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2020-01-16

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-1)

1930-47年にまとめられたアメリカ政府刊『アメリカ合衆国の条約』で日米和親条約・琉米条約・日米修好通商条約締結までの経緯を検証し、ペリーとハリスの報告書と幕府の記録と照合し、幕府の記録力を高く評価しています。

節(6-6-15, 6-6-16)で紹介した『アメリカ合衆国の条約』第6巻(Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol.6, 1942)の「文書164 JAPAN: 1854」を読むうちに、様々な意味で貴重な文書だという思いを強くしたので、この文書で編者のミラー(6-6-15参照)が何に着目したのか紹介します。

『アメリカ合衆国の条約』全8巻のうち、日本との条約が含まれているのは、第6, 7, 8巻です。第6巻には「文書164 JAPAN: 1854」(日米和親条約)、「文書166 LOOCHOO(RYUKYU): 1854」(琉米条約)、第7巻(1942)には「文書191 JAPAN: 1857」(ハリスとの交渉)、「文書200 JAPAN: 1858 and 1859」(日米修好通商条約)、第8巻(1948)には「文書221 JAPAN:1861」(ヒュースケン暗殺事件)が含まれています。本節では「文書164 JAPAN: 1854」を紹介します。

「文書164 JAPAN: 1854」の特徴

 この文書の執筆者名は記されていないので、ミラーを文責者と仮定して述べていきます。以下は文書全体の特徴です。

特徴1:

第6巻のミラーの序の日付が1941年9月8日((注1), p.vi)ですから、日本時間12月8日に真珠湾攻撃をしたという点で、ちょうど3ヶ月前にまとめられたペリーの条約検証となっています。真珠湾攻撃の3年前(1937年12月)に日本軍による南京虐殺事件と、揚子江上の米英の軍艦が日本軍に攻撃され、アメリカ軍艦は沈没、死傷者多数という「パナイ号事件」も起きていました。アメリカ議会では日本に対する経済制裁をすべき、いや中立を守るべきという攻防戦があり、市民の間では日本製品の不買運動が始まっていたことなど、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は詳しく報じています。そして、日独伊三国同盟のニュース(1940年9月)では、日本がアメリカを仮想敵国としているという報道で、毎日のように日本の動向が大きく報道されています。そんな最中に、日米関係史の出発点となったペリーの日本遠征と日米和親条約の検証をしていたわけです。

特徴2:

ミラーは最初から公刊された『ペリー提督日本遠征記』(1856)は信頼できないとして、ペリー艦隊の旗艦の航海日誌、米海軍省のアーカイブ、遠征に随行した主任通訳サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』(1910)と1920年代に在日本・アメリカ大使館書記官が英訳した「幕府役人の日記」などを条約検証のための根拠にしています。

特徴3:

1930年代にアメリカ政府の「条約ファイル」に残っていた日米和親条約の英語原文・日本語原文・漢語・中国語訳・オランダ語訳などを詳細に照合検証して、多くの違いがあることを指摘しています。

特徴4:

ミラーの解説を注意深く読むと、現在「日米和親条約」として知られている条約の英語ヴァージョンが、日本が合意した内容とは違うために、その後の混乱をもたらしたことが読み取れます。しかし、ミラーがはっきりと「日本語ヴァージョンは全く違う」と指摘しているのは、第11条と第12条だけです。第11条の英語ヴァージョンは、アメリカが必要と認めれば下田に領事を常駐させると読めますが、日本語ヴァージョンは、領事の件は条約調印から18ヶ月以降に交渉すると読めます。第12条条約批准書交換は調印から18ヶ月後と日本語ヴァージョンは記しているのに、英語ヴァージョンは「18ヶ月以内、できればそれより前」と書いてあると指摘しています。

 この他の条約文にも日本語ヴァージョンと大きく違う点があると示唆はしているのですが、ミラーは正面きって「条約原文の問題」と題した節では指摘せず、他の節で、あるいは脚注で密かに示唆するにとどめています。

特徴5:

ミラーは国務長官の文書でも、事実と違う点は根拠を示して「正しくない」とコメントしてます。ペリーに関しては、直接的な批判や価値判断的なコメントはしてませんが、「文書164 JAPAN: 1854」全体を注意深く読むと、脚注にペリーの記述に反する文書を引用するなどして、どちらが信頼できるかの判断を読者に任せる手法をとっています。ミラーが条約文の専門家だから根拠の提示で示そうとしたのでしょうし、1941年という時代背景の中で日米関係史の第一歩がペリーの脅しや詐欺的言動によって問題の多い条約締結になったと読めるような書き方を避けたこともあるのかもしれません。いずれにしろ、21世紀の目からは、ミラーの文章には謎解きのような面白さを感じます。

特徴6:

もう1つの特徴は、ペリーの日本遠征当時のオランダ政府の対日本の姿勢が書かれたオランダ政府の記録を英訳して掲載していることです。相当の紙面を割いている理由は、砲艦外交だったペリーに比べ、外交とはこうあるべきとでも言うようなミラーの紹介の仕方だと感じましたので、後に翻訳紹介します。

「幕府役人の日記」

ミラーが「文書164 JAPAN: 1854」でウィリアムズの日誌と並んで引用しているのが「幕府役人の日記」と題された資料です。その説明をしている箇所(p.593)を訳します。

1854年2月16日から4月10日までの非常に興味深い記録が「幕府役人の日記」(Diary of an Official of the Bakufu)と題され、日本アジア協会のThe Transactions of the Asiatic Society of Japan (2d series, 1931, 98-119)に翻訳されている。日本アジア協会の許可を得て、引用する。

 この下に脚注1で翻訳者ユージン・ドゥーマン(Eugene H. Dooman: 1890-1969)の解説を引用しています。

翻訳者はアメリカ合衆国国務省外交局のユージン・ドゥーマン氏で、彼は1938年10月2日に以下のように書いている。

 「日記」のオリジナル原稿は存在しないし、筆者が誰なのかも知られていない。実は、このような文書が書かれたという唯一の現存する証拠は、2,3年前に幕府とは関係のない地方の家族の文書の中から見つかった原稿コピーである。知られている事実とはっきりと背反する部分も含まれているが、この出来事にかなり近くにいた人物によって書かれたという内部の証拠も含まれている。

訳者注:ドゥーマンのこのコメントの出典を示していないのは、私信の可能性が高いようです。1938年当時、ドゥーマンは東京のアメリカ大使館参事官という役職でした((注2))。

 ミラーはこの翻訳が掲載されている号が1931年としていますが、1930年の間違いのようです。この翻訳は現在クリエイティブ・コモンズ(著作者が再利用を許可するシステム)として、ハーティトラスト大学図書館デジタル・ライブラリーに掲載されています((注3), pp.98-119)。

 1930年のこの号には、確かにミラーが引用している同じページ数に”Diary of an Official of the Bakufu”と題した翻訳が掲載され、翻訳者の名前はなく、「協会のための翻訳」(Translated for the Society)とあります。この号の最終に日本アジア協会「評議会の1930年報告」があり、その中にE.H.ドゥーマンが1930年5月21日に「神奈川においてペリー提督と交渉中の幕府役人の日記」(The Diary of a Bakufu Official During the Negotiations at Kanagawa with Commodore Perry)と題した発表を行ったことが記されています。印刷された翻訳の題名に脚注があり、「東京帝国大学史料編纂室によって出版された『外交古文書』の補遺を参照のこと」と書かれています。

 英訳「幕府役人の日記」の内容は、東京帝国大学文科大学史料編纂掛編纂『大日本古文書 幕末外国関係文書 附録之一』(1913,大正2)所収の「墨夷應接録」の初編((注4), pp.528-67;(注5), pp.017-074)の内容とほぼ同じです。「墨夷應接録」はペリーとの交渉にあたった林大学頭(だいがくのかみ)らの記録です。『幕末外国関係文書 附録之一』では「林大学頭韑等墨夷應接録」となっています。

 この英訳は真田(さなだ)をMasudaとしたり、多少の誤訳と、ペリーから林大学頭宛の手紙の翻訳を省略している点はありますが、1点の重大な誤訳以外は、ほぼ正確な英訳になっています。ですから、ミラーが引用した1938年のドゥーマンの解説はドゥーマンが別の文書と混乱しているのか、あるいは、別の文書の解説なのをミラーが「墨夷應接録」と誤解して引用したのか不明です。

英訳「墨夷應接録」

 「墨夷應接録」に「知られている事実とはっきりと背反する部分も含まれている」とするなら、どの部分かと調べてみました。『ペリー提督日本遠征記』に述べられていない点で、「墨夷應接録」に記録されている以下の箇所かもしれませんので、抄訳します。

[和暦2月]7日—黒川嘉兵衛と通詞の森山が外国船に送られた。ペリーは交渉に入るが、彼の提案が拒否されたら即刻戦争する用意があると言った。戦争になったら、近海に50隻[戦艦が]あり、カリフォルニアにもさらに50隻あるとも言った。そして、彼が命じれば、20日以内に100隻の軍艦を自由に使えるのだと言った。((注2), p.101)

 「墨夷應接録」の該当箇所は以下の通りです。原文の変体仮名は平仮名に変えています。

◯七日、黒川嘉兵衛通詞森山栄之助異船へ遣し候處、へルリ申聞候は、御應接ニ相成、若願候義御承引不被下候ハゝ、直ニ戰爭も可仕用意ニ御坐候、若戰爭ニ相成候得ば、近海江軍船五拾艘は留メ有之、尚又カリホルニヤに 五拾艘用意仕置候間、早速申遣シ候得は、二十日之内にハ、百艘之軍艦参り候都合ニ仕置候、((注4), p.534)

 『ペリー提督日本遠征記』には、この発言はなく、交渉における林大学頭らの異論や主張について「委員たちはきわめて執拗に、ありとあらゆる異議をさしはさみ」((注6), p.206)「逃げ口上を並べたて、例のごとく法律上の障害を申し立てた」(p.207)などの主観的なコメントや、幕府の交渉を「欺瞞外交」(p.208)と断じる記述に満ちています。それどころか、条約に同意しなければ戦争をしかけるという内容は、『ペリー提督日本遠征記』に掲載されているペリーが大学頭に送った書簡の内容と正反対です。「世界の現状は、紛争や戦争を避けるためにこのような条約が必要となっているのです」(p.177)。

 ミラーは第11条の英語ヴァージョンと日本語ヴァージョンの違いを指摘する節で、「幕府役人の日記」から引用するなど、幕府の記録の方を信頼しているように読める書き方をしています。

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注 1. Hunter Miller (ed.), Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol. 6, Documents 152-172: 1852-1855, Department of State, 1942. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiug.30112101711627
注 2. :”Register of Eugene H. Dooman Papers”中の経歴、Hoover Institution Archives.
https://oac.cdlib.org/findaid/ark:/13030/tf938nb3cc/entire_text/
注 3. ”Diary of an Official of the Bakufu”, The Transactions of the Asiatic Society of Japan, Second Series, Vol.VII, 1930. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.b3635882
注 4. 東京大学史料編纂所(編纂)、東京帝國大學文科大學史料編纂掛編纂『大日本古文書 幕末外國關係文書 附録之一』(大正2年、1913)、東京大学出版会、昭和48(1973)覆刻
注 5. 森田健司(編訳・校注・解説)『現代語訳 墨夷応接録』、作品社、2018
注 6. M.C.ペリー、F.L.ホークス(編)、宮崎壽子(監訳)『ペリー提督日本遠征記 下』(2009)、角川ソフィア文庫、2014.