toggle
2018-12-05

英米に伝えられた攘夷の日本(4-12)

ペリー来航前に日本に来たアメリカ船についての19, 20世紀の論考を紹介します。

ペリー来航の半世紀前に長崎に来航したアメリカ船

ローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された解説「英国と日本の通商記録」の中で、「奇妙なことは、イギリスの船がイギリス人(スチュアート船長)の指揮で1797年と1798年に実際に日本を訪れている」こと、「この船がアメリカの旗を掲げ、アメリカの通行証を携えて、バタビアのオランダ当局によって日本に送られた」ことと記されています。この点はラッフルズが『ジャワの歴史』(1817)第2巻の付録「日本貿易について」で触れています。その内容をラッフルズはHogendorpから引用とだけ記していますが、ディルク・ファン・ホーヘンドルプ(Dirk van Hogendorp: 1761-1822)のようです。1-1で紹介したリチャード・ヒルドレスも『日本—過去と現在—』(1855,(注1), p.448)の中で、ラッフルズが引用している”Heer Hagendorp”と述べ、これは1800年にこの人物がバタビヤで出版したジャワに関する小論文に掲載されているというのです。

 『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(注2)によると、ホーヘンドルプはオランダの軍人・政治家、後にオランダ東インド会社の役員としてインドやジャワに滞在します。そしてイギリスのベンガルの植民地統治法に感銘を受け、「バタビヤ領土の現状報告」という小論文で、インドネシア人もヨーロッパ人と同じ経済原則で導かれるべきだと主張し、当時の東インド総督の怒りをかって投獄され、オランダに逃げたそうです。

 以下が、ラッフルズが引用符でくくった部分の拙訳です。

 わが国と日本との通商関係は非常に奇妙な性質のものである。誰もが知っているように、わが国はヨーロッパで唯一日本から通商許可をもらっている国である。そのために苦しまなければいけないとは、何という屈辱であろうか。江戸城へ使節を送る費用の何と大きなことか。日本貿易は昔は儲かったのに、近年は費用をまかなうだけの利益がないと思う。船や船員の損失を考えたら、このような屈辱を受けさせられる正当性はない。

 それなのに、我々は貿易を諦めることができないでいる。諦める必要があるか、または、そうした方が懸命なのかだろうか。1797年と1798年に奇妙な船、実際はイギリスの船なのに、隠すためにアメリカの旗を揚げて、生粋のイギリス人のスチュアート船長に指揮をさせ、彼はマドラスかベンガルの所属なのにアメリカの通行証を持っているという、そんな船を送ることをバタビヤ政府がどう説明できるのか、途方にくれる。この貿易を放棄するのは馬鹿げているが、日本の規則に従うしかないし、この規則を取り払うのはほとんど不可能だろうし、日本をオープンで自由にすることは実現できないかもしれない。国家のためや会社のためにこれを追求するのでは、目的を達成することには決してならない。したがって、私は1,2年間バタビヤで船1隻か2隻に限られた積荷を日本で取引するための許可証やパスをオークションにかけ、最高値の入札者に与えようと思う。出島の館長を任命しなければならない。その維持は政府がして、館長には一種の領事の役割をさせ、必要なら江戸に使節として行かせる。しかし、これ以外は貿易の規則やシステムすべては船主に任せなければならない。我々の取引に課される日本の法律以外は。

 毎年の使節は非常に費用がかかる。すでに日本側がしなくてもよいと言っているが、時々なら利用価値があるので、将来は10年に1回ぐらい使節を送るか、[出島の]新居住者が来た時や新領事が着任した時に、滞在中1回だけ[江戸に]行くことの許可を得るのが得策かもしれない。それ以外の特権や自由を得るのは容易なことではないだろう。あちらにいる我々の社員の何人かがこの点で我々に何を信じこませようとしても、我々が行こうと行くまいと、日本人が全く無関心なことは明らかで、我々にそうさせる許可を出すこと自体が単なる彼らの気まぐれなのだ。この貿易が個人に開かれたら、すぐさま人々はリスクや危険を犯してでも利益を上げる方法を見つけることは疑う余地がない。そしてこの利益の価値が高まるにつれ、許可証の価値も増すだろう。–Hogendorp((注3), Appendix B.: Japan Trade, pp.xxix-xxx)

 ヒルドレスは1800年刊の小論文と言いながら題名を記していませんが、初版は1799年で、1800年に再版されたそうです(注4)。この日本語訳は国会図書館からアクセスできます。『鹿児島大学史録』4号(1971)から11号(1979)にかけて連載された田淵保雄訳註「バタビヤ領土の現状報告(1799)」です。この11号(1979)に掲載されている「ディルク・ファン・ホーヘンドルプ著、田淵保雄訳註 バタビヤ領土の現状報告(1799)[7]」に「日本貿易」という小見出しで2ページにわたって見解が述べられています。

ヒルドレスの指摘

 ヒルドレスはこのスチュアート船長なる人物について、重要な指摘をしています。まず乗ってきた船エリザ号がニューヨークの船である事、出島のオランダ商館ではスチュアートがアメリカ人だと信じていた事です。1799年にオランダ商館の職員として来日し、1803年に商館長に就任して、1817年に帰国するまで出島にいたヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff: 1777-1835)が1835年に出版した『日本回想録』で、スチュアートはアメリカ人だと述べているという指摘です。この回想録の英訳はみつかりませんでしたが、インターネット・アーカイブに1922(大正11)年刊斎藤阿具著の『ヅーフと日本』(注5)という本が掲載されています。

 ヒルドレスはオランダ語の『日本回想録』を丁寧に読んだようで、当時の日本の状況はドゥーフによるところが大きいと述べて、スチュアート船長の長崎来航について詳しい要約をしています。ゴローニンの『日本幽囚記』改訂版の解説「英国と日本の通商記録」(1852)はラッフルズの『ジャワの歴史』(1817)を参照したことを明言していますから、イギリスではスチュアートがイギリス人だったことが伝わっていたようです。興味深いのは、「英国と日本の通商記録」ではイギリスの日本との通商努力という視点からイギリス人を強調していること、ヒルドレスは意地悪な見方をすれば、逆にイギリス人でこんな怪しい人間もいたという視点を持ちながら、ドゥーフのアメリカ人説を否定していることです。この点で興味深いのは、ペリーの『日本遠征記』(1856)の序で「西洋文明国と日本帝国との過去の関係」という節で、ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシアは詳しく述べていますが、アメリカについてはモリソン号事件(1837)以降のことしか記載されていません。

 ヒルドレスはなぜ1790年代後半にオランダがアメリカ船を使ったかの説明から始めています。「フランス軍によるオランダ占領はオランダ船がイギリスに拿捕される危険に晒されただけでなく、オランダが東洋植民地を失うことになり、したがって、日本貿易に関しても新たな障害をもたらすことになった」(p.446)と述べています。この状況下でイギリスに捕らえられないために、アメリカ船を雇う傭船手法を使ったというのです。『ヅーフと日本』でも同様の解説をし、この頃の幕府とオランダ商館とのやりとりを述べています。ナポレオン戦争の影響を日本が感じ始めたのも1795年からです。この年に入港したのはオランダ船1隻だけで、商品も欠乏していて、商館長は「奉行の譴責を受けたり」と述べ、1796年には入港なし。1797年に1隻入港したが、「中立國たる米國の一小船エリザ丸(Eliza)を臨時に雇入れしものにて、積荷も有合せ品のみにて、獻上品・御用品を始め一般商品も整はざりしかば、又奉行の為に詰責せられたり」(p.12)と解説しています。以後ほとんど毎年「雇入米國船のみ我國に來りし所以なり」と書かれた後、バタビアの重役はオランダ商館長に貿易の復興を計れ、さもないと日本貿易は廃止すると厳命され、商館長と幕府との交渉が始まったとのことです。幕府は1790(寛政2)年に秋田銅産出額減少を理由に、オランダには年1隻に限り、銅の輸出高を60万斤に減らしたのに、商館長の懇願で、1798年に以後5年間25万2千斤増額、船2隻を許可したそうです(p.13)。1798年にもバタビアから1隻入港したけれど、同じくスチュアート船長のエリザ号(直接引用の場合以外は「号」に統一)で、しかも、オランダ東インド会社に内密に、会社の徽章を揚げず、商品も不足していたのですが、「此時に至りては奉行も最早蘭人を虚喝するの勇氣を失ひ、却て之を憐憫し」た(p.15)と書かれています。

 ヒルドレスの関心は、最初にエリザ号が入港した時の奉行所の混乱ぶりで、「乗組員は英語を話したけれど、『イギリス人』ではなく別の国であること、さらにもっと基本的な点は、この船が貿易とは何の関係もなく、拿捕逮捕されないために商品を運ぶ雇われに過ぎなかったことだった。その説明の結果、エリザ号はオランダの船だと理解することで合意した」(p.447)と記されています。

太平洋戦争中の米日交流史論

 アメリカ人にとってはペリー来航前にアメリカ船が日本に来ていたというのは魅力的なテーマのようで、1909年刊の『昔のセーラムの船と船員』や、太平洋戦争の真っ最中に発表された「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」(1944年10月)などがあります。前者は「1853年に日本の古い鎖国を壊滅させたペリー提督の艦隊の印象的な日本訪問前にアメリカの船がこの国の港に留まり、貿易を許されたことはないと一般的に思われてきた」((注6), p.330)と述べて、1799年にボストンで所有されていたフランクリン号が長崎に行ったこと、1800年にマサチューセッツ号、1801年にマサチューセッツ州セーラム市の船マーガレット号が長崎に行ったことを記しています。1909年時点で、これらの[航海]記録が「まるでヨーロッパ中世の歴史の1章のように古めかしく聞こえる」(p.331)と書いています。

 私は後者の米日交流史論「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」に、その発表年月日の点で注目しました。太平洋戦争の最中、American Antiquarian Societyでの発表です。1812 年創設のこの学会のホームページからアクセスできます(注7)。この発表者、ジェームズ・ダンカン・フィリップス(James Duncan Phillips: 1876-1954)はこの時、68歳でした。歴史家として多くの著作があり、ハーヴァード大学歴史学部に「初期アメリカ史のジェームズ・ダンカン・フィリップス教授」という名称の教授ポストが設立されています。

 学会プロシーディングスに発表されたのが1944年10月で、文章の中に「1944年」の今という表現がありますから、口頭発表は1944年前半かもしれません。日本の無条件降伏をアメリカ・イギリス・ソ連・中国が話し合ったニュースを聞いた上で、これらの航海の時代を1944年と比較しているように読めます。口頭発表時の聴衆がセーラム市のビジネスマンが対象だったのか、船長の采配でいくら儲けたか、船員の給料などを詳しく紹介しています。

 最初の日本来航のアメリカ船フランクリン号は1798年12月11日にボストンを出帆し、バタビヤを1799年7月17日に、長崎を1800年5月20日に出帆しています。次の船、マサッチューセッツ号は1800年7月に日本に着き、11月に長崎を出帆したという記録が残っているそうです。3番目の船、マーガレット号はもともとは日本に行く予定ではなく、スマトラの北西海岸を目指したそうです。この海岸で胡椒が大量に発見され、胡椒貿易が流行したためですが、船主の一人でもある、30歳のサミュエル・ダービー(Samuel Derby)船長が到着後に発見したのは、干ばつのため胡椒の値段が上がり、当初の予定を諦めて、バタビヤに向かいます。そこでオランダの東インド会社と交渉して、45,000スペイン・ドルで日本に積荷を運ぶ役を引き受けます。積荷はスズ、粉砂糖、胡椒、綿糸などで、日本からは銅と樟脳を積んで帰ることになりました。

 マーガレット号は1801年7月19日に長崎港に到着します。フィリップスは長崎での様子を船長の書記役だったジョージ・クリーブランド(George Cleveland)の日誌から1.5ページ(pp.321-322)も引用しています。積荷が十分に検分されたあと、長崎の町で売りに出され、「最高にフェアな方法」で行われたと記しています。その後、一行は1801年9月20日に長崎商人の家に招かれ、「非常に丁寧に、予想もしない作法でもてなされた。ポーク・鳥・味噌・卵・煮魚・砂糖菓子・ケーキ・様々な種類の果物・酒・お茶などが供された」と記しています。その後、寺院、ガラスの家、漆製品の商人の家でも最高のもてなしを受け、お茶屋で食事をした後、踊りや宙返りなどのエンターテイメントがあり、夕暮れに出島に戻ったこと;通りには一行を見ようと群衆がつめかけ、「我々が見た子供の数は本当に凄かった」と述べられています。出帆前に日本の内陸部からの荷が届き、その内容が書かれています。

最高に美しい漆製品、盆、文机、茶筒、ナイフ箱、テーブルなどが箱に非常にきちんと納められ、他の国ならそれ自体が指物細工とみなされるだろう。その他、多種類の絹、大量の扇、様々な磁器、最高品質の室内ほうきを受け取った。主な物は小さなバー状の銅、樟脳、醤油、酒、磁器等々だ。

 そして、フィリップスはこの時代の航海がどんなものだったかを聴衆に解説していますので、その一部を抄訳します。

電報もない時代、定期郵便もない世界で、地球の裏側にニュースが届いた時は、6ヶ月前のニュースで、船が帰還するのは1年後という世界では、計画すること自体が無駄でした。旱魃、飢餓、戦争、火山噴火、津波などが航海の計画を変えることもあり、実際そうでした。この未知の大混乱の世界で、1800年は1944年と同じくらい大混乱の世界で、唯一頼れるのは現場にいる男で、それは長年、船長を意味しました。(中略)この船長たちのほとんどが20代から30代前半でしたが、船主は10万ドルもの冒険的事業すべてを静かに彼らに任せ、彼らが50〜100%の利益を持って戻って来るのを待っていたのです。ビジネスマンのみなさんの一人が、たとえば24歳の若者に10万ドル渡して、「2年後に会おう。15万ドル持って帰ってくるのを期待している。指示を待っても無駄だ。何も言うことはできないからね。Good-bye」と言うようなものです。今お話しているのは、そんな時代でした。マーガレット号の航海がそれを証明していることに同意なさると思います。(p.328)

印刷ページを開く

1 Richard Hildreth, Japan as It was and is, Boston, Phillips, Sampson and Co., 1855.
https://archive.org/details/japanasitwasand01hildgoog
2 ”Dirk van Hogendorp”, Encyclopaedia Britannica.
https://www.britannica.com/biography/Dirk-van-Hogendorp
3 Sir Thomas Stamford Raffles, The History of Java, Vol.II, London, Black, Parbury, and Allen, 1817. https://archive.org/details/historyjava02raffgoog
4 John Bastin, Raffles’ Ideas on the Land Rent System in Java and the Mackenzie Land Tenure Commission, S・Gravenhage, Martinus Nijhoff, 1954, p.12.
この本は題名でネット検索すると、オープンアクセスで読めます。
5 斎藤阿具『ヅーフと日本』廣文館、1922(大正11)
https://archive.org/details/zufutonihon00sait
6 Ralph D. Paine, The Ships and Sailors of Old Salem: The Record of a Brilliant Era of American Achievement, New York, The Outing Publishing Company, 1909.
https://archive.org/details/cu31924028839078
7 James Duncan Phillips, “The voyage of the Margaret in 1801 : the First Salem voyage to Japan”, The Proceedings of American Antiquarian Society, vol.54, issue 2, Oct. 1944.
http://www.americanantiquarian.org/content/voyage-margaret-1801-first-salem-voyage-japan