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2022-07-17

英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-2-2)

安倍晋三元首相による明治礼賛と明治産業遺産登録は、明治の産業革命と富国強兵が10代20代の少女・女性の犠牲の上に成り立っていたことを含めた礼賛か検証します。

日本の産業革命を「世界遺産」とした安倍自民党政権

 富岡製糸場が操業開始して142年後の2014年に世界遺産に登録されたと、安倍首相(当時)が産業遺産国際会議で誇らしげにスピーチしました。

西洋諸国以外では初めて、植民地にならずして産業革命の波を自ら取り込んで近代国家に変貌を遂げた日本に、世界中が驚きました。産業国家建設による国の発展を願った討幕の志士たちの熱い思いが原動力となり、(中略)今日の世界に冠たるものづくり立国の屋台骨を作ったのであります。(注1)

 2016(平成28)年には内閣官房の「明治150年」関連施策推進室が、2018(平成30)年は明治150年記念だから、「明治以降の歩みを次世代に遺す」、「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」というスローガンを全国自治体に通達しました(注2)。「明治の精神」と「明治以降の歩みを次世代に遺す」とは具体的に何を指すのでしょうか。

 明治時代は侵略戦争によってアジアの国々を植民地化し、日本人に限っても戦死者数は日清戦争で13,311人(注3)、日露戦争では8万4,000人(注4)とされています。一方、当時の安倍首相がゴリ押ししたと批判された「明治産業遺産」(注5)のうち、明治を通して外貨稼ぎ第一位の製糸業は10代20代の若い女性と子どもを酷使して成り立っていた産業です。男性労働者にしても、19世紀中頃の男子労働者の2分の1が、イギリス植民地インドの労働者賃金より低い賃金でした(注6)
 

明治の富国強兵を可能にした若い女性と子どもの労働

 明治の製糸業と軍国化の関係について、1889(明治22)年に当時の大蔵大臣・松方正義(1835-1924)が蚕業試験場における習得証授与式の演説で解説しました。天皇が外国から軍艦を購入せよと言った時、「日本の軍艦は総て生糸を以て購求するもの」だから軍艦が欲しいなら生糸をたくさん産出することを計画しなければならないと答えたと述べたのです(注7)。つまり、明治時代に欧米列強から軍艦を買うためには外貨が必要で、明治時代を通じて外貨獲得第一位の製糸業を盛んにしなければ戦争はできないと天皇に進言したということです。

 富国強兵を可能にした製糸業は、『日本の下層社会』(1899)、『職工事情』(1903)、『女工哀史』(1925)、『あゝ野麦峠—ある製糸工女哀史』(1968, 1976)などが伝える、子どもを含む若い女性たちによる過酷な労働で成り立っていた産業でした。『女工哀史』の著者・細井和喜蔵(1897-1925)は明治・大正の繊維産業の女工たちの時代を3期に分け、1期目を「日本に組織的な工場が出来た明治十年あたりから二十七八年日清戦役[1894-95]の頃まで」((注8), p.67)とし、この時期について以下のように述べています。

今日でこそ娘を紡績へやると言えば身震いするほど恐ろしがり、そうしてまた醜業婦にでもするかのように卑しむが、当時「会社へやる」と言えばちょっと出世のようにさえ聞こえたのである。(中略)また今日一種の「誘拐業者」若しくは「女衒」[ぜげん]のように言われている彼等[仲介業者]も却って尊敬をさえ払われた。(p.68)

「明治日本の産業革命遺産・富岡製糸場」

 富岡製糸場は官営の模範工場として設立され、目的は洋式の製糸技術を導入し、外国人を指導者として、全国から工女を募集して伝習生とすることでした。その伝習生が出身地に戻って、器械製糸の指導者となることを目指したのです(注9)。ところが明治政府の女工募集に対して、蒸気機械の煙が毒だ、生き血を吸われる、毛唐に教えてもらうのは穢らわしいと応じる者がなかったため、政府が「東京から旧幕府の旗本与力同心などの子女を雇い入れ、漸く百有余人を得た」((注10), p.32)というのです。安倍晋三氏が「討幕の志士たちの熱い思い」と言ったのは富岡製糸場には当てはまらないようです。

 富岡製糸場の伝習生だった和田英(1857-1929)も旧幕府の藩士の娘でした。彼女の『富岡日記』によると、信州で1区に付き16人、13歳より25歳までの女子を富岡製糸場へ出すべしというお達しが出た時、「人身御供にでも上るように思い」1人も応じる人がなかったために、信州松代の旧藩士だった父親が15歳の英を出すことにし、1873(明治6)年2月に16名の女子(13歳〜25歳)が松代町を出発しました((注11), p.11)。松代藩といえば、西洋砲術家として知られ、吉田松陰や坂本龍馬らが入門し、攘夷派に暗殺された佐久間象山(1811-64)が活躍した藩です。

 和田英たちは富岡製糸場内での長州出身者に対する特別待遇について運営側に抗議しました。信州出身者は最初まゆのより分け作業をさせられ、繰場での作業を希望すると運営側に伝えたところ、山口県から女子30名が到着したら希望通りにすると言われます。ところが遅れて来た山口出身者は最初から繰場作業をさせられ、英たちはより分け作業のままだったので、山口出身者は「依怙贔屓(えこひいき)」されていると運営側に泣いて苦情を申し立てました。同様の「依怙贔屓」は東京から見学者が現れるたびに女工たちに余興として盆踊りさせた際に起こります。長野県出身者が200人いたのに対し、山口県出身者が50人なので、運営側が山口県出身者を目立たせるために提灯を立て、「長野県の方を真暗にしてしまい」(p.44)、長野出の女工たちは立腹して、次回からは仮病を使って盆踊りはしなかったと述べています。

錦絵 一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」1872(明治5)年(注12)

毛唐に教えてもらうのは穢らわしい

 「毛唐に教えてもらうのは穢らわしい」と言った庶民の反応は、ついこの間まで攘夷を叫んで欧米人を暗殺していた薩長の武士たちが明治政府の中枢を握った途端に「お雇い外国人」を巨額で招聘して、日本人を教えさせることが「けがらわしい」と言ったとも理解できます。明治初期のお雇い外国人は政府雇いが500人、民間雇いはもっと多く、その給与は「重臣岩倉具視の六百円、参議大久保利通の五百円よりそれぞれ二、三百円も多い額」、「特に工部省のごときは通常経費の約三分の一が、この外国人技師の人件費に支払われていた」(『お雇い外国人』, (注13), pp.237-239)とのことです。アメリカでも日本政府が高給を出すと評判だったのか、誰が何の専門家として、いくらで雇われるか『ハーパーズ・ウィークリー』が頻繁に記事にしています。1871年11月25日号では「インディアナ州国税庁の元副長官、ジョージ・B.ウィリアムズ大将が日本政府によって、日本の国税システムの組織作りと運営のために年俸1万ドルで任命された」((注14), p.1044)と紹介されています。この報酬額は当時のアメリカ海軍提督の年俸とほぼ同額です(注15)

輸出1位を達成し続けた製糸業は「ほとんど女工の業なり」 

 和田英たちは1年後の1874(明治7)年7月に松代に戻り、故郷に新たに建設された製糸場の指導者になりました。生糸は明治時代を通して横浜港から輸出された外貨稼ぎ第1位でした。その地位は1950(昭和25)年まで続きます(注16)。一方、神戸港の場合は、明治元年から輸出品目第1位は茶で、1897(明治30)年に綿織糸が第1位、燐寸(マッチ)が第2位に上がり、1907(明治40)年の第1位は銅、2位が綿織糸、3位がマッチとなっています(注17)。これらの産業のうち、「製糸製造はほとんど女工の業なり」(『職工事情 上』(注18), p.223)とされています。

 伝習生だった和田英の『冨岡日記』からは、その後の女工たちが経験した地獄は窺い知れません。日本の産業革命が確立した日清戦争(1894-95)後、『日本の下層社会』の著者・横山源之助(1871-1915)が工場労働者の過酷な状況を調査した1897(明治30)年が「工場労働者問題が社会問題として注目される画期」(『職工事情』下、pp.514-515)だったとされます。この頃、労働争議が急増したため、農商務省商工局工務課工場調査掛が工場の調査を始め、その結果が『職工事情』に結実しました。

生糸・綿糸・織物工場の女工数

 製糸業の女工たちはどれくらいいたのでしょうか。以下は『職工事情』に記載されている農商務省の調査と「工場統計」をもとにした数値です。

綿糸紡績業:

職工総数(1990:明治33)7万余人。男女比や年齢別の統計がないので、関西16工場の調査結果から推測できるとして、割合が出されています。
女工78.3%:7万人のうち5万4810余人
10歳未満0.06%:420人;10〜13歳10.11%:7077人;14〜19歳36.6%:25,620人;20歳以上53.2%:37,240人

生糸工場:

職工総数10万7,841人(1899:明治32 工場統計)
女工総数99,933人(93%):職工10人未満の工場は含まれていないので、職工数はこれより遥かに多い。年齢別では長野県205工場の調査から推計できる。
10歳未満1%(10万7,841人の1%=1,078人);10〜13歳16%(17,254人);14〜19歳46%(49,606人)。

織物工場:

職工総数86万8544人、女工82万8407人(1990:明治33 農商務省統計表)。
年齢別では地域によって異なるので、10歳女工が多い「大阪府堺緞通[だんつう:じゅうたん]」を参考にします。
10歳未満10%;10〜13歳40%;14〜19歳45%;20〜24歳5%;25歳以上0%

明治・大正の結核罹患者の多くは繊維業の女工

 これら女工たちの悲劇の一つは結核で次々と死んでいったことです。『工業と結核』(1926: 大正15, (注19))という本が出版されていること自体が、女工の結核罹患と死亡の多さが社会問題化していたことを示唆します。欧米の産業革命の発展過程における結核死亡率と比較して、「工業の発展は全ての年齢の人々をして結核症に対する抵抗力の減退を来さしめるもの」(p.4)だとして、日本の場合、「結核に冒される者の割合が工業従事者に著しく、しかも繊維工業が主として妙齢の女子を雇用し、工場の衛生状態が結核発病に好機を與うるところが充分存することを考えれば工業衛生に於ける結核予防の重大なることは容易に了解し得られるであろう」(pp.32-33)と述べています。

 「紡績工女中、肺病患者の極めて多数」で、「その原因が綿塵を呼吸すると徹夜業をなすとにある」(p.43)1921(大正11)年中の「全国の結核死亡者は125,506人、人口1万に対し21.77人、同年の英国の11.2人、ドイツの14.25人より遙に多い」(p.31)とされています。この数を2020年〜2022年6月までの新型コロナ感染症の累計死亡者数30,727人(注20)と比較すると、人口比では1920(大正9)年の第1回国勢調査による人口が55,963,053人(注21)ですから、2022年のほぼ半分の人口で、この頃の結核死亡者がいかに多かったかが分かります。

 職業別の死亡率では人口が多い農業が一位だが、第二位の工業従事者のうち女子の死亡率が男子より多く、「しかも工業の内で繊維工業従事者の女子は千人の死亡者中三〇七人が肺結核で死亡し其の他の結核をも合せるときは千人中四四三・七人の結核死亡」、1924(大正13)年の「帝国死因統計に依ると繊維工業従事者は男工八五〇名女工一、八二一名の結核死亡者がある」(p.31)と記されています。

女工の死亡統計を操作した紡績業界

 このデータの死亡者数が過小評価の可能性が高いことは、『職工事情』で統計上で死者数が少ない理由として、工場側が重症の患者に対して以下のことをしたと指摘しています。

付添人を付して、これを故郷に送還するか、あるいは故郷の父兄を呼び寄せて患者の引き渡しをなすは工場一般の風習なりとす。さすればかくの如き患者にして途中あるいは故郷にて死亡することもあり、工場にて死亡せざる故に、これを工場死亡統計に加えざるなり、これ工場にて調整したる統計に置いて死亡数の少なき所以なり。(『職工事情 上』p.159)

 これが事実だということは、1960年代に当時生存していた元女工や遺族数百人をインタビューした山本茂実(1917-98)が『あゝ野麦峠』で最初に紹介した逸話「ああ飛騨が見える」で明らかです。1909(明治42)年11月20日に野麦峠の頂上で息を引きとった、享年20歳の政井みねの最後について、彼女を信州岡谷の工場から引き取り、背板に載せて飛騨の実家に戻ろうとした兄(当時31歳)のインタビューを元にした女工の悲劇です。工場から電報でみねが病気になったから引き取れと言ってきて、兄が病室に着いた時には、10日前まで働いていたとは信じられないやつれ方でした。工場側は工場内から死者を出したくないから早く連れ出せと急かし、抗議しようとする兄をみねが止めたので、妹が飛騨に帰って静かに死にたがっていると悟って、戸板に載せて工場を出ました。みねに入院を勧めたのですが、みねは一刻も早く飛騨に帰りたいと、野麦街道を幾夜もかけて歩き、その間みねはほとんど何も食べず、峠の頂上についた時、「アー飛騨が見える」と言ってこと切れたと、兄は「六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。当時の彼の衝撃が想像される」((注22), p.25)と著者は述べています。

関西の紡績工女に結核による死亡者解雇者が著しく多い

 1897(明治30)年に神戸港からの貿易第1位に上がった綿糸も、農商務省商工局工務課工場調査掛の1900(明治33)年の調査によると女工が全体の78%で、「欧米の紡績工場においては女工を用いることわが国の如くに甚だしからず」(p.25)と日本特有の状況が記されています。年齢別では、10歳以下はほとんどないが、10歳以上14歳以下の総数1万余で、「全国紡績織工の総数に対して一割六分に当たれり」(p.34)とされています。次に1883(明治16)年に操業開始した大阪紡績会社を先駆けとした綿紡績業も女子労働者が中心でした。

 その労働条件も過酷で、「紡績織工は幼少者といわず婦女といわず悉く徹夜業をなすは一般の事実なり」(p.42)。当然、衛生状態も悪くなり、「紡績工女中、肺病患者の極めて多数」で、「その原因が綿塵を呼吸すると徹夜業をなすとにある」(p.43)としています。『工業と結核』に1923(大正12)年から1924(大正13)年にわたって関西の10紡績工場の寄宿工女(11,957名)の1年間の罹病状況調査結果が報告されています。全病死者数の43%が結核による死亡であること、病気による解雇のうち結核による解雇者が3割を占めていたことがわかったと述べています。そして結核罹患者の年齢別統計では、18歳の罹患率が最多、次いで17歳、15歳、16歳、19歳の順に減少していたそうです(p.32)。

結核罹患の原因である徹夜業を廃止せよという提言に猛反対した渋沢栄一

 女工に結核罹患者が多く、その原因が夜業にあると推測した農商務省が連続徹夜業と体重の関係を調査した結果、夜業を7日続けた結果の体重減は、その後の7日間の昼業でも回復しないため、「過労より生ずる減量に乗じて結核その他の病魔は其の繊弱い女の體軀を抱くのである、(中略)斯くして十万の女工は結核菌の毒矢に面接して働きつゝあるのである」と細井和喜蔵が伝えています(『女工哀史』p.385)。また、日本で組織だった大掛かりな夜業は大阪紡績が1883(明治16)年に始めたと指摘しています(p.108)。大阪紡績会社は渋沢栄一(1840-1931)らが発起人となって設立された民営株式会社です。

 女工たちが劣悪な労働条件・環境によって次々と結核その他の病に倒れ死んでいく状況は、農商務省商工局工務課工場調査掛の調査の2年前には既に問題視されていたようです。1896(明治29)年10月に開催された農商務省の「農商工高等会議」第一回会議(1896:明治29年10月23日)で「職工保護法案」が議論されましたが、女工職工の徹夜業廃止案に渋沢栄一が猛烈に反対しています。重要と思われる箇所を議事録から引用します。

夜業はゆかぬということは、如何様人間としてはネズミとは性質が違いますから、昼は働いて夜は寝るのが当たり前である、学問上から言うとそうでございましょうが、併し一方から言うと成るべく間断なく機械を使って行く方が得である、之を間断なく使うというには夜業ということが経済的に適しているということも、言い得ると思います、(中略)

夜間の仕事をさする方が、算盤の上で利益であるから、やっている、為めに衛生の上から言うと、害があって職工が段々衰弱したと言う事実は、能く調査は致しませぬが、まだ私共見出せぬのでござります、(中略)欧羅巴の丸写しのようなものを設けらるると言うことは、絶対的に反対を申し上げたい、故に今日発議者たる十五番[濱岡光哲(こうてつ:1853-1936)]はお出はござりませぬが、此案に付ては委員をお立てえなって、本会のみでなく、復た次の会までに余程実際の調査を致して見るように致されたいと希望いたします((注23), pp.324-326: 原文のカタカナ表記をかな表記に、旧漢字を常用漢字に変更)

 渋沢栄一は近年「日本近代経済の父」とか「日本資本主義の父」と称揚され、新1万円札の肖像画に決定されましたが、彼が職工保護法に賛成していれば何万人もの若い女性の命が救われたのではないでしょうか。農商務省商工局工務課工場調査掛は職工の悲惨な状況の調査をもとに、「女子十六歳未満者の夜業禁止を導入した」工場法案要領を1902(明治35)年11月に作成したのですが、政府は議会提出を見合わせました。この調査の報告書を1903(明治34)年に発行した調査掛は発行と同時に廃止されました。ようやく1910(明治43)年に議会に提出された時、大日本紡績連合会の主張「夜業は15年間猶予する」案が採り入れられ、女子深夜業禁止が実現したのは1930(昭和5)年でした。

『職工事情』が明らかにした日本の産業革命の実態

 女工たちが結核に襲われたのは夜業や綿塵の吸引によるだけではなく、過酷な待遇が体力を奪ったことも大きな原因だと『職工事情』は明らかにしています。

 諏訪地方の生糸工場の労働時間が「長きことは全国に冠たり」「一日の労働は十八時間[引用者強調]に達することしばしばこれあり」(『職工事情 上』, p.236)。これらの工場は女工達に休憩時間も与えず、食事時間さえ5分のみ[引用者強調]という工場規則を掲げている工場もある;食堂で食事させるのは時間がとられるため、握り飯を仕事場に配布し、「各工女は握り飯を頬張りつつ業を執る処も」(p.239)ある;しかも、「食物は概して粗悪なり」、「諏訪地方の如きは米飯にして副食物は味噌汁と漬物とを常例とし時々野菜を給す。稀に乾魚を与うることあり」(p.274)と述べられています。休業日については、「歳末、歳始、旧盆および氏神祭に休業するは各地方同一なるも、毎月の定期休業日に至っては地方により区々なりとす。年中定期休業日なき処あり、諏訪地方にこの種の工場多し」(p.239)。

 過酷な労働で10代の女の子たちに蔓延した病気のうち、結核以外で挙げられているのが以下の疾患です。

  • 「消化器病甚だ多し」:
    「繰糸工女は長時間座席を離るることなく、疎食に加うるに食事の際ほとんど休憩の暇なきによるならん」。
  • 次に多い「生殖器および痔疾」:
    「繰糸工女は操業の際、木製の小なる腰掛けに終日ほとんど間断なく腰掛け居るを以て、下半身の冷却を来す冬季には足部に一種の霜焼けを生じ、膝関節以下は午後には紫色を呈するを常とす」(p.257)。

 こんな過酷な条件で働かされた上、多くの女工たちは給金も与えられない奴隷状態だったことが『あゝ野麦峠』でインタビューされた生存者たちの証言でも明らかです。勧誘時に親にわずかの金額が渡されるだけで、食事も上記のような粗末なもので、休む時間もない生活で、21世紀と比較したら、過労死レベルの労働を年間105万余人に強制していると言っても過言ではないようです。

工場による女工たちの大量殺人 

 『女工哀史』が伝えている工場側の女工に対する残虐行為には、意図的な大量殺人とみなされる事件があります。時期は記されていませんが、大阪でコレラが蔓延した時に、ある工場で1人がコレラに罹患したのを工場医に隠匿させたために、瞬く間に工場の全寄宿舎に蔓延してしまいました。工場は所轄の警察署と結託して、隔離室という名目でバラックの病舎を建て、患者を押し込め、真正コレラ患者と診断した者は助からないと断定し、

余計な費用や手数を省くために「医者を買収して毒薬を調達させ、患者の飲み薬の中へ混ぜたのである。薬を飲むや、たちまち患者は七転八倒の苦悶を始めて遂にばたばたと虚空をねめて息ひきとるのであった。するとそれを薄々覚った他の患者は、口を緘(つむ)って薬を服(の)まない。すると会社は荒くれな人夫に命じて手足をおさえ口を割り、否でも応でもそれをのませねば措かないのである。

 いよいよ服ませ終って苦悶が始まるともう臨終を待つどころか、そのままバラックから文字通り引きずり出して「死体室」という小舎(こや)へつれて行き、そこで棺桶ならざる釘が出てグリスのついた機械の空箱へ詰め、車に乗せては火葬へ運搬してしまうのだった。(p.259)

 上の引用部分に下線を施したのは、初版で伏字にされていた部分です。岩波文庫版では下線はありませんし、初版が伏字だったことも解説されていませんが、国立国会図書館デジタルコレクションに初版((注24), p.243)が掲載されているので、当該ページを掲載します。当時の読者が「毒殺しても罪にならない、資本家はえらい力を持って居る」と書き込んでいます。この後に、インフルエンザに罹患した女工たちの悲劇的運命についても述べられています。『女工哀史』には地震に際して、逃げようとする女工たちを監禁し、火災からの延焼の危険性があるのに自由にしなかったために全員焼死した事件も記録されています。

女工の誘拐・虐待・強姦事件

 『職工事情 下』には、女工が犠牲となった事件が18件列挙されています。そのすべてが1901(明治34)年から1903(明治36)年に起きた紡績工場の女工の誘拐・虐待・強姦事件です。そして、そのほぼすべてが新聞報道で発覚し、商工局が当該県の警察に報道が正しいかと問い合わせている内容です。これらは氷山の一角に過ぎず、実際は数多くの同様の事件が頻発し、少女達が犠牲となっていたと推測できます。

 生糸市場が好況になると、女工の争奪戦が起こり、「紹介人」が地方細民の婦女に職工生活の快楽面だけを説明して勧誘したり、諏訪の工場主は募集人を沿道に並ばせて、他の工場と契約した女工を騙して自己の工場に引き入れたり、他の工場の女工が外出した時に拉致して自分の工場に送り込んだりするので、募集人や紹介人が「悪漢・弊害」(『職工事情 上』pp.84-89, 242-243)だとしています。以下は18件のうち、代表的と思われる事件の詳細です。

1.

埼玉県の機業家の娘(28)と女性雇人(16)が岩手県出身の女性雇人(16)を殴打し重傷を負わせて、加害者が重禁錮に処せられた。被害者は9歳で両親を亡くし、叔父に引き取られて子守をし、16歳で東京に奉公に出すと騙されて、大宮の機業家に売られた。毎晩1時2時まで休みなく働かされ、衰弱した被害者を雇用者は頭部面部を打ち据え重傷を負わせた。被害者は苦痛と飢えを忍んで2日間縁の下に潜み、大宮町に逃げ、大宮署の巡査が見つけて事件が発覚した。

2.

5人の男性が共謀して、13歳1人、14歳1人、19歳2人、23歳1人を大阪の紡績工場に送ると騙して連れ出し、途中、別の高田紡績に行かなければ殺すと脅し、旅館で3人を強姦して、高田紡績に住み込ませた。5人の女工は苦役に耐えかねて逃げ出そうとしたが、監視が厳しくてかなわず、そのうち1人が助けを求める葉書を親に出したことで、5人の親たちが堺署に娘たちの保護を願い出た。「誘拐事件」として加害者に求刑。

3.

広島県出身の女工(15歳)が神奈川県の鐘淵紡績での待遇に耐えられず1年後に逃げ出し、国許に帰ろうとしたが、旅費がなく、東京市中を彷徨して、警察の保護を受けた。半年養育院にいたが国許に帰ろうと逃げ出し、困窮の末、横浜の「清国人に売淫を勧誘せられたり。最初は拒みかつ驚きたれども、ついには境遇の悲しき、これに従って今日はみずから進んで密売淫をなすに至り」(p.43)。

4.

山梨県の少女14人(14歳4人、15歳4人、16歳3人、17歳1人、18歳1人、19歳1人)の親たちと西多摩の森川製糸場の手代と称する男と契約し、少女たちを引率すると騙して、少女たちの金銭、衣類を取り上げ、静岡県富士紡績に連れて行かれた者、途中の旅館に置き去りにされた者などがいた。親たちは音信がないため届け出、誘拐事件として捜査された。

5.

埼玉県機業家の18歳と19歳の工女が4年前に雇われ、懸命に働いたが食事も与えられず、乱打される虐待が重なり、身寄りもない身を嘆いて、線路に2人抱き合って横たわり、轢死した。

 『時事新報』(1902, 明治35年8月20日)の記者が「これを記すだに身の毛の逆竪(さかだ)つばかりなり」(p.70)と述べる内容もあり、「身の毛の逆竪つ」思いは120年後の今読んでも変わりません。これらの少女たちにとって唯一の抵抗の手段と慰めは「女工小唄」だったようで、『女工哀史』も『あゝ野麦峠』も様々な「女工小唄」を記録しています。また、国民の怒りと恨みが表されている演歌にも「工女」が登場しています。日露戦争後に発表された「社会党ラッパ節」(添田唖蝉坊あぜんぼう:1872-1944, 詞・曲、(注25))は以下のように歌っています。

当世紳士のさかずきに、ピカピカ光るは何ですえ、シャーンぺーンかちがいます 可愛い工女の血の涙
 トコトットット

労働問題の改善を求めた片山潜らと労働・市民運動を弾圧した明治政府

 劣悪な労働環境・条件の改善を求める運動も起こり、本サイトで紹介した片山潜(1859-1933, 7-1参照)が1897(明治30)年に労働組合を促進する労働組合期成会を結成しました。その他にも労働者の問題を解決するための組織が次々と結成されました。片山潜が西川光二郎(1876-1940)と共著の『日本の労働運動』(1901, (注26))で、この頃の活動の内容を記しています。1896(明治29)年末に農商務省の政策諮問機関・農商工高等会議が「職工の取締及保護」に関する諮問案を議論しました。「この諮問案は大蔵省主税局添田寿一[1864-1929]、農商務次官金子堅太郎[1853-1942]、農商務省商工局長安藤太郎[1846-1924]氏等の熱心たる弁護ありたるに関わらず、尚早なりとして(中略)、三十年に入りて大臣次官局長等に大更迭」(p.30)があったと述べられています。

 1898(明治31)年夏、片山潜の労働組合期成会は工場法案について修正案を出しました。例えば、第9条「10歳未満の幼者は工場に於て使役することを得ず 但し特別の事由ある工業に就ては命令を以て本条の例外を設くる事を得」について、「10歳未満の幼者は工場に於て使役することを得ずと規定しながら、但書を附すは何に故ぞ、特別の事由ある工業とは何者ぞ、吾等の不明なる之を知らず」(p.40)と批判しています。また、「第10条 14歳未満の職工は1日10時間を超えて使役することを得ず 但し特別の事由ある時は当該官懸の許可を受け之を延長する事を得」について、「14歳未満の職工は1日8時間を超えて使役することを得ず  但し非常の場合に於ては当該官懸の許可を受け之を延長する事を得」と修正しています。

 同時に、これらの団体を弾圧する治安警察法が1900(明治33)年に成立し、最低限の労働環境や賃上げを訴える集会さえできない状態になりました。『職工事情』の内容は「当時の労働事情を赤裸々に暴露したものだったから、これが官庁刊行物だったといっても、おそらく内務省、司法省等はその社会的影響を案じ、外務省は外国への影響を案じ、これを広く普及するのを阻止した」と推測されています。戦前何度か復刻が企画されましたが「当局は許可せず」、公刊は戦後になってからだったとのことです(『職工事情 下』pp.520-521)。

日本の近代化・工業化は児童労働の増加に結びつかなかった?

 同時代の証言がこれほどあるのに、日本の近代化は児童労働の増加に結びつかなかったという評価を20世紀末に世界に発信したのが、前節で紹介したユニセフの『児童労働の歴史—1800-1985:ヨーロッパ・日本・コロンビアのケース・スタディ』(1996)です。ここに収められている「日本における児童労働、産業主義、家族経済—1872-1926」((注27), pp.73-90)という論文は、明治初期に日本を訪れた英米人の記述で始まっており、日本は子どもを大事に扱う国という印象を与えています。

 1878(明治11)年に日本を旅したイギリス人女性イザベラ・バード(Isabella Bird: 1831-1904)の『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan, )と、大森貝塚の発見で知られるアメリカ人動物学者のエドワード・モース(Edward Morse: 1838-1925)の1877(明治10)年の『日本その日その日』からの抜粋です。

 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。父も母も、自分の子に誇りをもっている。(バード、(注28), p.131)

ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。(中略)だが、日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いているから、これは陳腐である。(モース、(注29), pp.68-69)

 この引用の後に、「しかし、児童労働問題を議論する際に、このロマンチックな見解は大きな誤解を招くかもしれない」(p.74)と述べ、バジル・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain:1850-1935)が1890年刊のThings Japaneseで「産業革命で機械化された大規模産業が確立するにつれて、子ども・年少者・女が男性労働者にとってかわった」と書いていると指摘しています。ところが、日本では児童労働の証拠が少なく、「産業化の悪影響を評価することは難しい」というのです。この後に『職工事情』のデータを紹介し、児童労働はあったが、「日本の工業化は児童労働の増加に結びつかなかった。イギリスでは1816年の全労働力の20%が13歳以下の子ども、7%が10歳以下の子どもだった。日本の場合、山梨の10-14歳の女子の32%が労働し、1851年のイギリスとウェールズでは20%だった。10-14歳の児童労働はイギリスの方が明治の日本より高かった」(p.87)と結論付けています。

「明治の遺産」の暗部を21世紀に再現させた安倍自民党政権

 21世紀に入ると、安倍政権と続く自民党政権は「明治の遺産」の暗部を再現させました。21世紀型「女工哀史」とでも命名できるような、技能実習生制度によるアジア人を対象にした虐待と(注30)、女性を対象として作られたような非正規雇用制度や無賃金の徹夜業を可能にする裁量労働制で苦しむ女性を増やし続ける政策と産業界です(注31)。21世紀の日本のこの傾向は、男女格差の世界ランキングで2021年に日本が「103位に急降下」という形で現れました。また「貧困大国」「子どもの貧困」大国となり、平均賃金(年収)の国際比較では、1990年に英国やフランスよりも高かったのに、2020年にはOECD加盟国35カ国中22位に落ちました。一番大きな差は1990年に日本の平均賃金の7割程度だった韓国の賃金が年々上昇し、2015年に日本を追い越し、2020年に日本の1.9倍になっていることです(注32)

 1960年代半ばに貧困統計を取ることをやめた厚生省・日本政府は「日本には貧困はありません」と向き合ってこなかったと指摘されています。ようやく、2011年に「過去のデータもさかのぼって発表されたことで、80年代から子どもの貧困率が上昇傾向にあることが公に示され」たそうです。それなのに、日本政府が子ども関連予算としているのは欧州の半分程度、自民党政権がエネルギーを注ぐのは、国力の低下を隠すための統計不作成や統計廃棄・改竄ですから、日本政府発表のGDPさえ信用できません(注33)

 「明治の遺産」の最悪部分は侵略戦争ですが、日本を再び「戦争=大量殺人のできる国」にするという安倍氏の「熱い思い」は、2013年に安倍政権が「敵基地攻撃能力」の議論をせずに防衛大綱に導入し、2020年には北朝鮮や中国内陸部も射程に入る「長射程巡航ミサイル」の国産化を決定し、2022年4月には「敵基地攻撃」を公明党が受け入れないために「反撃能力」と呼び方を変えるよう自民党が提言しました。6月には米軍との核共有議論を国会でするほどの好戦的姿勢を見せる自民党という状況になっています(注34)

 ロシアのウクライナ侵攻で原発が攻撃された事実を見て、環境経済研究所長上岡直見氏が日本の原子力施設が武力攻撃を受けた場合のリスクの試算を公表しました。東海再処理施設の高レベル廃液貯槽は原発の使用済み核燃料プールと比べると構造的に弱く、攻撃されたら廃液が漏れ出す可能性があるシナリオをもとに被害リスクを試算しました。死者数の推計は東京都心や近郊で40万人、その他の健康被害多数という分析でした。ロシアがウクライナの原発を攻撃したのも、ウクライナが核物質の軍事利用を警戒したからだという見方を踏まえ、世界最大規模の原発を抱える日本は「軍事利用の意図ありとみなされ、攻撃の口実を与える」と懸念されるとのことです。日本国内に米国の核兵器を配備して、日米で共同運用せよと声高に叫ぶ安倍晋三氏と日本維新の会の松井一郎代表の主張について、「現状が既に『逆シェアリング』で、対立国家の核兵器をわざわざ国内に誘致しているのと同じ」と疑問視しているそうです(注35)

 明治政府は好戦的だったと同時に、市民・労働運動を弾圧し、日露戦争に対する反戦や平等を訴える市民を危険とみなして逮捕、処刑した大逆事件(1910-1911)でも知られています。安倍自民党政権と続く自民党政権も市民弾圧政策を踏襲し、反戦デモをする市民をテロリストとして戦闘対象とした陸上自衛隊の案、また、市民を殺戮するミャンマー軍に自衛隊は軍事訓練を与えています(注36)

 さらに、21世紀の日本の方が絶望的かもしれないと思わされるのが、労働者を権力側から守るはずの日本労働組合総連合会(連合)が政権与党自民党支持にシフトし、その始まりが「戦争のできる国」にしたい安倍政権がそのための憲法改正に必要な票数確保のために国民民主党と連合に接近した2018年にあるというのです。労働者を苦しめる政策を続け、戦争をするための軍備費を倍増して貧困に喘ぐ多くの国民を見捨てる自民党政権を21世紀の労働組合が支援するというのは悪夢のような現実です(注37)

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1 「安倍総理が産業遺産国際会議のレセプションに出席」明治日本の産業革命遺産ギャラリー、2014.07.14
http://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/newsandevents/news/20140714_289.html
2 「『明治150年』関連施策の推進について」「明治150年」関連施策各府省庁連絡会議、平成28年12月26日
http://www.suisankai.or.jp/topics/topics17/topics187.pdf
3 「戦地の日本兵苦しめた病気 原田敬一氏」、ソフィア京都新聞文化会議、2020年8月14日
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/329227
4 「日露戦争はやわかり」、アジア歴史資料センター
https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/hayawakari03_03.html
5 永井多賀子「韓国反発『明治産業遺産』は安倍首相のゴリ押し! 仕掛人の女性に『俺がやらせてあげる』」『リテラ』2015.07.06
https://lite-ra.com/2015/07/post-1250.html
6 西成田豊『近代日本労使関係史の研究』(1988)、藤野敦子「日本の児童労働とジェンダーバイアス:歴史からの考察」『日本ジェンダー研究』2007巻10号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/genderstudies1998/2007/10/2007_10_27/_pdf/-char/en
7 「農林水産省における蚕糸試験研究の歴史」農業生物資源研究所、2004(平成16)年
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/newsletter/sanshi_rekishi.pdf
8 細井和喜蔵『女工哀史』(1925 , 大正14)、岩波文庫(1954)、2020.
9 「富岡製糸場設立の目的とその背景」『世界遺産 富岡製糸場』
http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/guide/history.html
10 矢島太八(編)「甘楽産業叢談」木田清三郎、1909(明治42)、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801295
11 和田英『富岡日記』(1978)、ちくま文庫、2014.
12 錦絵 一曜斎国輝「上州富岡製糸場之図」大黒屋平吉、1872(明治5)、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305876
13 梅渓昇『お雇外国人—明治日本の脇役たち』(1965)、講談社学術文庫、2007.
14 Harper’s Weekly vol.15, 1871. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015014703295
15 1870 U.S. Navy Officer Pay Charts”, Navy CyberSpace
https://www.navycs.com/charts/1870-navy-pay-chart.html
16 「横浜開港150年の歴史—港と税関—」、横浜税関 
https://www.customs.go.jp/yokohama/history/history150.html
参考資料(参考3)「横浜港の主要輸出入品目」 
https://www.customs.go.jp/yokohama/history/history150_ref3.pdf
17 『神戸港150年の記録〜貿易統計からみる貿易の変遷』「開港〜明治(1868(明治元)年〜1911(明治44)年)」、神戸税関
https://www.customs.go.jp/kobe/00zeikan_top.htm/150toukei/2_meiji.pdf
18 犬丸義一校訂『織工事情』上・中・下、岩波文庫、1998.
19 産業福利協会『工業と結核』1926(大正15)、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/919319
20 「データからわかる—新型コロナウイルス感染症情報—」厚生労働省、2022年06月04日版 
https://covid19.mhlw.go.jp
(データは日々アップデートされている)
21 「大正9年(1920年)第1回国勢調査 国勢調査による人口:55,963,053人」
https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kouhou/ayumi.html
22 山本茂実『あゝ野麦峠—ある製糸工女哀史』角川文庫、2021.
23 「農商工高等会議議事速記録 第1回」(1896, 明治29年)、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801589
24 細井和喜蔵『女工哀史』、改造社、大正14(1925 )年、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021433
25 見田宗介『近代日本の心情の歴史—流行歌の社会心理史』、講談社学術文庫、1978, p.138.
この流行歌はYouTubeで聞くことができます。土取利行歌(唄・演奏)
https://www.youtube.com/watch?v=UxNNYxo6Lok
(リンクを開くと再生されますので音量にご注意ください)
26 片山潜、西川光二郎、『日本の労働運動』、労働新聞社、1901(明治34)年、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801133
27 Osamu Saito “Children’s Work, Industrialism and the Family Economy in Japan—1872-1926-“ in Hugh Cunningham & Pier Paolo Viazzo (eds), Child Labour in HistoricalPerspective—1800-1985: Case Studies from Europe, Japan and Colombia, UNICEF, 1996.
https://www.unicef-irc.org/publications/pdf/hisper_childlabour.pdf
28 イザベラ・バード、高梨健吉(訳)『日本奥地紀行』、平凡社、2000.
29 E.S.モース、石川欣一(訳)『日本その日その日 2』、東洋文庫、平凡社、1970.
30 「『いびつな政策の犠牲者』ベトナム人実習生らの相次ぐ死」『朝日新聞DIGITAL』2018年10月14日 https://digital.asahi.com/articles/ASLBF53B0LBFUTIL00J.html

*「『現代のタコ部屋』民家に10人以上が…不法就労の背景」『朝日新聞DIGITAL』2019年2月17日 https://digital.asahi.com/articles/ASM2G3SQNM2GULZU008.html

*「『まるで家畜』ベトナム人実習生暴行 会社が口止め、監理団体も黙認」『毎日新聞』2022/3/27 https://mainichi.jp/articles/20220324/k00/00m/040/393000c

31 「『私は使い捨てなのか』非正規雇用の女性が主張する不合理な待遇差」『毎日新聞』2022/6/20
https://mainichi.jp/articles/20220619/k00/00m/010/044000c

*「非正規女性、フルタイムで働いても年収250万円—連合調査:コロナ禍で収入減少23%」ニッポンドットコム、2022.04.01
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01297/

*榊原謙「3年で身も心もぼろぼろに 裁量労働が強いた長時間労働」『朝日新聞DIGITAL』2019年5月22日
https://digital.asahi.com/articles/ASM5G6H35M5GULFA047.html

32 「男女格差、日本103位に急降下」共同通信、2022/3/1
https://nordot.app/871377521626415104

*「最低賃金近くで働く人が10年で倍増 非正規や低賃金正社員にコロナ禍も追い打ち」『東京新聞』2021年9月14日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/130718

*木村聡史「韓国に抜かれた日本の平均賃金 上がらぬ理由は生産性か それとも…」『朝日新聞DIGITAL』2021年10月20日
https://digital.asahi.com/articles/ASPBM54P1PBCULFA023.html

33 「日本は『貧困』に目を背けてきた。その貧しさが子どもと社会に与える影響」FNNプライムオンライン、2021年8月5日
https://www.fnn.jp/articles/-/214801

*「子ども関連予算、日本は欧州の半分程度の低水準…子ども家庭庁創設へ課題山積」『東京新聞』2021年12月22日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/150285

*「建設統計、19年以前の分は廃棄 GDPへの影響検証、困難に」共同通信、2021/12/15
https://nordot.app/843827053167149056?c=39550187727945729

*柴田秀並ほか「『すべての数字を消す』国が指示 消しゴムで書き換えた統計データ」『朝日新聞DIGITAL』2021年12月15日
https://digital.asahi.com/articles/ASPDG6QJZPDGUTIL054.html

34 「核心避けた『敵基地攻撃能力』論議 専守防衛の空文化進む」『朝日新聞DIGITAL』2022年5月28日https://digital.asahi.com/articles/ASQ5W3FCVQ5MULZU006.html

*「国会で核共有議論、不安募らす被曝者『武力でなく外交で平和実現を』」『東京新聞』2022年6月16日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/183605

35 「もし東海処理施設が攻撃されたら…廃液20%放出で死者40万人と試算 ウクライナで原発リスクが現実に」『東京新聞』2022年3月18日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/166319
36 「新たな戦いに『反戦デモ』を例示 陸自、不適切と指摘受け修正」『共同通信』2022/3/30
https://nordot.app/881831378415665152
*「主張 反戦デモ敵視 国民監視・抑圧の動きを許すな」『しんぶん赤旗』2022年4月22日
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-04-22/2022042201_05_0.html
*レベッカ・ヘンシュキ、ケルヴィン・ブラウン「ミャンマー軍、村民らを拷問にかけ集団殺害」BBC, 2021年12月20日 https://www.bbc.com/japanese/59723152
*「民間人を弾圧するミャンマーの軍人を留学させ、訓練を施す日本 クーデター後も受け入れ継続」『東京新聞』2022年6月19日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/184229
37 「連合、加速する『自民シフト』布石は4年前に」『毎日新聞』2022/4/29
https://mainichi.jp/articles/20220428/k00/00m/010/376000c
*小此木潔「消費税12%にして『防衛費倍増ですか?』『骨太の方針』にあきれる」『論座』2022年06月13日
https://webronza.asahi.com/business/articles/2022061000004.html