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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-1)

アメリカ国務省が『平和と戦争』(1943)という文書で、1931年から1941年のヨーロッパと日本の戦争についてまとめています。その第1章を「1931-1941年の運命的な10年は日本の暴力行為に始まり、日本の暴力行為に終わった」と始めています。

新型コロナウィルス をめぐる欧米の鎖国措置

 19世紀のイギリス文芸評論家アンドリュー・ラングについて紹介しようとこのサイトを始めたのですが、19世紀の日本と欧米の関係を知らなければラングの理解も不十分と思い、ペリー来航までの英米のメディア記事を通して見ようとしてきました。そして、真珠湾攻撃直前にまとめられたアメリカ国務省刊のペリー遠征の評価を見始めたところで、現実世界では新型コロナウィルス 騒ぎが起こり、現時点(2020年3月中旬)で欧米が国境を閉鎖する事実上の鎖国措置を始めたので、ペリー来航前の日本の鎖国に対する欧米の激しい非難の記事を思い出しました。 4-1で紹介した1850年8月10日号の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の「カリフォルニアとアジアの隣人たち」という題名の巻頭記事を読んだ時、欧米がアジアを武力攻撃してでも開国させようという「文明国」の論理に衝撃を受けました。日本は良質の金・銀・銅が豊富な国という噂が広がっていたためか、欧米に開放しないのは非文明的だという論調です。その一部が以下です。
 中国と日本の排他性と警戒心を最後に打ち破るのは非道徳的な手段かもしれない。しかし、その結果は、強者が弱者を征服すべき、あるいは光が闇を追い払うべきという絶対の必要性と同じに思える。この2国の排他性と警戒心はそれ自体が非道徳的であったから、物事が進む中で、彼らは不可避な罰を受けなければならない。それは、自然の偉大な道徳律に反する国すべてに天が命じたものである。1国家がうぬぼれのうちに閉じこもり、普遍的人間性の歩みや視線に対して領土を解放することを拒否する道徳的権利はない。どの国家の市民でも、一般の幸福のために制定された法律の運用から自分を孤立させることができないのと同じである。誰もが他人に何らかの義務を負っている。そして、どの国も文明の大家族内では、あらゆる他の国に対して行わなければならない兄弟としての義務がある。極東の文明はこの教訓をこれから学ばなければならない。
 この記事から3年後の1853-54年ペリー来航によって開国し、欧米から多くの人々が入国した結果、感染症も入ってきたことを思えば、2020年3月からの新型コロナウィルスをめぐる欧米の対応が鎖国ということを皮肉に感じます。日本では1859年にアメリカの船舶からコレラが侵入し、長崎から全国に広まり、20万人が死んだそうです((注1), p.194)。2020年3月19日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事が「ウィルスは中国よりもヨーロッパに猛威を振るっている。これは開かれた社会の代償か?」(注2)という題名で、独裁主義的中国は国民の行動を徹底的に規制したからウィルスを封じこめたが、ヨーロッパは「行動と通行の自由、独立した意思決定に慣れた社会であり、政府は世論を心配するから、厳しい命令を出すのに慣れていないし、市民は命令に従うことに慣れていない。だから、これは開けた豊かな民主主義の中で生きることの代償を払っている」という専門家の意見を紹介しています。

新型肺炎の過熱報道の裏で憲法9条削除発言や放射能汚染水の環境放出を進める安倍政権

 新型コロナウィルスをめぐる日本のテレビ報道にも大きな違和感を覚えます。接触による感染で、80%は軽症だという病気に関して(注3)、テレビのワイドショーは毎日毎日番組のほぼ全時間を使ってきました。その間、福島第一原子力発電所事故で出続けている汚染水を大気中か海水に放出するという案が進行し(注4)、安倍首相が平和憲法9条を削除しよう(注5)、伊吹衆議院議長が改憲の実験台として緊急事態宣言を出せと(注6)、コロナウィルス感染拡大のタイミングを利用するかのような動きがあるのに、テレビは大きく取り上げません。 また、新型コロナウィルスに感染しているかどうかの検査をすべきだと主張する専門家の一部は、福島第一原発事故で放出された放射能被害を過小評価することに貢献した人々で、被ばくした子どもたちの甲状腺がんの検査は過剰診断だと主張してきた人々です。彼らの貢献の結果、早期発見が要のはずのがんの検査を縮小する議論が主流になってしまいました(注7)。そんな人たちが新型コロナウィルス問題では、テレビに検査推進派として重用されています。 放射能被ばくが空気からも水からも土壌からも体内に入り、特に子どもや胎児などへの被害が大きいことなど、私たちは福島第一原発事故から学んだはずです。汚染水には放射性トリチウムもその他の核種も含まれていますが、トリチウムは安全だから大気や海中に放出するというのが主流のようです。「トリチウムの細胞致死効果はγ線より高く、また放射線感受性は(中略)マウスよりヒトの方が高いことが明らかにされている」ことは昔から知られていましたし、「低濃度のトリチウム水による長期間被ばく」で死亡した例も出ています(注8)。トリチウム以外の複数核種、ヨウ素129やストロンチウム90などが「告知濃度限度」を超過していることも東京電力と経済産業省は説明してきませんでした(注9)。半減期はトリチウム12年、ストロンチウム90は28.8年です。こんな危険な放射能汚染水を環境中に放出する理由が東京電力の貯蔵タンク節約のためというのに、新型コロナウィルス報道で加熱するテレビは取り上げません。 さらに、福島第一原発事故後、世界中が危険で高くつく原子力発電から安全な再生可能エネルギーにシフトする中で、安倍政権は原子力・核の維持に固執し、再生可能エネルギーを推進しようとしませんから、総電力発電比率の再生可能エネルギーが占める割合ランキングで日本は49位です(注10)。それを更に減らそうとする閣議決定を密かに行いました。再生可能エネルギー推進用の財源も原子力に使えるようにするというのです(注11)。原発技術そのものが破綻していて原発事故は必ず起こるとアメリカの元規制委員長が明言していますし(注12)、地震多発の日本では次の原発事故がいつ起こってもおかしくないからこそ、再生可能エネルギーを推進するのが国民の生命と財産を守る政権の役割のはずです。ところが、原子力を維持し、戦争のできる国にする安倍政権にいまだに支持率が半数近くもあるのは(注13)、日本が明治以降どんな戦争を続けてきたのか知らない国民が多いのか、安倍政権に今でも「忖度する」テレビ・メディアの影響なのか、それとも半数近くの人は放射能被ばくも戦争も賛成ということでしょうか。

アメリカ国務省刊『平和と戦争』(1943)

 真珠湾攻撃の直前にまとめられたアメリカ国務省によるペリーの日米和親条約の検証(6-7-1参照)で高く評価された幕府の交渉記録を英訳したアメリカ人外交官ユージン・ドゥーマンについて知りたいと思い、6-7-2から6-7-3-7まで翻訳紹介してきました。この他、外交文書録以外にドゥーマンが取り上げられているのは、アメリカ議会の「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(1945-46)です。 その箇所を見る前に、この委員会で重要視された『平和と戦争』と題された国務省刊の本(1943)を簡単に紹介します。真珠湾攻撃当時のアメリカ政府が見た太平洋戦争への道がわかる資料です。「真珠湾攻撃に関する調査委員会」の委員たちは、外交文書録はわかりにくいが、『平和と戦争』は1931[昭和6]年から1941[昭和16]年までの流れを要約しているからわかりやすいとコメントしており、委員会審議もこの本を参照して行った形跡があります。 これは国務省が1943[昭和18]年に公刊した文書で、時代背景からすると、なぜアメリカがヨーロッパと太平洋の戦争に参加する決断をしたのかと国民に説明するためかと思われます。『平和と戦争—合衆国外交政策 1931-1941』(Peace and War: United States Foreign Policy 1931-1941)と題されています(注14)。解説部分が151ページ、その後に外交文書が698ページ分掲載され、全874ページの「本」です。 解説の日本に関する部分だけ拾ってみると、99ページになり、ヨーロッパの戦争に関しては52ページなのに、日本に関してはその2倍のページ数をさいていることになります。しかもそれは真珠湾攻撃までのことです。日本に関する部分で、重要だと思った箇所を抄訳します。

 1943年1月2日、国務省は「平和と戦争:合衆国外交政策 1931-1941」と題した出版物を公表した。この10年間の合衆国の外交行動に関する文書を含んだものだった。(中略)現在のこの出版物は合衆国が平和と世界秩序の条件を推進しようとした政策と行動の記録であり、また、日本・ドイツ・イタリアの侵略から生じる世界規模の危機にどう対応したかの記録である。 1943年7月1日

第1章:運命的な10年

 1931-1941年の運命的な10年は日本の暴力行為に始まり、日本の暴力行為に終わった。この10年は日本・ドイツ・イタリアの世界制覇の断固とした政策の冷酷な進展によって特徴付けられた。 1931年に日本は満州を奪った。2年後にドイツは軍縮会議から脱退し、再軍備を始めた。1934[昭和9]年に日本はワシントン海軍軍備制限条約の廃棄通告をした。 1935[昭和10]年にイタリアはエチオピアを侵略した。1936[昭和11]年にヒトラーはロカルノ条約を破棄して、非武装地帯のライン地方を要塞化した。1937[昭和12]年に日本は再び中国を攻撃した。1938[昭和13]年にヒトラーはオーストリアを占領し、チェコスロバキアを切断した。1939[昭和14]年の前半にヒトラーはチェコスロバキアの破壊を完成した。メーメルを奪い、イタリアはアルバニアを侵略した。 1939[昭和14]年9月にヒトラーはポーランドを攻撃し、その後の2年間にヨーロッパのほぼ全ての国が戦争に陥れられた。1940[昭和15]年に日本は軍事圧力をもってインドシナに入った。ついに1941[昭和16]年12月7日、日本は合衆国に武力攻撃を開始した。その直後に日本・ドイツ・イタリア、そしてその衛星国の側から合衆国に宣戦布告をした。  続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-7)

国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の内容にドゥーマンが異議申し立てをしたこと、アメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)でのドゥーマンの証言の最後の部分を紹介します。「国務省ブルティン 我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の最後の部分です。(注1)適宜、原文にはない小見出しをつけます。回答者の役職は6-7-3-5をご覧ください。

アメリカは日本社会党を全面的に支持し、国家神道を廃止する

インタビュアー:最近の興味深い出来事は、日本でリベラルで急進的な感情が戻ってきたことです。前労働・社会政治グループが一緒になって1政党、社会党になったそうですが、この件で我が国はどんなスタンスを取るのですか?ヒルドリング:それが本当なら、日本における全ての民主的傾向を支持する我々の政策に沿って、社会党にあらゆる支持を与えます。そして全ての民主的グループを軍国主義狂信者から守ります(訳者強調)。(中略)インタビュアー:もう1つ鍵となる重要な問題ですが、神道についてどうするんですか。特に「国家神道」と呼ばれる国家主義の宗教となっている一派です。ヴィンセント:神道は日本人個人の宗教である限りは介入すべきものではありません。しかし国家が管理する宗教としての神道は廃止されなければなりません。国家神道を支持するために国民に課税されることも、学校に神道が入る場もありません。(中略)インタビュアー:日本の学校制度の一掃はどうなんですか?相当めんどうな仕事ですよね。ヴィンセント:しかし、日本人は学校の一掃に協力しています。極度な国家主義教育を受けた教師は全員排除されます。小学校は出来るだけ早く再開されます。デニソン:学校制度が本当の変化が始まる場所です。若い世代に民主主義を理解させる教育をしなければなりません。年上の世代も同じです。インタビュアー:それは随分長い時間がかかりますね。デニソン:どのくらいかかるかというのは、我々がいかに速く指令を実施できるかにかかっています。我々があらゆるチャンネル—教科書・新聞・ラジオなど—を通して日本国民に届いたら、あなたが考えるほどの時間はかからないかもしれません。インタビュアー:その楽天的観測のベースは何ですか、デニソン大佐?デニソン:日本の外で多くの日本人を観察する機会がありました。ハワイの日系アメリカ人とか。彼らは子どもが7歳になると、祖父母と暮らすために1年間日本に送ります。日本の生活とハワイの生活の違いがとてもはっきりして、大多数は完全に合衆国に忠誠的な人間としてハワイに戻ってきます。戦争中に彼らの忠誠心は証明されました。インタビュアー:その忠誠心を説明するものは何ですか?デニソン:単にアメリカの生活スタイルの方が好き(原文強調)ということです。7歳では、アイスクリーム・映画・漫画などですが、年上になると、もっと重要なことについて学び理解し、評価できるようになります。日本の人々も我が国の生活スタイルが好きになると信じています。彼らが本当の市民的自由の味(訳者強調)を覚えたら、二度と昔のやり方に戻りたいとは思わないでしょう。

日本人は服従・従順を吹き込まれているから、本当の民主主義は育たない

ヒルドリング:私も同意します。実際、人々を民主主義に向ける再訓練に関しては、日本はドイツほど問題がないということもかなりあり得ると思います。ナチは非常によく訓練され、洗脳されていたので、その殻を打ち砕くのは大変です。日本人は服従・従順という1つの基本的思想を吹き込まれていますから、扱うのは簡単です。(p.742)ヴィンセント:大佐、それはむしろ難しくしているかもしれませんよ。それをどう見るか次第です。日本で本当の機能する民主主義がなければならないとしたら、服従という特性は進取の気性にとって変わらなければなりません(訳者強調)。インタビュアー:ヴィンセントさん、占領下の日本人の態度についてお話し願えませんか。ヴィンセント:新聞が多くを語っています。私が今ここで言えることは、日本人は諦めて敗北を受け入れているが、どんな対応を受けるのか心配しているということです。占領軍に協力する気持ちはあるという証拠がたくさんあります。しかし、長い間軍隊の支配に耐えてきたので、健全な民主的リーダーシップの出現には時間と励ましが必要です。 私たちは「東洋を急かす」ようなことも、マッカーサー将軍を急かすこともしてはいけません。社会・経済・政治体制の改革は穏やかなプロセスで行わなければならないし、賢く始めて、慎重に育んでいかなければいけません。(p.743)
 アメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)におけるドゥーマンの証言の中で、国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」でヴィンセントが表明した占領政策にドゥーマンが異議申し立てをした箇所から抄訳します。重複する部分がありますが、流れ上、ドゥーマンが読み上げたその箇所を含めます。

ドゥーマンが異議申し立てした占領政策内容

M:つまり、ヴィンセントの立ち位置は絶えず、7000万から8000万人の日本人が生計を立てるのは、できるだけ日本の4島の都市部で見つけられるものに限るというものですね?D:その通りです。言い換えれば、農業と漁業と日本人が支えられる程度の小規模産業に強調点が置かれています。(中略) M:ドゥーマンさん、この[ラジオ放送の]トランスクリプションの中で特に強調したい箇所があったら教えてください。(p.735)(中略)D:個々のヒルドリング大将が話している箇所です。[ドゥーマンが読み上げる](p.743)(中略)D:これがヴィンセント氏の考え方を示す点です。つまり、日本は主に本州とその他の島にある資源だけで生きるべきだ、農業と漁業と消費者製品の開発に努力を集中させるべきだと言うのです。先ほど申し上げたように、日本はペンシルベニアの1/4に相当する土地で、そこから生み出すもので8500万人に生計を立てろ、しかも鉄・鉄鋼・石炭・綿・羊毛、その他の一次原料や天然資源がない国です。(pp.743-4) M:ドゥーマンさん、現時点でその結論を裏付けるその他の資料がありますか?議事録に残したいという。D:マッカーサー将軍が9月1日だったと思いますが、声明を出した...。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-6)

アメリカ国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の主要部分を紹介します。(注1) 「国務省ブルティン 我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の続きです。適宜、原文にはない小見出しをつけます。回答者の役職は6-7-3-5をご覧ください。

ドイツ占領と日本占領の違い

インタビュアー:ところで、ヒルドリング大将、あなたはドイツと日本両方の占領政策に関わっているそうですね。両国の主要な違いは何ですか?ヒルドリング:大きな違いはありません。単純に言えば、二度と世界の平和を壊さないようにすることです。違いは主に、この目的を達成するための支配のメカニズムです。日本ではまだ政府が存在しているので、利用しています。ドイツでは中央政府がないので、我々の支配は地域に対するものです。インタビュアー:あなたの見解では、日本に政府があることに利点がありますか?ヒルドリング:日本政府を利用することによる利点は莫大です。もし、我々が利用できる日本政府がないとしたら、7000万人の国の統治に必要な複雑な機構全体を直接管理しなければなりません。日本人は言語も習慣も態度も我々とは違います。[軍国主義の]一掃(cleaning up)とその道具として日本政府を使うことによって、我々の時間とマンパワーとリソースの節約になります。言い換えれば、我々は日本人に自分の家の掃除をするよう要求し、その方法を提供しているのです。

公職追放

インタビュアー:しかし、日本政府を利用することで我々が日本政府を支持していると批判する人もいます。そうであれば、日本の戦争に責任のある人たちを公職追放する我が国の政策の妨げになりませんか?ヒルドリング:それは全くありません。我々が政府や産業界のどのグループも個人も支持することになりません。もし我々の政策が政府や産業界から誰かを排除することであれば、その人は排除されます。この点で日本政府の希望は重要ではありません。排除は毎日マッカーサー将軍によって行われています。(中略)インタビュアー:ヴィンセントさん、日本の政治家はどうですか? 戦犯だと思える人がいるように思いますが。ヴィンセント:東久邇内閣は先週辞職しました。今日の報道によると、幣原が首相になったというので、非常に心強いです。この内閣がどうなるか予想するのはまだ早すぎますが、前の内閣よりよくなると信じられる理由がたくさんあります。もしマッカーサー将軍によって公職にふさわしくないと思われたら、その人は辞めさせられます。インタビュアー:東久邇内閣の閣僚で戦争犯罪で裁かれる人はいますか?ヴィンセント:ここで個人名をあげることはできませんが、しかるべき機関によって戦争犯罪者として起訴された人は皆逮捕され、裁判にかけられます。閣僚という地位は何の保証にもなりません。(p739)(中略)インタビュアー:デニソン大佐、名前は除いて、財閥の人たちも対象とされますか? 大企業は軍国主義者に協力して、戦争で利益を得た人たちも有罪と考慮されますか?デニソン:ドイツに適用したのと同じ基本的政策に従います。ドイツでも起業家が戦犯としてあげられたことを覚えているでしょう?インタビュアー:ヒルドリング大将、日本の戦争遂行力に大きく貢献した大企業家についてはどうするのですか?ヒルドリング:我々の政策では、ファシスト・主戦論者(Jingos)・軍国主義者たちはみな排除されます。公職だけでなく、産業界も教育界もです。我々の国家政策は日本の戦争遂行力を破壊することです。これが意味するのは、大企業連合は解体されなければならない(原文強調)ということです。これ以外に達成方法はありません。インタビュアー:ヴィンセントさん、大企業についてどうですか?ヴィンセント:2点あります。戦争犯罪者と考えられる財閥のメンバーに対する訴訟を必ず起こすつもりです。それと、最も有名な三井・三菱・住友のような日本経済に威力を持っていた家族型大企業を解体するつもりです。インタビュアー:金融財閥も?ヴィンセント:そうです。もうお聞きになっていると思いますが、マッカーサー将軍は金融財閥の権力を解体し、彼らの略奪品を剥奪する方法を講じ始めました。(中略)ヒルドリング:日本はあらゆる形の武器・弾薬・兵器、艦艇と飛行機の製造、開発、維持を禁じられます。この問題の大きな部分は、近代戦争経済の鍵だった日本の産業の削減と消滅を含んでいます。これらの産業は鉄・鉄鋼・化学・工作機械・電気機器・自動車機器の製造です。ヴィンセント:もちろん、これは日本経済の主要な方向転換を意味します。日本経済は何年も全面戦争に必要なものに向けてきました。我々の厳重な監督のもとに、日本は労働力と天然資源を平和な生活という目的に向け直さなければなりません。インタビュアー:それは多くの失業者を生み出しませんか?何か失業に対処することがなされているのですか? 例えば、数百万の復員兵に対して。ヴィンセント:我々の政策は、日本の経済問題の解決は日本に責任があるというものです。日本は農業・漁業・[国内]消費製品の生産に集中すべきです。各都市で復興のための建設作業がたくさんあります。このような自己救済の努力に我々は介入するつもりはありません。我々は励ましは与えます。(p.740)

敵国に食料供給はしない

インタビュアー:戦争用重工業から投げ出された工員たちはどうしたらいいのですか?ヴィンセント:日本が維持を許可されている軽工業に仕事を見つけるしかないですね。日本の産業経済のこの改造の目的は日本がもっともっと国内マーケット用に生産するように、経済を内向きにさせることです。インタビュアー: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-5)

ユージン・ドゥーマンが証人喚問された上院の「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)で、証拠として提出された国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」(1945年10月7日)全文が掲載されていますので、紹介します。

ドゥーマンの証言

 上院の公聴会におけるドゥーマンの証言の続きです。Dはドゥーマン、Mは委員会の弁護人モリスの略です。 M: ドゥーマンさん、あなたは1951年7月11日の非公開委員会で証言し、最初にジョン・カーター・ヴィンセント氏とあなたとの間に見解の相違があると以下のように言いました。
 日本のように人口過多で植民地なしに支えられない国は、大陸で入手できる天然資源を日本にも利用できるようにしないと共産化するという非常に深刻な危険性があるというのがその頃の私の考えでした。一方、7000万〜8000万の日本人の生活には、日本の4島の都市部で見つけられるものに制限すべきだというのがヴィンセントの考えでした。(中略)
訳者コメント:ドゥーマンが「植民地なしに支えられない国」と植民地肯定の発言をしているのに驚きます。戦後日本でも日米開戦しない方が合理的だったと評価されました。ドゥーマンのこの発言がなされた1951(昭和26)年に当時の首相・吉田茂(1878-1967)が過去の日本外交を検証するよう外務省政務局政務課長の齋藤鎮男(1914-1998)に指示したと、『経済学者たちの日米開戦』(2018,(注1), p.158)がその結論を引用しています。
齋藤が同僚とまとめた外務省の文書「日本外交の過誤」(昭和二六年四月一〇日)の最後では対英米開戦の判断について次のような指摘がされている。かりに、あの際日本が隠忍自重して、戦争に入っていなかったと仮定したら、どうだろうか。戦争を前提とするからこそ、石油も足りない、屑鉄も足りない、ジリ貧だということになる。戦争さえしなければ、生きて行くに不足はなかったはずである。

ラジオ放送された日本占領政策

ドゥーマンの証言の続きです。D:これらの見解は国務省後援のラジオ放送で発表されました。1945年10月6日の夜、ワシントンD.C.で放送されたと思います。 M:あなたはその放送を聞いたのですか、それともそのトランスクリプション(転記/筆記録)を読んだのですか?D:新聞でそのトランスクリプションを読みました。 議長:誰がその放送を作ったのですか?D:このプログラムに参加したのは数人いて、SWINK(State-War-Navy Coordinating Committee国務省・陸海軍調整委員会)の民事部メンバーだったヒルドリング大将(General Hildring)と現在、大統領付海軍武官のデイヴィッドソン大佐です。 M:ドゥーマンさん、今そのトランスクリプションのコピーをお持ちですか?D:いいえ、持っていません。 M:その放送で何が起こったか覚えていますか?D:私が非公開委員会で証言したのと同じです。(中略)強調されていたのは、日本が支えられる程度の小規模産業と農業、漁業です。 M:議長、このトランスクリプションは重要と考えられるので、記録に入れてください。(中略)((注2), p.735)訳者注:このブルティンが掲載されていますので、主要点を抄訳します。適宜、原文にはない小見出しをつけます。((注2), pp.736-743)

「国務省ブルティン 我々の日本占領政策」1945年10月7日

アナウンサー:ヒルドリング大将は財閥、日本のビッグ・ビジネスは解体されると言います。「我々は日本が大企業合同を再建することを許さない。日本の民主的グループが軍国主義狂信者たちに攻撃されないよう守ることを約束する」。 国務省のジョン・カーター・ヴィンセントは国家神道の終末を予測しています。「天皇制は根本的に修正され、日本の民主政党は集会と表現の自由を確約される」。 海軍のデニソン大将は日本は民間航空を認められないと言います。日本はやがて民主主義を受け入れると予測し、[アメリカ]海軍は将来日本を管理する責任がある(訳者強調)と強調します。インタビュアー:ここ数週間、我が国の日本占領政策ほど、新聞・ラジオ・世論がこれほど広く議論しているテーマはありません。この議論は非常に有益な目的に役立っています。数百万のアメリカ人に、7000万人が住む日本における我々の危険で複雑な仕事について気づかせました。我が国の基本的な日本政策に関するホワイトハウスの出版物(1945年9月23日号ブルティン)はこの議論にまつわる多くの混乱を取り除きましたが、同時に多くの疑問も起こりました。我が国の政策はどう適用されるのか。この疑問に答え、我が国の日本政策を解釈してもらうために、この仕事に直接関わっている政府機関、国務省・陸海軍の代表にお越しいただきました。 ヒルドリング大将、非常に多くの人が最近まで、マッカーサー将軍が日本政策を定める自由を持っていると思っていました。この政策がどう決定されるのかからお話し願います。ヒルドリング:私は政策作成ではなく、実行の補助をしているのですが、政策がどう作られるのかご説明します。国務省・陸海軍調整委員会、略してSWINCが基本的に重要な問題について政策を作成し、大統領の承認を得ます。軍事面では、統合参謀本部の見解が慎重に考慮されます。承認された政策の指令が書かれ、統合参謀本部がマッカーサー将軍に伝えます。我が国の日本占領軍の日本における最高司令官として、彼はその指令を実行する責任を負っています。彼はとてもよくやっていると思います。(中略)

マッカーサーと国務省の軋轢

インタビュアー:ヴィンセントさん、マッカーサー将軍と国務省の間に緊張関係があるのか知りたいのですが。ヴィンセント:そのような報道には全く根拠がありません。実のところ、マッカーサー将軍と国務省の間には直接的な関係はありません。マッカーサー将軍が非常に困難な任務を遂行するにあたって、我々の支持と援助を受けていると保証します。インタビュアー:マッカーサー将軍が民間アドバイザーを歓迎しないという報道がありますが。ヴィンセント:それも事実ではありません。民間の極東専門家がすでにマッカーサー将軍の司令部に派遣され、彼は非常に誠意をもって歓迎しました。我々は目下、日本の経済、財政などの専門家をリクルートしているところです。このような人々をもっと送る予定です。

アメリカ海軍が日本占領に深い関心を持っている

インタビュアー: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-4)

ポツダム宣言の元となったユージン・ドゥーマンの草案が「太平洋問題調査会に関する公聴会」の議事録に掲載されていますので、公表されたポツダム宣言と草案の違いを検証します 1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」でのユージン・ドゥーマンの証言から、ドゥーマンがグルーに指示されて日本に降伏を勧める文書の草案を作ったこと、それが一部を除いてほぼ全文ポツダム宣言になったことがわかりました(6-7-3-3)。彼の草案が公聴会の議事録に掲載されています。ポツダム宣言原文(注1)とドゥーマンの草案((注2), pp.733-4)を比べ、違いを検証します。現代日本語訳は「安倍首相が『読んでいない』ポツダム宣言 現代語訳だとこうなる」(2015, (注3))を参照してください。

合衆国-イギリス-[ソヴィエト連邦]-中国の元首による宣言草案

原文注記:もしソヴィエト連邦が参戦しなければ、カッコ内は削除すること。(国務省で完成:1945年5月)

第1条について

    国名の順番が違うことと、ドゥーマン草案で注記されているように、ソヴィエト連邦をカッコ付きで入れている点が違います。ドゥーマン草案は、アメリカ、イギリス、次に[ソビエト連邦の総統][the Generalissimo of the Soviet Union]と挿入され、最後に「中華民国主席」(the President of Republic of China)という順番です。ポツダム宣言ではアメリカの次に「中華民国国民政府」(the National Government of the Republic of China)が置かれ、ソヴィエト連邦は入っていません。 もう1点の違いはドゥーマン草案が「戦争終結の機会を日本の人々に与える」となっているのに対し、ポツダム宣言では「日本に与える」となっています。それ以外は同じ字句です。

第2条について

    ドゥーマン草案では、第2条でもソヴィエト連邦が挿入されていますが、ポツダム宣言にはありません。それ以外、また、最後の文言の違い以外は全く同じです。 ポツダム宣言では、「日本が抵抗をやめるまで」(until she ceases to resist)とされているところを、ドゥーマン草案では「日本の降伏まで」(until her capitulation)となっています。

第3条:

一字一句同じです。

第4条について

    ドゥーマン草案は2文ですが、ポツダム宣言はそれをまとめて1文にしています。ドゥーマン草案の第4条の拙訳は以下の通りです。
身勝手な軍事アドバイザーたちの知性のない計算によって日本帝国を消滅の淵に追いやった人々のリーダーシップに盲従し続けるほど、日本の人びと(原文強調)は理性に欠けているのか? 日本人が破滅への道を歩み続けるのか、理性の道を選ぶか決定する時期が来ている。Are the Japanese so lacking in reason that they will continue blindly to follow the leadership
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-3)

ユージン・ドゥーマンは上院の公聴会(1951)で、ドゥーマンが後にポツダム宣言となる草案を作成したこと、1945年5月末に国防省の会議にかけられたが、降伏を促すのは時期尚早とされたことを語ります。反対された背景には原爆投下計画がありました。(写真:1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン)「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951年9月14日、(注1))でのユージン・ドゥーマンの証言の続きです。Dはドゥーマン、Mは委員会の弁護人モリスの略です。原文にはない小見出しをつけています。

天皇の問題について

D:私の証言を通して、私が天皇の問題に絶えず触れてきたことにお気づきだと思います。1945年3月か4月に、ハワイにおける心理戦争(Psychological Warfare)のチーフだったダナ・ジョンソン大佐がワシントンに来て、グルー氏と私と会いました。日本の高官の捕虜を尋問して得た結論は、日本人は降伏する用意があるが、君主制問題に関する様々な陳述や世論の傾向は、天皇個人が戦争犯罪者として裁判にかけられ処罰され、君主制が廃止されるという印象を国民が持ったら、そしてこれらの考えが世論だとされて、日本の降伏後のアメリカ政策として実施されるという印象を持ったら、日本は降伏しないだろうというものでした。 それから間もなく、4月17日だったと思いますが、[日本]政府に変化がありました。大将が首相を辞任し、政府が再編成され、鈴木大将[鈴木貫太郎:1868-1958]が首相になりました。彼はこの時、天皇の侍従で、彼のキャリアを通して穏健派でした。彼は日本が降伏する用意があり、降伏に関して話し合いする用意があるという非常に明確なシグナルを送りました。 さらに、我々は日本政府とモスクワの日本大使との間のメッセージを読むという利点がありました。この通信とその他の兆候から、この意見がアメリカの政策ではないとはっきりすれば降伏する用意があるということは明確でした。アメリカの左派メディアが展開してきた、天皇が戦犯として裁判にかけられ、君主制が廃止されるという意見です。 そこで、私たちは文書を準備し始めました。5月中旬にヘンリー・ルース氏(Henry Luce: 1898-1967,雑誌『タイム』創始者)が太平洋を訪問し、戻ってきて非常に興奮していました。彼が言うには、日本に降伏を説得できないアメリカ政府がサイパンとタワラで戦ったアメリカ軍の士気の低下を起こし続け、彼らは日本の攻撃を予想し、アメリカ軍の損失を恐れていると言いました。 ヘンリー・ルースに会ったグルー氏は私たちがその方向で計画し、努力していることを説明しました。私の記憶が正確なら、5月24日のことだったと思います。 M:1945年?D:1945年です。グルー氏は土曜に私を呼んで、月曜朝までに大統領に提出する文書を用意するよう指示しました。もし日本が降伏したら、合衆国が取る政策を説明したものです。そこで、私はその文書を準備し、月曜朝にグルー氏のところに持って行きました。 天皇に関する箇所について、私のオリジナルは次のようなものです。[D氏が読み上げる]
 連合国の占領軍は以下の目的が達成されたら、すぐに日本から撤退する。日本国民を代表する人物が責任を持つ平和的な傾向の政府が確立し、もしその政府が日本における攻撃的軍国主義の将来の発展を不可能にする平和政策に従うという決意が本物だと、平和を愛する国民が納得し、現在の天皇家のもとに立憲君主制の政府を達成したら占領軍は撤退する。(pp.727-8)
グルー氏はこのドラフトを承認し、国務省の政策委員会を招集しました。この頃の国務省政策委員会は国務省の次官補たちと顧問弁護士で構成されていました。グルー氏はこの文書を読み上げ、私が今引用したパラグラフまでは反対はありませんでした。この箇所に来ると、アチソン氏とマックリーシュ氏(MacLeish)氏が激しく反応しました。 M:この二人は当時どんな立場だったのですか?D:私はこの会議に出席してませんでしたが、君主制を残させるという考えそのものが不快だったのです。 M:アチソン-マックリーシュ氏にとって?D:そうです。 サワーワイン議員:ドゥーマンさん、あなたが会議に出席していなかったのなら、そこで起こったことをどうして知ったのか説明すべきです。D:この会議の後すぐにグルー氏が語ってくれました。 サワーワイン議員:それでは、あなたが言っていることは、その会議で何が起こったかをグルー氏が描写したことなんですね?D:その通りです。グルー氏はこの委員会は彼の助言機関で、最終責任は自分にあるのだから、大統領にこの文書と提言を提出する責任を取ると言いました。適当な時にスピーチをし、この文書の提言を含めると言いました。 彼は 5月28日にローゼンマン判事と一緒に大統領に会いに行きました。大統領はそれを読んで、軍が同意するなら、この文書を承認して、受け入れると言いました。 5月29日にグルー氏、ローゼンマン判事と私はスティムソン氏(Henry Stimson: 1867-1950)のオフィスに行きました。 議長:誰のオフィスだって?D:スティムソン氏です。この時、陸軍省長官でした。これはペンタゴン(国防省)で行われました。出席者は国防長官のフォレスタル氏(James Forrestal: 1892-1949)、マックロイ氏、戦争情報局長のエルマー・デイヴィス氏(Elmer Davis: 1890-1958)、グルー氏、私とマーシャル元帥(George Marshall Jr.: 1880-1959)でした。付け加えるべきは、10-12人の陸海軍の最高士官も出席していましたが、今は誰だか覚えていません。 私たちはこの文書をコピーして、全員に配布する準備をしていました。スティムソン氏がこの会議の議長でしたが、この文書をすぐに承認し、賛同しました。実のところ、スティムソン氏は私たちが日本は過去に進歩的な男たち、幣原男爵(幣原喜重郎:1872-1951)、濱口(雄幸おさち:1870-1931)、若槻(禮次郎:1866-1949)、その他の人々を生んだ国だという点への十分な配慮が足りないと思ったのです。これらは日本の過去の首相です。 フォレスタル氏は文書を全部読んで賛同しました。マックロイ氏も賛同しました。 議長:賛同したのか、承認したのか?(Agreed, or approved?)D:承認しました。エルマー・デイヴィス氏は非常に激しく反応して、文書のどれも認めませんでした。 M:このとき、彼はどんな立ち位置でしたか?(p.729)D:彼は申し上げたように戦争情報局長でした。その他、色々な士官たちが承認しましたが、この文書の出版については——— M: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-2)

1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」でのユージン・ドゥーマンの証言から、グルーとドゥーマンが国務省から追放された経緯が明らかになります。(写真:1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン) アメリカ上院の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会」に証人喚問され、1951年9月14日に証言したユージン・ドゥーマン(D)と委員会の弁護人モリス(M)や上院議員とのやりとり、6-7-3-1に続く部分を抄訳します(注1)。適宜、原文にない小見出しをつけています。
D:これらの事件が実際に起こっている間に、『ネイション』の1945年2月3日号に「危険な専門家」という題名の記事、パシフィカス(Pacificus, 太平洋問題調査会の略称?)のメンバーの記事ですが、発表されました。お許しいただけるなら、読み上げたいのですが。「危険な専門家」と言われる人の中に私のことがありますので。
ドゥーマン氏は天皇崇拝の軍国的な形以外は、天皇制を維持すべきだと信じているだけでなく、日本で我々が頼りにできるのは、ビジネス・リーダーたち、皇族の人びと、そして官僚たちだけだと思っている。
 この記事が出版される2,3日前に極東地域委員会が開かれ、教育問題を話し合っていました。私が指摘したのはビッグ・ビジネス・リーダーたち、貴族階級のメンバー、高レベルの専門家たちの大多数はイェール・ハーヴァード・ケンブリッジ・オックスフォード、その他イギリスと合衆国の大学で教育を受けたということです。我々の路線で再教育することに価値があるとしたら、これらの人々が我々の教育機関の恩恵を受けたのですから、進める要素として最適だということで、そうでなければ再教育には何の価値もないということです。両方はあり得ません。 このようなことを言ったのですが、この記事はそれを捻じ曲げています。しかし、重要なことはこの内容が2,3日後に『ネイション』に発表されたことです。このような場合には排除法を取るのですが、委員会の常任委員で毎回出席し、完全に信頼できる人以外にフリードマンが常に要素としていました。 そこで、フリードマンのところに行って、このような記事の情報源は彼だと非難しました。彼は否定し、この情報を権限のない人に提供したことはないと言いました。(p.714)彼は当時の上司、ヴィンセント氏に話しただけだと言いました。(中略)

敗戦後の日本に関するラティモアの予想

M:ドゥーマンさん、オーウェン・ラティモアがその頃に日本に関してどんな立ち位置だったか、話せる範囲で話してください。1945年のことです。D:(中略)最もよく知られ、引用されているのは『アジアの解決』(Solution in Asia)という本で、1945年2月頃に出版されたと思います。その春と初夏にかけて、日本の降伏まで広く読まれました。 彼のスタンスは、日本人は戦争に負けたら君主制に反対して反乱を起こす;国務省の中には、日本の上流階級の人から得たこと以外日本について何も知らない、いわゆる反動的なファシスト要素の人々がいて、この要素が日本人の意思に反して天皇を維持するために合衆国の影響力と威信を使うつもりだというものです。 もう1点彼が主張したのは、戦争指導者は東條大将やその他の主要軍人ではなく、産業界の指導者たちだということです。陸海軍は大実業家の単なる傀儡だということです。ですから、彼は日本人が反乱を起こし、天皇制を廃止することを認め、これらの実業家たちを戦犯として排除し、二度と影響力を持つ地位にならなければいいのだというのです。 3番目の点は、日本の制度、経済制度を完全に解体し、高度に発達した競争経済制度を確立するということです。(中略) 最近、メディアがラティモア氏を引用して、彼の主張は一貫して日本人が君主制を廃止したいと思う場合は、干渉しないと強調するものだと言ったというのです。これは一面的です。『アジアの解決』の中で、こんなことを言ってます。字句通りには引用できませんが、だいたいこんな内容です。「政治的予言をあえてすれば、日本人は自ら反乱を起こして君主制を廃止する」。 同時にこの頃、降伏の前ですが、グルー氏と私のような人々が天皇に権力を持たせたままにしようとしていると示唆し、それは、アメリカの影響力と地位を行使して、日本人が自らの意思を実行しようとすることを妨げようと私たちが提案したという含みです。(p.715) 1つ言っておきたいことは、天皇に関するこれらの議論が左翼メディアによって続けられたことは全くの気違い沙汰です。もし日本人が天皇を追い払いたいと思ったら、我々が彼を維持するためにできることは何もないのは明らかです。一方、もし日本人が天皇を維持したいと思ったら、我々が君主制を廃止するのは愚かなことです。(p.716)(中略:ヴィンセントも同じ考え方だったかという質問に、彼がこの件で意見表明するのを聞いたことがないと答えます)

追放されたグルーとドゥーマン

イーストランド議員:グルー氏が辞職した時、国務省内でヴィンセント氏はどんな地位でしたか?D:グルー氏は8月14日頃に引退というか、辞表を出したと思います。私は2,3日知りませんでしたが、彼が引退した日、辞表を提出した日ですが、ディーン・アチソン氏(Dean Acheson: 1893-1971)が国務省次官に任命されたという通知がありました。ディーン・アチソン氏は以前に弁護士業に戻ると言って、国務省の次官補の職を辞めたのです。こうしてアチソン氏は1945年8月25日頃に国務省に戻ってきました。その翌日に、彼は極東小委員会の議長はヴィンセント氏に変えると宣言したのです。(p.717)

アチソン-ヴィンセントのポスト降伏初期政策

イーストランド議員:ジョン・カーター・ヴィンセントが日本について提案したことと、共産主義の東欧に対する政策に違いがあるか知りたいのですが。D:共産主義者が東欧で何をしたのか話す資格はありませんが、日本で何が行われたかはお話できます。(中略) イーストランド議員:ヴィンセント氏が日本に対して行おうとした政策と、ロシアが衛星国に対して指令した政策と同じだというのがあなたの判断じゃありませんか?D:えーと、正確を期したいと思うのですが…。 イーストランド議員:あなたの判断はどうなんですか?D:私の判断は同じです。(中略)1945年9月22日にホワイトハウスが「日本に対する合衆国のポスト降伏初期政策」(The United States Initial Post-Surrender Policy for Japan)を発表しました。この文書は私たちの極東小委員会が7,8ヶ月かけて作成したものですが、いくつか重要な変更があります。(中略) M:記録を正確にしてよろしいですか。必要ないかもしれませんが、ドゥーマン氏が証言しているのは、これがアメリカ政策の発布ということで、ドゥーマン氏が国務省に公式に所属している間に取り組んだ文書だということです。そして、このプログラムが最終的に発布された時に変更があったと気づいたことです。それがドゥーマン氏とグルー氏が採用したプログラムを引き継いだ人々によってされたということです。D:その通りです。 イーストランド議員:それはアチソン-ヴィンセント・プログラムだということですか?D:そうです。 イーストランド議員:彼らはこのプログラムで何をしようとしているのですか?D:第一にしたことは、1946年ですが、$1,000以上のすべての財産に60%から90%の資本税を課したことです。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-1)

ポツダム宣言の作成と占領政策について大きく関わりながら、強硬派に追放された外交官ユージン・ドゥーマンが1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」に証人喚問されましたので、その証言を紹介します。

ユージン・ドゥーマンの経歴

タンフォード大学フーバー研究所文書館の「ユージン・ドゥーマン文書」のサイトはユージン・ドゥーマンの外交官キャリアを以下のように記しています(注1)。参考のためにカッコ内に年齢を加えます。
    1912年(22歳):日本での通訳生として採用される。 1915年(25歳):副領事、神戸。 1921年(31歳):書記官、東京。 1924年(34歳):外交官。 1926年(36歳):書記官、二等書記官、東京 1931年(41歳):一等書記官、ロンドン。 1936年(46歳):総領事、ロンドン。 1937-1941年(47-51歳):大使館参事官、東京。 1942年(52歳):国務省に帰省、ワシントンD.C.。アメリカ大使、代理大使、モスクワ。 1943年(53歳):連合国救済復興機関(UNRRA)を組織するために、合衆国に帰国。 1944年(54歳):元大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew: 1880-1965)の特別補佐官。国務・陸軍・海軍調整委員会の極東小委員会の委員長。 1945年(55歳):ポツダム会議の極東問題アドバイザー。 1944-45年:戦略諜報局に対する日本関係アドバイザー、ワシントンD.C.。

太平洋問題調査会に関する公聴会

 上記の経歴からわかるのは、ドゥーマンが1931年の満州事変から日中戦争、真珠湾攻撃、太平洋戦争、終戦と日本占領まで、日本の動向をアメリカ政府に報告し、日本政府との折衝を担ってきた歴史の証人だということです。アメリカの外交文書には1934年からドゥーマンの名前が登場しますが、アクセスできる範囲内の一次資料で興味を持ったのは、1945年11月から46年5月まで続いた「真珠湾攻撃に関する米議会アメリカ議会合同調査委員会」(以後「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack)と、1951年の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会(以後「太平洋問題調査会に関する公聴会」(Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations)です。 時系列的には後になりますが、「太平洋問題調査会に関する公聴会」でドゥーマンが証言していますので、その証言を翻訳紹介します。「太平洋問題調査会に関する公聴会」が始まった原因は、赤狩りとかマッカーシズムと呼ばれる共和党上院議員ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy: 1908-1957)が始めた反共運動です。攻撃対象にされた中国研究者オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore: 1900-1989)が関わっていた「太平洋問題調査会」の関係者を調査するために上院で調査委員会が設立されました。その公聴会が1951年7月25日から1952年6月20日まで続き、66人が証人喚問され、ドゥーマンもその1人でした。実はこの委員会は2つ目の調査委員会で、最初の委員会の結論がマッカーシーの糾弾を「詐欺、でっち上げ」と判断したため、マッカーシーと同じ反共主義者の上院議員マッカラン(Pat McCarran: 1876-1954)を議長として調査委員会が再度編成され、ラティモアが再び攻撃されました。最終報告書によると、この委員会の目的は以下のように記されています。
    「太平洋問題調査会」が共産主義者の世界陰謀のスパイに支配されていたのか、影響を受けていたのか、あるいは潜入されていたか、いたとしたら、どの程度か。 これらのスパイとその手先が調査会を通してアメリカ合衆国政府に働きかけ、アメリカの極東政策に影響を与えたのか、そうなら、どの程度か、今でも影響力を持っているか。 これらのスパイとその手先が極東政策に関して、アメリカ世論を誘導したか。([ref]”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-2)

アメリカ外交官ユージン・ドゥーマンの父、アイザック・ドゥーマンは1888(明治21)年から25年間、アメリカ聖公会宣教師として日本で活動していました。

ユージン・ドゥーマンの父について

ージン・ドゥーマン(Eugene H. Dooman: 1890-1969)の父アイザック・ドゥーマン(Isaac Doman: 1857-1931)が明治後半に日本で宣教師として活躍していたことについて紹介します。『アメリカにおけるプロテスタント聖公会の日本ミッションの歴史』(1891)によると、アイザック・ドゥーマンは1887(明治20)年5月に日本行きの宣教師に任命され、ドゥーマン一家は1888(明治21)年2月に東京に到着したと記録されています((注1), p.28)。また、ドゥーマン牧師はペルシャの出身となっています。イスラム圏のイランでキリスト教徒だったことについて、立教大学設立者のヘンリー・セント・ジョージ・タッカー(Henry St. George Tucker: 1874-1959)が回想記の中で以下のように述べています。
 ドゥーマン氏はペルシャのイスラム教の環境の中で何世紀もキリスト教信仰を守ってきたキリスト教グループの一員だった。ペルシャで活動していた宣教師グループが若い彼をアメリカに送り、神学校教育を受けさせた。しかし、彼はアメリカに送ってくれた宣教師の非儀式宗派より、米国聖公会の方が自分が育った儀式と信仰が一致した宗派に近いことを知り、自分の支持母体の許可を得て、ゼネラル神学校(General Seminary)に入学した。我々[聖公会]はペルシャでは活動していないので、(中略)彼は卒業後日本での宣教活動を任命された。((注2), p.180)

奈良・和歌山での宣教活動

 アイザック・ドゥーマンは自著『神々の国における宣教師の生活—日本におけるアメリカ聖公会宣教師の25年』(A Missionary’s Life in the Land of the Gods: For Twenty-Five Years A Missionary of the American Episcopal Church in Japan, 1914)で日本での宣教師生活と日本観について述べています。1888年3月15日に大阪から妻と幼い子ども2人と奈良に移り、奈良で8年間宣教師活動をしたと書かれていますから([ref]Isaac Dooman, A Missionary’s 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-1)

1930-47年にまとめられたアメリカ政府刊『アメリカ合衆国の条約』で日米和親条約・琉米条約・日米修好通商条約締結までの経緯を検証し、ペリーとハリスの報告書と幕府の記録と照合し、幕府の記録力を高く評価しています。節(6-6-15, 6-6-16)で紹介した『アメリカ合衆国の条約』第6巻(Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol.6, 1942)の「文書164 JAPAN: 1854」を読むうちに、様々な意味で貴重な文書だという思いを強くしたので、この文書で編者のミラー(6-6-15参照)が何に着目したのか紹介します。 『アメリカ合衆国の条約』全8巻のうち、日本との条約が含まれているのは、第6, 7, 8巻です。第6巻には「文書164 JAPAN: 1854」(日米和親条約)、「文書166 LOOCHOO(RYUKYU): 1854」(琉米条約)、第7巻(1942)には「文書191 JAPAN: 1857」(ハリスとの交渉)、「文書200 JAPAN: 1858 and 1859」(日米修好通商条約)、第8巻(1948)には「文書221 JAPAN:1861」(ヒュースケン暗殺事件)が含まれています。本節では「文書164 JAPAN: 1854」を紹介します。

「文書164 JAPAN: 1854」の特徴

 この文書の執筆者名は記されていないので、ミラーを文責者と仮定して述べていきます。以下は文書全体の特徴です。

特徴1:

第6巻のミラーの序の日付が1941年9月8日((注1), p.vi)ですから、日本時間12月8日に真珠湾攻撃をしたという点で、ちょうど3ヶ月前にまとめられたペリーの条約検証となっています。真珠湾攻撃の3年前(1937年12月)に日本軍による南京虐殺事件と、揚子江上の米英の軍艦が日本軍に攻撃され、アメリカ軍艦は沈没、死傷者多数という「パナイ号事件」も起きていました。アメリカ議会では日本に対する経済制裁をすべき、いや中立を守るべきという攻防戦があり、市民の間では日本製品の不買運動が始まっていたことなど、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は詳しく報じています。そして、日独伊三国同盟のニュース(1940年9月)では、日本がアメリカを仮想敵国としているという報道で、毎日のように日本の動向が大きく報道されています。そんな最中に、日米関係史の出発点となったペリーの日本遠征と日米和親条約の検証をしていたわけです。

特徴2:

ミラーは最初から公刊された『ペリー提督日本遠征記』(1856)は信頼できないとして、ペリー艦隊の旗艦の航海日誌、米海軍省のアーカイブ、遠征に随行した主任通訳サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』(1910)と1920年代に在日本・アメリカ大使館書記官が英訳した「幕府役人の日記」などを条約検証のための根拠にしています。

特徴3:

1930年代にアメリカ政府の「条約ファイル」に残っていた日米和親条約の英語原文・日本語原文・漢語・中国語訳・オランダ語訳などを詳細に照合検証して、多くの違いがあることを指摘しています。

特徴4:

ミラーの解説を注意深く読むと、現在「日米和親条約」として知られている条約の英語ヴァージョンが、日本が合意した内容とは違うために、その後の混乱をもたらしたことが読み取れます。しかし、ミラーがはっきりと「日本語ヴァージョンは全く違う」と指摘しているのは、第11条と第12条だけです。第11条の英語ヴァージョンは、アメリカが必要と認めれば下田に領事を常駐させると読めますが、日本語ヴァージョンは、領事の件は条約調印から18ヶ月以降に交渉すると読めます。第12条条約批准書交換は調印から18ヶ月後と日本語ヴァージョンは記しているのに、英語ヴァージョンは「18ヶ月以内、できればそれより前」と書いてあると指摘しています。 この他の条約文にも日本語ヴァージョンと大きく違う点があると示唆はしているのですが、ミラーは正面きって「条約原文の問題」と題した節では指摘せず、他の節で、あるいは脚注で密かに示唆するにとどめています。

特徴5:

ミラーは国務長官の文書でも、事実と違う点は根拠を示して「正しくない」とコメントしてます。ペリーに関しては、直接的な批判や価値判断的なコメントはしてませんが、「文書164 JAPAN: 1854」全体を注意深く読むと、脚注にペリーの記述に反する文書を引用するなどして、どちらが信頼できるかの判断を読者に任せる手法をとっています。ミラーが条約文の専門家だから根拠の提示で示そうとしたのでしょうし、1941年という時代背景の中で日米関係史の第一歩がペリーの脅しや詐欺的言動によって問題の多い条約締結になったと読めるような書き方を避けたこともあるのかもしれません。いずれにしろ、21世紀の目からは、ミラーの文章には謎解きのような面白さを感じます。

特徴6:

もう1つの特徴は、ペリーの日本遠征当時のオランダ政府の対日本の姿勢が書かれたオランダ政府の記録を英訳して掲載していることです。相当の紙面を割いている理由は、砲艦外交だったペリーに比べ、外交とはこうあるべきとでも言うようなミラーの紹介の仕方だと感じましたので、後に翻訳紹介します。

「幕府役人の日記」

ミラーが「文書164 JAPAN: 1854」でウィリアムズの日誌と並んで引用しているのが「幕府役人の日記」と題された資料です。その説明をしている箇所(p.593)を訳します。
1854年2月16日から4月10日までの非常に興味深い記録が「幕府役人の日記」(Diary of an Official of the Bakufu)と題され、日本アジア協会のThe Transactions of the Asiatic
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-16)

ペリーは琉球の占領を海軍省に提案し、大統領と海軍省長官はまた叱責の回答を送ります。

皇帝の死について日本からの要望

リーは第2回日本遠征に向かう途中で海軍省長官に宛てた絶望の訴えを書いた(6-6-15参照)同じ日に、通常の報告書(No.39, 那覇発、1854年1月25日)を書いています。主要点は、ロシアとオランダから将軍の死のニュースが伝えられたこと、小笠原諸島と琉球をアメリカ領にしたいから海軍省の指示を仰ぎたいということです。オランダ東インド総督からの手紙を英訳したものを同封しているので、その要点を抄訳します((注1), p.111)。
    1853年12月23日付オランダ東インド総督からの書簡:7月に日本に行ったオランダ船が12月15日にバタヴィアに帰還し、11月15日までの日本の情報を持って帰った。日本の皇帝はアメリカ大統領の手紙を受け取ってすぐに死んだ。日本政府はオランダを通してアメリカ政府に伝えて欲しいと依頼した。 日本の法律と慣習では、喪に服す儀式と王位継承に関する行事が多く、この期間中は重要案件は行われない。喪が明けたら、大統領の手紙は日本の全藩主の意見を聞くため、各自が江戸に行かなければならず多くの時間がかかる。 日本当局は繰り返しオランダ商館長に、ペリー提督が決めた日本再訪の日に来ないで欲しいというのが日本政府の願いだとアメリカ政府に伝えて欲しいと依頼した。皇帝の死によって数々の避けられない事情が生じているので、アメリカ艦隊[の再訪]が混乱を生む。

皇帝の死のニュースは疑わしい

 以下はペリーの見解です。
    この前[オランダ東インド総督から聞く前]にロシア艦隊の将校たちからも日本の皇帝の死について聞いた。ロシア艦隊の提督が長崎から江戸に送った皇帝宛書簡に返事がないのはその理由だと提督も伝えられたという。 昨年7月私が江戸湾に行ったとき元気だった皇帝がアメリカとロシアの艦隊が現れた途端に死んだというのは奇妙だ。長い服喪の期間と結果として公務が禁じられているという法律は、[日本]帝国の習慣について書かれているどの本も言及していないのは奇妙だ。中国の法律は最高位の階級の長男が7週間は娯楽や交際や仕事をすることを禁じているが、皇位はすぐに継承され、公務が中断することはない。 この情報で私が自分に課した計画を実行することを思い直すことはない。
 『アメリカ合衆国の条約』には、ペリーのこのコメントに注をつけて、「皇帝の死」について「徳川第12代将軍、家慶(Iyeyoshi)のことで、ペリー提督の最初の訪問の9日後、1853年7月26日に亡くなった」((注2), p.587の注3)と解説しています。

日本が開港を拒否したら、琉球を占領する

 この後、以下の部分が続くのですが、1855年1月31日にアメリカ議会上院に提出された文書のスキャン状態が悪く、判読不能な箇所があるので、1942年刊の『アメリカ合衆国の条約』に掲載されている同じ報告書No.39を手紙形式で訳します((注2), pp.587-589)。
 私のミッションのうち、日本の港1港以上をアメリカ船に開港させることと、アメリカと公平な条約の交渉をすることの達成は、武力の行使なしにできるか疑問です。武力行使については、日本側が始めたのでない場合、我々が悪いことになります。 したがって、明確な指示がない状況では、私が自分の判断で状況に応じて行動する責任を引き受けることが必要になります。 この目標を達成するために、もし日本政府が交渉を拒否したり、我が国の商人や捕鯨船のために港を開港することを拒否したら、アメリカ市民に対して犯された侮辱と危害という理由で(原文強調)、この大琉球を占領してアメリカ国旗の監視下(原文強調)に置くつもりです。我が国の政府が私の行為について知らされ、それを公認するかしないか決めるまでは、[日本]帝国の属国である大琉球を拘束(原文強調)し続けるつもりです。この責任は全て私にあり、この方法は政治的警戒だと私はみなしています。なぜなら、江戸に向かってこの港[那覇]を出発する前にこのような予備的措置を取らなければ、ロシアやフランスや多分イギリスもこの考えを先取りするでしょう。 はっきりさせておくことは、この島の当局も人々も決していじめられたり、邪魔されたり、[ペリー側の]自衛以外では暴力や軍事力を振るわれたりしないということです。実のところ、我々はこの島の法律や慣習を妨げずに、親切な行動でこの島で必要な影響力をすでに獲得しています。

軍事力行使も辞さない

 日本を正すという要求は、どの文明国よりもアメリカの方に強い権利があります。海の向こうにまで領土を拡大するというのは我が国の機関の精神ではありませんが、世界の遠い地域で我が国の商業権益を守るべき明確な必要性があります。そのためには、我が国ほど慎重ではない列強の国々を妨害するために、どんな強い手段を取ってもすべきです。 したがって、この特異な状況が私に課す責任の重さを感じずにはいられません。日本に関して政府と合衆国の国民が持つ期待感を知っているので、私は軍事力行使をひるむことはありません。軍事力行使を多くの人が最初は(原文強調)疑問視するかもしれませんが、行使しなければ全員(原文強調)が私に賢明さと強硬さが欠けている証拠だと非難するでしょう。(中略)日本政府が我々の正当な要求に従わない場合、この島を占領するために私がさらなる手段を取るべきか、または、この島に対する権利を私が全て諦めて、当局と島民をこのままにしておくかの指示をくださるよう、海軍省に伏してお願いいたします。(中略) ボニン諸島(小笠原諸島)についても指示をお願いします。
訳者解説:ペリーの報告書中の「原文強調」箇所は『アメリカ合衆国の条約』でもアメリカ議会提出のヴァージョンでも斜体で強調されています。

大統領と海軍省長官の回答:ペリーの琉球占領の提案は恥ずかしい

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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-15)

第2回日本遠征に向かうペリー提督が那覇から発した海軍省長官宛の手紙に、長官の指示によって自分の長い海軍人生が終わらせられるのかという訴えが綴られています。

日米開戦直前の米政府によるペリー評価

 前節で紹介した『ペリー提督日本遠征記』と主任通訳だったウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』の違いに注目し、『ペリー提督日本遠征記』は信用できないと示唆しているアメリカ政府刊行文書があります。アメリカ議会上院が開示を請求し、1855年1月31日に上院に提出されたペリーと海軍省長官との一連の通信文を通読するうちに、提出されていない通信文があることに気づき、外されている文書がないか調べて見つけました。『アメリカ合衆国の条約とその他の国際法 第6巻』(Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol.6、以下『アメリカ合衆国の条約』)という900ページ以上の大著です。アメリカ政府刊のこの膨大な文書は1852年から1855年の間にアメリカが条約締結した国と、その経緯を記録したものですが、日本に関してはペリーの日米和親条約と琉米修好条約について記録されています。日本に関しては227ページ、琉球43ページ、合計270ページにも及びます。 この本の公刊は1942年ですが、編者の序の日付が真珠湾攻撃の3ヶ月前、1941年9月8日((注1), p.VI)です。編者はこの本ではハンター・ミラーとなっていますが、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』などではデイヴィッド・ハンター・ミラー(David Hunter Miller: 1875-1961)となっています。条約を専門とする法律家で、1929年から1944年まで国務省の官僚で、国際連盟規約を作成したとされています。ミラーが編集した『アメリカ合衆国の条約』は全8巻で、1931年から48年まで続いた一大プロジェクトのようです(注2)。 日米和親条約について、政府ファイルに残っている和文・英文・オランダ語訳文・漢文等を掲載し、和文と英文条約を照合して違いを指摘するなど、詳細な分析をしています。条約までの経緯や日本側の反応なども様々な参考文献を紹介していて貴重な資料ですが、本節ではなぜ1853年11月14日付のドビン海軍省長官からの手紙(6-6-13参照)を全文引用しているのか見ます。

『アメリカ合衆国の条約』で指摘されたペリーの日本観と政府の見解の違い

 この本で強調されているように見えるのは、対日本に関するペリーと当時のアメリカ政府の見解の相違です。「ペリー提督の見解」という見出しの節は、「ペリーが予想していた自分のミッションについての見解は海軍省長官宛の2通の通信文に表されている。1番目は”Notes”と題され、日付はないが、ペリーが合衆国を出発する前に書かれた。2番目は1852年12月14日、マデイラ発の通信文である」と始まっています。1番目の論調は今まで見てきた『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の好戦的な記事とほぼ同じです。合衆国政府がどうすべきかを主張している箇所を抄訳します。
[日本が]文明国か否かにかかわらず、合衆国がこの異常な(extraordinary)人々を国々の家族に引き入れるリーダーとなることを「天命」(原文強調, Destiny)が決定づけているようです。世界がこの義務を我々に課し、我々がその仕事を引き受け、責任を持っている今、引き返すことはできません。我々が笑い者になり、非難されてしまいます。 アメリカ政府はここまで来てしまったのだから後退することはできません。エネルギッシュな行動という我々の性質を維持するためにも進まなければなりません。たとえ出来事の流れや時代状況がそれ[日本遠征]を必要としていなくても。(中略)((注1), p.552) イギリス政府による中国の開港は今世紀にこの国が行った最も人道的で役立つ行動だと証明されています。そしてキリスト教ミッショナリーが達成した時代より、中国をキリスト教化し続け、中国人のモラルと社会状況を改善し続けるでしょう。(中略) したがって、合衆国が「できれば平和的、必要なら武力で」(原文強調)、この「奇妙な政府」(原文強調)の海岸を絶えず通るアメリカ国旗を掲げる多くの船や捕鯨船その他に避難場所としての港を確保することは緊急でのっぴきならぬ必要性です。(p.553)
 「天命」は「明白な天命」(Manifest Destiny)とも訳され、アメリカが太平洋岸と太平洋に向かって領土拡大するスローガンとして使われていた概念です(注3)。『アメリカ合衆国の条約』で、上記の書簡の次に掲載されている書簡(ミシシッピー号上、マデイラ発、1852年12月14日付)で、ペリーは「日本政府が本州の港を開港することに反対し、武力を使って流血なしには占領できないとしたら日本の南の島を艦隊の中継地とする」(p.554)と述べて、琉球諸島の中心的港の占領を示唆しています。 これらに対するアメリカ政府からの回答はフィルモア大統領政権が終わる2,3日前に国務長官エヴェレットから出された1853年2月15日付の手紙だとして掲載しています。ペリーの12月14日付の手紙は海軍省長官から国務長官に、そして大統領に提出され、以下の指示が大統領から出たと記されています(p.556)。
    日本の開港が武力行使なしに達成できない場合は、他の場所を探すべき。 大統領は琉球でこの目的を達成するという貴官の考えに賛成する。 この単純で戦争を好まない人々に対する貴官の男たちの暴力と略奪を防ぎ、禁じること。 この人々の中に貴官が現れることが彼らにとって利益であり悪ではないことを最初から示すこと。 武力は自衛のためと自己防衛でどうしてもという場合以外は決して使ってはならない。
COM・PERRY’S VISIT TO SHUI, LEW CHEWペリー提督の琉球・首里訪問([ref]Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed 続きを読む
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