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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-1)

出典:『皇威輝く中支之展望:上海・蘇州・南京・蕪湖・漢口・杭州』最新改訂版、1938(昭和十三)年(注1) 小説家・石川達三が以下のように考えて、希望して南京陥落直後に南京に行って見聞したことを小説『生きている兵隊』(1938)に書いたことは見てきた通り(6-7-4-15)です。
新聞報道は嘘だ。大本営発表は嘘八百だ。日本の戦争は聖戦で、日本の兵隊は神兵で、占領地は和気藹々わきあいあいたるものであるというが、そんなお芽出度めでたいものではない。痛烈な、悲惨な、無茶苦茶なものだ。

萩原朔太郎の反応

 ここで詩人・萩原朔太郎(1886-1942)が日中戦争についてどう反応したのかを、1937(昭和12)年12月13日の『東京朝日新聞』に掲載された「南京陥落の日」(注2)を通して見ます。ルビは掲載時のままですが、その他は現代仮名遣い、新字体に直します。なお、この当時のその他の文章を引用するときにも同様です
南京陥落の日にとしまさにれんとして兵士の銃剣は白く光れり。軍旅ぐんりょこよみ夏秋かしうをすぎゆうべ上海シャンハイいて百千キロ。わが行軍の日はいこわず人馬じんば先に争い走りて輜重しちょう泥濘でいねいの道に続けり。ああこの曠野こうやに戦うものちかってみな生帰せいきさず鉄兜てつかぶときてけたり。天寒く日は凍り歳まさに暮れんとして南京ここに陥落す。あげよ我等の日章旗ひとみな愁眉しゅうびをひらくのときわが戦勝を決定してよろしく万歳を祝うべし。よろしく万歳を祝うべし。
 日本国内で日章旗を振って提灯行列のお祭り騒ぎをする群衆の戦勝気分とは違い、詩人の思いは前線の兵士の運命に馳せられ、最後に「あげよ日章旗」「祝うべし」と強制されなければ祝う気などないと言っているかのようです。朔太郎はこの詩を書いた経緯を友人の詩人・丸山薫(1899-1974)宛の同年12月11日付封書(注3)で以下のように述べています。
 朝日新聞の津村氏[秀雄:1907-1985]に電話で強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず、とうとう大へんな物を引き受けてしまった。南京陥落の詩というわけです。一夜寝床で考、翌朝速達で送ったが、予想以上に早く陥落したので、新聞に間に合わなかったかもわからない。とにかくこんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生まれて始めての事。西條八十[1892-1970]の仲間になったようで懺悔の至りに耐えない。(もっとも神保君[光太郎:1905-1990]なども、文藝に戦争の詩をたのまれて書いてるが、あまり褒められた話ではない。)
 「西條八十の仲間になったようで懺悔の至りに耐えない」と書いているのですが、八十が「若い血潮の『予科練』の/ 七つ釦(ぼたん)は桜に錨」で始まる有名な「若鷲の歌」(1943)などの軍歌を盛んに書き出したのは太平洋戦争突入後ですし((注4), pp.278-9)、八十の最初の従軍は朔太郎の上記の手紙が書かれた12月11日出発なので、この日付前の八十の戦争協力詩があるのか調べてみました。日中戦争を日本が始めた1937年7月以降、女性雑誌『主婦之友』が「日中戦争へと大衆を動員していく役割を、積極的に果たし」、1937年9月号は「北支事変大特輯」で、八十の詩「通州の虐殺 忘るな七月二十九日」、「銃後の女性軍詩画行進」を掲載しました((注5), p.172)。

文部省が強制した愛国精神

朔太郎の「南京陥落の日」が単純な戦争協力詩でないことは、この詩が『東京朝日新聞』に掲載される3カ月前に刊行された朔太郎のエッセイ集『無からの抗争』(1937年9月)所収の「歴史教育への一抗議」が全文削除という形で出版されたことでも明らかです。朔太郎が当時の歴史改竄主義に抗議した件は、第一次安倍政権が2006(平成18)年に強行採決した教育基本法改正法案に関連して、当時拙論で考察したので、それをもとに朔太郎の抗議を紹介します。 1937(昭和12)年5月に文部省が刊行した『国体の本義』(注6)では日本が諸外国と違う特別な国であることが繰り返し強調されています。その特別な国の特色は「滅私」の「忠君愛国」だとして、「我を捨て我を去る」(p.34)「天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、(中略)国民としての真生命を発揚する」ことで、それが「我ら国民の唯一の生きる道」(p.35)と説き、「忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない」(p.38)と断言していています。 そして、忠臣の鑑として楠木正成を賞揚し、足利尊氏を「大逆無道」(p.75)の逆賊としていました。朔太郎の「歴史教育への一抗議」はこの『国体の本義』の全面批判とも読めます。このエッセイは等持院見物の場面から始まっています。引用にあたっては、歴史的仮名遣いと旧字体を現代かなづかい、新字体に改めています。
 数年前の事である。京都の等持院へ見物に行き、女学生の修学旅行団と一所になった。教師に率いられた娘たちが、足利氏十三代の木造の前に来た時、口々に喧々諤々としゃべり始めた。「これが尊氏よ。」「こいつが義満だわ。」「盗賊!」「悪人!」「こんな者。皆叩き壊してやると好いわ。」「馬鹿ッ!」「馬鹿ッ!」 そして口々に唾を吐きかける真似をした。僕は女学生諸君の烈々たる忠君精神に驚いたが、一方ではまた、こんな教育をして好いものかと言うことに疑問を抱いた。引率の教師はおそらく後でこんな訓話を生徒たちにするのであろう。「皆さんもこの尊氏等のように、死して悪名を千古に残し、死後にも人から辱められるようなことをしてはなりません。」しかし僕は考えるのである。悪名を千古に残したのは尊氏でなく、今日の学校教育の方針が、無理にそれを残させたのであると。なぜなら尊氏その人は、決してしかく腹黒の悪人ではなく、また真の憎むべき大逆悪人でもなかったからだ。((注7), pp.344-345)
この後、尊氏が「朝敵となる運命を悲しんで居た」ことを述べ、以下が続きます。
 楠木正成が忠臣であることはまちがいない。しかしその善玉を立てるために、足利尊氏を中傷して、無理に悪玉にする必要はない。(中略)歴史を教育されない国民に、真の愛国心や民族自覚のある筈がない。しかも日本の教育者は、(中略)真実を隠して嘘を教えようとさえするのである。(中略)真実の歴史を隠して、一体何を国民に教えようとするのであるか。今日我が国の教養ある青年や学生やが、概して皆愛国心に欠乏し、民族自覚に無関心であるばかりでなく、ややもすれば非国民的危険思想に感染される恐れがあるのは、全く学校に於ける歴史教育の罪である。歴史が正しい民族の歴史を語り、自国文化への正しい批判を教えないのに、如何にして青年の愛国心を呼び得ようか。(中略)本質に哲学的批判を持たない所の教育から、強制的に歴史を教え、盲目的に祖国への殉愛を強いる如きは、今の青年に対して無意味であろう。(pp.347-349)

国家権力への挑戦としての足利尊氏論

 「歴史教育への一抗議」が全文削除の処分を受ける2年前と3年半前にも朔太郎は足利尊氏に関する文章を発表しています。執拗とも言える朔太郎の足利尊氏論は、実は詩人としてデビューした25歳の頃から続き、亡くなる2年前の1940(昭和15)年まで続いています。それは歴史的興味からというより、国家権力と歴史改竄主義を批判するためのメタファーとして、そして何よりも戦争の時代に反戦の想いを訴えるための足利尊氏論という側面が強いようです。21世紀現在の歴史教科書問題とも通じる上に、最近になって楠木正成を「滅私奉公」のシンボルとして賞賛する動きが高まってきたので、今、朔太郎の足利尊氏論を辿る重要性があると思います。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-15)

南京事件直後に南京に行き、取材をもとに事件前後の日本部隊の動きを描いた石川達三の『生きている兵隊』の記述と、当時の警視庁検閲課が問題にした点を見ます。

『生きている兵隊』の伏字復元版

 1935(昭和10)年に芥川賞第一号を受賞した石川達三(1905-1985)は、南京事件直後に南京に行き、取材をもとに事件前後の日本部隊の動きを「生きている兵隊」で描きました。それが1938(昭和13)年2月19日発売予定の『中央公論』3月号に掲載されましたが、前日に発売頒布禁止とされ、ようやく日の目を見たのは1945(昭和20)年11月でした。 『中央公論』に掲載された時は、出版社が検閲を考慮した箇所を伏字にしていましたが、その伏字部分がわかるように傍線を施した伏字復元版(注1)が1999年に出ましたから、私たちは当時何が問題視されると出版社が考えていたかがわかります。その伏字復元版をもとに、石川達三が南京事件直後に何を見聞きして、何を読者に伝えようとしたかを見ます。 「前記」に「日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。従って(中略)部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とあります。北京陥落の直後から部隊が南京に到着するまでの動きが記されています。最初の光景は、河北省寧晋で次の命令を待つ部隊が、自分の家に放火したという村の青年を惨殺する場面です。

意味不明の戦争

 部隊は直前まで次にどこに行くか知らされず、未明になって河北省石家荘まで15里(約59km)を真夜中まで行軍させられます。石家荘では「明朗北支建設のために、正義日本を住民に認識させるために、彼らに安住の天地を与えるために」(p.18)と、軍属が宣撫班の腕章をつけて街を歩き回っていました。ここはもちろん伏字ではありませんから、当時日本軍が日中戦争の理由としていることと、実際の日本兵の動きの違いが鮮明にされています。 この部隊は石家荘から貨車に乗せられ、2日後に北京に着きますが、貨車は北京を通り過ぎて南下し続け、兵士たちは天津に向かうのかと思って、部隊長の倉田少尉に「天津へ行ってどうするんですか」と尋ねます。彼は「僕にも解らないね」と「静かに答えて諦めたように微笑し」たと描かれます(p.20)。 ここで、日中戦争が何のために行われているのか、前線の兵士たちにも意味不明な戦争だとわかります。これは当時の人々が疑問に思っていたことのようです。1949年『日本評論』11月号に掲載された評論家・中島健蔵と石川達三との鼎談で、中島が「戦争中に感ずるのは戦争目的がどうしても分からんのだな。それで、ひどい弾圧がなければ戦争目的は何んだという質問を出せるが、不明という事すら一つも大っぴらに言えなかった」((注2), p.148)と述べていますから、『生きている兵隊』で描かれる兵士たちも分からないまま召集され、前線に連れて行かれたことが読み取れます。 後半で、南京に入った部隊の小隊長が言ったことが、この戦争の無意味さを示しています。「自分はもう南京は復興できんと思いますな。まあ三分の二は焼けて居ります。あの焼け跡はどうにもなりませんわ」((注1), p.146)と指摘させています。

南京に向かう行軍中の略奪

 3日後に貨車は大連に着き、そこから船で揚子江に出ますが、複数の部隊が「百隻を超えるほどの小船」や二隻の駆逐艦などが集まっている情景が描かれ、その中に「英国輸船武昌号」と書かれ、英国旗が掲げられた船が「この小船の密集した間をすり抜ける様にして上流へ遡って行った」((注1), p.30)と述べられています。この小説ではアロー号・レディバード号事件については触れられていないので、前線の日本軍内では知られていなかったのでしょうか。 上陸した倉田少尉の部隊は、馬が足を折ったので、部落の老婆から牛を取り上げますが、その時の老婆の抵抗や兵士が老婆を倒して奪った箇所は伏字です。以下はその後の記述です。
無限の富がこの大陸にある、そしてそれは取るがままだ。このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは、野生の果物の様に兵隊の欲するがままに解放されはじめたのである。(pp.36-37)
 略奪という言葉は用いられず、「徴発」という言葉で、兵士たちが次々と略奪する理由を以下のように述べています。
進軍の早いしかも奥地に向っている軍に対しては兵糧は到底輸送し切れなかったしその費用も大変なものであったから、前線部隊は多くは現地徴発主義で兵士をやしなっていた。北支では戦後の宣撫工作のためにどんな小さな徴発でも一々金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発によるより他に仕方がなかった。(p.44)

戦争は非戦闘員の虐殺をも正当化する?

 『生きている兵隊』の中では強姦という言葉は使われませんが、明らかにそれとわかる表現で、頻発していたことが随所に出てきます。
 やがて徴発は彼等の外出の口実になった。その次には隠語のようにも用いられた。殊に生肉の徴発という言葉は姑娘クーニャを探しに行くという意味に用いられた。(中略)彼女たちは度々の内乱に馴れて、戦場になった部落では若い女は滅茶々々にされるものであることをよく知っていた。(p.45)
 部落の家に侵入した兵士たちに不発の拳銃を撃った若い女性の服と下着をはいで、スパイという容疑でその場で短剣で惨殺する場面を描いた後、それが「医科大学を卒業して研究室につとめていた」近藤一等兵だったこと、彼の内面が以下のように描かれます。
彼にとって女の屍体を切り刻むことは珍しくない経験であった。しかし生きている女を殺ったのは始めてである。(中略)彼が思うのは、生から死への転換がこうも易々と行われるということであった。(中略) 元来医学というものはあらゆる生命現象を人体について研究するものである。彼等医科の学徒は実に懸命になってまた一生をそれに捧げるつもりで研究をやっている。そしてその研究目標たる人間の生命現象というやつはかくも脆く、かくも易々と、かくも小さな努力で以て消滅する。生命というものが戦場にあっては如何に軽蔑され無視されているか。 これは一体なんであろうかと近藤医学士は考えた。たとい敵であろうと味方であろうと、生命が軽蔑されているということは即ち医学という学問それ自身が軽蔑されていることだ。自分は医学者でありながらその医学を侮辱したわけだ。(pp.50-51)

宗教に国境がある?

 医学生研究者だけでなく、従軍僧侶も惨殺行為に血眼になる様が描かれています。
次々と叩き殺していく彼の手首では数珠がからからと乾いた音をたてていた。彼は額から顎髭まで流れている汗を軍服の袖で横にぬぐい、血のしたたるショベルをステッキのように杖につきながらのそのそと露地を出て行くのであった。(中略) いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮のことを思い出しても玄澄の良心は少しも痛まない、むしろ爽快な気持でさえもあった。(pp.60-61)
 石川達三はここで宗教とは何かを連隊長と玄澄の会話と、連隊長の思いから問いかけています。殺した敵を弔ってやるのか連隊長が尋ねると、玄澄が「戦友の仇だと思うと憎い」と言ったので、連隊長は「国境を越えた宗教というものは無いか」と憮然として言います。彼は「宗教というものまたは宗教家というものに失望を感じ」(p.62)、内面の思いが続きます。
彼は幾千の捕虜をみなごろしにするだけの決断をもっていたが、それと共にある一点のかなしい心の空虚をも感じていた。この空虚を慰め得るものが宗教であろうと思った。彼はいま指揮官として敵の戦死者を弔う余裕と自由をもたないが、それは従軍僧が代ってやってくれるであろうと思っていた。しかしこの従軍僧が友軍の弔いはしても敵の戦死者の為に手を合わせてはやらぬと聞いたとき、暗い失望を感じた。それは本能的に平和を愛する人間がその平和を失っているこの戦場にあることの侘しさの中で、ただひとつ抱いていた平和な夢が崩れて行く場合であった。(p.63)

感性の鈍痲・無道徳感・残虐性の目覚め

 戦争が人類の文化も伝統も、文明そのものを一瞬にして消し去り、人間性を奪うものだという思いが強く伝わってきます。召集前は学校の先生だった優しい繊細な倉田少尉をも変えていった様が以下のように描かれます。
中隊長の戦死を眼の前に見たときからその恐怖はにもはやひひとつ桁(ゝ)のはずれたものとなった。(中略)自己の崩壊を本能的に避けるところの一種の適応としての感性の鈍痲であったかもしれない。すると彼は心の軽さを感じこの生活の中に明るさを感じはじめた。(中略)それは一種の自由感であり無道徳感でもあった。とりも直さずそれは無反省な惨虐性の眼覚めであった。彼はもはやどの様な惨憺たる殺戮にも参加し得る性格を育てはじめたのである。それは即ち笠原伍長に近づくことであった。(pp.76-77)
この笠原伍長は以下のように描かれています。
彼には西沢部隊長[大佐]のように高邁な軍人精神はなかったが、平尾一等兵のように錯乱しがちなロマンティシズムもなく近藤医学士のように途惑いしたインテリゼンスもなく、更に倉田少尉のような繊細な感情に自分の行動を邪魔されることもなかった。彼はどれほどの激戦にもどれくらいの殺戮にも堂々としてゆるがない心の安定をもっていた。要するに彼は戦場で役に立たない鋭敏な感受性も自己批判の知的教養も持ちあわせてはいなかったのである。そうしてこの様に勇敢でこの様に忠実な兵士こそ軍の要求している人物であった。(pp.67-68)
 この後、壕で一服している部隊の兵士たちに近くの民家から娘の泣き声が聞こえ、平尾一等兵と笠原伍長が見に行き、だいぶ経ってから戻ってきて、17,8の娘が撃たれて死んだ母親にすがって泣いていたと言います。その夜も娘の泣き声がして、平尾は「あいつを殺す」と言って、他の兵士たちと民家を襲います。
 まるで気が狂ったような甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きては居なかった。(p.85)

日本軍による放火

 ラーベが1937年12月21日の日記で、日本軍が略奪の証拠を残さないために「街を焼きはらっている」(6-7-4-13-1)と記していましたが、石川達三も、部隊が出発するとき、「兵士たちは自分等が宿営した民家に火をはなった。というよりも焚火を消さないであとから燃え上ることを期待して出発したものが多かった。(中略)更に、この市街を焼きはらうことによって占領が最も確実にされるような気もしたのである」(p.100)と記しています。 日本軍が捕虜を惨殺する理由を「自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけには行かない。最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。(中略)『捕虜は捕えたらその場で殺せ』それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された」(p.114)と述べています。

南京に慰安所が作られた

 『生きている兵隊』のもう一つの指摘は、南京に慰安所が作られたことです。「日本軍人のために南京市内二箇所に慰安所が開かれた。彼等壮健なしかも無聊に苦しむ肉体の欲情を慰めるのである」(p.154)という解説の後、以下の描写が記されています。
 彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。一人が鉄格子の間から出て来ると次の一人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが慰安された表情であった。(中略)女は支那姑娘だった。(中略)言葉も分らない素性も知れない敵国の軍人と対して三十分間のお相手をするのだ。彼女等の身の安全を守るために、鉄格子の入口には憲兵が銃剣をつけて立っていた。(p.157)
 「慰安所」という語は検閲対象ではなかったようで、伏字にされていません。部隊はその後上海に移動し、料理屋が将校の慰安所になっていることを知ります。そのほか、避難している中国人の家を日本からやって来た商人たちが占領して店を開き、その家の持ち主が抗議すると、日本人が占領地区だから「建築物一切日本軍の管理下にあるのだ、帰れ」と追い返します。外国に宣戦布告なしに戦闘をしかけ、住民の所有物を略奪し、殺し、その上、日本から金儲け目的で続々とやって来る日本人の強盗行為が、日本軍と日本人市民共同で行われている事実です。 この中には日本から日本人の女たちを連れて来た男についても述べられています。
突然の命令で僅に三日の間に大阪神戸附近から八十六人の商売女を駆り集め、前借を肩替りして長崎から上海へわたった。それを三つに分けて一班は蘇州、一班は鎮江、他の一班は南京まで連れて行った。契約は三年間であるけれども事情によっては一年で帰国するか二年になるかも分らない。厳重な健康診断をして好い条件で連れて来たので、女たちも喜んでいる、という話であった。(p.174)

『生きている兵隊』を書いた理由

 石川達三が、なぜ『生きている兵隊』を書いたのか、この小説がどんな扱いを受けたのかを、2015年に出版された河原理子著『戦争と検閲—石川達三を読み直す』をもとに概略します。石川達三は盧溝橋事件(1937年7月7日)から始まる日中戦争について、以下のように考えていました。
新聞報道は嘘だ。大本営発表は嘘八百だ。日本の戦争は聖戦で、日本の兵隊は神兵で、占領地は和気藹々わきあいあいたるものであるというが、そんなお芽出度めでたいものではない。痛烈な、悲惨な、無茶苦茶なものだ。戦争とは何か。それを究明したい欲望に私は駆り立てられた。((注2)
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-14-2)

南京事件/虐殺はなかったという主張がなぜ日本でまかり通るのかの背景と、国内で戦争被害にあった自国民/市民へのドイツ政府と日本政府の対応の違いを見ます。

南京事件/虐殺はなかったという主張がまかり通る原因

 笠原十九司著『南京事件論争史』(2018, (注1))によると、南京事件/虐殺はなかったという否定派が1955年の自由民主党結成の頃に台頭し、南京事件/虐殺はあった・なかった論争が続いてきましたが、1990年代には南京で従軍した兵士の陣中日記などの新資料の発掘その他で、学問的には南京事件/虐殺はあったという「結着」をみたそうです(p.214)。ところが、安倍政権以降現在に至るまで、南京事件/虐殺否定派の声が強くなってきています。なぜ南京事件はなかったと主張する人々と、社会の無関心が根強いのかの理由を笠原氏が挙げているので紹介します。
    当時の軍部・日本政府・外務省などが事実を把握していたにもかかわらず、徹底した報道規制と検閲をして、日本社会に知らせなかったこと。 終戦から占領軍が入ってくるまでの2週間の空白期間にあらゆる資料を焼却してしまったために、当時の報告書などが残っていないこと。 東京裁判で唯一裁かれた人道に対する罪が南京事件だったが、ドイツにおけるニュルンベルク裁判の報道と違い、日本の新聞、たとえば『朝日新聞』は「圧倒的であった検察側の証言内容については、まったくといってよいほど報道せず、逆に弁護側の反証段階の証言が比較的丁寧に報道されている」、『毎日新聞』も多少は検察側証人の報道もあるが大きな変わりはないと指摘。このような報道から、「読者は被害実態の凄惨さにショックを受けることもなく、したがって被害者の立場を想像して、同情することもなかったといえよう」(pp.103-104)と分析しています。 占領軍の対応がドイツと日本では異なったこと。ドイツでは1945年の夏から収容所のおびただしい数の犠牲者の遺体の写真に「これは君たちの罪だ」と書いたポスターを全都市と農村に掲示した;ニュルンベルク裁判の「進捗状況が逐一新聞・ラジオなど統制下のメディアを使って報道された」;「アメリカ軍は、ナチの残虐行為を実写したフィルムを編集した宣伝教育用の短編映画『死の挽き臼』を制作し、戦犯抑留施設、公民館、学校、映画館などでその上映を義務付けた」(石田勇治『過去の克服—ヒトラー後のドイツ』白水社、二〇〇二年) GHQは「日本国民を軍国主義から引き離すための『日本人再教育プラン』を考え、NHKラジオやGHQが統制下においている全国紙を利用して進めようとした」1945年12月8日には「GHQ提供の連載記事『太平洋戦争史—真実なき軍国日本の崩壊』がすべての全国紙に掲載された(一二月一七日まで)」。南京事件については「『南京における悪魔』の小見出しで、日本軍は南京占領後、四週間にわたり近代史最初の残虐事件を引き起こし、男女を問わず子どもまで二万人が殺害されたと書かれ」「『日本の欺瞞宣伝』の小見出しで、日本のニュースや放送は南京市民は日本軍を歓迎している、南京での殺害、略奪は中国兵の仕業であると宣伝している、と書かれ、最後の日本軍による残虐行為こそ、中国を徹底抗戦に導く結果になったのである、と結んでいる(『朝日新聞』一九四五年一二月八日)」(pp.101-102) 1946年からGHQはNHKに「真相箱」というラジオ番組を日曜のゴールデンタイムに放送させ、南京事件についても「わが軍は」という主語で、残虐行為を非難したので、「アメリカ占領軍のプロパガンダであるように思わせる結果になった」(pp.102-103)。 「南京攻略戦に参加した多くの将兵が、東京裁判に関連して自分も追及されるのを恐れ、この時期に自分の陣中日記を密かに焼却してしまった」(p.106)。 南京事件に関する東京裁判の資料の全面公開が進んでいないこと(p.107)。 1955年から教科書検定が強化され、教科書から南京事件の記述が削除されたこと;1955年前の中高の社会教科書には「南京暴行事件」は記述されていたが、1955年に民主党が社会科教科書の「偏向」攻撃を行い、民主党と自由党が合体して自由民主党が成立した「五十五年体制」の下、1960年代を通じて南京虐殺の記述は消された(p.108)。 南京事件を否定する論を受容する別の理由:ドイツの場合、ユダヤ人収容所がドイツ国内にあり、被害者のユダヤ人が同じドイツ国民であったのに対し、南京事件は外国で起こり、外国人が被害者だったこと;沖縄を除いて、「軍隊が民間人を犠牲にするという戦場の修羅場の体験がなかったこと;映像記録も文書記録も国民に提示されなかったため、加害の現実を事実として実感することが困難だった。(p.106)

国民を補償するドイツ政府と国民を切り捨てる日本政府

 戦争の犠牲となった自国民に対する補償に関しても、日本政府とドイツ・イタリア政府との差が歴然としています。ドイツは元軍人とその遺族だけでなく、民間人も外国籍の人も、ドイツ国内で戦争の被害を受けた場合は、障害年金・医療保障・遺族年金などが支給される法律が1950年に成立しているし、イタリアでは1978年に成立したそうです(注2)。日本政府の対応は元軍人とその遺族に対しては60兆円の手厚い補償をしたのに対し、民間人の空襲被害者には補償をしていません(注3)。空襲などで障害者になり、生涯苦しんだ/でいる民間人は一貫して非人間的に切り捨ててきました。 ところが、無差別爆撃を指揮した米航空部隊の指揮官のカーチス・ルメイ(Curtis LeMay: 1906-90)には、東京五輪が開かれた1964(昭和39)年に安倍晋三首相の大叔父、佐藤栄作首相(当時)が勲一等旭日大綬章を贈っています(注4)。この勲章は天皇が手渡す「親授」が慣例でしたが、昭和天皇は「親授」しませんでした(注5)。 米軍による日本各地での無差別爆撃では50万人が亡くなっていると推測されていますが、日本政府が調査もしないため、正確な死者数はわからないそうです。「1945年3月10日の東京大空襲では、東京・下町を中心に約10万人が亡くなったとされ」、その他の空襲の犠牲者を含め、ほとんどの遺体は「公園や学校、寺、空き地などに急きょ仮埋葬」(注6)されました。東京都は戦後、仮埋葬された遺体8万248体を掘り起こして収容しました。仮埋葬された場所は150カ所あったようですが、記載されているのは66カ所だけなので、今でも「遺体や遺骨の多くは都内各地で埋まっている可能性が高い」とされています。 2011年に民主党政権の下で、「空襲被害を対象とした援護法立法を目指す議員連盟を設立し、軍人軍属への年金と違い一度きりの給付金とし、補償総額6800億円を算出しました。「在日米軍に経費を支援する『思いやり予算』の3年分程度」ですが、それ以前の自民党政権時代に「戦争被害者切り捨てのレールを敷く」結論を出していました。民主党政権が2012年12月に敗北して、この議員連盟は活動を停止したそうです(注7)

戦争被害者の切り捨てと戦争責任の否定は再軍備/核兵器への欲望と並行してる?

 佐藤内閣(1964/11-1972/7)時代に核武装の道を検討し、秘密裏にドイツに協力を求めて、核なき世界を求めていたドイツを驚かせたという事実を2010年10月3日放映のNHKスペシャルが明らかにしました。「NHKスペシャル」取材班著『“核”を求めた日本—被爆国の知られざる真実』(2012、(注8))を基に要点を拾います。「1970年に日本がNPT[核拡散防止条約]に署名する前、第2次世界大戦の敗戦国である日本と西ドイツが秘密裏に協議し」(p.24)たことを、当時の担当者をインタビューしてまとめた内容です。 ドイツの資料によると、1969年2月3日〜6日に日本の外務省政策企画部門の6人、西ドイツ外務省の5人で東京と箱根で日独協議が行われ、日本側が「もしいつか日本が必要だと思う日が訪れたら、核兵器をつくることができるだろう」と述べたので、ドイツ側は驚愕し、「それ以降、私は日本とアジアの情勢を非常に注意深く見守るようになりました」(p.33)と、当時西ドイツ外務省政策部長だったエゴン・バール(Egon Bahr: 1922-2015)氏が2010年に述べています。そして当時の資料に彼が日本側の発言をメモしていました。「たとえ国際的な監視が注意深く行われても、日本は核弾頭を製造するための基礎となる核物質の抽出を行うことができる」(pp.36-7)。 当時の日本側の出席者でインタビューに応じた村田良平(1929-2010)氏はこの日独協議の目的を「日本に核保有の選択肢を残す方策を検討するため」(p.44)の協議だったと述べました。協議で日本側は「日本の原子力の平和利用に関する研究とロケット技術の開発に誰も異議を唱えられない。その結果、いつか必要になれば原子力とロケットを結びつけられる。比較的早く核兵器をつくることができる」と述べ、バール氏は「その晩『大変なことだ』と激しく動揺したことを告白します。日本が核をもつことのないよう願いました」(p.55)とインタビューで述べています。 1年後に再会した時、バール氏は村田氏に「これからの我々の仕事は、核を持っていてもその意味がないというように国際政治の基本をつくり替えていくほかない」(pp.44-5)と諭したそうです。その真意を問われて、「『私たちは、能力はあるがつくらない。これは私たちが本当に平和的で協調的な、よい隣国でありたいことの証だ』と伝えるためでした」(p.57)と述べています。 また、ドイツに置かれたアメリカの核兵器に関して、ドイツ「国民を守るために私たちにできる最後の手段は、アメリカの核攻撃の命令に従うことを拒否し、報復攻撃を避けることしかない」とバール氏は思いました。「アメリカの同盟国としての役割を認識しながら、ドイツ国民を守るという根源的な責務をいかに全うしていくか葛藤を続けてきた」(p.59)結果、引退後は核廃絶に向けた活動を続けたそうです。日独外務省の戦争責任と自国民に対する認識の違いが如実に表れていますが、さらに驚くのは、村田氏が「最も記憶に残るバール氏の言葉」として「これからの我々の仕事は、核を持っていてもその意味がないというように国際政治の基本をつくり替えていくほかない」という「意味の深い言葉」(p.45)だったというのです。日本の外務省と政府は考えたこともないという意味でしょうか。

核兵器保有議論を続ける自民党

 佐藤内閣と外務省が「日本に核保有の選択肢を残す」という意思を明らかにした1969年以前から、自民党政権・外務省・防衛庁がアメリカの対中国用核ミサイルの日本配備を希望していたこと、その報道によって佐藤政権が国民に「核慣らし」を考えていたそうです(注9)。佐藤栄作氏(1901-1975)は非核三原則(核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」:1967年答弁)でノーベル平和賞を受賞(1974)しましたが、その直前に核兵器搭載の米軍艦が日本に寄港を認める日米政府間の密約があるという報道が米国でありました。非核三原則の密約に関する経緯は参議院・外交防衛委員会調査室作成の資料(2010年10月、(注10))から辿ります。 1981年にはライシャワー元駐日大使(Edwin Oldfather Reishauer: 1910-1990)が核兵器搭載の米艦船や航空機が日本領海・領空を通過することは日米両政府間の口頭了解が自分の大使就任前(1961/3/29前)にできているとインタビューで述べました。この核密約の口頭了解を示す米公文書が開示され、2009年6月には村田良平元外務事務次官が密約の存在を認める発言をしています。また、沖縄返還交渉時(1969)に、「緊急時に沖縄への核持込を容認する『佐藤・ニクソン密約』が存在するとの報道もあった」のですが、歴代自民党政権は否定しています。民主党政権誕生で、岡田克也氏(1953-)が外務大臣就任(2009年9月)時に4種類の密約の存在を外務事務次官に調査するよう命じ、北岡伸一東京大学教授(当時)を座長とする「有識者委員会」を設置しました。この委員会は2010年3月に報告書を提出・公表しましたが、佐藤元総理宅に保管されていた合意議事録からは、「朝鮮有事の際の対応を例外(核の持込を認める)とするものであるが、佐藤総理の考えや保管方法から合意議事録の内容が後の内閣を拘束しないこと(中略)、密約とは言えない、としてい」ました。これに対し、岡田外務大臣と東郷和彦元外務省条約局長などから異論が出され、東郷元局長は「合意議事録は要請があれば必ず核を認めるとある、総理が大統領に約束したものであり、それが国民に伏せられていたので、密約といえる」と述べています。岡田外務大臣は記者会見(2010/6/15)で、「当該密約は『少なくとも今や有効ではない』ことを3月の報告書公表前に米国政府と確認したと述べました。 核兵器を日本に持ち込ませるべきと自民党の石破茂(1957-)幹事長が2020年6月に発言しました(注11)。石破氏は同様の発言を2017年にもしていたので、長期間の持論ということでしょう。さらに驚く発言が福島第一原子力発電所の過酷事故の年2011年12月に、当時政調会長だった石破氏から出されています。「核兵器を造ろうと思えば一定期間に作れる『核の潜在的抑止力』の必要性を指摘した」「原発技術の維持による潜在的抑止力の重要性を認め」「核燃料生産につながる再処理工場と高速増殖炉原型炉『もんじゅ』による核燃料サイクルを推進する必要性も指摘した」(注12)とインタビュー記事で報道されています。原発維持の理由が核兵器製造のためと言いながら、「核武装には反対の立場を明確にした」と同時に言ったのは論理矛盾しています。 自民党及び自民党系の人々の核ミサイル保有の欲望が強いようで、小池百合子(1952-)氏も自民党議員だった2013年2月時点で「東京に核ミサイルを配備しよう」と公言しています(注13)。その半年後には環境大臣として入閣し、第一次安倍政権で防衛大臣に抜擢されましたし(2007)、コロナウィルス禍の最中に自民党が「敵基地攻撃能力」(注14)の検討を始めたことも、自民党が核兵器保有を熱望している証左のようです。だからこそ、安倍政権が核兵器禁止条約に参加しない態度を続けるのでしょう。2020年の広島・長崎原爆の日には新たに4か国が批准し、発効まで「あと6か国」(注15)とされていますが、日本政府は「厳しい安全保障環境を理由に条約には参加してい」ない理由と述べています。

アジアの隣国に無礼な人々

 友好的対話外交によって隣国との関係を修復したり、再構築したりして、核兵器の脅威に怯えずに、核攻撃能力を検討せずに、未来を考える時代は来ないのかと思います。民主党政権時代に起こった東日本大震災と福島第一原発事故時に内閣官房参与だった松本健一(1946-2014)氏が体験したことを語った内容(半藤一利・竹内修司・保阪正康・松本健一『戦後日本の独立』、2013,(注16))は驚きです。重要なので以下に引用します。

松本

 二〇一一年の三月二十九日に、日本と中国とのある会議があって私は中国の北京に行きました。その会議には中国政府だけでなく、中国共産党も人民解放軍もそれぞれトップクラスの連中が出てきました。彼らが、日本に対してカンカンに怒っているわけです。聞いてみると、三・一一のあと胡錦濤国家主席がわざわざ日本大使館に出向いて弔意を示し、さらに人民解放軍は病院船の派遣まで申し出ている。たまたまそのとき、全国人民代表大会が開かれておりまして、通常中国のマスメディアはそのニュースを中心に流すのに、日本の災害に気を遣って全人代関係の報道は五分間にして後の五十五分を東日本大震災のニュースを流した。そこまで配慮しているのに、菅首相、日本政府から何の反応もない。菅首相は中国にお礼の電話をしようとしたら、外務省が必要ない、と言った。後で公文書でするからいい、というわけです。病院船については、外務省から必要ないとそっけなく断られた。こんなひどい対応はないではないか、というわけです。中国とのすれ違いは、こんなところからも亀裂が大きくなっていったのではないかと思います。

保坂

 そんな話がありましたか。こういうときこそ対外的な関係を好転させる絶好の機会だから、各国とも友好ムードが高まる。そういうときこそ誠実にこたえないと、国家の品格を疑われることにもなりかねませんね。(pp.21-2)
 松本氏が参与の任期中、資料を求めても官僚側は出さず、原発事故に際して、「外務省、文部科学省、経産省などは、とにかく官邸に情報を上げない」「役所にとって不都合と思われる情報はことごとく出さない」のが現実で、その理由を、情報を上げたら政府が対応を公にする、公になれば責任を問われる、「なにも伝えないときは内容が埋もれているから責任が発生しない」(p.20)という慣行になっていると分析しています。 また、安倍政権でも常態化している公文書不作成、隠蔽、改ざんが原発事故の際も行われていたといいます。「政府の公式の会議で記録がない」ことが問題になり、「内閣府の役人の作為かどうかはわかりませんが、彼らに責任があります」(p.21)。
そのほか、首相や閣僚などの会議で記録がないのは、民主党の政権経験のなさや、菅(直人)総理が記録をつくっておくことに思い至らなかったという点で問題がありました。菅総理は、たとえば私と話すときにも記録をとらない。事務官などを立ち入らせないから記録が残らないのですが、それが問題でした。私との記録はともかく、私以外でもそのようでした。だから言った、言わない、の話になってマスコミの批判にさらされてしまった(p.21)。

中国と戦争になってもいいと公言した石原東京都知事

 2012年4月に石原慎太郎(1932-)東京都知事はアメリカで、尖閣諸島を都が購入すると発表し、「中国と戦争になってもいい」と言っていたと報道されています。そして、当時の民主党政権・野田佳彦首相は、都が購入したら中国との軍事的衝突の懸念があり、石原氏と会談し、その中でその「懸念が確信になった」ので、国有化に踏み切ったそうです(注17)。 尖閣諸島は1972年の田中角栄・周恩来首相(当時)の日中正常化交渉の際に、「双方で棚上げして、そのまま波静かにやっていく」ことで合意され、1978年にも福田赳夫首相・鄧小平副首相(当時)会談でも、鄧小平副首相が「次の世代への『棚上げ』」論を展開して、福田氏が黙認したとされています。野中広務氏が2013年6月3日に北京で、棚上げ合意について田中角栄氏から直接聞いたと語ったところ、それを安倍政権(岸田文雄外相・菅官房長官)が「外交記録にない」「伝聞の話で根拠もない」と否定し、野中氏を非難しました。外務省は2013年3月に「『棚上げ』に合意していない」という資料をまとめたそうです(注18)。公文書の隠蔽・削除・書き直し・不作成等々が横行している安倍政権に「根拠はない」という資格はないでしょう。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-14-1)

戦争犯罪への対応の仕方がドイツと日本で大きく異なる例を見ます。

戦争犯罪への向かい方:ドイツと日本(1)ドイツ

 5年半前の記事ですが、「歴史に関していえば、ドイツは日本とは違う。確かに日本の戦争犯罪はホロコーストとはまったく別物だが、だからといってその凄惨さが劣るわけではないし、薄らぐものでもない」と始まる記事が、日本とドイツの戦争犯罪への向かい方の違いを指摘しているので紹介します。「ドイツには、過ちを懺悔した指導者がいた—反省の心がドイツ人のアイデンティティに」(注1)と題する記事です。 2015年にこの記者リチャード・カッツがドイツ人から「戦後数十年間は、人々は思い出したくないと考えていた」が、態度の変化がブラント元首相(西独)によって強く推し進められたと聞いたという内容です。記事の一部を引用します。
ワルシャワのゲットーでナチに対し起きた蜂起の跡地を1970年にブラント氏(Willy Brandt: 1813-1992)が訪れ、ひざまずいて許しを請うたときだった。後に彼はこう書いている。「あの振る舞いはいったい何だったのかとよく聞かれる。最初からそうするつもりだったのか?いや、違う。ドイツが生み出した歴史的な地獄の縁に立ったとき、何百万人もの虐殺を犯した重責がのしかかってきたのだ。誰だって言葉を失った時にはそうする」。 ブラント氏はドイツ人に誇りをもたらした。彼の心からの振る舞いには、世界中のユダヤ民族、また伝えられるところでは当時まだ共産主義だったポーランドの知識層の一部すら心を打たれた。
 それでも、直後の世論調査でこの行為を肯定したのは41%だけ、また、古い国境線を維持しなかったため、1972年に不信任決議にあい、「わずか2票の差で生き残った」そうですが、「1971年にノーベル平和賞を受賞、国内の社会福祉再建に」取り組み、「1972年末には、所属のドイツ社会民主党に地滑り的勝利をもたらした」とのことです。そして現在のメルケル首相(Angela Merkel: 1954-)も「過去の罪の否定は国に誇りをもたらしはしないと理解している」と述べて、次の文で締めくくられています。「仮にこのドイツ首相が岸信介氏のドイツ版ともいえるアルベルト・シュペーア氏の孫だったなら、こうした一連のことは想像もつかない」。 安倍晋三首相の祖父「岸信介氏のドイツ版」とされるアルベルト・シュペーア(Albert Speer: 1905-1981)について、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(注2)は以下のように解説しているので抄訳します。
シュペーアは1927年に建築士の資格を取得した。1930年末にベルリンでヒトラーの演説を聞いて、1931年1月に熱狂的にナチ党に入党し、ヒトラーは彼の才能に感銘を受けて、首相になると、シュペーアを自分の専属建築家にした。1942年にシュペーアは兵器と軍需生産の大臣に任命され、大きな権限を与えられて、徴兵制と強制収容所から奴隷労働を得る制度を拡大した。1945-46年のニュルンベルク裁判でシュペーアはナチの犯罪に対する反省を表明したが、ユダヤ人絶滅計画の直接情報を得ていたことは否定した。戦争犯罪と人道に対する罪で20年の刑に服した。彼は死ぬまで、ナチの「最終的解決策」[ユダヤ人抹殺]を知らなかったと公には主張し続けたが、1971年に書かれた手紙で、ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler: 1900-1945)がユダヤ人全員が殺されると発表した1943年の会議に自分も出席していたと認めた。この手紙は2007年に公開された。
 ナチス時代にはユダヤ人大量殺戮の前に20万人の障害者が精神科病院で殺されていたことが明らかになっています。精神科医による「安楽死」計画にヒトラーが賛同し、医師と看護師たちが20万人を殺害したという事実です(注3)。 これらを含めて、ドイツは現在に至るまで戦争犯罪者の裁判を続けています。当時17歳、現在93歳の強制収容所元看守に「5232件の収容者の殺害を幇助した」として執行猶予付きの禁錮2年が2020年に言い渡されました。被告は最終弁論で「裁判は過去に対処する機会を与えてくれた。証言や専門家の意見を聞いて初めて、残酷さと苦しみに気づけた」(注4)と述べたと報道されています。 メルケル首相が「過去の罪の否定は国に誇りをもたらしはしないと理解している」ように、ドイツ首脳たちが戦争の加害責任を認め、謝罪し続ける姿勢は変わりません。2020年1月にはドイツのシュタインマイヤー大統領(Frank-Walter Steinmeier: 1956-)がエルサレムのホロコースト記念館でスピーチをしました。その一部を引用します。
 殺人をした人たち、殺人を計画したり、それに協力したりした人たち、そして黙って規則に従った多くの人たち。彼らはドイツ人でした。600万人のユダヤ人の産業的大量殺人、人類史上最悪の犯罪、それは私の同国人たちの手によって行われたのでした。5千万人をはるかに超える人々の命を奪った恐ろしい戦争は、私の国から生まれたのです。 アウシュビッツの解放から75年後、私はみなさんの前にドイツの大統領として立っています。私は歴史的な罪の重荷を背負ってここに立っています。(中略)ホロコースト記念館の永遠の炎が消えることはありません。ドイツの責任が消滅することもありません。私たちは責任を果たしたいと思います。これにより、私たちを評価してください。(引用者強調) 私はあなたの前にたち、この和解の奇跡に感謝します。そして、私たちの記憶によって、私たちは悪から免れたと言えることを願っています。(中略)答えは一つだけです。二度と繰り返すな!(注5)

戦争犯罪への向かい方:ドイツと日本(2)日本

 2020年終戦の日の安倍首相の式辞では、歴史の教訓にも加害責任にも触れず、逆に再び戦争のできる国にするという決意表明と受け取れる「積極的平和主義」という言葉で、新型コロナウィルス蔓延の中、自民党が着々と進めている「敵地攻撃能力」を示唆しています(注6)。 第一次安倍政権前から第二次安倍政権の現在まで、日本の政治家の歴史改竄主義的言動の気になった点をまとめます。日本の侵略戦争も南京事件や慰安婦問題などもなかったと主張する人々は「歴史修正主義者」という従来の語より、「歴史改竄主義者」という語で呼ぶ方がふさわしいようです。
    1994(平成6)年5月:永野茂門法務大臣 「うっかりでは済まされない 失言で失脚した閣僚」という題名の写真集(2019/4/23, (注7))の筆頭にあがっている永野茂門氏(1922-2010)は羽田内閣(1994/4/28-1994/6/30)で法務大臣に就任した直後(1994年5月5日)のインタビューで次の発言をしています。「日本の軍隊があちらこちらでやった虐殺、放火、破壊をしたり、慰安婦問題とかは……。私は南京事件というのは、あれ、でっち上げだと思う。私は、あの直後に南京に行っている」。この「直後」というのが1938年とすれば、永野氏は16歳ですから、14歳から志願できるという志願兵として日中戦争で戦ったということでしょうか。 永野氏はこの他、慰安婦問題などについても問題発言をして、翌日には記者会見で発言撤回をし(注8)、その翌日に辞任と、10日間の法務大臣でした。戦争責任を全面否定するような歴史観の人が陸上幕僚長であり、法務大臣に任命されたことは、現在の自衛隊・防衛省のトップも同じ価値観の人々なのだろうかと不安にさせられます。
    2001(平成13)年1月:安倍晋三衆院議員 NHKのETV2001「戦争をどう裁くか②問われる戦時性暴力」放送直前に安倍晋三議員が政治介入した結果、内容カットで「支離滅裂で異様な」番組を放送する結果になった(注9)
    2003-2007(平成15-19)年:稲田朋美弁護士 2005(平成17)年に自民党幹事長代理だった安倍晋三氏に口説かれて政界入りした稲田朋美氏(1959-)は、この頃、南京事件で「百人斬り」をしたとして処刑された旧日本軍少尉2人の遺族の弁護士として、百人斬りについて報道した朝日・毎日新聞、ジャーナリストの本多勝一氏を提訴しました。2006年に敗訴しましたが、「国の名誉を守りたい」と「百人斬り裁判」を2007年に本にしています(注10)。「過去の罪の否定は国に誇りをもたらしはしない」というドイツと真逆の発想です。稲田議員は第二次安倍内閣で安倍首相の「秘蔵っ子」と称され、安倍首相自身が「女性首相候補」と評価して防衛相に任命し、多くの問題を起こしています(注11)
    2006(平成18)年6月:河村たかし衆議院議員(当時) 質問主意書で「そもそも、南京大虐殺の源流となったのは、虚偽の新聞報道であ」ると述べました(注12)。そして、1999年5月14日の記者会見で外務報道官が「非戦闘員の殺害あるいは略奪行為があったことは否定できない事実」と述べた政府見解は「再考の余地が無いと考えるか否か」と小泉純一郎首相(当時)に質問しました。 小泉首相は「非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている」と回答しています(注13)
    2007(平成19)年3月:安倍晋三首相 辻元清美衆院議員の「安倍首相の『慰安婦』問題への認識に関する質問」(注14)に対して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見あたらなかった」(注15)と答弁しました。  辻元議員はさらに、中曽根元首相の回顧録『終わりなき海軍—若い世代へ伝えたい残したい』(1978)に「私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と書いてある事実を知っていたかと質問しました。それに対して安倍首相は「御指摘の回顧録の中に御指摘の記述があることは承知している」と答弁しました。
    2012(平成24)年2月:河村たかし名古屋市長 名古屋市の姉妹都市・南京市から訪れた訪問団に対し「南京事件はなかった」「一般市民(へ)のいわゆる虐殺行為はなかった」と述べました(注16)
    2012年3月:長崎市議会 長崎原爆資料館の展示に「南京大虐殺」の記述があることを問題視した市議が訂正を求めたところ、「市側は『一定の市民の合意が得られている。今のままの展示でいこうと思う』と理解を求め、[長崎原爆資料館運営]審議会に持ち込むことは無かった」(注17)
    2012年3月:石原慎太郎・東京都知事 東京都知事の定例記者会見(2012年3月9日、(注18))で記者が「日中問題で、名古屋の河村市長の話が、民間外交にも水を差すようなところまで来ておりますが、今年は日中国交回復40周年ということで(中略)、知事は南京問題をどういうふうにとらえて・・・・・・」と尋ねました。石原知事は「全く事実無根だと思います」と答えます。
    2012年9月:安倍晋三衆院議員 2012年9月に自民党総裁選への出馬表明で「新たな談話を出す必要がある。子や孫の代に不名誉を背負わせるわけにはいかない」と明言した(注19)
    2013(平成25)年2月:大阪府(大阪維新の会) 「大阪国際平和センター」の展示内容から南京大虐殺など旧日本軍の加害行為に関する展示を撤去し、大阪空襲に特化することを明らかにした。3月には全職員を交代させた(注20)
    2013年3月12日:安倍首相
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-13-2)

日本兵の証言や被害者の証言、そしてNYタイムズの記事から、日本軍の残虐行為は南京以外でも広く行われ、太平洋戦争中にはインドネシアでもイギリス・オーストラリアの看護婦たちの虐殺もあったことが明らかにされつつあります。

南京以外の残虐行為

 日本軍の略奪・虐殺・強姦が南京だけではなく、広範囲に行われていたことが様々な情報源からわかります。まず、1938年1月6日のNYタイムズは杭州で調査したカナダの保険会社検査員の報告を報道しています。

「日本軍が杭州を3日間恐怖に陥れたとカナダ人が非難—酔っ払った兵士たちが女性を襲い、略奪したと言われている」:上海発、1938年1月6日((注1), p.6)

 1937年12月24日に、浙江州の首都、杭州の占領で「略奪、強姦、殺害の乱行」が続いたと、昨日上海に戻ってきたカナダの保険検査員が述べた。杭州を占領した後の日本軍の最初の動きは兵士たちに3日間の休暇を宣言したことだ。その結果は、中国の酒店の略奪、酔っ払った日本兵、そして彼らは通りで暴れまくり、家々、店舗、ホテル、公共施設に闖入し、中国人市民は郊外に逃げたり、地下室や屋根裏に隠れたとカナダ人は言った。数百人の女性と女の子が酔っ払った日本兵に強姦された後殺されたという。この運命をかろうじて逃れた他の数百人は、市中6箇所にある避難センターに逃げた。これはアメリカ・イギリス・フランスの宣教師たち30人が設立したものである。 カナダ人が言う。「これらの勇気ある外国人が中国の女子どもに英雄的援助を与えた。彼らは数百人の命を救った。この避難キャンプに避難を求めた女子ども全員が受け入れられたが、避難所はどこも超満員だった」。南京同様、日本兵は最初の略奪者ではなかった。中国部隊は外国の敷地は略奪しなかったが、中国所有の浙江大学と杭州の多くの米屋は逃走する中国部隊に略奪されたとカナダ人は非難した。

抗議が警備をもたらす

 外国のミッショナリーが「この恐怖の支配を止めさせなければ、人道的な法律を実施するよう」本国に電報すると大胆な脅しで強い抗議をしたため、12月27日に日本軍は6避難キャンプの入り口に衛兵の配置を指令した。これで「外国宣教師が女性と日本兵の間に立ちはだかって、命をかける必要性に終止符を打った」とカナダ人は言った。 メソジスト・ウェイランド・アカデミーのカーティス・E.クレイトン司教(Bishop Curtis E. Clayton)、Y.M.C.A.避難キャンプのDr. K. Vanevererとジーン・ターナー(Gene Turner)、そしてその他のアメリカ人全員は多くの場合、命をかけたとカナダ人は賞賛している。彼はまたチャイナ・インランド・ミッションのE.フェアクロフ(Fairclough)が「うろたえて通りを走り回る女子どもを避難センターに導いた」ことを賞賛した。また、日本兵が女性に乱暴を働こうとしたのをフランス人宣教師ダミエール神父が止めた時、日本兵は神父のあごひげを引っ張ったとカナダ人は言った。

アメリカ人の家が略奪された:杭州、1月1日、AP通信

 略奪と無秩序と恐怖の9日間の後、憲兵隊が今日平和と秩序を回復し、杭州の恐怖に震える市民を安心させた。アメリカン・スクールとアメリカその他の外国の建物には外国の旗と、日本軍による入場禁止の貼紙があったにもかかわらず、略奪された。日本兵と中国人が略奪にかかわった。本特派員はこの目で多くの現場を見たし、その他の現場を見た外国宣教師たちから聞いた。 日本軍の南京占領を特徴付けた大量処刑はここではなかった。略奪者2,3人が射殺された。このような場合、言葉の困難さが影響しているのだろう。外国人は誰も襲われなかったが、脅かされる事件はいくつかあった。その一つはフランス人司祭が日本兵に顔を叩かれたことだ。

将校が司祭を守った

 日本兵がカトリックの避難所に入ってきて、女性を要求した。司祭が阻止すると、兵士が司祭の顔を平手で殴った。幸い、その時、日本の将校2人が入ってきて、その兵士たちを殴って、他の兵士を呼んで、本部に連れて行けと命じた。 避難キャンプに逃げ込んだ多くの中国人の女の子たちは美しさを隠すために顔に泥を塗っていた。その他の数百人は教会や外国人の家に隠れている。最初の日本部隊が入市してすぐに、中国人が食料を求めて全市の店を略奪したが、日本兵は止めようとしなかった。 退却する中国兵は杭州発電所、飛行場、川のフェリー桟橋、電信電話施設を破壊した。食料事情は極端に厳しいが、日本軍が市を通って内陸に向かうので、改善すると期待されている。

元日本兵の告白と証言

 1950年代に中国内で行われた特別軍事裁判で起訴された元中尉を保阪正康氏が1991(平成3)年にインタビューし、起訴状と判決文を公開してもよいと渡され、その一部を紹介しています。この元中尉は、その裁判記録に書かれている「旧日本軍の蛮行は『氷山の一角にすぎない』」と言ったそうですが、その蛮行の数々は「目を覆いたくなるような内容」です((注2), pp.209-211)。 1956(昭和31)年6月に瀋陽の特別軍事法廷で旧日本軍の8人に判決が言い渡される前に一人(師団長の中将)が絞首刑にしてほしいと意思表示をしたそうですが、死刑が当然だと思われていたのに、判決は禁固13年から20年でした(p.207)。不満な傍聴人たちが審判長席に殺到しましたが、審判長が傍聴人たちに次のように言ったそうです。「この判決は中国人民代議員大会の決議よりもさらに上級の指示によっている。厳罰に処すべきだが、死刑にしてはいけない。なぜなら中日永遠の友好を考えて、あえてここは譲るべきだと上級は言っている」。そして「戦犯たちは監房に戻ってから、上級の指示というのは毛沢東主席と周恩来首相をさしていると聞かされた」(p.208)そうです。 起訴事実には師団長や連隊長が直接に蛮行を働いたわけではなくとも、その命令によって部下の兵士たちが繰り返した蛮行が克明に書かれていて、その一部を保坂氏が引用しているので要約します。
    1942(昭和17)年4月:被告人[1]の配下の部隊は河北省遵化(ジュンカ)県で「斬り殺す、焼き殺す、毒ガスを放つなどの残虐な手段で」平和的住民220余名を虐殺、民家1900余戸を焼き払った。18歳の娘はガス中毒で逃げ出たところを輪姦されてついに死亡した。[氏名略の]妻は強姦に抵抗したため腹を切りさかれて胎児をえぐりだされ、[氏名略の]妻は強姦されたあと焼き殺されている。 同年10月:被告人[1]は配下の第一連隊と騎兵隊に命じ、河北省灤(ラン)県で血なまぐさい集団虐殺をおこない、棍棒でなぐる、銃剣で突く、生き埋めにする、焼き殺すなどの野蛮な手段で平和的住民1280余名を惨殺し、民家1000余戸を焼き払った。63名の妊婦が惨殺され、多くの妊婦が胎児をえぐりだされ、19名の嬰児が母親のふところからもぎとられ、地面にたたきつけられて殺されている。 1939(昭和14)年1月から1945年6月までに、被告人[2]は連隊長、旅団長、師団長として、部下の将校にたいし、生きた人間を「標的」として兵士の「度胸だめし教育」を実施せよとつねに訓示を与えた。被告人のこの犯罪的な訓示のもとに、配下の部隊は1945年5月から6月までのあいだ、山東省で、わが捕虜と平和的住民前後100余名を殺害している。被告人は配下の部隊にたいし「捕虜は戦場で殺し、これを戦果に計上すべし」と命令した。 1945(昭和20)年3月、被告人[3]は師団長として配下の部隊を指揮命令し、湖北省で侵略作戦をおこなったさい、凶悪きわまりない手段でわが平和的住民90余名を殺害した。南漳県では婦人、子供、老人ら12名を残酷にも絞殺した。わが平和的住民18名を手のひらにはりがねをつき通して数珠つなぎにし、銃剣でその全部を突き殺した。襄陽市では、部下が婦人を強姦するのを放任し、甚だしきにいたっては輪姦のあげく死にいたらしめている。
 8人の被告の1人が1991年に保坂氏のインタビューに応じたのは、「われわれの世代はあの戦争で人間としてあるまじき行為を働いたという自責の念があるからだ。蛮行とか残虐行為というのはいまになっていえることで、あのころはこういう行為こそ、お国のためだと思っていた。その錯誤をあなたたちに知ってほしい」と体をふるわせて真意を繰り返したそうです(p.213)。日本軍がなぜ中国大陸でこのような蛮行を働いたかという問いには、士官学校出身者が牛耳っていた日本陸軍のヒエラルキー制度が問題で、階級が上がるには目立つことをしなければいけない;士官学校出身者は政治教育がされていないから、軍事と政治の関係が理解できなかった;新任の将校は兵士の前で臆病でないことを示すために残虐行為をしたなどです。 この元中尉は息子たちに全てを話し、息子たちは悩んでいるが、それによっていかなる戦争にも反対してくれると思うと述べています。その一方で、戦後になっても自責の念のないまま生き続けている元軍医(現在開業医)がいると、この元中尉が紹介しています。しゃれこうべを戦場の土産にするために、捕虜を斬殺し、首をはねて、天日で乾かし、顔面の肉を別の捕虜に剥ぎ取らせ、その捕虜は泣きながら仕事を続けて、何日後かに頭骨を捕虜に磨かせ、元軍医、現開業医は1991年時点でも診察室に飾っていると平然と言ったそうです(p.214)。 猟奇殺人者になってしまった上、その自覚がないまま医療活動を続ける人間になったのは、戦争に行かされたからだけなのか、差別意識が善悪の境を無くさせ、人間を悪魔にしてしまうのか、後世の私たちに突きつけられた課題です。

中国以外の強姦/虐殺事件

 日本軍による略奪/強姦/虐殺が中国に限らなかったことが判明しています。1985(昭和60)年に発見された旧日本軍第五師団参謀部作成の極秘書類に、1944(昭和19)年11月に現インドネシア領ババル島の住民400人(その三分の一は女性と子ども)を「虐殺」と記されていることが1986(昭和61)年に報道されました(注3)。戦争犯罪の追求を恐れて、「原住民の反乱」に書き換えられた過程が分かる内容だそうです。現場責任者だった元大尉は戦犯となることなく、戦後は陸上自衛隊に入って一佐で退役し、この事件についてインタビューに答え「今さら、こんなことを暴いても何もならない。しかし、すまないことをしたと思っている」と語ったと報道されています。この旧日本軍の体質について、秦郁彦(1932-)・拓殖大教授[1986年当時]は「南方戦線でこれだけの事件が、これまで明るみに出なかったことに驚く。(中略)多くの場合、住民をいきなり殴りつけるなどの、日本軍の側のごう慢な態度が原因になっている。アジアの解放と言いながら、アジアの人の心を全く理解していなかった旧日本軍の体質に改めて驚く思いだ」と述べています。 77年後に明らかにされたもう一つの事件は、インドネシア・バンカ島でオーストラリア人看護婦22人が日本兵に強姦された上で虐殺された事件です(BBC, 2019年4月22日,(注4))。虐殺は「バンカ島虐殺事件」として知られているそうですが、彼女たちが殺される前に1部隊に強姦され、別の部隊にも輪姦された可能性があると報道されています。虐殺は知られていても、強姦はひた隠しにされていたこと、その背景には「レイプが死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」社会だったからだと示唆されています。22人のうち、銃弾を受けながらも死んだふりをして生き残った女性は、東京裁判で強姦について話すことをオーストラリア政府から禁じられたそうです。強姦がタブーだったことと、1942(昭和17)年の香港侵攻時にイギリス人看護婦が日本兵に強姦されたことを知りながら、シンガポールからオーストラリア人看護婦を避難させなかったことでオーストラリア政府に罪悪感があったからだろうと推察されています。21人の虐殺者は「今も特定されず、『罪について何も処罰されていない』」とのことです。彼女たちの記録文書から「重要な証言部分が抜き取られていることも発見」されたそうです。ニュー・サウス・ウェールズ大学の軍事史研究家は「この話が表に出るのをずっと待っていた。長年、うわさされていたし、(中略)第2次世界大戦中に香港やフィリピン、シンガポールで記録された、日本兵による性的暴行とも一貫性がある」と述べています。

残虐行為は軍だけではない、否定/沈黙は共犯という21世紀のメッセージ

 虐殺が軍の行為に限られないことは、関東大震災時(1923年9月1日〜)に市民がデマを流して朝鮮人虐殺に走った事件を思い出せば、差別意識に毒された一般市民が簡単に殺人者になることがわかります。虐殺された人々の中に沖縄出身者が3人いたこと、2016年4月の熊本地震で高校生がツイッターに「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」と関東大震災時のデマを流したことも報告され、安部政権下でデマと差別が拡大していることに警鐘が鳴らされています(注5)。私自身、留学生対象の授業で有吉佐和子の『恍惚の人』(1972)を教材にした時、関東大震災への言及がある箇所で朝鮮人虐殺事件を紹介したところ、学生が日本人の知り合いに「朝鮮人が井戸に毒を入れたのは本当だ」と言われたと述べたのが衝撃でした。

内閣府ホームページ掲載の報告書を「見当たらない」と国会答弁する安倍政権

 その上、歴代都知事が追悼文を送付していた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に小池百合子都知事は2017年から追悼文を取りやめ、都議会では虐殺はなかったという否定論が展開されました。それを踏まえて2017(平成29)年11月に衆議院で安部政権に対して、政府として虐殺の事実を認めるかという質問主意書が提出されました(注6)。この質問に対し、国務大臣(当時)・麻生太郎氏が「事実関係を把握することのできる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」と回答しました(注7)。ところが、麻生内閣発足(2008年9月)の6ヶ月前、2008(平成20)年3月には「内閣府・防災情報のページ」に「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第2編】」が掲載されていたのです。その第4章は朝鮮人虐殺に関する報告です(注8)。 この報告書は多くの調査研究を踏まえて、流言蜚語の原因について「警察による治安維持のための朝鮮人拘束が流言のきっかけとなり、それが多くの殺傷事件を引き起こした」「社会主義者及び民族解放闘争を昂揚させる朝鮮人への弾圧の機会を狙っていた日本の支配階級が、朝鮮人『暴動』の流言を捏造して宣伝し、それを根拠に戒厳令を敷き、軍隊、警察とその司令下の自警団によって社会主義者と大量の朝鮮人を虐殺した」、犠牲者は6,600余名((注9), p.219)とされています。さらに聞き取り調査によって、埼玉県では警察署が襲われ、「警察の保護下の朝鮮人を殺傷する事件が多かった」(p.220)ため、加害者の検挙も多かったとのことです。千葉県では「保護のため習志野の高津廠舎[しょうしゃ:軍隊演習用の小屋]に収容された朝鮮人の一部が、9月6日以降、周辺の村に引き渡されて、村民の手によって殺害され」(p.220)たことも記されています。 中国人犠牲者も多かったことをこの報告書で知りました。張学良や周恩来などの知己が多かった王希天(1896-1923)が大島の中国人労働者遭難の状況を調査するために9月9日に大島に渡ってから行方不明になり、外交上の問題になったそうです。外務省記録「大島町事件其他支那人殺傷事件」によると、野戦重砲兵第一連隊による殺害事件でした(p.220)。また浙江省温州から集団で大島に来ていた中国人労働者が「中国人労働者を敵視する人夫請負人や警察の扇動によって」殺害され、1990年の現地調査によって死者656名、行方不明11名と判明し、その8割以上が「大島やそれに隣接する江東地区」で起こったとのことです(p.221)。 この報告書の「おわりに—関東大震災の応急対応における教訓—」で、「火災による爆発や火災の延焼、飛び火、井戸水や池水の濁りなど震災の一部を、爆弾投擲[とうてき]、放火、投毒などのテロ行為によるものと誤認したことが流言の一原因」「過去の反省と民族差別の解消の努力が必要なのは改めて確認しておく(引用者強調)。その上で、流言の発生、そして自然災害とテロの混同が現在も生じ得る事態であることを認識する必要がある」((注10), p.224)と結論付けています。安倍政権はこの報告書を否定するために「記録は見当たらない」と国会答弁し、歴史的事実である朝鮮人・中国人虐殺を否定したことになります。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-13-1)

ドイツではナチの残虐性を追求した小説とその映画(2019)が評判になり、日本でも公開されたのに、南京虐殺の記録を基にした映画(2009)は公開されず、日本の自国の歴史に向き合う姿勢が問われます。

残虐行為に目をつむり、沈黙するのは共犯だ

2020年5月26日から始まり、7月に入っても続いている人種差別反対デモが、欧米を中心に”Black Lives Matter”を掲げて広がり、「人種差別に沈黙するのは『共犯だ』と多くの白人の抗議者が言う」(注1)と話題になっています。これだけの世界的デモになったのも、アフリカ系アメリカ人が白人警官に殺される現場(2020年5月25日、ミネアポリス)の映像が拡散したことから人種差別の残虐性に人々、特に人種を超えた若い世代が気づき、人種差別反対の輪が広がったようです。撮影したのは、殺害現場の証人となった17歳の女性で、逃げ出したいほどの残虐性に耐えて撮影し、それをSNSに載せたから、17世紀から続く黒人差別に人々を覚醒させ、「なかった」と否定できない証拠にしたのです(注2)。この人種差別反対デモはアメリカでは南北戦争と奴隷制度まで遡り、小説と映画『風とともに去りぬ』も批判され、イギリスでは帝国主義時代に遡って、奴隷制度で大富豪になった人物の銅像を破壊し、チャーチルも人種差別者だったと批判され始めています(注3)。不思議なのは日本でも帝国主義時代から続く人種差別問題があり、最近は「嫌韓、嫌中」という語ができるほど、韓国・中国・在日の人々に対する差別が広まっており、アイヌの人々や沖縄に対する差別も根強くある国なのに、黒人への差別に抗議する小規模なデモしかなかったようです(注4)

日本軍による残虐行為

 1937年クリスマス・イヴのNYタイムズに「南京虐殺」の詳細が報道されましたが(6-7-4-12参照)、日本国内では新聞報道はもちろん、これらの海外の新聞・雑誌も「内務省警保局が発禁処分にしたり削除などして、日本国民にはいっさい知らせないようにして」いました((注5), p.22)。1937年12月24日のNYタイムズに掲載されたのはアメリカ人ミッショナリーからの報告でしたが、同時期に「南京安全区国際委員会」委員長をしていたドイツ人のジョン・ラーベが1937年12月13日から南京を去る1938年2月23日までの出来事を克明に記録していました。この日記は第1級の資料だとされています((注6), p.371)。残虐な殺人が日本軍によって行われたことは、元日本兵の証言と中国内で行われた軍事裁判の記録とも重なります。80年以上経った現在でも、南京事件/虐殺はなかったと公言する政治家や著名人が後を絶たないので、まず当時の日本の同盟国の証言者が何を報告しているか知る必要があると思います。目を覆いたくなる内容ですが、目を覆ったら「なかった」という人々と共犯になります。

南京のシンドラー、ジョン・ラーベ

 ジョン・ラーベ(John Rabe: 1882-1950)は1908年から中国でビジネスマンとして暮らし、1931年からジーメンス社の南京支社長として1938年2月23日にベルリン本社に呼び戻されるまで日本軍が南京で何をしたかを克明に日記に記録しました。南京在住の外国人による「国際委員会」が1937年11月22日に市民のために中立区域設定を決め、ラーベは「南京安全区国際委員会」の委員長に選ばれ、南京を去るまで中国人難民を日本軍から守るために奔走します。ラーベはドイツに帰国後、この「日記を清書し、資料とあわせて八百ページからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名づけた」((注6), p.19)そうですが、日の目を見たのは1995年にラーベの孫が駐中国大使だった歴史学者のヴィッケルトに連絡したからといいます(pp.379-380)。 2009年には映画『ジョン・ラーベ〜南京のシンドラー』(独・仏・中国合作)ができましたが、日本では配給会社がつかず、市民による自主上映会以外は未公開で、現在の日本の恐ろしさを表しているようです。救いは日本側の出演者が「香川照之、井浦新(ARATA)、柄本明、杉本哲太」などの演技派の人気俳優であることです。その他アメリカ人俳優、ドイツ人俳優も人気演技派俳優たちだそうです。ドイツ人監督は海外で評判になったこの映画が肝心の日本で上映されないことについて、「日本とドイツでは歴史的責任や罪に対する姿勢に異なる部分があると考える」「日本の文化の中では、過ちや失敗に向き合い、前向きに議論することが難しいように感じる」と述べています(注7)。これでは、罪の意識も持たずに、同じ過ちを繰り返す国にならないでしょうか。

戦争犯罪をなかったことにする日本と追求し続けるドイツ

 この点で、ナチの残虐行為を追求したドイツ映画『コリーニ事件』(2019)は2020年6月〜7月に大手の映画館で上映されているのが対照的です。自国の残虐行為を追求した映画は上映させない(現実には配給会社の自粛)が、ドイツの映画は問題ないという日本の対応にも、過去の過ちを繰り返す国なのかと危機感を持ちます。『コリーニ事件』の原作について、『ガーディアン』紙が「ドイツの一流作家が新作で自分の祖父のナチの過去と対峙」(2011年9月7日、(注8))という記事で紹介しているので、抄訳します。
フェルディナンド・フォン・シーラッハ(Ferdinand von Shirach: 1964-)がその名高い苗字にもかかわらず、ドイツのトップの作家になったというのは公平な見方だろう。彼の祖父、バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur von Shirach: 1907-1974)はヒトラーユーゲントを指揮したナチ党員で、後にニュールンベルグ裁判で人道に対する罪で禁固20年の判決を受けた。(中略)2年前にフォン・シーラッハ・ジュニアがドイツのベストセラー・リストを独占し始めて、弁護士から作家に転じた47歳の彼は最新作で自分の祖父を基にしたキャラクターを含めることによって、自分の祖先と対峙することにした。彼はインタビューの中でこう言っている。「私のような名前と共に育ったら、遅くとも15歳か16歳には、いくつかの基本的な疑問を自分に問いかけ、生き続けられるような非常に基本的な答えを見つけなければなりません。それは自分の責任です」。 フォン・シーラッハの最新作『コリーニ事件』は、ファブリツィオ・コリーニというイタリア人の殺人者を弁護することになった若い弁護士カスパー・ライネンがなぜコリーニがドイツ人ハンス・マイヤーを殺したのかを探るミステリーだ。[調査の中で]被害者のマイヤーがカスパーの子供時代の恩人で父親のような存在だったことがわかる。カスパーは葛藤するがこの訴訟事件を引き受け、調査の結果、マイヤーが第二次大戦中にイタリアのパルチザンを射殺したことを発見する。この小説はドイツが過去とどう向き合うかの過程を描く。同時にホロコーストの後に生まれた世代が感じる罪の意識にも向き合う。 フォン・シーラッハは『シュピーゲル』誌に今週寄稿し、自分の祖父が何者だったか知った日のことを書いている。「私が12歳の時、歴史教科書に祖父の写真が掲載されていて、『バルドゥール・フォン・シーラッハ、ヒトラーユーゲントの指導者』と書いてありました」。彼は教養もあり、博識の祖父がなぜヒトラーと会ったあと、18歳でナチ党に入党したか理解できなかった。その後、ホロコーストがいかに始まったのか理解しようとして、ニュールンベルグ裁判記録を読み、彼の祖父がいかにウィーン中央駅から数千人のユダヤ人の追放を組織したかについて読んだ。
 映画の中で、カスパーが黙秘を続ける殺人者コリーニの殺人動機を探るうちに、ドイツ刑法の共犯規定に行き当たります。上司が殺人命令を下し、部下が「個人的な動機なしに『命令だから』と実行した」場合、旧刑法では上司と同様部下にも終身刑が科されていましたが、1968年の法改正で共犯者は減刑になりました。これに伴い、「大量のナチ犯罪の公訴時効が『1960年に成立していた』ことになってしまった」のです。そして、「『親衛隊大隊指導者』という重要な役職にあったハンス・マイヤーが、裁判にすらかけられない」(注9)ということになりました。大戦中にマイヤーに父親を目の前で殺されたコリーニが、法が裁いてくれないなら自分の手でと、マイヤーを探し出して殺し、動機について沈黙する中で、カスパーが法律の欠陥に気づき暴きます。この小説が指摘したことが「ドイツ国家を揺るがし、2012年1月には、ドイツ連邦法務省が『過去再検討委員会』を設置する」ことになったそうです[ref]壬生智裕「『コリーニ事件』が突いたドイツ司法の問題点」『東洋経済ONLINE』2020/05/21. 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-12)

1937年クリスマス・イヴの『ニューヨーク・タイムズ』に南京事件/虐殺の詳細が掲載されました。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道11日目:1937年12月23日続き(注1)

    「斎藤[駐米大使]の娘たちがラジオで平和を訴えた」:ワシントン発、12月22日(p.12) 「ドイツとイタリアは最近の外国人に対する攻撃[パナイ号・レディーバード号事件]で日本を鼓舞したことを否定」:ベルリン発、12月22日(p.12) 「パナイ号司令官が報告書を送った—ルーズベルトに提出されたが、合衆国は海軍審査会の報告を基に決める」:ワシントン発、12月22日(p.12) 「侵略者[日本]は16マイル先」:上海発、12月23日(p.12)
 日本は南中国の広東を攻撃するために部隊を集結させており、現地の避難民が膨大な規模で増えている。数千人が西の内陸地と東の香港に向かって逃げた。英国のクルーザー、ケープタウン号が48人の英国民、ほとんどが女性と子ども、を乗せて揚子江を香港に向けて航行中。国際急行が今日漢口を出発する予定で、324人の避難民、多くがアメリカ人を乗せて香港に向かい、クリスマスに到着予定。  寒さが上海の避難民の死亡率を極端に増加させ、この2週間の死亡者は1日平均443人で、そのうちの371人が子どもだった。過去3カ月で上海では4万人の避難民が死んだ(訳者強調)と報告されている。
    「3隻の合衆国船が青島に」:青島発、12月23日(p.12)
 予想されている日本の攻撃から青島を守る準備を中国軍がしているので、3隻の合衆国戦艦がアメリカ人を避難させるために待機している。中国軍が日本の綿織工場を破壊した報復に日本がどんなことをするかまだ示されていないが、報復の恐怖は続いている。 アメリカ領事館は300人のアメリカ人居住者に避難を助言し、多くはアメリカ戦艦にすでに乗船している。中国市民の大量避難は続いている。
    「日本は補償を要求、虐殺の追悼碑」:東京発、12月23日(p.12)
 北平からの報道によると、通州(Tungchow)での虐殺に対し、日本は120万円の補償と公式謝罪、追悼碑の建設を要求するだろう。虐殺は7月29日に起こった。日本と日本陸軍が設立した東河北政府の部隊が反乱を起こし、220人の日本人とコリアンを虐殺した。理由は北中国の戦闘が始まった時に反乱を起こした部隊の幾つかが全滅させられたことに対する報復だ。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道12日目:1937年12月24日(注2)

    「海軍委員会の報告書が我々の日本からの補償の要求を強めた—パナイ号事件のすべてのデータが揃った—政府高官は映画がストーリーのようなら世間の怒りを買うと恐れている—東京の陸軍報告書—陸軍指導者たちは攻撃を川の偵察の小部隊の混乱のせいにする」(pp.1, 6)
 政府高官はパナイ号事件のニュース映画がワシントンに月曜[12月27日]に到着し次第、視聴する。この映画はそのすぐ後に劇場で公開されることになっている。政府高官はもしこの映画が証人たちが述べたことを映像で明らかにしていたら、民心が煽動させられるのではと心配している。 今日、「戦争心理」(原文強調)に対する警告がアイダホ州選出のウイリアム・E.ボーラ上院議員によって発せられた。声明の中で彼は合衆国は中国から撤退すべきではないが、中国にいることでこの国が日本との戦争に巻き込まれるとは信じていないと述べた。「ここ母国でも外国でも、ある人々が戦争感情、戦争心理を起こすために膨大な量の努力をしているが、それは非難されるべきだ。合衆国は守るべき独自の権益と名誉がある。しかし、もしアメリカが他国の権益に巻き込まれずにこの課題に専念することが許されるなら、私の意見は戦争をせずに両方とも守ることだ。 大統領は10月5日のシカゴのスピーチで、『平和政策を遂行し、戦争に巻き込まれないようあらゆる現実的な方法を採ることを決意している』と言った。大統領はまさにこれをしようとしていると私は疑わない。もし私がこう考えなければ、そう言うことを躊躇すべきではない。国民を戦争にぶち込むのに大した勇気も政治的手腕も必要としないが、戦争好きの猟犬(war hounds)が獣道を見つけた時に国民を戦争から守るためには時にはものすごい勇気と大きな政治的手腕を必要とする。 私は我々が中国から出ていくべきだとも、東洋を去るべきだとも思わないが、そうしないからといって、我々が日本と戦争をするとも思わない」と述べた。
    「ハルは厳しい態度を維持」:ワシントン発、12月23日(pp.1, 6) 「パナイ号に関する日本陸軍の報告書—陸軍と海軍将校が東京でグルーと彼の側近に揚子江上の出来事を話した—混乱が強調される—攻撃部隊は攻撃の最中に部隊の本部と連絡したと報告」:ヒュー・バイアス、東京発、12月23日(p.6)
 今夜アメリカ大使館における3時間の会議で、日本陸軍と海軍の代表者たちは12月12日の合衆国戦艦パナイ号攻撃に関与した陸上・航空部隊の動きを詳細に語った。合衆国を代表したのはジョセフ・C.グルー、参事官のユージン・H.ドゥーマン[訳者強調]、海軍と海軍航空武官のハロルド・M.ベムルズ大佐、陸軍武官補佐官のハリー・I.グレズウェル大佐だ。日本のスポークスマンは海軍副大臣の山本五十六[訳者強調]、中国の長谷川清司令官のスタッフである高田少佐と西義章中佐だ。西中佐は元ワシントン武官だった。彼は大本営から中国での事実調査を命じられ、昨夜中国から戻ったばかりだ。日本側は当日の上陸部隊の全行動を説明できると考え、全説明は出席したアメリカ側の専門家によって精査された。 日本の意図は、戦闘と混乱の日に計画していない予期せぬ一連の出来事が起こったと彼らには見えると説明することだった。西中佐が指摘したのは、日本軍の小部隊が本部と離れて蕪湖から南京に進み、その間中、逃走する中国軍を探していた時に起こったことだ。この部隊は歩兵中隊で、ランチで川を下り、ジャンクに負傷者を乗せていた。そして蒸気船の一群を見つけ、兵士たちは中国軍だと思った。彼らは攻撃を恐れていたので、日本の飛行機が現れて喜んだ。後に蒸気船がアメリカ船だとわかったら、援助を申し出た。

「陸軍は責任を免れたと感じている」

 陸軍のスピーカーは、一つの出来事が次の出来事を引き起こし、一連の事故によって惨事が起こったのであって、意図的な悪意で起こされたのではないと示して、詳細な絵を作り上げることによって、日本人兵士の責任が免除されたと感じた。海軍のスピーカーは単純に罪を認めた。海軍は三竝貞三少将の召喚が海軍の過ちを認めたことの十分な証だと信じているので、さらなる声明は発表しない。 西中佐はアメリカ大使館に行く前に外国人記者にほぼ同じ声明を発表した。[この後、西中佐が話したパナイ号事件の詳細が非常に長く伝えられています]
    「英国は日本の事件に関して合衆国を待ち続ける—ワシントンが共に行動するのでなければ、今東京に挑戦するためには何もしない」:ロンドン発、12月23日(p.6) 「タイラーは強い軍隊を要望」:AP通信,ワシントン発、12月23日(p.6)
 合衆国が戦争を「恐れていない」(原文強調)ことを外国に示すために、より強い海軍・陸軍への要求がコロラド州のエドワード・T.タイラー下院議員が今日発表した。彼は多くのアメリカ人、特に西部の人々はこの国が日本の「無礼な対応」(原文強調)に対し「無気力に」(原文強調)屈従すべきではないと信じている。タイラー氏は記者団に次のように述べた。 「世界中で8月以来状況が非常に変わったので、我が国が世界に対して、準備ができている、戦争を求めはしないが、恐れもしないと示しても正当化されると感じる」。
    「[我が国の]旗に対する侮辱が報告された」:AP通信,上海発、12月24日(p.6)
 上海で受け取った報告によると、南京から揚子江を60マイル上がった所の蕪湖でジェネラル・ホスピタルを運営しているアメリカのミッショナリーの船を日本兵が拿捕し、[アメリカ国]旗を引き摺り下ろして、川に投げ捨てたという。病院スタッフが旗を救い出し、蕪湖の日本司令官に知らせると、彼は遺憾の意を表明したと報告された。合衆国総領事クラレンス・E.ガウスは上海の日本当局に強く抗議した。 日本部隊が蕪湖市を占領した時に広範囲の無秩序が続いた(訳者強調)と報告されている。上海の日本当局は今日、蕪湖攻略のために実際に矢面に立って戦った部隊と交代する新たな陸軍部隊を蕪湖に送ったと言った。秩序は回復されたと自信を表明した。
    「日本の後継者は4歳」:AP通信, 東京発、12月23日(p.6)
 日本の皇位継承者、明仁皇太子は今日4回目の誕生日をパーティで姉たち、照宮成子内親王(Princess Shigeko Teru: 1925-1961)と孝宮和子内親王(Princess Takako Kazu: 1929-1989)と祝った。しかし、中国での戦争のため、通常の誕生晩餐会は省略された。 訳者注:英語名が”Takako Kazu”となっていますが、孝宮和子内親王だと推測しました。
    「中国が被った損失$750,000,000—他の傷害以外の物理的資産の損害の推定—河北省がひどい打撃—河北の破壊は上海に匹敵—北平はほぼ無傷」:AP, 上海発、12月23日(p.6) 「ドイツは東洋で中立を保つ—日本の行動に対する責任を否認し、紛争の早期終結を望む—ドイツ自身の権益に損害—しかしドイツを中国から追い出した列強には同情なし」:ベルリン発、12月23日(p.6) 「日本の大佐は懲戒されず—パナイ号が沈没した時の揚子江地域司令官、橋本はまだ戦場に—杭州進撃—2都市の外国人は脱出するよう警告—南京の恐怖詳細」:ハレット・アベンド、上海発、12月24日(p.7)

「恐怖が南京を支配する」

 南京占領後の日本兵の規律のほぼ完全な崩壊に関するさらなる確定的証言の詳細が今日上海に着いた手紙集で明らかにされた。中国の見捨てられた首都に残っているアメリカ人ミッショナリーからである。規律の崩壊がもたらしたのは、市民の大規模な虐殺、投降した中国兵の処刑、中国人女性への暴行と殺人、外国人のものを含めた財産の組織だった破壊と略奪などだ(訳者強調)。 手紙の何通かはアメリカ人の書き手が日本軍による傍受や報復を恐れているように、慎重に選んだ言葉や文章で南京を支配していた恐怖について用心深く書かれていた。その他の書き手は用心をかなぐり捨てて、「日本陸軍は南京の中国人と外国人の尊敬を勝ち取る絶好の機会を投げ捨てた」とはっきりと書いた。 ある著名なミッショナリーは次のように述べた。「この地域の中国当局の恥ずべき崩壊によって、膨大な数の人々は日本が自慢していた秩序と組織を受け入れる準備ができていた。この見通し全体が頻繁に行われる殺人、大量の略奪と個人の家を無制御に侵入すること、そして女性の安全に対するおぞましい犯罪などで台無しにされた」。

「市民が銃剣で突き殺された」

 この書き手は付け加えて、多数の市民の死体は射撃され、銃剣で突き殺された犠牲者で、多くの場合、外国人と著名中国人が証人として見ていた(訳者強調)と言う。武器と制服を投降した中国の分隊は一緒に縛られて処刑されたと、1人が報告している。その手紙はこう書く。「今までのところ、明らかに処刑に向かう分隊の中国兵以外、日本軍には中国人捕虜の形跡はない」。 略奪のために日本軍に徴用された中国人は後に射殺された(訳者強調)という。アメリカ人ミッショナリーが続ける。(中略:略奪の内容と手法)

「国旗が引きちぎられた」

同じアメリカ人が書いている。南京中の外国人の自動車やその他の資産は国旗を引きちぎった後、強奪された。日本人将校と兵卒による少女と女性の拉致は至る所であった。この報告者は以下のコメントで締めくくっている。「このような状況の中で、恐怖は筆舌に尽くしがたい。物腰の柔らかい日本人将校たちが自分たちの『唯一の目的は中国人民のために抑圧的な中国政府と戦争をすることだ』と訓示を垂れるのは吐き気がする。責任ある日本の政治家、軍人、市民で、国家の権益のために、ここ数日で中国における日本の地位を傷つけたことをすぐに、そして適切に挽回する人が現れなければならない。日本の将校と兵士の中には、彼らの職業と日本帝国の名に恥じない紳士らしい振る舞いの人もいるが、全体は悲しむべき打撃だ」。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-11)

1937年12月22〜23日の『ニューヨーク・タイムズ』は日本で反戦・反ファシズムの運動をしていた著名人を含む多数の人々を「平和の妨害者」と呼んで逮捕したと、戦争推進の日本政府・日本軍の矛盾を皮肉る記事を掲載しています。映画界に入った頃の斎藤雷太郎(1903-1997)、週刊新聞『土曜日』(1936-37)の発行人として反戦・反ファシズム運動に貢献。(写真提供:斎藤嘉夫)『キネマ/新聞/カフェー――大部屋俳優 斎藤雷太郎と『土曜日』の時代』(中村勝著、井上史編、図書出版ヘウレーカ、2019年)。1936年に刊行され翌年の秋に弾圧によって休刊に追い込まれた『土曜日』という週刊新聞とその時代を、発行人である斎藤雷太郎への聞き書きによって描き出したノンフィクション。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道10日目:1937年12月22日続き(注1)

    「青島のアメリカ人に警告」:AP通信, 青島発、12月22日(p.15)
 日本の綿織工場を中国が破壊したことから、緊張感が高まり、ワシントンからの指示で合衆国領事館が300人のアメリカ人に避難するよう助言した。すでに多くのアメリカ人が町を出た。綿織工場は$87,000,000だと日本側が言った。
    「370人が平和主義者、アカとして日本で逮捕された—全国一斉検挙で国会議員と左派グループのリーダーが逮捕—労働組合が解散—グループは平和の妨害者と呼ばれる—『共産主義に基づく革命』を計画と見られる」:東京発、12月22日(p.16)
 全国一斉の手入れで労働組合の370人が逮捕されたという発表の後、日本無産党、日本労働組合全国評議会、全国農民組合が今日解散させられた。 先週水曜日[12月15日]の手入れで逮捕された者の中に社会党国会議員[衆議院]で、日本労働組合全国評議会議長、日本無産党委員長の加藤勘十(1892-1978)がいる。彼は中国の前線への旅から戻ったばかりだった。そこでは日本軍部隊に党からの挨拶を伝えた。[原文注:加藤氏は1935年に合衆国を旅したが、入国許可を国務省から得るのに苦労した。この旅行中、日本の労働者のほとんどは日本の中国に対する政策に賛同していないと言った。去年2月の衆議院選挙では彼のグループは大幅な得票数を得た]。
    「平和の妨害で告発」:AP通信, 東京発、12月22日(p.16)
 労働組合の今日の解散は内務省の発表によると、彼らは平和の妨害者という理由で解散命令が出されたという。国会議員の逮捕に加え、4人の元大学教員も逮捕された。元早稲田大学[講師]の猪俣津南雄(1889-1942)、荒畑寒村(1887-1981)、元東京大学[助教授]の大森義太郎[ローマ字ではGitaroとされていますが、正しくはYoshitaro: 1898-1940]、九州帝国大学教授の向坂逸郎(Itsuro Sakisaka: 1897-1985)、東京無産党の鈴木茂三郎(Mosaburo: 1893-1970)、著名な作家、中西伊之助(1887-1958)である。 逮捕の後、警察は彼らの組織の本部を手入れし、多数の急進的文書、世界中の左派運動の進展に関する文書やニュースを没収した。これらのニュースは合衆国の共産党が日本に送ったものだと警察は宣言した。文書は4点の呼びかけをしていたと言われる。
    ファシズムと戦争に反対 世界的な社会民主主義運動への協力 個々の国の特有の状況に合わせた個別のキャンペーンに対する指示 そのキャンペーンを培うために可能な限りいつでも法的方法を採用
 最後の点について、プロレタリア・グループは中国作戦で前線に召集された男たちに通常の労働賃金を与えよと要求していると警察が言った。「彼らの運動の主要点は共産主義に基づいた一般革命にもっていこうとする点だ。支那事変[1937年の盧溝橋事件から]勃発以降、彼らはあらゆる機会を捉えて、日本全国で反戦プロパガンダを繰り広げている」と声明は言っている。 訳者解説:「中国作戦で前線に召集された男たちに通常の労働賃金を与えよ」という要求に関して調べてみました。日中戦争に召集された兵士の1942年当時の不満の筆頭が「兵隊はわずか十円程度の給料なのに、将校は少尉でも百三十円ももらっている。兵隊の戦時手当を引き上げてほしい」((注2), p.192)という要求でした。比較として、1932(昭和7)年時点で、専門高卒初任給が30円、大卒初任給が50円((注3), p.237)、1934年当時の若い男性の事務職月収が40円〜60円((注3), p.143)とされています。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道11日目:1937年12月23日(注4)

    「日本は陸軍が意図的にパナイ号を砲撃したことを否定;英国は香港で警戒—ロンドンは[さらなる]事件を恐れて警戒;日本は香港空爆を警告—[英国]内閣は極東における英国艦隊の強化を今はしないが、部隊の交代を早めている」:フェルディナンド・クーン・Jr.、ロンドン発、12月22日(pp.1, 12) 「砲撃の説明—東京は合衆国船の近くの中国船が攻撃されたと主張—友好関係が強調される—アメリカ人負傷者を救助中の日本人2人が砲撃で殺されたと報告書は言う」(p.1) 「日本は杭州に侵攻—装甲車が市の16マイル先まで来たので陥落は間近—青島は戦う準備」:ハレット・アベンド、上海発、12月23日(pp.1, 12) 「日本政府に逮捕された石本静枝男爵夫人」:AP通信、東京発、12月22日(p.12, 石本静枝の等身大の写真掲載)
 最近の手入れで370人の扇動容疑で逮捕された中に知られる限り女性が2人いた。合衆国で広く知られている石本静枝男爵夫人[後の加藤シヅエ:1897-2001]と、作家の平林たい子(1905-1972)だ。男爵夫人は女性貴族の学校[女子学習院中等科]卒業で、日本女性百科事典の監修者である。 多くの日本人は、この逮捕の発表は日本の緊張した国際関係から国民の注意をそらすためだと信じている。普通はこのような運動は何ヶ月も秘密にされると言われている。 訳者解説:12月22日に報道された12月15日の全国一斉の手入れで370人が逮捕された事件は第一次人民戦線事件として知られていますが、「反戦・反ファシズム」を訴えて逮捕される事件は11月から始まっていたそうです。共産主義者ではない文化人で「反戦・反ファシズム」と「理性の擁護」をモットーに合法的な文化雑誌『世界文化』を出していた同人たちが特高による治安維持法の拡大解釈で1937年11月8日から逮捕され始めました。論文「反ファシズムの烽火—『世界文化』と『土曜日』—」(2019)は、76年後の安倍政権による特定秘密保護法と関連づけて、安倍政権下の私たちには1937年の事件を「『歴史』として眺める余裕はなくなりつつある」((注5), p.198)と述べています。

「平和・反戦」が危険視された/る1930年年代の日本と安倍政権下の日本

 1937年のNYタイムズを読みながら、安倍政権下の今の日本と似ていると危機感を持ちましたが、この感覚が多くの人に共有されていることを知りました。上記の論文で紹介された1936〜37年の『土曜日』という週刊新聞に関する本『キネマ/新聞/カフェー 大部屋俳優・斎藤雷太郎と『土曜日』の時代』(2019,(注6))の論評(『週刊金曜日』、2020/7/3、(注7))でも次のように書かれています。「1925年の治安維持法の施行から38年の国家総動員法の施行に至るまでの期間は、特定秘密保護法、安全保障関連法、「共謀罪」法などが矢継ぎ早に成立した今の時代と重なります」((注7), p.27)。 この本で、和田洋一同志社大学名誉教授の1920〜30年代の日本についての回想が紹介されています((注7), p.171)。
昭和四年(一九二九)の秋ですが、「平和」という言葉をもう人まえで言えなくなったことにふと気がつきました。満州事変がはじまったころ、昭和六年(一九三一)にはもう「戦争反対」など、危なっかしくてとても口に出せない空気になっていました。昭和八年(一九三三)になると<この年、京大滝川事件>思想の自由や学問の自由をさけんだだけで、「危険思想だ」「アカだ」とみなされ、留置場にほうりこまれそうになってしまっていました。空気というのはまことに恐ろしいもので、沈黙が唯一の保身の術となりました。その次には、沈黙していてもいけない。「天皇陛下万歳!」をさけび、日の丸の旗をふって愛国の歌をうたわねばならないというふうに変わっていくのです・・・・・・。 1936年に京都で発行された週刊新聞『土曜日』は、「敗戦後、研究者らから『日本における反ファシズム文化運動の記念碑的な出版物』」((注6), p.1)と高く評価されたそうです。発行人が小学校四年で中退した「大部屋俳優」の斎藤雷太郎(1903-1997)というのもユニークですし、喫茶店に置いてもらうことに販路を求めたのもユニークです。その結果、『土曜日』の発行日を目当てに喫茶店に来る学生たちも増えたそうです。そんな喫茶店の一つ、「仏蘭西風喫茶」フランソアの客層は「三高や京大、同志社の学生が中心」、「日曜日になると、十六師団(伏見区)の兵隊さんが五、六人、きまってやってきて『土曜日』を読んでいる。『まだ“土曜日”は出てないか』といってやってくるようになった」(p.188)という人気の理由が紹介されています(p.188)。▽準戦時=増税の不平を云わせぬまじないのこと▽不可侵条約=チョイチョイ戦争をすること▽確かな筋=ファッショのこと▽陥落入城=陥落は大臣達が砲火を避けること、入城は市外にいること—など時勢を皮肉った「新編濫用語辞典」と題したコラムがあったり、あるいは「無理をするな」という見出しで—満州で防寒具をつけた、まだ改良されない兵隊さんは背が低いので、改良された馬に乗るのに骨が折れた—というような記事が出ている。 そんな新聞を軍人が待ちこがれて休日に町に出て読んでいたというのである。 また、別の席では、学生たちがクスクス笑って『土曜日』を読んでおり、いつ果てるともしれないディスカッションをしている別のグループもあった。

1937年の言論弾圧と安倍政権の言論弾圧

 こんな『土曜日』の発行人・斎藤雷太郎が1937年11月8日に特高に連行され、1938年春に執行猶予で釈放されました(pp. 18, 193)。『土曜日』弾圧の理由を警察に尋ねると、「一部ずつ見ておれば大したことないが、続けて見ていると、反社会性の精神が流れているのがはっきりする、それが読者に大きな影響を与えるので、問題になるのだとの答えだった」(p.191)そうです。1929年頃から「平和」という言葉が使えなくなったこと、1931年には「戦争反対」と言えなくなり、1933年には「思想・学問の自由」を主張すると検挙される時代と、安倍政権時代の現在を比較してみます。 安倍政権時代の言論弾圧がはっきり表れているのが、「報道の自由度」ランキングです。安倍首相が頻繁に「悪夢のような民主党政権」(注8)と公言する民主党政権が発足した2009年9月から2012年11月までと、その前後の「報道の自由度」ランキングがいい指標になります。興味深いのは「報道の自由度ランキング」調査が開始された2002年からのランキングで、民主党政権前に最低だったのは、第一次安倍政権(2006年9月〜2007年8月)で51位、その後福田政権から徐々に改善し、民主党政権で急激にランキングが上がり、2009年17位、2010年11位、2011年22位、2012年は原発事故の影響か53位に急激に悪化し、次の安倍政権下では下降が加速し、2013年53位、2014年59位、2015年61位、2016年72位(注9)、2017年72位(G7最下位、(注10))、2018年2019年ともに67位(注11)、2020年66位(注12)となっています。 国連が安倍政権による言論弾圧と萎縮/自粛する日本メディアに危機感を持ち、厳しい報道規制のトルコ・タジキスタン・日本に国連特別報告者デービッド・ケイ氏(カリフォルニア大学アーバイン校国際人権法教授)を2016年4月に派遣しました。その暫定報告書で、「日本では報道の独立性は重大な脅威に直面している」、政府による圧力が「メディアの自己検閲を生み出している」と断じて、安倍政権は「メディア規制から手を引くべき」と提言し、特定秘密保護法(2013/12強行採決、2014/12施行)に懸念を示しました。日本政府と放送法の担当である高市早苗総務大臣は国連特別報告者の公式訪問に難色を示し、日程引き延ばしを画策しました。ケイ氏は安倍政権の圧力でテレビを降板させられたニュースキャスターやコメンテーターについて言及し、NHKと安倍政権の関係から「放送局が独立性を欠いているように見える」と述べ、籾井勝人会長(当時)の発言(政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない)も報告書に記したそうです(注13)。 2020年のコロナウィルス禍に乗じて、安倍政権が数々の問題を起こしていますが、「報道の自由度ランキング」を発表している「国境なき記者団」は4月8日に、「新型コロナウィルス特措法」に基づく「緊急事態宣言」によってNHKが政府の指示を受けることは「編集権の独立性が侵害される」として、NHKを「指定公共機関」から外すよう勧告しました。その背景には厚労省のツイッターがコロナウィルスに関し不正確な情報を流したり、テレビ朝日の番組を攻撃したりしたことがあり、「公衆衛生上の危機に直面した時こそ、当局による対策や感染拡大の防止策に関する独立した情報が不可欠だ」と指摘しました(注14)。 その他の安倍政権による弾圧は憲法9条擁護の市民運動に向けられます。安倍政権に萎縮/忖度するのはメディアだけでなく、自治体や国会議事堂職員までが戦争反対/平和憲法擁護の市民を弾圧します。例えば、平和を国是とする憲法9条を考える/語る講演会に自治体が会場を貸さない、後援しない動きが激しくなり(2014年、[ref]「憲法集会 市が後援断る 神戸や長野・千曲引き受けてきたのに 『安倍改憲』に呼応か 『尊重擁護義務を放棄』の声」『しんぶん赤旗』2014年3月7日 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-07/2014030715_01_1.html*たどころあきひろ「神戸市が憲法集会の後援を拒否—非核神戸方式への影響懸念も」『週刊金曜日オンライン』2014年3月25日http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2014/03/25/神戸市が憲法集会の後援を拒否――非核神戸方式/*「社説【自治体の護憲後援】過剰な自粛は筋違いだ」『沖縄タイムス』2014年5月6日https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/39435*「集会の後援申請を自治体が不承認に 『政治的中立』をどう考えるべきか」THE PAGE, 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-10)

1937年12月21日の『ニューヨーク・タイムズ』社説が日本の将来を予想しています。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道9日目:1937年12月21日続き(注1)

    「アメリカ人が中国で逃避中に立ち往生—女性と子どもたちが漢口から逃避中に揚子江上の防材で引き返す—日本は攻撃続行—ロンドンは新首都に安全地帯を求める—香港は不安」:AP通信、上海発、12月21日(p.19,「中国からのクリスマス・カードでサンタが戦闘地帯上空を翔んでいる」というキャプションのクリスマス・カード掲載)
    「合衆国軍は中国に留まるとハルが言った—現在の緊急事態では軍を撤退させないと上院議員に伝えた」:ワシントン発、12月20日(pp.1, 19)
 スマザース上院議員がコーデル・ハル国務長官に、中日紛争地帯から合衆国の船と国民を撤退させるべきだと主張する書簡を出し、ハル長官が返答した[12月18日付書簡全部を掲載]。
 現在の特殊な状況下で自国民の生命と財産を守る方法を主要列国は中国政府の承認のもとに作成し採用している。例えば、現在でも治外法権の管轄区があり、それに付随するものがある。アメリカ国民もその他の国の国民も数世代前に中国に行って、様々な職業その他の活動で暮らしてきて[訳者強調]、中国の状況の中で特権もあれば、不利益な面もある。アメリカ政府は他の国の政府と共に、様々な権利を受け、結果として様々な義務も負っている。現在のような状況が続く中で、彼らは突然この地を捨てることも、過去と切り離されることもできないし、アメリカ政府も義務と責任を捨てることはできない[訳者強調]。 アメリカ海軍の船と上陸部隊の小規模な分遣隊は、アメリカ国民の生命・財産・活動が影響を受けるような、特に地域的混乱や認定されていない暴力[訳者強調]から彼らを守り、秩序と安全を維持するために中国に駐留している。これらの船と部隊はどんな意味でも攻撃の任務に当たったことはない。アメリカ政府の長い間の希望と予想は、彼らの適切な機能が必要なくなったら、撤退させることだった。2,3ヶ月前に我々は撤退に好都合な時が近づいたと思った[訳者強調]。しかしながら、今はその撤退を実行する時ではない。
    「斎藤[駐米大使]の話が批判された—コナリーは斎藤のラジオ談話は政府から承認を得るべきだったと言った」(p.19)
    「日本の団体がパナイ号『救済』基金を支援」:東京発、12月20日(p.20)
 日本ではパナイ号事件で国民のアメリカへのお悔やみの表明が続いている。Y.M.C.A.、Y.W.C.A.、ミッション・スクール、大学、親善団体など、アメリカの支援を受けてきた東京の20団体がルーズベルト大統領にお悔やみの手紙を書くことと、救済基金の募金をすることを昨日決めた。(中略)人々のこの気持ちがあることが、当局が詳細を隠す理由だ。もし知られたら、国民の信頼を失うだろう。
    「日本が南京を攻撃する光景」[写真2枚掲載:燃える南京の町からボートで離れる日本軍、南京のアメリカ大使館の敷地内地面に空爆を避けるためにアメリカ国旗を置く人物]
    社説「中国における日本」(p.22)
 昨日、上海から『タイムズ』へ送られた記事は疑いようのない情報源に基づいたもので、パナイ号事件に重要な新たな光を投げかけた。この記事の概要は、アメリカの砲艦に機関銃で攻撃したのは、昨年東京で起こった陸軍の反乱で主導的役割を果たした大佐が下した命令によって行われたこと、その彼の懲戒処分の問題をめぐって日本の最高司令部の中で恐ろしい闘いがあったことだ。我が社の上海外電によると、外国が「日本陸軍の首脳たちはもはや信頼できない」という結論を出しはしないかと、「保守的な日本陸軍グループだけでなく、政府全体に不安が急速に高まっている」[訳者強調]という。

日本が中国で追及するのは利益を生むマーケットではないのか?

 これを信じる理由はいくつかある。少なくとも陸軍の作戦が中国で始まって以来、日本のあらゆる派閥が戦争感情で一致団結して以来、中国で何を追求するのかの適切な政策に関して、国民の意見と陸軍の意見の間に深い溝が広がった。日本が中国で何を必要とするかは何よりも日本製品にとって利益を生むマーケットだという事実を理解して、先見の明のある東京の文民リーダーたちは昨夏、賽が投げられる前は、和解政策を支持し、中国の親善を意図的に培おうとした。彼らのアドバイスは破棄され、日本の中国政策は実際は陸軍によって決められたことはその後の出来事の経緯から明らかである。 しかし、今上海からのニュースで現れているのは、陸軍自体の内部で長い間潜在していた闘争—伝統的な保守系の意見と昨年クーデター未遂事件を企んだ、いわゆる青年将校派閥の意見との分断—が中国を侵略した陸軍の規律に影響を与え始めていることだ。この場合、90万人もの部隊で青島、漢口、広東という広範囲を目的にした大規模な作戦が、揚子江で起きたような事件に似た事件が起きることに繋がることを恐れる理由は、なおさら今以上にある。

日本の中国政策の3つのリスク

 日本が現在追求している政策には、散在する中国軍部隊との遭遇という問題とは全く別に、日本にとって疑いないリスクが3点ある。最初のリスクはパナイ号沈没のような「事件」(原文強調)がもっと起きる可能性だ:外国に対する直接的侮辱はこれらの国々で憤りが徐々に高まりを生むのは必然だ。 2番目のリスクは日本政府の財力が陸軍が政府に課する巨大な事業に耐えられないことを証明するだろう。3番目のリスクは、たとえ最初の2つのリスクがうまく避けられたとしても、最終的に日本製品にとって不可欠なマーケットを破壊することで、取り返しのつかない被害を自らにもたらしたとわかるだろう。この関連で我が社の上海特派員の最近のコメントを思い出すのがふさわしい:戦争が長引けば長引くほど、破壊が大きくなり、中国通貨が完全に崩壊する日が近づき、日本にとって中国での好機はどんどん少なくなると戦争の最後に分かるだろう。[訳者強調](中略)

日本が求める鉱山と自然資源の開発は現実的に不可能だ

 日本の軍閥は中国マーケットをほとんど失っても、新たな「傀儡」[原文強調]政府[複数形]が立ち上げられた地方の鉱山と自然資源を日本が開発することで相殺される以上[の利益]だと希望しているのは明らかだ。しかし、この種の開発は途方もなく高いビジネスで、おそらく追い詰められている日本政府自体の力の及ばないことだ。そしてこのビジネスは外債という形の財政援助を必要とする。このような援助を日本はおそらく得られない。なぜなら、外国政府は満州の傀儡政府を意図的に承認していないのだから、万里の長城の南の傀儡政府を承認する、または、新たな「独立」(原文強調)政府にローンを認めると信じる理由は全くない。 我々の場合は、もしアメリカの銀行やわが国の商業的関心が、日本が中国国民から盗んだ資産の持続を確かなものにする行為をアメリカ国民が許すと、日本が一瞬たりとも信じるとしたら、日本はこの状況を酷く読み違えているのは確かだ。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道10日目:1937年12月22日(注2)

    「日本が英首相から警告—チェンバレンは強硬— [数々の]挑発によってロンドン[政府]の忍耐の限界がくると言った—誠実さの証拠を示せ—中国に戦艦を送れと自由党が求める—労働党はボイコットを主張」:ロンドン発、フェルディナンド・クーン・Jr.、12月21日(pp.1, 12)
今日の下院でネヴィル・チェンバレン首相(Neville Chamberlain: 1869-1940)とアンソニー・イーデン外務大臣が著しく慎重なスピーチをし、現在の英国の極東政策は注意深い経過観察だと言った。チェンバレン氏は日本に対して強い口調だったが、日本が香港を攻撃したり、最近の揚子江攻撃で英国市民の命を狙うような目に余ることを繰り返したりしない限り、強い行動はとらないという印象を与える内容だった。首相は「我々が今しているのは、日本政府がこのような事件を繰り返さないという決断と能力があるかの証拠を待っていることです」と述べた。[中略:非常に長い記事ですが、重要と思われる点だけ抄訳します]
 イーデン氏は、戦争準備としての制裁でない限り、いかなる制裁の考えを否定するとはっきり述べた。(中略)野党労働党党首のクレメント・R. アトリー(Clement R. Attlee: 1883-1967)は日本による英国とアメリカの戦艦攻撃は満州国併合直前に日本がロシア船を攻撃したことに「不吉な類似」(原文強調)があると主張した。「香港が本土から切り離され、上海は遺棄されるかもしれない」と予想して、英国政府は日本を抑止することに失敗していることに「政府自身の過去の行動の結果を得ている」とアトリー氏は政府を非難した。 野党党首は、日本が外国船を攻撃したのは、「その結果どうなるかを見るためで、中国内のその他の人たちの生命・財産・権益を完全に考慮していない」と言った。「日本はまるでフランコ将軍[原文注:スペインの反乱リーダー]のように振る舞い、英国商業はスペインの女子供と同程度にすぎない。日本は極東のヘゲモニー[覇権]を欲しているのだ」と言った。アトリーは国際連盟の権利と義務は「中国が侵略と戦うことを支持することだ」と締めくくった。
    「スティムソンは戦争国民投票に反対—ラドロー計画は国家の防衛システムを破壊すると主張」(p.1) 「中国は楽観的;ソヴィエトが援助—ロシアは外モンゴルが日本と戦争したら外モンゴルを援助すると見られている—山東省は侵入者を追い立てた—数万人が攻撃を恐れて青島、広東、漢口から避難」:ハレット・アベンド、上海発、12月22日(pp.1, 15) 「フランスは極東の地位を維持—権利を守るが戦争は避ける—西洋の威信運動に参加する用意」:P.J.フィリップ、パリ発、12月21日(p.13) 「白人支配の終焉を見る—スヴェン・ヘディンは日本が間もなく東洋を支配すると言う」:ストックホルム発、12月21日(p.13)
 日本の中国侵略と世界を揺るがしたジンギスカンとティムールの征服を比較して、スウェーデンの有名な探検家スヴェン・ヘディン(Sven Hedin: 1865-1952)は昨夜こう言った。「極東の白人種の統治はまもなく確実に終わる」。中央アジアの権威であるヘディン博士はスウェーデン王立アカデミーの講演で、最近の出来事は「警告だけでなく、白人の重荷[white man’s burden: 植民地を支配する白人の責任]がやる気のある日本にすぐに取って代わられるという最終信号だ。これがヨーロッパにとってどんな結果をもたらすか誰にも予想できない。世界全体が戦争精神異常の影響下にある。行き着く先は人類を目隠しのまま地獄に向かわせるようだ」と述べた。
    「上海は日本の動向に不安—過激派は中立国に対する敵意から問題を起こすと予想される—パナイ号審査は終了間近—海軍の船とその他のアメリカ船3隻の中国人生存者が病院に到着」:上海発、12月22日(p.15, 「東京部隊は無罪放免、原田熊吉少将」というキャプションで、原田少将の写真掲載)
 上海の中立国の高官は日本政府と揚子江地域の日本陸軍の過激派が優勢になったと信じている。中国に対して更なる懲罰的措置が必要だという東京の宣言は上海-南京地域の陸軍司令官である松井石根大将の中国を和平交渉に誘おうとする努力とは奇妙に矛盾する。中立国の旗と資産に対する侮辱の後の日本の態度のせいで不安が増している。悔い改めなしの謝罪、適切な保証なしの謝罪は急速に愚弄になっている。正式の昔ながらの国際間のエチケットは馬鹿げたものにされ、風刺漫画家の題材にされている。 パナイ号と蕪湖事件、英国砲艦レディーバード号の砲撃の責任を転嫁しようとする橋本欣五郎大佐、南京獲得後の権限の分裂、規律の崩壊などは命令をどの軍が実行するのか、どの軍が混乱を起こしているのか見極めることを難しくしている。

「上海に秘密が指令された」

 パナイ号砲撃と英国砲艦への攻撃の影響が広がることに驚いて、日本当局は上海の公式報道官にこれらの事件について話すことを禁じた。今朝、パナイ号と蕪湖攻撃に関するニュース全ては今後東京からのみ発せられると発表された。これらの事件に関する調査は上海の松井大将の司令部で行われるのに、全報告書は極秘として東京に送られる。 橋本大佐、または陸軍の上級将校がこれらの事件の処罰として東京に召喚されたか、または日本海軍が三竝貞三少将を解任したようなことを陸軍もするのかという質問に、陸軍報道官は全く知らされていないと言った。12月12日の嘆かわしい出来事の責任が橋本大佐に決定されたのか質問すると、報道官は「そうだとも、そうじゃないとも私は言える立場にない」と言った。 現在、橋本大佐を放免させるために、彼は大将に南京に最終攻撃を命じられ、命令に従っただけだと発表するのだろう。もしこの政治的戦略が採用されたら、多分この大将は最終的な勝利の攻撃の栄光と軍事的名誉を剥奪されることを意味するが、それはまたその後の大量処刑、略奪、強姦に対する世間の非難から守られることになるだろう。 筆者は今朝、日本の公式報道官の一団に橋本大佐が12月12日と13日に南京全体の司令部からの命令で動いたのか、それとも、蕪湖地域で独立の命令を発する権限を持って彼独自の決定をしたのか質問した。答えは大将の名前は発表できないし、橋本大佐の権限がどの程度かも明かすことはできないというものだった。 12月12日に太湖を基地にしていた飛行機がパナイ号を爆撃したのか、その飛行機が橋本大佐の命令で飛んだのか、または海軍が南京と蕪湖の間の揚子江上の船全てを無差別爆撃するよう命じたのかという質問に、報道官は「陸軍が海軍に、南京から多くの中国船が逃げたと伝え、それを爆撃するよう依頼した。海軍が命令を出し、この依頼を実行するよう命じた」と答えた。(中略) 驚くほどの独創性のなさで、日本が立ち上げた北平の暫定政府は満州国によって大昔に陳腐にされた方法と無用の言葉を散りばめた言語を使っている。北平レジームは「日本政府に新国家が産業、財政、文化、外交問題に対処するために日本人アドバイザーを推薦するよう熱心に依頼している」(原文強調)。この必然の成り行きとともに来たのは、新たな東京の報道で、東京は北平レジームを正式に承認するという。これは中国政府を和平交渉に強制させるための脅しだと信じられている一方で、ここ上海ではもし和平が遅れれば、日本はこの脅しを実行すると認識されている。
    「合衆国は中国に感謝」:AP, 漢口発、12月21日(p.15)
 合衆国大使ネルソン・T.ジョンソンは国務省を代表して、中国政府に日本によるパナイ号爆撃の生存者を救助してくれたことを感謝した。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-9)

パナイ号・レディーバード号事件の調査に東京から来た中佐と上海の陸軍武官の証言の違い、前言の撤回などの混乱状態が『ニューヨーク・タイムズ』で報道されます。出典:国立公文書館アジア歴史資料センター(注1)

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道9日目:1937年12月21日(注2)

    「東京の軍国主義者たちは合衆国が要望した保証を遅らせた;将官は部隊を弁護—日本の少将はパナイ号を非難したが、反駁の最中に撤回—陸軍報道官がついに[米国の]砲艦は東京部隊を砲撃しなかったと認めた—彼は機銃掃射した陸軍を無罪放免にした」:ハレット・アベンド、上海発、12月21日(pp.1, 20)
 昨夜、上海の日本陸軍武官、原田熊吉(1888-1947)少将が報告書の中で、12月12日にパナイ号が日本の空爆で沈没する前に「日本陸軍部隊に3発の大砲を撃った」(原文強調)と非難した後、今日その非難の1部を不承不承撤回した。しかし、彼は日本陸軍のランチがパナイ号の兵士たちが沈没する船から逃げる前にパナイ号を機銃掃射したということは頑なに否定した。 昨夜の彼の声明は、パナイ号の生存者たちが合衆国海軍査問委員会で証言した証拠のほとんどを断固として反対した。12月12日に蕪湖で英国砲艦レディーバード号が砲撃された件で、明らかに原田少将は認めることは不利だし、矛盾を避けようとしてか、彼は今日東京から電令を受け取ったと発表し、英国戦艦の事件については日本政府がロンドンと直接交渉しているので、この件について話すのは拒否せよとのことだと言った。 しかし、原田少将は12月12日に中国船が南京を出て上流に向かったという報告が蕪湖の日本軍司令部に届き、蕪湖の日本陸軍司令部は攻撃せよと指令したと言った。すると、蕪湖地域を指揮している橋本欣五郎大佐は「あらゆる中国船を攻撃し、破壊せよ」と命令したと原田少将は言った。この時、レディーバード号のハリー・ダグラス・バーロー少佐が橋本大佐から直接聞いた話として、橋本大佐が川のすべての船を攻撃せよと指令を出したと言ったことが指摘された。これに対して原田少将はバーロー少佐が橋本大佐の話を誤解した、橋本大佐は「すべての敵船を攻撃せよ」と言ったに違いないと回答した。しかし、これは橋本大佐の続く行動:海岸砲台をレディーバード号に至近距離で照準を当てていたことを説明できない。

「橋本について回避」

 この件の当事者、橋本大佐について身元確認を尋ねられると、原田少将は渋々、名前は欣五郎だと言った。この橋本は1936年2月の東京の反乱に関係した橋本かと尋ねられると、原田少将はイエスもノーも言うことを拒否し、この種の件について勝手に話せないと言った。原田少将の側にいた西義章(1898-1943)中佐が紹介された。パナイ号・レディーバード号暴挙を調査するために東京から飛んできたという。彼は昨夜遅く南京から上海に飛行機で戻ってきたが、「パナイ号が実際に日本陸軍部隊に3発の大砲を撃ったかは疑わしい」という新たな証拠を得たと言われている。原田少将は個人的にはこの点で非常に疑わしいと思い始めていて、西少佐が同意してくれたと言った。質問が鋭く畳み掛けられると、西少佐は突然立ち上がって、刀を取り、帽子を掴むと、東京行きの飛行艇に乗らなければならないので失礼すると言った。 西少佐は調査結果を説明する前に、彼の話は非公式であり、純粋に個人的意見だと断った。パナイ号が日本部隊に砲弾を撃ったという告発について、その部隊の指揮官の報告では「3発上空で聞こえ、砲弾が飛んで行くような音だったが、続いて爆発の音がしなかったというので、パナイ号からの砲弾についての指揮官の印象は正確ではないと自分は思う」と西少佐は言った。

「原田は西を否定」

 西少佐は去る前に、パナイ号が機銃掃射されたという非難は事実ではない、なぜなら、陸軍部隊のランチには重機関銃はなかったからだと主張した。しかし、西少佐が行ってしまってから、原田少将は鋭い質問をされると、ランチの日本兵たちは軽機関銃を持っていたと認めた。 原田少将も西少佐も、陸軍部隊がパナイ号に乗船する前に爆撃されたスタンダード石油のタンカー2隻の身元は知っていたし、アメリカ人の負傷者を救助したから、パナイ号がアメリカの砲艦だと完全にわかっていたため、パナイ号に乗船する前にパナイ号を機銃掃射する動機は全くないという主張を強調した。 昨晩の原田少将の報告は矛盾と食い違いに満ちていたので、橋本大佐をかばうためだとみなされる。筆者が最も確かな筋から聞いたところでは、日本陸軍のランチ[複数]は12月12日日曜の午後1時に蕪湖を出て、これらの船はアメリカのすべての証言によるとパナイ号を機銃掃射した。したがって、筆者は昨夜の記者会見で原田少将に尋ねた:この不慮の出来事は橋本大佐が認めた揚子江上のすべての船を砲撃せよという命令のもとに行われなかったのか。すると、会見にいた日本陸軍・海軍・大使館の代表者、9人の日本人全員が仰天した様子を見せた。原田少将はこの質問には現時点では対応できないと答えた。 同じ確かな筋によると、パナイ号事件全体の責任は海軍ではなく、日本陸軍にあるという。この事情は以下の通りだ。 問題の飛行機は上海所属でも海軍の空母所属でもなく、無錫(Wushing)近くの太湖(Lake Tai)を使っており、川を北に逃げる中国軍を邪魔する作戦を陸軍と共にするよう命令されていた。12月12日朝、彼ら[飛行士]は陸軍から蕪湖と南京の間の揚子江上の船全てを爆撃せよと命令を受けた。海軍の飛行士たちは大胆にこの命令に抗議したが、命令が厳しく繰り返されたので、従った。この事実は原田中将の調査では完全に無視された。飛行士たちに命令した陸軍将校の名前ははっきりとは確定しなかった。しかし、英国砲艦レディーバード号を4回砲撃した後、蕪湖で砲台の照準を船にあてろという命令を下したと橋本大佐がレディーバード号の司令官に認めたやり方と同じだ。

「陸軍に代わって謝罪」

 もう一つの奇妙な展開は、昨日の午後3時ちょっと前に原田中将が合衆国海兵隊のジョン・C.ボーモント(John C. Beaumont)准将を訪ね、パナイ号事件における日本陸軍の参加について深い遺憾と謝罪を表明したことだ。ボーモント准将との会話の中で、原田中将は日本のランチがパナイ号を機銃掃射したことを否定しなかったが、彼の謝罪と遺憾の意は暗黙のうちに罪を認めたことになる。他の公式ヴァージョンは陸軍は無罪だとみなしている。この種の矛盾について、上海の全外国官界の印象と感じ方では次のような見方が深まっている:日本政府は戦場の陸軍に対して、はっきりとした権限を確立する課題があり、明らかに[日本軍が]思い通りにするようになっている(訳者強調)。[中略:この後、非常に長く日米の主張を紹介] パナイ号が日本陸軍部隊に砲撃したという告発に関して、『ニューヨーク・タイムズ』のジェームズ・ソン(James Soong)が撮影した沈没してゆく合衆国砲艦の写真がパナイ号の2台の3インチ銃の位置をはっきり示している。海軍の人間なら誰でも一目でこの銃が発射されていないことがわかる。
    「東京は回答を遅らせる」:ヒュー・バイアス、東京発、12月20日(pp.2, 18)
 外務省報道官が今夜、アメリカとイギリスの日本宛文書への回答はまだ数日遅れると伝えた。その理由の一部は、事件当日の南京と蕪湖の間の揚子江に関する混乱が続いていることだという。アメリカの文書に回答するにあたり生じる困難は次第に明らかになるパナイ号爆撃の驚くべき特徴だけでなく、合衆国が要求している今後の[同様の事件を起こさない]保証の全面的な性質による。もし、戦争が続くと、日本政府は日本軍の行動を通してアメリカの権益[人命、資産、貿易など]に損害を与えないという全面的保証を与えることができないと考えられているようだ。 もし戦闘の継続によって中国軍の武器供給を切断するために日本軍が広東を攻撃することになれば、予期せぬ状況の中で新たな事件が起こらないと想定することはできないと指摘されている。残りのアメリカの要求、謝罪と補償はすでに認められた。

「日本軍を満足させなければならない」

 これらの躊躇は外務省がワシントンを満足させる意思がないことを反映しているのではなく、陸軍と海軍に受け入れやすくする方法を編み出す困難さを反映している。日本軍はパナイ号が沈没し、英国艦船4隻が攻撃された不運な日の出来事を説明するのに、大きな困難を経験している。陸軍と海軍の中国司令部からいまだに報告書が届いている。これらの報告書には一致させなければならない矛盾が頻出している。 東京の当局はレディーバード号砲撃の責任者だった橋本欣五郎大佐からの声明をまだ受け取っていない。彼は蕪湖を出て、審問は彼に届いていない。パナイ号事件に関する膨大な報告書が今日ようやく上海から外務省に届いた。 東京で今主張されているのは、海軍の飛行士がパナイ号と同じ場所で日本陸軍のランチの兵士たちが懸命に日の丸を振ったのにランチを爆撃したことだ。パナイ号に乗船した[日本]兵が沈没するパナイ号の乗組員に発砲したことは、日本の審問ではまだ確定していない。

「詳細は国民に秘密にされている」

 この事件の不吉な側面は日本国民には完全に隠されている。「衝撃的な事実」(原文強調)と呼ばれることは、陸軍のランチが友人である海軍の飛行士に爆撃されたことが暴かれないことだ。日本国民が知っていることは、ただアメリカの砲艦が沈没し、英国船4隻が戦闘の最中に誤って砲撃されたことだけだ。三竝貞三[Keizo Mitsunamiと名が間違ったローマ字化]少将の召喚はまだ隠されており、6人の飛行士が軍法会議にかけられたという上海からの噂は確認できていない。 この事件の説明が発された命令が川で動いているものすべてを攻撃せよというものだったか、飛行士と兵士たちが戦闘で興奮していたので、中立国と敵との区別ができなかったのか、あるいは、視界が悪くて彼らが判断できず闇雲に攻撃したのかという疑問に、東京に届いた情報は今のところ答えていない。

「広東[攻撃]の計画」

 [前略:日本軍が次に広東攻撃に向かうという予想について] 宣戦布告の問題がパナイ号事件で再燃した。宣戦布告した戦争状態だったら、日本陸軍と海軍の作戦は国際法のもとで行われていたはずであり、それは地域の外国戦艦すべてを支配するものであったはずだと指摘されている。
    「天皇との会議はなし」:AP通信、東京発、12月20日(p.18)
 消息筋は今夜、明日予定されていた裕仁天皇臨席のもとでパナイ号危機を話し合う大本営会議は開かれないと言った。情報通の人によると、この会議を開かない決定は、中国を徹底的に敗北させるか罰するまで戦争を遂行するという帝国の政策に変化がないからだ。 外務省は今夜パナイ号事件に関する記者会見を説明なしに取りやめた。外務省報道官は、日本の水上艇がパナイ号を砲撃したことを以前否定したが、それを翻し、日本軍部隊は自衛のために発砲したこと、戦闘地域におけるパナイ号の動きに関する注意が足りなかったことを日本の回答は主張すると言った。

「否定は撤回された」

 外務省報道官は今日以下のように言った。「私が[パナイ号が水上艇に砲撃されたという](原文注)報告を否定したのは、そういう情報を得て信じたからです。つい先ほど得た情報に基づき、声明を変えなければなりません。日本のボートがパナイ号の近くにいたのは事実です。今はっきりさせなければならない重要点は、どちら[パナイ号か日本のボートか]が最初に発砲したのかです。日本のボートに乗っていた陸軍士官はパナイ号が最初に発砲したと信じています」。 「どちらが先に発砲したか」という自分の質問もかかわらず、報道官は日本のボートがアメリカの船を機銃掃射したかどうか明確に言うのを断った。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-8)

パナイ号事件について、中支那方面軍司令官・松井石根大将が『ニューヨーク・タイムズ』の特派員を呼び出して、米国の新聞を使って自分の地位保全を図る計画に協力を求めました。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道8日目:1937年12月20日 続き(注1)

    「米国大使館は漢口から撤退の準備—日本軍の爆撃の最初の兆しでアメリカ人300人は市から逃げる予想—広東攻撃を東京は差し迫っていると見る」:AP通信、漢口発、12月19日(p.1)
    「陸軍内の亀裂が見られる—松井大将の軍隊内の規律強化の努力は無視された—全階級が影響を受ける—大将は攻撃が意図的ではなかったと示す報告を強調」(p.1)
 日本陸軍の幹部たちは、パナイ号を機関銃で掃射する命令が1936(昭和11)年の陸軍クーデターのリーダーだった橋本欣五郎[1890-1957]大佐によって出されたことを知った。彼の懲戒の問題をめぐって、陸軍最高司令部の中で厳しい闘争が進行中だ。彼は今まで処罰を逃れるために政治力を使ってきたので、今回もし逃れたら、規律が影響を受けると保守系将校たちが心配している。揚子江の日本海軍長谷川少将は調査の結果パナイ号の空爆は意図的ではないことが証明されたと言った。

レディーバード号号爆撃の首謀者は2.26事件の首謀者

    「日本軍の司令部に分裂」:ハレット・アベンド、上海発、12月20日(p.1)
 日本軍が中国軍と延長し続ける前線で戦闘している一方、陸軍最高司令部ではさらに厳しい戦いが繰り広げられている。この激しい戦いは12月12日に日本兵が発動機艇から合衆国砲艦パナイ号に機銃掃射した時に頂点に達した。なぜなら、これが橋本欣五郎大佐の個人命令で行われ、揚子江地域の最高司令官の松井石根(1878-1948)大将がこの大佐をあえて処罰するかを上級将校たちが疑い始める状況になっているからだ。 どの国の陸軍でも、大佐が自分の将軍の権力を試すことをあえてするとは、外部の人間には信じられないことだ。この危機的状況は橋本大佐が1936年2月26日に東京で起こった悪名高い陸軍クーデターの首謀者の一人だったということで説明される。この事件では内閣の数人が殺害され、日本の首都は数日間恐怖に包まれた。 実際には反乱となった蜂起が鎮圧された後の調査で分かったのは、橋本大佐が未遂のクーデターを計画したいわゆる若手将校の徒党の主要リーダーの一人だったことだ。橋本大佐はその役割で懲戒処分され、この初秋まで予備リストに入れられていた。50万人の兵士を中国に送ることになった時に、彼は現役勤務に呼び戻された。

「日本当局は危険を予想」(pp.1, 16)

 本記者が最高権威(訳者強調)から聞いたところによると、陸軍の保守派だけでなく、政府内全般でも、不安が急速に高まっているという。もし橋本大佐が少なくとも、パナイ号を空爆した海軍の飛行部隊長、三竝貞三少将と同等の処罰を受けなければ、日本陸軍の幹部にはもはや道理がないからルーズベルト大統領の例にならって、日本の天皇に直接抗議すると全ての外国政府が感じるだろうと恐れた。 橋本大佐が政治的影響力を使って地位を守ることは、陸軍の全階級における規律に破滅的な影響をもたらし、兵卒でさえも、将校たちが罰せられないなら、自分たちが略奪や強姦してもいいのだという態度を取ると言われている。松井大将を支持する保守派の陸軍将校たちは、南京占領に続く、規律の崩壊と惨状はこの状況から直接来ていると言う。彼らは規律を立て直す必要性を痛切に感じている。この将校グループは揚子江地域を指揮する長谷川潔司令官下の日本海軍は、パナイ号砲撃を懸命に償おうとしたが、陸軍は7日もたっているのに、責任回避と問題を曖昧にしようとすること以外何もしないと認めている。 [陸軍の]保守派将校たちは橋本大佐と彼の支持者たちが、パナイ号が砲撃され撃沈された日に英国砲艦レディーバード号を砲撃したことの弁解について「信じられない」と表現した。この遅れた説明は昨夜[12月19日]提供されたが、砲撃が起こった時、川には霧がかかっており、レディーバード号の煙突からの煙で、岸にいる者たちはこの船が中国砲艦で、北岸に逃げる中国兵を満載した多数のはしけとジャンクを隠すために川に煙幕を張ろうと確信していたという。 陸軍の報道官は昨夜、上海で、パナイ号事件の陸軍の役割に関する報告を文書として今日発表すると約束した。日本兵を満載した発動機艇がパナイ号砲撃前にパナイ号を止めて、パナイ号の司令官と発動機艇の司令官が名刺交換したと報道官が認めた。しかし、パナイ号の国籍を確認した部隊は揚子江北岸に向かい、浦口(Pukow)への進軍に参加したと報道官は言った。

橋本欣五郎大佐の経歴

 橋本大佐は興味深い経歴を持っている。1917(大正6)年にロシアの日本大使館武官だった。彼は大使館の窓から何日もロシア革命の市街戦を観察していた。彼は市街戦の技術的詳細に対する関心を長く示し、彼の敵によると、彼はロシア滞在中に革命思想に感銘を受けるようになったという。

「橋本は党派を結成—1936年反乱後に青年団体が創設された」

 橋本欣五郎大佐は過激でファシスト傾向を否定しているが、1936年の東京の陸軍蜂起以降の行動は陸軍内のより保守的グループと日本の政権内に相当の不安を起こした。(中略)予備リストに入れられた後、彼が1936年に大日本青年党を設立した時、この新たな動きについて「見ていてくれ。橋本はただじっと座って話すだけの人間じゃない」と周囲に語った。彼が強い関心をもって観察されていたことは言うまでもない。 彼の青年運動は急速に発展し、陸軍の青年将校たちは強固に団結し、橋本大佐は彼の支持者の間に大きな影響力を持つ進出勢力になった。彼の権力、または大胆不敵さが発揮されたのは、攻撃されたパナイ号救出のために英国砲艦ビー号が揚子江を航行していた時である。橋本大佐はビー号に警告を発し、もし航行を続けるなら、岸の砲台から攻撃すると言ったが、ビー号は警告を無視して、航行を続けた。橋本大佐は彼の部隊は英国国旗と中国国旗の区別ができないから航行は危険だとビー号の司令官に言った。後にAP通信によると、蕪湖での英国砲艦レディーバード号の砲撃に関して、橋本大佐は英国の抗議に対して、「川の船を全部砲撃せよ」と命令されていたと言った。 日本の政治におけるこの新たな人物は元トルコとロシアの武官だった。軍人としての彼は日本帝国中に知れ渡っていた。彼は一時、満州侵略の時の主要銃砲隊を指揮していた。1936年2月26日の反乱は1000人以上の青年将校たちが行った。この結果、岡田啓介[1868-1952]首相と3人の閣僚が殺害され、政府の建物と通信が占拠され、東京には戒厳令が敷かれた。反乱者たちは皇軍と数日間戦った後降伏したが、彼らはしようと始めたことを完遂した。 この反乱の目的はマニフェストによると、「日本の国家構造を破壊する反逆者を根こそぎにする。この悪の影響力を破壊することにより、反乱者たちは国家構造の栄誉を高め、正義を進めることを望んでいる」。
    「長谷川がパナイ号の証拠を提供—日本海軍チーフが飛行機攻撃は意図的ではなかったと調査委員会が示したと言う—遺憾の表明を広く強調—永野[修身おさみ:1880-1947]大将は悲劇的事件が合衆国との関係を改善する役に立つと希望」(p.16) 「アンターマイアーが日本のボイコットを提唱」(p.16)
訳者注:サミュエル・アンターマイアー(Samuel Untermyer: 1858-1940)はニューヨークの著名な弁護士・市民活動家・百万長者で、園芸に造詣の深かったマイアーがニューヨーク州ヨンカー市に敷地の一部を寄贈し、「アンターマイアー公園」と名付けられているそうです。また作曲家グスタフ・マーラーとも親交があり、これらの情報は「マーラー基金」サイトに掲載されています(注2)
    「90万人の日本部隊が満州と中国に」(p.16) 「ターヒューンが新聞に戦意昂揚を止めよと要求」(p.16)訳者注:ターヒューン(Albert Payson Terhune: 1872-1942)はアメリカの小説家。 「日本が中国と戦争について討議」(p.16) 「メキシコが日本漁業に関する嘆願を拒否—ロサンジェルスの組合に[日本]船団は合衆国の権益を損なわないと言う」(p.16) 「中国の危険地域(日本軍の戦闘地域の地図掲載)」(p.17) 「日本の政策は宗教から来ている—京都のニコラス司教は極東での行為は英雄崇拝から発していると言う」(p.21) 「ボイコットに警告—ニューマン博士がボイコットは日本のナショナリズムを強めると言った」(p.21) 昨日、ブルックリン倫理文化協会長のヘンリー・ニューマン博士がニューヨーク倫理文化協会で、日本製品のボイコットを組織するのは無垢な日本の人々を戦争リーダーたちに密接に結びつける危険性があると述べた。ニューマン博士は世界戦争から例をあげて、ヴェルサイユ協定後に外部の介入が起こり、ドイツとイタリアで強まった不条理なナショナリズムの例、そして、エチオピア危機で経済制裁の採用をあげた。戦争後の恐怖と不信感は世界の貿易と友好に有害な独裁政治と国家の自給自足に導いたので、日本ボイコットは逆効果になると主張した。
訳者解説:上海駐在特派員ハレット・アベンドが(Hallett Abend: 1884 -1955)インタビューした日本軍の「最高権威」というのは、中支那方面軍司令官・松井石根大将だと6年後にアベンドが出版した回想記の中で明かしています。パナイ号事件時の『ニューヨーク・タイムズ』特派員と日本軍との関係がよくわかる内容なので、該当箇所を抄訳します。また、このインタビューからアベンドは4編シリーズの日本軍内の「センセーショナルな」内幕を記事にしたというので、追って紹介します。この記事の中でも、回想記の中でも、2.26事件で岡田首相が暗殺されたと誤解したままですが、当時の『ニューヨーク・タイムズ』では1936年3月1日版で「岡田は生きている」という一面記事が出ていますので、アベンドが注意深く追っていなかったのか、松井が誤った情報を与えたのかわかりません。以下の翻訳は長いので、本文にない小見出しをつけています。

第12章「日本の最悪の『問題児』(Bad Boy)」((注3), pp.268-273)

[1937年]12月13日午前10時頃、日本大使館武官のT.本田[忠雄]海軍少将が息せき切って私のところにきて、日本の旗艦出雲に一緒に行ってくれるかと懇願した。日本の第三艦隊の司令官K.長谷川[清]中将が非常に重大な件で私に会いたがっているという。 本田の車で出雲に急行した。乗船するとすぐに長谷川中将の私室に招き入れられた。海軍の中国飛行作戦長の三竝貞三少将がいた。長谷川がすぐに「我々はパナイ号を沈没させた!」と言い出した。非常に正直で率直だったが、20分質問しても、中国における海軍の最高司令官から聞けたのは、日本は謝罪し、いかなる正当な補償も払うということだけだった。 私が責任の所在を示す詳細を要求すると、長谷川は最初、三竝少将が彼自身は落ち度はないのだが、日本の遺憾の意を示すために引退すると言った。「しかし、誰がパナイ号の砲撃を命令したのか」と私が言うと、三竝少将が不注意に「陸軍のBad Boyで、海軍の落ち度ではない」と認めた。その時、私は海軍を守るための架空か匿名の陸軍司令官だと思った。

松井大将が『ニューヨーク・タイムズ』特派員にお願いがある

 パナイ号の爆撃に関する事実全部は2週間後まで明らかにされなかった。事実は奇妙な方法で私の元に届いた。日本の高官、その名前は事件の6年後も明らかにできないが、その人物がある日曜に私の元にやってきて、「松井大将の頼みを個人的に聞いてもらえないか」と言った。「どんな頼みか」と私は警戒して聞いた。「松井が中国の司令官でいられるようにすることだ。事態が危機的状態で彼か別の将校を召喚して退役させるところまできたのだ。大将はもし『ニューヨーク・タイムズ』が事実全部を出版したら、ニューヨークから東京に電報が行き、そうすれば、彼は権威を回復することができるかもしれないのだ」。 『ニューヨーク・タイムズ』が日本軍内の確執に無意識な参加者として使われることを許すつもりはなかったので、何の約束もしなかったが、松井の本部に行って彼が言うことを聞くことには同意した。

松井大将との出会い

 松井石根大将は確かに私の友達だった。全くの偶然の幸運で、私は1935年の夏に彼をインタビューし、その時彼は私を気に入って、信用してくれた。私たちが最初にコンタクトを持ったのは、上海の日本語新聞の翻訳サービスに含まれている5行項目からだ。この小さな項目に引退していた松井大将が日本に戻る途中で上海に寄ったが、汎アジア主義運動に関心があり、インドシナ、シャム、マラヤ、ビルマを回った後に来ると書いてあった。 これはストーリーになりそうだ、電報で送るストーリーではないが、郵便で送って『タイムズ』が日曜版のどこかに入れ込んでくれるようなものだった。そこで私は日本総領事館に行き、松井大将とのアポを依頼した。下級領事は時間の無駄だ、松井は全く重要な人物ではない、「もう引退しているよろよろの老人で、今は政治的趣味に時間を費やしてる人物だ」と言った。 私は松井が好きになった。彼は快く、長く興味深いインタビューをしてくれた。そして私は彼を上海クラブのランチに連れて行った。私はこの小さなか細い老人が気の毒になった。彼は100ポンド(45.4kg)もないぐらいの体重で、右腕と顔の右半分が痙攣する中風に苦しんでいる。領事館員たちはこの気持ちの良い善意の老人を無視し、冷たくあしらいさえしていると感じた。 この後、1937年の戦争が来て、上海周辺で3ヶ月間の激戦があった。揚子江谷の全日本陸軍の最高司令官に松井石根大将が任命されたという発表で、名前が似ていることに私はちょっと不思議に思った。そして、私が初めて日本軍本部に行ったとき、全能の最高司令官が1935年夏の我が小さな中風の老人の友人その人だと知った。彼が2年前に失墜していた時に私が彼に対して礼儀正しく、フレンドリーだったことが、1937年の重要なスクープ・ニュースをくれることにつながった。

パナイ号事件の首謀者は橋本欣五郎大佐だ

 そこで、1937年のクリスマスの週に再び松井の本部でどんな個人的願いを私が叶えることができるか知ることになった。私がパナイ号の沈没を知った日に長谷川中将が率直だったのと同じように、松井も最初率直だった。なぜなら、私たちがお茶とフランスの最高ブランディーを前に座るやいなや、松井は吐き出したからだ。M:「事態は橋本大佐が召喚されるか、私が司令官を辞め、帰国しなければならないところまで来た」。A:「蕪湖の橋本欣五郎のことですか?」M:「そう、その男だ。あいつは傲慢で反抗的で暴動的ですらある。それに彼は無知で危険だ。あいつは日本が世界中と戦うことを望んでいる、今すぐにだ!」 そして松井大将は半時間ほどの間に信じられない話、翌日たやすく検証できたことを話した。その話で、私は4編シリーズのセンセーショナルな記事を電信で送った。それは12月12日に揚子江で起こったパナイ号沈没とその他の暴虐の責任者をついに明らかにした。(中略:この後、2.26事件の記述、ここでも岡田首相が暗殺されたと誤ったままです)。 揚子江上の船全部を爆撃しろと海軍飛行隊に命じたのは橋本で、飛行隊員は英米の船もいると反抗したが、橋本が激怒した。陸軍ボートからの機銃掃射も橋本が命じたと言った。 長谷川中将は何が起こったかを知っていたが、橋本の権力が強すぎて海軍の中将さえも、たかが陸軍大佐に反対することができず、海軍が責めを負うことを認め、世界に事実を知らせるより三竝中将を犠牲にした。 松井が南京に行って勝利入城式をしたとき、橋本は招待されないのに蕪湖から現れ、松井のすぐ後ろに、白馬に乗って入城行進をした。白馬は総司令官をしのいだ。松井はこの日、橋本が日本を合衆国と英国との戦争にすぐに巻き込む行動を意図していると言った。 
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-7)

パナイ号事件から1週間経過しても、『ニューヨーク・タイムズ』は第一面から詳細に報道しています。駐米日本大使がアメリカのコマーシャル・ラジオでアメリカ国民に直接謝罪したこと、その文言が議会で問題にされます。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号事件報道7日目:1937年12月19日(注1)

    「裕仁がパネイ号の事実を知った;彼は大統領に答えるかもしれない;[日本の]文書は船が機銃掃射されたことを否定;合衆国はアメリカの権利に関する日本の明確な保証を求める—パナイ号爆撃をめぐって依然緊張状態—更なる合衆国船員死亡—青島の混乱がオーガスタ号を中国に留める」:ワシントン発、12月18日(pp.1, 38)
    「合衆国が攻撃をリストにする—日本は発動機艇はパナイ号を機銃掃射しなかったと回答するだろう—首相は謝罪を強調—陸軍は新たな[謝罪]文に反対—上海の司令官たちは今も公式データを持っていることを否定」:AP通信、東京発、12月19日(pp.1,37, 38)
 裕仁天皇は昨日、驚くべき閣議の後、近衛首相からアメリカ船の砲撃に関する詳細を受けた。政府高官によると、天皇は大統領の文書の概要は以前受け取っていたが、全容の詳細が天皇に提出されたのは初めてだ。

政府内の文民閣僚と軍閥閣僚との闘争

 政府の中枢で文民メンバーと軍メンバーとの間で闘争があるという兆しがある。消息筋が言うところでは、陸軍と海軍は合衆国を満足させるために十分したと主張している。広田弘毅外務大臣は孤軍奮闘して、政府が軍をコントロールする努力の直近段階でさらなる譲歩を取り付けようとしていると言われている。 内閣の全閣僚が近衛首相の公邸で2時間の会議をした。広田外相は事件について、アメリカの反応を含めて詳細な報告をし、閣僚たちは心配していたという。アメリカの抗議に対する日本の回答が準備され、広田氏は内閣にその内容を説明した。この会議は水曜と木曜[12月22,23日]の内閣と裕仁天皇が臨席する大本営との合同会議に必要な準備を終えた。

長谷川清中将が処罰される

 第三艦隊の司令長官であり、中国における海軍作戦チーフの長谷川清中将が、パナイ号を海軍の飛行機で爆撃した結果として、他のポストへの異動のため召還させられたと報告された。消息筋によると、長谷川中将は事件の「全責任」を取ると表明した通り、辞表を提出したが、受理されなかった。他の情報によると、長谷川中将はすでに、あるいは間もなく、司令長官から静かに外されるという。
    「南京の外国人グループの役割に賞賛—包囲の間中[南京に]留まり、生命の危険に晒されながら負傷者と避難民を救助—グループは[中国人の]市当局者が逃げた後、市政を担う—グループ長はドイツ人—流れ弾による被害」:F.ティルマン・ダーディン、上海発、12月18日(pp.1, 38) 「日本は南京暴虐を抑える—いまだに続いている虐殺を止めるため最高司令部が厳しい措置—部隊の行為を認める—責任将校たちは松井を蚊帳の外に置こうとする—文民政府は狼狽—外国人は虐殺の証人—日本の希望に打撃」(p.37) 「カメラマンが撮った多くのパナイ号[爆撃の]写真—砲艦攻撃の最中の『野外演習』の後の映画とスチール写真」(p.37) 「反日組織が中国の結集を求める—蒋介石が和平交渉決裂の結果、辞任の考えを放棄する模様」(p.37) 「日本が『詳細不足』—当局者は依然パナイ号に関する報告を受けていないと主張」(p.37) 「日本はフィリピン略奪を狙っていると見られる—ケソン[大統領]の政治的対抗者、ガンシー博士が合衆国の保護の継続を求める」(p.37) 「英国は軍艦を東洋に送る計画を否定—しかし中国に移動すればかなりの艦隊になる」(p.37) 「日本は次の動きの前の停止状態—空爆は南京を越えた揚子江沿岸で広範囲に続く」(p.37) 「[日本の]内閣の計画は秘密」(p.37) [アメリカの]市民グループが日本のボイコットを要求—50組織の会見で大規模デモも提案—世界的運動を提唱—消費者は特に絹製品全てを購買しないよう要求」(p.38) 「我が国の東洋との貿易は1936年総計を越えた—特に日本が燃料、潤滑油、その他の戦争に必要なものを以前より購入」(p.39)

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道8日目:1937年12月20日(注2)

    「橋本大佐がパナイ号機銃掃射を命令した;1936年東京の陸軍クーデター[二・二六事件]で政治的影響力が首謀者の処罰を止めた」(p.1) 「青島の危機—日本の資産の破壊後に海軍の攻撃の恐れ—合衆国軍艦3隻が入港—港は封鎖と報道—綿工場の損失は2億5000万円」:AP通信、上海発、12月20日(p.1) 「パナイ号は機銃掃射されたと東京が認めた;駐米日本大使がラジオで謝罪—外務省スポークスマンがパナイ号撃沈前の機銃掃射を否定したことを撤回した—斎藤[駐米大使]が事件を『ショッキングな失態』と考える」:ヒュー・バイアス『ニューヨーク・タイムズ』特派員、東京、12月20日(pp.1, 18)
 外務省スポークスマンが12月12日に合衆国砲艦パナイ号が南京上流の揚子江上で機銃掃射され、沈没する前に日本軍兵士が乗船したことを金曜日[12月17日]に全面否定したのを今日撤回した。逃走する中国兵を捕らえるために蕪湖から来た陸軍の発動機艇が空爆されたパナイ号を機銃掃射し、沈没直前の船に日本兵が乗り込んだことをスポークスマンは認めた。掃射を始めたのがパナイ号か日本軍かはここ東京ではまだ確定していないと彼は言った。 この日早くにこのスポークスマンは別の陸軍発動機艇がパナイ号に行き、司令官が表敬訪問のためにパナイ号に乗船したと言った。スポークスマンによると、この事実が後の攻撃が意図的ではなかったことを証明する。上海の合衆国総領事クラレンス・E.ガウス[Clarence E. Gauss: 1887-1960]が12月11日正午にパナイ号の停泊位置の変更を日本総領事岡本季正に知らせたとスポークスマンは指摘した。前線は緊迫し混乱していたので、この情報が前線に伝えられる前にパナイ号が砲撃されたと彼は主張した。 彼は付け加えて、中国における海軍の飛行部隊長、三竝貞三少将の召喚が課せる最高の道義的処罰で、日本の将校全員にそう理解されると言った。

物議をかもした斎藤博駐米日本大使のラジオ談話

訳者注:ヒュー・バイアス特派員の記事の最後に、斎藤大使が12月19日(日曜)にワシントンからNBCラジオでパナイ号事件に関する日本政府の見解を語ったスクリプトが掲載されています。この放送に対し、上院議員が問題にし(12月20日)、また、『ニューヨーク・タイムズ』の投書欄(12月23日)に反対意見が掲載され、それに対してラジオ・プログラム製作会社の社長の反論が12月25日の投書欄に掲載されました。それらの主要点をここで紹介します。日本に報復すべきという世論も大きくなっていたような時期の論争です。

12月19日:

 斎藤大使のスピーチは次のように始まっています。「先週日曜日の日本海軍の飛行機による揚子江上のアメリカ砲艦パナイ号とスタンダード石油の船3隻への攻撃はショッキングな失態(shocking blunder)でした。日本政府と国民はこの不運な出来事について、言葉に表せないほどの悲しみを感じています」。この後は日本政府に代わって謝罪する、失われた命は取り返せないが、補償と今後同様の「失態」が起こらないようにあらゆる方策を取る、攻撃した責任者は処罰されるという内容です。 ただ、このスピーチの始め方が「失態」または「ヘマ」という意味の言葉を使ったことは、日本側の内輪の視点が先に来たスピーチという印象で、アメリカ人にはカチンと来るだろうなと思いました。案の定、これが取り上げられ、『ニューヨーク・タイムズ』に以下の記事が載りました。

12月20日:「斎藤[駐米大使]の話が批判された—コナリーは斎藤のラジオ談話は政府から承認を得るべきだったと言った」(ワシントン発、12月20日、12月21日掲載、(注3), p.19)

 テキサスのトム・コナリー上院議員は、日本大使齋藤裕が昨夜短いラジオ談話の中でパナイ号攻撃を「ショッキングな失態」(shocking blunder)と言ったことの適切性を問題にした。「このような声明を政府の部署のチェックを得ずに外国の大使が我が国の国民に直接話すというのは非常に珍しい手順だ」。

12月21日:「投書欄—外交的不謹慎—その他、繰り返しを防ぐ方法」(12月21日付投書、12月23日掲載、(注4), p.20)

 「市民として私は日本大使によるラジオ放送に抗議したいと思います」と始まる投書が問題視しているのは、大使の談話の最後がアメリカ国民に直接訴えている点です。12月20日に掲載されたスクリプトによると、斎藤大使は「上海の航空隊の指揮をしている海軍将校は解任され、母国に召喚されました。その他の必要なことは全て採られましたし、今後も採られますから、今後、外国人全ての安全と権益の保証が確約されます」と締めくくっています。 この文章を投書者は大使がアメリカ国民に直接保証したと読み取り、アメリカ世論に影響を与えて正式の交渉に損害を与える目的であることは明らかだと非難しています。投書者はアメリカ政府が大使に対して何かのアクションをすべきだと言っているのではないと断りながら、国務省に確かめたところでは、この放送の前に原稿が国務省の許可を得るために提出されていないと指摘します。「大使の不謹慎な行為について昨日(20日)の上院で呟かれた慎重なコメントは、国務省が『疑いなく全く立派で、本当に疲れ果てている紳士』(原文強調)に厳しく対応する気持ちはないことが反映しているかもしれません」と述べた上で、NBCラジオとコマーシャルのスポンサーは法律違反の対象だと批判します。引用している法律によると、合衆国との紛争に関して外国政府、その官僚やスパイとの通信や話を外国政府の行為か手段に影響を与える意図で放送することを禁じていると主張します。そして、放送局とスポンサーが「他国の大使が論争になっている問題についてコミュニケーションを発するために、政府の機能を奪ったのはためにもならないし、不法だ」と非難しています。

12月23日:「斎藤大使のスピーチ—ラジオ・プログラムのプロデューサーが自己の見解を述べる」(12月23日付投書、12月25日掲載、(注5), p.14)

[以下は抄訳です]
 アメリカの商業放送スポンサー制度がヨーロッパの一部で行われているような政府の独占より望ましいかどうかについて、ここで論じるのは的外れです。我々のエナジン・ニュースリール・プログラムは商業ラジオ制度の元に運営しています。この放送をその日のニュースの鏡とするために、斎藤大使はこのプログラムに登場するよう招待されました。これは、ある程度話す新聞であり、脚色やごまかし、または改ざんは一切ありません。なぜなら、ニュースの唯一の目的は実際の当人に自らの声で自らの見解を述べてもらうことだからです。 斎藤大使の謝罪は多分アメリカ世論に影響を与える目的だったでしょう。この国の外交官が出す声明のほとんどはその意図があります。その声明が新聞で広まるにしろ、ラジオ・プログラムやスポンサー付き商業放送の一部として広まるにしろ。(中略)ヴァン・アンダ氏[12月21日付投書者]はお気づきになっていないかもしれませんが、大使の話のすぐ後に以下の声明がアナウンサーによって読み上げられました。(中略:ハル国務長官の日本宛抗議文と、アメリカ政府はまだ日本から公式の返答を受け取っていない事実) 我々のアメリカ放送システムの下では、外国大使、アメリカ政府の閣僚、あるいは国民にとって関心のある内容を話す人は誰でも、コマーシャル・プログラムに登場することによって大多数の人の耳に届きます。彼らの登場がその時間を払っている製品の推奨を意味するものではありません。(中略)日本大使の声明を彼の口を通して放送するのと、新聞で引用するのと、あるいは、ニュース映画のサウンドトラックを劇場で聞くのと、法的にも道徳的にも基本的な違いがあるとは感じていません。
訳者コメント:斎藤大使のラジオ放送がアメリカ人に違和感をもって受け止められた一つの理由は、「ショッキングな失態」という表現だったようです。パナイ号事件の重大さを知れば、この斎藤大使の言動にはアメリカ人でなくとも驚きです。日本軍内部では「失態」と理解されても、被害国に対しては「見誤って爆撃してしまい、申し訳ない」という趣旨の広田外相の謝罪文にしておけば良かったのに、言葉の選択で更に事態を悪化させてしまったようです。これ以前に斎藤大使の対応で驚いたことがあります。事件発覚当初に斎藤大使がハル国務長官に謝罪に行く時の写真を見た時の違和感です。12月14日付『ニューヨーク・タイムズ』のp.18に大きく掲載されているのはハル長官のオフィスの外のソファにふんぞり返って座り、手にタバコを持ち、足を組んで、微笑んでいる斎藤大使です。キャプションは「日本大使がハルに謝罪するために待っている」というので、このボディー・ランゲージはないだろうなと思いました。 続きを読む
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