イギリス軍の鹿児島砲撃に対する反対決議案を議論した1864年2月9日のイギリス下院の最後のスピーカーは第一次・第二次アヘン戦争を推進したパーマストン首相で、反対決議案を撤回しろと迫ります。
Lord Palmerston Making the Ministerial Statement on Dano-German Affairs in the House of Commons on Monday(出典:ILN, 1864年7月2日, (注1), p.20)
議会下院で月曜[6月27日]にデンマーク・ドイツ問題についての閣議声明をするパーマストン卿
この銅版画は「鹿児島—日本—鹿児島砲撃—決議案」と題された下院の様子ではありませんが、鹿児島砲撃の是非をめぐる激しい議論にとどめを刺したパーマストン首相の5ヶ月後の下院での姿です。
法務総裁の鹿児島砲爆擁護論が4ページにわたって展開され、鹿児島砲爆が文明国の戦争の慣行に違反しているか否かの議論に大半を費やしています。わかりにくいレトリックなのですが、次の質問者ホワイトサイド(James Whiteside: 1804-86)が法務総裁の発言をどう理解したかがわかる内容のスピーチをしています。ホワイトサイドはアイルランドの政治家・判事です。
法務総裁の外務大臣擁護について
もし法務総裁が[鹿児島の]町の砲爆は絶対に必要だったと主張したら、説得できたかもしれない。(中略)ラッセル卿が表現したことはラッセル卿が意味したことではないと、法務総裁が証明しようとしたと私は理解した。大臣が明確に表現したこと、それが深刻な結果を導いたことを言い逃れようとすることを下院はいつも嫌う。(中略)
誰が薩摩藩主の城の破壊を必要な手段の一つだと指摘したのか? 大君と薩摩藩主から要求すべき2つのものを誰がはっきり示したのか? ラッセル卿だ。そして提督と代理大使がその指示を字句通り遂行したのだ。ニール中佐は能力も思慮分別もある男だ。彼は日本政府と交渉し、政府から謝罪と賠償金を得た。ラッセル卿は3行の短い指示で何を言ったか? 女王陛下の政府は日本政府の謝罪を満足して受け取ったと言ったのだ。彼は大君の政府を日本政府として扱った。この点はスタンリー卿の議論に関係するが、法務総裁は全く回答しなかった。この賠償金が同意された日、問題は解決したのだ。なぜなら、ラッセル卿は日本政府ができうる限りのことをしたと認めたからだ。しかし、ニール中佐は2番目の指示に応えるべく、頑固な藩主と交渉しなければならないと表明した。日本政府の答えは何だったか? 日本政府はニール中佐に、そうするな、薩摩藩に侵略するなと警告した。(中略)
薩摩藩の返答は「この国では罪を犯した者だけが処罰される」だった
法務総裁は彼らには鹿児島の町に対する計画など全くなかったと言った。この本[ブルーブック]の中の1行を法務総裁は忘れている。提督・ニール中佐・日本の役人の間で、砲爆前に交わされた会話の中で、キューパー提督はこう言った—「この問題解決はこれ以上遅らせられない。鹿児島の命運は私の意のままだ。戦闘が始まれば、貴殿の町は破壊される」。さて、この宣言の後でも、町を守る砲台を破壊する中で町を破壊することが提督の仕事だったと提督が理解していなかったと主張できるか?(中略)
法務総裁が理解できなかった[外務大臣の]指示をニール中佐がいかに遂行したか、彼の言葉に注目してほしい。「大君の政府に要求した賠償金は女王陛下の船に載っています。江戸の政府の謝罪文を閣下にお送りできることを名誉に思います。薩摩藩主に関しては、(中略)長い忍耐の後、彼の首都は灰塵に化し、鋳造工場は破壊され、彼の蒸気船は燃やされました。こうして私の指示が全うされたと女王陛下の政府がみなしてくださると信じております」。全うされた! どうやって? 砲台を爆撃し、翌日戻って前日に一部破壊した町を破壊した。したがって、法務総裁の見解を採用すると、キューパー提督とニール中佐がラッセル卿の指示に従い、町を破壊し、それはこの場合の特別な状況から、また戦争の慣行によれば、必要だったと我々が宣言することになる。(中略)
提督は「貴殿に数人処刑させるよう命令を受けている」と言ったが、日本側は「この国では罪を犯した者だけが処罰される習慣です。我々が本当の犯人を見つける方がもっと満足いくことではないでしょうか?」と返答した。ところが、報告書の一つは、この犯罪の真の執行者は藩主の父だと広く理解されているとある。
ヴィクトリア女王の遺憾表明
ホワイトサイド議員が言及したヴィクトリア女王がスピーチの中で、鹿児島砲撃を遺憾に思うという内容について、ILNに報道された内容の翻訳が以下です((注1), 1864年2月9日、p.126)。
[議会の開会にあたり]大法官が女王陛下のスピーチを読み上げた。
女王陛下の臣民に対して日本で犯された野蛮な殺人と残酷な暴力が、日本政府に対し要求することを必要にさせた。またこれらの暴行のいくつかが大名の従者によってなされ、その大名に対しても要求がされた。
大君の政府は女王陛下の政府による要求に応え、十分な賠償がされ、2国政府間の友好関係は途切れることなく続く。しかし、薩摩藩主は我々の正当で穏当な要求に従うことを拒否した。彼の拒否が強制手段を必要にさせ、この手段が大名を同意させた一方で、鹿児島の町の大部分の破壊に偶然につながったことは遺憾である。
最後のスピーカーはパーマストン子爵(Palmerston: 1784-1865)です。第一次アヘン戦争時に外務大臣として、第二次アヘン戦争(アロー戦争)では首相として、戦争を推進した人物です。
大君と薩摩藩主に対する二重要求は賢明で有用なものだ
たった今座った議員が法務総裁が言及しなかったことに、日本で行われた二重要求があると言った。この点について私が今説明しよう。(中略)まず、日本との条約は私の意見では、賢明で有用なものだ。(中略)あの国の条約締結の権限のある者と締結したものだ。日本には霊的首長の御門(Mikado)と大君の間で権力の分裂があるが、大君が何であれ、彼が条約締結する統治権を持っており、それは薩摩藩主がニール中佐との会話の中で認めている。藩主はこう言った—大君が条約締結した時、大名行列用の道路を大名だけの所有にするという条項を加えなかった罪が大君にある。これは大君が国を束ねる条約締結の権限を持っていると明確に認めたと私は言う。さて、この条約は施行されてもう数年になる。(中略)
日本にいるイギリス人が、役人も商人も、繰り返し暗殺され、あるいは暗殺未遂の対象にされていることは誰も疑わないだろう。これらの暴挙をイギリス政府が罰せず、報復を要求せずにやり過ごすのは犯罪的であり、適切ではない。(中略)したがって、我が国の人々の安全と我が国の名誉のために、これらの暴挙に対して満足いく対応を要求する必要がある。
大君政府の義務は東海道で運動するイギリス人に護衛をつけることだ
私への質問は「なぜ大君の政府と、家来がリチャードソン事件を起こした大名の両方から満足いく対応を要求したのか」だった。事実はこうだ—二重の不履行があった。大君の政府は政府の権限の範囲内でイギリス人の安全を守る義務があった。この暴挙[生麦事件]はその権限内で行われた。東海道と呼ばれる道路は、イギリス人が警備付きで、妨害なしに運動する目的のために、はっきりとイギリス人に割り当てられていた[訳者強調]。この道路上でこの暴挙が犯されたのだ。大君の政府の義務は、大名の家来一行がこの道路で行列することがわかっていたら、実際彼らはわかっていたが、そして行列とイギリス人が出会って暴行になりそうだとわかっていたら、そのような場合、政府の義務はヨーロッパ人を守るために道路上に警護を置くことだ。したがって、イギリス人が使用する権利を持っている場所で、イギリス人の適切な警護をしなかった罰金として、ある額を大君の政府に要求する正当な権利を我々は持つ。
大君政府は「もし賠償金を望むなら、この大名のところに行ってご自分で手に入れてほしい」と言った
そしてこの暴挙を犯した家来の処罰を要求する権利も我々は持つ。しかし大君の政府はこう言った。「我々はこの賠償金を払うことができない。大名は強力だから、我々の権威に逆らう。我々はあなた方を満足させることができない。もし賠償金を望むなら、この大名のところに行ってご自分で手に入れてほしい」。だから我々は要求したのだ。まず、政府の義務であるイギリス人警護の不履行に対する賠償[訳者強調]、次に大名の家来によるイギリス人への暴行に対する賠償金を要求したのだ。(中略)さて、大君の政府は賠償を認め、我々が要求した額を払うと同意した。しかし薩摩藩主は拒絶した。我々はこの拒絶に甘んじるべきか、我々が正当な権利を持つ賠償金を彼に払わせるべきか?この残忍な大名に暴行の賠償を払わせるために我々が自由に使える方法に訴えなかったら、我々は義務を怠っただろう。これは単に藩主を罰するためだけではない。他の殺人者たちにさらなる殺人や暗殺を思いとどまらせるためだ。(中略)
鹿児島砲撃は文明国の戦争時の慣行にしたがっている
外務大臣は単に彼の権限だけで指示を与えたのではない。政府によって承認された指示であり、私は全責任を負う。当時、私は外務大臣がとったこの指示を完全に承認し、今でも完全に承認する。これが彼が大臣として、外国における我が国の権益を代表する者の義務に一致していることだ。(中略)
町の砲爆は文明国の戦争時の行為に矛盾すると言う主張について、この主張は正しくない—真実と矛盾する。町が砲爆される例は数多くある。そのいくつかは既に言及されたが、それ以外にも多くのリストがある。過去の出来事の歴史と記録によると、戦争時の町の砲爆は残念ながら珍しいことではない。したがって、このような行為は文明国の戦争時の通常の慣行に矛盾すると主張するのは、歴史的記録として記述されている事実と直接矛盾する。(中略)
修正案は2点に絞られ、1点は余計なもの、もう1点は正しくない; バクストン議員は決議案動議を取り下げよ
我々は[鹿児島の町を砲爆した]結果を遺憾に思うと言うことを求められた。もちろん、我々はその声明に全面的に賛同する;しかし、それはすでにこの議会の開会時に女王陛下の長官のスピーチによって最高の公的方法で表明された。(中略)提案された修正案は賛同されると信じるが、それを読むと、2点に絞られる—町の大火を遺憾に思うことと、町の砲撃は文明国の間で行われる戦争の通常の慣行と矛盾するという意見だ。我々が全面的に思いを共有すると言うことによって遺憾を破棄し、本議会はその感情をすでに正式な方法で表明したから、次の点に移ろう—町の砲爆は文明国の戦時中の行為と矛盾するという主張だ。町の砲爆は文明国の戦争時の行為に矛盾すると言う主張について、この主張は正しくない—真実と矛盾する。(中略)
遺憾表明は単に余計なものであり、また、町の砲爆は文明国の慣例ではないと言うのは歴史的事実に反するからだ。修正案が破棄されたら、動議を以前の問題に合わせるよう提案する。しかし、[バクストン]議員が取り下げるなら、それが最もふさわしい議論の終わらせ方だと思う。
パーマストン首相の動議を取り下げよという発言のあと、議事録は以下のように続きます。
Question put, and negatived. 提案が提出され、否定された。
Amendment made. 修正された。
Main question, as amended, proposed. 主提案が修正されて、提案された。
バクストン議員が言った。この件は町の砲爆が将来模倣される前例とならないように下院の意見を試す目的だった。この目的のためには、女王のスピーチの表現では十分ではないと考えるが、法務総裁とパーマストン子爵の明確で鮮やかな意見表明を合わせると、自分の目的は十分達せられたので、自分の動議を取り下げる許可を得たい。
Previous Question put, “That that Question be now put:”—(Viscount Palmerston.)
前の提案が提出された。「あの提案が今提案される」(パーマストン子爵)
The House divided; —Ayes 85; Noes 164: Majority 79.
下院は分裂した;—賛成85; 反対165: 過半数79.
賛成・反対を投じた議員名
議事録には誰が賛成したか反対したかの名前まで記録されています。バクストンは自分が決議案を撤回したから票決する資格はないと思ったのでしょうか、採決に参加していません。意見表明した議員が賛成か、反対かを以下に示し、カッコ内に意見表明が決議案支持か修正案支持か明確な場合は示します。
賛成票
エイトン(決議案支持、7-2-1-3参照)、ロングフィールド(修正案を動議)、ヘイ(修正案支持)、ウォルコット提督(修正案支持)、スタンレー卿(決議案支持、7-2-1-4参照)、クロスリー卿、リデル、キングレイク(7-2-1-5参照)、エルフィストン(7-2-1-6参照)、フォースター、ホワイトサイド
特筆すべきは、議論に参加しなかったけれど、賛成票を投じた人物にベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli: 1804-81)がいることです。この議論の4年後に保守党の首相となった人物です。パーマストン首相やレイヤード外務副大臣は当然のことながら、反対票を投じています。
採決結果をめぐる英米メディアの報道
バクストン議員の決議案動議の取下げ要求がどうなったか、何を採決したかに関する議事録の表記が曖昧なので、英米メディアの報道と、『年間記録:1864年の国内外の公的出来事』(1865)の伝え方を見ます。
『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1864年2月13日、(注2))は以下のように伝えました。
ロングフィールド氏の修正案が賛同された。バクストン氏は自分の決議案を撤回すると申し出たが、この成り行きに異議が出され、それ以前の提案が動議され、決議案に関する元々の提案がこの時、採決に付すという提案をめぐって下院が分裂し、164対85で否決された。したがって、その提案は採決に付されなかった。
Mr. Longfield’s amendment having been agreed to, Mr. Buxton offered to withdraw his resolution; but this course being objected, the previous question was moved, and the House divided upon the question that the original question on the resolution be now put, which was negatived by 164 to 85. The question, therefore, as not put.
『年間記録:1864-65年の世界の出来事』(1865、(注3))
パーマストン子爵は言った。(中略)バクストン氏は討論の論調に満足すべきで、[議会を]分断するような動議を無理強いすべきではない。
バクストン氏は自分の決議案を撤回すると申し出たが、この成り行きに異議が出され、以前の提案が動議され、下院は164対85という分裂した意見で、決議案は採決に付されるべきではないという意見に決定した。
Viscount Palmerston said, … Mr. Buxton should be content with the tone of the debate, and not press his motion to a division.
Mr. Buxton offered to withdraw his Resolution, but this course being objected to, the previous question was moved, and the House decided by a division of 164 to 85 that the Resolution should not be put to vote.(p.111)
NYタイムズ(1864年2月25日、(注4))の短い記事は以下のように伝えています。
[2月]9日に下院でバクストン氏が日本の鹿児島の破壊を非難する決議案を動議した。討論が続く中で、パーマストン卿が鹿児島の破壊を遺憾に思うが、政府とキューパー提督が採用した方針を擁護した。決議案は164対85で敗れた。
In the House of Commons,…Mr. Buston [sic: Buxton], on the 9th, moved his resolution denouncing the destruction of Kagosima, Japan, and after a debate, in which Lord Palmerston defended the course adopted by Government and by Admiral Kuper, although he regretted the destruction of Kagosima, the resolution was lost by a vote of 164 to 85.
イギリスの報道では、決議案を採決に付すべきという提案への反対票が多数で、「その提案は採決に付されなかった」(ILN)、「決議案は採決に付されるべきではないという意見に決定した」(『年間記録』)とされています。
イギリス議会下院の採決結果が日本では間違って紹介された
日本ではこの結果が逆に紹介されています。萩原延壽『薩英戦争 遠い崖—アーネスト・サトウの日記抄2』(1998)では以下のように解説されています。
長時間の討議ののち、さきに述べたバクストンの動議は採択された。すなわち、政府は、『鹿児島の町を焼いたことに遺憾の意を表明し、イギリスの鹿児島での攻撃は、文明国のあいだでおこなわれる通常の戦闘に違反するものであり、キューパー提督の個人的な責任を問う』ことを認めたのである。((注5), p.59)
イギリス地方紙はどう伝えたか?
『モーニング・スター』(Morning Star 明けの明星: 1864年2月10日、(注6), p.167)は大きな紙面を割いて、討論の内容を解説と批判をつけて紹介しています。その一部を抄訳します。
討論の最初の部分は昨日、本紙が表明した希望が実現したかのようだった。討論はバクストン氏の決議案の範囲を遥かに超えていた。討論が暴露したのは、絹の強制販売のような馬鹿げた抑圧行為や、大君や大名に彼らがどこに要塞を作るべき、または作ってはいけないと命令したことだ。意見の分断がどうであれ、この討論は英日関係の未来にとってすでに多くを達成した。
同じく2月10日の『スタンダード』(Standard, p.168)の記事の一部です。
嫌がる国に我が国の貿易を押し付ける過剰な熱情から起こった紛争—その結果、政治上の敵や自称博愛主義者たちに非難された程度よりも、もっと酷く、自分たちの普段の支持者たちと商業の発展に直接的関心を持つ人々に非難された。真実は、この恐ろしい事件について、良識あり、正直なイギリス人の間の意見は2つではない。我々は皆この事件を恥じ、我々は皆遺憾に思っているが、不幸にも議会は、外のあまりに多い者たちのように、罪あるものたちの処罰について解決するに必要なこれらの恥と後悔の感情にほとんど動かされていない。
ニール中佐からの追加報告
約1ヶ月後の1864年3月14日の下院議会で、レイヤード外務副大臣がニール中佐からの報告が届いたと、読み上げます。以下はその1864年1月16日付、横浜発の報告書の一部です。
政府広報『ロンドン・ガゼット』で報道された内容が、鹿児島での作戦に関する誤解から生まれたと思い、事実をお知らせし、記録に残すべきだと思います。(中略)鹿児島の人口は18万人と奇妙な想像がされましたが、4万を超えたことはありません。さらに男女子ども4万人は、彼らの小屋や紙の家がイギリス艦隊からの流れ弾などの危険がある間は逃げていました。なぜなら、イギリス艦隊はイギリス国民に対して犯された暴挙と野蛮な殺人の賠償を得る意図を示していて、その賠償が拒否されたからです。((注7), p.1910)
ニール中佐からの報告には駐日イギリス公使館からの報告書も同封されていたと、アレクサンダー・フォン・シーボルト(A. von Siebold: 1846-1911, フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、当時イギリス公使館の通訳)を含めた4人の署名による文書です。薩摩藩からの賠償金支払い時(1863年12月11日、7-2-1-3の銅版画参照)に薩摩藩使節が語ったこととされています。
[薩摩藩は]台風が来た時を利用して、イギリス艦隊を銃撃した結果、台風が原因で大火になったが、当時[鹿児島の]町には消火にあたる者がいなかった。砲台の周囲に集めた兵士は6,000人だった。艦隊が来ることを長崎を通じて聞いて、薩摩藩主は艦隊の姿を見たらすぐに鹿児島市民を[近隣の]村に避難させたので、市民の被害はなかった。我々が鹿児島に戻ったら、町は元の姿に戻っていることだろう。(p.1911)
注
注1 | The Illustrated London News, vol.45, July-Dec. 1864. Archive. https://archive.org/details/illustratedlondov45lond |
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注2 | The Illustrated London News, vol.44, Jan-June 1864. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006993201 |
注3 | The Annual Register: A review of public events at home and abroad for the year 1864, London, 1865, Chapter V, p.111. この本はThe Annual Register of World Events 1864-1865とグーグル・サーチで検索するとアクセスできます。 |
注4 | ”Affairs in China and Japan”, The New York Times, February 25, 1864. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1864/02/25/issue.html |
注5 | 萩原延壽『薩英戦争 遠い崖—アーネスト・サトウの日記抄2』、朝日新聞出版、朝日文庫、2007. |
注6 | Public Opinion: Comprehensive Summary of the Press throughout the World on all Important Current Topics, Vol. V, January-June, 1864. London, 1864. グーグルでPublic Opinion: A Weekly Review of Current Thought and Activity, Vol.5で検索すると、この本にアクセスできます。 |
注7 | Hansard’s Parliamentary Debates, Third Series, Vol. CLXXIII, 1864 (Feb.4-March14, 1864 ), Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015027883324 |