum03purcuoft
5 Captain Golownin, Japan and the Japanese: Comprising the Narrative of a Captivity in Japan, and an Account of British Commercial Intercourse with that Country, Vol.I, London, Colburn and Co., Publishers, 1852. https://archive.org/details/japanjapanesecom01golo
6 鈴木かほる「スペイン外交と浦賀湊」、『郷土神奈川』(52), 2014-02、神奈川県立図書館
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/kyoudo_kanagawa/kyoudo_kanagawa052_suzuki.pdf