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2018-10-07

英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-1)

イギリス国王の親書と1613年の家康の朱印状を携えて通商を求めて、1673年に長崎に来たイギリス船リターン号の船長と長崎奉行所とのやりとりを紹介します。

 「英国と日本の通商記録」(1852)では、1673年に長崎に来航したイギリス東インド会社のリターン号の顛末について8ページにわたって述べています。出典は示されていませんが、ケンペルの『日本の歴史』(The History of Japan, 1727)の第3巻の巻末に掲載されている「日本日記:1674年7月18日にオランダ船によってロバート・サウスウェル卿とナサニエル・ハーン卿に渡されたコピー」((注1), pp.341-360)と題した記録の要約です。長崎の奉行所とのやり取りを18ページにわたって克明に記していて興味深いので、原文を抄訳します。

 「日本日記」の最後に3人署名しているのですが、役職名は記されていません。筆頭者のサイモン・デルボー(Simon Delboe)が船長・指揮官のようです。「西暦1673年6月29日、リターン号にて」と始まっています。

 午前11時頃、日本の旗をなびかせた1艘と、オランダの旗の船がやってきて、ポルトガル語で挨拶し、我々が何者か、どこから来たのか尋ねた。我々は英語とオランダ語で、バンタムから来たイギリス人だと答えた。彼らは乗船せず、我々に停泊するよう、トランペットを鳴らさず、銃も発射しないよう要望したので、従うと言ったら、彼らは帰って行った。

 2時間後に岸から9艘の船で14人の役人と通詞がリターン号に乗船し、大きなキャビンに招き入れて、丁重にもてなした。日本側はポルトガル語の通詞1人、オランダ語の通詞4人を従えていた。奉行と呼ばれる人(one being called the governor)は通詞を通していろいろ質問した。

以下が記されている質問と答えの大要です。日本側の質問にJ、イギリス側の答えにEを付します。

J.あなた方はイギリス人か?
E.そうだ。我々はイギリス国王[チャールズ2世:1660-1685]から東インド会社に対する貿易許可を与えられている。49年前にイギリスと日本は通商があった。イギリス国王と東インド会社から、日本の皇帝陛下宛の親書を持ってきた。(そして、我が国が最初に日本に入国した時に皇帝からもらった特許状の日本語のコピー[4-10参照]を手渡した。彼らはそれを読んで理解し、このオリジナルか、皇帝の印の付いたものが欲しいと言った。イギリスが平戸を出る時に幕府に返したので持っていないと答えた)。
J.イギリスはポルトガルとスペインと平和状態にあるか? イギリス国王はポルトガル王の娘と結婚して何年か、女王に子どもはいるか。
E.イギリスはすべての国と平和状態にある。国王は結婚して11年ほどで、女王との間に子どもはいない。我が国では国王が同盟国との関係を強めるために、同等の地位の人と結婚するのが習慣で、臣民とは結婚しない。(また、私が皇帝陛下へのいくつかのプレゼントを見せると、彼らは喜んだようだった)。
J.あなた方の宗教は何か。
E.オランダ人と同じクリスチャンだが、カトリック教徒ではない。

 船でどんなものを運んできたか尋ねたので、おおまかな内容を答えると、彼らは満足して岸に戻った。役人たちは2時間後にまたやってきた。

J.オランダ人と同じように通商を求めるなら、日本では銃と弾薬を引き渡さなければならない。皇帝[第4代将軍家綱:1641-1680]に知らせを出し、回答が来たら上陸して、家を持つことができる。

[我々のボート2艘で、銃と弾薬を運ぶときに]、日本側は警護として両側に複数の船をつけたが、兵士でいっぱいだった。それから、船の全員の名前を書き取り、オランダ人を連れてきて、我々全員にポルトガル人ではなく、イギリス人かどうか確かめさせた。(中略)

6月30日

J.なぜ49年間も日本に来なかったのか?
E.イギリスでは20年ほど内戦があり、オランダと2回戦争をしていたから、このような長い危険な航海をするのはかなり大きな出来事なのだ。
J.この船には以前日本に来たことのある者がいるか?
E.一人もいない。
J.では、どうやって港に入る航路がわかったのか?

 海図があるからと答えると、納得したようだった。我が社からのプレゼントだと、二連銃(double barrel gun)一丁と小さなピストル数丁を見せると喜んで、奉行に見せると岸に運んだ。奉行は我々が持ってきた珍品について皇帝に知らせるだろう。日本人は船から陸に運んだ物一切を正確に書き留め、上級役人(secretary)の前でキャビンの記録と照合して、この役人は承認すると、非常に丁寧に出て行ったが、その時、江戸からの回答がすぐに届き、通商が認められるはずだと約束した。また、船内の大きな銃は陸に持って行かず、我々の便宜のために残していくと言った。

7月1日

 奉行と通詞が再びやってきて、台湾の事件に関して尋問した。(中略)最初の日に来たオランダ人が言うには、台湾のジャンクが中国沿岸で海賊行為をする意図があると自分が言ったというので、それは事実ではない、そんなことは言っていないと答えた。すると日本人側は我々全員の調査をまた最初から始め、名前、年齢、階級を聞き、翌日、各自が持っている売買用の所持品と貴社の積荷全部を調べたいと言った。私は準備しておくと返答した。それから、彼らは船の大きさ、マスト等々を計測し、我々が何か望むことがあるときは、信号旗を出すよう、乗組員に死者が出たときは、水葬せずに、2本の信号旗を出すよう、そうすれば通詞と共に来ると言った。彼らは再度、皇帝に知らせを出したから、我々に安心するようにと言って去って行った。

7月2日

 通詞たちと皇帝の家来数人(some gentlemen of the Emperor’s)がやってきて、我々が持っているニュースを知りたいというので、イギリスは国内外で平和を保っていることなど(中略)を知らせた。すると、我々が台湾から運んできたオランダ商館長宛のオランダ語の手紙を読んでほしいと言うので、内容を伝えた。[内容も記されていますが中略]

 午後、生魚、桃、梅、卵、大根、きゅうり、うり、鶏6羽、小さなパン100個を持ってきた。途方もなく高い値段だったが、我々は何度も感謝して支払った。国旗を揚げることと、トランペットを吹く許可をもらいたいと言ったら、いいだろうというので、彼らが去る時にトランペットを吹いて見送った。皇帝に知らせをすぐに出してほしいと言うと、2日前に出したから安心して待てと言う。いい返事がすぐに来ることは疑いないと彼らは言ったが、我々は毎日祈り、聖歌を歌った。

 注記:彼らが質問する時は、すべてポルトガル語で行われ、答えも同様だ。時にはスペイン語で行い、その後、同じことをオランダ語で行う。これを絶えず行うため、同じ質問を5,6回することになる。答えも毎回同じ繰り返しだから、彼らにとって理解は一層確かなものになる。したがって、この地域の人は全員これらの言語2ヶ国語でないにしても、少なくとも1ヶ国語はできなければならない。[訳者強調]

7月4日

 信号旗を出したが、彼らは来なかった。我々の信号旗の出し方を理解していないのだろう。

7月6日

 午後、6人の通詞と役人がきて、私にポルトガル人の宗教について質問した。

J.ポルトガル人の宗教はローマ・カトリックというものか?
E.そうだ。彼らは自分たちをそう称している。
J.ポルトガル人は聖マリアという女性と、キリストという男性の像や絵を持っているか? それらの像を崇拝するために持っているのか? その他の聖人の像も持っているか?
E.マリアとキリストの像を崇拝していると聞いたことがあるが、自分はカトリックじゃないから、マリアとキリスト以外いくつ像があるか知らない。
J.あなたの宗教は何か?
E.イギリスで改革派と呼ばれている宗教だ。
J.ポルトガル人が持っているような像を持っているか?
E.持っていない。
J.どうやって信仰を表すのか?
E.像はないが、言葉で全能の神、天地の創造主に祈りを捧げる。
J.キリストというのは何者だ?
E.神の子だ。
J.聖マリアというのは何者か?
E.我々はヴァージン・メアリーと呼んでいるが、呼びかけることはしない。
J.オランダ人はどうやって神を崇拝するのか?
E.我々と同じだ。
J.オランダ人は神とキリストをどう呼ぶのか?
E.神はGodt、キリストはGhristusと呼ぶ。
J.ポルトガル人の宗教を何と呼ぶか?
E.ローマ・カトリックだ。
(中略)
J.ポルトガル人はイギリス人を何と呼ぶか?
E.Hereyes、英語でHereticks[異教徒、異端者]、オランダ語も同じだ。

この日は日曜だったので、我々の国旗と聖ジョージ十字(St.George’s cross)の旗を掲げた。

J.入港の時以降は揚げてなかった旗をなぜ今日は揚げているのか?
E.今日は7日毎に来る日曜で、日曜にこうするのが我々の習慣だ。

 彼らはまた、我々がどうやって神を崇拝するか尋ねた。毎朝、毎晩、天にまします神よと祈ると言うと、オランダ人も同じような祈りをするのかと聞くので、そう思と答えると満足したようだった。これらの質問を6,7回以上してから、私の答えもすべて書き留め、それに署名せよと私によこした。私は日本語がわからなかったが、署名した。全通詞が同じくして、封印するとき、これが彼らが私に質問した通りの内容だと誓うと言った。そして、夜船から何も捨てないよう、乗組員を酔わせないよう、海で泳がせないよう、喧嘩させないようにと言ったので、もう船内には武器はないと言うと、ナイフを使わせないようにと言う。我々の習慣では喧嘩にナイフは使わないと返答した。

 豚、ビスケット、塩、魚、大根、カブ、その他の野菜と酒1樽(以前、信号旗を出したのに来てくれなかったと言うと、彼らは旗に気がつかなかったと言った)要望した。彼らは翌日運んでくると言って去ったが、国旗については何も反対しなかった。5時間も船上にいて、本当に厄介だった。

 1時間後にまた戻ってきて質問した。

J.船が入ってきた時の旗は白と赤の縞だけで、十字はなかったのに、なぜ今は十字の旗を揚げているのか?
E.港に入ってくる時に揚げていた旗は台湾で作ったシルクの新しい旗で、十字のない赤と白の旗だった。中国人が教えてくれたのは、ポルトガルのせいで、十字が嫌悪されているから、入港するときは十字の旗を揚げない方がいいということだった。入港時は雨が降っていたので、新しい旗が汚れてしまったからだ。

 役人たちはそれでも見せろと言うので、持ってきて見せたところ、満足したようだった。

E.今の旗は数百年もイギリスの国旗として使われている正統な旗で、49年前にイギリス人が平戸にいた時のイギリス船もこの旗を掲げていた。オランダ人もこれがイギリスの旗だとよく知っているから、彼らに確かめてほしい。
J.我々の通詞の1人の父親がイギリスの通詞をしていて、今でも存命だから、聞いてみよう。
E.十字の旗は信仰や迷信のために揚げているのではない。イギリス国家だと示すために揚げているのだ。ポルトガルの旗と十字はイギリスのとは全く違う。
J.イギリスはかつてポルトガルやスペイン政府の支配下にあったことがあるか? それで十字を使うようになったのではないか?
E.イギリスはどちらの国にも支配されたことはない。この国旗が使われ始めたのは相当昔で、なぜこの旗を使うようになったのかは知らないが、歴史書を読んだ限りでは600年ぐらい前だ。我が国の王は偉大な三つの国の君主で、ポルトガル王よりはるかに偉大だ。(この答えに日本人側は満足したようだった)。

 これらの質問と答え全部を彼らは書き留め、私に署名させた。3時間いて、去って行った。今朝早く、海上の船から5発の砲声が聞こえた。オランダのボートが見に行ったが、船には行きつけなかった。イギリスの船ならいいがと期待した。

7月7日

 朝6時頃、オランダの船2隻が入港した。それぞれ200トンで合わせて140人の乗組員だったが、普通より多い人数だ。40日前にバタビア[Batavoa:ジャカルタのオランダ領時代の呼称]から来たということだが、まだニュースは聞けていない。

 これらの船の入港に際して、我々は十字が入った旗を揚げた。10時頃、通詞が役人と一緒に来て、今後、江戸から異なる命令が来ない限り、十字の入った旗は揚げないよう助言すると言った。ポルトガルの十字とあまりにも似ているので、一般人がイギリス船をポルトガルと受け取るからだ、その他の旗はどれもいいが、十字が入ったのだけはダメだと言って、通詞が我々の友人として忠告するので、奉行や皇帝の命令ではないと言った。これによって、日本人との友好関係と通商の可能性が確かめられたかもしれない。彼らは船内にあるすべての品物の数と質を入念に記録して、明日希望の食料を届けると約束して帰った。その時、20日以内に江戸から回答が届くだろう、そうすれば家もその他必要なすべてが提供できると思うと、再び言った。

 夜8時頃、2人の上級役人と7人の通詞がやって来て、バタビアから来た2隻の船がもたらしたニュースについてオランダ商館長に問いただしたところ、イギリスとフランスが連合してオランダと戦争を始めた(と日本人側が知らされた)と言った。役人たちが私に尋ねたのは(オランダとイギリスが過去5,6年友好関係にあり、協力しあうと約束し、2国が同じ宗教だと私が言ったので)、なぜイリギスがオランダと衝突することになったのか、しかも、ローマ・カトリックのフランスと同盟したのかということだった。私がイギリスを出た時はすべて平和だったし、バンタム[Bantam:インドネシア]にいた時も同じだったので、戦争のことなど知らないし、2隻の船が伝えたという情報を聞いて、それ以上のことは何も知らない。イギリスからか、バンタムからのニュースを聞くまでは、オランダ側が報告したことを信じないと私は答えた。

 すると、日本側はオランダ商館長のマルティナス・カイザー氏(Mr. Martinus Caesar)の署名入りの文書を見せた。そこには上述のニュースが真実であると証言し、両国が戦争状態にあっても、この港で海上でも陸上でも、また日本帝国のどこででも、イギリスと友好的に暮らすと長崎奉行に約束すると書いてあった。したがって、私も我が国もオランダ人と友好的に暮らすこと、オランダ人を侮辱しないことを約束して署名しろと言ったので、署名した。日本人たちは、皇帝はオランダ人を守るのと同じく我々も(新たに来たにもかかわらず)守ってくれるのだと言ったので、私は礼を言った。そして同じ約束を誓い、日本式に日本語で署名した。彼らは数回これを繰り返し、オランダ人は長年ここにおり、我々は来たばかりだが、オランダ人と仲良くすべきだと言った。

 皇帝から回答が来たらすぐに、我々の便宜と安全のために岸に揚げたもの全てを与えると言った。(中略)私はイギリスとオランダが戦争状態にある以上、我々の船を先に港から出るようにしてほしい、さもないと、オランダが二倍の数の船にする可能性があり、もし彼らが先に出たら、我々が港から出るのを待ち伏せて、外海に出たところで戦いを挑んでくることは必至だからと訴えた。日本側は皇帝から受け入れるという回答が来しだい、そのことを言えばいいし、その他必要だと思うことを述べればいいと言った。彼らは真夜中まで船上にいた。

7月8日

 今日、要望した食料が届けられたが、すべてが法外な値段で、日本について台湾で聞いていたことと反対だった。しかし、通商が認められ、岸に家が確保できるまでは、我々の救済のために日本側が持ってくるものを拒絶することは適切ではなかった。コンプライアンスのために、彼らが要求するレートですべて支払った。通詞の話では、オランダ人も同じレートで支払うとのことだった。

7月10日

 信号旗を出すと、すぐに小さなボートで通詞が2人、船の脇にやってきた。乗船するよう要望したが、乗って来なかった。鶏数羽と水、ハーブや根菜などを要望すると、翌日届けると約束した。オランダ船から何かニュースがあったか聞いたが、満足な答えが返ってこなかった。オランダの提督が到着したら、もっと情報があるだろう、今年もう3隻のオランダ船が来航することになっていると言って、彼らは去った。

7月11日

 水、鶏、大根、きゅうりなどが届けられた。彼らの要求通りの値段を払った。
(中略)

7月19日

 バタビアからジャンクが到着した。乗組員全員が中国人で中国の旗を揚げ、胡椒、砂糖、数種類の更紗などを積んでいた。長崎の中国人が支払うためだ。オランダとイギリスのことについて情報をえようとしたが、えられなかった。2,3日中にはオランダ人の長を載せた船が3,4隻バタビアから来るはずだと言った。台湾の中国ジャンク2艘と話したが、戦争のことは聞いていないという。

7月20日

 朝10時頃、上級役人たちと通詞7人その他の従者たちを乗せた3艘の船が来て、我々の船に乗ってきた。皇帝から回答が来たという。皇帝は我々がここにいることも、イギリスとの以前の友好関係が理由で通商のためにきたことも知っているが(すべてを考慮した上で)、我が国王が日本の敵であるポルトガル王の娘と結婚していることに関して、イギリスとの通商を認めるわけにはいかない、それ以外の理由はないという。これが皇帝の命令であり、それを奉行所が変えることはできないので、風が吹いてきたらすぐさま去るように言った。モンスーンに変わるまで、出帆は不可能だと答えた。(中略)彼らは、我々に通商を認められず非常に残念だと表明した。私は何度も、以前の特許状にここに来て通商してよいと書いてあると主張した。我々はこの航海のために2年近くも国を離れていたので、船の積荷を売ることを認めてほしいと何度も懇願した。彼らは、皇帝の命令を変えることはできない、すぐに出発し、二度と来ないでほしいと言った。認めない理由はイギリスがポルトガルと同盟関係にあることだけだと言った。我々の武器は返す等々のことを言って、去って行った。

7月31日

 信号旗を出すと、通詞がやってきたので、水、薪、米、小麦、豚などを要望した。もうお金がないので、物々交換にしてほしいと、イギリスの織物、中国の絹など彼らが好きなものを見せた。彼らはこの要望を聞いて、明日補給物資を持って戻ってくると言った。

 指揮官が士官たちを招集して会議を開いた。敵との戦いに備えて、船の中のものを軽くすることなどが合意された。また、我々が補給物資を十分に調達できないことや、航海が極端に長期間に及んでいることなどに不満の者が数人いることがわかり、彼らをなだめ、反乱を防ぐために、愛想を言い、[目的地に着いたら与えると]大きな褒美を約束した。現在の状況では、乗組員が犯罪を犯しても、日本人の命令によって乗組員を罰することができないからだ。彼らが事態を悪用して、我々に反することをしないよう、注視するしかない。船も積荷も日本人の支配下にあり、自助の方法もすべて奪われている今、我々の心中は不安で一杯だった。神よ、その無限の慈悲で、我々の命を日本人の手から救い出してください。

8月2日

 通詞たちがやってきて、我々が停泊している間、毎週何がほしいか、出発時にバンタムまでの6週間分の補給物資について聞きにきたので、書いて渡した。支払いとして彼らは中国製品を取ったが、イギリス製品は取ろうとしなかった。

8月6日

 朝10時頃、待ちわびていた補給物資を通詞たちが届けてくれた。私は積荷の中から何を支払い分として差し出したかを、奉行が同じ物を望んだ時のために記録した。通詞は毎週補給物資を持って来るし、我々が去る時には要望の補給物資を持って来ると約束した。そして、遠くに船が1隻見えたが、どこの船かは分からなかったと言って、我々はとても友好的に満足して別れた。

 午後2時頃、通詞が言っていた船が入港した。遠くからでも船員たちが見え、我が社のエクスペリメント号だとわかった。去年11月19日に台湾からバンタムに向けて我々が送った船だが、非常に悲しむべきことに、船は捕虜になっていた。乗組員がどうなったか分からない。(中略)

8月9日

 信号旗を出すと通詞たちがやってきた。彼らはオランダ船が運んできたイギリス船を知っているかと聞いたので、我々の仲間で、台湾から出発させたと答えた。日本人側が言うには、乗組員全員がバタビアで捕虜になり、何人かはバタビアで処刑されたと言った。(中略)

8月14日

 通詞と役人たち全員がやってきて、船にどんな珍しい物があるか見たい、買いたいと言う。これは奉行の命令ではなく、自分たちの意志だと言った。しかし、彼らの言い値が安いので何も買わなかった。

8月15日

 朝、長崎の代官(chief magistrate of Nanguasacue)、奉行所の二人の役人(two secretaries of state)が6人のオランダ語通詞とその他2人の通詞を従えてやってきた。この通詞は以前オランダ人の通詞をしていたので、他の通詞よりオランダ語がよくわかると彼らは言った。彼らは船の積荷の珍しいものや、中国製品を全部見た。その後、ヨーロッパ情勢、イギリス王、同盟国、特に結婚や祖先とのつながりによる同盟国について、また、太陽と月の軌道や星、潮などについて、その他にも様々な質問をした。以前にも彼らがした質問で、また私が以前日本の字で伝えた祈りについても質問した。イギリスで日本語や中国語が書ける者がいるかと尋ねた。すべての質問に対して真実を伝えた。そして出来る限り簡潔に[ヨーロッパ]情勢についても伝えた。(中略)2人の通詞は自分たちが乗船したのは我々のためだと言ったので、この異常な尋問から何かいいことが起きるのかもしれないと期待する。

 午後、要望していた補給物資が届き、通詞たちが以前言ったようなイギリス人の処刑はバタビアで行われなかったと伝えた。オランダとイギリスの間で戦闘があり、イギリスが10〜12隻の船を沈め、オランダを負かしたと言った。
(中略)

8月26日

 朝、長崎代官と奉行所の役人2人といつもの通詞が数艘の船に補給物資を積んでやって来た。支払いに同意し、彼らに渡した物品すべての領収書に署名したところで、彼らはまた質問をした。以前答えたことをまた聞いてきた。国王のこと、オランダとフランスのこと等々。しかし、今回はある質問を以前よりもっと聞いてきた。イギリスがここにいた時から49年たっていること、私が以前言ったように、20年近くも内戦が続き、2回もオランダと戦争をしたが、この間ずっとバンタムとは貿易を続けてきたのに、なぜ日本には来なかったのか?

 私の答えは、イギリスとバンタム間の貿易は主に胡椒で、毎年イギリスから運ぶ品物で胡椒を買うから、利益はすぐに出る。これはストックが小さくて済む。しかし日本との貿易はイギリスから直接にはできない、インド、トンキン(Tonqueen:ベトナム)、シャム、カンボジア、台湾などの数カ所に商館が必要で、これらの商館が金20樽分をストックしておかなければできない。我が社が日本市場にふさわしい品物を供給するために、このような巨額を別にしておき、その上、多くの船を雇うということは大きな冒険で、簡単に決定できるものではない。時間もかかるし、平和その他の問題で今まで条件が整わなかったのだ。これらの理由で今回我が社がこの航海を遂行しようと思ったのだと思う。この答えに日本側は満足したようだった。(中略)

 彼らは明日出帆するようにと言った。そして、日本皇帝の管轄内では銃を発砲しないで、平和に出て行くようにと言ったので、そうすると約束した。十字がない旗なら何を揚げてもいい、十字はポルトガルの十字に似ているので、彼らには不快なのだと言った。それから、女王の死後なら日本に戻ってもいいか尋ねると、多分いいだろう、もしオランダ人と中国人がイギリスはポルトガルと友好関係にないと皇帝を納得させられれば、しかし、イギリスが通商を認められる確証はないから、最も確かな方法は来ないことだと言った。(中略)彼らは改革派宗教のイギリスがなぜローマ・カトリックとの結婚を認めたのかと尋ねた。女性は夫を自分の宗教に引き込むのが普通なのにと言うので、ヨーロッパでは普通のことで、国の一般概念に関して変更をせずに、それぞれが自分の意見に固執すると答えた。私はこれらの答えを書いて欲しい、イギリスの我が社に納得してもらうために見せたいからと依頼したが、日本側は皇帝から許可が出ていないから、口頭で十分だと言った。
[中略:バンタムでのイギリスとオランダの関係などについて、いろいろ質問しています]

 彼らは我々が敵に遭遇せずにバンタムに戻れるよう、良い旅を、長寿を祈ると言ったので、何度も長い間の好意に感謝を述べ、彼らにも長寿と幸せを祈ると言って、別れた。彼らは非常に礼儀正しい様子を見せ、我々が皇帝から通商を認められなかったことを残念がっていた。ここから先、我々が行かざるを得なくなる場所で、我が社の財産と我々の命と自由を神が守ってくれますよう。この国の人々の厳しい命令下で困難な生活をした。

8月27日

 朝7時頃、役人たちと通詞たちが我々の武器とボートを運んできた。風がよくなっているので、出発するようにと言った。(中略)彼らは私にすぐに碇をあげるよう指令せよと言ったので、そうした。10時頃、出帆した。彼らは港の中でも外でも日本の海岸線では銃を発砲しないよう、もし風が反対に吹きたて、引き返さなければならなくなったら、長崎を目指すよう努力してほしいと言った。そして入港する際も銃声を出さないよう、銃声をさせたら、我々を敵とみなし、日本中も我々を敵とみなすと強調した。私は彼らの指令に従うと約束し、これまで受けた好意と援助に感謝した。(中略)我々が出るのを見送ったのは非常に多くの人数で、少なくとも5,000人の役人と警護、その他、町村から見物に来た人々が大勢いた。

8月28日

 午前2時頃、通詞たちがやってきて、風がいいので、出発するようにと言った。我々の準備は整っているから、夜明けには碇をあげるつもりだが、この辺をよく知らないので、日が昇ってからにしたいと言った。彼らは我々の弾薬を運んできた。5時頃、帆を張った。彼らの支配から逃げられることを神に感謝した。この港に3か月いる間、絶えず恐怖を感じていた。

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1. Engelbert Kaempfer, J. G. Scheuchzer (ed. & tr.) , The History of Japan: Together with a Description of the Kingdom of Siam 1690-92, Vol. III, Glasgow, James MacLehose and Sons, 1906.
https://archive.org/details/historyofjapanto03kaem