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2023-07-11

英米に伝えられた攘夷の日本(8-2-6-2-2)

神戸事件(1868年2月)が起こった背景には、欧米列強が1868年1月1日に強硬に神戸開港・大阪開市をし、その直後の鳥羽伏見の戦いで攘夷の維新政府軍が勝利したことがあります。

1868年1月に「外人の日本国内に於ける、傍若無人の行動」が始まった

富蘇峰は神戸事件(1868年2月4日;慶応4年1月11日)に関する欧米列強の対応を「日本国内に於ける、傍若無人の行動」((注1), p.243)と形容し、欧米列強が幕府にとっても朝廷にとっても「日本に在りて、隠然一敵国の姿」(p.240)をした第三の勢力として認識されていたと指摘します。そして、「傍若無人の行動」の直接の原因を、慶喜が大阪城を脱出した日、慶応4年1月6日(1868年1月30日)に幕府が欧米列強に送った文書だと示唆しています。それは、鳥羽伏見の戦いと、公使館と外国人の警護について書かれた文書で、鳥羽伏見の戦いの結果、幕府が「外人を保護するの余裕なきを認め、『貴国之御旗章御守護之方略有レ之度』などの弱音を吐」(p.242)いたためだというのです。

神戸事件の背景

 しかし、欧米の「傍若無人の行動」は鳥羽伏見の戦い以前から見られるので、神戸事件に至るまでの背景を概観します。

1867年11月9日(慶応3年10月14日):

徳川慶喜の大政奉還

1867年11月16日(慶応3年10月21日):

外国奉行石川河内守利政(としまさ:1832-1868)が英公使パークスを訪問し、大政奉還を伝える。

1867年12月:

大阪で「ええじゃないか」騒動

1867年12月20日(慶応3年11月25日):

大阪でアーネスト・サトウ(1843-1929)と伊藤俊輔(博文:1841-1909)が話し、伊藤はパークスの「来坂と、兵庫の開港と大坂の開市とを延期させることはできないだろうか」と言った。サトウは「もちろんそんなことはできない」と答えた。サトウは「反乱軍(倒幕勢力)が大君を相手に何をしようとかまわないが、もしわれわれ外国人に手をふれるようなことがあれば、かれらは『将軍』の軍隊に加えて、イギリスの二連隊および多くの外国の軍艦とも戦わなければならなくなると告げた」。伊藤は「じっさいに戦闘を開始する期日が決まれば、あらかじめそれをわたし[サトウ]に知らせると約束した」((注2), pp.72-73)。

1868年1月1日(慶応3年12月7日):

大阪開市、兵庫開港、兵庫港に欧米列強の艦隊が集結し、祝砲を連発。

1868年1月6日(慶応3年12月12日):

夜、慶喜が松平容保(かたもり:1836-1893会津藩主)、松平定敬(さだあき:1847-1908桑名藩主)、老中板倉伊賀守勝静(かつきよ:1823-1889)らと二条城を脱出し、大阪城に入る。

1868年1月8日(慶応3年12月14日):

ロッシュ仏公使とパークス英公使が慶喜に謁見し、2公使が罵り合う。

1868年1月9日(慶応3年12月15日):

欧米公使たちが在大阪プロシア 公使館に集合して、中立宣言と政府の現状に関する情報を求める要望書を起草。

1868年1月10日(慶応3年12月16日):

大阪城に外交団全員が集まり、慶喜に謁見。

1868年1月18日(慶応3年12月24日):

サトウとミットフォード(英公使館書記官)が大阪の薩摩屋敷に行き、御門が外国公使たちを京都に招くことと、外交担当を続けるという慶喜にその考えを放棄させることを主張した[引用者強調]。2人は備前藩が朝廷から西宮駐屯を命じられたことを聞いた(p.149)。

1868年1月26日(慶応4年1月2日):

ミットフォードが父親に宛てて、日本が不幸のどん底に陥っている原因は外国人が到来したからだ[引用者強調]と書いた((注3), p.99)。

1868年1月27日(慶応4年1月3日)—1月30日(慶応4年1月6日):

鳥羽伏見の戦い

1868年1月28日(慶応4年1月4日):

備前藩家老日置帯刀(へき たてわき:1829-1918)率いる中軍340人部隊は岡山を出発し、「片上の宿で、鳥羽伏見の変を聞いた」((注4), p.27)。

1868年1月30日(慶応4年1月6日):

慶喜大阪城脱出

内乱中に神戸開港を強引に求め、浮かれる欧米列強

 欧米列強の砲艦外交で日本国内が大混乱し、内戦が始まることを知りながら、欧米列強は1868年1月1日に神戸を開港させ、神戸港に集結した軍艦から礼砲と称して神戸周辺に轟く大砲を鳴らし続けました。その様子を『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1868年3月28日号)が「日本の瀬戸内海の開港」(Opening of the Inland Sea Ports of Japan, p.304)と題した記事で伝え、銅版画も掲載されています。

キャプション:The Port of Hiogo, with the British and American Fleets at Anchor. (ILN, 1868年3月28日、(注5)

英国とアメリカの艦隊が停泊中の兵庫(神戸)港

 今年の第一日目に日本の兵庫港と大坂市が全文明国の商業に対して開かれた。大坂(Osaca)は日本(Niphon)の東海岸にある江戸ほど大きな都市ではないが、最も強大な大名、封建的プリンスである大君、または将軍の住まいであり、この帝国の本当の政治的社会的大都市である。イギリス・フランス・アメリカ、その他の外国人商人は今まで江戸の郊外にある横浜と昔のオランダ居留地だった長崎に出入りを制限されていたが、今や大坂に住むことが認められる。兵庫港に波止場や倉庫建設のために便利な区域が与えられた。ここは100エーカーの大きさの平らな砂地で、すでに分割されて競売にかけられることになっており、異なるヨーロッパ領事たちの旗で守られている。

 掲載のスケッチは海軍測量船、英国海軍艦艇シルビア号のパーマー代理中尉によるもので、彼は以下のように書いている。「兵庫(Hiogo)と神戸(Corbé)の二つの湾は並んでおり、小中サイズの船の停泊に最高で、また、世界最大級の艦隊の外港錨地としても安全だと思われる。1868年1月1日は条約によりこの港が開港されることに決まっていて、その2,3日前から主に英米艦隊が集結し、このイベントにお祝いの敬礼をすることになっていた。イギリス艦隊は11隻と砲艦1隻が2列に停泊した。アメリカ艦隊は4隻だ。

 午前8時に船にはマストの先に旗、主要マストに日本の軍旗が掲げられ、正午には集結した船々から日本の旗に対して21発の礼砲(royal salute)がイベントの記念と承認として鳴り響いた。午後はお祝いの訪問があり、大坂と兵庫の各国公使館で掲揚される様々な外交旗に対する礼砲があった。上のスケッチは神戸の町から21マイルのところにある非常に美しい瀧の近所で、700フィートの高さからの眺めである。家々が囲んでいる前景の入江が神戸湾、遠くの入江が兵庫湾で、町の名前も兵庫だ」。
 1月初旬のこの手紙の日以降、日本では内戦が勃発し、その影響で兵庫と大坂のヨーロッパ居留地の建設は遅れそうだ。若いミカド、君主である天皇は、大君に敵対している大名たちと薩摩藩主の人質にされている[引用者強調]。大坂の近くで大君の軍隊と薩摩藩主の軍隊が戦った。大君が破れ、江戸に逃げたと報道されている。しかし、ミカドは外国の公使たちに条約を遵守すると約束する告知をした。ハリー・パークス卿[イギリス公使]とイギリス公使館全員はイギリス海軍オーシャン号に乗船し、全外国人が大坂から無事に避難した。

神戸開港の祝いは「恨みを買うような、不愉快な光景だった」

 ほとんどのイギリス人読者は欧米列強の礼砲騒ぎを喜ばしく読んだのでしょうが、この祝いを苦々しく見ていたシルビア号の26歳の中尉がいました。この記事が引用した英国海軍艦艇シルビア号の代理中尉と同じ光景を見ていたイギリス人士官です。

 神戸港が海外貿易に開港されるという偉大な国際式典が行われた時、我々はシルビア号の中から参列した。その時の神戸と現在の神戸の違いを描くのは難しい。なぜなら外国に対する日本人の敵意がこの地域であまりに際立っていたので、嫌がる日本政府からハリー・パークス卿が強奪した条約[訳者強調]のこの条項を実施するために、12隻のイギリス軍艦、3隻のアメリカ軍艦、3隻のフランス軍艦、それ以上がここに集まっていたからだ。

 それは恨みを買うような、不愉快な光景だった。なぜなら、我々の大砲に守られて—ロイヤル礼砲(royal salute)が発砲されたのだが、ロイヤルと言えることは全くないから、なぜロイヤル・サリュートと言うのか神のみぞ知る—いわゆる貿易商と呼ばれる大群、中国の港から来た外国コミュニティのクズどもが下劣な急ぎ方で岸に突進してきた。彼らが運んできたのは、ウィスキーの箱だが、水兵達はこれを優雅とはほど遠い”rot-gut”(腐った内臓)という名で呼び、安酒を強調している—くずのような織物の梱包やあらゆる種類の詐欺的ガラクタだ。これらを不幸な日本人は騙されて買わされる:条約で決められた法外な交換レートで、いつも純金と純銀で払わなければならない。

 夕方には土地使用権のある地区の上にテント小屋が何列も建てられた。一方、日本人の家が2,3軒入手され、既に酒店として繁盛していた。したがって、夕暮れよりずっと前に、この平和できちんとした日本の町、数世紀にわたって暴動など知られていなかった町が、まるで地獄が解き放たれたように変貌してしまい、日本人とヨーロッパ人が酔っ払ってふらつきまわり、喧嘩し、怒鳴り合い、女を追いかけ、文明国ではとても認められないような行為をしていた。キリスト教文明のこの就任式は下品で粗野な堕落だった[訳者強調]。

 西洋人が貿易のできる土地使用権のある地区は40から50エーカーの広さの砂地だが、この境界の外に出るのは危険だった。サムライが周囲に立っていて、酔っ払いの乱暴者さえもそれが何を意味するか知っていた。この間、領事館の旗が様々な国に割り当てられた家の上にはためいているのが見えた。(中略)これら世界の侵入者達の中で目立つのはドイツだ。艦隊は神戸に1週間ほど停泊した。((注6), pp.372-373)

 これはイギリス海軍のジェームズ・ウィリアム・ギャンビア(Jamese William Gambier: 1841-1909) という1868年時点で中尉だった人の回顧録『私の人生における陸と海との結びつき』(Links in my life on land and sea, 1906)からの拙訳です。

神戸事件に関する英米の異なる説明

 1868年2月4日に勃発した神戸事件を英米側がどう捉えたかを、アーネスト・サトウの日記と英米公使の本国への報告から概観します。

出典:A Diplomat in Japan, (注7), p.57

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アーネスト・サトウの日記:1868年2月4日(慶応4年1月11日)

「午後二時頃、[備前藩の]ある家老の行列が一名のアメリカ水兵を射撃した[引用者強調]。その水兵は、行列のすぐ前方を横切ろうとしたのである。この発砲につづいて、かれらは出逢った外国人をひとりのこらず殺害しようとしたが[引用者強調]、幸いにも大事にいたらなかった」。アメリカ海兵隊、イギリス護衛兵、フランス水兵が上陸し、射撃を開始。((注2), pp.191-192)

  サトウがパークス英公使に進言:「もし備前(岡山)側がかれらの行動を納得のゆくかたちで釈明しないならば、諸外国はこの問題を日本全体との紛争と見なす、という趣旨の声明を出すことをすすめた。かれ[パークス]が他の公使たちの同意をとりつけたので、わたしはこの声明の写しを持たせて、捕虜を備前側に追いかえした」(p.193)。

パークスの英外相宛報告:「二十名ないし三十名の槍を持った男が、隊長命令で縦列をつくり、街道上のだれかを攻撃するかの如く、槍を構えるのが見えた。それにすぐつづいて叫び声がおこり、混乱がはじまった。(中略)外国人側に負傷者は出たが、死亡者はひとりも出ていない[引用者強調]」(1868年2月13日付, pp.195-196)。

アメリカ公使ファルケンバーグの国務省宛報告書

 「今月4日、午後2時半頃、松平備前守、御門を支持する藩の部隊が兵庫から大阪に向かう道、外国租界の背後を通っていました。兵庫で部隊は数人の英米士官に遭遇し、外見が醜く、振る舞いは無礼だ(ugly in looks and uncivil in demeanor) [訳者強調]と報告されました。(中略)この道が非常に人家の多い通りから離れ、草原に届く角の近くで、2人のフランス人が行軍を横切ろうとしました[訳者強調]。その時、槍を持った1人の男がフランス人の脇腹を突いたのです。もう1人がフランス人の仲間を突こうとしましたが、手で受け流したためにわずかな負傷をしました。

 即座に、その分遣隊(150〜200人)の司令官とおぼしき士官が馬から飛び降り、日本語で指令を出すと、エンフィールド銃で武装した部隊が周囲の外国人と、この広場の向こうのアメリカ・イギリス・イタリア・プロイセン公使館の上にはためていた国旗に向けて無差別銃撃を開始[訳者強調]しました。すぐに、外国人全員が私とイタリア・プロイセン代表が公使館としている税関(運上所)に向かって逃げました」(スワード国務長官宛、兵庫米国公使館、1868年2月7日、(注8), p.641)。

備前藩の届出:「みだりに割り込み」「理不尽に押し通り」

 欧米が「一名のアメリカ水兵を射撃した。その水兵は、行列のすぐ前方を横切ろうとした」と述べたり、「2人のフランス人が行軍を横切ろうとしました」と本国に報告したり、異なる見解を示しています。一方、当事者であった備前藩がどんな届出を出していたか、蘇峰と大岡が数種類の届出書・始末書を引用して紹介しています。以下は蘇峰と大岡共に引用している家老の日置帯刀の始末書(1月21日、1868年2月14日付)届書です。 

神戸村通行之砌[みぎり]、先手行列之中間へ外国人両人左手ヨリ右へ通懸候ニ付、差押候内、通詞之者取扱ヒ相止メ申候、尚又壱人右手ヨリ左ヘ通懸候ニ付、差押候処、次之隊ヘ懸り割込候ニ付、色々取扱ヒ、手間似等を以て供先へ相廻候様申シ諭シ候処、殊外憤怒之顔色にて大声を発し、理不尽ニ押通り、同時左手人家よりも壱人短銃を以て出合狙ヒ懸候ニ付、其場之勢ヒ已ムヲ得ズ道具を以て突懸候処、浅手ニ御坐候哉、((注4), p.30)

「行列を突切るなんて非礼なことをするものは、外国でもなかった」

 大岡はこの引用の後、大名行列の通行に際しての慣例について解説しています。当時の日本の国内法で、庶民は土下座だったが、武士は「立っていても構わなかった」と紹介した上で、外国人が兵服を着た兵士の場合、「藩兵に同じ武士との認識はあったであろう」と述べ、以下のコメントが続きます。

ただ日本人なら立ち止って、武鑑を出して紋所を見比べるぐらいであるのに、外国兵は好奇の眼で眺め、にやにや笑っていたりする。こっちも睨みつけるということから喧嘩になるのである。(p.31)

 そして、「行列を突切るなんて非礼なことをするものは、外国でもなかった」とコメントした上で、昭和13(1938)年刊の『神戸事件』に記載されているウィーンで起こったイギリス人の行列横断者が射殺され、犯人は義務を果たしたまでだと処罰に応じなかった例を紹介しています。

欧米列強からの通告書は「尋常ならざる剣幕」「威嚇的」

 サトウが起草し、備前藩側に送ったとされる通告書について蘇峰がコメントしています。『官軍東軍交戦篇』第11章中「新政府が遭遇したる最初の外交事件」と題された節で、「神戸に於ける備前兵の外人殺傷事件が出来した。而して之に対して、外人等は直ちに左の如き通告書を発した」と述べて、通告文[日本語]を引用してから、以下のようにコメントを付しています。日本語の通告書だけでなく、英文を引用する蘇峰の姿勢には、真珠湾攻撃直前の日本の読者が読み取れて当然という感覚だったことが窺えます。ここでは便宜上、英文の後に拙訳を付し、代名詞が一種類しかない英語のyouを、「威嚇的」な調子を示すために「お前」にして訳します。

本日松平備前守(池田章政)家臣池田伊勢、日置帯刀、神戸町通行之節、右両人供之内より、無レ故槍戟砲器(やりほこほうき)を以て、外国人を襲候は、何故に候哉。早速申訳に罷出可レ申候。若各国公使とも満足する様、申訳不二相立一に於ては、彌(いよいよ)列国に対し、干戈(かんか:盾と矛)を動し度見定め、猶外国よりして処置(しょち)に可レ及候。左候ては只備前藩に不レ限、日本国中之大災難に可二相成一候事。
 正月十一日 [1868年2月4日]
右各国公使より被二申出候事

如何にも尋常ならざる見幕だ。果して『無レ故』外人を襲いたるもの乎、否乎。(中略)如何に其の文句が威嚇的であるかは、其の原文を見れば尚更ら分明だ。
You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measures to punish the outrage.
[お前は即刻まかり出て、この件を説明しなければならない。もし全額賠償が与えられないなら、日本が外国の敵だとみなし、我々はこの暴挙を罰する措置を講じる]。

如何にも居丈高な広言である。而して(そして)最後に、
It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, but may also cause grave trouble to the whole of Japan.
[この件は備前藩だけの問題ではなく、日本全土に深刻な問題を生じさせるかもしれないと覚えておけ]。

斯(かか)る威(おど)し文句を突き附けられては、新政府が、如何に狼狽(ろうばい)し、如何に閉口し、如何に当惑したる乎(か)は、固(もと)より想像に余りある。而して外人側では、矢次早(やつぎばや)にそれぞれ其の通告をした。((注1), pp.245-247)

欧米列強の二枚舌外交と、船舶拿捕と略奪

 事件の原因が外国人側にあることは、アメリカ公使ファルケンバーグの国務省宛報告書で2人のフランス人が行軍を横切ろうとしたと書いていて、備前藩の報告と一致しているので、明白です。アーネスト・サトウも当日の日記にそう書いています。ところが、彼がパークスに進言して起草した維新政府宛の通告書には「故無く外国人を襲撃」と書かれていた上、事件の翌日、1868年2月5日に、兵庫港内停泊中の諸藩の船6隻を拿捕しました。この欧米列強の行為を「弁解の余地のない強盗行為であった」と大岡昇平は批判し、「名目は備前藩の如く攻撃を加え来る可能性があること、だが、本音は償金の担保であった」という船は後に返されましたが、外国人海兵に略奪されたものは戻ってきませんでした。その詳細を岡久の『明治維新神戸事件』(1938)その他から引用しています。

福岡藩の損害:福岡商人の財産千六百両、機具機械博多織等見積価格約六百両、機械類の破損三百両
有馬藩の損害:現金百四十両、機具類数十点
宇和島藩の損害:厳密には五代友厚と英商グラバーの共有船で、現金約千六百両、天保銭約一万五千枚等の返還をフランス公使に「談判したが、取り戻せなかった」。(p.36)

これらは拿捕した外国海兵による略奪でしたが、大岡はそれら外国海兵に対する同情の思いも吐露しています。

各国極東派遣艦の水夫はじめ、恐らくは軍人まで、アジア諸国で行って来た慣習であって、その軍紀がいかに乱れていたかがわかる。

 しかし彼等のために考えれば、これぐらいの役得がなければ、極東海軍に投ずる海員はいない。またもし賠償金が取れなかったら、各公使の責任になるのである。一八五七年(安政四年)の「作りすぎ」不況以来、ヨーロッパの自由競争資本主義は頭打ち状態にあり、七三—九五年の「大不況」の結果、帝国主義に入る前夜にあった。イギリスは生産過剰の綿布の売込先に、フランスは原料不足の絹の輸入先をアジアに求めてやっきになっていた。出先機関は、その出費(海軍出勤)に引き合う利益をあげねば落度になるのであった。(p.37)

 大岡のこの指摘には太平洋戦争を体験した人の貴重な視点が表されていると思いますが、略奪の次は民間人の殺害や強姦などにエスカレートするのが戦場ですから、戦争を始めないことが権力者の責任という考えも示唆されているように感じます。

備前藩側には攻撃の意図はなかったのに、欧米側は日本からの攻撃を強調

 アメリカ公使ファルケンバーグは国務省宛報告書で「分遣隊(150〜200人)の司令官とおぼしき士官が馬から飛び降り、日本語で指令を出すと、エンフィールド銃で武装した部隊が視野にある外国人と、この広場の向こうのアメリカ・イギリス・イタリア・プロイセン 公使館の上にはためていた国旗に向けて無差別銃撃を開始しました」と、威嚇射撃が中心だったことを明確に述べています。威嚇射撃を命じた「司令官とおぼしき士官」は瀧善三郎(1837-1868)です。この点について、大岡は以下のように述べています。

この時、滝が『鉄砲』と叫んだことになっている。それが『発砲』と聞き誤られて、一同ばらばらに居留地の方へ発砲した、という。しかし命令の声をまったく聞かなかったとのプロシャ人の証言もある。(中略)
 発砲してしまったにもかかわらず、反撃に備えて戦闘形態を取らず、呑気に行軍を続けていたのだから、射撃は深刻なものではなく、威嚇だったことを示すのではあるまいか。
 備前兵は戦う気はなく、生田川右岸を布引へ向って退却した。しかし、外国兵の射撃が厳しいので一度踏み止まって応戦したが、優秀な外国の兵器にかなわずとみて、砲三門、荷駄を遺棄して、生田川の流出口、布引の山中へ逃げ込んだ。(pp.34-35)

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1 蘇峰 徳富猪一郎『近世日本国民史 明治天皇御宇史 第六册[官軍東軍交戦篇]』明治書院、昭和16(1941)年11月15日発行 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1220643
2 萩原延壽『大政奉還 遠い崖—アーネスト・サトウの日記抄 6』朝日文庫、2007
3 ヒュー・コータッツィ(編)、中須賀哲朗(訳)『ある英国外交官の明治維新—ミットフォードの回想』、中央公論社、昭和61(1986)年
4 大岡昇平『堺港攘夷始末』(1989)中公文庫、2004
5 The Illustrated London News, Vol.52, 1868 Jan.-June. Hathitrust Digital Library,
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006994415
6 J. W. Gambier, Links in my life on land and sea, New York, E.P. Dutton and Company, 1906. Hathitrust Digital Library,
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=coo1.ark:/13960/t0bv81t4n
7 Earnest Satow, A Diplomat in Japan, Philadelphia, J.B. Lippincott Company, 1921. Hathitrust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=coo.31924008572897
8 Papers relating to Foreign Affairs Accompanying the Annual Message of the President, to the Third Session Fortieth Congress, Part I Washington, 1869, pp.641-644. Hathitrust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015050719668