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2019-11-18

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-14)

1853年にアメリカ海軍省長官がペリー提督に日本に兵隊を上陸させるなと叱責した時に、”prudence”をどういう意味で使ったのか、現在はどう使われているのか探ってみました。

「過度な賢慮を行使してはならない」の意味は何か

 強力な海軍は平和の手段だという信念のドビン海軍省長官を怒らせた(6-6-13参照)ペリーの報告書(1853年8月3日サスケハナ号海上にて、報告書番号No.17)の中で前節にあげた箇所以外を探ってみます。海軍省長官が危惧したのが、ペリーが軍隊を上陸させて侵略行為をするのではないかという点と、日本側を恐怖に陥れて目的を達成すると豪語している点です。

 あるいは、ペリーの名前で皇帝[将軍]に送った手紙の内容も指しているのかもしれません。これも自分は日本の皇帝を脅したという自慢の種のように、海軍省長官宛の書簡と一緒に送っています。1853年7月7日付の文書((注1), pp.55-57)ですが、『ペリー提督日本遠征記』(上)に掲載されているものの日付は7月5日となっています。フィルモア大統領[1853年時点のピアス大統領の前任者]からの親書にはない、挑戦的な箇所を引用します。

 このように、合衆国と日本は日に日に相互に近づいているので、大統領は陛下と平和的かつ友好的に共存することを望んでいますが、日本がアメリカに対して仇敵のようにふるまうのをやめなければ、友好は永続することができません。(中略)

 本書状の署名者は、いま誠意を尽くして行われている友好の提案に、日本政府が快く応じることにより、両国間の非友好的な軋轢を避ける必要を察知されるであろうとの希望を抱いて、以上の論拠を提起します。

ペリーによる注:前述の内容は海軍からの私宛の指示で使われた文章の内容を含んでいます。((注2), pp.606-607)

 最後の「ペリーによる注」は1853年8月3日付海軍省長官宛の報告書にも挿入されていますが、ペリーが海軍省から受け取った指示文書は掲載されていないので、「日本がアメリカに対して仇敵のようにふるまうのをやめなければ」とか「両国間の非友好的な軋轢を避ける必要」とかの文言が海軍省から指示された文章なのかはわかりません。

海軍省長官宛報告書・『ペリー提督日本遠征記』・『ペリー日本遠征随行記』の違い

 ペリーからの海軍省長官宛報告書には香山栄左衛門らの態度などについてはペリー自身が見ていないので書かれていませんが、不思議なことに大統領の書簡が入った「立派な箱」の「精巧な細工と豪華さに大いに感銘を受けたようだった」(『ペリー提督日本遠征記』(上)p.560)という点だけは海軍省長官に直接報告しています。1853年8月3日付の報告書でペリーは「明らかに閣下[香山]を驚かせた」((注1), p.47)と書いています。この場で実際に香山の反応を見たアメリカ側通訳のサミュエル・ウィリアムズが正反対のことを書いているので(1-2参照)、再度掲載します。

手紙のオリジナルと翻訳が入った箱を彼らに見せると、感心した様子はほとんど見せなかった。そして、そのような箱と皇帝宛の手紙を運ぶために、なぜ4隻も船をよこしたのか知りたいと言った。「皇帝に敬意を表するため」という理由を告げると、彼らの表情からは、こんな武力の理由について疑いがますます募ったようだった。(中略)この会談の間中、日本人の態度は威厳があり沈着冷静だった。

オリジナル:The originals of the letter and credence were then shown them, and also the package containing the translations; they showed little or no admiration at them, but wished to know the reason for sending four ships to carry such a box and letter to the Emperor; yet whether the reason assigned, “to show respect to him,” fully met their doubts as to the reason for such a force could not be inferred from their looks. …During the whole of this interview the bearing of these Japanese was dignified and self-possessed.((注3), p.51)

その他の「過度な賢慮」

幕府側はペリーと幕府代表との接見用に急ごしらえの建物を建設中でしたが、その場所を聞いてペリーは艦隊の近くにしろと要求します。香山が接見所はすでに建築中だと答えたことについて、ペリーは以下のように報告しています。

[1853年7月13日]
 奉行は接見所を変えることが可能かを問い合わせ、適切な接見所がすでに建設されたので、変更は都合が悪いと言いました。私はこの答えを予想し、準備していましたが、何か裏切りの企みがあるかもしれないので(訳者強調)、測量部隊を私の接見用の建物が建設中の場所の小さな湾を検分に行かせました。彼らはすぐに調べて報告してくれました。非常に多くの男たちが建物の完成や家具の持ち込みに雇われているのを見た場所から大砲の射程距離内に船を持って行くことができるとの報告でした。したがって、[接見の]朝、艦隊を湾全体に覆うように一線に停泊するよう指示しました。私が相手にする人々がよく知られた二枚舌の使い手(訳者強調)だから、それに準備すると決心していました。接見の場所を選んだ目的がはっきりと説明されてなかったからです。((注1), p.50)

[7月14日]
[大統領の国書を受領した旨の文章の英訳の後] これらのプリンス[伊豆守と石見守]たちの私に対する即刻出立せよという命令を私がいかに小さなことだと思っているか示すために、乗船するとすぐに艦隊全体を彼らが期待したように湾を離れるのではなく、湾の奥深く向かわせました。江戸に向かう水路を調査すると決心し、この仕事にこんな大きな軍事力を首都のこんな近くで行い、しかも今まで外国人に知られていない海で行うことが日本政府のプライドと自負心に決定的な影響を与え、大統領の書簡にもっと有利な配慮をさせられることに満足しました。(pp.51-52)

[7月15日]
 朝早く調査ボートは湾の更に奥で測量を始め、午後に私はミシシッピー号に乗船して江戸から7マイルのところ、浦賀のいつもの停泊地より20マイル奥まで行かせました。(中略)
 更に奥まで行こうと思いましたが、恐怖を与えすぎると心配したことと、昨日渡したばかりで目下検討されている大統領の国書が宮廷で好意的に受け入れられるのに障害となることと、皇帝を恐怖に陥れる事に十分影響を与えたと思ったので、この私の実験はこれ以上進めずに、船を「アメリカ停泊地」[ペリーが名付けた浦賀の停泊地]の艦隊の元に戻しました。(p.52)

[7月16日]
日の出とともに船は私が「サスケハナ湾」と名付けた浦賀から5マイル奥まで進みました。調査ボートが仕事を開始しました。我々が停泊する前に奉行が現れました。(中略)我々が江戸に近づけば近づくほど、日本人は丁寧でフレンドリーになるようです。(p.52)

アリストテレスとアクィナスが最高の徳としたPrudence

 ドビン海軍省長官が1853年に使った”prudence”は現在どのように使われているのか調べてみました。ジョージ・H.W.ブッシュ(George Herbert Walker Bush: 1924-2018)元大統領の口癖だったという「それはprudentじゃないから、しない」という語を「古代の言葉」(antique word)とした上で、この大統領を要約する語だと『ワシントン・ポスト』の記事(2018年12月1日、(注4))が説明しています。「アリストテレスとアクィナスが最高の徳の一つと評価したprudenceは、賢く注意深い洞察を抑制して使うことである。現代では、警戒のし過ぎとか臆病とさえ混乱して使われることがよくある。しかし、本当のprudenceはリスクを恐れず、リスクも計算に入れてリスクを尊重することだ」と定義づけています。記事を抄訳します。

 父ブッシュが1989年に大統領に就任した時、世界は大混乱で危機的状況にあった。ソ連がアフガニスタンから撤退し、中国は天安門事件で学生デモ隊の虐殺があり、ベルリンの壁が倒れた。ブッシュはアメリカとして取るべき道を慎重に見極めながら、ソ連が威厳をもってロシアに移行していけるようにした。ドイツ統一でヨーロッパがいかにナーバスになっているかわかっていた彼は、ポーランド・フランス・ロシアとその他の国々に、アメリカがNATOを通して新ドイツで再び軍国主義的ナショナリズムが起こらないようにすると説得した。

 ブッシュの「prudent外交」は敵からも同盟国からも弱さと間違えられ、イギリス首相のマーガレット・サッチャー[Margaret Thatcher: 1925-2013]は「今はふらついている時ではない!」とブッシュを叱ったと言われている。彼らはブッシュが18歳の時に第二次世界大戦のアメリカ海軍飛行士の最年少者として爆撃機の乗組員を率いるのがprudentだと理解した男だということを忘れている。

 1990年にイラクの独裁者サダム・フセイン[Saddam Hussein: 1937-2006]が隣国のクェートを盗もうと企てた時、ブッシュは止めなかった。その後の7ヶ月、彼はprudentリーダーシップを発揮し、ワシントンで超党派の同意を取り付け、国連では忍耐強く次々と決議案を出してフセインを追い詰め、中国ではアメリカ使節団がクェートを解放するためにあらゆる手段を取ることに同意させ、湾岸戦争(Operation Desert Storm)に国際社会が同意したのはブッシュの能力に対する信頼だった。そしてブッシュはフセインがまだ権力を持っている状態で、湾岸戦争を中止した。息子のブッシュ[1946-]と彼の無謀な補佐官たち、ドナルド・ラムズフェルド[Donald Rumsfeld: 1932-]とディック・チェイニー[Dick Cheney:1941-]とは違って、後のことをよく考えずに独裁者を倒すことを良しとしないprudenceを理解していたのだ。父ブッシュが政権を取って2年と6週間後に世界は全く別の場所になり、新たな世界がいかによくなったかを彼が示したのだが、彼の功績がアメリカの有権者からいかに評価されなかったかは衝撃的だ。1988年に4900万票という圧倒的勝利を勝ち取ったブッシュは1992年にわずか3900万票で退陣した。国民は彼よりもっとエキサイティングなものを望んだのだ。その結果、私たちが得たのはホワイトハウスの性的逸脱、弾劾、無謀なイラク侵略、その8年後には無謀な米軍の撤退、経済危機と続き、ついにトランプ大統領のワイルドな即興につながって行った。歴史にやり直しはないが、今私たちが知っていることをあの頃知っていれば、「それはprudentじゃないから、しない」と言えただろう。

 日本の記事「『時代遅れ』と言われたけれど 今になってわかる、父ブッシュが持っていた熟慮と品性」(注5)でも詳しく報じています。

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1 [Documents relating to the foreign relations of the United States with other countries during the years from 1809 to 1898] , v.41 (1855), United States, Department of State, Washington, 1809-1898, Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433081796033
2 M.C.ペリー、F.L.ホークス(編)、宮崎壽子(監訳)『ペリー提督日本遠征記(上)』(2009)、角川ソフィア文庫、2018, p.622.
3 S. Wells Williams, F.W. Williams (ed.), A Journal of the Perry Expedition to Japan (1853-1854), Asiatic Society of Japan, 1910.
https://archive.org/details/journalofperryex00swel
4 David Von Drehle “The two-syllable word that summed up George W. Bush—in the best way”, The Washington Post, Dec.1, 2018
https://www.washingtonpost.com/opinions/george-hw-bushs-prudence-was-a-laugh-line-it-was-also-his-strength/2018/12/01/6440f81a-f52c-11e8-bc79-68604ed88993_story.html
5 三浦俊章「『時代遅れ』と言われたけれど 今になってわかる、父ブッシュが持っていた熟慮と品性」『GLOBE』2018.12.14 https://globe.asahi.com/article/12008514