2019年11月
ペリー提督の琉球・首里訪問
英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-15)
第2回日本遠征に向かうペリー提督が那覇から発した海軍省長官宛の手紙に、長官の指示によって自分の長い海軍人生が終わらせられるのかという訴えが綴られています。
日米開戦直前の米政府によるペリー評価
前節で紹介した『ペリー提督日本遠征記』と主任通訳だったウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』の違いに注目し、『ペリー提督日本遠征記』は信用できないと示唆しているアメリカ政府刊行文書があります。アメリカ議会上院が開示を請求し、1855年1月31日に上院に提出されたペリーと海軍省長官との一連の通信文を通読するうちに、提出されていない通信文があることに気づき、外されている文書がないか調べて見つけました。『アメリカ合衆国の条約とその他の国際法 第6巻』(Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol.6、以下『アメリカ合衆国の条約』)という900ページ以上の大著です。アメリカ政府刊のこの膨大な文書は1852年から1855年の間にアメリカが条約締結した国と、その経緯を記録したものですが、日本に関してはペリーの日米和親条約と琉米修好条約について記録されています。日本に関しては227ページ、琉球43ページ、合計270ページにも及びます。 この本の公刊は1942年ですが、編者の序の日付が真珠湾攻撃の3ヶ月前、1941年9月8日((注1), p.VI)です。編者はこの本ではハンター・ミラーとなっていますが、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』などではデイヴィッド・ハンター・ミラー(David Hunter Miller: 1875-1961)となっています。条約を専門とする法律家で、1929年から1944年まで国務省の官僚で、国際連盟規約を作成したとされています。ミラーが編集した『アメリカ合衆国の条約』は全8巻で、1931年から48年まで続いた一大プロジェクトのようです(注2)。 日米和親条約について、政府ファイルに残っている和文・英文・オランダ語訳文・漢文等を掲載し、和文と英文条約を照合して違いを指摘するなど、詳細な分析をしています。条約までの経緯や日本側の反応なども様々な参考文献を紹介していて貴重な資料ですが、本節ではなぜ1853年11月14日付のドビン海軍省長官からの手紙(6-6-13参照)を全文引用しているのか見ます。『アメリカ合衆国の条約』で指摘されたペリーの日本観と政府の見解の違い
この本で強調されているように見えるのは、対日本に関するペリーと当時のアメリカ政府の見解の相違です。「ペリー提督の見解」という見出しの節は、「ペリーが予想していた自分のミッションについての見解は海軍省長官宛の2通の通信文に表されている。1番目は”Notes”と題され、日付はないが、ペリーが合衆国を出発する前に書かれた。2番目は1852年12月14日、マデイラ発の通信文である」と始まっています。1番目の論調は今まで見てきた『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の好戦的な記事とほぼ同じです。合衆国政府がどうすべきかを主張している箇所を抄訳します。[日本が]文明国か否かにかかわらず、合衆国がこの異常な(extraordinary)人々を国々の家族に引き入れるリーダーとなることを「天命」(原文強調, Destiny)が決定づけているようです。世界がこの義務を我々に課し、我々がその仕事を引き受け、責任を持っている今、引き返すことはできません。我々が笑い者になり、非難されてしまいます。 アメリカ政府はここまで来てしまったのだから後退することはできません。エネルギッシュな行動という我々の性質を維持するためにも進まなければなりません。たとえ出来事の流れや時代状況がそれ[日本遠征]を必要としていなくても。(中略)((注1), p.552) イギリス政府による中国の開港は今世紀にこの国が行った最も人道的で役立つ行動だと証明されています。そしてキリスト教ミッショナリーが達成した時代より、中国をキリスト教化し続け、中国人のモラルと社会状況を改善し続けるでしょう。(中略) したがって、合衆国が「できれば平和的、必要なら武力で」(原文強調)、この「奇妙な政府」(原文強調)の海岸を絶えず通るアメリカ国旗を掲げる多くの船や捕鯨船その他に避難場所としての港を確保することは緊急でのっぴきならぬ必要性です。(p.553)「天命」は「明白な天命」(Manifest Destiny)とも訳され、アメリカが太平洋岸と太平洋に向かって領土拡大するスローガンとして使われていた概念です(注3)。『アメリカ合衆国の条約』で、上記の書簡の次に掲載されている書簡(ミシシッピー号上、マデイラ発、1852年12月14日付)で、ペリーは「日本政府が本州の港を開港することに反対し、武力を使って流血なしには占領できないとしたら日本の南の島を艦隊の中継地とする」(p.554)と述べて、琉球諸島の中心的港の占領を示唆しています。 これらに対するアメリカ政府からの回答はフィルモア大統領政権が終わる2,3日前に国務長官エヴェレットから出された1853年2月15日付の手紙だとして掲載しています。ペリーの12月14日付の手紙は海軍省長官から国務長官に、そして大統領に提出され、以下の指示が大統領から出たと記されています(p.556)。
- 日本の開港が武力行使なしに達成できない場合は、他の場所を探すべき。 大統領は琉球でこの目的を達成するという貴官の考えに賛成する。 この単純で戦争を好まない人々に対する貴官の男たちの暴力と略奪を防ぎ、禁じること。 この人々の中に貴官が現れることが彼らにとって利益であり悪ではないことを最初から示すこと。 武力は自衛のためと自己防衛でどうしてもという場合以外は決して使ってはならない。
英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-14)
1853年にアメリカ海軍省長官がペリー提督に日本に兵隊を上陸させるなと叱責した時に、”prudence”をどういう意味で使ったのか、現在はどう使われているのか探ってみました。
「過度な賢慮を行使してはならない」の意味は何か
強力な海軍は平和の手段だという信念のドビン海軍省長官を怒らせた(6-6-13参照)ペリーの報告書(1853年8月3日サスケハナ号海上にて、報告書番号No.17)の中で前節にあげた箇所以外を探ってみます。海軍省長官が危惧したのが、ペリーが軍隊を上陸させて侵略行為をするのではないかという点と、日本側を恐怖に陥れて目的を達成すると豪語している点です。 あるいは、ペリーの名前で皇帝[将軍]に送った手紙の内容も指しているのかもしれません。これも自分は日本の皇帝を脅したという自慢の種のように、海軍省長官宛の書簡と一緒に送っています。1853年7月7日付の文書((注1), pp.55-57)ですが、『ペリー提督日本遠征記』(上)に掲載されているものの日付は7月5日となっています。フィルモア大統領[1853年時点のピアス大統領の前任者]からの親書にはない、挑戦的な箇所を引用します。このように、合衆国と日本は日に日に相互に近づいているので、大統領は陛下と平和的かつ友好的に共存することを望んでいますが、日本がアメリカに対して仇敵のようにふるまうのをやめなければ、友好は永続することができません。(中略) 本書状の署名者は、いま誠意を尽くして行われている友好の提案に、日本政府が快く応じることにより、両国間の非友好的な軋轢を避ける必要を察知されるであろうとの希望を抱いて、以上の論拠を提起します。ペリーによる注:前述の内容は海軍からの私宛の指示で使われた文章の内容を含んでいます。((注2), pp.606-607)最後の「ペリーによる注」は1853年8月3日付海軍省長官宛の報告書にも挿入されていますが、ペリーが海軍省から受け取った指示文書は掲載されていないので、「日本がアメリカに対して仇敵のようにふるまうのをやめなければ」とか「両国間の非友好的な軋轢を避ける必要」とかの文言が海軍省から指示された文章なのかはわかりません。
海軍省長官宛報告書・『ペリー提督日本遠征記』・『ペリー日本遠征随行記』の違い
ペリーからの海軍省長官宛報告書には香山栄左衛門らの態度などについてはペリー自身が見ていないので書かれていませんが、不思議なことに大統領の書簡が入った「立派な箱」の「精巧な細工と豪華さに大いに感銘を受けたようだった」(『ペリー提督日本遠征記』(上)p.560)という点だけは海軍省長官に直接報告しています。1853年8月3日付の報告書でペリーは「明らかに閣下[香山]を驚かせた」((注1), p.47)と書いています。この場で実際に香山の反応を見たアメリカ側通訳のサミュエル・ウィリアムズが正反対のことを書いているので(1-2参照)、再度掲載します。手紙のオリジナルと翻訳が入った箱を彼らに見せると、感心した様子はほとんど見せなかった。そして、そのような箱と皇帝宛の手紙を運ぶために、なぜ4隻も船をよこしたのか知りたいと言った。「皇帝に敬意を表するため」という理由を告げると、彼らの表情からは、こんな武力の理由について疑いがますます募ったようだった。(中略)この会談の間中、日本人の態度は威厳があり沈着冷静だった。オリジナル:The originals of the letter and credence were then shown them, and also the package containing the translations; they showed little or no admiration at them, but wished to know the reason for sending four ships to carry such a box and letter to the Emperor; yet whether the reason assigned, “to show respect to him,”続きを読む
英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-13)
ペリーは第一回日本遠征の帰路、報告をアメリカ海軍省長官に送りますが、長官の回答は「貴官に宣戦布告の権限はない」という趣旨の叱責に近いものでした。
ペリー艦隊は攻撃態勢だった
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(1853年10月31日、6-6-12参照)によるペリーの第一回日本遠征報道には、ペリー艦隊が攻撃態勢にあったことが読み取れます。ペリーの日本遠征の正式記録にもはっきりと攻撃態勢に入っていたことが書かれていますが、ペリー自身が海軍省に宛てた報告書(1853年8月3日サスケハナ号海上にて、報告書番号No.17)から抄訳します。内容は公刊された報告書とほぼ同じですが、個人の報告書はペリーの一人称であり、彼の性格が表れています。[到着時7月8日] 私は、沿岸に到着する前に、私に課せられたデリケートで責任ある任務を遂行するにあたり、私が不屈の精神で推し進めるべき道について十分に考え、決意していました。(中略)武力で上陸するかはその後の出来事の進展次第で決めることにしました。この意図を遂行するために、私は乗組員に十分演習させ、船を実戦の時と同じように完璧な準備態勢にしておきました。このように、私はどんな不測の事態にも備えていました。((注1), p.45)
ペリー艦隊の攻撃準備を確認した佐久間象山
日本側でこの攻撃準備態勢を確認していたのは佐久間象山でした。幕府に伝わった黒船来航の第一報(1853年7月8日:嘉永6年6月3日午後10時過ぎ)を幕閣の川路聖謨(としあきら)は、すぐに友人で海防策の第一人者だった佐久間象山に伝えました。意見を聞きたかったようです。象山はその真夜中、自分の藩・松代藩邸に駆けつけ、家老から「浦賀へ急行せよ」という藩命を出してもらい、7月9日早朝に浦賀に発ち、夜到着、翌10日(嘉永6年6月5日)早朝、丘の上から勝海舟から譲り受けた望遠鏡で艦隊を観察します。「蒸気船の構造と原理を事前に了解していた」((注2), p.345)象山は、大砲の数と戦闘準備を終えていることを確認しました。乗員の数が4隻合わせて2,000人、砲窓を開いて発射準備が整っていること、西洋の大砲の射程距離が3.5kmに達していること、日本の砲弾は2kmにしかならないことも知っていた象山は、戦争にならないと瞬時に悟ったのです。ペリーの挑発行為を叱責した海軍省長官
ペリーの海軍省長官宛報告書は、アメリカ議会で1854年12月6日に日本遠征に関する全ての通信文書を開示せよと決議された結果、ピアス大統領(Franklin Pierce: 1804-1869, 大統領在任:1853-1857)が1855年1月31日付の文書と共に議会に提出し、明らかにされたものです。「大統領のメッセージ」という題名の文書で大統領が議会の要望に言及し、関係文書を議会に提出すると述べています。議会の目的はこの遠征が国益と相容れない点があるか検証するためと書かれています(注1, p.1)。1月31日の上院の開会中にこの文書が届いたと『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が伝えています(注3)。これらの文書がハーティトラスト・デジタル・ライブラリーに掲載されています。 ペリーから第一回遠征の報告を受け取った海軍省長官は叱責に近い注意をペリーに書いています。ペリーが自分の挑発行為を自慢気に語った報告書に怒りを覚えているような海軍省長官の受け止め方が現れているように感じます。1853年11月14日付、海軍省長官からペリー提督宛の書簡から抄訳します((注1), pp.57-59)。適宜、本文にない小見出しを付けます。訳者解説 続きを読む貴官のミッションが平和的な交渉であることを思い出せ
貴官からの1853年8月3日付の数通の報告を受け取りました。全て大統領に提出され、大統領は貴官の興味深いミッションが成功したことを喜び、法律で許される限りの援助はするとのことです。偉大な結果を手に入れなければならないが、それは合衆国にとって益するだけでなく、日本にとって悪いものであってはならないというのが大統領の信念です。 貴官のミッションが平和的交渉であること;日本の特異な性格を考慮し、我が国の偉大さと軍事力を印象付ける示し方をする重要性はあるとしても、自衛以外の暴力は決して使ってはならないことを再度確認する必要はないでしょう。宣戦布告の権限は議会にある
我が海軍を貿易と商業の拡張と護衛のための政府の効率的な一支部機関にすることは非常に望ましいことですが、宣戦布告をする権限を持つのは議会だけですから、たとえ、貴官が従事している偉大な仕事においても、過度な賢慮を行使することはできません(訳者強調)。 これらの提言は貴官の賞賛すべき熱意をそぐためでも、貴官のミッションの規模を縮小するためでもありません。貴官の判断と愛国心にはあらゆる信頼が置かれています。しかし、貴官の興味深い報告の一部がこの提言をする理由です。その中で貴官は日本人の恐怖心を利用して春に成功をもたらすと期待していると表明しています。しかし、同時に[日本の]岸には「アメリカを追い出す」ために多くの砲台が建設され、春までには更なる砲台が建てられる可能性があり、日本が貴官を好戦的に迎える準備をしているという意見もほのめかしています。 以下が私が引用した貴官の報告の一部です。(中略:ペリーが描写する浦賀の様子)「しかし、私が持てる軍事力、特にヴァーモント号の助けがあれば、江戸から3,4マイル、多分、射程距離内まで湾の奥に侵入するのを阻止されることはないでしょう」。「日本人には恐怖心の影響を通してしか道理をわからせることができないのは確かです。海岸線が完全に強大な海軍力の手中にあると悟ったら、我々の要求全てに譲歩すると私は自信を持っています。たとえ、彼らに条約締結させられなくても、今後日本の海岸に打ち上げられた外国人が親切に扱われることは確かです」。(原文の注:この抜粋は議会に送られなかった機密書類からコピーした)挑発もしていない遠くの国にアメリカ軍を上陸させることを議会は承認しないだろう
もし海軍省が私の前任者のように、貴官の艦隊にヴァーモント号を加えたいと思っても、これはできません。船員を獲得することができないからです。乗組員のいる船を送ることもできません。他のところで緊急に必要とされているからです。(中略) 大統領はこの艦隊[蒸気軍艦2隻、スループ軍艦3隻、補給船]があらゆる自衛目的にも、日本人にいい印象を与えるためにと企てられている軍事力の誇示にも十分な艦隊だという意見です。また、貴官のミッションを達成するためにも、海軍の軍事力が達成できる限りにおいても十分です。大人数の兵士を上陸させて侵略を考えているのでない限り、そもそも、賢明な議会はこれほど遠くの国で、大きな挑発もないのに兵隊を上陸させ侵略することを認めることはないと私は推測します。(中略) 大統領は貴官がここまで進めたのだし、貴官が来春戻ると発表してしまったから、貴官が日本に行って日本の冷遇的、非社交的な制度を捨てるよう説得し、友好通商条約を達成するために名誉ある妥当な努力をすることを望んでいます。
アメリカ人の浦賀上陸
江戸湾にて
カナカ人の村 ボニン諸島
ウォルター・スコット『湖の麗人』
英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-12)
ペリーの第一回日本遠征から3ヶ月後に、その概要が『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(1853年10月31日)に掲載されました。アメリカの一般読者が最初に接した日本遠征の報告です。 KANAKA VILLAGE BONIN ISLANDSカナカ人の村 ボニン諸島((注1), p.205)
訳者解説:ペリー一行が会ったヨーロッパ人の住民というのは、『DAYS JAPAN』2016年12月号の記事によると、父島に1830年に「ハワイからやって来た欧米人5人とハワイ人20数人」というのと年代も人数もアメリカ捕鯨船の船員だったことと符合します。この子孫は今では「欧米系日本人」だそうです(注3)。小笠原諸島の統治者・所有者はスコットランド人
1853年10月4日(NYDT):「日本遠征からの非常に興味深い情報」(注2)
合衆国の遠征隊は7月3日に日本に向けて琉球を出発した。提督の艦隊はサスケハナ号・プリンスタウン号・プリマス号・サラトガ号で、ポーハタン号とバンデーリア号が続く。 7月9日の北中国『ヘラルド』が以下の記事を掲載した。 「個人的な情報によると、合衆国艦隊は那覇港近海で、サスケハナ号とサラトガ号が東方面を巡航し、美しい数島に寄港し、そこで家畜を供給した。また、ボニン島(小笠原諸島)と呼ばれる島にも寄港した。驚いたことに、ヨーロッパ人の住民がいた。イギリス人・スコットランド人・アイルランド人・スペイン人で、捕鯨船を離れて、この島で暮らすようになったという。その中には女性が11人いた。この島の統治者はスコットランド人で、島が自分の所有だと主張した。20年ここに暮らしているという。子どもが数人いて、その1人はサスケハナ号が到着する2,3日前に溺れ死んだそうだ。 提督は10エーカーほどの土地を$50で購入した。港の最高の位置にある土地で、[アメリカ]政府の石炭貯蔵庫にするという。この島は山が多く、港は素晴らしい。ロブスターやザリガニなどの魚介類が豊富で、陸地には野生のヤギがいたるところに見られる。プラム・バナナ・プランテン、その他フルーツのバラエティも多い島である。 ロシア戦艦パラス号とブリッグ戦艦がアメリカ艦隊のすぐ後を追っている。
小笠原諸島をめぐり、英米が領有権を主張
ペリー自身が1856年3月6日に「アメリカ地理・統計協会」で行った講演によると、小笠原諸島の植民地化を考えていたようです。以下のようなことを述べています。この広大な海に散在している数多くの島が野蛮人の管理不行き届きで生産性のないままでいるとは考えられない。そんなことは世界史が禁じている。現時点では、どうやって原住民たちを片付けるか、正当な方法か不当な方法でかは現時点では知り得ないが、彼らは我が国の赤い同胞[アメリカ・インディアン]の悲しい運命のように、他人種に譲るか、混じり合うかが運命付けられている。 しかしボニン諸島の居留地では誰の権利も邪魔されずに、土地を手に入れたり、すでにここにいる居住者から買い取ることができる。([ref]”A続きを読む
英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-11)
ペリー艦隊が浦賀に現れた頃、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』は「アジアの運命」と題した記事で、ヨーロッパ列強の侵略によって日本以外アジアと呼べる国は残っていない、アメリカは「破滅の貿易」で日本を侵略すべきではないと訴えます。
1853年6月9日(NYDT):「中国の反乱—フランスとイギリス—日本遠征」(注1) アメリカ海軍プリマス号に乗船している士官からの3月24日付・香港発の手紙によると、目下世界中の関心は反乱だ。中国当局の要望に従って、イギリスは政府軍を支援するために蒸気軍艦2隻とブリッグ艦を派遣した。サスケハナ号は上海に送られた。この士官は「今季は日本に行けないと思う。艦隊は7月まではここ[香港]に到着しないだろう。そして8月までに準備が整わないだろう。この頃の海岸は非常に危険だから、遅れは必須だろう」と書いている。—『フィラデルフィア・インクワイラー』6月2日より
アジアの運命
以下の記事はレトリック的にわかりにくい部分もあり、長いのですが、日本にも言及しているので、原文にない小見出しを付けて、大半を訳します。1853年7月8日(NYDT):「アジアの運命」(注2)職名が”ographer”で終わる全ての紳士たち—歴史学者(historiographers)、民族学者(ethnographers)、地理学者(geographers)—は古い世界の最古の大陸の現況と見込みに妙な興味を感じるべきだ。アジアは実際にその子どもたちによって貪り食われている。人間は自分たちの原始的な家を取り壊すのに忙しい。国々のゆりかごを彼らは薪として燃やすために粉々に打ち壊している。それは彼ら自身の野望の喧嘩を燃え上がらせるかもしれない。
ロシアとイギリスの中近東征服合戦
300年少し前、ロシアはその幼児的食欲をシベリアに向けた。北のあの巨大な地域にはブッダやダライ・ラマやイエス・キリストの弟子たちが今では溶け合って仲間になり、彼らの祈りが混じり合って彼らの神々とツァーに捧げられている。エカテリーナ2世の治世[1762-96]はアジア併合の精神の再生を目撃した。ペルシャに向かって、ロシア国境はピョートル大帝の時代[1682-1725]から1000マイルも進んだ。 実際、ペルシャはイギリスとロシア軍の二つの侵略の海に挟まれた地峡に過ぎない。大陸で唯一と言っていい優れた外交の場はテヘランにある。そこではイギリス王室の使節団とツァーの使節団が崩壊寸前の王国のわずかでも得ようと取っ組み合い、お互いにそれぞれの飽くなき欲望に油断なく抵抗している。イギリスは特にロシアのフロンティアがインダス川の岸で自分の領土と向かい合うのを見るのに反対している。そしてシリアと小アジア[現在のトルコ]、現在ツァーによって私物化されている宗教的権威は基本的にこの歴史上の地域全体の征服である。なぜなら、もし強力で精力的なキリスト教国が、外国の政治的統合体への干渉になるからと、外国の宗教的影響の侵略を不安な思いで見るだけだったら、老衰の最後の段階にあったトルコ国家にとっての危険はもっと大きかった!(原文強調)インド・中国・ビルマの運命
南方では、イギリスは味のよい古いスティルトン・チーズ[イギリスのブルーチーズ]を齧る大きなネズミのように、大陸に食い込んでいる。インド半島の王国と地方と町が次々と獲得されている。この専有の多くは武力と軍隊によって成し遂げられ、また多くは絶え間ない陰謀と統御によって達成した。イギリス人の友情は銃剣よりももっと致命的だったのだろう。(中略) パンジャブ地方の征服と割譲は昨日のことだ。今日我々が知ったのはニザーム王国[インド中南部のムスリム王国]の領土が主に綿栽培のために確保されたことだ。ビルマは併合の過程にある。その重要な地域はすでに併合された。中国は1839年に罠に落とされ、文明化とキリスト教化の影響に晒されている。その影響には年間100万ポンドのアヘンが含まれ、決定的な治療の前段階とされている。太陽と月の前現世的帝国の崩壊は実際に全速力で進んでいる。中国帝国が自殺的精神で自分に損害を負わせ、残ったものは外国の貿易商たちが手ぐすね引いて待っている。イギリス・アメリカ・ロシアが残った破片を集めて、自分たちのための属国を再建しようと辛抱強く待っている。日本以外のアジアは西洋による破滅の貿易に一掃された
海岸線周辺の島々に関しては、既にずっと昔に西洋の国々、オランダ・スペイン・ポルトガル・イギリスに分割されている。日本列島だけが取り残されているが、それは日本の疑い深い慎重さが西洋諸国の破滅の商業的開始を除外してきたからだ。日本の仲間たち全てはこの破滅の商業に一掃されてしまった。 読者がまともな地図を目の前にして、アジアの中でヨーロッパに侵略されていない部分、そして実際に占有された部分と占有されつつある部分を赤線で印をつけたのを見れば、今でも土着のアジアだというものの少なさと無価値さについてわかるだろう。貿易と政策はアレクサンドロスやジンギスカンやタメルラン[ティムール]などの強力な征服者に勝るとも劣らない。(後略)
日本遠征には1隻の船で十分だ
以下の記事は中国における反乱軍の動向についてですが、ペリー艦隊の動きについての批判があるので、その部分を紹介します。訳者解説:この記事は上記の記述で始まっていますが、主には中国の反乱軍の鎮圧に関する英米の対応の違いに関する特派員の意見です。見出しの意味は、次のコメントに集約されています。1853年7月12日(NYDT):「南京は反乱軍の手に落ちた」(注3)香港から『アトラ・カリフォルニア』宛の4月24日付の手紙が以下を伝えている。
上海には合衆国の蒸気船サスケハナ号とイギリスの戦艦3隻、フランスの戦艦1隻が[上海の外国人を守るために]いる。 ペリー提督は現在ミシシッピー号とサラトガ号と共に香港にいる。艦隊を自分の指揮下に集結させるのを待たずに、即刻(原文強調)上海と日本に向けて出発するつもりだ。この動きは問題だ。日本の予想に反するからだ。日本は我々の動きを全て掴んでいるから、結果的にきっと我が国の遠征が完全な失敗に終わるだろう。これとは別に、[中国で]騒乱が起こった場合、アメリカの権益の保護を他の友好国に任せる(原文強調)ことになり、それは全くあり得ない。この拙速な動きは、多分彼が自分を東インド艦隊ではなく、日本遠征の指揮官だと考えているからだろう。または、ワシントンの新政権がこの贅沢な遠征を中止することを見込んでいるからだろう。どんな実行可能な目的であれ、1隻の船で十分なのだから。アンクル・サムは十分な軍艦を持っていない
1853年7月22日(NYDT):「アンクル・サムは十分な軍艦を持っていない」(注4)
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員:ワシントン発、1853年7月20日 今夜電報を送るのは、ペリー提督の艦隊が日本への最初の訪問からマカオに多分10月に戻り、来春この旅を繰り返すつもりだと伝えるためである。
[イギリス海軍の]セイモア提督は母国政府から大西洋で隔てられているにもかかわらず、自分の指揮下で600砲以上の艦隊を3週間で集結させられる。一方、我が国の首都からの距離は1週間なのに、[イギリスと]同じ期間に我々ができるのは、110砲を集めるのがせいぜいだ!(原文強調)続きを読むアメリカが日本を植民地化するなら、イギリスのジャワ統治より経済的・効率的にできる
1853年8月16日(NYDT):「中国:反乱軍の進展—合衆国艦隊の動き」[ref]”Further Accounts of the Progress of the
英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-10)
ペリー第一回日本遠征で幕府に受け取りを強要したアメリカ大統領国書を起草した元国務省長官エヴェレットが遠征直前にニューヨーク歴史協会で「アメリカの植民地化」について講演しました。先住民族の制圧や他国との戦争で「広大な領土」を獲得し、成功したアングロ・アメリカンを誇らしく語っています。
前政権が計画したペリー日本遠征を現政権は無効にしたいのか?
1853年5月27日(NYDT):「リンゴールド大佐の探検遠征隊」(注1)
探検あるいは調査遠征が我が国からこれほど興味深く、広大で、またほとんど知られていない地域に出発したことはない。その結果を商業界も科学界も心配とともに深い関心を持って待ち望んでいる。多くの人はこれが長いこと話題になっている日本遠征だと思っているが、この探検遠征隊は日本遠征とは関係ない。(中略)リンゴールド遠征隊の目的は北太平洋と周辺の島々を調査することである。(中略) この遠征とペリー提督の日本遠征は前政権が計画し準備したものである。前政権のしたこと全てを無効にしたいという現政権の野望が、これらの遠征を解散しようとするのではないかと心配してきた。(中略)アメリカの人々は今ではこの二つの偉大な海洋遠征に大きな関心を持っているので、それを撤回するのは政府が採る手段の中で最も人気のないものになる。
アメリカの発見と植民地化
以下の記事は日本遠征のために、国務長官時代に将軍宛の国書を書いたエドワード・エヴェレット(Edward Everett: 1794-1865)が1853年6月1日にニューヨーク歴史協会(New York Historical Society)で話した講演記録です。とても長いので特徴的な箇所だけ抄訳します。日本遠征には言及していませんが、現在につながる価値観が見られます。
1853年6月2日(NYDT):「アメリカの発見と植民地化」(注2)
16世紀を通して、スペインとポルトガルが南米全体と北米の大きな部分を植民地化した。原住民部族は最初の絶滅事業の後、生き残った者たちは強制労働の奴隷に貶められることにより、破滅から救われた。戦闘的な部族の子孫は魂を抜かれ、意気消沈して、今やペルーとメキシコの森林伐採や水汲みをしている。 17世紀を通して、フランスとイギリスが北アメリカのスペイン領でない部分全てを領有した。イギリスは海岸沿いに展開した。フランスは一時的目的のためには、野蛮な部族[先住民族]とのコミュニケーションに世界のどの国よりも優れていたが、新国家を建設するための威厳ある手法には欠けていた。 大西洋側と最初に移植された植民地とイギリスが獲得した植民地で17世紀の偉大な仕事がゆっくりと、労力をかけて、効果的に行われ、我々が誇り愛するアメリカと人類の奇跡が行われ、その規模は我々でさえかすかに想像できる程度だ!(原文強調) *植民地間の政治的関係は最初から侵略と抵抗の連続だった。野蛮人との衝突、フランスとスペインとの戦争、隣の植民地との衝突と確執などがあった。
アングロ・アメリカン植民地の成功の理由
アングロ・アメリカン植民地の発展に寄与したのは、政府の呼びかけではなく、個人によって、植民者組織ではなく、個人の移住で植民地化したことである。合衆国は個人によって、多くの場合、迫害された男女が避難地とわが家を求めて海を渡ってきて成り立った国である。17・18世紀のヨーロッパは次から次と政治的宗教的惨事があり、その犠牲者がアメリカ大陸に安住の地を求めたのだ。 1624年にマンハッタン島をインディアンから$24で購入した。2,2000エーカー[約8900ヘクタール]の広さにしては、かなり安い。5番街の一等地の1000エーカーが1ドルというのは本当に安い。2,3日の単純労働で広大な農地が買えるという点で、アメリカは「希望の地」になった。1840年から50年の10年間でアメリカの人口は600万も増えた。 1775年の植民地の反乱と1776年の独立宣言、1783年のパリ条約でアメリカの独立が認められ、ヨーロッパ全域で多分初めてアメリカのことを聞き、途方もない夢が叶う所として知られるようになった。和平が達成してすぐに、ニューヨーク州の600万エーカーを、1エーカーにつき2,3セントで手に入れた者がいた。
先住民族を制圧して広大な領土を獲得
南西部のインディアンは制圧され、北西部のフロンティア地域で政府軍は最初は[インディアン軍に]敗北したが、1795年にグリーンヴィル砦の条約でインディアンから[後にオハイオ州・インディアナ州・イリノイ州・ミシガン州にあたる地域を]割譲した。この地域への移民が流れ込んだ。1812年の[米英]戦争はインディアン部族を北西部の州に追いやり、2,3年後のジャクソン将軍の戦闘は南部フロンティアのインディアンを破った。フロリダは1819年にスペインから取得し、その10〜12年後にジョージア・アラバマ・ミシシッピーのインディアンはミシシッピー川の西に追いやられた。ウィスコンシンで1833年にブラック・ホーク戦争が起こり、インディアンとの数々の条約で、インディアンはミシシッピー川の東の土地全ての権利を失った。1845年にテキサスが併合され、1848年にニューメキシコとカリフォルニアが我が国の広大な領土に追加された。
ケルト人種大移動
合衆国への移民はアイルランドやスコットランド・ハイランドのケルト人種から構成されている。情熱的で想像力豊かで、それに多くが抑圧された人種だ。この偉大なケルト人種は歴史に現れた最も素晴らしい人種の一つだ。彼らの先祖が2000年間しがみついていた土地から追われて、ケルト人種の歴史上、彼らは初めてこの異国人の国で本当の我が家を見つけた。そしてこの国が本当に繁栄していると知ったのだ。 この「ケルト人大移動」(原文強調”Celtic Exodus”)と適切に表現されている現象は最も重要な出来事になった。移民者自身にとっては死から生への移動だった。アイルランドにとっては余剰人口の減少は資本と労働の関係を健全で正当な状態に戻すという利益があった。イギリスでは国内の原住民[イギリス人]人口と姉妹国アイルランドの人口との衝突により、労働者の給料が飢餓レベルに抑えられていたので、イギリスの労働者階級にも利益だった。新しい国で一番欠けているのは頑丈で有能な働き手で、それが絶えずアメリカに流入してくるので、この国の価値を高めた。あらゆる種類の民間企業と公共事業を実行するのを容易にし、促進した。