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2021-03-05

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-5-2)

1895(明治28)年7月の『ニューヨーク・タイムズ』で日本のコレラ検疫対策が称賛されました。125年後の日本で注目された後藤新平の一大検疫事業です。一方、2020年の日本の新型コロナウイルス対策については、安倍政権の科学無視の対応をNYタイムズは批判しました。

彦島[下関]弟子待検疫所、田之首火葬場(注1)

「日本の衛生の進歩」(Sanitary Progress in Japan)

 1895年7月20日のNYタイムズに掲載された記事 「日本の衛生の進歩」は、6月1日に開始された23万人の日清戦争帰還兵の検疫事業について端的には述べていませんが、時期的には重なっているので、最初にこの記事を抄訳し、その後、日本がこの検疫事業をいかに行ったかをその報告書『臨時陸軍検疫部報告摘要』をもとに見ていきます。

 最近の記事でブラジルとアルゼンチン当局がアジア・コレラ(Asiatic cholera)の初期流行の抑え込みに成功したことを紹介した。(中略)これは過去12年ほどの南米における衛生行政の大きな進歩を示している。しかし、最近の日本の経験は、この分野での更に驚くべき進歩を示している。

 日本は長年、中国から来るコレラ感染に晒されてきた。この島国は何度もこの感染のエピデミックに苦しんできた。1877年にようやく検疫所が設置され、衛生法ができたが、この仕事は当時のヨーロッパ人居留者の医師によって提案された。1877年から1890年の間に幾度かコレラの流行があったが、衛生行政は貧弱で効果がなかった。1890年から今年の春まで、日本はコレラに見舞われなかった。澎湖諸島(Pescadores Islands,台湾海峡にある諸島)と満州にいた軍隊の間でコレラが発生し、検疫規則があるにもかかわらず—現在は非常にいい—日本兵の帰還で港から内陸部にまで広まった。

 戦争中に帰港地で最良の検疫規則をうまく実施するのは難しい。しかし、本州の39県のうち24以上の県でこの病気がすでに広がっている時に、この病気の抑え込みができたことは、日本の衛生行政がいかに素晴らしいかをはっきり示している。復員兵や軍隊と関連のある人々によってコレラが地方の100程度の村々に広がっていた時に、衛生当局は抑え込みを開始し、非常に厳しく、非常にうまく遂行したので、コレラが持ち込まれた軍港以外では、1,2の症例か多くても6例しか発生しなかった段階で、全ての感染地域で瞬く間に抑え込まれた。

 汚染された港ではコレラは完全に抑え込まれたわけではないし、中国から日本兵の帰還が続く限り完全に抑え込まれることはないだろうが、軍港でのコレラは制限され、非常にうまく対処された。[1895年]6月中旬までの日本におけるコレラ症例は、本州の大部分にすでに広がっており、多数の地域が汚染されていたにもかかわらず、全部で1,400例以下だったので、2,3の港を除いてはコレラは抑え込まれたと我々は理解した。

 日本にいる有能な観察者によると、日本政府が衛生行政を設立し、完成させるにあたって、また、最近のコレラ・エピデミックをコントロールし抑え込む仕事をするにあたって、他国の専門家からの助言や援助を受けなかったという。しかし、日本政府には数年前から衛生局の役人として日本生まれの著名な衛生と細菌学の専門家を複数抱えている事実を見逃してはならない。これらの人々の先頭にいるのは北里博士だ。彼はベルリンのコッホのもとで研究し、ベーリング(Emil von Behring:1854-1917)がジフテリア抗毒素の発見に結びついた実験をしている時にベーリングの同僚だった。実は北里博士はこの発見の名誉の一部を授けられるべき人物である。彼はドイツを離れる前に、動物の免疫と、現在、血清療法と呼ばれているものの使用に関する有益で貴重な調査を行った。母国の保健局の役人になった後、彼は「疫病」と呼ばれる古代の病気の特徴的なバシラス属[真正細菌]を中国で発見した。

 日本はこの数年間、文明国の最も有用な特徴と発見と慣行を必死にこの島国に持ち込み、実現しようとしてきた。この事業の中に近代衛生が含まれていた。政府の代表が海外に送られ、教育に最適な人々から学んだ。これらの日本人はヨーロッパの知識を獲得して日本に戻ってその知識を使い、また他の日本人にその知識を授けた。世界はその知識が戦争でどう使われたか知っている。そして今後はそれがどう平和的技術に使われるか世界は見ていく。以下のいずれがより素晴らしいかを言うのは簡単ではない。この非常に興味深い国の人々によって欧米文明の多くの有用な特徴が即座に採用されることか、日本が採用した進歩のために海外に目を向わせた新たな衝動とその源か(注2)

1895年の検疫・隔離事業

 上の記事で称賛されている明治日本の衛生行政は、125年後の新型コロナ・ウィルス対策において令和の日本政府が学ぶべきお手本です。ところが、安倍・菅政権は真逆の対応をし、1年間で7,501人(2021年2月20日現在、(注3))の死者を出しています。約23万人の検疫・隔離をどう達成すべきかという問題に対応した内務省衛生局長・後藤新平(1857-1929)の大事業については、2020-21年のコロナ・ウィルス感染対策に右往左往する安倍・菅政権下の日本で注目を浴びました。この事業の詳細が1896(明治29)年に陸軍省から『臨時陸軍検疫部報告摘要』(注1)として公刊されました。これを読むと、細心の心配りがされた計画、実施内容であったことが伝わってきます。

 その「緒言」で後藤は臨時陸軍検疫部設置の必要性、経緯、内容などについて10ページにわたって概略しています。戦争に疫病はつきもので、日清戦争後に帰還兵23万人が持ち込むコレラその他の感染症を水際対策で防がなければ、国中にコレラが広がり、「凱旋はたちまち悲鳴と化し哀慟となり」、多数の命が失われ「生産を害し戦闘以外更に一層大なる国力の疲弊を来せる」という心配を野戦衛生長官・石黒[忠悳ただのり:1845-1941]軍医総監に伝えました(p.1)。

 同時に、彼が設立した「臨時陸軍検疫部」の精神が「仁慈に出でたるものなるに拘らず」(p.2)、1日も早く故郷に凱旋したい23万人を検査・消毒・隔離することがいかに難しいかも予想されていました。そこで周到な工程表を作成し、実施に当たって①検疫官の職権は独立強固であること、②検疫場の設備は伝染病学の学理に従うこと、③検疫作業は「分科判明、序次整然」(p.2)であることの3要件を徹底します。検疫作業を滞りなく進めるために、検疫の主旨と順序を説明した消毒場の案内図を数十万枚印刷配布して周知した結果、23万人が「整然乱れず我職員をして敏活の運動を為さしめたる」ものだった、「感嘆の至に堪えざるなり」(p.9)と述べています。この「臨時陸軍検疫所消毒場案内」は兵卒にも読めるように全漢字に和語の読み方のルビがふられています。そして、人夫たちにわかるようにコレラの感染の仕方、防ぎ方を解説した文書を配布しています。最後に、検疫した船舶数687艘、人員23万2346人、消毒した被服携帯品93万2779点と記されています。この後の詳細で、23万2346人のうち、検疫所を通過して凱旋した人数が16万9000人余、その帰途にコレラを発症したのはわずか37人だったと記載されています(p.66)。

 この内容を要約して紹介します。付記するページ数は『臨時陸軍検疫部報告摘要』の該当ページです。なお、カタカナ書はひらがなに、できるだけ現代日本語に変えて引用します。

検疫事業の決断

  • 事業の重要性を理解し、潤沢な予算を即断:石黒が陸軍大臣に検疫設備を上申する一方、中央衛生会委員長谷川泰(1842-1912)も日清戦争後の防疫を内務大臣に建議して、1895年3月上旬に中央衛生会は後藤を広島大本営に送りました。内務大臣は参事官・久米金彌(1865-1932)を同行させ、広島で陸軍次官兼陸軍大臣代理の児玉源太郎(1852-1906)と石黒軍医総監と会議すると、児玉はこの設備の必要性をすぐに理解し、後藤に事務官長として全権を任せました。

     後藤は検疫・消毒・隔離・病院・火葬場などの施設の建設・運営の費用として100万円と高めの見積もりを出しましたが、児玉は150万円を即決しました。後藤が当初提示した100万円は現在の100億円相当で、「当時の衛生局全体の予算を超える金額」((注4), p.49)だったそうです。

  • 1895年3月30日勅令「臨時陸軍検疫部管制」発布;4月1日:児玉源太郎が部長、後藤新平が事務局長;10月31日「臨時陸軍検疫部」廃止

検疫所の選定(p.12)

  • 開港場を避け、広島・宇品、下関、大阪、北海道・小樽に検疫所を、100万円の経費で3ヶ月で設置する。広島の似島[にのしま]検疫所予定地は2万3000坪、建家8617坪;彦島検疫所[下関]1万9300坪、建家5926坪;桜島検疫所[大阪 ]2万40坪、建家6019坪。
  • 似島検疫所では1日5,000〜6,000人、彦島桜島小樽の三検疫所では一日各2,500〜3,000人の検疫消毒を行うことが目的とされた。7月1日に検疫事業開始日と予定された。
  • 日清戦争講和交渉の結果、復員兵の帰還が早まることになり、事業開始を1ヵ月繰り上げないと、事業の目的が達せられないことになった。そのため、小樽の検疫所を廃止し、3カ所の建設を大工職工役夫を増員し、昼夜兼行で建設を急がせ、6月1日開始に間に合わせた。

土木工事・建築工事(pp.66-9)

  • 3月下旬に土地借入に着手、4月4日以来土工を起こし、土地の削平、海面の埋め立てに日夜数千人の工夫が携わった。
  • 彦島の工事中、5月17日に工夫がコレラを発症し、恐怖に感じた工夫の過半数が逃げてしまい工事中止になってしまったが、6月5日までには主要部分が完成した。
  • 建物の種類と棟数:消毒部(似島14棟、彦島12棟、桜島10棟)、停留舎(似島24棟、彦島24棟、桜島15棟)、避[伝染病]病院(似島16棟、彦島13棟、桜島12棟)、其他事務所、兵舎、倉庫、炊事場、厠等、総棟数は似島139棟、彦島153棟、桜島109棟、外に火葬場各1箇所、汚物焼却場各2箇所

消毒装置の設計・製作(pp.14-6)

  • 消毒機関の設計は内務省の消毒所に設置された消毒汽鑵の設計を担当し、その技術に経験ある元内務省技手の下村当吉が主任となり、後藤新平が学術上改正を要すべき点を明示した。
  • 4月3日に後藤は、中央衛生会委員・長谷川泰、医科大学教授医学博士緒方正規(まさのり:1853-1919;1886年に帝国大学医科大学の衛生学初代教授)、医科大学助教授坪井次郎(1863-1903)、内務省技師医学博士中浜東一郎(1857-1937;ジョン万次郎の息子)、伝染病研究所長医学博士北里柴三郎、陸軍省医務局長心得陸軍軍医監・足立寛(1842-1917)、同医務局御用取扱陸軍二等軍医正・吉田迂一、機関技術主任嘱託下村当吉を参列させて、陸軍検疫案を提出して審議に付した。
  • 4カ所の検疫所に設置予定の蒸気消毒鑵は13組必要で、その製造据付を事業開始予定の7月1日前までとして、短期間での製造を神戸川崎造船所、大阪鐵工所、東京石川島造船所、東京三好工場等の四所に命じた。
  • 消毒装置は汽鑵[ボイラー]と消毒罐とより成り、似島は5組、彦島桜島に各3組、小樽に設置すべきもの2組の計13組を製造し、その6組は神戸川崎造船所に、7組は大阪川口鉄工所が製造した。4月上旬に製造を命じ、工場側はその後の期限短縮を受け入れ、工費を増額せずに努めてくれて、似島桜島彦島の三所に運送してその据付を完了するまで、僅か2ヶ月だった。
  • 消毒鑵の効果:北里博士が陸軍大臣の嘱託で各検疫所に出張し、消毒鑵の試験をし、消毒鑵装置が完全で30分で確実な効力があることを証明し、制作した技師職工の技術を賞賛。実務に服した下士卒が早く作業に練熟し、秩序を守って敏活に運動し、渋滞なく進めた。将校の指揮が良かったとはいえ、至誠をもってその職に当たった(pp.7-8)。似島の消毒は一昼夜に6,000人で、「世界唯一」(p.5)。

検疫従事者の教育・訓練・実習(pp.25-6)

  • 検疫業務は戦闘よりも危険で、自身が感染し、死に至ることがあるため、伝染病の性質を知り、検疫の手順を間違えないように訓練する必要がある。
  • 「検疫は国家の安寧各人の健康を保護する仁恵的事業たるに拘らず大に人の嫌忌する所となり執行上諸多の困難なる事情の存する」。
  • 事業開始前に大阪・大里、神戸・和田岬の二カ所に分遣兵を集めて、伝染病の性質、検疫の順序を教育し、自衛方法については、後藤新平「事務官長自ら教養の方法を講じ各軍医正以下の事務官をして実地に臨み丁寧に訓練せしめ船舶の構造消毒掃除に就ては特に日本郵船会社予備船長に嘱託し」、和田岬と下関の内務省検疫所で実習した。全⽂ルビ付き「傳染病豫防⼼得」:「傳染病でんせんびやうとはひと⾁眼にてることあたはざる(パテルス)とづくるむしが飲⾷物のみくひもの不潔物きたなきもの媒介なかだちによりてひとよりひと傳染でんせんするやまひにしてこのむしは腐敗くさやす飲⾷物のみくいものほかすべ不潔ふけつなるところ寄⽣やしなひればたちま蕃殖はんしょくして數億萬すうをくまんおほくのひと傳染でんせんまことおそるべきやまひなり」(p.163)と始まる注意書を⼈夫等に配布した。

検疫業務(pp.12-3)

  • 入港した船と乗船者の検疫に当たり、乗船医官が責任をもって検疫官に答える義務を有することを予め陸軍大臣より通達しておくこと。
  • 検疫官は到着船舶中のコレラ患者・死者の有無を乗船医官か船長から聞き、感染の疑いのある者・携帯品・被服の検査を乗船医官の立ち会いの下に行う。携帯手荷物の消毒は汚染の疑いのあるものに限ること。
  • 患者の出た船及びコレラ流行地を経由した船舶は一部か全部を消毒すること。
  • 健康な者は入浴消毒、衣服の消毒を完了しない限り、上陸を許可しない。
  • 患者は直ちに避病院に送り、感染の疑いのある者は「疑症室」に送る。
  • 死体は消毒後に火葬すべきこと。

事例1:白山丸の似島検疫所入港(pp.34-41)

  • 白山丸は大連湾より歩兵第七連隊第一大隊全部を載せ、6月29日入港。その航海中前後74名のコレラ病者を発生し、内12名は航海中に死亡。乗船の際は極めて警戒を厳にし、有毒地を避けて宿営したが、多数が乗船前すでにコレラ病毒に感染し、その潜伏期中に乗船し航海中にこれを発生した可能性が高い。
  • 検疫官はこの状況に接するや、患者運搬人と艀船の多数をもって送院した。健康者は部隊長以下全て速やかに上陸、点検所待合室で更に8名の発病者、消毒所よりすぐに送院。全員消毒を終わり滞留舎に移すや発病の勢い一層激しく日夜絶えず新患者を出し、終に滞留中の発病者182名に及ぶ。
  • 感染拡大の原因を検疫官が報告:この船はインド洋航海に従事して、船底にインド地方で積み込んだ450余トンの砂「バラスト」にコレラ病毒の潜伏があったかもしれない。
  • 飲料水は6月19日に呉港で汲入れたもので、残存するものを検査したところ、まだ腐敗臭を放ってはいなかったが汚濁していた。乗組隊付医官によれば、乗船前輸送指揮官の訓令があり、煮沸水でなければ飲用を許さないと言ったが、乗員中には夜間水槽守護の歩哨に迫って禁を犯し、生水を飲用する者があった。また湯沸かし場でまだ沸騰点に達しないのに先を争って飲用した者があったという。仮にこの水に病毒が残留していたとしたら、これが一因だろう。
  • 船内は極めて不潔、航海中は終始雨天で、室内換気極めて不良で臭気甚だしく不快。これらの状況も伝搬を助けた一因と信ずる。着船当時、患者は船内各所におり、苦悶呻吟の声は船内各室に伝わり、惨状殆ど名状すべからざるなり。乗組軍医は力を盡してこれを救わんとし隔離せんとしたが、何分航海中に74名という多数の患者陸続暴発するをもって如何とも為すべき由なく遂に完全なる予防救護を盡す能わざりし。

事例2:旅順丸の似島検疫所入港(pp.41-3)

  • 旅順丸は7月10日大連湾を発し、13日入港。乗組部隊は第三師団第一野戦病院全部、同第一兵站糧食縦列半部、第三輜重(しちょう:前線に送る軍需品)監視隊の一部及便乗者を含め総員569人。検疫官臨検の際にコレラ病の兆候なく、伝染性の者はいないと明告したが、大に疑いのある者がいた。甲板上に整列させ、検問するに一人として異状を訴える者なく、医官も健康を証明したが、多少病を隠匿しているとの疑いを生じたため、停留を命じた。果たして、消毒中待合室で四名の発病者あり。次で停留舎に於て45名が発症し、51名の多数に上った。白山丸に次いでコレラ病者の最も多き船。
  • 6月29日から7月5日に白山丸乗組員の発病者将校以下759人中183人;旅順丸46人;海城丸44人:神洲丸21人;新発田丸17人発病。

検疫作業順序(pp.27-66)

  1. 展望掛:入港の船を報告し、当直の検疫官たる事務官(尉官医官各一名)当番卒を率いて本船に臨み、明告書の要件を尋問す(p.30)。
    展望所職員数:似島検疫所8人、彦島桜島検疫所8人
  2. 検疫官:尋問後、船内を巡検し、患者、死者がいる時は汽笛を乱鳴させて運搬科に信号し、患者運搬船で避病院、あるいは屍室に運搬させる。又患者の携帯品、死者の遺物で消毒を要するものがある時は、輸送指揮官もしくは船長立ち合いの上、これを調査し目録を作らせて消毒に送る。
    検疫消毒した船舶:似島検疫所441艘(有病船舶156艘)、彦島204艘(有病船舶82艘)、桜島42艘(有病船舶20艘)
    検疫消毒した人員:似島検疫所13万7,614人、彦島7万6,656人、桜島1万80,76人
    船内伝染病患者:似島検疫所633人、彦島288人、桜島75人
  3. 運搬科:検査科より陸揚すべき人員荷物患者及停留人員等の報告を受けたら、すぐに艀船を本船に遣して陸揚す。患者がいる時、検疫官臨検の際、本船の汽笛信号を鳴らす。この汽笛を聞いたら、別に患者船で避病院に送る。
     似島で船より揚陸した人員85,786人;梱包25,541個;手荷物98,899個;郵便物307;船員6,525人。船より避病院に送った患者636人;停留舎より避病院に送った患者518人;消毒場より避病院に送った患者55人。運搬科職員:似島177人、桜島・彦島117人
  4. 沐浴科:陸揚げした人員は、消毒沐浴を行う。点検所、物品預所、待合室、斬髪所、手拭交付所、浴場、休息室、着衣室、浴衣配布掛の八部。
    点検所:消毒すべき人員が来たら、下士以下70人を一組とし、点検所内に整列させ、人員を点検し、消毒所の心得等を説明して一人ずつ入場させる。
    沐浴科点検室職員:似島9人、彦島桜島7人;物品預所:似島10人、彦島桜島8人;待合室:似島24人、彦島桜島17人;浴衣配布係:似島22人、彦島桜島15人;手拭配布係:似島5人、彦島桜島5人;浴槽監視係:似島10人、彦島桜島8人;休息室:似島12人、彦島桜島8人;着衣室:似島8人、彦島桜島6人;物品渡所:似島10人、彦島桜島8人
  5. 物品・被服に名札として付けるべき「指輪番号合鑑」を渡し、何丸乗込将校何名下士卒何名軍夫何名等に類別し、沐浴科事務所に報告し、事務所は人員伝票を作成し、各所に伝達する。物品及被服に付すべき指輪番号合鑑は将校用金色、下士以下銀色、停留人は銅色とする。
  6. 点検の際に発病者がある時は、医官の診断を受けさせ手続きをする。
  7. 散髪を望む者は浴室から鈴を鳴らす。
  8. 手拭交付所は待合室より浴場に通過の際各人に一筋宛て交付する。
  9. 沐浴場は上長官浴室(1人浴)、士官浴室(4人混浴)、下士卒浴室(70人混浴)の区別に従い入浴させる。着衣は各人各個に合鑑を附させ、これを蒸汽消毒科に送り、入浴時間20分間とし沐浴終われば既消毒側に移らせて、ここで浴衣を交付し、直ちに休息室に行かせる。
  10. 休息室では被服の消毒を完了する間、10〜30分休憩させ、茶菓煙草を提供し、新聞雑誌類を閲覧させる。
  11. 着衣室は合鑑と同じ番号をを付した棚を設け、ここに熱汽消毒科より送って来た既消毒被服を配置し、鈴を鳴らして、休息室に知らせる。消毒済みの人は待合室より着衣室に来て、浴衣を脱ぎ、自己の被服を着装し、物品渡所に行く。浴衣は一回使用毎に蒸汽消毒に附して洗濯する。
  12. 物品渡所は消毒を終って来た一回分の全員を整列させ、携帯品貴重品を所持の指輪番号に照合して渡し、預り帳簿に渡済の捺印をし、指輪番号合鑑を纏めて点検所に還付する。その後、運搬科に通報し、宇品に行く者は通信部出張員に、停留すべき者は停留舎に送る。
    似島検疫所で沐浴消毒を施行した人員:将校3020人、下士卒5万1038人、軍夫他5万8688人、計11万2746人。

熱汽消毒科(この他、薬物消毒科、船舶消毒科がある: p.50)

  • 似島臨時陸軍検疫所・薬物消毒科職員49人、熱汽消毒科93人;消毒物件42万5963点
  • 桜島彦島検疫所・薬物消毒科職員39人、熱汽消毒科56人;消毒物件・彦島60,429点、桜島412,170点
  • 船舶乗船者の有病有無に拘らず、乗船者の被服荷物で蒸汽消毒に耐えられるものは全て消毒をするため、船舶が入港する時は昼夜の別なく業務を執行した。
    熱汽消毒科職員:似島93人、彦島桜島56人;薬物消毒科:似島49人、彦島桜島39人

検疫作業順序一覧

 上の図、「検疫作業順序一覧」は感染者と健康者が接触しないように、綿密な動線を示しており、兵士全員に配布されました。この図の右下の凡例には「未消毒健康者、未消毒健康者の衣服携帯品、既消毒健康者、健康者の衣服携帯品の消毒済、消毒を要せざる携帯品、患者、患者の携帯品、患者携帯品の消毒済、死者、死者の遺物、死者遺物の消毒済、未消毒の部分を示す、舩艙と搭載せる未消毒品、同上の既消毒品」が異なる点線で示されています。安倍政権がこれを学んでいれば、2020年2月の乗客乗員3,700人のクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号検疫作業のお粗末さを海外から批判もされず、国内の感染拡大を防御できただろうにと思います。クルーズ船では動線も作らず、感染者と非感染者を接触させた上(注5)、下船させた数百人に公共交通機関を使わせたと、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)に警鐘を鳴らされ(注6)、更に検疫に当たった厚生労働省・内閣職員が感染し(注7)、NYタイムズに、クルーズ船内で感染拡大した理由には、日本に疫病予防を専門にした政府機関が欠如し、感染症専門家でない役人が対応したことがあると批判されました(注10)

焼却科:

業務は汚物焼却、物品焼却、屍体焼却(pp.55-56)

  • 臨時陸軍検疫所・焼却科職員:似島15人;桜島彦島11人
  • 似島検疫所・火葬屍体344、焼却物件1270点;彦島検疫所・火葬屍体177、焼却物件1489点;桜島検疫所・火葬屍体62、焼却物件1926点
  • 似島検疫所の屍体焼却は「最も世人の忌む所の業務にしてことに劇甚の病毒に斃れたる其屍体を取扱う時焼却、総数389人、最も多数は1日16人、屍体の取り扱い消毒法に至っては予め訓示しある方法を確守して之が応用を精密に実行するを得たり。しかれども終に焼却人3名コレラ病に感染し、内1名は死す」(p.56)。

似島臨時陸軍検疫所避病院:

職員総数495人(斬髪師2人、人夫50人、洗濯手5人を含め:pp.22, 249)

  • 避病院:軍医11人、看護長12人、看病人200人
  • 疑症室:軍医9人、看護長7人、看病人100人
  • 快復室:軍医7人、看護長6人、看病人50人
  • 避病院入院患者総数:1260人(7月中が最多で620人)、死亡382人。

桜島及彦島臨時陸軍検疫所避病院:

職員総数322人(斬髪師2人、人夫50人、洗濯手5人を含め:p.22, 249)

  • 避病院:軍医7人、看護長6人、看病人130人
  • 疑症室:軍医5人、看護長4人、看病人50人
  • 快復室:軍医4人、看護長4人、看病人30人
  • 避病院入院患者総数:彦島523人、死亡199人;桜島211人、死亡58人。

停留舎(pp.244-5)

  • 毎朝8時に停留人の診断を行い、伝染性の患者は直ちに避病院に送り、疑わしき患者は一時疑症室に移し、擬似の症状を呈するものは避病院に送る。滞留者の散歩の場所を確保する。
  • 停留した人員:似島2万8,990人、彦島1万2,826人、桜島4,883人
  • 停留中の発病者:似島518人、彦島299人、桜島93人

職員以下の伝染病感染者(pp.250-251)

  • 感染者総数136人(人夫その他78人、卒48人)、死亡56人(人夫31人、卒22人)
     この数字からわかるように、検疫従事者の感染者・死者の大半が人夫や兵卒だったことがわかります。後藤は「緒言」で 検疫消毒に従事し、四六時中患者死者に接触する検疫従事者の激務は、「砲煙弾雨の間を突進せるものの如く」(p.8)、したがって、従事者の給与待遇は戦地の軍人軍属と同じであるべきだと述べています(p.582)。
  • 『臨時陸軍検疫部報告概要』には給与表も掲載されていて、「臨時陸軍検疫所常用人夫給額表」によると、日給は3等級で異なり、特別:46銭以上1円迄;一等:36銭以上45銭迄;二等:35銭以下とされ、注で二等から始め、勉励者に一等、特別を支給すると書かれています(p.127)。日清戦争に参加した軍夫の国内日給は40銭、国外勤務50銭だったそうです((注8)、p.74)。

伝染病研究の機会

  • 後藤は似島避病院に続々とコレラ患者が収容されるのを見て、「病理上の研究を遂ぐべき好機」と感じ、陸軍省医務局に謀りましたが、研究可能な医官は国内外の要職にあり、不可能でした。医務局が様々な所に斡旋をし、最後に伝染病研究所治療部長の医学博士・高木友枝(ともえ:1858-1943)がこの研究に従事しました。短期間でしたが、得るところが多く、後藤は「殊に欣喜に堪えざるなり」と書いています(p.7)。

検疫事業の終了

  • 10月31日:臨時陸軍検疫部を廃止。似島彦島の検疫所における事業は所在地管轄の師団司令部が継続。
  • 7ヶ月の検疫事業のうち、2ヶ月は設備に要し、5ヶ月の検疫経費総額116万円。
  • 8月2日:明治天皇は各検疫所の職員に酒肴料を下賜し、後藤は10月21日に広島の大本営にいた天皇に検疫事業の詳細を説明した(p.8)。
  • 後藤は反省点も述べています。この事業に欠くべからざるものとして「交通用の小汽船内外の電信電話并に電燈等」を備えて「空前の大事業の目的を完了するを得たり」。しかし、電信電話電燈の敷設を先にしていれば、材料の収集、工事の指示などもっと早く工事が進んだと「当時余の注意の此に及ばざりしを遺憾とす」と述べています(p.4)。

衛生行政は戦争をするため?

 NYタイムズの記事の最後の文「以下のいずれがより素晴らしいかを言うのは簡単ではない。この非常に興味深い国の人々によって欧米文明の多くの有用な特徴が即座に採用されることか、日本が採用した進歩のために海外に目を向わせた新たな衝動とその源か」が何を指しているのか、非常に分かりにくいです。前段で、日本の素晴らしい衛生行政は欧米文明から学んだ結果ではないかと問いかけ、日本は欧米から学んだ科学技術を更なる戦争に使いたいという衝動にかられ、その源は欧米に倣って植民地主義を目指し、文明国の仲間入りをすることにあることが素晴らしいと言うべきかと示唆しているのかもしれません。また、日本の検疫事業で見せたような人命救助のために欧米文明を使うことと、その背後にある戦争のための衛生行政とは区別できないと示唆しているようにも読めます。

 後藤は「緒言」で「検疫消毒の実施なからんが更に勇悍なる幾百千の士卒を失い又忠良なる幾千万の民衆を殞(いん:死なせ)し、戦後再び兵力を殺き国力を傷く此戦捷有望の帝国をして疫癘(えきれい:疫病)の蹂躙に任了し」(p.4)と述べていますから、今後も戦争を続けるためには兵力国力を維持するための検疫事業だということです。また、日清戦争について「我征清膺懲(ようちょう)の義挙」(p.5)と、正義の戦争だとしています。「膺懲」というのは「こらしめる」という意味で、42年後の日中戦争開始時に日本が使った言葉ですが、日清戦争ですでに使われていたことで、日清戦争から日中戦争へと日本の侵略戦争正当化の流れが結びついていることを示しているようです。

 一方、日清戦争の10年前、1885(明治18)年に呉市広で「膺懲碑」が建てられたそうです。その前年に起こった台風による高潮被害に対して、「開墾で村を大きくした自分たちにおごりがあった」と認め、この碑の「膺懲」は「災害を天からの『戒め』と捉え、反省と行動を促す」意味だそうです(注9)。日清戦争では、侵略戦争を正当化する日本人の奢りそのものを示す言葉に変化してしまいました。

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1 『臨時陸軍検疫部報告摘要』陸軍省、明治29.7(1896)、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837291
2 The New York Times, July 20, 1895, p.4. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1895/07/20/issue.html
3 「新型コロナウイルスに関連した患者等の発生について(2月20日各自治体公表資料集計分)」厚生労働省、令和3年2月21日
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_16875.html
4 松本健一『明治天皇という人』、毎日新聞社、2010.
5 「社説:クルーズ船感染 得た経験対策に生かせ」『京都新聞』2020年3月10日
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/182342
6 Robin Harding, Alice Woodhouse, “US warns against releasing Diamond Princess passengers in Japan”, Financial Times, 19 Feb. 2020.
https://www.ft.com/content/91446bd6-52b8-11ea-8841-482eed0038b1
7 「クルーズ船で業務 厚労省職員 多くがウィルス検査せず職場復帰」NHK, 2020年2月22日
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200222/k10012296751000.html

「厚労省と内閣官房の職員が新たに感染 クルーズ船で業務」『朝日新聞DIGITAL』2020年2月20日
https://digital.asahi.com/articles/ASN2N5322N2NULBJ00Q.html

8 大谷正『兵士と軍夫の日清戦争』有志舎、2006.
9 道面雅量「広の膺懲碑」『中国新聞』2021年1月26日
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=103247
10 飯塚真紀子「新型コロナ、安倍政権の『ヤバすぎる危機管理』を世界はこう報じた」『現代ビジネス』2020.02.25 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70601