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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-3)

「パナイ号事件」報道2日目(1937年12月14日)の『ニューヨーク・タイムズ』にはアメリカ議会での議論と全国の新聞の社説が紹介されています。まだ日本との戦争の時期ではないという抑えた論調が大勢を占めています。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号事件報道2日目:1937年12月14日 続き(注1)

アメリカ議会での議論

    政権が今日パナイ号事件に関する全ての議論を和らげようとあらゆる努力をしている一方で、下院の反応は個人的好みに大きく支配されていた。極端な反戦論者はアメリカ軍の部隊と船は中国の戦闘地域から撤退すべきだと言う。他の極端な意見の議員は、あらゆる所でアメリカ人は適切な方法で保護されるべきで、他国政府のテロリスト的作戦(訳者強調)に脅されることを拒否せよと言った。
    下院議長のレイバーン氏:我々の感情がどうであれ、呟きや行動でさらなる不安や不幸を加えることはすべきではないだろう。我々が中立のまま、戦争に巻き込まれないためには、責任ある地位の我々が非常に注意し、大統領に任せるべきである。少なくとも議会が何らかの強硬手段を取る準備ができるまでは。
    外交委員会議長、ピットマン上院議員:これは日本軍の無責任な将校たちが外国人を怖がらせ、外国軍隊を追い出そうとした意図的企みだ。彼と同じ考えの議員たちは、日本の若い将校たちがテロリスト的戦術が正当化されると感じたのかもしれない。日本政府が1つ1つの出来事について遺憾の意を表明するのは全く満足いかない。日本政府は現場の陸軍・海軍の将校たちに幅広い裁量権を与えるのが慣例だ。このような暴挙の責任は数人の上級将官にあり、彼らの名前を明らかにし、処罰すべきだ。このような処罰によってのみ、日本側は誠意を示せるし、一連の国際法違反を止めることができる。
    ユタ州のトーマス上院議員:もし日本が責任を認め、謝罪したら、合衆国にできることは何もない。間違っていたと認めた国と戦争する理由はない。
    マッカラン上院議員:我々はずっと前に中国から手を引くべきだった。[アメリカ]政府が通告したらすぐに合衆国市民は出国すべきだった。残れば、日本は全アメリカ人を危険にさらす。
    ニューヨーク州のフィッシュ下院議員:アメリカ国民はいかなる時にもヒステリカルになって、陣太鼓を鳴らす[戦争を煽る]べきではない。我々は全ての事実を[把握するまで]待つべきだ。脅しや戦争の話をして危険な状況下で火に油を注ぐようなことをしてはならない。我々は全額賠償と謝罪を要求し、極東におけるアメリカ市民の生命と財産の完全保護を主張しなければならない。我が国が軍艦10隻を中国の川、特に戦闘地域に保持していると政権を非難する時期はとっくに過ぎた。私は何度もこの行為に抗議してきた。しかし、この不幸な事件を平和的に解決する間は、我が国の船が砲火を浴びようと、威圧によろうと、撤退させるべきだと提案するつもりはない。

第19面

アメリカ各紙の社説

    ロサンジェルス「『波風を立てる』ことへの警告」
 これが故意で意図的だったという証拠がなく、日本政府がすぐに責任を認め、遺憾の意を即刻表明し、賠償も確約したので、衝突なしに過ぎていく可能性が高い。 パナイ号は合法的に揚子江にいた。日本が十分知っていた58年前の協定に決められていたのだ。日本が中国に宣戦布告したとしても、中立国の財産と国民に損害を与えないよう特別な注意を払う義務がある。日本はまだ宣戦布告していないので、交戦権は与えられていない。日本の司令部の誰かが許しがたい不注意を犯したようだ。パナイ号と乗客と乗組員は罪のない傍観者的立場だった。戦争の時なら自分で用心しなければならない。しかし、これは戦争ではない。これは単なる討伐だ。討伐部隊は間違った人々を罰しないよう細心の注意を払う義務がある。
    カンサス・シティー「外務省しか話していない」、スター紙より
 日本は全責任を認めた。日本は謝罪した。しかし、そう言うのは東京の外務省だ。中国内の軍最高司令部ではない。陸軍と海軍大臣は天皇に対してだけ責任があり、文民政府に対してではない。この2,3年何度も軍当局は東京の文民高官の平和的融和的な声明に侮蔑しか示さなかった。 (中略)現状では国務省が完全な情報を入手し、日本政府が事件の深刻さが正当化する対策を取るか注視し、特にこのようなミステイクを繰り返さない効果的な手段を日本政府が採るか見ることが肝要である。
    アリゾナ州フェニックス「戦争について話すのは早すぎる」 アイダホ州ボイシ「戦争には不十分」

第20面

    合衆国砲艦パナイ号乗船中の将校たち(10人の顔写真掲載)

第21面

    パナイ号76人のうち61人が救助された—砲艦の乗員1人とイタリア人作家が死亡—将校2人負傷—タンカーのヨーロッパ人船長2人と中国人乗員81人行方不明 須磨はパナイ号砲撃を「間違い」と呼ぶ—外交官は悲しみと懸念を表明—日本が損害賠償することを確信、デトロイト発、12月13日
 須磨弥吉郎(1892-1970)、ワシントンの日本大使館の2番目の権力者はここ[デトロイト]の経済クラブの昼食会で「日本の現在の立場」という題でスピーチをした。約1000人の聴衆は、日曜のアメリカ砲艦パナイ号の砲撃と沈没について須磨氏が何を言うか注目した。しかし、彼は用意したスピーチを読み上げ、そこにはこの事件について何も述べられていなかった。 しかし、新聞記者の前で須磨氏はアメリカ船の砲撃は「不幸な間違い」(原文強調)で、日本政府が損害賠償すると確信していると言った。(中略)彼はまた、なぜ日本の飛行機がアメリカ砲艦とタンカーを中国船と間違えたかわからないと付け加えた。パナイ号に乗っていたアメリカ公使館の人々の安否を非常に心配していると言った。須磨氏が南京の総領事をしていた11年間にアメリカ公使館のこれらの人々をよく知っていたと言う。 須磨氏は質問に答えて、日本は中国の指導者たちに援助の偽りの希望を与えないため、そして、中国の日本軍の中で反感が強くならないように、九カ国条約会議に参加するのを控えたと言った。

第23面

    東京の新聞は事件をほとんど語らない(訳者強調)—パナイ号撃沈で我々をなだめ、「不運な事件」と呼ぶ、ヒュー・バイアス、東京発、12月14日
 合衆国砲艦パナイ号の撃沈に対する日本人の反応について何も報道できない。アメリカ人に知らされた事件の報道と違って、ここ[東京]では事件の大きさが違うのだ。朝刊は昨夜外務省が発表した短い広報を報道しただけだ。日本の新聞は最近熱心に、日米関係が殊の外良好だと報道しているので、パナイ号事件の報道はこの印象を損なわないような報道方法だ。朝日新聞は短い社説で、日米には友好な感情が続いているので、この事件は計画的ではないと主張している。社説で扱ったのは唯一朝日新聞である。

小見出し:「深刻に認識されている」

 砲艦パナイ号の撃沈はここ[東京]で英国船レディーバード号の攻撃よりずっと深刻だと認識されている。南京に残ってアメリカ市民の避難を監督していた中国の大使館書記官ジョージ・アチソン・ジュニア(George Atcheson Jr.: 1896-1947)がこの救助の作業が砲艦パナイ号への空爆で執拗に妨害されていると報告して、東京の大使館にパナイ号事件が知らされた。合衆国大使ジョセフ・C.グルーはすぐに外務省に行き、攻撃を止める命令を出すよう要求した。 その後、砲艦が明らかに南京の上流のかなり遠くで沈められたことがわかった。広田弘毅外相はすぐに遺憾の意を表明するために合衆国大使館に行った。レディーバード号への攻撃は昨日の朝、英国大使ロバート・L.クレイギー大使(Robert L. Craigie: 1883-1959)によって外相に知らされ、この件は英国軍武官のフランシス・S.G.ピゴット少将(Francis S.G. Piggott: 1883-1966)によって陸軍大臣の杉山[元:1880-1945]大将にもたらされた。杉山大将はその後代理人を英国大使館に送り、公式の遺憾表明と事件は調査中という確約をした。 午後には広田氏が英国大使館に政府代表として行き、深い遺憾の意を伝えた。夜には外務省がアメリカ砲艦への攻撃について声明を出し、日本海軍の飛行機が南京から20マイル上流に10隻以上の蒸気船を見つけ、砲撃したと説明した。後にわかったのは3隻の蒸気船はスタンダード石油会社の船で、アメリカ砲艦1隻が沈没したことだ。「日本政府はこの事件の完全な詳細を受け取っていないが、起こったことを深く遺憾に思う。広田氏が今日グルー大使を訪問し、政府に代わって痛恨の極みだと謝罪した」と述べている。 ワシントンの大使・斎藤博、南京の大使・川越茂(1881-1969)、上海の総領事・岡本季正(すえまさ:1892-1967)、上海の日本艦隊の参謀長がそれぞれ当該のアメリカ当局に遺憾の意を表明するよう指示された。海軍も昨夜この不運な出来事が起こったことに遺憾の意を表明し、海軍当局は全責任を認め、事件の対応のために適切かつ十分な方法をとるという声明を出した。

第24面:社説「パナイ号の撃沈」

 日本政府は揚子江上の砲艦パナイ号の撃沈とアメリカ商船3隻の攻撃とアメリカ人の人命損失の全責任を認め、謝罪し、賠償を払うと約束した。国務省が東京に送ったもう一つの要望に対する回答はどうか。今後このような「事件」(原文強調)を繰り返さないという保証である。 明白な事実は、日本軍が中国にいる限り、このような保証は紙の上に書かれた以上のものではないことだ。(中略)この件で日本が与えられる唯一の有効性のある保証は中国から日本侵略軍を撤退させ、帝国主義的冒険を清算することだ。 一方、我が国政府は現在の問題の困難さについて、市民から同情ある理解を得る資格がある。議会の議員たちが昨日提案したように、アメリカ砲艦を全部中国の海と川から撤退させ、我が国の商船と国民を揚子江流域に援助を与えずに残すと提案することは簡単だ。しかし、臆病な「中立法」でさえ、アメリカ船が全く平和的な貿易を行うことを禁じるべきとか、アメリカ市民が東洋に商人・外交官・ミッショナリーとして行くことを禁じるべきという論を主張して、政府の保護を喪失させるようなところまではいかない。 ルーズべルト政権は中国で三つの難しいことを同時にしようとしている:アメリカ国民の完全に法的な権益をできる限り守り、我々が始めたのではない戦争に巻き込まれないようにし、早期に名誉ある解決をするために影響力を発揮しようとしている。これらの目的追求のために政権に理解と支援の両方が与えられるべきだ。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-2)

日本軍が1937年に揚子江上のアメリカ砲艦パナイ号を撃沈し、商船複数隻とイギリス軍艦レディーバード号を砲爆した「事件」がいかに大きな衝撃を米英にもたらしたかを『ニューヨーク・タイムズ』の記事から紹介します。 日本軍の南京占領とこれらの「事件」が並列で報道されているので、日本軍による揚子江上の米英軍艦や商船の爆撃が日本軍の南京攻撃の一環だったことが読み取れます。並べられている順番に見出しを訳し、重要と思われる内容は抄訳します。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号事件報道1日目:1937年12月13日

第1面(注1)

    合衆国砲艦、日本軍に撃沈される;死者1人、負傷者15人、54人救助、18人行方不明;英国軍艦爆撃される、船員死亡。 南京包囲される—日本は部隊が突入しているので南京陥落すぐと予想—重要門が占領される—陸空攻撃に参加するため海軍は今日到着予定。

小見出し:「中国人は勇敢さを示した」

    中国軍の兵卒たちはまたもや、普通ならどんな兵士でも挫けるような恐ろしい罰や状況に耐えて固守する驚くべき能力を発揮した。ほとんどが無給で食事も支給されず、負傷しても治療も何もないにもかかわらず、門の周辺で日本軍にひどい代償を払わせた。 1900年[北清事変]のように、死体の山が7,000を超えるまで天津城壁を守った。1928年にも山東省済南で日本の進出に抵抗した中国兵は同じように勇敢に戦った[済南事件]。 [南京では] 一時間おきに空爆があったが、中国人は自殺的戦いを続けた。
    旧条約はアメリカの巡視を許可;船は攻撃的任務にはなかった—条約によって揚子江上の[アメリカ]国民は守られている。 日本、責任認める—将校はパナイ号攻撃を遺憾と認める—イギリス船もターゲット—2隻は砲撃対象にされた時に飛行機を砲撃—スタンダード石油会社の2隻も同時に沈没した。

小見出し:「英国砲艦も砲撃される」「他の船は救助に急行」

第13面

    アメリカの対日本輸出は1937年に65%増加:アメリカからの輸入の急激な増加の理由は1937年前半期の生綿の大量購入。

第14面

    負傷した司令官はニューヨーク出身—揚子江巡視に1年以上携わったヒューズとアンダースも負傷—大使館員4人も乗船—2等書記官アチソンとパクストンは極東の専門家

小見出し:「大使館員は[南京から]避難中

    合衆国砲艦が中国で撃沈、生存者の数人(撃沈前のパナイ号と生存者の写真掲載) 合衆国砲艦が日本に撃沈される

小見出し:「ニュースがワシントンで報告される」「アチソン[書記官]からのメッセージ」「日本は外国船に警告」「他の砲艦2隻も砲撃された」

上海の日本陸軍本部は大きな不安を見せ、日本人記者や通信社がこの攻撃について東京に電報を打つことを禁じた(訳者強調)。
    広田が爆撃について合衆国に謝罪—日本の外務大臣が遺憾の意を表明するため大使館訪問—日本ではパナイ号ニュースなし パナイ号事件のニュースは日本で禁止されている(訳者強調)。

第15面

    南京は強力な軍に入市される(「揚子江戦争地帯」の地図掲載)

小見出し:「日本側の死傷者多数」「負傷した日本の記者死亡」

    金曜日[12月10日]に日本軍が南京の南門の狭い場所に突入しようとして中国軍の必死の抵抗にあい、6000人の死傷者が出たと、中国が主張した。日本の将校たちはこの場所では100ヤードしか進めなかったと認めた。 中日戦争は今日、日本の新聞記者の6番目の犠牲者を出した。10月22日に上海戦で負傷した上海同盟通信のKenjiro Ashizawaが死んだ。東京朝日新聞の特派員、Shoshun Ohoは今日、南京近くで彼の自動車が地雷を踏み、重傷を負った。これ以前に2人の日本人特派員が殺されている。
    教会が中国に支援

第26面

    時の話題:「二人の兄弟」 最近の『ヘラルド・トリビューン』の記事は松岡洋右(1880-1946)の「なぜ日本が宣戦布告なしの戦争を中国でしているのかの率直な説明」を嬉しそうに引用している。南満州鉄道総裁は日本の英語雑誌Herald of Asiaに書いている。中国は「赤い共産主義」(原文強調)がはびこっているというおきまりの非難をし、アメリカがインディアン[ネイティヴ・アメリカン]を征服し、メキシコを犠牲にして領土拡大したと嘲って帝国主義の目的をいつもの正当化に使った後、本題に入り、この戦争は死闘だと認めた。 そして、彼の論を次のたとえ話で締めくくった。「中国と日本は東亜という巨大な邸を相続した兄弟である。逆境によって二人とも貧困の極みに落とされた。ろくでなしの兄は麻薬常用者、ならず者になったが、弟は痩せているが無骨で野望に満ち、この古い邸に過去の栄光を取り戻したいと夢見ている。***弟は怒り心頭で兄を叩きのめすが、その意図は恥の思いを叩きこみ、偉大な家の高貴な伝統の誇りを思い出させ、目覚めさせることだ。多くの諍いの後、弟はついに対決の大立ち回りの決意を下した。それが現在、北中国と上海前線で荒れ狂っている戦闘だ」。

    小見出し:「私は弟の番人なのか?」

     この論の欠陥は指摘しないが、このたとえ話はキリスト教徒の耳には聞き覚えのあることに気づく。昔、昔、二人の兄弟が西アジアと呼ばれる偉大な邸を相続した。逆境でこの兄弟も「過去の栄光」(原文強調)の伝統にもかかわらず、「貧困の極みに落とされた」(原文強調)。この場合は弟と喧嘩したのは兄で、「恥の思いを叩きこ」(原文強調)もうとした。この話は全て『創世記』の第4章に記されている。カインとアベルの物語である。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号事件報道2日目:1937年12月14日

第1面(注2)

    合衆国は日本から完全な賠償と今後攻撃しない確約を要求;海軍将官は中国船だと思った 南京占領、日本が報道—激しい終日の戦闘の後、日本は南京市の陥落を宣言—中国はその主張に異議—侵略者は中国の中心部まで押し入ると示唆—北平[北京]に新レジーム設立 日本は心配している—英米を分断しようとする期待に対する打撃と認識—救助作業続く—イギリス砲艦がパナイ号と石油輸送船3隻の生存者の捜索:特派員ハレット・アベンド、上海発、12月14日

小見出し:「日本の自慢が引用される」「船は中国船だと思った」「91人死亡か行方不明」

*「日本の自慢が引用される」 日本が揚子江上の中国砲艦全てを沈めてやったと自慢していたので、外国砲艦を攻撃する作戦は弁解の余地がないというのが合衆国海軍の態度だと理解されている。昨日の昼にアメリカ旗艦オーガスタ号上では最高の緊張状態だった。ヤーネル(Harry E. Yarnell: 1875-1959)大将が長谷川清(1883-1970)中将の公式訪問を待っていた。記者が後に日本側から非公式に聞いたところによると、長谷川中将はヤーネル大将に、パナイ号を砲撃したのは日本の飛行機だと率直に認め、彼は「完全な個人的責任を負う」と言ったそうだ。 この言葉は多分地位を辞す意志がある、またはハラキリさえ意味するのかもしれない。外国軍とここの海軍で長い間気づいていたこと:日本陸軍と海軍の若い将校たちが完全に手におえなくなり、規律に逆らっていることだ。これが調査によって事実だと証明されたら長谷川中将が責任をとるということだろう。海軍少将本田忠雄(1888-1946)は今日インタビューの中で、パナイ号爆撃の後、飛行士たちに注意を払うよう命令したと認めた。 過去に外国船や建物を空爆した責任飛行士は罰せられると約束されたにもかかわらず、その処罰の種類や当事者の名前や処罰されたかについてさえ、中立政府[米英]は知らない。 *「船は中国船だと思った」 昨日の昼に発表された長谷川中将の本部による声明は以下のように言った。「中国兵が南京から蒸気船で逃げるという情報を得て、日本海軍の航空隊が12月11日(土曜)夜、船を追跡し爆撃した。3隻のスタンダード石油会社の船を中国船と間違えて、爆撃した。この作戦中に最も残念な事件が起こり、これらの船のそばにいたアメリカ砲艦が沈没した。これは心から遺憾に思う事件である。長谷川中将は全責任を負うために、直ちにあらゆる適切な措置をとる」。 *「91人死亡か行方不明」 パナイ号乗船中のアメリカ人商店主とイタリア人ジャーナリストが殺された。
    大統領のパナイ号に関するメモランダム(大統領署名入り文書の写真掲載) 砲艦の攻撃はイギリスを怒らせた—東京で「強い」抗議が表明された—イギリスは自国海軍もアメリカ海軍も極東で効果的に行動できなかったと悟った:ロンドン発 12月13日 アメリカ下院の意見は激しく分裂—ある議員は部隊と戦艦の召還を、他は強硬な方針を要求—爆撃は外国人を怖がらせる企てとピットマン:ワシントン発、12月13日

小見出し:「日本との貿易を攻撃」

    天皇へ申し立て—ルーズベルトは彼の危機感を裕仁に言うよう要請—行動の指示なし—揚子江攻撃が合衆国と英国を緊密な結束に向かわせた
小見出し:「ハル[国務長官]への指示」「下院で討論沸騰」

第16面

    ワシントンは東京に改善を求めた

小見出し:「ロンドンと見解の交換」「広田の謝罪を報告」

 この状況は1898年、ハバナ港のアメリカ戦艦メイン号の沈没を思い出させる。しかし、重要な違いは日本がすぐに全面的責任を認めたのに対しスペインは拒否したこと、アメリカ世論は今激怒していないのに対し、1898年は激怒していたことである。 グルー大使は広田(弘毅:1878-1948)氏の謝罪を報告し広田外務大臣が大使館に来て、日本海軍当局がパナイ号事件の全責任を負うと述べた。[在アメリカ日本大使館]日本海軍と陸軍の武官が今日午後[アメリカ]海軍省と陸軍省を訪問し、遺憾の意と謝罪を表明した。
    パナイ号事件に関して大統領と話し合いに行く[ハル長官](ホワイトハウスに向かう写真) パナイ号声明文 グルー大使は広田氏の謝罪を報告し、広田外務大臣が大使館に来て、日本海軍当局がパナイ事件の全責任を負うと述べた。[在アメリカ日本大使館の]日本海軍と陸軍の武官が今日の午後[アメリカ]海軍省と陸軍省を訪問し、遺憾の意と謝罪を表明した。

小見出し:「ハルと斎藤の話し合い」[18面にハル長官の部屋の前で待っている斎藤博(1886-1939)駐米大使の写真掲載]、「日曜[12日]夜のメッセージ」「グルーからのメッセージ」

第17面

    戦艦の爆撃は意図的だったと救助された者たちが主張—合衆国の船には甲板の天幕に旗が描かれ、全マストにも旗が揚げられていた—4回攻撃された(AP, 漢口, 12月13日) 英国軍艦ビー号に救助された者たちが昨日のパナイ号空爆の証人として、これは間違いなく誤爆ではなく、意図的だったと今夜主張した(訳者強調)。アメリカ国旗が揚げられていた軍艦を日本の飛行機戦隊が日曜の午後1:35に続けて4回空爆した。

第18面

    下院リーダーたちは「ジンゴイズム」[Jingoism:愛国主義、主戦論]と非難—もし行動が取られなければならないなら、パナイ号撃沈に関する全ての事実を把握しなければならないと警告—厳格な中立が求められた—ピットマンは処罰を要求—他の議員たちは合衆国が「中国から撤退すべき」と言う

小見出し:「本当に『遺憾』とボーラ」「[米中]条約違反を主張」「[アメリカ]砲艦の撤退を望む」「ヒステリーを避ける」

    南京占領と日本が報道 日本陸軍スポークスマンは日本世論の圧倒的な声は戦闘の継続を望み
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-1)

アメリカ国務省が『平和と戦争』(1943)という文書で、1931年から1941年のヨーロッパと日本の戦争についてまとめています。その第1章を「1931-1941年の運命的な10年は日本の暴力行為に始まり、日本の暴力行為に終わった」と始めています。

新型コロナウィルス をめぐる欧米の鎖国措置

 19世紀のイギリス文芸評論家アンドリュー・ラングについて紹介しようとこのサイトを始めたのですが、19世紀の日本と欧米の関係を知らなければラングの理解も不十分と思い、ペリー来航までの英米のメディア記事を通して見ようとしてきました。そして、真珠湾攻撃直前にまとめられたアメリカ国務省刊のペリー遠征の評価を見始めたところで、現実世界では新型コロナウィルス 騒ぎが起こり、現時点(2020年3月中旬)で欧米が国境を閉鎖する事実上の鎖国措置を始めたので、ペリー来航前の日本の鎖国に対する欧米の激しい非難の記事を思い出しました。 4-1で紹介した1850年8月10日号の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の「カリフォルニアとアジアの隣人たち」という題名の巻頭記事を読んだ時、欧米がアジアを武力攻撃してでも開国させようという「文明国」の論理に衝撃を受けました。日本は良質の金・銀・銅が豊富な国という噂が広がっていたためか、欧米に開放しないのは非文明的だという論調です。その一部が以下です。
 中国と日本の排他性と警戒心を最後に打ち破るのは非道徳的な手段かもしれない。しかし、その結果は、強者が弱者を征服すべき、あるいは光が闇を追い払うべきという絶対の必要性と同じに思える。この2国の排他性と警戒心はそれ自体が非道徳的であったから、物事が進む中で、彼らは不可避な罰を受けなければならない。それは、自然の偉大な道徳律に反する国すべてに天が命じたものである。1国家がうぬぼれのうちに閉じこもり、普遍的人間性の歩みや視線に対して領土を解放することを拒否する道徳的権利はない。どの国家の市民でも、一般の幸福のために制定された法律の運用から自分を孤立させることができないのと同じである。誰もが他人に何らかの義務を負っている。そして、どの国も文明の大家族内では、あらゆる他の国に対して行わなければならない兄弟としての義務がある。極東の文明はこの教訓をこれから学ばなければならない。
 この記事から3年後の1853-54年ペリー来航によって開国し、欧米から多くの人々が入国した結果、感染症も入ってきたことを思えば、2020年3月からの新型コロナウィルスをめぐる欧米の対応が鎖国ということを皮肉に感じます。日本では1859年にアメリカの船舶からコレラが侵入し、長崎から全国に広まり、20万人が死んだそうです((注1), p.194)。2020年3月19日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事が「ウィルスは中国よりもヨーロッパに猛威を振るっている。これは開かれた社会の代償か?」(注2)という題名で、独裁主義的中国は国民の行動を徹底的に規制したからウィルスを封じこめたが、ヨーロッパは「行動と通行の自由、独立した意思決定に慣れた社会であり、政府は世論を心配するから、厳しい命令を出すのに慣れていないし、市民は命令に従うことに慣れていない。だから、これは開けた豊かな民主主義の中で生きることの代償を払っている」という専門家の意見を紹介しています。

新型肺炎の過熱報道の裏で憲法9条削除発言や放射能汚染水の環境放出を進める安倍政権

 新型コロナウィルスをめぐる日本のテレビ報道にも大きな違和感を覚えます。接触による感染で、80%は軽症だという病気に関して(注3)、テレビのワイドショーは毎日毎日番組のほぼ全時間を使ってきました。その間、福島第一原子力発電所事故で出続けている汚染水を大気中か海水に放出するという案が進行し(注4)、安倍首相が平和憲法9条を削除しよう(注5)、伊吹衆議院議長が改憲の実験台として緊急事態宣言を出せと(注6)、コロナウィルス感染拡大のタイミングを利用するかのような動きがあるのに、テレビは大きく取り上げません。 また、新型コロナウィルスに感染しているかどうかの検査をすべきだと主張する専門家の一部は、福島第一原発事故で放出された放射能被害を過小評価することに貢献した人々で、被ばくした子どもたちの甲状腺がんの検査は過剰診断だと主張してきた人々です。彼らの貢献の結果、早期発見が要のはずのがんの検査を縮小する議論が主流になってしまいました(注7)。そんな人たちが新型コロナウィルス問題では、テレビに検査推進派として重用されています。 放射能被ばくが空気からも水からも土壌からも体内に入り、特に子どもや胎児などへの被害が大きいことなど、私たちは福島第一原発事故から学んだはずです。汚染水には放射性トリチウムもその他の核種も含まれていますが、トリチウムは安全だから大気や海中に放出するというのが主流のようです。「トリチウムの細胞致死効果はγ線より高く、また放射線感受性は(中略)マウスよりヒトの方が高いことが明らかにされている」ことは昔から知られていましたし、「低濃度のトリチウム水による長期間被ばく」で死亡した例も出ています(注8)。トリチウム以外の複数核種、ヨウ素129やストロンチウム90などが「告知濃度限度」を超過していることも東京電力と経済産業省は説明してきませんでした(注9)。半減期はトリチウム12年、ストロンチウム90は28.8年です。こんな危険な放射能汚染水を環境中に放出する理由が東京電力の貯蔵タンク節約のためというのに、新型コロナウィルス報道で加熱するテレビは取り上げません。 さらに、福島第一原発事故後、世界中が危険で高くつく原子力発電から安全な再生可能エネルギーにシフトする中で、安倍政権は原子力・核の維持に固執し、再生可能エネルギーを推進しようとしませんから、総電力発電比率の再生可能エネルギーが占める割合ランキングで日本は49位です(注10)。それを更に減らそうとする閣議決定を密かに行いました。再生可能エネルギー推進用の財源も原子力に使えるようにするというのです(注11)。原発技術そのものが破綻していて原発事故は必ず起こるとアメリカの元規制委員長が明言していますし(注12)、地震多発の日本では次の原発事故がいつ起こってもおかしくないからこそ、再生可能エネルギーを推進するのが国民の生命と財産を守る政権の役割のはずです。ところが、原子力を維持し、戦争のできる国にする安倍政権にいまだに支持率が半数近くもあるのは(注13)、日本が明治以降どんな戦争を続けてきたのか知らない国民が多いのか、安倍政権に今でも「忖度する」テレビ・メディアの影響なのか、それとも半数近くの人は放射能被ばくも戦争も賛成ということでしょうか。

アメリカ国務省刊『平和と戦争』(1943)

 真珠湾攻撃の直前にまとめられたアメリカ国務省によるペリーの日米和親条約の検証(6-7-1参照)で高く評価された幕府の交渉記録を英訳したアメリカ人外交官ユージン・ドゥーマンについて知りたいと思い、6-7-2から6-7-3-7まで翻訳紹介してきました。この他、外交文書録以外にドゥーマンが取り上げられているのは、アメリカ議会の「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(1945-46)です。 その箇所を見る前に、この委員会で重要視された『平和と戦争』と題された国務省刊の本(1943)を簡単に紹介します。真珠湾攻撃当時のアメリカ政府が見た太平洋戦争への道がわかる資料です。「真珠湾攻撃に関する調査委員会」の委員たちは、外交文書録はわかりにくいが、『平和と戦争』は1931[昭和6]年から1941[昭和16]年までの流れを要約しているからわかりやすいとコメントしており、委員会審議もこの本を参照して行った形跡があります。 これは国務省が1943[昭和18]年に公刊した文書で、時代背景からすると、なぜアメリカがヨーロッパと太平洋の戦争に参加する決断をしたのかと国民に説明するためかと思われます。『平和と戦争—合衆国外交政策 1931-1941』(Peace and War: United States Foreign Policy 1931-1941)と題されています(注14)。解説部分が151ページ、その後に外交文書が698ページ分掲載され、全874ページの「本」です。 解説の日本に関する部分だけ拾ってみると、99ページになり、ヨーロッパの戦争に関しては52ページなのに、日本に関してはその2倍のページ数をさいていることになります。しかもそれは真珠湾攻撃までのことです。日本に関する部分で、重要だと思った箇所を抄訳します。

 1943年1月2日、国務省は「平和と戦争:合衆国外交政策 1931-1941」と題した出版物を公表した。この10年間の合衆国の外交行動に関する文書を含んだものだった。(中略)現在のこの出版物は合衆国が平和と世界秩序の条件を推進しようとした政策と行動の記録であり、また、日本・ドイツ・イタリアの侵略から生じる世界規模の危機にどう対応したかの記録である。 1943年7月1日

第1章:運命的な10年

 1931-1941年の運命的な10年は日本の暴力行為に始まり、日本の暴力行為に終わった。この10年は日本・ドイツ・イタリアの世界制覇の断固とした政策の冷酷な進展によって特徴付けられた。 1931年に日本は満州を奪った。2年後にドイツは軍縮会議から脱退し、再軍備を始めた。1934[昭和9]年に日本はワシントン海軍軍備制限条約の廃棄通告をした。 1935[昭和10]年にイタリアはエチオピアを侵略した。1936[昭和11]年にヒトラーはロカルノ条約を破棄して、非武装地帯のライン地方を要塞化した。1937[昭和12]年に日本は再び中国を攻撃した。1938[昭和13]年にヒトラーはオーストリアを占領し、チェコスロバキアを切断した。1939[昭和14]年の前半にヒトラーはチェコスロバキアの破壊を完成した。メーメルを奪い、イタリアはアルバニアを侵略した。 1939[昭和14]年9月にヒトラーはポーランドを攻撃し、その後の2年間にヨーロッパのほぼ全ての国が戦争に陥れられた。1940[昭和15]年に日本は軍事圧力をもってインドシナに入った。ついに1941[昭和16]年12月7日、日本は合衆国に武力攻撃を開始した。その直後に日本・ドイツ・イタリア、そしてその衛星国の側から合衆国に宣戦布告をした。  続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-7)

国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の内容にドゥーマンが異議申し立てをしたこと、アメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)でのドゥーマンの証言の最後の部分を紹介します。「国務省ブルティン 我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の最後の部分です。(注1)適宜、原文にはない小見出しをつけます。回答者の役職は6-7-3-5をご覧ください。

アメリカは日本社会党を全面的に支持し、国家神道を廃止する

インタビュアー:最近の興味深い出来事は、日本でリベラルで急進的な感情が戻ってきたことです。前労働・社会政治グループが一緒になって1政党、社会党になったそうですが、この件で我が国はどんなスタンスを取るのですか?ヒルドリング:それが本当なら、日本における全ての民主的傾向を支持する我々の政策に沿って、社会党にあらゆる支持を与えます。そして全ての民主的グループを軍国主義狂信者から守ります(訳者強調)。(中略)インタビュアー:もう1つ鍵となる重要な問題ですが、神道についてどうするんですか。特に「国家神道」と呼ばれる国家主義の宗教となっている一派です。ヴィンセント:神道は日本人個人の宗教である限りは介入すべきものではありません。しかし国家が管理する宗教としての神道は廃止されなければなりません。国家神道を支持するために国民に課税されることも、学校に神道が入る場もありません。(中略)インタビュアー:日本の学校制度の一掃はどうなんですか?相当めんどうな仕事ですよね。ヴィンセント:しかし、日本人は学校の一掃に協力しています。極度な国家主義教育を受けた教師は全員排除されます。小学校は出来るだけ早く再開されます。デニソン:学校制度が本当の変化が始まる場所です。若い世代に民主主義を理解させる教育をしなければなりません。年上の世代も同じです。インタビュアー:それは随分長い時間がかかりますね。デニソン:どのくらいかかるかというのは、我々がいかに速く指令を実施できるかにかかっています。我々があらゆるチャンネル—教科書・新聞・ラジオなど—を通して日本国民に届いたら、あなたが考えるほどの時間はかからないかもしれません。インタビュアー:その楽天的観測のベースは何ですか、デニソン大佐?デニソン:日本の外で多くの日本人を観察する機会がありました。ハワイの日系アメリカ人とか。彼らは子どもが7歳になると、祖父母と暮らすために1年間日本に送ります。日本の生活とハワイの生活の違いがとてもはっきりして、大多数は完全に合衆国に忠誠的な人間としてハワイに戻ってきます。戦争中に彼らの忠誠心は証明されました。インタビュアー:その忠誠心を説明するものは何ですか?デニソン:単にアメリカの生活スタイルの方が好き(原文強調)ということです。7歳では、アイスクリーム・映画・漫画などですが、年上になると、もっと重要なことについて学び理解し、評価できるようになります。日本の人々も我が国の生活スタイルが好きになると信じています。彼らが本当の市民的自由の味(訳者強調)を覚えたら、二度と昔のやり方に戻りたいとは思わないでしょう。

日本人は服従・従順を吹き込まれているから、本当の民主主義は育たない

ヒルドリング:私も同意します。実際、人々を民主主義に向ける再訓練に関しては、日本はドイツほど問題がないということもかなりあり得ると思います。ナチは非常によく訓練され、洗脳されていたので、その殻を打ち砕くのは大変です。日本人は服従・従順という1つの基本的思想を吹き込まれていますから、扱うのは簡単です。(p.742)ヴィンセント:大佐、それはむしろ難しくしているかもしれませんよ。それをどう見るか次第です。日本で本当の機能する民主主義がなければならないとしたら、服従という特性は進取の気性にとって変わらなければなりません(訳者強調)。インタビュアー:ヴィンセントさん、占領下の日本人の態度についてお話し願えませんか。ヴィンセント:新聞が多くを語っています。私が今ここで言えることは、日本人は諦めて敗北を受け入れているが、どんな対応を受けるのか心配しているということです。占領軍に協力する気持ちはあるという証拠がたくさんあります。しかし、長い間軍隊の支配に耐えてきたので、健全な民主的リーダーシップの出現には時間と励ましが必要です。 私たちは「東洋を急かす」ようなことも、マッカーサー将軍を急かすこともしてはいけません。社会・経済・政治体制の改革は穏やかなプロセスで行わなければならないし、賢く始めて、慎重に育んでいかなければいけません。(p.743)
 アメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)におけるドゥーマンの証言の中で、国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」でヴィンセントが表明した占領政策にドゥーマンが異議申し立てをした箇所から抄訳します。重複する部分がありますが、流れ上、ドゥーマンが読み上げたその箇所を含めます。

ドゥーマンが異議申し立てした占領政策内容

M:つまり、ヴィンセントの立ち位置は絶えず、7000万から8000万人の日本人が生計を立てるのは、できるだけ日本の4島の都市部で見つけられるものに限るというものですね?D:その通りです。言い換えれば、農業と漁業と日本人が支えられる程度の小規模産業に強調点が置かれています。(中略) M:ドゥーマンさん、この[ラジオ放送の]トランスクリプションの中で特に強調したい箇所があったら教えてください。(p.735)(中略)D:個々のヒルドリング大将が話している箇所です。[ドゥーマンが読み上げる](p.743)(中略)D:これがヴィンセント氏の考え方を示す点です。つまり、日本は主に本州とその他の島にある資源だけで生きるべきだ、農業と漁業と消費者製品の開発に努力を集中させるべきだと言うのです。先ほど申し上げたように、日本はペンシルベニアの1/4に相当する土地で、そこから生み出すもので8500万人に生計を立てろ、しかも鉄・鉄鋼・石炭・綿・羊毛、その他の一次原料や天然資源がない国です。(pp.743-4) M:ドゥーマンさん、現時点でその結論を裏付けるその他の資料がありますか?議事録に残したいという。D:マッカーサー将軍が9月1日だったと思いますが、声明を出した...。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-6)

アメリカ国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の主要部分を紹介します。(注1) 「国務省ブルティン 我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の続きです。適宜、原文にはない小見出しをつけます。回答者の役職は6-7-3-5をご覧ください。

ドイツ占領と日本占領の違い

インタビュアー:ところで、ヒルドリング大将、あなたはドイツと日本両方の占領政策に関わっているそうですね。両国の主要な違いは何ですか?ヒルドリング:大きな違いはありません。単純に言えば、二度と世界の平和を壊さないようにすることです。違いは主に、この目的を達成するための支配のメカニズムです。日本ではまだ政府が存在しているので、利用しています。ドイツでは中央政府がないので、我々の支配は地域に対するものです。インタビュアー:あなたの見解では、日本に政府があることに利点がありますか?ヒルドリング:日本政府を利用することによる利点は莫大です。もし、我々が利用できる日本政府がないとしたら、7000万人の国の統治に必要な複雑な機構全体を直接管理しなければなりません。日本人は言語も習慣も態度も我々とは違います。[軍国主義の]一掃(cleaning up)とその道具として日本政府を使うことによって、我々の時間とマンパワーとリソースの節約になります。言い換えれば、我々は日本人に自分の家の掃除をするよう要求し、その方法を提供しているのです。

公職追放

インタビュアー:しかし、日本政府を利用することで我々が日本政府を支持していると批判する人もいます。そうであれば、日本の戦争に責任のある人たちを公職追放する我が国の政策の妨げになりませんか?ヒルドリング:それは全くありません。我々が政府や産業界のどのグループも個人も支持することになりません。もし我々の政策が政府や産業界から誰かを排除することであれば、その人は排除されます。この点で日本政府の希望は重要ではありません。排除は毎日マッカーサー将軍によって行われています。(中略)インタビュアー:ヴィンセントさん、日本の政治家はどうですか? 戦犯だと思える人がいるように思いますが。ヴィンセント:東久邇内閣は先週辞職しました。今日の報道によると、幣原が首相になったというので、非常に心強いです。この内閣がどうなるか予想するのはまだ早すぎますが、前の内閣よりよくなると信じられる理由がたくさんあります。もしマッカーサー将軍によって公職にふさわしくないと思われたら、その人は辞めさせられます。インタビュアー:東久邇内閣の閣僚で戦争犯罪で裁かれる人はいますか?ヴィンセント:ここで個人名をあげることはできませんが、しかるべき機関によって戦争犯罪者として起訴された人は皆逮捕され、裁判にかけられます。閣僚という地位は何の保証にもなりません。(p739)(中略)インタビュアー:デニソン大佐、名前は除いて、財閥の人たちも対象とされますか? 大企業は軍国主義者に協力して、戦争で利益を得た人たちも有罪と考慮されますか?デニソン:ドイツに適用したのと同じ基本的政策に従います。ドイツでも起業家が戦犯としてあげられたことを覚えているでしょう?インタビュアー:ヒルドリング大将、日本の戦争遂行力に大きく貢献した大企業家についてはどうするのですか?ヒルドリング:我々の政策では、ファシスト・主戦論者(Jingos)・軍国主義者たちはみな排除されます。公職だけでなく、産業界も教育界もです。我々の国家政策は日本の戦争遂行力を破壊することです。これが意味するのは、大企業連合は解体されなければならない(原文強調)ということです。これ以外に達成方法はありません。インタビュアー:ヴィンセントさん、大企業についてどうですか?ヴィンセント:2点あります。戦争犯罪者と考えられる財閥のメンバーに対する訴訟を必ず起こすつもりです。それと、最も有名な三井・三菱・住友のような日本経済に威力を持っていた家族型大企業を解体するつもりです。インタビュアー:金融財閥も?ヴィンセント:そうです。もうお聞きになっていると思いますが、マッカーサー将軍は金融財閥の権力を解体し、彼らの略奪品を剥奪する方法を講じ始めました。(中略)ヒルドリング:日本はあらゆる形の武器・弾薬・兵器、艦艇と飛行機の製造、開発、維持を禁じられます。この問題の大きな部分は、近代戦争経済の鍵だった日本の産業の削減と消滅を含んでいます。これらの産業は鉄・鉄鋼・化学・工作機械・電気機器・自動車機器の製造です。ヴィンセント:もちろん、これは日本経済の主要な方向転換を意味します。日本経済は何年も全面戦争に必要なものに向けてきました。我々の厳重な監督のもとに、日本は労働力と天然資源を平和な生活という目的に向け直さなければなりません。インタビュアー:それは多くの失業者を生み出しませんか?何か失業に対処することがなされているのですか? 例えば、数百万の復員兵に対して。ヴィンセント:我々の政策は、日本の経済問題の解決は日本に責任があるというものです。日本は農業・漁業・[国内]消費製品の生産に集中すべきです。各都市で復興のための建設作業がたくさんあります。このような自己救済の努力に我々は介入するつもりはありません。我々は励ましは与えます。(p.740)

敵国に食料供給はしない

インタビュアー:戦争用重工業から投げ出された工員たちはどうしたらいいのですか?ヴィンセント:日本が維持を許可されている軽工業に仕事を見つけるしかないですね。日本の産業経済のこの改造の目的は日本がもっともっと国内マーケット用に生産するように、経済を内向きにさせることです。インタビュアー: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-5)

ユージン・ドゥーマンが証人喚問された上院の「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)で、証拠として提出された国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」(1945年10月7日)全文が掲載されていますので、紹介します。

ドゥーマンの証言

 上院の公聴会におけるドゥーマンの証言の続きです。Dはドゥーマン、Mは委員会の弁護人モリスの略です。 M: ドゥーマンさん、あなたは1951年7月11日の非公開委員会で証言し、最初にジョン・カーター・ヴィンセント氏とあなたとの間に見解の相違があると以下のように言いました。
 日本のように人口過多で植民地なしに支えられない国は、大陸で入手できる天然資源を日本にも利用できるようにしないと共産化するという非常に深刻な危険性があるというのがその頃の私の考えでした。一方、7000万〜8000万の日本人の生活には、日本の4島の都市部で見つけられるものに制限すべきだというのがヴィンセントの考えでした。(中略)
訳者コメント:ドゥーマンが「植民地なしに支えられない国」と植民地肯定の発言をしているのに驚きます。戦後日本でも日米開戦しない方が合理的だったと評価されました。ドゥーマンのこの発言がなされた1951(昭和26)年に当時の首相・吉田茂(1878-1967)が過去の日本外交を検証するよう外務省政務局政務課長の齋藤鎮男(1914-1998)に指示したと、『経済学者たちの日米開戦』(2018,(注1), p.158)がその結論を引用しています。
齋藤が同僚とまとめた外務省の文書「日本外交の過誤」(昭和二六年四月一〇日)の最後では対英米開戦の判断について次のような指摘がされている。かりに、あの際日本が隠忍自重して、戦争に入っていなかったと仮定したら、どうだろうか。戦争を前提とするからこそ、石油も足りない、屑鉄も足りない、ジリ貧だということになる。戦争さえしなければ、生きて行くに不足はなかったはずである。

ラジオ放送された日本占領政策

ドゥーマンの証言の続きです。D:これらの見解は国務省後援のラジオ放送で発表されました。1945年10月6日の夜、ワシントンD.C.で放送されたと思います。 M:あなたはその放送を聞いたのですか、それともそのトランスクリプション(転記/筆記録)を読んだのですか?D:新聞でそのトランスクリプションを読みました。 議長:誰がその放送を作ったのですか?D:このプログラムに参加したのは数人いて、SWINK(State-War-Navy Coordinating Committee国務省・陸海軍調整委員会)の民事部メンバーだったヒルドリング大将(General Hildring)と現在、大統領付海軍武官のデイヴィッドソン大佐です。 M:ドゥーマンさん、今そのトランスクリプションのコピーをお持ちですか?D:いいえ、持っていません。 M:その放送で何が起こったか覚えていますか?D:私が非公開委員会で証言したのと同じです。(中略)強調されていたのは、日本が支えられる程度の小規模産業と農業、漁業です。 M:議長、このトランスクリプションは重要と考えられるので、記録に入れてください。(中略)((注2), p.735)訳者注:このブルティンが掲載されていますので、主要点を抄訳します。適宜、原文にはない小見出しをつけます。((注2), pp.736-743)

「国務省ブルティン 我々の日本占領政策」1945年10月7日

アナウンサー:ヒルドリング大将は財閥、日本のビッグ・ビジネスは解体されると言います。「我々は日本が大企業合同を再建することを許さない。日本の民主的グループが軍国主義狂信者たちに攻撃されないよう守ることを約束する」。 国務省のジョン・カーター・ヴィンセントは国家神道の終末を予測しています。「天皇制は根本的に修正され、日本の民主政党は集会と表現の自由を確約される」。 海軍のデニソン大将は日本は民間航空を認められないと言います。日本はやがて民主主義を受け入れると予測し、[アメリカ]海軍は将来日本を管理する責任がある(訳者強調)と強調します。インタビュアー:ここ数週間、我が国の日本占領政策ほど、新聞・ラジオ・世論がこれほど広く議論しているテーマはありません。この議論は非常に有益な目的に役立っています。数百万のアメリカ人に、7000万人が住む日本における我々の危険で複雑な仕事について気づかせました。我が国の基本的な日本政策に関するホワイトハウスの出版物(1945年9月23日号ブルティン)はこの議論にまつわる多くの混乱を取り除きましたが、同時に多くの疑問も起こりました。我が国の政策はどう適用されるのか。この疑問に答え、我が国の日本政策を解釈してもらうために、この仕事に直接関わっている政府機関、国務省・陸海軍の代表にお越しいただきました。 ヒルドリング大将、非常に多くの人が最近まで、マッカーサー将軍が日本政策を定める自由を持っていると思っていました。この政策がどう決定されるのかからお話し願います。ヒルドリング:私は政策作成ではなく、実行の補助をしているのですが、政策がどう作られるのかご説明します。国務省・陸海軍調整委員会、略してSWINCが基本的に重要な問題について政策を作成し、大統領の承認を得ます。軍事面では、統合参謀本部の見解が慎重に考慮されます。承認された政策の指令が書かれ、統合参謀本部がマッカーサー将軍に伝えます。我が国の日本占領軍の日本における最高司令官として、彼はその指令を実行する責任を負っています。彼はとてもよくやっていると思います。(中略)

マッカーサーと国務省の軋轢

インタビュアー:ヴィンセントさん、マッカーサー将軍と国務省の間に緊張関係があるのか知りたいのですが。ヴィンセント:そのような報道には全く根拠がありません。実のところ、マッカーサー将軍と国務省の間には直接的な関係はありません。マッカーサー将軍が非常に困難な任務を遂行するにあたって、我々の支持と援助を受けていると保証します。インタビュアー:マッカーサー将軍が民間アドバイザーを歓迎しないという報道がありますが。ヴィンセント:それも事実ではありません。民間の極東専門家がすでにマッカーサー将軍の司令部に派遣され、彼は非常に誠意をもって歓迎しました。我々は目下、日本の経済、財政などの専門家をリクルートしているところです。このような人々をもっと送る予定です。

アメリカ海軍が日本占領に深い関心を持っている

インタビュアー: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-4)

ポツダム宣言の元となったユージン・ドゥーマンの草案が「太平洋問題調査会に関する公聴会」の議事録に掲載されていますので、公表されたポツダム宣言と草案の違いを検証します 1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」でのユージン・ドゥーマンの証言から、ドゥーマンがグルーに指示されて日本に降伏を勧める文書の草案を作ったこと、それが一部を除いてほぼ全文ポツダム宣言になったことがわかりました(6-7-3-3)。彼の草案が公聴会の議事録に掲載されています。ポツダム宣言原文(注1)とドゥーマンの草案((注2), pp.733-4)を比べ、違いを検証します。現代日本語訳は「安倍首相が『読んでいない』ポツダム宣言 現代語訳だとこうなる」(2015, (注3))を参照してください。

合衆国-イギリス-[ソヴィエト連邦]-中国の元首による宣言草案

原文注記:もしソヴィエト連邦が参戦しなければ、カッコ内は削除すること。(国務省で完成:1945年5月)

第1条について

    国名の順番が違うことと、ドゥーマン草案で注記されているように、ソヴィエト連邦をカッコ付きで入れている点が違います。ドゥーマン草案は、アメリカ、イギリス、次に[ソビエト連邦の総統][the Generalissimo of the Soviet Union]と挿入され、最後に「中華民国主席」(the President of Republic of China)という順番です。ポツダム宣言ではアメリカの次に「中華民国国民政府」(the National Government of the Republic of China)が置かれ、ソヴィエト連邦は入っていません。 もう1点の違いはドゥーマン草案が「戦争終結の機会を日本の人々に与える」となっているのに対し、ポツダム宣言では「日本に与える」となっています。それ以外は同じ字句です。

第2条について

    ドゥーマン草案では、第2条でもソヴィエト連邦が挿入されていますが、ポツダム宣言にはありません。それ以外、また、最後の文言の違い以外は全く同じです。 ポツダム宣言では、「日本が抵抗をやめるまで」(until she ceases to resist)とされているところを、ドゥーマン草案では「日本の降伏まで」(until her capitulation)となっています。

第3条:

一字一句同じです。

第4条について

    ドゥーマン草案は2文ですが、ポツダム宣言はそれをまとめて1文にしています。ドゥーマン草案の第4条の拙訳は以下の通りです。
身勝手な軍事アドバイザーたちの知性のない計算によって日本帝国を消滅の淵に追いやった人々のリーダーシップに盲従し続けるほど、日本の人びと(原文強調)は理性に欠けているのか? 日本人が破滅への道を歩み続けるのか、理性の道を選ぶか決定する時期が来ている。Are the Japanese so lacking in reason that they will continue blindly to follow the leadership
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-3)

ユージン・ドゥーマンは上院の公聴会(1951)で、ドゥーマンが後にポツダム宣言となる草案を作成したこと、1945年5月末に国防省の会議にかけられたが、降伏を促すのは時期尚早とされたことを語ります。反対された背景には原爆投下計画がありました。(写真:1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン)「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951年9月14日、(注1))でのユージン・ドゥーマンの証言の続きです。Dはドゥーマン、Mは委員会の弁護人モリスの略です。原文にはない小見出しをつけています。

天皇の問題について

D:私の証言を通して、私が天皇の問題に絶えず触れてきたことにお気づきだと思います。1945年3月か4月に、ハワイにおける心理戦争(Psychological Warfare)のチーフだったダナ・ジョンソン大佐がワシントンに来て、グルー氏と私と会いました。日本の高官の捕虜を尋問して得た結論は、日本人は降伏する用意があるが、君主制問題に関する様々な陳述や世論の傾向は、天皇個人が戦争犯罪者として裁判にかけられ処罰され、君主制が廃止されるという印象を国民が持ったら、そしてこれらの考えが世論だとされて、日本の降伏後のアメリカ政策として実施されるという印象を持ったら、日本は降伏しないだろうというものでした。 それから間もなく、4月17日だったと思いますが、[日本]政府に変化がありました。大将が首相を辞任し、政府が再編成され、鈴木大将[鈴木貫太郎:1868-1958]が首相になりました。彼はこの時、天皇の侍従で、彼のキャリアを通して穏健派でした。彼は日本が降伏する用意があり、降伏に関して話し合いする用意があるという非常に明確なシグナルを送りました。 さらに、我々は日本政府とモスクワの日本大使との間のメッセージを読むという利点がありました。この通信とその他の兆候から、この意見がアメリカの政策ではないとはっきりすれば降伏する用意があるということは明確でした。アメリカの左派メディアが展開してきた、天皇が戦犯として裁判にかけられ、君主制が廃止されるという意見です。 そこで、私たちは文書を準備し始めました。5月中旬にヘンリー・ルース氏(Henry Luce: 1898-1967,雑誌『タイム』創始者)が太平洋を訪問し、戻ってきて非常に興奮していました。彼が言うには、日本に降伏を説得できないアメリカ政府がサイパンとタワラで戦ったアメリカ軍の士気の低下を起こし続け、彼らは日本の攻撃を予想し、アメリカ軍の損失を恐れていると言いました。 ヘンリー・ルースに会ったグルー氏は私たちがその方向で計画し、努力していることを説明しました。私の記憶が正確なら、5月24日のことだったと思います。 M:1945年?D:1945年です。グルー氏は土曜に私を呼んで、月曜朝までに大統領に提出する文書を用意するよう指示しました。もし日本が降伏したら、合衆国が取る政策を説明したものです。そこで、私はその文書を準備し、月曜朝にグルー氏のところに持って行きました。 天皇に関する箇所について、私のオリジナルは次のようなものです。[D氏が読み上げる]
 連合国の占領軍は以下の目的が達成されたら、すぐに日本から撤退する。日本国民を代表する人物が責任を持つ平和的な傾向の政府が確立し、もしその政府が日本における攻撃的軍国主義の将来の発展を不可能にする平和政策に従うという決意が本物だと、平和を愛する国民が納得し、現在の天皇家のもとに立憲君主制の政府を達成したら占領軍は撤退する。(pp.727-8)
グルー氏はこのドラフトを承認し、国務省の政策委員会を招集しました。この頃の国務省政策委員会は国務省の次官補たちと顧問弁護士で構成されていました。グルー氏はこの文書を読み上げ、私が今引用したパラグラフまでは反対はありませんでした。この箇所に来ると、アチソン氏とマックリーシュ氏(MacLeish)氏が激しく反応しました。 M:この二人は当時どんな立場だったのですか?D:私はこの会議に出席してませんでしたが、君主制を残させるという考えそのものが不快だったのです。 M:アチソン-マックリーシュ氏にとって?D:そうです。 サワーワイン議員:ドゥーマンさん、あなたが会議に出席していなかったのなら、そこで起こったことをどうして知ったのか説明すべきです。D:この会議の後すぐにグルー氏が語ってくれました。 サワーワイン議員:それでは、あなたが言っていることは、その会議で何が起こったかをグルー氏が描写したことなんですね?D:その通りです。グルー氏はこの委員会は彼の助言機関で、最終責任は自分にあるのだから、大統領にこの文書と提言を提出する責任を取ると言いました。適当な時にスピーチをし、この文書の提言を含めると言いました。 彼は 5月28日にローゼンマン判事と一緒に大統領に会いに行きました。大統領はそれを読んで、軍が同意するなら、この文書を承認して、受け入れると言いました。 5月29日にグルー氏、ローゼンマン判事と私はスティムソン氏(Henry Stimson: 1867-1950)のオフィスに行きました。 議長:誰のオフィスだって?D:スティムソン氏です。この時、陸軍省長官でした。これはペンタゴン(国防省)で行われました。出席者は国防長官のフォレスタル氏(James Forrestal: 1892-1949)、マックロイ氏、戦争情報局長のエルマー・デイヴィス氏(Elmer Davis: 1890-1958)、グルー氏、私とマーシャル元帥(George Marshall Jr.: 1880-1959)でした。付け加えるべきは、10-12人の陸海軍の最高士官も出席していましたが、今は誰だか覚えていません。 私たちはこの文書をコピーして、全員に配布する準備をしていました。スティムソン氏がこの会議の議長でしたが、この文書をすぐに承認し、賛同しました。実のところ、スティムソン氏は私たちが日本は過去に進歩的な男たち、幣原男爵(幣原喜重郎:1872-1951)、濱口(雄幸おさち:1870-1931)、若槻(禮次郎:1866-1949)、その他の人々を生んだ国だという点への十分な配慮が足りないと思ったのです。これらは日本の過去の首相です。 フォレスタル氏は文書を全部読んで賛同しました。マックロイ氏も賛同しました。 議長:賛同したのか、承認したのか?(Agreed, or approved?)D:承認しました。エルマー・デイヴィス氏は非常に激しく反応して、文書のどれも認めませんでした。 M:このとき、彼はどんな立ち位置でしたか?(p.729)D:彼は申し上げたように戦争情報局長でした。その他、色々な士官たちが承認しましたが、この文書の出版については——— M: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-2)

1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」でのユージン・ドゥーマンの証言から、グルーとドゥーマンが国務省から追放された経緯が明らかになります。(写真:1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン) アメリカ上院の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会」に証人喚問され、1951年9月14日に証言したユージン・ドゥーマン(D)と委員会の弁護人モリス(M)や上院議員とのやりとり、6-7-3-1に続く部分を抄訳します(注1)。適宜、原文にない小見出しをつけています。
D:これらの事件が実際に起こっている間に、『ネイション』の1945年2月3日号に「危険な専門家」という題名の記事、パシフィカス(Pacificus, 太平洋問題調査会の略称?)のメンバーの記事ですが、発表されました。お許しいただけるなら、読み上げたいのですが。「危険な専門家」と言われる人の中に私のことがありますので。
ドゥーマン氏は天皇崇拝の軍国的な形以外は、天皇制を維持すべきだと信じているだけでなく、日本で我々が頼りにできるのは、ビジネス・リーダーたち、皇族の人びと、そして官僚たちだけだと思っている。
 この記事が出版される2,3日前に極東地域委員会が開かれ、教育問題を話し合っていました。私が指摘したのはビッグ・ビジネス・リーダーたち、貴族階級のメンバー、高レベルの専門家たちの大多数はイェール・ハーヴァード・ケンブリッジ・オックスフォード、その他イギリスと合衆国の大学で教育を受けたということです。我々の路線で再教育することに価値があるとしたら、これらの人々が我々の教育機関の恩恵を受けたのですから、進める要素として最適だということで、そうでなければ再教育には何の価値もないということです。両方はあり得ません。 このようなことを言ったのですが、この記事はそれを捻じ曲げています。しかし、重要なことはこの内容が2,3日後に『ネイション』に発表されたことです。このような場合には排除法を取るのですが、委員会の常任委員で毎回出席し、完全に信頼できる人以外にフリードマンが常に要素としていました。 そこで、フリードマンのところに行って、このような記事の情報源は彼だと非難しました。彼は否定し、この情報を権限のない人に提供したことはないと言いました。(p.714)彼は当時の上司、ヴィンセント氏に話しただけだと言いました。(中略)

敗戦後の日本に関するラティモアの予想

M:ドゥーマンさん、オーウェン・ラティモアがその頃に日本に関してどんな立ち位置だったか、話せる範囲で話してください。1945年のことです。D:(中略)最もよく知られ、引用されているのは『アジアの解決』(Solution in Asia)という本で、1945年2月頃に出版されたと思います。その春と初夏にかけて、日本の降伏まで広く読まれました。 彼のスタンスは、日本人は戦争に負けたら君主制に反対して反乱を起こす;国務省の中には、日本の上流階級の人から得たこと以外日本について何も知らない、いわゆる反動的なファシスト要素の人々がいて、この要素が日本人の意思に反して天皇を維持するために合衆国の影響力と威信を使うつもりだというものです。 もう1点彼が主張したのは、戦争指導者は東條大将やその他の主要軍人ではなく、産業界の指導者たちだということです。陸海軍は大実業家の単なる傀儡だということです。ですから、彼は日本人が反乱を起こし、天皇制を廃止することを認め、これらの実業家たちを戦犯として排除し、二度と影響力を持つ地位にならなければいいのだというのです。 3番目の点は、日本の制度、経済制度を完全に解体し、高度に発達した競争経済制度を確立するということです。(中略) 最近、メディアがラティモア氏を引用して、彼の主張は一貫して日本人が君主制を廃止したいと思う場合は、干渉しないと強調するものだと言ったというのです。これは一面的です。『アジアの解決』の中で、こんなことを言ってます。字句通りには引用できませんが、だいたいこんな内容です。「政治的予言をあえてすれば、日本人は自ら反乱を起こして君主制を廃止する」。 同時にこの頃、降伏の前ですが、グルー氏と私のような人々が天皇に権力を持たせたままにしようとしていると示唆し、それは、アメリカの影響力と地位を行使して、日本人が自らの意思を実行しようとすることを妨げようと私たちが提案したという含みです。(p.715) 1つ言っておきたいことは、天皇に関するこれらの議論が左翼メディアによって続けられたことは全くの気違い沙汰です。もし日本人が天皇を追い払いたいと思ったら、我々が彼を維持するためにできることは何もないのは明らかです。一方、もし日本人が天皇を維持したいと思ったら、我々が君主制を廃止するのは愚かなことです。(p.716)(中略:ヴィンセントも同じ考え方だったかという質問に、彼がこの件で意見表明するのを聞いたことがないと答えます)

追放されたグルーとドゥーマン

イーストランド議員:グルー氏が辞職した時、国務省内でヴィンセント氏はどんな地位でしたか?D:グルー氏は8月14日頃に引退というか、辞表を出したと思います。私は2,3日知りませんでしたが、彼が引退した日、辞表を提出した日ですが、ディーン・アチソン氏(Dean Acheson: 1893-1971)が国務省次官に任命されたという通知がありました。ディーン・アチソン氏は以前に弁護士業に戻ると言って、国務省の次官補の職を辞めたのです。こうしてアチソン氏は1945年8月25日頃に国務省に戻ってきました。その翌日に、彼は極東小委員会の議長はヴィンセント氏に変えると宣言したのです。(p.717)

アチソン-ヴィンセントのポスト降伏初期政策

イーストランド議員:ジョン・カーター・ヴィンセントが日本について提案したことと、共産主義の東欧に対する政策に違いがあるか知りたいのですが。D:共産主義者が東欧で何をしたのか話す資格はありませんが、日本で何が行われたかはお話できます。(中略) イーストランド議員:ヴィンセント氏が日本に対して行おうとした政策と、ロシアが衛星国に対して指令した政策と同じだというのがあなたの判断じゃありませんか?D:えーと、正確を期したいと思うのですが…。 イーストランド議員:あなたの判断はどうなんですか?D:私の判断は同じです。(中略)1945年9月22日にホワイトハウスが「日本に対する合衆国のポスト降伏初期政策」(The United States Initial Post-Surrender Policy for Japan)を発表しました。この文書は私たちの極東小委員会が7,8ヶ月かけて作成したものですが、いくつか重要な変更があります。(中略) M:記録を正確にしてよろしいですか。必要ないかもしれませんが、ドゥーマン氏が証言しているのは、これがアメリカ政策の発布ということで、ドゥーマン氏が国務省に公式に所属している間に取り組んだ文書だということです。そして、このプログラムが最終的に発布された時に変更があったと気づいたことです。それがドゥーマン氏とグルー氏が採用したプログラムを引き継いだ人々によってされたということです。D:その通りです。 イーストランド議員:それはアチソン-ヴィンセント・プログラムだということですか?D:そうです。 イーストランド議員:彼らはこのプログラムで何をしようとしているのですか?D:第一にしたことは、1946年ですが、$1,000以上のすべての財産に60%から90%の資本税を課したことです。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-1)

ポツダム宣言の作成と占領政策について大きく関わりながら、強硬派に追放された外交官ユージン・ドゥーマンが1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」に証人喚問されましたので、その証言を紹介します。

ユージン・ドゥーマンの経歴

タンフォード大学フーバー研究所文書館の「ユージン・ドゥーマン文書」のサイトはユージン・ドゥーマンの外交官キャリアを以下のように記しています(注1)。参考のためにカッコ内に年齢を加えます。
    1912年(22歳):日本での通訳生として採用される。 1915年(25歳):副領事、神戸。 1921年(31歳):書記官、東京。 1924年(34歳):外交官。 1926年(36歳):書記官、二等書記官、東京 1931年(41歳):一等書記官、ロンドン。 1936年(46歳):総領事、ロンドン。 1937-1941年(47-51歳):大使館参事官、東京。 1942年(52歳):国務省に帰省、ワシントンD.C.。アメリカ大使、代理大使、モスクワ。 1943年(53歳):連合国救済復興機関(UNRRA)を組織するために、合衆国に帰国。 1944年(54歳):元大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew: 1880-1965)の特別補佐官。国務・陸軍・海軍調整委員会の極東小委員会の委員長。 1945年(55歳):ポツダム会議の極東問題アドバイザー。 1944-45年:戦略諜報局に対する日本関係アドバイザー、ワシントンD.C.。

太平洋問題調査会に関する公聴会

 上記の経歴からわかるのは、ドゥーマンが1931年の満州事変から日中戦争、真珠湾攻撃、太平洋戦争、終戦と日本占領まで、日本の動向をアメリカ政府に報告し、日本政府との折衝を担ってきた歴史の証人だということです。アメリカの外交文書には1934年からドゥーマンの名前が登場しますが、アクセスできる範囲内の一次資料で興味を持ったのは、1945年11月から46年5月まで続いた「真珠湾攻撃に関する米議会アメリカ議会合同調査委員会」(以後「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack)と、1951年の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会(以後「太平洋問題調査会に関する公聴会」(Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations)です。 時系列的には後になりますが、「太平洋問題調査会に関する公聴会」でドゥーマンが証言していますので、その証言を翻訳紹介します。「太平洋問題調査会に関する公聴会」が始まった原因は、赤狩りとかマッカーシズムと呼ばれる共和党上院議員ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy: 1908-1957)が始めた反共運動です。攻撃対象にされた中国研究者オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore: 1900-1989)が関わっていた「太平洋問題調査会」の関係者を調査するために上院で調査委員会が設立されました。その公聴会が1951年7月25日から1952年6月20日まで続き、66人が証人喚問され、ドゥーマンもその1人でした。実はこの委員会は2つ目の調査委員会で、最初の委員会の結論がマッカーシーの糾弾を「詐欺、でっち上げ」と判断したため、マッカーシーと同じ反共主義者の上院議員マッカラン(Pat McCarran: 1876-1954)を議長として調査委員会が再度編成され、ラティモアが再び攻撃されました。最終報告書によると、この委員会の目的は以下のように記されています。
    「太平洋問題調査会」が共産主義者の世界陰謀のスパイに支配されていたのか、影響を受けていたのか、あるいは潜入されていたか、いたとしたら、どの程度か。 これらのスパイとその手先が調査会を通してアメリカ合衆国政府に働きかけ、アメリカの極東政策に影響を与えたのか、そうなら、どの程度か、今でも影響力を持っているか。 これらのスパイとその手先が極東政策に関して、アメリカ世論を誘導したか。([ref]”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-2)

アメリカ外交官ユージン・ドゥーマンの父、アイザック・ドゥーマンは1888(明治21)年から25年間、アメリカ聖公会宣教師として日本で活動していました。

ユージン・ドゥーマンの父について

ージン・ドゥーマン(Eugene H. Dooman: 1890-1969)の父アイザック・ドゥーマン(Isaac Doman: 1857-1931)が明治後半に日本で宣教師として活躍していたことについて紹介します。『アメリカにおけるプロテスタント聖公会の日本ミッションの歴史』(1891)によると、アイザック・ドゥーマンは1887(明治20)年5月に日本行きの宣教師に任命され、ドゥーマン一家は1888(明治21)年2月に東京に到着したと記録されています((注1), p.28)。また、ドゥーマン牧師はペルシャの出身となっています。イスラム圏のイランでキリスト教徒だったことについて、立教大学設立者のヘンリー・セント・ジョージ・タッカー(Henry St. George Tucker: 1874-1959)が回想記の中で以下のように述べています。
 ドゥーマン氏はペルシャのイスラム教の環境の中で何世紀もキリスト教信仰を守ってきたキリスト教グループの一員だった。ペルシャで活動していた宣教師グループが若い彼をアメリカに送り、神学校教育を受けさせた。しかし、彼はアメリカに送ってくれた宣教師の非儀式宗派より、米国聖公会の方が自分が育った儀式と信仰が一致した宗派に近いことを知り、自分の支持母体の許可を得て、ゼネラル神学校(General Seminary)に入学した。我々[聖公会]はペルシャでは活動していないので、(中略)彼は卒業後日本での宣教活動を任命された。((注2), p.180)

奈良・和歌山での宣教活動

 アイザック・ドゥーマンは自著『神々の国における宣教師の生活—日本におけるアメリカ聖公会宣教師の25年』(A Missionary’s Life in the Land of the Gods: For Twenty-Five Years A Missionary of the American Episcopal Church in Japan, 1914)で日本での宣教師生活と日本観について述べています。1888年3月15日に大阪から妻と幼い子ども2人と奈良に移り、奈良で8年間宣教師活動をしたと書かれていますから([ref]Isaac Dooman, A Missionary’s 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-1)

1930-47年にまとめられたアメリカ政府刊『アメリカ合衆国の条約』で日米和親条約・琉米条約・日米修好通商条約締結までの経緯を検証し、ペリーとハリスの報告書と幕府の記録と照合し、幕府の記録力を高く評価しています。節(6-6-15, 6-6-16)で紹介した『アメリカ合衆国の条約』第6巻(Treaties and Other International Acts of the United States of America, Vol.6, 1942)の「文書164 JAPAN: 1854」を読むうちに、様々な意味で貴重な文書だという思いを強くしたので、この文書で編者のミラー(6-6-15参照)が何に着目したのか紹介します。 『アメリカ合衆国の条約』全8巻のうち、日本との条約が含まれているのは、第6, 7, 8巻です。第6巻には「文書164 JAPAN: 1854」(日米和親条約)、「文書166 LOOCHOO(RYUKYU): 1854」(琉米条約)、第7巻(1942)には「文書191 JAPAN: 1857」(ハリスとの交渉)、「文書200 JAPAN: 1858 and 1859」(日米修好通商条約)、第8巻(1948)には「文書221 JAPAN:1861」(ヒュースケン暗殺事件)が含まれています。本節では「文書164 JAPAN: 1854」を紹介します。

「文書164 JAPAN: 1854」の特徴

 この文書の執筆者名は記されていないので、ミラーを文責者と仮定して述べていきます。以下は文書全体の特徴です。

特徴1:

第6巻のミラーの序の日付が1941年9月8日((注1), p.vi)ですから、日本時間12月8日に真珠湾攻撃をしたという点で、ちょうど3ヶ月前にまとめられたペリーの条約検証となっています。真珠湾攻撃の3年前(1937年12月)に日本軍による南京虐殺事件と、揚子江上の米英の軍艦が日本軍に攻撃され、アメリカ軍艦は沈没、死傷者多数という「パナイ号事件」も起きていました。アメリカ議会では日本に対する経済制裁をすべき、いや中立を守るべきという攻防戦があり、市民の間では日本製品の不買運動が始まっていたことなど、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は詳しく報じています。そして、日独伊三国同盟のニュース(1940年9月)では、日本がアメリカを仮想敵国としているという報道で、毎日のように日本の動向が大きく報道されています。そんな最中に、日米関係史の出発点となったペリーの日本遠征と日米和親条約の検証をしていたわけです。

特徴2:

ミラーは最初から公刊された『ペリー提督日本遠征記』(1856)は信頼できないとして、ペリー艦隊の旗艦の航海日誌、米海軍省のアーカイブ、遠征に随行した主任通訳サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』(1910)と1920年代に在日本・アメリカ大使館書記官が英訳した「幕府役人の日記」などを条約検証のための根拠にしています。

特徴3:

1930年代にアメリカ政府の「条約ファイル」に残っていた日米和親条約の英語原文・日本語原文・漢語・中国語訳・オランダ語訳などを詳細に照合検証して、多くの違いがあることを指摘しています。

特徴4:

ミラーの解説を注意深く読むと、現在「日米和親条約」として知られている条約の英語ヴァージョンが、日本が合意した内容とは違うために、その後の混乱をもたらしたことが読み取れます。しかし、ミラーがはっきりと「日本語ヴァージョンは全く違う」と指摘しているのは、第11条と第12条だけです。第11条の英語ヴァージョンは、アメリカが必要と認めれば下田に領事を常駐させると読めますが、日本語ヴァージョンは、領事の件は条約調印から18ヶ月以降に交渉すると読めます。第12条条約批准書交換は調印から18ヶ月後と日本語ヴァージョンは記しているのに、英語ヴァージョンは「18ヶ月以内、できればそれより前」と書いてあると指摘しています。 この他の条約文にも日本語ヴァージョンと大きく違う点があると示唆はしているのですが、ミラーは正面きって「条約原文の問題」と題した節では指摘せず、他の節で、あるいは脚注で密かに示唆するにとどめています。

特徴5:

ミラーは国務長官の文書でも、事実と違う点は根拠を示して「正しくない」とコメントしてます。ペリーに関しては、直接的な批判や価値判断的なコメントはしてませんが、「文書164 JAPAN: 1854」全体を注意深く読むと、脚注にペリーの記述に反する文書を引用するなどして、どちらが信頼できるかの判断を読者に任せる手法をとっています。ミラーが条約文の専門家だから根拠の提示で示そうとしたのでしょうし、1941年という時代背景の中で日米関係史の第一歩がペリーの脅しや詐欺的言動によって問題の多い条約締結になったと読めるような書き方を避けたこともあるのかもしれません。いずれにしろ、21世紀の目からは、ミラーの文章には謎解きのような面白さを感じます。

特徴6:

もう1つの特徴は、ペリーの日本遠征当時のオランダ政府の対日本の姿勢が書かれたオランダ政府の記録を英訳して掲載していることです。相当の紙面を割いている理由は、砲艦外交だったペリーに比べ、外交とはこうあるべきとでも言うようなミラーの紹介の仕方だと感じましたので、後に翻訳紹介します。

「幕府役人の日記」

ミラーが「文書164 JAPAN: 1854」でウィリアムズの日誌と並んで引用しているのが「幕府役人の日記」と題された資料です。その説明をしている箇所(p.593)を訳します。
1854年2月16日から4月10日までの非常に興味深い記録が「幕府役人の日記」(Diary of an Official of the Bakufu)と題され、日本アジア協会のThe Transactions of the Asiatic
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