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2019-11-04

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-10)

ペリー第一回日本遠征で幕府に受け取りを強要したアメリカ大統領国書を起草した元国務省長官エヴェレットが遠征直前にニューヨーク歴史協会で「アメリカの植民地化」について講演しました。先住民族の制圧や他国との戦争で「広大な領土」を獲得し、成功したアングロ・アメリカンを誇らしく語っています。

前政権が計画したペリー日本遠征を現政権は無効にしたいのか?

  • 1853年5月27日(NYDT):「リンゴールド大佐の探検遠征隊」(注1)

 探検あるいは調査遠征が我が国からこれほど興味深く、広大で、またほとんど知られていない地域に出発したことはない。その結果を商業界も科学界も心配とともに深い関心を持って待ち望んでいる。多くの人はこれが長いこと話題になっている日本遠征だと思っているが、この探検遠征隊は日本遠征とは関係ない。(中略)リンゴールド遠征隊の目的は北太平洋と周辺の島々を調査することである。(中略)

 この遠征とペリー提督の日本遠征は前政権が計画し準備したものである。前政権のしたこと全てを無効にしたいという現政権の野望が、これらの遠征を解散しようとするのではないかと心配してきた。(中略)アメリカの人々は今ではこの二つの偉大な海洋遠征に大きな関心を持っているので、それを撤回するのは政府が採る手段の中で最も人気のないものになる。

アメリカの発見と植民地化

以下の記事は日本遠征のために、国務長官時代に将軍宛の国書を書いたエドワード・エヴェレット(Edward Everett: 1794-1865)が1853年6月1日にニューヨーク歴史協会(New York Historical Society)で話した講演記録です。とても長いので特徴的な箇所だけ抄訳します。日本遠征には言及していませんが、現在につながる価値観が見られます。

  • 1853年6月2日(NYDT):「アメリカの発見と植民地化」(注2)

  • 16世紀を通して、スペインとポルトガルが南米全体と北米の大きな部分を植民地化した。原住民部族は最初の絶滅事業の後、生き残った者たちは強制労働の奴隷に貶められることにより、破滅から救われた。戦闘的な部族の子孫は魂を抜かれ、意気消沈して、今やペルーとメキシコの森林伐採や水汲みをしている。
  • 17世紀を通して、フランスとイギリスが北アメリカのスペイン領でない部分全てを領有した。イギリスは海岸沿いに展開した。フランスは一時的目的のためには、野蛮な部族[先住民族]とのコミュニケーションに世界のどの国よりも優れていたが、新国家を建設するための威厳ある手法には欠けていた。
  • 大西洋側と最初に移植された植民地とイギリスが獲得した植民地で17世紀の偉大な仕事がゆっくりと、労力をかけて、効果的に行われ、我々が誇り愛するアメリカと人類の奇跡が行われ、その規模は我々でさえかすかに想像できる程度だ!(原文強調)
  • *植民地間の政治的関係は最初から侵略と抵抗の連続だった。野蛮人との衝突、フランスとスペインとの戦争、隣の植民地との衝突と確執などがあった。

アングロ・アメリカン植民地の成功の理由

  • アングロ・アメリカン植民地の発展に寄与したのは、政府の呼びかけではなく、個人によって、植民者組織ではなく、個人の移住で植民地化したことである。合衆国は個人によって、多くの場合、迫害された男女が避難地とわが家を求めて海を渡ってきて成り立った国である。17・18世紀のヨーロッパは次から次と政治的宗教的惨事があり、その犠牲者がアメリカ大陸に安住の地を求めたのだ。
  • 1624年にマンハッタン島をインディアンから$24で購入した。2,2000エーカー[約8900ヘクタール]の広さにしては、かなり安い。5番街の一等地の1000エーカーが1ドルというのは本当に安い。2,3日の単純労働で広大な農地が買えるという点で、アメリカは「希望の地」になった。1840年から50年の10年間でアメリカの人口は600万も増えた。
  • 1775年の植民地の反乱と1776年の独立宣言、1783年のパリ条約でアメリカの独立が認められ、ヨーロッパ全域で多分初めてアメリカのことを聞き、途方もない夢が叶う所として知られるようになった。和平が達成してすぐに、ニューヨーク州の600万エーカーを、1エーカーにつき2,3セントで手に入れた者がいた。

先住民族を制圧して広大な領土を獲得

  • 南西部のインディアンは制圧され、北西部のフロンティア地域で政府軍は最初は[インディアン軍に]敗北したが、1795年にグリーンヴィル砦の条約でインディアンから[後にオハイオ州・インディアナ州・イリノイ州・ミシガン州にあたる地域を]割譲した。この地域への移民が流れ込んだ。1812年の[米英]戦争はインディアン部族を北西部の州に追いやり、2,3年後のジャクソン将軍の戦闘は南部フロンティアのインディアンを破った。フロリダは1819年にスペインから取得し、その10〜12年後にジョージア・アラバマ・ミシシッピーのインディアンはミシシッピー川の西に追いやられた。

    ウィスコンシンで1833年にブラック・ホーク戦争が起こり、インディアンとの数々の条約で、インディアンはミシシッピー川の東の土地全ての権利を失った。1845年にテキサスが併合され、1848年にニューメキシコとカリフォルニアが我が国の広大な領土に追加された。

ケルト人種大移動

  • 合衆国への移民はアイルランドやスコットランド・ハイランドのケルト人種から構成されている。情熱的で想像力豊かで、それに多くが抑圧された人種だ。この偉大なケルト人種は歴史に現れた最も素晴らしい人種の一つだ。彼らの先祖が2000年間しがみついていた土地から追われて、ケルト人種の歴史上、彼らは初めてこの異国人の国で本当の我が家を見つけた。そしてこの国が本当に繁栄していると知ったのだ。

     この「ケルト人大移動」(原文強調”Celtic Exodus”)と適切に表現されている現象は最も重要な出来事になった。移民者自身にとっては死から生への移動だった。アイルランドにとっては余剰人口の減少は資本と労働の関係を健全で正当な状態に戻すという利益があった。イギリスでは国内の原住民[イギリス人]人口と姉妹国アイルランドの人口との衝突により、労働者の給料が飢餓レベルに抑えられていたので、イギリスの労働者階級にも利益だった。新しい国で一番欠けているのは頑丈で有能な働き手で、それが絶えずアメリカに流入してくるので、この国の価値を高めた。あらゆる種類の民間企業と公共事業を実行するのを容易にし、促進した。

現在のエヴェレット評価

 エヴェレットは今では、リンカーンの「有名な2分のゲチスバーグ演説」[1863年11月19日]の直前に2時間以上の長演説を行ったことで知られていると、アメリカ国立公文書館のサイトで皮肉に述べられています(注3)。エヴェレットはアメリカの労働力としてのスコットランド・ハイランダー(スコットランド北部高地人)に着目しています。しかし、労働力として貢献していたアフリカ系奴隷について一切言及していません。まるで人間として存在していないかのようです。また、スペインの南米植民地化の過程で殺戮した先住民に関しては同情的なコメントをしているのに、アメリカの先住民については、アメリカが戦争して制圧した成功談としてしか描いていません。この価値観が現在に続いているような事件がいまだに起きています。そして、日本も北海道のアイヌ民族に対して同じことをしてきたことを思わされます。

スコット作『湖の麗人』からの引用について

 エヴェレットは1853年6月1日の講演でスコットランド人の否定的な側面を強調するために『湖の麗人』から引用しています。アメリカ発見までのヨーロッパの歴史を述べる中で、ガリア人[ケルト系]とゴート人[古ゲルマン民族]の侵略について、「彼らはスコットランドのハイランド盗人首領の単純な哲学を採用した」と述べて、以下の詩を引用しています。

Walter Scott, The Lady of the Lake, Illustrations by C.E. Brock(注4)

Pent in this fortress of the North,
Think’st thou we will not sally forth,
To spoil the spoiler as we may,
And from the robber rend his prey?

この北辺の砦に押し込められた我々とても、力の及ぶ限り略奪者から奪い返し、盗られたものを取り返えすためには、山奥から跳び出さずにはいられないのだ。((注5), p.157)

 これはウォルター・スコット(Walter Scott:1771-1832)の『湖の麗人』(The Lady of the Lake, 1810)からの引用です。入江直祐訳(1936)では散文に訳されていますが、原文は全部詩の形式です。この作品は明治時代から翻訳され、『湖上乃美人—今様長歌』(1894:明治27)が国立国会図書館デジタルコレクションで全文見ることができます(注6)

 エヴェレットは「スコットランドのハイランド盗人首領の単純な哲学」と前置きして、この部分だけ引用していますが、その前後の部分を読めば、「盗人」の意味がわかります。サクソン人騎士とハイランドのケルト人騎士とのやり取りで、ハイランダーの台詞です。

サクソンの御方、君があの高い峰から遠く東南を望んだ時、穂波のなびく田園や緑色の牧場や、ゆるやかに起伏する丘や点綴(てんてつ)する樹立などが眼下に広がっているのを見て、嬉しそうな顔をしていたな—あの豊穣な野原も肥沃な平野も、大昔は我々ケルト民族が永年受け伝えた持物であったのだが、異種族の奴輩(やつばら)が非道にも我々先祖の国土を強奪してしまったのだ。現在我々の住んでいる所はどうだ。御覧のとおり、岩また岩、沢また沢の荒野原だ。(中略)平野や川の当然の持主である我々ケルト民族は、暴力に訴えても取り返さずにはおかないぞ。((注5), pp.156-157)

ラングとウォルター・スコット

 ラングはこの『湖の麗人』が子ども時代に読んだ最初の詩だったと述べ、自分がスコットに魅了される理由はそれに加えて、自分がスコットが描いたスコットランドのボーダー地方に生まれ、スコットの作品に登場するボーダー地方盗人の子孫だからだろうかと自問自答しています((注7), p.172)。詩人としてのスコットはキーツではない、ワーズワースではないと批判する人がいるがと以下のような異論を唱えています。

彼は彼だ;彼は最後の吟遊詩人だ、自然物に関心を持った自然詩人の中で、最新の最高の最も高貴な詩人である。彼は今でも鮭が豊富な川の自由で荒々しい戦争のような命を歌い、まだ醸造業者に占領されていない時代の湿原を歌い、北の長い灰色の黄昏の中で呪われた寂しい所について歌った。(p.179)

 『湖の麗人』の原作の1904年版にラングの1897年の「編者の解説」((注4), pp.ix-xxii)が掲載されているので、主要点に原文にはない小見出しをつけて抄訳します。

スコットは自分の見た自然を人々にも見えるようにした

 スコットは最初の『最後の吟遊詩人の歌』(The Lay of the Last Minstrel: 1805)で有名になり、『マーミオン』(Marmion: 1808)で人気度の点では、同時代の詩人たちをはるかに超えた。当時ワーズワース[William Wordsworth: 1770-1850]は彼の最高作品をすでに書いていたが評価されていなかった。コールリッジ[Samuel Taylor Coleridge: 1772-1834]については誰も聞いたことがなかった。シェリー[P.B. Shelley: 1792-1822]はまだ無名だった。キーツ[John Keats: 1795-1821]はまだ小学生だった。ワーズワースの秀逸さは、彼がその僥倖にあった時はスコットの秀逸さをしのいでいる。コールリッジが稀にひらめきを得た時は全詩人の中で最も素晴らしくひらめきのある詩人だった。

 我々はコールリッジとワーズワースはスコットより価値があると考えるが、スコットは世界が読み理解することができる詩を世界に与えたという点で、コールリッジとワーズワースができなかったことをしたのである。スコットの単純な目的は「血を沸かせる」ことだった。スコットの目的はワーズワースのように内省を促すことではなかった。また、コールリッジのように神秘的な妖精の音楽で魅了することでもなかった。スコットの目的は騎士道的凛々しいエネルギーと山の美しさの壮観を蘇らせることだった。スコット以前にも山々に目を上げて、その美しさを見た詩人はいた。グレイ[Thomas Gray: 1716-1771]はその1人だったが、「暗い山と栄光の山」(the ‘mountain gloom and the mountain glory’)に人間の視界を開かせることはしなかった。スコットは自分の見たものを人々にも見えるようにした。これがこの詩人の主たる機能である。彼は世界の美の倉庫に追加し、心臓をドキドキさせ、いい物語を語り、自分の成功に満足するだけのあらゆる理由がある。

ハイランドをファッションとして流行させたスコット

 『最後の吟遊詩人の歌』でスコットは自分の祖先の国、ボーダー[イングランドとの国境地域]を賛美した。『マーミオン』では騎士道物語とフロデン・フィールド(Flodden Field)の物語を語った。彼は新鮮なテーマを探して、それを古代の習慣とハイランドの景色に見つけた。この景色は当時、イギリスのスポーツマンと旅行紀行者に知られているだけだった。習慣に関しては、単にスコットランドの野蛮性の衰えつつある残存物として認識されており、1745年[スコットランドの反乱]後はイギリスの政治家たちが「改良」を切に願っていたものだった。1754年に嘆いていた議員が議会で、オックスフォードの店にキルトをはいた若いハイランダーの色鮮やかな柄を見て衝撃を受けたと語った。一般のイギリス人にとって依然として、ハイランダーは格子柄のならず者、乞食のような百姓、さらには略奪者、あるいは風変わりというより汚いという存在だった。

 しかし、スコットにとってハイランドはいつも親しい存在で、彼はハイランドをファッションとして流行させる役割を運命付けられていた。彼が『湖の麗人』を書いたころ、スチュアート王家が死に絶えたばかりだった。ハイランドはイギリスの恐怖の対象でなくなり、クラン[部族]は剣と盾になっていた。1793年にスコットは『湖の麗人』と『ロブ・ロイ』(Rob Roy: 1818)の舞台となったマグレガー・カントリー、奪われたクラン・アルパインの領土を訪れ、材料が集まるとスコットは『湖の麗人』の詩を書いた。スコットの詩で、これほど簡潔で、これほどうまく構築されたものはない。[主人公の]行動はわずか6日間だ。

 賢い読者なら誰でもスコットが、スコットのみがウェイヴァリー小説の作者だとわかったはずだ。これは散文だが、『湖の麗人』と同系の構築のされ方である。同じくハイランドの騎士道、習慣、伝説、寛大な王への好みなどが見られる。ヒーローとヒロインはいつものヒーローとヒロインだ。スコットの小説のほとんど全て、全てと言ってもユーモア以外が『湖の麗人』に存在する。批評家たちはこれが散文で書かれたらと言うかもしれないが、詩のスピード、そして美と魅力は流行の気まぐれのみが嫌い軽蔑するのだ。

 『湖の麗人』はみんなが聞いたことがあるという迎えられ方をした。世界中がマグレガー・カントリー(注8)に殺到し、チャーター馬車の料金が上がった。

ラングの指摘の先見性

 ラングが解説の中で、スコットが「『暗い山と栄光の山』(the ‘mountain gloom and the mountain glory’)に人間の視界を開かせること」をした最初の詩人/作家の1人だと指摘したことは先駆的です。「暗い山と栄光の山」という表現はラスキンの『近代画家論』第5巻(Modern Painters, Vol.5: 1860)の章題からの借用のようですが、この章題を使って「イギリスにおける山の見方の変化」((注9), p.9)を検証した研究書『暗い山と栄光の山—無限性の美学の展開』(1959)ではスコットに言及せず、ワーズワース、シェリー、バイロンなどのロマン派詩人が「自然の崇高」を文学に著した最初の詩人たちとされています。スコット自身はカトリン湖(Loch Katrine)の景色があまりに美しく、自分の思い出にあまりに深く印象付けられたから、『湖の麗人』の詩はスコットランドの自然に対する「愛の仕事」と自著の解説に書いています((注4), p. xxiv)。

「『死なない詩』—アンドリュー・ラングとウォルター・スコットの『不滅の好古学』」(2019)という論文によると、スコットの人気は19世紀末時点でラングが編集した「ボーダー版」スコット全集(48巻, 1892-94)を始め、最初の全集(1829-33)から全部で7種類の全集が手に入り、好みの版を選べるほどの人気度だったそうです((注10) p.53)。最近の研究(2012)でも『湖の麗人』がスコットランド旅行熱、特にカトリン湖に殺到する旅行者現象を作ったとされていますから、ラングの1897年の指摘は先駆的です。

「『死なない詩』」でははもう一つ注目していて、ラングがスコットの作品に好古学への関心が強いことも指摘している点です。考古学が科学であり、一般人には遠い分野であるのに対し、スコットの「好古学」は万人に自然や遺跡を含めてスコットランドの地理的遺産と建築的遺産(城や寺院)に多くの人の目を開かせ、スコットランドの遺物を不滅のものにしたと指摘しています。

 スコットは少年時代からボーダー地方の遺跡や遺物の収集を始め、廃墟の城や崩壊しつつある僧院、発掘した兜や剣などを元に詩と小説を書き、彼の詩と小説は考古学的記録でもあるが、300年間死んでいた考古学的物質ではなく、それらに魂とバイタリティーを与えたとラングは評しています。この詩的考古学には保存効果があり、「科学は進歩し、昔の知識は忘れられるが、詩は死なない」と述べています((注7), p.181)。

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1 ”Capt. Ringgold’s Exploring Expedition”, The New York Daily Times, May 27, 1853, p.3.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1853/05/27/issue.html
2 ”New York Historical Society—The Discovery and Colonizaton[sic] of America—A Lecture by Hon. Edward Everett”, The New York Daily Times, June 2, 1853, pp.3-4.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1853/06/02/issue.html
3 “Edward Everett Papers”, National Archives
https://www.archives.gov/nhprc/projects/catalog/edward-everett
4 Sir Walter Scott, The Lady of the Lake, with an Introduction by Andrew Lang, and Illustrations by C.E. Brock, ”Canto V, The Combat, VII”, James Nisbet & Co., Limited, London, 1904, p.125. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.b3332258
5 スコット作 入江直祐訳『湖の麗人』、岩波文庫、1936年第1刷、2019年第20刷、p.157.
この訳文は旧漢字旧仮名遣いなので、新漢字現代仮名遣いに直しています。
6 塩井雨江訳『湖上乃美人—今様長歌』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/896871
7 Andrew Lang, “The Poetry of Sir Walter Scott”, in Essays in Little, (1891)New York, Charles Scribner’s Sons, 1894. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=chi.21597644
8 “MacGregor Country: A pictorial journey to the original Clan Gregor country”
http://hal_macgregor.tripod.com/gregor/country.html
9 M.H.ニコルソン、小黒和子(訳)『暗い山と栄光の山—無限性の美学の展開』(原作初版1959)、国書刊行会、1989
10 Wood, Lucy (2019) “’Poetry that does not die’: Andrew Lang and Walter Scott’s ‘Immortal’ Antiquarianism”, Studies in Scottish Literature: Vol.44: Iss.2, 53-62.
https://scholarcommons.sc.edu/ssl/vol44/iss2/6,