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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-1)

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“”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to”

ポツダム宣言の作成と占領政策について大きく関わりながら、強硬派に追放された外交官ユージン・ドゥーマンが1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」に証人喚問されましたので、その証言を紹介します。

ユージン・ドゥーマンの経歴

タンフォード大学フーバー研究所文書館の「ユージン・ドゥーマン文書」のサイトはユージン・ドゥーマンの外交官キャリアを以下のように記しています[ref]“Eugene H. (Hoffman) Dooman papers”, Hoover Institution Archives, Stanford Universityhttp://pdf.oac.cdlib.org/pdf/hoover/reg_312.pdf[/ref]。参考のためにカッコ内に年齢を加えます。
    1912年(22歳):日本での通訳生として採用される。 1915年(25歳):副領事、神戸。 1921年(31歳):書記官、東京。 1924年(34歳):外交官。 1926年(36歳):書記官、二等書記官、東京 1931年(41歳):一等書記官、ロンドン。 1936年(46歳):総領事、ロンドン。 1937-1941年(47-51歳):大使館参事官、東京。 1942年(52歳):国務省に帰省、ワシントンD.C.。アメリカ大使、代理大使、モスクワ。 1943年(53歳):連合国救済復興機関(UNRRA)を組織するために、合衆国に帰国。 1944年(54歳):元大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew: 1880-1965)の特別補佐官。国務・陸軍・海軍調整委員会の極東小委員会の委員長。 1945年(55歳):ポツダム会議の極東問題アドバイザー。 1944-45年:戦略諜報局に対する日本関係アドバイザー、ワシントンD.C.。

太平洋問題調査会に関する公聴会

 上記の経歴からわかるのは、ドゥーマンが1931年の満州事変から日中戦争、真珠湾攻撃、太平洋戦争、終戦と日本占領まで、日本の動向をアメリカ政府に報告し、日本政府との折衝を担ってきた歴史の証人だということです。アメリカの外交文書には1934年からドゥーマンの名前が登場しますが、アクセスできる範囲内の一次資料で興味を持ったのは、1945年11月から46年5月まで続いた「真珠湾攻撃に関する米議会アメリカ議会合同調査委員会」(以後「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack)と、1951年の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会(以後「太平洋問題調査会に関する公聴会」(Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations)です。 時系列的には後になりますが、「太平洋問題調査会に関する公聴会」でドゥーマンが証言していますので、その証言を翻訳紹介します。「太平洋問題調査会に関する公聴会」が始まった原因は、赤狩りとかマッカーシズムと呼ばれる共和党上院議員ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy: 1908-1957)が始めた反共運動です。攻撃対象にされた中国研究者オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore: 1900-1989)が関わっていた「太平洋問題調査会」の関係者を調査するために上院で調査委員会が設立されました。その公聴会が1951年7月25日から1952年6月20日まで続き、66人が証人喚問され、ドゥーマンもその1人でした。実はこの委員会は2つ目の調査委員会で、最初の委員会の結論がマッカーシーの糾弾を「詐欺、でっち上げ」と判断したため、マッカーシーと同じ反共主義者の上院議員マッカラン(Pat McCarran: 1876-1954)を議長として調査委員会が再度編成され、ラティモアが再び攻撃されました。最終報告書によると、この委員会の目的は以下のように記されています。
    「太平洋問題調査会」が共産主義者の世界陰謀のスパイに支配されていたのか、影響を受けていたのか、あるいは潜入されていたか、いたとしたら、どの程度か。 これらのスパイとその手先が調査会を通してアメリカ合衆国政府に働きかけ、アメリカの極東政策に影響を与えたのか、そうなら、どの程度か、今でも影響力を持っているか。 これらのスパイとその手先が極東政策に関して、アメリカ世論を誘導したか。([ref]”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-2)

アメリカ外交官ユージン・ドゥーマンの父、アイザック・ドゥーマンは1888(明治21)年から25年間、アメリカ聖公会宣教師として日本で活動していました。

ユージン・ドゥーマンの父について

ージン・ドゥーマン(Eugene H. Dooman: 1890-1969)の父アイザック・ドゥーマン(Isaac Doman: 1857-1931)が明治後半に日本で宣教師として活躍していたことについて紹介します。『アメリカにおけるプロテスタント聖公会の日本ミッションの歴史』(1891)によると、アイザック・ドゥーマンは1887(明治20)年5月に日本行きの宣教師に任命され、ドゥーマン一家は1888(明治21)年2月に東京に到着したと記録されています((注1), p.28)。また、ドゥーマン牧師はペルシャの出身となっています。イスラム圏のイランでキリスト教徒だったことについて、立教大学設立者のヘンリー・セント・ジョージ・タッカー(Henry St. George Tucker: 1874-1959)が回想記の中で以下のように述べています。
 ドゥーマン氏はペルシャのイスラム教の環境の中で何世紀もキリスト教信仰を守ってきたキリスト教グループの一員だった。ペルシャで活動していた宣教師グループが若い彼をアメリカに送り、神学校教育を受けさせた。しかし、彼はアメリカに送ってくれた宣教師の非儀式宗派より、米国聖公会の方が自分が育った儀式と信仰が一致した宗派に近いことを知り、自分の支持母体の許可を得て、ゼネラル神学校(General Seminary)に入学した。我々[聖公会]はペルシャでは活動していないので、(中略)彼は卒業後日本での宣教活動を任命された。((注2), p.180)

奈良・和歌山での宣教活動

 アイザック・ドゥーマンは自著『神々の国における宣教師の生活—日本におけるアメリカ聖公会宣教師の25年』(A Missionary’s Life in the Land of the Gods: For Twenty-Five Years A Missionary of the American Episcopal Church in Japan, 1914)で日本での宣教師生活と日本観について述べています。1888年3月15日に大阪から妻と幼い子ども2人と奈良に移り、奈良で8年間宣教師活動をしたと書かれていますから([ref]Isaac Dooman, A Missionary’s 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-1)

1930-47年にまとめられたアメリカ政府刊『アメリカ合衆国の条約』で日米和親条約・琉米条約・日米修好通商条約締結までの経緯を検証し、ペリーとハリスの報告書と幕府の記録と照合し、幕府の記録力を高く評価しています。節(6-6-15, 6-6-16)で紹介した『アメリカ合衆国の条約』第6巻(Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol.6, 1942)の「文書164 JAPAN: 1854」を読むうちに、様々な意味で貴重な文書だという思いを強くしたので、この文書で編者のミラー(6-6-15参照)が何に着目したのか紹介します。 『アメリカ合衆国の条約』全8巻のうち、日本との条約が含まれているのは、第6, 7, 8巻です。第6巻には「文書164 JAPAN: 1854」(日米和親条約)、「文書166 LOOCHOO(RYUKYU): 1854」(琉米条約)、第7巻(1942)には「文書191 JAPAN: 1857」(ハリスとの交渉)、「文書200 JAPAN: 1858 and 1859」(日米修好通商条約)、第8巻(1948)には「文書221 JAPAN:1861」(ヒュースケン暗殺事件)が含まれています。本節では「文書164 JAPAN: 1854」を紹介します。

「文書164 JAPAN: 1854」の特徴

 この文書の執筆者名は記されていないので、ミラーを文責者と仮定して述べていきます。以下は文書全体の特徴です。

特徴1:

第6巻のミラーの序の日付が1941年9月8日((注1), p.vi)ですから、日本時間12月8日に真珠湾攻撃をしたという点で、ちょうど3ヶ月前にまとめられたペリーの条約検証となっています。真珠湾攻撃の3年前(1937年12月)に日本軍による南京虐殺事件と、揚子江上の米英の軍艦が日本軍に攻撃され、アメリカ軍艦は沈没、死傷者多数という「パナイ号事件」も起きていました。アメリカ議会では日本に対する経済制裁をすべき、いや中立を守るべきという攻防戦があり、市民の間では日本製品の不買運動が始まっていたことなど、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は詳しく報じています。そして、日独伊三国同盟のニュース(1940年9月)では、日本がアメリカを仮想敵国としているという報道で、毎日のように日本の動向が大きく報道されています。そんな最中に、日米関係史の出発点となったペリーの日本遠征と日米和親条約の検証をしていたわけです。

特徴2:

ミラーは最初から公刊された『ペリー提督日本遠征記』(1856)は信頼できないとして、ペリー艦隊の旗艦の航海日誌、米海軍省のアーカイブ、遠征に随行した主任通訳サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』(1910)と1920年代に在日本・アメリカ大使館書記官が英訳した「幕府役人の日記」などを条約検証のための根拠にしています。

特徴3:

1930年代にアメリカ政府の「条約ファイル」に残っていた日米和親条約の英語原文・日本語原文・漢語・中国語訳・オランダ語訳などを詳細に照合検証して、多くの違いがあることを指摘しています。

特徴4:

ミラーの解説を注意深く読むと、現在「日米和親条約」として知られている条約の英語ヴァージョンが、日本が合意した内容とは違うために、その後の混乱をもたらしたことが読み取れます。しかし、ミラーがはっきりと「日本語ヴァージョンは全く違う」と指摘しているのは、第11条と第12条だけです。第11条の英語ヴァージョンは、アメリカが必要と認めれば下田に領事を常駐させると読めますが、日本語ヴァージョンは、領事の件は条約調印から18ヶ月以降に交渉すると読めます。第12条条約批准書交換は調印から18ヶ月後と日本語ヴァージョンは記しているのに、英語ヴァージョンは「18ヶ月以内、できればそれより前」と書いてあると指摘しています。 この他の条約文にも日本語ヴァージョンと大きく違う点があると示唆はしているのですが、ミラーは正面きって「条約原文の問題」と題した節では指摘せず、他の節で、あるいは脚注で密かに示唆するにとどめています。

特徴5:

ミラーは国務長官の文書でも、事実と違う点は根拠を示して「正しくない」とコメントしてます。ペリーに関しては、直接的な批判や価値判断的なコメントはしてませんが、「文書164 JAPAN: 1854」全体を注意深く読むと、脚注にペリーの記述に反する文書を引用するなどして、どちらが信頼できるかの判断を読者に任せる手法をとっています。ミラーが条約文の専門家だから根拠の提示で示そうとしたのでしょうし、1941年という時代背景の中で日米関係史の第一歩がペリーの脅しや詐欺的言動によって問題の多い条約締結になったと読めるような書き方を避けたこともあるのかもしれません。いずれにしろ、21世紀の目からは、ミラーの文章には謎解きのような面白さを感じます。

特徴6:

もう1つの特徴は、ペリーの日本遠征当時のオランダ政府の対日本の姿勢が書かれたオランダ政府の記録を英訳して掲載していることです。相当の紙面を割いている理由は、砲艦外交だったペリーに比べ、外交とはこうあるべきとでも言うようなミラーの紹介の仕方だと感じましたので、後に翻訳紹介します。

「幕府役人の日記」

ミラーが「文書164 JAPAN: 1854」でウィリアムズの日誌と並んで引用しているのが「幕府役人の日記」と題された資料です。その説明をしている箇所(p.593)を訳します。
1854年2月16日から4月10日までの非常に興味深い記録が「幕府役人の日記」(Diary of an Official of the Bakufu)と題され、日本アジア協会のThe Transactions of the Asiatic
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-16)

ペリーは琉球の占領を海軍省に提案し、大統領と海軍省長官はまた叱責の回答を送ります。

皇帝の死について日本からの要望

リーは第2回日本遠征に向かう途中で海軍省長官に宛てた絶望の訴えを書いた(6-6-15参照)同じ日に、通常の報告書(No.39, 那覇発、1854年1月25日)を書いています。主要点は、ロシアとオランダから将軍の死のニュースが伝えられたこと、小笠原諸島と琉球をアメリカ領にしたいから海軍省の指示を仰ぎたいということです。オランダ東インド総督からの手紙を英訳したものを同封しているので、その要点を抄訳します((注1), p.111)。
    1853年12月23日付オランダ東インド総督からの書簡:7月に日本に行ったオランダ船が12月15日にバタヴィアに帰還し、11月15日までの日本の情報を持って帰った。日本の皇帝はアメリカ大統領の手紙を受け取ってすぐに死んだ。日本政府はオランダを通してアメリカ政府に伝えて欲しいと依頼した。 日本の法律と慣習では、喪に服す儀式と王位継承に関する行事が多く、この期間中は重要案件は行われない。喪が明けたら、大統領の手紙は日本の全藩主の意見を聞くため、各自が江戸に行かなければならず多くの時間がかかる。 日本当局は繰り返しオランダ商館長に、ペリー提督が決めた日本再訪の日に来ないで欲しいというのが日本政府の願いだとアメリカ政府に伝えて欲しいと依頼した。皇帝の死によって数々の避けられない事情が生じているので、アメリカ艦隊[の再訪]が混乱を生む。

皇帝の死のニュースは疑わしい

 以下はペリーの見解です。
    この前[オランダ東インド総督から聞く前]にロシア艦隊の将校たちからも日本の皇帝の死について聞いた。ロシア艦隊の提督が長崎から江戸に送った皇帝宛書簡に返事がないのはその理由だと提督も伝えられたという。 昨年7月私が江戸湾に行ったとき元気だった皇帝がアメリカとロシアの艦隊が現れた途端に死んだというのは奇妙だ。長い服喪の期間と結果として公務が禁じられているという法律は、[日本]帝国の習慣について書かれているどの本も言及していないのは奇妙だ。中国の法律は最高位の階級の長男が7週間は娯楽や交際や仕事をすることを禁じているが、皇位はすぐに継承され、公務が中断することはない。 この情報で私が自分に課した計画を実行することを思い直すことはない。
 『アメリカ合衆国の条約』には、ペリーのこのコメントに注をつけて、「皇帝の死」について「徳川第12代将軍、家慶(Iyeyoshi)のことで、ペリー提督の最初の訪問の9日後、1853年7月26日に亡くなった」((注2), p.587の注3)と解説しています。

日本が開港を拒否したら、琉球を占領する

 この後、以下の部分が続くのですが、1855年1月31日にアメリカ議会上院に提出された文書のスキャン状態が悪く、判読不能な箇所があるので、1942年刊の『アメリカ合衆国の条約』に掲載されている同じ報告書No.39を手紙形式で訳します((注2), pp.587-589)。
 私のミッションのうち、日本の港1港以上をアメリカ船に開港させることと、アメリカと公平な条約の交渉をすることの達成は、武力の行使なしにできるか疑問です。武力行使については、日本側が始めたのでない場合、我々が悪いことになります。 したがって、明確な指示がない状況では、私が自分の判断で状況に応じて行動する責任を引き受けることが必要になります。 この目標を達成するために、もし日本政府が交渉を拒否したり、我が国の商人や捕鯨船のために港を開港することを拒否したら、アメリカ市民に対して犯された侮辱と危害という理由で(原文強調)、この大琉球を占領してアメリカ国旗の監視下(原文強調)に置くつもりです。我が国の政府が私の行為について知らされ、それを公認するかしないか決めるまでは、[日本]帝国の属国である大琉球を拘束(原文強調)し続けるつもりです。この責任は全て私にあり、この方法は政治的警戒だと私はみなしています。なぜなら、江戸に向かってこの港[那覇]を出発する前にこのような予備的措置を取らなければ、ロシアやフランスや多分イギリスもこの考えを先取りするでしょう。 はっきりさせておくことは、この島の当局も人々も決していじめられたり、邪魔されたり、[ペリー側の]自衛以外では暴力や軍事力を振るわれたりしないということです。実のところ、我々はこの島の法律や慣習を妨げずに、親切な行動でこの島で必要な影響力をすでに獲得しています。

軍事力行使も辞さない

 日本を正すという要求は、どの文明国よりもアメリカの方に強い権利があります。海の向こうにまで領土を拡大するというのは我が国の機関の精神ではありませんが、世界の遠い地域で我が国の商業権益を守るべき明確な必要性があります。そのためには、我が国ほど慎重ではない列強の国々を妨害するために、どんな強い手段を取ってもすべきです。 したがって、この特異な状況が私に課す責任の重さを感じずにはいられません。日本に関して政府と合衆国の国民が持つ期待感を知っているので、私は軍事力行使をひるむことはありません。軍事力行使を多くの人が最初は(原文強調)疑問視するかもしれませんが、行使しなければ全員(原文強調)が私に賢明さと強硬さが欠けている証拠だと非難するでしょう。(中略)日本政府が我々の正当な要求に従わない場合、この島を占領するために私がさらなる手段を取るべきか、または、この島に対する権利を私が全て諦めて、当局と島民をこのままにしておくかの指示をくださるよう、海軍省に伏してお願いいたします。(中略) ボニン諸島(小笠原諸島)についても指示をお願いします。
訳者解説:ペリーの報告書中の「原文強調」箇所は『アメリカ合衆国の条約』でもアメリカ議会提出のヴァージョンでも斜体で強調されています。

大統領と海軍省長官の回答:ペリーの琉球占領の提案は恥ずかしい

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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-15)

第2回日本遠征に向かうペリー提督が那覇から発した海軍省長官宛の手紙に、長官の指示によって自分の長い海軍人生が終わらせられるのかという訴えが綴られています。

日米開戦直前の米政府によるペリー評価

 前節で紹介した『ペリー提督日本遠征記』と主任通訳だったウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』の違いに注目し、『ペリー提督日本遠征記』は信用できないと示唆しているアメリカ政府刊行文書があります。アメリカ議会上院が開示を請求し、1855年1月31日に上院に提出されたペリーと海軍省長官との一連の通信文を通読するうちに、提出されていない通信文があることに気づき、外されている文書がないか調べて見つけました。『アメリカ合衆国の条約とその他の国際法 第6巻』(Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol.6、以下『アメリカ合衆国の条約』)という900ページ以上の大著です。アメリカ政府刊のこの膨大な文書は1852年から1855年の間にアメリカが条約締結した国と、その経緯を記録したものですが、日本に関してはペリーの日米和親条約と琉米修好条約について記録されています。日本に関しては227ページ、琉球43ページ、合計270ページにも及びます。 この本の公刊は1942年ですが、編者の序の日付が真珠湾攻撃の3ヶ月前、1941年9月8日((注1), p.VI)です。編者はこの本ではハンター・ミラーとなっていますが、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』などではデイヴィッド・ハンター・ミラー(David Hunter Miller: 1875-1961)となっています。条約を専門とする法律家で、1929年から1944年まで国務省の官僚で、国際連盟規約を作成したとされています。ミラーが編集した『アメリカ合衆国の条約』は全8巻で、1931年から48年まで続いた一大プロジェクトのようです(注2)。 日米和親条約について、政府ファイルに残っている和文・英文・オランダ語訳文・漢文等を掲載し、和文と英文条約を照合して違いを指摘するなど、詳細な分析をしています。条約までの経緯や日本側の反応なども様々な参考文献を紹介していて貴重な資料ですが、本節ではなぜ1853年11月14日付のドビン海軍省長官からの手紙(6-6-13参照)を全文引用しているのか見ます。

『アメリカ合衆国の条約』で指摘されたペリーの日本観と政府の見解の違い

 この本で強調されているように見えるのは、対日本に関するペリーと当時のアメリカ政府の見解の相違です。「ペリー提督の見解」という見出しの節は、「ペリーが予想していた自分のミッションについての見解は海軍省長官宛の2通の通信文に表されている。1番目は”Notes”と題され、日付はないが、ペリーが合衆国を出発する前に書かれた。2番目は1852年12月14日、マデイラ発の通信文である」と始まっています。1番目の論調は今まで見てきた『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の好戦的な記事とほぼ同じです。合衆国政府がどうすべきかを主張している箇所を抄訳します。
[日本が]文明国か否かにかかわらず、合衆国がこの異常な(extraordinary)人々を国々の家族に引き入れるリーダーとなることを「天命」(原文強調, Destiny)が決定づけているようです。世界がこの義務を我々に課し、我々がその仕事を引き受け、責任を持っている今、引き返すことはできません。我々が笑い者になり、非難されてしまいます。 アメリカ政府はここまで来てしまったのだから後退することはできません。エネルギッシュな行動という我々の性質を維持するためにも進まなければなりません。たとえ出来事の流れや時代状況がそれ[日本遠征]を必要としていなくても。(中略)((注1), p.552) イギリス政府による中国の開港は今世紀にこの国が行った最も人道的で役立つ行動だと証明されています。そしてキリスト教ミッショナリーが達成した時代より、中国をキリスト教化し続け、中国人のモラルと社会状況を改善し続けるでしょう。(中略) したがって、合衆国が「できれば平和的、必要なら武力で」(原文強調)、この「奇妙な政府」(原文強調)の海岸を絶えず通るアメリカ国旗を掲げる多くの船や捕鯨船その他に避難場所としての港を確保することは緊急でのっぴきならぬ必要性です。(p.553)
 「天命」は「明白な天命」(Manifest Destiny)とも訳され、アメリカが太平洋岸と太平洋に向かって領土拡大するスローガンとして使われていた概念です(注3)。『アメリカ合衆国の条約』で、上記の書簡の次に掲載されている書簡(ミシシッピー号上、マデイラ発、1852年12月14日付)で、ペリーは「日本政府が本州の港を開港することに反対し、武力を使って流血なしには占領できないとしたら日本の南の島を艦隊の中継地とする」(p.554)と述べて、琉球諸島の中心的港の占領を示唆しています。 これらに対するアメリカ政府からの回答はフィルモア大統領政権が終わる2,3日前に国務長官エヴェレットから出された1853年2月15日付の手紙だとして掲載しています。ペリーの12月14日付の手紙は海軍省長官から国務長官に、そして大統領に提出され、以下の指示が大統領から出たと記されています(p.556)。
    日本の開港が武力行使なしに達成できない場合は、他の場所を探すべき。 大統領は琉球でこの目的を達成するという貴官の考えに賛成する。 この単純で戦争を好まない人々に対する貴官の男たちの暴力と略奪を防ぎ、禁じること。 この人々の中に貴官が現れることが彼らにとって利益であり悪ではないことを最初から示すこと。 武力は自衛のためと自己防衛でどうしてもという場合以外は決して使ってはならない。
COM・PERRY’S VISIT TO SHUI, LEW CHEWペリー提督の琉球・首里訪問([ref]Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-14)

1853年にアメリカ海軍省長官がペリー提督に日本に兵隊を上陸させるなと叱責した時に、”prudence”をどういう意味で使ったのか、現在はどう使われているのか探ってみました。

「過度な賢慮を行使してはならない」の意味は何か

 強力な海軍は平和の手段だという信念のドビン海軍省長官を怒らせた(6-6-13参照)ペリーの報告書(1853年8月3日サスケハナ号海上にて、報告書番号No.17)の中で前節にあげた箇所以外を探ってみます。海軍省長官が危惧したのが、ペリーが軍隊を上陸させて侵略行為をするのではないかという点と、日本側を恐怖に陥れて目的を達成すると豪語している点です。 あるいは、ペリーの名前で皇帝[将軍]に送った手紙の内容も指しているのかもしれません。これも自分は日本の皇帝を脅したという自慢の種のように、海軍省長官宛の書簡と一緒に送っています。1853年7月7日付の文書((注1), pp.55-57)ですが、『ペリー提督日本遠征記』(上)に掲載されているものの日付は7月5日となっています。フィルモア大統領[1853年時点のピアス大統領の前任者]からの親書にはない、挑戦的な箇所を引用します。
 このように、合衆国と日本は日に日に相互に近づいているので、大統領は陛下と平和的かつ友好的に共存することを望んでいますが、日本がアメリカに対して仇敵のようにふるまうのをやめなければ、友好は永続することができません。(中略) 本書状の署名者は、いま誠意を尽くして行われている友好の提案に、日本政府が快く応じることにより、両国間の非友好的な軋轢を避ける必要を察知されるであろうとの希望を抱いて、以上の論拠を提起します。ペリーによる注:前述の内容は海軍からの私宛の指示で使われた文章の内容を含んでいます。((注2), pp.606-607)
 最後の「ペリーによる注」は1853年8月3日付海軍省長官宛の報告書にも挿入されていますが、ペリーが海軍省から受け取った指示文書は掲載されていないので、「日本がアメリカに対して仇敵のようにふるまうのをやめなければ」とか「両国間の非友好的な軋轢を避ける必要」とかの文言が海軍省から指示された文章なのかはわかりません。

海軍省長官宛報告書・『ペリー提督日本遠征記』・『ペリー日本遠征随行記』の違い

 ペリーからの海軍省長官宛報告書には香山栄左衛門らの態度などについてはペリー自身が見ていないので書かれていませんが、不思議なことに大統領の書簡が入った「立派な箱」の「精巧な細工と豪華さに大いに感銘を受けたようだった」(『ペリー提督日本遠征記』(上)p.560)という点だけは海軍省長官に直接報告しています。1853年8月3日付の報告書でペリーは「明らかに閣下[香山]を驚かせた」((注1), p.47)と書いています。この場で実際に香山の反応を見たアメリカ側通訳のサミュエル・ウィリアムズが正反対のことを書いているので(1-2参照)、再度掲載します。
手紙のオリジナルと翻訳が入った箱を彼らに見せると、感心した様子はほとんど見せなかった。そして、そのような箱と皇帝宛の手紙を運ぶために、なぜ4隻も船をよこしたのか知りたいと言った。「皇帝に敬意を表するため」という理由を告げると、彼らの表情からは、こんな武力の理由について疑いがますます募ったようだった。(中略)この会談の間中、日本人の態度は威厳があり沈着冷静だった。オリジナル:The originals of the letter and credence were then shown them, and also the package containing the translations; they showed little or no admiration at them, but wished to know the reason for sending four ships to carry such a box and letter to the Emperor; yet whether the reason assigned, “to show respect to him,”
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-13)

ペリーは第一回日本遠征の帰路、報告をアメリカ海軍省長官に送りますが、長官の回答は「貴官に宣戦布告の権限はない」という趣旨の叱責に近いものでした。

ペリー艦隊は攻撃態勢だった

 『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(1853年10月31日、6-6-12参照)によるペリーの第一回日本遠征報道には、ペリー艦隊が攻撃態勢にあったことが読み取れます。ペリーの日本遠征の正式記録にもはっきりと攻撃態勢に入っていたことが書かれていますが、ペリー自身が海軍省に宛てた報告書(1853年8月3日サスケハナ号海上にて、報告書番号No.17)から抄訳します。内容は公刊された報告書とほぼ同じですが、個人の報告書はペリーの一人称であり、彼の性格が表れています。
[到着時7月8日]  私は、沿岸に到着する前に、私に課せられたデリケートで責任ある任務を遂行するにあたり、私が不屈の精神で推し進めるべき道について十分に考え、決意していました。(中略)武力で上陸するかはその後の出来事の進展次第で決めることにしました。この意図を遂行するために、私は乗組員に十分演習させ、船を実戦の時と同じように完璧な準備態勢にしておきました。このように、私はどんな不測の事態にも備えていました。((注1), p.45)

ペリー艦隊の攻撃準備を確認した佐久間象山

 日本側でこの攻撃準備態勢を確認していたのは佐久間象山でした。幕府に伝わった黒船来航の第一報(1853年7月8日:嘉永6年6月3日午後10時過ぎ)を幕閣の川路聖謨(としあきら)は、すぐに友人で海防策の第一人者だった佐久間象山に伝えました。意見を聞きたかったようです。象山はその真夜中、自分の藩・松代藩邸に駆けつけ、家老から「浦賀へ急行せよ」という藩命を出してもらい、7月9日早朝に浦賀に発ち、夜到着、翌10日(嘉永6年6月5日)早朝、丘の上から勝海舟から譲り受けた望遠鏡で艦隊を観察します。「蒸気船の構造と原理を事前に了解していた」((注2), p.345)象山は、大砲の数と戦闘準備を終えていることを確認しました。乗員の数が4隻合わせて2,000人、砲窓を開いて発射準備が整っていること、西洋の大砲の射程距離が3.5kmに達していること、日本の砲弾は2kmにしかならないことも知っていた象山は、戦争にならないと瞬時に悟ったのです。

ペリーの挑発行為を叱責した海軍省長官

 ペリーの海軍省長官宛報告書は、アメリカ議会で1854年12月6日に日本遠征に関する全ての通信文書を開示せよと決議された結果、ピアス大統領(Franklin Pierce: 1804-1869, 大統領在任:1853-1857)が1855年1月31日付の文書と共に議会に提出し、明らかにされたものです。「大統領のメッセージ」という題名の文書で大統領が議会の要望に言及し、関係文書を議会に提出すると述べています。議会の目的はこの遠征が国益と相容れない点があるか検証するためと書かれています(注1, p.1)。1月31日の上院の開会中にこの文書が届いたと『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が伝えています(注3)。これらの文書がハーティトラスト・デジタル・ライブラリーに掲載されています。 ペリーから第一回遠征の報告を受け取った海軍省長官は叱責に近い注意をペリーに書いています。ペリーが自分の挑発行為を自慢気に語った報告書に怒りを覚えているような海軍省長官の受け止め方が現れているように感じます。1853年11月14日付、海軍省長官からペリー提督宛の書簡から抄訳します((注1), pp.57-59)。適宜、本文にない小見出しを付けます。

貴官のミッションが平和的な交渉であることを思い出せ

 貴官からの1853年8月3日付の数通の報告を受け取りました。全て大統領に提出され、大統領は貴官の興味深いミッションが成功したことを喜び、法律で許される限りの援助はするとのことです。偉大な結果を手に入れなければならないが、それは合衆国にとって益するだけでなく、日本にとって悪いものであってはならないというのが大統領の信念です。 貴官のミッションが平和的交渉であること;日本の特異な性格を考慮し、我が国の偉大さと軍事力を印象付ける示し方をする重要性はあるとしても、自衛以外の暴力は決して使ってはならないことを再度確認する必要はないでしょう。

宣戦布告の権限は議会にある

 我が海軍を貿易と商業の拡張と護衛のための政府の効率的な一支部機関にすることは非常に望ましいことですが、宣戦布告をする権限を持つのは議会だけですから、たとえ、貴官が従事している偉大な仕事においても、過度な賢慮を行使することはできません(訳者強調)。 これらの提言は貴官の賞賛すべき熱意をそぐためでも、貴官のミッションの規模を縮小するためでもありません。貴官の判断と愛国心にはあらゆる信頼が置かれています。しかし、貴官の興味深い報告の一部がこの提言をする理由です。その中で貴官は日本人の恐怖心を利用して春に成功をもたらすと期待していると表明しています。しかし、同時に[日本の]岸には「アメリカを追い出す」ために多くの砲台が建設され、春までには更なる砲台が建てられる可能性があり、日本が貴官を好戦的に迎える準備をしているという意見もほのめかしています。 以下が私が引用した貴官の報告の一部です。(中略:ペリーが描写する浦賀の様子)「しかし、私が持てる軍事力、特にヴァーモント号の助けがあれば、江戸から3,4マイル、多分、射程距離内まで湾の奥に侵入するのを阻止されることはないでしょう」。「日本人には恐怖心の影響を通してしか道理をわからせることができないのは確かです。海岸線が完全に強大な海軍力の手中にあると悟ったら、我々の要求全てに譲歩すると私は自信を持っています。たとえ、彼らに条約締結させられなくても、今後日本の海岸に打ち上げられた外国人が親切に扱われることは確かです」。(原文の注:この抜粋は議会に送られなかった機密書類からコピーした)

挑発もしていない遠くの国にアメリカ軍を上陸させることを議会は承認しないだろう

 もし海軍省が私の前任者のように、貴官の艦隊にヴァーモント号を加えたいと思っても、これはできません。船員を獲得することができないからです。乗組員のいる船を送ることもできません。他のところで緊急に必要とされているからです。(中略) 大統領はこの艦隊[蒸気軍艦2隻、スループ軍艦3隻、補給船]があらゆる自衛目的にも、日本人にいい印象を与えるためにと企てられている軍事力の誇示にも十分な艦隊だという意見です。また、貴官のミッションを達成するためにも、海軍の軍事力が達成できる限りにおいても十分です。大人数の兵士を上陸させて侵略を考えているのでない限り、そもそも、賢明な議会はこれほど遠くの国で、大きな挑発もないのに兵隊を上陸させ侵略することを認めることはないと私は推測します。(中略) 大統領は貴官がここまで進めたのだし、貴官が来春戻ると発表してしまったから、貴官が日本に行って日本の冷遇的、非社交的な制度を捨てるよう説得し、友好通商条約を達成するために名誉ある妥当な努力をすることを望んでいます。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-12)

ペリーの第一回日本遠征から3ヶ月後に、その概要が『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(1853年10月31日)に掲載されました。アメリカの一般読者が最初に接した日本遠征の報告です。 KANAKA VILLAGE BONIN ISLANDSカナカ人の村 ボニン諸島((注1), p.205)

小笠原諸島の統治者・所有者はスコットランド人

    1853年10月4日(NYDT):「日本遠征からの非常に興味深い情報」(注2)
 合衆国の遠征隊は7月3日に日本に向けて琉球を出発した。提督の艦隊はサスケハナ号・プリンスタウン号・プリマス号・サラトガ号で、ポーハタン号とバンデーリア号が続く。 7月9日の北中国『ヘラルド』が以下の記事を掲載した。 「個人的な情報によると、合衆国艦隊は那覇港近海で、サスケハナ号とサラトガ号が東方面を巡航し、美しい数島に寄港し、そこで家畜を供給した。また、ボニン島(小笠原諸島)と呼ばれる島にも寄港した。驚いたことに、ヨーロッパ人の住民がいた。イギリス人・スコットランド人・アイルランド人・スペイン人で、捕鯨船を離れて、この島で暮らすようになったという。その中には女性が11人いた。この島の統治者はスコットランド人で、島が自分の所有だと主張した。20年ここに暮らしているという。子どもが数人いて、その1人はサスケハナ号が到着する2,3日前に溺れ死んだそうだ。 提督は10エーカーほどの土地を$50で購入した。港の最高の位置にある土地で、[アメリカ]政府の石炭貯蔵庫にするという。この島は山が多く、港は素晴らしい。ロブスターやザリガニなどの魚介類が豊富で、陸地には野生のヤギがいたるところに見られる。プラム・バナナ・プランテン、その他フルーツのバラエティも多い島である。 ロシア戦艦パラス号とブリッグ戦艦がアメリカ艦隊のすぐ後を追っている。
訳者解説:ペリー一行が会ったヨーロッパ人の住民というのは、『DAYS JAPAN』2016年12月号の記事によると、父島に1830年に「ハワイからやって来た欧米人5人とハワイ人20数人」というのと年代も人数もアメリカ捕鯨船の船員だったことと符合します。この子孫は今では「欧米系日本人」だそうです(注3)

小笠原諸島をめぐり、英米が領有権を主張

 ペリー自身が1856年3月6日に「アメリカ地理・統計協会」で行った講演によると、小笠原諸島の植民地化を考えていたようです。以下のようなことを述べています。
 この広大な海に散在している数多くの島が野蛮人の管理不行き届きで生産性のないままでいるとは考えられない。そんなことは世界史が禁じている。現時点では、どうやって原住民たちを片付けるか、正当な方法か不当な方法でかは現時点では知り得ないが、彼らは我が国の赤い同胞[アメリカ・インディアン]の悲しい運命のように、他人種に譲るか、混じり合うかが運命付けられている。 しかしボニン諸島の居留地では誰の権利も邪魔されずに、土地を手に入れたり、すでにここにいる居住者から買い取ることができる。([ref]”A
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-11)

ペリー艦隊が浦賀に現れた頃、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』は「アジアの運命」と題した記事で、ヨーロッパ列強の侵略によって日本以外アジアと呼べる国は残っていない、アメリカは「破滅の貿易」で日本を侵略すべきではないと訴えます。
    1853年6月9日(NYDT):「中国の反乱—フランスとイギリス—日本遠征」(注1) アメリカ海軍プリマス号に乗船している士官からの3月24日付・香港発の手紙によると、目下世界中の関心は反乱だ。中国当局の要望に従って、イギリスは政府軍を支援するために蒸気軍艦2隻とブリッグ艦を派遣した。サスケハナ号は上海に送られた。この士官は「今季は日本に行けないと思う。艦隊は7月まではここ[香港]に到着しないだろう。そして8月までに準備が整わないだろう。この頃の海岸は非常に危険だから、遅れは必須だろう」と書いている。—『フィラデルフィア・インクワイラー』6月2日より

アジアの運命

 以下の記事はレトリック的にわかりにくい部分もあり、長いのですが、日本にも言及しているので、原文にない小見出しを付けて、大半を訳します。
    1853年7月8日(NYDT):「アジアの運命」(注2)職名が”ographer”で終わる全ての紳士たち—歴史学者(historiographers)、民族学者(ethnographers)、地理学者(geographers)—は古い世界の最古の大陸の現況と見込みに妙な興味を感じるべきだ。アジアは実際にその子どもたちによって貪り食われている。人間は自分たちの原始的な家を取り壊すのに忙しい。国々のゆりかごを彼らは薪として燃やすために粉々に打ち壊している。それは彼ら自身の野望の喧嘩を燃え上がらせるかもしれない。

ロシアとイギリスの中近東征服合戦

 300年少し前、ロシアはその幼児的食欲をシベリアに向けた。北のあの巨大な地域にはブッダやダライ・ラマやイエス・キリストの弟子たちが今では溶け合って仲間になり、彼らの祈りが混じり合って彼らの神々とツァーに捧げられている。エカテリーナ2世の治世[1762-96]はアジア併合の精神の再生を目撃した。ペルシャに向かって、ロシア国境はピョートル大帝の時代[1682-1725]から1000マイルも進んだ。 実際、ペルシャはイギリスとロシア軍の二つの侵略の海に挟まれた地峡に過ぎない。大陸で唯一と言っていい優れた外交の場はテヘランにある。そこではイギリス王室の使節団とツァーの使節団が崩壊寸前の王国のわずかでも得ようと取っ組み合い、お互いにそれぞれの飽くなき欲望に油断なく抵抗している。イギリスは特にロシアのフロンティアがインダス川の岸で自分の領土と向かい合うのを見るのに反対している。そしてシリアと小アジア[現在のトルコ]、現在ツァーによって私物化されている宗教的権威は基本的にこの歴史上の地域全体の征服である。なぜなら、もし強力で精力的なキリスト教国が、外国の政治的統合体への干渉になるからと、外国の宗教的影響の侵略を不安な思いで見るだけだったら、老衰の最後の段階にあったトルコ国家にとっての危険はもっと大きかった!(原文強調)

インド・中国・ビルマの運命

 南方では、イギリスは味のよい古いスティルトン・チーズ[イギリスのブルーチーズ]を齧る大きなネズミのように、大陸に食い込んでいる。インド半島の王国と地方と町が次々と獲得されている。この専有の多くは武力と軍隊によって成し遂げられ、また多くは絶え間ない陰謀と統御によって達成した。イギリス人の友情は銃剣よりももっと致命的だったのだろう。(中略) パンジャブ地方の征服と割譲は昨日のことだ。今日我々が知ったのはニザーム王国[インド中南部のムスリム王国]の領土が主に綿栽培のために確保されたことだ。ビルマは併合の過程にある。その重要な地域はすでに併合された。中国は1839年に罠に落とされ、文明化とキリスト教化の影響に晒されている。その影響には年間100万ポンドのアヘンが含まれ、決定的な治療の前段階とされている。太陽と月の前現世的帝国の崩壊は実際に全速力で進んでいる。中国帝国が自殺的精神で自分に損害を負わせ、残ったものは外国の貿易商たちが手ぐすね引いて待っている。イギリス・アメリカ・ロシアが残った破片を集めて、自分たちのための属国を再建しようと辛抱強く待っている。

日本以外のアジアは西洋による破滅の貿易に一掃された

 海岸線周辺の島々に関しては、既にずっと昔に西洋の国々、オランダ・スペイン・ポルトガル・イギリスに分割されている。日本列島だけが取り残されているが、それは日本の疑い深い慎重さが西洋諸国の破滅の商業的開始を除外してきたからだ。日本の仲間たち全てはこの破滅の商業に一掃されてしまった。 読者がまともな地図を目の前にして、アジアの中でヨーロッパに侵略されていない部分、そして実際に占有された部分と占有されつつある部分を赤線で印をつけたのを見れば、今でも土着のアジアだというものの少なさと無価値さについてわかるだろう。貿易と政策はアレクサンドロスやジンギスカンやタメルラン[ティムール]などの強力な征服者に勝るとも劣らない。(後略)

日本遠征には1隻の船で十分だ

 以下の記事は中国における反乱軍の動向についてですが、ペリー艦隊の動きについての批判があるので、その部分を紹介します。
    1853年7月12日(NYDT):「南京は反乱軍の手に落ちた」(注3)香港から『アトラ・カリフォルニア』宛の4月24日付の手紙が以下を伝えている。
 上海には合衆国の蒸気船サスケハナ号とイギリスの戦艦3隻、フランスの戦艦1隻が[上海の外国人を守るために]いる。 ペリー提督は現在ミシシッピー号とサラトガ号と共に香港にいる。艦隊を自分の指揮下に集結させるのを待たずに、即刻(原文強調)上海と日本に向けて出発するつもりだ。この動きは問題だ。日本の予想に反するからだ。日本は我々の動きを全て掴んでいるから、結果的にきっと我が国の遠征が完全な失敗に終わるだろう。これとは別に、[中国で]騒乱が起こった場合、アメリカの権益の保護を他の友好国に任せる(原文強調)ことになり、それは全くあり得ない。この拙速な動きは、多分彼が自分を東インド艦隊ではなく、日本遠征の指揮官だと考えているからだろう。または、ワシントンの新政権がこの贅沢な遠征を中止することを見込んでいるからだろう。どんな実行可能な目的であれ、1隻の船で十分なのだから。

アンクル・サムは十分な軍艦を持っていない

    1853年7月22日(NYDT):「アンクル・サムは十分な軍艦を持っていない」(注4)
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員:ワシントン発、1853年7月20日 今夜電報を送るのは、ペリー提督の艦隊が日本への最初の訪問からマカオに多分10月に戻り、来春この旅を繰り返すつもりだと伝えるためである。
訳者解説:この記事は上記の記述で始まっていますが、主には中国の反乱軍の鎮圧に関する英米の対応の違いに関する特派員の意見です。見出しの意味は、次のコメントに集約されています。
[イギリス海軍の]セイモア提督は母国政府から大西洋で隔てられているにもかかわらず、自分の指揮下で600砲以上の艦隊を3週間で集結させられる。一方、我が国の首都からの距離は1週間なのに、[イギリスと]同じ期間に我々ができるのは、110砲を集めるのがせいぜいだ!(原文強調)

アメリカが日本を植民地化するなら、イギリスのジャワ統治より経済的・効率的にできる

    1853年8月16日(NYDT):「中国:反乱軍の進展—合衆国艦隊の動き」[ref]”Further Accounts of the Progress of the
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-10)

ペリー第一回日本遠征で幕府に受け取りを強要したアメリカ大統領国書を起草した元国務省長官エヴェレットが遠征直前にニューヨーク歴史協会で「アメリカの植民地化」について講演しました。先住民族の制圧や他国との戦争で「広大な領土」を獲得し、成功したアングロ・アメリカンを誇らしく語っています。

前政権が計画したペリー日本遠征を現政権は無効にしたいのか?

    1853年5月27日(NYDT):「リンゴールド大佐の探検遠征隊」(注1)
 探検あるいは調査遠征が我が国からこれほど興味深く、広大で、またほとんど知られていない地域に出発したことはない。その結果を商業界も科学界も心配とともに深い関心を持って待ち望んでいる。多くの人はこれが長いこと話題になっている日本遠征だと思っているが、この探検遠征隊は日本遠征とは関係ない。(中略)リンゴールド遠征隊の目的は北太平洋と周辺の島々を調査することである。(中略) この遠征とペリー提督の日本遠征は前政権が計画し準備したものである。前政権のしたこと全てを無効にしたいという現政権の野望が、これらの遠征を解散しようとするのではないかと心配してきた。(中略)アメリカの人々は今ではこの二つの偉大な海洋遠征に大きな関心を持っているので、それを撤回するのは政府が採る手段の中で最も人気のないものになる。

アメリカの発見と植民地化

以下の記事は日本遠征のために、国務長官時代に将軍宛の国書を書いたエドワード・エヴェレット(Edward Everett: 1794-1865)が1853年6月1日にニューヨーク歴史協会(New York Historical Society)で話した講演記録です。とても長いので特徴的な箇所だけ抄訳します。日本遠征には言及していませんが、現在につながる価値観が見られます。

    1853年6月2日(NYDT):「アメリカの発見と植民地化」(注2)

    16世紀を通して、スペインとポルトガルが南米全体と北米の大きな部分を植民地化した。原住民部族は最初の絶滅事業の後、生き残った者たちは強制労働の奴隷に貶められることにより、破滅から救われた。戦闘的な部族の子孫は魂を抜かれ、意気消沈して、今やペルーとメキシコの森林伐採や水汲みをしている。 17世紀を通して、フランスとイギリスが北アメリカのスペイン領でない部分全てを領有した。イギリスは海岸沿いに展開した。フランスは一時的目的のためには、野蛮な部族[先住民族]とのコミュニケーションに世界のどの国よりも優れていたが、新国家を建設するための威厳ある手法には欠けていた。 大西洋側と最初に移植された植民地とイギリスが獲得した植民地で17世紀の偉大な仕事がゆっくりと、労力をかけて、効果的に行われ、我々が誇り愛するアメリカと人類の奇跡が行われ、その規模は我々でさえかすかに想像できる程度だ!(原文強調) *植民地間の政治的関係は最初から侵略と抵抗の連続だった。野蛮人との衝突、フランスとスペインとの戦争、隣の植民地との衝突と確執などがあった。

アングロ・アメリカン植民地の成功の理由

    アングロ・アメリカン植民地の発展に寄与したのは、政府の呼びかけではなく、個人によって、植民者組織ではなく、個人の移住で植民地化したことである。合衆国は個人によって、多くの場合、迫害された男女が避難地とわが家を求めて海を渡ってきて成り立った国である。17・18世紀のヨーロッパは次から次と政治的宗教的惨事があり、その犠牲者がアメリカ大陸に安住の地を求めたのだ。 1624年にマンハッタン島をインディアンから$24で購入した。2,2000エーカー[約8900ヘクタール]の広さにしては、かなり安い。5番街の一等地の1000エーカーが1ドルというのは本当に安い。2,3日の単純労働で広大な農地が買えるという点で、アメリカは「希望の地」になった。1840年から50年の10年間でアメリカの人口は600万も増えた。 1775年の植民地の反乱と1776年の独立宣言、1783年のパリ条約でアメリカの独立が認められ、ヨーロッパ全域で多分初めてアメリカのことを聞き、途方もない夢が叶う所として知られるようになった。和平が達成してすぐに、ニューヨーク州の600万エーカーを、1エーカーにつき2,3セントで手に入れた者がいた。

先住民族を制圧して広大な領土を獲得

    南西部のインディアンは制圧され、北西部のフロンティア地域で政府軍は最初は[インディアン軍に]敗北したが、1795年にグリーンヴィル砦の条約でインディアンから[後にオハイオ州・インディアナ州・イリノイ州・ミシガン州にあたる地域を]割譲した。この地域への移民が流れ込んだ。1812年の[米英]戦争はインディアン部族を北西部の州に追いやり、2,3年後のジャクソン将軍の戦闘は南部フロンティアのインディアンを破った。フロリダは1819年にスペインから取得し、その10〜12年後にジョージア・アラバマ・ミシシッピーのインディアンはミシシッピー川の西に追いやられた。ウィスコンシンで1833年にブラック・ホーク戦争が起こり、インディアンとの数々の条約で、インディアンはミシシッピー川の東の土地全ての権利を失った。1845年にテキサスが併合され、1848年にニューメキシコとカリフォルニアが我が国の広大な領土に追加された。

ケルト人種大移動

    合衆国への移民はアイルランドやスコットランド・ハイランドのケルト人種から構成されている。情熱的で想像力豊かで、それに多くが抑圧された人種だ。この偉大なケルト人種は歴史に現れた最も素晴らしい人種の一つだ。彼らの先祖が2000年間しがみついていた土地から追われて、ケルト人種の歴史上、彼らは初めてこの異国人の国で本当の我が家を見つけた。そしてこの国が本当に繁栄していると知ったのだ。 この「ケルト人大移動」(原文強調”Celtic Exodus”)と適切に表現されている現象は最も重要な出来事になった。移民者自身にとっては死から生への移動だった。アイルランドにとっては余剰人口の減少は資本と労働の関係を健全で正当な状態に戻すという利益があった。イギリスでは国内の原住民[イギリス人]人口と姉妹国アイルランドの人口との衝突により、労働者の給料が飢餓レベルに抑えられていたので、イギリスの労働者階級にも利益だった。新しい国で一番欠けているのは頑丈で有能な働き手で、それが絶えずアメリカに流入してくるので、この国の価値を高めた。あらゆる種類の民間企業と公共事業を実行するのを容易にし、促進した。

現在のエヴェレット評価

 エヴェレットは今では、リンカーンの「有名な2分のゲチスバーグ演説」[1863年11月19日]の直前に2時間以上の長演説を行ったことで知られていると、アメリカ国立公文書館のサイトで皮肉に述べられています(注3)。エヴェレットはアメリカの労働力としてのスコットランド・ハイランダー(スコットランド北部高地人)に着目しています。しかし、労働力として貢献していたアフリカ系奴隷について一切言及していません。まるで人間として存在していないかのようです。また、スペインの南米植民地化の過程で殺戮した先住民に関しては同情的なコメントをしているのに、アメリカの先住民については、アメリカが戦争して制圧した成功談としてしか描いていません。この価値観が現在に続いているような事件がいまだに起きています。そして、日本も北海道のアイヌ民族に対して同じことをしてきたことを思わされます。

スコット作『湖の麗人』からの引用について

 エヴェレットは1853年6月1日の講演でスコットランド人の否定的な側面を強調するために『湖の麗人』から引用しています。アメリカ発見までのヨーロッパの歴史を述べる中で、ガリア人[ケルト系]とゴート人[古ゲルマン民族]の侵略について、「彼らはスコットランドのハイランド盗人首領の単純な哲学を採用した」と述べて、以下の詩を引用しています。 Walter Scott, The Lady of the Lake, Illustrations by C.E. Brock[ref]Sir Walter Scott, The Lady of the Lake, with an Introduction by Andrew Lang, and Illustrations by C.E. Brock, 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-9)

マカオに集結したペリー艦隊は、日本に行く前に中国の内乱を鎮圧するかという予期せぬ関心を持たれているという記事と、アメリカ国立天文台監督が東洋の島国を魔法の杖でアマゾンに移動させ、アマゾンの開発をさせようと提案する記事を紹介します。
    1853年5月7日(ILN):「合衆国の日本遠征」(注1)
Commodore Matthew C. Perry, Commander of the United States Expedition to Japan.マシュー・C. ペリー提督、合衆国日本遠征の指揮官From a Daguerreotype by Meade, Brothers, New Yorkニューヨーク、ミード・ブラザースによるダゲレオタイプ(銀板写真)から長い記事なので、本文にはない小見出しをつけて抄訳します。

マカオに集結しているペリー艦隊は中国の反乱軍討伐に乗り出すか

 巨大で強力なアメリカ艦隊が東洋の海に存在することに今現在、予想せぬ関心が持たれている。中国の現皇帝の王権を脅かしている内乱の結果と、皇帝の軍隊を破り、帝国の大部分を破壊している反乱軍を打ち負かすために外国軍隊の援助を皇帝が懇願する可能性があるからだ。 日本の遠征は何度も出帆しかけたが、キューバ問題などの出来事で中断されてきた。ピアス大統領が遠征を中止する命令を出したという噂は最近否定された。前政権によって企画された艦隊は東シナ海のアメリカ海軍最高司令官、M.C.ペリー提督の指揮下にあり、日本遠征の[艦隊]は以下の軍艦から構成される。戦列艦ヴァーモント号、フリゲート艦マケドニアン号、蒸気フリゲート艦3隻—ミシシッピー号はペリー提督の旗艦(下の銅版画がこの素晴らしい船)、サスケハナ号、ポウハタン号—、第1級の蒸気船アレゲニー号、5隻のスループ型軍艦:サラトガ号・プリマス号・ヴァンダリア号・ヴァンセンヌ号・セント・メアリー号、同行する調査船ポーポイエス号、3隻の物資輸送船で、艦隊を構成する蒸気船の数は15隻である大砲の総数は260、士官・海軍兵士・海兵隊員の総数は4,000人である。 The Steam-Frigate “Mississippi,” United States Navy.(注1)アメリカ海軍、蒸気フリゲート艦「ミシシッピ号」

アメリカ海軍艦隊の破壊力は世界一

 艦隊はヴァーモント号、マケドニア号、アレゲニー号以外はマカオに集結している。ヴァーモント号は乗組員が乗船できる状態だが、イギリス海軍で脱走が横行しているように、アメリカ海軍も乗組員を集めるのに苦労している。商船が高い給料で乗組員を誘うため、ヴァーモント号の乗組員690人を集められるかわからない状況だ。この問題以外に、合衆国海軍の全階級の男たちの総数が7500と法律で定められている上、総数を拡大するための海軍省の予算要求を議会がまだ通していないので、ヴァーモント号がペリー提督の艦隊から削除されるのは避けられなくなった。アレゲニー号は現在機械工の手中にあるが、修理の遅れは遠征に間に合わないことになるだろう。しかし、これらはペリー提督が考えている日本遠征の障害になることはない。この2隻が減っても、これ以上の強力な艦隊がアメリカの海岸から出たことはないと言われている。 これらの船には大砲が260しかないが、遠征隊の軍事力は大砲の数で測るものではない。イギリスの船員は皆知っていることだが、アメリカの軍艦は他のどの国の軍艦よりも、そのトン数と大きさに比較して鉄の量が多い。[砲弾の大きさと重さの比較が詳細に記されています] 同じ銃の数、同じトン数の船でも、アメリカの軍艦ほどの破壊力を持って浮かんでいられる船はないとアメリカは断定している。

日本を武力で従わせるのが「文明」だ

 この遠征は日本政府と日本人に対する攻撃が目的ではないと言われ、武力を使うつもりはないと考えられている。しかし喧嘩の理由にはこと欠かない。日本政府は日本の海岸に漂着したアメリカ人の船乗りを野蛮にも逮捕し、カゴに閉じ込めた。ペリー提督は日本政府にこの非道な行為の説明を求めるだろう。日本政府はこの行為の理由をあげることも、謝罪することもないから、日本政府が拒否できなくなる方法を用いる必要があるとアメリカは言う。つまり、この遠征は日本政府を無理やり「文明」(原文強調)化させることである。日本が残虐に扱った人々の国家と交渉することに同意しなければ、人道とは何かを教えてやり、「文明化した帝国の序列に入らせ」(原文強調)なければならない。 (中略:その他の目的と随行する調査艦隊の目的についての記述)リンゴールド大佐の艦隊はエンジニアと科学者の集団で、この遠征で人類の知に貢献することが期待されているが、日本との攻撃になれば、彼の艦隊はペリー提督の呼びかけに応えられる範囲内にいることになっているとのことである。(後略:ペリー提督の経歴)
    1853年5月11日(NYDT):「サンドイッチ諸島の併合と政権の見解」(注2)
1790年にハワイ諸島の原住民の人口は40万に満たなかかった。1830年には15万人になり、1850年の国勢調査ではわずか8万人だった。その前年の出生数を死亡数が2,808人も上回っていた。この死亡率では今世紀末にはハワイ諸島の原住民は絶滅する。原住民が消滅する一方、その空白をアメリカからの移民が埋めている。この諸島の教育・宗教・貿易、政府さえも既にアメリカの統治下にある。 ハワイ王国とアメリカの関係は、テキサス共和国と合衆国の関係に似ている。(中略)モンロー主義の定義について意見の相違が存在するにしろ、サンドイッチ諸島の領土が他の国に移ることはどうしても阻止するという点では一致している。この移譲は暴力で行われるべきではなく、また、ハワイ政府と国民の希望を無視して行ってはならない。現在の王は外国勢力と困難なことになった場合には、アメリカ政府の保護を求めると述べた。そのような緊急事態の場合、アメリカ政府の義務は明白である。 サンドイッチ諸島の領有は太平洋における我が国の急速に増大している貿易を守るために必須である。カリフォルニアと中国の間に位置し、アメリカとアジア貿易にとって重要だ。我が国の捕鯨船の便利な集結点を成し、蒸気船の補給にとって必要だ。近い将来、我が国の蒸気船はサンフランシスコから上海と江戸[訳者強調]の間を航海する。[もしハワイが]世界の主要海洋国の領土だったら、アメリカの国益に深刻な損害なしに通過することはできない。 アメリカのミッショナリーの熱心な努力のおかげで、原住民は異教から改心し、アメリカ人商人の事業によって、文明の快適さと高尚さを知り、アメリカ市民の寛大な助けによって、彼らの宗教・教育・政府は維持されたので、ハワイ原住民が外国勢力の略奪から逃げるために、アメリカ連合の保護を求めたとしても不思議はない。
 以下の記事の提案が166年後の現在につながっているようです。これも非常に長い記事なので、小見出しをつけて抄訳します。

アマゾンに東洋の島国を持ってきて、開拓させよう

    1853年5月23日(NYDT):「パシフィック鉄道とアマゾン」(注3)
『ナショナル・インテリジェンサー』より:以下の興味深い手紙が国立天文台の監督であるアメリカ海軍のモーリー大尉から編集部に届いた国立天文台 1853年5月5日 アマゾン流域に蒸気船と移住者と商業を持って来れば、アマゾンを巨大なプランテーションに変えられる。この膨大な資源がアメリカのすぐそばにある。アマゾン川は現在ブラジル・ボリビア・ペルー・エクアドル・ニューグラナダ・ベネズエラの6カ国を通り、大西洋に注いでいる。これらの国はアマゾンに自由貿易の原則を導入しようとしていて、我々の援助を求めている。ボリビアが最初にアマゾン地域を世界の商業に開き、その他の国々も続いた。(中略)  アラジンのランプか、強力な魔法使いの杖があれば、インドと東洋の島国全てをちょっと触って、その人々と商業と生産品と富を持ち上げ、海を渡って、アマゾン川の大きな谷にそのまま置いたらどうなるか。そして我が国の商業関係に及ぼす影響はどんなものになるだろうか。 インドが我が国のすぐ近くにあることになる。そして全ての国がインドと貿易をするためにアマゾン川を行ったり来たりすることになる。我々はニューオーリンズ・セントルイス・メンフィス・ルイズヴィル・シンシナティ・ウィーリング・ピッツバーグの波止場で蒸気船が毎時、毎日のように絶え間なくこの新しい国との間を行き来するのを見ることになる。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-8)

アメリカ大統領フィルモアが1852年12月6日にメッセージを発表し、大半はアメリカの領土拡大についてですが、その中に日本遠征も含まれています。同時期に日本遠征に参加する海軍将校が武力行使に対する疑問と批判を述べている手紙が『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』に掲載されます。
    1852年12月07日(NYDT):「大統領のメッセージ」(注1)
 北太平洋から北極海海域にまで、近年我が国の捕鯨船が度々航海している。航海一般に蒸気を使うことは日々通常化しているため、アジアと我が国の太平洋岸の間のルートの都合良い地点で燃料とその他の必要な補給物資を手にいれることが望ましい。我が国民が東の海で難破することが度々起こっており、彼らは保護されなければならない。これらのこと以外に、太平洋岸の我が国の州の繁栄のために、反対側のアジア地域を相互に益ある通商のために開国させる試みをしなければならない。この試みを行うのは、遠くの植民地に頼るという考えを憲法システムから一切除外しているアメリカほど適切な国はない。したがって、海軍の中で最高位の地位にある人物で、知性があり慎重な士官の指揮下に海軍を日本に送るよう命じることになった。この士官は、2世紀も続けた不親切で非社会的なシステムを続けているかの国の政府にこのシステムを緩めるよう求めることを指示されている。彼はまた、我が国の船乗りたちが受けた虐待に対し、最も厳しい言葉で抗議することと、彼らを人道的に扱うことを主張するよう指示されている。しかし、同時に合衆国の目的は私が示したようなもので、遠征はフレンドリーで平和的であることを十分に保証するよう指示されている。東アジアの国々の政府が外国人の提案を警戒心で見ているにもかかわらず、私はこの遠征の結果が有益なものだと期待している。成功すれば、その利益はアメリカに限らず、中国の場合のように、海洋国家全てと平等に共有し、楽しめる。この遠征の準備段階全部で、日本と通商がある唯一のヨーロッパ国であるオランダ国王の物質的援助を合衆国政府が受けたことに満足している。
    1852年12月11日(NYDT):「探検遠征隊」(注2)
 我が国の政府が大いに自画自賛している探検遠征隊を我々も非常に好ましく思う。我々の健康的な好奇心を満足させるものだ。我々の知的味覚にかなうものだ。実用的知識に対する我々の好みに滋養を与える。日本の固い箱の蓋が開けられるのを望んでいる。日本の金を切望しているのでもないし、日本の石炭を一掴み取ろうと言うのでもない。しかし、箱の中に何があるのか知る権利が我々にはある。それは我々に大いに役立つかもしれない。
訳者コメント:日本遠征に関する記述に「食欲・味覚・消化キャパシティ」などのメタファーが多用されていることは(6-6-5参照)、日本遠征やその他の領土拡大の本質を表しているようです。

サスケハナ号の士官からの手紙:日本遠征が攻撃的か平和的かは日本到着後の偶発的事件次第

 本文にはない小見出しをつけて抄訳します。
    1852年12月28日(NYDT):「日本遠征」(注3) 合衆国軍艦サスケハナ号乗船中の士官の手紙の抜粋。中国Cuinsingmoon発、9月22日
 過去数カ月の艦隊の主な関心は日本遠征だったが、本国からのニュースの性質と[出発の]遅延によって、その興奮は次第に衰えた。最初は[日本に]送る武力の量が友好的な訪問には全く不必要と言われたように、政府が戦争行為を決定と信じられた。しかし、その後の報告では船の数を減らし、出港の日が無期限に延期されたというので、この船が出帆した時に計画されていた遠征以外の遠征は実現するのだろうかという疑いが我々の間に起こっている。 貯蔵船の到着で遠征が予定通り行われるという考えが蘇り、遠征が攻撃的か平和的かは日本に到着してからの偶発事件次第だ。(中略)私は日本問題と政府がこの件で追求している政策に関して、独自の考えを持っている。政府の目的がアメリカの商業に対して日本の港を開けさせ、石炭の兵站地を建設する場所を確保することだとすると、もし失敗したら、この二つの目的が日本政府のよく知られている政策に反すると、みんなから見られることになる。

日本はずっと独立国だった

 日本人はヨーロッパの字義通りでは、軍国的な国民ではないが、それでも、この点を無視すべきではない。なぜなら彼らは勇敢な人々で、地球上のどの人種よりも人命を尊重しないと自認しているからだ。日本は人口が多く、その点で大きな力を持っている。しかし、力の要素のもっと大きな点は、彼らはずっと独立していたし、あらゆる侵略者から自衛する能力に大きな自信を持っていることだ。簡単に言えば、これが我々が変えようとしている国の政府の政策だ。その上、彼らは非常に疑い深いことが知られている。だから、日本の港に寄港し、日本とわずかな交流を許されたヨーロッパの船数隻にとって、大きな困難は日本を欺くつもりもないし、自分たちは正直に言っていると日本に納得させることだった。これが歴史の真実なのに、我が国の政府が取ろうとしている道は何と驚くべきことか!(原文強調)(中略) アメリカ政府の命令により、サスケハナ号が香港に到着するとパシフィック号で送られてきた日本人グループと会うことになっていた。この日本人たちはオーリック提督が日本に帰国させる目的で乗船させて日本に向かうことになっていた。これは日本訪問の別の目的の導入として使われる予定だった。もちろん、これらの目的を提示する方法は担当指揮官次第だ。ほとんどは彼の判断と裁量にかかっていた。その話し合いで率直であれば、[日本政府の]疑いの全ては避けられる可能性が高い。[我が国の]政府が日本の漂流者たちを送り返すために国の船を送ったのだと繰り返し言えば、日本に対して我々が平和的友好的関係を求めているという証拠になり、我が国に好都合な強い主張ができただろう。これが最初に取ろうとしていた道である。(中略)

アメリカが日本と衝突しようとしていると世界は知らされた

 今、世界は偉大なアメリカ共和国が日本帝国と衝突しようとしていると知らされた。[アメリカ政府は]強大な蒸気フリゲート艦数隻からなる巨大な海軍を送って、国際法違反に対する弁償を要求し、同時に世界の商業に対して日本の港を開放することを日本に余儀なくさせることを望んでいると、世界は知らされた。これが発表の内容で、日本はバタヴィアを通してすぐにこのことを知らされる。これが我が国政府の真の見解と目的を含んでいるかどうかは別として、日本人の心に与える影響はもちろん同じだろう。その効果とは何か!(原文強調) 我々の意図への不信は何も変えることができない。これが彼らが今置かれている心理状態だ。そしてアメリカの交渉人はどこにいようとも、彼ら[日本]に近づくことはできないだろう—少なくとも友好的には。その場合、武力が使われると仮定すると、警戒は警備(to be forewarned is to be forearmed)というのが日本にも他の国にも適用されるのは間違いない。彼らの軍事力がどんなものであれ、その場合に備えているだろう。

日本に上陸し、江戸に行進して、国を掌握するにはメキシコ戦争時の大軍隊が必要

 武力行使において、我々に何ができ、何ができないかについては、私は君にさえ話すことはできない。疑いないことは、我々の銃で、我々自身へのリスクはほとんど無しに、多くの人命と建物を破壊することができるということだ。しかし、それで我々の目的を達成することができるのか? 私はそう思わない。なぜなら我々が船に閉じ込められていたら、ある地点以上には行けないからだ。 上陸して江戸へ行進し、この国を掌握するには、メキシコで必要とされた軍隊と同じくらいの大きな軍隊と同じくらいの経費が必要だ。小さな島に上陸して占領するのは可能だろうが、岸に駐屯地が必要になり、近くに軍艦を1隻以上待機させることが必要になる。この話に君は笑うかもしれないが、このような方法は我が国の政府が犯す最も残念な行為になるだろう。これは外国領土を手に入れるイギリスのシステムに楔を打ち込む以外の何物でもない。そして、我々はすぐにこの国を覆う陸軍と海軍を持つだろう。日本問題に関して私がこれほど言うのは君には奇妙に見えるかもしれない。私が言いたいことは、ただ以下のことだ。この件に関してアメリカから伝えられる噂や報告から推察するに、政府が最初の計画から外れて、大きな間違いをした。なぜなら、日本のような非常に特殊な国を相手にする平和的交渉には、2隻よりも1隻の船の方がいい。そして、武力誇示として、あるいは攻撃する意図の3隻、4隻の船は何ら現実的な結果を達成できないからだ。--『ワシントン・ユニオン』紙、12月25日。
    1853年1月1日(ILN):「国内外のニュースの要約」(注4)ロシア皇帝はアメリカ艦隊の進行を見張る目的で日本に遠征隊を送った。 1853年3月3日(NYDT):「日本—オランダが優位になるまでのヨーロッパと日本の交流」[ref]”Japan—European Intercourse with Japan up to the period of Dutch
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