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2023-06-18

英米に伝えられた攘夷の日本(8-2-6-2-1)

万延元年遣米使節が集団ハラキリをするかもしれないという記事が1860年の『ニューヨーク・タイムズ』に掲載され、その約160年後に再びNYTで「集団切腹」という語が報道されました。一方、1868年2月にNYTが「欧米列強による聖なる国への侵略」と伝えた神戸事件、その1ヶ月後に欧米列強が維新政府に「集団処刑」を求めた堺事件が起こります。

2020年代の集団切腹の勧め

 1860年6月12日にNYT特派員が想像した日本使節団の「集団ハラキリ」の箇所は原文では”the Embassy would doubtless sooner commit Hara Kiri”(使節団は疑いなくすぐにハラキリをするだろう)、“a general abdominal outpouring”(大規模な内臓流出)と表現されています。

 約160年後の2023年2月12日のNYTにも「集団切腹」(mass ‘seppuku’)という語が使われ、”Seppuku”の説明として「19世紀の不名誉を被ったサムライの間で行われた内臓抜き取り儀式(ritual disembowlment)」(注1)と付記されています。この記事は「イェール大学教授が日本の老人に集団自殺を提案。彼の意図は何か?」(A Yale Professor Suggested Mass Suicide for Old People in Japan. What Did He Mean?)という見出しで、イェール大学の日本人助教授・成田悠輔氏がインターネット・テレビ『ABEMA Prime』で2021年12月に「高齢化社会の対応策について私見を述べ、『僕はもう唯一の解決策ははっきりしていると思っていて。結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものではないか……』と発言し、それを2023年1月に見つけた人がソーシャル・メディアで広めたことから有名になったと指摘しています(注2)

 NYTの記事の中で「評判のいいインターネット・トーク・ショーのパネル・ディスカッションで東京大学の社会学者・本田由紀は彼のコメントを『弱者に対する憎悪』と表現した」と言及されているのがVIDEO NEWSという番組です。私はこの番組によって初めて成田悠輔氏の発言について知りました。そこで本田由紀氏は「成田という人が言っている高齢者の集団自決が必要だということに、私は一切、一切与しません。それに対してはあり得ないと思ってますし、あれはどちらかというと(中略)弱者まで行かなくても普通の人々への憎悪として語られているのであって、経営者や政治家の高齢者に対して退けと言っているものではないというふうに考えられると思う」(2023年1月14日, (注3))と明言しています。

神戸事件と堺事件(1868)

 「集団切腹」というキーワードでは、1860年と2023年の間に1868年が重要な年として浮かび上がります。1868年3月8日(慶応4年2月15日)に起こった堺事件で、11人の土佐藩兵が1868年3月16日(慶応4年2月23日)にフランス側の立ち合い人の前で切腹させられました。この事件の1ヶ月前に起きた神戸事件(1868年2月4日;慶応4年1月11日)では、欧米人の死者も出ていないのに、欧米列強の条約国は備前藩の責任者の処刑を要求し、備前藩士が切腹させられました。

 まず、この二つの事件をアメリカ・メディアがどう伝えたかを見ます。堺事件について『ニューヨーク・タイムズ』は数行の記事で伝え、『ハーパーズ・ウィークリー』は報道なしです。

1868年4月24日:

「無政府状態の日本—フランス水兵たちの殺人」(1868年4月24日)という見出しで「大阪の原住民はフランスのコルベット艦「デュープレックス」号のボートの乗組員を捕まえて残酷に殺害したため、イギリス以外の全外国代理人[公使]たちは国旗を下ろした」(ロンドン、4月23日、(注4)

1868年4月25日:

「大君の引退—フランス水兵殺人の賠償」(ロンドン、4月24日)という見出しで「大君一橋(Statsbashiママ)は政府から引退した。御門は大阪におけるフランス水兵の殺人に賠償金を出す。

神戸事件を「欧米列強による聖なる国への侵略」と伝えた『ニューヨーク・タイムズ』

 ところが、神戸事件については、NYTは「欧米列強による聖なる国への侵略—短くエキサイティングな戦闘の全貌—薩摩と大君一橋との戦争—欧米軍の日本国土への上陸—御門と大君の戦争」という見出しで、「1868年2月29日」付の特派員記事を4月22日に掲載しました。1868年2月4日に起こったことをNYTがどう伝えているか抄訳します。

 薩摩藩の同盟藩である備前藩主の家来の行列が京都に向かって神戸の町を一日中ダラダラと行進していた。2時頃、藩主の秘書、または家老(Karoo)が衛兵と一緒に通り過ぎた。「下におろう」(stanirio: fall down)という叫び声で、周囲の現地人達は逃げるか、隠れるか、地面にひれ伏した。フランス海兵隊の2人がこの部隊の前を横切ろうとして、槍と銃で攻撃された。二人は負傷したが、走って逃げた。すると警護兵達は見つけた者誰でも無差別に撃ったが、負傷した者は少なかった。

 イギリス公使のハリー・パークス卿は近くを馬で通っていたが、かろうじて無事だった。イギリス公使館の警護が追いかけて反撃した。2,3人捕え、武器を押収したが、部隊は丘の方に逃げた。すぐさま艦隊から海兵隊が上陸し、その晩、陸に宿営した。大混乱と警戒心は続き、多くの商人は品物を現地人の召使に預けて海上に避難したが、現地人に預けるのは安全ではない。海兵隊は商人の留守を利用して、倉庫全部を略奪し、彼らはすぐに全く制御不能になった。だから彼らの犠牲者は「私の友人から私を守りたまえ」と祈った方がいいだろう。(p.5)

 「欧米列強による聖なる国への侵略」と訳した見出しの原文は”The Invasion of the Sacred Soil by Foreign Powers”で、「聖なる」というのは当時幕府から欧米列強の公使に伝えられた大政奉還(1867年11月9日)の説明に使われています。”the sacred hands of the Mikado, the son of the gods”(神の息子である御門の聖なる手, (注5))などの表現ですが、特派員は揶揄の思いも込めて引用したのかもしれません。


アメリカ軍の神戸上陸・占領(1868年2月)
キャプション:Guard of the American Legation Defending the Custom-House and Foreign Residents at Kobe, Japan.
(日本の神戸でアメリカ公使館の警備隊が税関と外国人居住者を防御する)HW, 1868年5月8日号, p.300.

備前兵が「外国人居住者を侮辱し、襲撃した」が「死者はおらず、損害もなかった」

 同じニューヨークのメディアである週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』が1868年5月8日号に「日本の革命」と題した記事を掲載し、神戸事件の詳細とアメリカ海兵隊が神戸に上陸する銅版画を付けています。この銅版画に以下の記事が付けられています。

 2月4日に逆賊の藩主・松平備前守の家来が200〜300人の兵を従えて神戸の中心を行進しながら、外国人居住者を侮辱し、ついに外国人を襲撃した。税関[運上所]に近づくと、彼らは税関に発砲し、2人のフランス人海兵と1人のアメリカ人を負傷させた。アメリカ公使ヴァン・ファルケンバーグ(Robert Van Valkenburgh: 1821-1888)は即座に、外国人居住者と税関の保護と敵を攻撃するために警備隊を送った。警備隊は即刻日本と交戦した。戦艦オネイダ(Oneida)号とイロコイ(Iroquois)号の海兵隊、そしてイギリス軍艦オーシャン(Ocean)号の海兵隊の支援をすぐに受け、日本軍を追い散らした。日本軍は真鍮のカノン砲と荷物を捨てて山に逃げ込んだ。我が方は居留地へのさらなる攻撃を恐れ、砦を築き、中心街の至る所にバリケードを立てた。小戦闘が2,3回あり、オネイダ号の海兵1人とイロコイ号の水夫1人が負傷したが、死者はおらず、損害もなかった。

 2月4日に御門の特使が外国代表と交渉をするために兵庫に到着した。何度も面会が行われた結果、大君が外国に認めた特権は御門も継続すること;大君は退位すること(したがって300年続いた幕府Tycoonageは終わる);外国代表者が新王朝を承認することが決められた。ヴァン・ファルケンバーグ米公使が日本政府に正式に要求したのは、合衆国の国旗への侮辱に対する謝罪と税関攻撃を命令した士官の処刑だった。目下この士官の処刑の準備が進められている。((注6), pp.300-301)

 『ニューヨーク・タイムズ』と『ハーパーズ・ウィークリー』の報道を比べれば、神戸事件についてかなり異なる報道があったことがわかります。特にニューヨークをベースとする著名な新聞と週刊誌で、これほど大きな違いが報道されたことは、神戸事件のみならず、欧米列強の日本への対応に関するメディアの評価の違いが表面化した事例と捉えられます。唯一、両者に共通した事実は欧米側に死者が出なかった;大した負傷や損害ではなかったことです。

 NYTの神戸事件報道には、ペリーの日本遠征の前に軍事力の強い国が弱い国に艦隊で押しかけるのは「事実上の宣戦布告だ」、アメリカは日本の鎖国政策という「国内問題に介入する権利」はない等々とペリー遠征を激しく批判したNYTの前身『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』のリベラルなスタンスを取り戻したような感じがします(本サイト「英米に伝えられた攘夷の日本」6-6-1〜6-6-4参照)。

神戸事件を無視したイギリス・メディアと議会

 当時のイギリス議会と『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』のようなイギリス・メディアは堺事件には言及しても、神戸事件については沈黙しました。1868年5月26日開催のイギリス議会下院で外務大臣に質問した議員が「最近、中国の[英字]新聞で報道された、駐日イギリス公使と随行員たちが襲われたことと、フランス軍艦の乗組員が暗殺されたことの真偽を確かめたい」((注7), p22)と政府に質問し、外相のスタンレー卿(Edward Stanley: 1799-1869)は以下のように答えました。

ハリー・パークス卿が騎馬衛兵に伴われて御門を訪問する途中で日本の狂信者の一団に襲われた。わずか3,4人だ。衛兵が不意打ちされて、8,9人が負傷したが、命に別状はない。犯人の追跡と公使への謝罪などの点で、日本当局はできうる限りのことをしたと言わなければならない。負傷者が回復不能の障害を負った場合は賠償すると約束さえした。したがって、この事故は不運なことだったが、我が国と日本政府との現在の良好な関係に影響を与えることは全くないと考える。フランス政府も船の乗組員の暗殺の件で日本政府と和解した。

 このイギリス議会議事録を読んで思い出すのは、薩摩藩の行列を馬上で眺めたイギリス人一行が薩摩藩兵に襲われた生麦事件(1862.8)と、その報復としてイギリス軍が鹿児島砲撃(1863.8)をしたことについて、イギリス議会下院で、幕府と薩摩藩の両方から賠償金を取った上に、罪もない鹿児島市民を焼き払うかのような砲撃は許されないと激しい議論が戦わされたことです(本サイト「英米に伝えられた攘夷の日本」7-2-1-1〜7-2-1-7参照)。神戸事件の詳細(死者はいなかったのに責任者の処刑を求めたこと等)は駐日イギリス公使からイギリス政府に報告が行っていたのに、議会で伝えていない理由は、事実が伝われば、薩英戦争をめぐる議論と同様の議論がイギリス議会で行われる可能性があったからかもしれません。

神戸事件を報道しなかった『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』

 1868年前半のILN(注8)に掲載された日本関連の報道のうち、堺事件、パークス襲撃事件関連の記事を時系列に抄訳します。

1868年4月25日:

日本からの情報によると、大阪におけるフランス水兵の暗殺は合意に達する模様。日本政府は賠償金を支払う。一橋(Stotsbashiママ)は正式に引退し、全て平穏だ。

1868年5月2日:

先月7日までの日本からの情報によると、英国公使ハリー・パークス卿は御門を訪問し、快く迎えられた。彼は帰路、日本人の一団に襲われ、彼の衛兵の数人が負傷した。加害者のうち3人が逮捕された。

1868年6月6日:

天皇は布告で外国人を殺したり、殺そうとしたりするのは恥ずべきことだとした。犯人は侮辱的な処刑に苦しむことになる。

1868年9月5日:

フランスは堺におけるフランス人の殺害に対する賠償金を受け取った。

神戸事件の隠蔽・捏造を指摘した日本の高齢者たち

 アメリカ・メディアが死者は出なかったと報道しているのに、日本では備前藩が「外人二名を殺し」と、誤情報が歴史書に掲載されています。内山正熊(1918-2011:『神戸事件』1983)の調査では、1970年代の7種類の歴史年表・辞典のうち、半分ほどは「神戸事件」なし、記載があるものも誤情報が多いことがわかります。その最たるものが宮内庁書陵部の『明治天皇紀』で、「外人二名を殺し」((注9), p.45)と誤情報が記載されていると指摘されています。この指摘を受けて、私も手持ちの『岩波 日本史辞典』(1999)を調べ、「神戸事件」が「堺事件」の項目中に「神戸事件(同年1月の岡山藩兵と英・仏・米兵との衝突事件)を解決したばかりの新政府」((注10), p.481)と言及されているだけだと知りました。

 死者も出なかったのに責任者の処刑を強硬に求めた欧米列強に維新政府は「ただ平身低頭して陳謝屈服した」((注9), p.10)と批判されています。大岡昇平はこの点を追求し、以下のように述べています。

 なお負傷者を出しただけなのに、責任者が割腹させられたのは屈辱だから、公式記録『復古記』[昭和五年、昭和四十九年に東京大学出版会より復刻]は外国兵死者二人とし、『明治天皇紀』もこれを踏襲しているのだからいけない。池田藩側の現場証人「高須七兵衛聞書」に『二人打留」とあるのは、発砲したのに手傷を負わせただけでは体裁が悪いので筆が滑ったものであろう。これらは多くの小説にも踏襲されている。((注11), p.41)

 上記の引用は大岡昇平の『堺港攘夷始末』中の第2章「神戸事件」からです。内山正熊は更に踏み込んで、神戸事件が維新政府にとって最初の対外問題で、「明治新政府は土下座外交を明治維新の劈頭にやってしまった」((注9), p.197)こと、「幕府は攘夷のテロ犯をかばったのに新政府はこれをつき出したとなれば、天皇政府非難にまで発展するかも知れない。それゆえに神戸事件に際しては、政府は箝口令を出し、これをタブー化したのである」(p.199)と結論づけています。

 「神戸事件」について、後世の識者たちはどう扱ったかを見るために、上記の内山正熊著『神戸事件』以外に、大岡昇平の『堺港攘夷始末』と徳富蘇峰(1863-1957)の『近世日本国民史』を参照します。近代日本の対外交渉・政策が欧米隷属で歴史の改竄・捏造に始まったと示唆したのが高齢者たちだったことも指摘しておきたいと思います。内山正熊が65歳、大岡が75歳の時でした。

新聞人・徳富蘇峰

 蘇峰が神戸事件を扱ったのは『近世日本国民史』100巻のうち、第67巻(蘇峰79歳:1941年刊)、第68巻(蘇峰79歳:1941年刊)、第69巻(蘇峰80歳:1943年刊)です。彼の年齢は各巻に付された序に「老蘇七十九叟」とか「蘇峰七十九叟」「蘇峰八十叟」と明記されています。最後の100巻目(明治時代)を起稿したのは昭和26(1951)年11月11日、蘇峰89歳の時で、脱稿は昭和27(1952)年4月20日、蘇峰90歳でした(注12)

 徳富蘇峰について『岩波 日本史辞典』(1999, p838)は以下のように記しています。

新聞人、文筆家。本名猪一郎、熊本県生れ。87年民友社を設立して雑誌「国民の友」発刊。90年「国民新聞」創刊。平民主義を掲げ言論界をリードしたが、日清戦争を機に強硬な国権・国家膨張主義に転じ、以後体制派言論人の雄として大正デモクラシーの潮流に抵抗、15年戦争期の国民動員に指導的役割を演じ、1942年第日本言論報国会会長に就任。敗戦後は公職追放されたが、「近世日本国民史」(18-52)全100巻を完結。

 蘇峰は変節が批判されながらも、松岡正剛(1944-)は「戊辰戦争や明治6年の政変や西南戦争を見聞した者が、そのまま衰えることなく戦後憲法や朝鮮戦争の意味を問うなんて、蘇峰以外に他に例がない」(注13)と評価しています。『近世日本国民史』が「戦前・戦後を通じて広範囲の人々に読まれていた」ことの例証として、「牢屋に入った左翼の諸巨頭が皆読むのは、この『近世日本国民史』である」と文芸批評家・木村毅(1894-1979)のコメントが紹介されています。その他の例も多数挙げられているので、引用します。

大杉栄[1885-1923]も獄中でこれを愛読していたとか、小林秀雄[1902-1983]がこの「歴史」すべて数回にわたって読みかえしていたとか、吉川英治[1892-1962]が『国民史』全百巻を座右の書として「片時も離さなかった」とか、菊池寛[1888-1948]や久米正雄[1891-1952]がこの「歴史」を頻繁に引照していたとか、あるいはこんにちにおいてもさきの渡部昇一[1930-2017]や宇野精一[1910-2008]、菊池昌典[1930-1997]や尾崎秀樹[1928-1999]、さらには松本清張[1909-1992]や遠藤周作[1923-1996]といったさまざまな分野の、かつまたさまざまな思想傾向をもつ人々がこの「歴史」の効用・価値を認識していたのだった。((注14), p.309)

 『近世日本国民史』100巻目に付された蘇峰の序の文言が現在にも参考になると思います。

「『近世日本国民史』第百冊の述懐」
 記者は所謂る職業的新聞人ではないが、新聞人として一生を始終せんと志し、今まや其の志を行うて、漸く一生の終幕に近づきつつある。(中略)所謂る過去を以て現在を観、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。(注15)

大岡昇平の堺事件検証と森鴎外批判

 一方、大岡昇平は75歳の時、1984年に『中央公論文芸特集』に「堺港攘夷始末」の連載を始め、急逝する1988年12月25日で未完に終わったとのことですが、翌年出版された『堺港攘夷始末』の文庫版は本文が約400ページの大著です。読みながら徹底した調査・検証に大岡の執念が読み取れ、鬼気迫るものを感じました。神戸事件と堺事件の関係を重視し、『堺港攘夷始末』の第2章「神戸事件」では31ページにわたって解説しています。

 大岡の堺事件検証の動機の大きなものは、森鴎外の「堺事件」(1914)に20数カ所あるという「切盛と捏造」((注16), p.184)だと、森鴎外の「堺事件」について以下の結論を下しています。

文豪鴎外の学識と文才に私は尊敬を失っていないのであるが、人は比類のない才能をもって、最も下らない政治に奉仕することがある。明治末から大正初めに到る山県体制が抗争的であった時点では、彼が主人に忠実なイデオローグとして働いた、と見做すのが『堺事件』のこれまで検討した捏造と、繰返される歴史の自然尊重宣言とのあり得べからざる矛盾の一つの解であろう。(p.230)

 もう1つの重要な指摘は、大佛次郎(1897-1973)が『天皇の世紀』(1967-1973)で、堺事件の「記述はなぜか大部分鴎外の小説の引用ですませて」(p.185)おり、「鴎外の小説の『厳格』で非人間的な『偏見』を採用し」(p.197)ている点です。そして「大佛次郎の本は、現在最も広く読まれていると思われるので、鴎外の捏造を伝搬する役目を果たしていよう」(pp.185-186)と述べています。

 大岡はまた徳富蘇峰の『近世日本国民史』にも度々言及し、『近世日本国民史』が拠っている史料が「郷土史家寺石正路『明治元年土佐藩士堺烈挙』(一九三七年、宝文館)で、これはそれまでに発表された『復古記』(一九二九年)、『堺市史』(一九三一年)など各種文献を綜合して最も詳し」(p.185)いと評価しています。したがって、『明治元年土佐藩士堺烈挙』の限界が『近世日本国民史』に現れた弊害もあることが指摘されています。

 大岡と蘇峰に共通している凄さは、大岡に関しては堺事件に関するフランス側の資料を発掘し、自ら邦訳引用していることです。蘇峰は神戸事件については欧米列強の通告書(英文)を原文で引用して、その文体や内容について適切なコメントをしています。真珠湾攻撃直前の時期に一般読者向けの歴史記述で英文資料をそのまま引用し、読者がその英語の通告文のニュアンスを理解できるという前提でのコメントです。

 アーネスト・サトウの著作からの引用も長々としているのですが、坂田精一の邦訳が出たのが1960年ですから蘇峰の死後ですし、昭和13(1938)年刊の邦訳『維新日本外交秘録 全 英使サトウ滞日見聞記 A Diplomat in Japan by Sir Earnest Satow, 1921 London』は蘇峰が引用した訳とかなり違うので、他に邦訳があったのだろうかと不思議に思っていました。この疑問が氷解したのが、「外国の原典史料が英米語のばあい、蘇峰自身の手によって訳出されたものが多かった」((注14), p.296)と指摘されたことです。それどころか、ペリーの『日本遠征記』(1935)で吉田松陰の「米艦訪問」事件の記載に関して、蘇峰の『近世日本国民史』所収の蘇峰自身の訳文を利用したと明記されていると紹介されています(p.297)。

真珠湾攻撃直前とアメリカとの密約が発覚した1970年代を背景にした神戸事件の解説

 徳富蘇峰の神戸事件解説と大岡昇平の「神戸事件」の記述を比べる理由は、真珠湾攻撃直前に執筆・出版された蘇峰の神戸事件に関するコメントと、大岡の1970年代のコメントにあります。大岡が1971年に芸術院会員に選ばれた時、自分は戦争捕虜になった人間だから国家的な名誉は受けられないと辞退したことを大江健三郎(1935-2023)が紹介し、これは「戦争中の大本営の無責任体系が民衆を殺した、それと同じような思想や考え方が戦後日本に続いているとしたら、そういうものには加担できない、なぜなら死んだ仲間の声が反対するからということで芸術院会員を拒否されたと思ってます」とNHKテレビ「大岡昇平さんを偲んで」(1988.12.26, (注17))で指摘しました。1971年といえば沖縄返還をめぐる佐藤栄作(1901-1975)首相(当時)のアメリカとの密約が発覚した年で、大岡昇平がどんな思いで聞いたか想像するにあまりある思いです。神戸事件や堺事件その他の明治政府の対応に関する蘇峰のコメントにも真珠湾攻撃直前の緊迫した時代背景が反映されているようでもあり、興味深いです。

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1 Motoko Rich and Hikari Hida “A Yale Professor Suggested Mass Suicide for Older People in Japan. What Did He Mean?” The New York Times, Feb. 12, 2023
https://www.nytimes.com/2023/02/12/world/asia/japan-elderly-mass-suicide.html
2 「”集団自決”発言で世界で炎上中のイェール大学・成田悠輔氏に『クレームはきていない』『今後も起用』製作側が使い続けたいウラ事情」『週刊女性PRIME』2023/2/22 
https://www.jprime.jp/articles/-/26964
3 「まずは今の日本がどんな国になっているかを知るところから始めよう」ゲスト・本田由紀、VIDEO NEWS, 2023年1月14日 この発言は完全版Part I:41分
https://www.videonews.com/marugeki-talk/1136
4 The New York Times, April 24, 1868.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1868/04/24/issue.html
5 The New York Times, April 22, 1868.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1868/04/22/issue.html
6 Harper’s Weekly , 1860, vol.4, Hathitrust Digital Library. 
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006963360
7 Hansard’s Parliamentary Debates, (ser. 3 v.192, 1868) Third Series: Commencing with the Accession of William IV. 31°Victoria, 1867-8. Vol.CXCII, Comprising the period from the Eleventh day of May 1868, to the Twenty-fifth day of June 1868, Second Volume of the Session, London, 1868. Hathitrust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015027882904
8 The Illustrated London News, Vol.52, 1868 Jan.-June. Hathitrust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006994415
The Illustrated London News, Vol.53, 1868 July-Dec. Hathitrust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=njp.32101059280980
9 内山正熊『神戸事件—明治外交の出発点』中公新書、昭和58(1983)年
10 永原慶二(監修)『岩波 日本史辞典』岩波書店、1999.
11 大岡昇平『堺港攘夷始末』(1989)中公文庫、1992, 改版2004.
12 徳富蘇峰記念館 目録—(13)徳富蘇峰と『近世日本国民史』展示期間 平成8年1月5日〜12月20日 http://www.soho-tokutomi.or.jp/asset/00032/pdf/tenji1996.pdf
13 「徳富蘇峰 維新への胎動」『松岡正剛の千夜千冊』、2003年11月07日 
https://1000ya.isis.ne.jp/0885.html
14 杉原志啓『蘇峰と『近世日本国民史』』、都市出版、1995.
15 蘇峰 徳富猪一郎『近世日本国民史 第100巻』近世日本国民史刊行会、昭和37(1962)年8月10日 
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2995831/1/330
16 大岡昇平「『堺事件』の構図—森鴎外における切盛と捏造—」(1975年6月-7月)、『歴史小説論』(1982)所収、岩波同時代ライブラリー、1990
17 埴谷雄高 、大江健三郎「 大岡昇平さんをしのぶ」(NHK, 1988.12.26)
https://www.dailymotion.com/video/x7trn5a