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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-7)

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“”The Navy—The Japan Expedition—The Mexican Boundary”, The New York Daily Times,”

1852年10月〜11月の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』に「アメリカの捕鯨産業に協力しない日本は征服すべき」「アメリカは良心の呵責なく、抑制もなく、日本を完全に征服する」という主旨の記事が掲載されます。 10月1日に「日本」と題した非常に長い記事が掲載されます。それまでの批判記事とは対照的にアメリカの都合に従わない日本は酷い国だという論調と、これから征服する国はどんな国かの情報です。主要点を抄訳します。

個人の閉じこもりは個人の自由で、誰も問題にしない

 自由貿易と互恵の現代において、世界の貿易に対して自国の港を閉じたままの国、外国人の到来[advent:キリスト降臨の意味も]を禁じるだけなく、自国民が不運にも他国に行った場合、帰国の要望を認めない国というのはそれ自体奇妙なことだ。個人が世界から閉じこもることを選択する場合は、何の咎めもなくそうすることができるのは間違いない。このことについては誰も問題にしない。このような人は風変わり(strange fish)とみなされ、隣人たちは通り過ぎるだけだ。

10万平方マイル、3千万の人口の国が閉じこもるのはけしからん

 しかし、10万平方マイルの地域の国、3千万の人口の国がこのようなことをして許されるかは別問題だ。このようなことを、アメリカ領の真向かいにあり、合衆国の大西洋岸全体よりも広い海岸を持つ日本が今までしてきた。この海岸をアメリカの捕鯨船が年数百隻も通っているのである。緊急事態でも日本は援助を拒否するだけでなく、貴重な船が日本の不親切な岸に漂着した場合、乗組員を逮捕し、虐待し、殺し、他の者に日本に上陸させない警告とするために、カゴに閉じ込めて見世物にさえするのだ。

日本遠征の目的は日本に文明の理性を強制すること

 このような国は文明の進歩において奇妙な光景となっている。このような状態がいつまで許されるのかは、日本に「理性に服す」(原文強調”listen to reason”)ことを命じる目的で艤装されたアメリカの遠征の結果次第である。過去12ヶ月の期間中の1時期に、サンドイッチ諸島[ハワイ]に停泊したアメリカの捕鯨船は12隻ほどいて、操業の現場から相当の距離である。彼らがもっと近く、便利な日本の港に入港しないのは、その結果を恐れてという理由以外にはない。(中略:この後地理と気候、豊かな国という記述) この国の住民は外国人にこの国の恵みを受けさせないと固く決心しているようだ。彼らは互恵の原則は全く知らない。自由貿易だけでなく、あらゆる貿易を完全に否定している。隣人たちとの取引も持たず、中国皇帝の甘言でさえ成功しなかった。その人を寄せ付けない海岸に日本が認めた国が地球上でただ1国あるが、その通商さえ限定されている。毎年2隻のオランダ船が認められているが、その条件があまりに屈辱的なので、ヨーロッパの文明国で従う国があるということ自体が驚きである。
この後に続くのは要約すると次の事柄です。通商が自由な時代があったが、ポルトガルのイエズス会の行動のせいで、16世紀末から17世紀初頭に制限された;イギリスも通商を許されていたが、鎖国で止んだ;アメリカの通商の試みが不成功に終わったこと。唯一許されたオランダの代表が将軍に謁見し、退出する際の振る舞いが「額を床につけてお辞儀をし、一言も発せずに、カニのように這って戻った」と記された後、西洋世界は蒸気船と鉄道で繋がった今と、以下の記述が続きます。

平和的な日本は強力な文明国の最初の攻撃の餌食に簡単になる

これらの国々が自分たちに課した拘束を続けることはもはや不可能だと考える。欧米の文明が彼らのドアそのものを激しく叩いている時に、その波が入ってくるのを拒絶することはできるはずがない。その結果が彼らにとっても有益だと明らかにされたら、拒否を続けることはしないだろうと思う。数千人の中国人がカリフォルニアにたどり着き、新世界の植民者の中でも、最も勤勉で繁盛した人々だ。彼らの成功の知らせは日本人に影響を与え、改善に寄与するだろう。彼らの軍事力がどんなものか、もちろん我々には直接確かめる手立てはない。日本は中国の場合以外、外国との戦争の経験が全くないことを考えると、そして、我々が知る限り、日本政府はいつも平和的制度を続けてきたので、強力な文明国が日本の岸を襲ったら、最初の一撃で簡単に餌食となることは疑いない。
 最後の文には、欧米文明は平和な国を襲うことを自明のこととしている含みがあるようです。この後はさらに詳しい日本の地理、気候、政治機構、社会制度、服装、軍事的側面、刑罰の厳しさ、自白を引き出すための残酷な拷問、男尊女卑の風習、住居等々について述べられています。
 この風変わりな人々について冷静に検証すると、この国よりも高度な文明の国々が真似をしても良い多くの徳がこの国にはあることがわかる。彼らは穏やかで、つましく正直である。酔っ払いが見られることが最も不名誉な行為の一つで、これは日本人の罪であろう。一見すると、彼らが鎖国を維持する決意のように見えるのは信用ならないものに思える。しかし、彼らが接した唯一のヨーロッパ人がキリスト教の衣をまとって、この平和で無害な人々に対して犯した恐ろしい行為の数々を考えると、彼らの平安を傷つけ、日本政府の平和的性格をかき乱すためだけに入国した外国人から受けた過去の経験から、全ての外国人を日本の岸から除外する不当な仕打ち決断することに驚く根拠はほとんどない。 この国の教育に関しては、この島国の人々は世界で最も人智が開けている。ほぼ全員が読み書きができ、国法を完璧に知っている。国法は主な町や村の公共の広場に大きな立札によって知らされる。
 この後は農業、工芸品などの技術が高いこと、世界の情勢については一般人は知らされず、政府は中国とオランダを通してヨーロッパの政治状況の情報を入手していること;ロシア政府が平和的意図しかないと日本を納得させようとしているが、北から彼らを征服する国が来るという古代からの伝統で不安に感じていること;日本語の書き言葉は中国語をもとに48文字の主に音節シンボルからなっていることなどが述べられています。

アメリカは良心の呵責なく、抑制もなく、日本を完全に征服するだろう

十中八九、この国の状況は急速な変化に見舞われるだろう。この国に対して行われるアメリカの遠征が成功を保証するようにと計算された規模なのかどうか、我々には確かめる手段がない。しかし、次のことは疑いもない。ブラザー・ジョナサンは良心の呵責もなく、抑制もないそのエネルギーで、日本の完全な征服を達成するだろう。(原文は斜体で強調)日本を手に入れたら、この国をどうするのかは解決すべき問題として残る。この国の気候、火山、地震など今まで述べてきた興味ある自然現象は、アメリカ人の体質に合いそうもない。それはともかく、間もなく大きな素晴らしい変化が起こるに違いない。ビルマ帝国が我が国の領土に併合されたら、日本は二つの恐るべき敵に挟まれるから、そのいずれかの国に日本は屈服せざるを得ない。これがサクソン人がアジア人と衝突したら必ず起こることだ。西洋は東洋に移され、東洋は、中国人のカリフォルニア移住を通して、西洋に移される。インドとその東部列島は我々のものになった。中国の平和的屈服はすでに始まった。オーストトラリアには広大で肥沃な土地がある。我々の目の前に果てしなく広がる光景は何と輝かしい未来だろう。(中略) [アメリカは]アングロ・サクソンの祖先の豪力と鉄の意志と[伝統から]自由な組織をもってすれば、将来どんな国家が生まれてくるかわからない。蒸気という強力な手段に助けられれば、この素晴らしい未来の進歩や限度を推測するのは無駄だろう。我々の予想が実現するのは何年も先のことだろうし、現在の世代が忘れられる頃だろう。しかし、これらの国に列強の病原菌が存在し、「植民者」としてここに送る国の名声と威信が失われた頃、偉大で自由な国として繁栄し、擦り切れ疲れ果てた世界の羨望と賞賛となるだろう。
解説:この記事は署名はありませんが、最後にThe United States Magazineと記され、まるで記事全部の出典がこの雑誌だというかのようなので、確かめてみました。The United States Magazineという雑誌はThe United States Magazine and Democratic Review, またはThe Democratic Reviewという雑誌名に変わっていますが、確かに1852年4月号に同じ”Japan”という題名の長文の論文[ref]”Japan”, The Democratic Review, vol.30, no. CLXVI, April 1852, pp.319-332. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=umn.31951000899478[/ref]が掲載されています。署名はありませんが、内容からイギリス人によるアメリカ評の趣があります。引用者の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事のうち、日本の歴史等は『デモクラティック・レヴュー』の要約のようですが、『デモクラティック・レヴュー』の以下の驚くような意見は省かれています。
    我々の義務と宿命は世界中、特に中国と日本というモンゴル系国と通商を行うこと(p.321)。 我々の立場は人類によって所有されている交通・貿易に対する自然権に関わること(p.322)。 日本の樟脳、銅、銀;瀝青質の石炭の山は太平洋の蒸気航海に大きな補助であり、商業の幅広いシステムにとって不可欠になるものだ。(中略:杉材木、お茶にも言及)これらすべてが太平洋と大西洋の市民の企業に対する報償の手段として即刻利益をもたらすものを提供する(p.332)。 この風変わりな国の内陸にどんな豊かな資源があるかは誰も予測できない。
 最後の結論では、日本の社会制度がいかに酷いかを述べ、こんな国を征服するのは正当だと導くようです。
    残酷な封建制度が農民を抑圧し、屈辱的な隷属が貴族たちに足かせとなっており、商人は完全に軽蔑されている。 恣意的な法律と残虐な法規が農業を阻害し、ゴロツキ僧侶たち、腐敗した警察、千もの堕落した迷信などが社会・政治生活全体を構成している。 かつては高貴で賢明で独創的な国だったのに、ここまで落ち込んでしまったのは同情を催さずにおかない。理性・文明・進歩・宗教が日本を通商に開かせることを要求している。
 『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事は、この雑誌から引用したような体裁で、異なる意見を表明しているような感じです。そうせざるを得ないほど、日本征服の声が強まっているということでしょうか。
    1852年10月20日(NYDT):「海軍—日本遠征—メキシコ境界線」ワシントン発、10月19日[ref]”The Navy—The Japan Expedition—The Mexican Boundary”, The New York Daily Times,
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-6)

1852年4月8日にアメリカ議会上院でペリー日本遠征の目的について情報を提供せよという議論があり、メディアでも目的についての批判記事が出たためか、1年前の遠征指令文書が新聞に掲載されます。同時期に日本遠征は軍事目的だという厳しい批判記事が報道されます。 以下の指令文書がメディアに流され、解説なしに全文が掲載されました。長いので、原文にない小見出しをつけて抄訳します。
    1852年4月24日(NYDT):「日本遠征—オーリック提督への指示」((注1), P.1)国務省長官ダニエル・ウェブスターより、ワシントン、1851年6月10日火曜日ジョン・H・オーリック提督[宛]

カリフォルニアから中国への蒸気船航路利用には日本に開国させなければならない

 中国から東インド諸島、エジプトまで、そこから地中海を通って大西洋、イギリスへ、そこからまた我が国の幸多き海岸とこの偉大な大陸の他の地域へ、我が国の港から西洋の2大陸を結ぶ地峡の南部へ、そして太平洋の海岸から北へ南へ、文明が広がる限り、我が国と他国の蒸気船が情報と世界の富と多くの旅行者を運ぶ蒸気船の海洋航路チェーンの最後の輪が間もなく完成する。 大統領の意見は、この偉大なチェーンの最後の輪を我が国の進取的な商人たちに提供するための手段をすぐに講じなければならないというものである。カリフォルニアから中国への航路を早く可能にするために、我が国の蒸気船が往復するのに必要な石炭を日本から購入できるよう日本の皇帝から許可を得ることが望ましい。外国の船に対して開港するよう申し入れてきたのを日本帝国が過去2世紀も拒否してきた警戒心は有名で、日本の鎖国政策を変えよという新たな試みも全て恥をかかされてきた。 商業的関心から我々は日本の君主に再度アピールする必要がある。我が国の商人たちに日本の職人の製品や農家の生産物ではなく、あらゆるものの創造主が日本の島々の奥底に堆積させた天の恵みを人類家族のために、売ってくれと頼むのだ。

大統領から日本の皇帝への書簡と日本の漂流民の返還

 大統領の指示によって、日本の皇帝宛の手紙をお渡しする。それを旗艦で江戸に運ぶこと、艦隊の軍艦をできるだけ多く伴って行くこと(訳者による強調)、書簡の中国語訳はカントンの合衆国公使館で用意するので、香港かマカオに停泊した時に受け取ること。 そこで、バーク船オークランド号に助けられた日本の漂流民数人を待たせているので、彼らを江戸まで連れて行き、皇帝の役人に引き渡し、通訳を通じて、アメリカ政府は我が国の海岸にたどり着いた日本の漂流民を親切に取り扱うと保証し、日本の海岸に漂着したアメリカ市民を同じく扱うことを期待していると伝えること。大統領の日本皇帝宛の手紙は日本の高官に手渡すこと。その人物に訪日の目的を伝えること。

日本は石炭が豊富だから拒否する理由はない;アメリカは他国の宗教に干渉しない

 日本には石炭が豊富に埋蔵されているから、日本政府は我が国の蒸気船に公正な値段で売ることに反対することはできない。この目的のためには日本(Niphon)の東の港が最も望ましい。しかし、日本政府が鎖国制度をあくまでも続けると主張するなら、日本の船で石炭を、蒸気船がアクセスしやすい近隣の島に運ぶよう日本政府を説得すること。こうすれば、日本人の多くと接触する必要性を避けられるだろうと。 貴殿が接する日本の役人にあらゆる機会を捉えて、合衆国政府は自国市民の宗教に対する権力は持っていないので、他国の宗教に干渉すると心配することはないと説得しなければならない。

日本政府と合衆国間の友好通商条約締結の全権を与える

 大統領は日本政府がこれまでいかなる国とも条約を結ぶことを嫌っていることは十分承知しているが、貴殿がその思いを克服できると期待して、合衆国と日本帝国の友好と通商条約の交渉および締結の全権を貴殿に与えることが適当だと考えられる。 合衆国と中国、シャム国、マスカット(オマーン)との友好通商条約のコピーを参考までに渡す。我が国の船舶が日本の港、1港かそれ以上に入港する権利と、高額な港湾諸経費なしに、船荷を売るか物々交換する権利を貴殿が獲得することが重要である。さらに重要なのは、日本政府がアメリカ人船乗りと彼らの所有物を保護する義務を負うべきことである。マスカットとの条約の第二項と、シャム国との条約の第五項がこれらの目的を述べている。 貴殿もご存知のように、全ての条約の批准は上院にかけられることになっている。日本との距離の大きさと予想できない困難さを考えると、貴殿がこの目的を達成し、批准の交換の期間を3年間とするのが懸命であろう。
解説:アメリカが締結した条約のうち、「マスカット」というのは、1833年に現在のオマーンの首都マスカットでオマーンのサルタン国と締結した友好通商条約のようです(注2)。この書簡の下にオランダ大使からの口上書が掲載されています。

オランダ大使からの口上書:1851年4月30日

 日本帝国政府が日本から外国船を排除しているのは悪名高いですが、日本政府は1842年に、日本の海岸に嵐で漂着したり、水や燃料用薪を求めて寄港した船の場合は、求めに応じて許可することにしました。 しかし、人道的配慮からなされたこの決定が間違った解釈を呼び起こす懸念から、日本政府はオランダ政府に対して、この決定が2世紀以上前に日本政府に採用された鎖国制度を侵害するものでも、修正を意味するものでも決してないことを他国に知らせて欲しいと依頼しました。この制度ができて以来、外国船が日本の海岸を探索することは禁じられており、それは今も有効です。 オランダ政府はこの依頼に従うことに難色を示しませんでした。特に日本政府がこの種のコミュニケーションをする方法を持っていないからです。また、ハーグの内閣からの指示を遂行するにあたって、オランダ公使館は上記の事実を合衆国国務省長官に伝達することを光栄に存じます。
 この2日後4月26日の上院で海軍の「日本遠征」の目的について大統領に問いただすための決議を28日にしたいとボーランド氏が発言したと報道されていますが(注3)、予定の4月28日の上院の議題を掲載した『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事には「カリフォルニアの征服」という議題と、下院で「メキシコの要求」という議題が議論されたことしか掲載されていません。 そして、5月1日の第一面トップ記事「日本」にはゴローニンの日本での経験(4.9参照)を長々と紹介しています(注4)。この頃のニュースには、ハワイの獲得、ネイティブ・アメリカンを武力で排除する動き、アフリカ奴隷貿易、キューバの買収等々が毎日のように掲載されています。この文脈の中ではアメリカ政府が日本を武力で獲得しようとしているのではないかと『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が不信感を顕にして警鐘を鳴らしている意味がわかります。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-5)

1852年4月の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』は「東洋における西洋」と言う巻頭記事で、戦争によって領土を拡張する英米の正当性を強調しています。 「東洋における西洋」『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1852年4月17日 原文にはない小見出しを適宜付けます。
    1852年4月17日(ILN):「東洋における西洋」[巻頭記事](注1) 西洋はずっと前から東洋に来襲していた。ヨーロッパの影響と思想の波は、その中心である大英帝国から一方ではインドに、他方ではアメリカに襲った。我々の東洋における「工場」は隷属的帝国となり、我々が統治するには厄介で手に余るほどになった。一方、西部における我々の植民地は独立帝国となり、その豪華さと影響と力において、その親と競争するほどに成長した。(中略)

大英帝国の欲望は果てしなく、節度などない

 大英帝国は今現在新たな東洋の戦争にてこずっている。我々は人口の多い、半野蛮のビルマ王国との全面戦争の最中だ。インドの豊かで広大な帝国を所有した今、アレキサンダー大王の領土が価値なきものになるほどだ。我々は時には領土を失うという前提条件で領土拡張をせざるを得ない。我々にとって、節度が侮辱や攻撃から我々を守ってくれることはない。傲慢で部分的な情報しか持たない野蛮人が愚かにも我々との衝突に突入してくる。その結果は、ハリー・スミス卿(Sir Harry Smith: 1787-1860)のフィール部族に対する脅しがインドの原住民に対して実行された。彼ら全部が、あるいは一部が我々の消化具合や気分や都合に合わせて、少しずつ「食い尽くされた」(原文強調:”eaten up”)。シンド地域とパンジャーブ地域が我々が求めた増大路線の犠牲者の直近例だ。中国は以前同じような例を与えてくれたので、我々は香港島を食した。我々の胃のキャパシティーの証拠として香港を併合したのだ。ビルマが次の例として約束されている。(中略)

戦争は領土拡大の手段であり、東洋にいい刺激を与える

 西洋の屈強な男たちが東洋に移住すれば、必ず喧嘩が起きる。喧嘩から戦争になり、戦争から帝国の拡大になる。これら全てから、その手段は悪く見えるかもしれないが、長く停滞し、膿で爛れ、腐りきったアジア世界の文明に衝撃と刺激を与えるのだ。その刺激から、どんな有益な結果がこれから世界に生じることになるのかはわからない。そして、精力が尽き果て、しぼみゆく東洋の愚鈍な保守性と、活動的な西洋の心との衝突のおかげで、商業・芸術・科学・文学・哲学・人間性・宗教の勝利と進歩がもたらされるかもしれない。

大英帝国は征服の先頭に立ち、今や東洋で最高の強国だ

 これまで大英帝国はこの自然のプロセスの衝となってきた唯一の国だった。ヨーロッパ史の初期にはオランダとポルトガルだった。その頃、この2国はイギリスよりもっと活動的、進取的、商業的だった。イギリスはその頃様々な事情からそうなれなかった。2国は日本と中国との間に準友好関係、準敵対関係を築いていた。フランスもまた東洋に足場を得ようとしたが、それほど成功しなかった。最近のフランスの影響力はほとんどなくなってしまった。ポルトガルの影響力はヨーロッパにおける重要性にふさわしい程度まで弱まった。オランダの影響力はまだ大きいが、地域的に限定されている。イギリスの影響力は彼らの後を継いだ。そしてこの国は良きにつけ悪しきにつけ、悪よりも善のためだと我々は心から信じるが、東洋の最高の強国になったのである。我々は征服のために出て行き、刀によるだけでなく、我々の思想の力によって征服した。軍事力を使うことはなかなかせず、どうしても抜かなければならないときだけ刀を使ったのだ。

大英帝国の息子であるアメリカが真似を始めた

 我々が東洋に西洋文明を確立したことで、世界全体にどんな益がもたらされるかはこれからの時代が十分に証明するだろう。しかし、この強力なゲームをするのは今や我が国だけではない。雄親がしたことを息子が真似する。大英帝国が示した例はアメリカに影響する。ジョナサン[Jonathan=アメリカ]はジョン[Johnl=イギリス]が達成したことをやってみようと決意している。東洋は両側から無礼な揺さぶりを受けなければならない。

アメリカが中国と日本と喧嘩をする時がやってきた

 カリフォルニアで金鉱が発見されてから、太平洋の西海岸に活気ある人々が続々と移住してきた。アメリカ合衆国の子どもたちがその鋭い長期的に見渡す目で予想したのは、中国か日本、あるいはその両方との喧嘩が遅かれ早かれ、カリフォルニアの植民地化の結果としてやってくるということだ。アメリカのオピニオン・リーダーたちは日本のドアをノックして、「この人々が何でできているか」(原文強調”what the people were made of”)見定める意図を隠さない。1850年8月の本紙に掲載された「カリフォルニアとアジアの隣人たち」と題された記事(4-1参照)で、この問題にイギリス世論の目を初めて向けさせた。(中略)その後、パーマーストン卿が外務大臣だったときに、イギリス政府は日本帝国に向かって、世界に対し隣人らしく振る舞うよう促す試みをわずかだがした。しかし、この試みは大胆さに欠けていた。イギリスの権利の意識がまだ十分強くなっておらず、また、任された大使が日本に喧嘩を仕掛けて、戦争を起こすには、世論の食欲や感情がまだふさわしい程度に盛り上がっていなかった。したがって、パーマーストン卿が与えたヒントはまだ効果がないままだ。日本は我々や外の世界に見向きもしなかった。そして以前のような「偉大な未知のもの」(原文強調”the great unknown”)でい続けた。つまり、思想、商業など世界の必要物を遮断し続け、人類の一般事業に手を貸さず、国家間の警察的役割や海洋保安に何の貢献もせず、中国以外の外国を野蛮人、敵として扱い続けているのだ。 しかし、我々が停滞している一方で、偉大な商業国家である合衆国の前進的な人々は、公的債務もなく、良心の呵責もなく、アグレッシブになるという力と意志を両方持ち、2年ほど前に遂に日本に公正な手段でも汚い手段によってでも、世界に対する義務を果たさせると決心した。一見すると、そのような進め方の道義は問題があると見えるかもしれないが、大人の見方で考えれば、その避けられない必然性は合衆国の手段であろうと、我々であろうと、あまりに明らかだ。不思議なのは、この偉業が今着手されようとしていることでなく、ずっと昔に達成されなかったことだ。
 この後に、日刊紙New York Courier and Inquirerの記事を引用しています。内容は、日本の地理;人口;アメリカ捕鯨船との関係;外国との通商を拒絶する権利はない;膨大な長さの海岸線を所有している;嵐などで日本の海岸線に漂着したアメリカの船乗りを虐待し、時には殺す等々です。引用の後の最後の段落では、ペリー提督の日本遠征の艦隊について述べた後、以下の文章で締めくくっています。
アメリカ政府はこの計画に取り掛かったのだから、「最後までやり通す」(原文強調”carry it through”)ことを確信している。アメリカ人の大胆な気性と若々しい野望に全くふさわしい事業だ。結果がどうであれ、日本当局には同情の余地はない。[彼らに]なされることは全文明世界にとっても、日本にとっても究極の利益になるだろう。
解説:ハリー・スミス卿は陸軍大佐として1835年に南アフリカの喜望峰地域でカフィール族との戦争を担当し、1845年から46年には少将としてシーク教徒との戦争を指揮しました(注2)。中でも1846年1月のパンジャブ地方における英軍とシーク軍の「アリワルの戦い」(Battle of Aliwal)は、英軍の視点からは「ほぼ完璧な戦」と評される圧倒的な英軍優勢の戦争でした(注3)。 “The Great Unknown”はウォルター・スコット(Walter Scott: 1771-1832)が「ウェイヴァリー小説」を匿名で出版した1814年から、彼が13年後に告白するまで、「偉大な未知の作家」として知られていた名称です(注4)。その後、「偉大な未知のフロンティア」という意味で、グランド・キャニオン探検(1869)に使われ[ref]Jason Mark “John Wesley Powell and the “Great 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-4)

ペリーの日本遠征計画についてアメリカ議会上院は、「米国と何の諍いもない日本に賠償金を求めるのか」と非難しますが、評決結果は半々で、翌日の『ニューヨーク・デイリー・タイムス』は上院が大統領に忖度していると批判します。
    1852年4月9日(NYDT):「第32回議会…上院…ワシントン、4月8日 「日本遠征」(注1)

議会は日本遠征の目的を知らされていない

 最近、海軍に命じられたインド洋、特に日本への遠征についてボーランド氏の、大統領に上院に説明をせよという決議案が取り上げられた。メイソン氏(James Mason: 1798-1871)が現時点では決議案に投票する権限がないと感じると述べた。彼は個人的にはこの遠征について何も知らないが、大統領は一般的な国益以外の目的は持っていないと推測すると言った。これに反する情報がもたらされるまでは、この決議案に投票することはできないと言ったが、これは普通ではない。 ボーランド氏が下院での議論を読み上げ、海軍委員会の議長が遠征隊がまもなく航海に出ると宣言したと示した。彼はまた、ボストンで出版された新聞記事を読み上げた。遠征は政権の主要メンバー(国務長官)によって立ち上げられ、特別機関として確立され、存命させられてきた。

米国と何の諍いもない国に賠償金を求めるのか

 デイヴィス氏(Jefferson Davis: 1808-89)—何の文書か? ボーランド氏—「私たちの国」(Our Country)という題名の文書だ。ウェブスター氏(Daniel Webster : 1782-1852, 当時の国務長官)を大統領にというあからさまな宣伝のために作られた文書だ。この中で、遠征の目的が様々あるが、日本から過去の損害賠償と未来の安全保証を得ることが目的だと主張されている。ボーランド氏が特に驚いたのは、この政権とその仲間たちが、メキシコ戦争が過去の損害賠償と未来の安全保障を得る目的だとして聖なる嫌悪(holy horror)を表明したのに、今や、我々が何の諍いも持たない国に対して同じような目的の遠征に着手し、奨励していることだ。政権が信頼している新聞がこのような情報を与えられ、遠征によって得られる偉大な目標を賛美する一方、遠征の費用負担の責任を担わされる上院が遠征に関する情報を要求するのはひどいと言う。ノースキャロライナの上院議員(マンガム氏、Willie Mangum: 1792-1861)が民主党に進歩と干渉の教義について訓戒した時、我が国の領土からはるか遠い国の人々に対する海外遠征を称揚したのは些か矛盾してはいないか?

評決結果は半々

 マンガム氏は自分は民主党にもその他いかなる政党にも訓戒などしたことはないと言った。あの政党は肉体的倫理的勢いで動くから、自分が抵抗しようとするなどとは馬鹿げている。西洋の竜巻きをわら1本で止めようとするか、ジブラルタルの岩を火薬1粒で爆破しようとするに等しい。彼が何を言ったとしても、それがどの程度にせよ、民主党を支配したり、導いたり、改善したり(これがはるかに重要だ)するなどと考えもしない。(笑い)。 ボーランド氏は上院が民主党の権力の正しい概念を抱いていることを知って嬉しいと述べた。彼は繰り返し、この上院議員が干渉の教義を非難し、この遠征に賛成していることは矛盾していると考えると述べた。(中略) グウィン氏が評決を動議し、結果は賛成20、反対20だった。 グウィン氏は決議案を延期する動議を出し、ボーランド氏が反対した。(中略) 結局、延期の動議が勝った。
 この議会の内容について、翌日のNYDTにボーランド議員擁護の意見記事が掲載されます。この記事もかなり長いので、原文にない小見出しをつけて、段落を多くして訳します。
    1852年4月10日:「日本への遠征」(注2)

上院は大統領に忖度している

 ボーランド上院議員は困難な中で情報の追求をしているようだ。日本への遠征の目的を尋ねる彼の決議は再び延期された。上院は知りたがっていると見えることを望んでいない。上院は大統領の尊敬すべき意図を絶大に信頼している。遠征の意図が何か尋ねることで、大統領を怒らせたり、また不信感を表すことを恐れている。また、多分、尋ねた結果、回答が満足できるものでないことを恐れている。あるいは大統領が回答を拒否するかもしれない。しかし、動機が何であれ、ボーランド氏はこの問題に関する情報を行政部から引き出そうとする努力に対して明らかに大きな障害に遭遇している。 我々は彼の困惑を共有しているから、彼の失敗に特別な同情を感じる。この遠征の計画と目的に関する信頼できる確たる情報を手に入れることに大きな困難を経験している。政府機関によって至る所で、これが非常に大きな出来事となる;この国の商業に新たな分野を開く;東洋世界と合衆国の新たな関係をもたらす;様々な方法でこの共和国[の地位]を地球上の国家の中で高め、拡大する可能性が大きいと我々は聞かされ、安心させられている。これら全ては非常に喜ばしいが、あまり明確ではない。また、同じように強調されているのが、このアメリカ艦隊は日本当局が我々に被らせた損害の賠償を要求すること;日本の港を我々の商業に対して開港するよう強要すること;「どんな危険を冒しても」(原文強調”at all hazards”)日本の「首都」(Capital)に入ること;あの尊敬すべき国に地球上の1強国として義務を教えることだ。これらのより明確で、従ってより満足できる発表は政府機関のコラムを通して我々に伝えられた。

アメリカ政府の日本への過剰な介入に黙従するのは恥

 政府は他国の出来事に参加することに対して最も暴力的に抵抗してきた。多分この状況が我々をして政府を信用できなくさせている。彼ら[アメリカ政府]はヨーロッパの介入を恐怖に駆られるほど恐れているのに、日本に介入しようとする。その過剰な熱意に黙従することに恥ずかしさを感じると告白する。しかし、この明らかな矛盾を一致させようと試みる価値はないだろう。(中略) 議会の様々なメンバーはアメリカが自分たちのことに集中し、他国にも自国のことに集中させることを表明する目的のために、ワシントンの誕生日をこれ見よがしに祝福したが、我々は疑念を抱いている。ウェブスター氏[国務長官]やその他権力の地位にある著名な男たちの見方では、「我々自身のこと」(原文強調”our own business”)というのは必ずしも我が国の地理的境界には縛られていないようだ。

国務長官ウェブスターは日本に干渉することを仄めかした

 我らの輝かしい国務長官は多くの場で、他国の問題も我々の「こと」(原文強調”business”)であるという意見を仄めかしている。海の向こうの国々がしていることが我々には直接的に重要なことかもしれないこと;国際法と商法の様々な問題上、国際関係に触れる様々な事柄において、他の強国に警戒の目を光らせるのが我々の権利であり義務であること;地球上のあらゆる国と同様、我々が所有する権益を主張することである。(中略)数年前に彼が中国に送る我が国の大使に与えた指示を思い出せば、現政権が意図していることが次のようなことだと信じるのは不可能ではない。政権の機関が凄まじい聖戦で、我々特有の殻から外に出ることに反対したにもかかわらず、日本との関係、そしてその他の東洋の国々との関係を現在よりも良い立場に置くのが政権の意図だ。(中略)

アメリカ人船乗りが日本に虐待されたので日本の港を封鎖し爆破する

 この遠征が、東洋の海における我が国の商業[捕鯨]と船乗りたちを保護するために日本に行くと知ることで、我々は喜ぶべきだ。アメリカ人の船乗りたちが日本当局によって地下牢に閉じ込められたり、カゴで晒されたり、その他の方法で虐待されていると発見されたら、噂は間違いではなかったと信じる。[そうであれば、]彼らを解放するために必要な、いかなる方法を使っても解放するであろう。アメリカ人船乗りたちがこのような経験をしたと言われているので、このような扱いをこれ以上容認するよりは、日本のあらゆる港がアメリカ艦隊によって封鎖され、爆破されるのを見る方がいい。我が国に関しては、日本は主張する権利も、乱暴する権利もない。そんなことは地球上のいかなる文明国から、一瞬たりとも認められもしないし、我慢もされない。

キリスト教の神の教えは国家や先住民族の領土権を無視して文明国に与えること

いかなる国も[世界と]「交際を断ち」(to isolate itself原文斜体で強調)、世界中を敵として扱う権利があるとは我々は信じない。国家の「領土」(原文強調Territory)に対する主権はいつも神の主権の下位にある。そして世界の政府のために神が確立した正義の道の下位にある。あらゆる国家の絶対的義務はその国の人民の幸せを促進することだと疑うことはできない。それは文明と開化とキリスト教を国境を通して広げ、人類の進歩と向上に向かって役割を果たすことである。この大陸の初期入植者たちが土地を奪い、その土地の野蛮な住民たちを追い払い、彼らの土地を人間の使用と栽培のために征服する者の手に委ねてきたことに、我々はどんな原則を正当化できるだろうか。土地は人間が耕し、征服し、産業と文明と幸福の住処とするために人間に与えられたという神の幅広い命令以外にはないのだ!(原文強調) したがって、普遍的進歩の道に永遠の躓きの石を置く権利はどの国にもない。(中略)

日本が文明国に領土を使わせないのは、神が創造した地球の乱用だ

 我々は戦争を始めることも、仕掛けられることも望んでいないし、領土の不当な強奪も、独断的強制も望んでいない。しかし、地球上の他の全コミュニティが要求するように、日本から我々への対応に正義を求め、他の強国を敬意を持って認めることを要求する権利がある。日本は世界を無視する権利はないし、他の国々の存在がまるで自分たちの権利を侵害するものだという扱いをする権利もない。地球は人間の使用のために創造され、人類の幸福と文明の進歩に貢献しない時は乱用されているという感じ方が一般的になり、強まっている。全国家はたとえそれぞれの機関は異なっていても、共通の義務と共通の権利があるという感じ方が強まり、広がっているのだから、日本やその他の東洋世界の国々が現在の孤立し、停滞した孤独の立場を永久に維持することは許されない。 我が政府が日本に送ろうとしている遠征隊が新たな関係と「新たな発展と新たな時代」を東洋の国々に開くという名誉ある顕著な役割を果たすことを信じている。
訳者コメント:これまでの論調からトーンダウンしたような、矛盾した内容に思えますが、皮肉か反語的表現とも読めるし、日本に開国を迫る声が強まっているので、多少妥協したような論調に変わったようにも読めます。キリスト教文明国が世界中の土地と自然を征服し利用することが神の教えと信じた結果が、現在の世界規模の環境問題だと教えてくれるような内容です。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-3)

『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の日本遠征計画に対する批判は続き、「艦隊を江戸湾に送るのは日本人を恐怖に陥れ、不信感を持たせるだけだ」と警告します。 以下の記事も長いので、原文にはない小見出しをつけて、段落を細かくして訳します。

日本と合衆国

    1852年2月24日(NYDT):「日本と合衆国」(注1) この初春に出発するとされている日本遠征について、我々はほとんど聞かされていない。ペリー 提督がこの遠征を指揮するよう命じられ、主に蒸気戦艦で構成される大きな艦隊になる。この遠征の真の目的について、その公式の性格は何も暴露されていないが、最近出回っている噂が概ね正しいと思う。もし日本と我が国の通商が確立したら、双方にとって利益があると証明されるだろう。我々の意見は、もし優秀な外交官をこの目的のために採用すれば、通商までの段階は平和に、好戦的な態度を示さずに達成されるというものだ。

艦隊を江戸湾に送るのは日本人を恐怖に陥れ、条約に不信感を持たせるだけだ

 ペリー 提督は今ワシントンで遠征の準備をしているそうだ。そして、彼が取るべき手段を海軍と国務省から口頭で指示を受けていると聞く。噂では、この遠征の準備を「威風堂々」(原文強調”pomp and circumstance”)と表現しているが、そこから判断するに、その指示がどんなものか知るのは簡単だ。数隻の蒸気戦艦と護衛のフリゲート艦と1,2隻のコルベット艦で構成されている艦隊が平和的な行進であるわけがない。そして、これらの船が日本の海に現れたら、かわいそうに海沿いの町の日本人を恐怖に陥れ、同時に正気を失わせるだろうと心配だ。そうなれば、彼らと誠意を持って交渉できるはずがない。その危機感から何らかの条約を結ばせることはできるかもしれないが、戦艦が離れたら条約を自由に破棄できると感じるだろう。

日本は信用できない国か?

 野蛮人を扱う際には、武力に訴える前に彼らの信頼と善意を得る努力が必要だと思う。もし彼らが信用できないとしたら、その裏切りは強制的な条約の後に現れるだろう。(中略)しかし、日本が信用できない国だという知識を我々は持っていない。[そうだとしたら]昔、日本と交易が許されたポルトガル人から、日本はこの[裏切りの]術を学んだのかもしれない。(中略) 日本には、我が国の地理的位置、広さ、我が国の軍事力、日本製品と生産物に対する我が国の需要が大きいこと、そして我々が代わりに何を与えられるかなどを十分に理解させるべきだ。そして最後に我々が国として度量が広いことを感じさせる必要がある。彼らにそう感じさせるためには、我々がそう振舞わなければならない。我々が彼らをそう扱うのは長い時間がかかるかもしれない。(中略)軍事力の強い国が弱い国に対して強制的手段を採る衝動と精神を我々は憎む。

日本はキリスト教国から悪い助言を得ていた

 日本には昔からアドバイザーがいた—しかも、非常に悪いアドバイザーだ—あるキリスト教国である。もし我々が望んでいることを日本との間で平和裡に達成できなければ、それは日本が唯一貿易を許可しているその国より、我々が外交において劣ることを認めるに等しい。我々の考えでは、[軍人ではない]一般人で十分な外交力と著名な能力を持つ人物に、重要な貿易交渉を任せるのがいい。船は1隻だけで、強制的目的で「脅しの」(in terrorem)艦隊を実際に[日本の港に]配置することは必要条件ではない。(後略)。
解説:ペリーの日本遠征の準備の様子を「威風堂々」(pomp and circumstance)と表現していると指摘している引用の出典はシェークスピアの『オセロー』のようです。オセローを貶めようとする部下のイアーゴーが、オセローの新婚の妻デズデモーナとオセローの部下との間によからぬ関係があるとデマを吹き込み、それに惑わされたオセローが嘆く場面で、この文言が発されます。武将として数々の戦勝を誇るオセローが輝かしい経歴ともお別れだと叫ぶように言う場面(第3幕第3場)です。日本語訳は福田恆存の訳(注2)です。 Farewell the neighing steed and the shrill trump, The spirit-stirring drum, th' ear-piercing fife,The royal banner, and all quality,Pride, pomp, and circumstance of glorious war!And O you mortal engines, whose rude throats The immortal Jove’s dead clamors counterfeit, Farewell! Othello’s occupation’s gone. ああ、みんなお別れだ! いななく軍馬、鋭い喇叭らっぱの音、心を躍らす太鼓の響き、耳に突裂つんざく笛の声、軍旗の荘厳、輝かしい戦場のすべて、その誇り、名誉、手柄、一切とお別れだ! それに、ああ、あのすさまじい巨砲のとどろきき、荒々しい咽喉のどうなりに雷神ジュピターの怒号すら吹消してしまうお前ともお別れだ! オセローの、命をけた事業も、ついに終ってしまった! “pomp and circumstance”を「威風堂々」としたのは、この文言がイギリスの作曲家エドワード・エルガー(Edward Elgar: 1857-1934)が1901年に作曲した行進曲名” pomp 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-2)

1852年2月の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』は、開国した方が安全というオランダ国王からの忠告に対し、将軍から回答があったことを紹介し、「外国人の完全な排除以外に平和はあり得ない」という回答は賢明な対応だと評価しています。 以下の記事は非常に長く、この時代のスタイルらしく、段落も非常に長いので、読みやすくするために、適宜、原文にない小見出しを付けて、段落を増やしました。

アメリカが日本を滅ぼす前に知っておくべきこと

    1852年2月7日(NYDT):「日本に関するあれこれ」(注1) アメリカの州の最西端から5000-6000マイル離れたアジアの東海岸に沿って、火山の島々が多数散在している。この島々はベーリング海峡からセイロン[現在のスリランカ]まで不規則に延びている。4万ほどの島々が中国の海岸線に相対するように延びているのが日本の帝国である。我が国の港から間もなく出発する遠征隊の目的地だ。この「テラ・インコグニタ」(原文強調terra incognita未知の大陸)に付与された関心は通商が開かれるという期待である。そこで『タイムズ』はあれこれの情報を提供する。我々が多くのことを教えてあげると提案する相手の国民について少しは知っておくのが賢明だろう。彼らの制度についてわずかでも知ること—この島国の王国について我々が知っている全ては「わずか」(原文強調)としか言えない—は無駄ではないかもしれない。我々が彼らを物質的に変えてしまい、多分、彼らを滅ぼしてしまう前に。(中略:日本の政治機構と欧米との接触の歴史が続きます)

将軍からの返答

 オランダは[日本の]当局に苦情も言わずに服従することで、わずかの利益しかもたらさない出島の商館を維持してきた。1844年にウィリアム王[ウィレム二世]は[日本の]禁止政策の緩和を得ようと考えた。その目的で、将軍に書簡を送り、中国の戦争の結果を詳しく伝え、ヨーロッパの貿易大国に有利になるよう酷い貿易禁止を止めるよう要請した。この提案を大人らしく2年も[原文強調]熟考した結果、将軍は中国帝国の基本的法律が廃止させられたことを含め、あの帝国の出来事の進展を注意深く見守ってきたと述べた。この出来事はオランダ国王が彼の[開国を勧める]議論の元にしたのだが、将軍にとっては現行の政策を再確認する非常に強力な理由になっている。外国人の完全な排除以外に平和はあり得ないことが明確だ。中国がイギリスにカントンに足がかりを得させなかったら、中国の国内機関は邪魔されずに残っただろう。将軍は言う。 「1点でも譲ったら、我々は完全に弱くなる。これが、私の祖先が自由貿易を貴国に許可すべきかの妥当性を討議した時の論拠である。貴国が度々我が国に示した誠実な友好の証拠がなければ、貴国も他の西洋諸国と同じように厳しく除外されたことは確かだ。貴国が特権を得ており、今後も続くことを望んでいる。しかし、この特権をどんなことがあっても他の国には与えないよう特に注意しよう。保存状態のいい堤防を維持する方が、開いてしまってから裂け目が広がるのを防ぐより、ずっとたやすいからだ。我が国の役人にそのように命じた。我が国のこの政策の方が中国帝国のより賢明だと歴史が証明するだろう」。 日本はかなり洞察力があると言えよう。将軍は巧妙に主張している。
解説:オランダ国王ウィレム二世の幕府宛親書(1844年2月13日付)と幕府の返答について「オランダ国王ウィレム二世の親書再考」(注2)という論文から紹介します。親書の形式は「オランダ植民省文書中の国王の布告の形に良く似て」おり、「明らかに上から下へ向けた文書形式で、かなり非礼だと言わざるを得ない」(p.12)と評されていますが、日本側が問題にした形跡はないとのことです。親書の要点は、アヘン戦争を起こしたイギリスの東アジア進出と軍事衝突の危険性を日本は理解しているかの確認;アヘン戦争の情報によって薪水給与令が発令された[1842年]と「オランダ政府は認識しているが、薪水給与だけでは不十分な場合は、貿易を開始したほうがよいという示唆」(p.13)でした。 幕府からの返書は1845年7月5日付で、オランダ国王の親書の内容は「ヨーロッパ諸国の通商拡大要求は強いので、日本へもイギリス・フランスが通商を要求してくる可能性がある」と理解するが、領土を取ろうと思って来るのではないから、手荒に扱うと事態を悪化させるだろうと述べています。親書にはフランスへの言及はなかったのに、幕府側が付け足したのは、フランス海軍のセシーユ提督が琉球に宣教師を残して(3-2参照)、日本進出を狙っているという情報を幕府が得ていたからだろうとのことです。 返書の後半には、日本が近世初期は諸外国との通交を行なっていたこと;朝鮮・琉球は「通信之国」、オランダ・中国は「通商之国」に限定していたこと;オランダは「通商之国」だから「国王親書への返事を書くことは『祖法』に反し、返事はできない」が、「老中からオランダの『摂政大臣』『政府諸公閣下』宛に返書を送る。しかし、今後は、書翰を送って寄越さないように、送ってきても開封せずに返送する」(p.16)という主旨の内容が書かれていました。 オランダ国王親書に対する幕府の姿勢が明らかになったので、オランダは薪水給与令を1851年まで広報しませんでした。各国が“日本が排外政策を放棄しつつある”と解釈するのを恐れたからですが、幕府は” 薪水給与令は、ただ人道的な漂流民の救済を目的としたものであり、従来の国法を変更するものではないので、誤解のないように、各国に再確認せよ“とオランダ商館長に命令し、オランダ植民大臣が外務大臣に要請したのは1851年3月でした。また、日本沿岸の測量を禁止する1843年令をオランダは1847年にイギリス・フランス・アメリカに伝えました(p.19)。この幕府の返書が将軍からとされて、1年後に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』に紹介されたということのようです。

アメリカの過去の開国交渉

 合衆国政府は繰り返しこの島国に拠点を確保しようと試みてきたが、他のヨーロッパの国々と同じく成功しなかった。1846年にビドル提督(1-2参照)がこの帝国の法を犯すというミスをして、江戸湾内でフリゲート艦の錨を下ろそうと入港した。目的は通商関係を結ぶことで、将軍に手紙でその目的を知らせた。提督が交渉を始める目的のこの失態に怒った将軍は素っ気なく以下のように言った。 「日本の法律では、日本人はオランダ人と中国人としか貿易ができない。アメリカが日本と条約を結ぶことは許されないし、この帝国との通商も許されていない。その他の国にも許されていない。それに、外国に関することは江戸湾ではなく、長崎で対応することになっている。したがって、出来るだけ早く出て行き、二度と戻ってきてはならない」。 その後間もなくして、スループ型軍艦が日本のある島で難破したアメリカ人の船乗り2,3人の返還を要求するために派遣された。この点に関する日本の法律にもかかわらず、彼らはすぐに丁重に引き渡された。

米日政府間に存在する敵意の根拠は?

 現在両国政府の間に存在する敵意の根拠が何かあるのか我々は知らない。[日本遠征の]手段を提案した者はもちろん我々よりも知っているのだから、近く我々を啓蒙する努力をしてくれることは疑いない。それまで我々は今持っている光[情報]で我慢しなければならない。以下が集めた光の焦点である。 日本は半野蛮の帝国である。その全歴史において退化もしなければ、進歩もしない国で、人類国家に対して奇妙な見世物を晒している国である。合衆国の我々は明白な使命(manifest destiny)によって「その迷信を征服」(原文強調”conquer its prejudices”)しなければならないと確信しているので、銃弾と弾丸と砲弾でノックし、通路を開く提案をする。目的は天啓を[日本に]入れ、綿布の貨物船を年に2,3隻入れることだ。日本の法律、習慣、社会的慣習は[日本]歴史の最初期から変わっていないと証明されている。これは人類から完全に隔離された結果である。だから、我々はこの授業[日本遠征]をするのだ。多分これから持つ全ての往来に匹敵する価値がある。この授業とは、どの国も他国との交流から自らを遮断し、世界の常識に従うことを断り、国際義務を分担することを拒否することは不可能であり、感覚力と活力のある存在ではなく、現在の日本のように、ミイラになってしまうと教えることだ。この授業の教科書はすでにコシュート氏が発表している。

コシュートの英米講演旅行

  上記の記事の最後の文「この授業の教科書はすでにコシュート氏が発表している」の意味は、ハンガリーの革命家コシュート・ラヨス(ハンガリーでは姓名順Kossuth Lajos: 1802-94)が当時アメリカで遊説していて、その中のスピーチで日本について言及していることを指します。コシュートは英米でハンガリーの独立運動を支援してほしいと訴える遊説を行い、英米両国で熱狂的に受け入れられたことが、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(ILN)と『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(NYDT)の報道でよくわかります。両紙で毎日のようにコシュートのスピーチが掲載され、NYDTには挿絵はないのですが、ILNの挿絵と同じ状況がアメリカでもあったことが記事からわかります。 M. Kossuth Addressing the People from the Mayor’s House, at Southampton.((注3), p.545)The Illustrated London News, Nov. 1, 1851. コシュート氏—クローデによるダゲレオタイプ(銀版写真)から((注3), 1851年11月22日) 以下の挿絵はイギリスのサウサンプトンでのコシュートのための晩餐会の様子(1851年11月1日付ILN)ですが、アメリカでも豪華な晩餐会の模様が報道されています。12月11日にニューヨークで行われた晩餐会のメニューの全容がスープからデザートまで、合計100点余まで掲載されています[ref]”The Kossuth Dinner.—Magnificent Banquet.—Kossuth’s Great Speech—Doctrine of Non-interference”, The New York Daily Times, Dec. 12, 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-1)

アメリカ政府の日本遠征計画がアメリカ議会で議論され始め、創刊間もない『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が日本に対する「事実上の宣戦布告」だと反対の声をあげます。

ペリーは武力行使する可能性があったのか?

ントン攻撃の情報をオランダ商館長から得て、ハリスとの交渉にあたっていた幕府は商館長から忠告を受けて、担当部局から意見を求めます。目付などの評定所一座は、最初にペリー来航時の幕府の対応について、「厳しく拒絶遊ばされるべきところを、こちら側の武装が十分でないため、その場の処置として穏便な扱いになり、大方アメリカ側の要望をお聞き届けなされた」という趣旨の苦情を述べています。そこで、1857年の幕府の対応を見る前に、ペリーが武力を行使する可能性があったかどうかを『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(NYDT)と『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(ILN)の記事から探ってみました。英米の新聞読者に何がどう伝えられたかを知ることは21世紀の日米関係を理解する一助になると思います。NYDTの創刊号は1851年9月18日なので、それ以前の記事はILNから探りました。
    1851年8月2日(ILN):「化学」((注1), p.162) 金は日本に極めて豊富に存在すると言われている。しかし、この排他的な島国の皇帝は自由貿易の利点について全く無知だし、自国の金を大事にしているから、彼の兄弟である中国にも少しも与えない。中国では金が非常に少ない。 1851年12月12日(NYDT):アメリカ議会上院(12月11日)「日本との通商」(注2) 議長は上院にアーロン・パーマー(Aaron H. Palmer)からの日本との通商に関する未刊の本を提出した。討議の結果、通商委員会に付託することにした。 1852年1月13日(NYDT):アメリカ議会上院(1月12日)「日本」(注3) 通商委員会のスワード氏(William Seward:1801-72)が、日本の通商に関するパーマーの本をこれ以上検討することから委員会を免除する決議がなされたと報告し、承認された。

初期の日本遠征計画とアメリカによる「最後通牒」

解説:アーロン・パーマーの「未完の本」というのが1857年に出版されています。『日本への使節団の発端を証明する文書と事実—合衆国政府によって1851年5月10日に認定され、合衆国海軍ペリー提督と日本の長官たちによって江戸湾神奈川で1854年3月31日に締結された』[ref]Aaron Haight Palmer, Documents and Facts Illustrating the Origin of the Mission to Japan Authorized by Government of the United States, May 10th, 1851, and Which finally Resulted in the Treaty Concluded by commodore M.C. Perry, U.S. Navy, with the Japanese Commissioners at Kanagawa, Bay of Yedo, on the 31st March, 1854, to 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-6)

19世紀の不当な戦争が21世紀にも続いていること、そこにメディアがどう関わっているかを概観します。

21世紀の侵略戦争

二次アヘン戦争、またはアロー戦争と、第一次イギリス・アフガニスタン戦争のきっかけがでっち上げによる不当な戦争だったというイギリス議会の議事録(6-2-1〜6-3-3, 6-5-5参照)を読みながら、イラク戦争を思いました。主要メディアが政権の主張に乗っかって、好戦的報道を行った点も同じです。 2019年3月に日本で封切られたアメリカ映画『記者たち—衝撃と畏怖の真実—』(原題Shock and Awe, 2017)は、イラクへの侵略戦争開始前に政府の説明がおかしい、納得できないと思った地方紙のワシントン支部編集長と記者たちが真実を求めて取材を続けるうちに、イラクがアルカイダと共謀しているという説も、大量破壊兵器があるという説も疑わしいことを突き止めます。しかし、主要紙、『ワシントン・ポスト』も『ニューヨーク・タイムズ』も政府の説明を報道するだけで、国民は信じ込まされ、戦争賛成の気運が出来上がっていきます。異論を唱える記事を書いた記者たちは非愛国者と呼ばれて苦しむ姿を描いた映画です。 この編集長ジョン・ウォルコット(John Walcott)の記事「イラクについてドナルド・ラムズフェルドが知っていて、私たちが知らなかったこと」(2016年1月24日、(注1))は、不確かな情報によってブッシュ政権がイラクに大量破壊兵器があると断定して、侵略戦争を開始したこと、アメリカ兵4,500人とイラク人165,000人が犠牲になり、サダム・フセインを処刑させる戦争を続けたこと、結果的には大量破壊兵器もなかったし、証拠もない不確かな情報を元に侵略戦争を起こした経緯を記しています。恐ろしいのは、『ニューヨーク・タイムズ』の記事「フセインが原子爆弾部品の製造を加速させているとアメリカが言う」(2002年9月8日、(注2))をブッシュ政権の閣僚たちがテレビで度々引用して、侵略戦争の正当性を印象付けたことです。後に『ニューヨーク・タイムズ』は誤報道だったと謝罪しています。この記事を削除せずに今でもデジタル版に掲載していることは反省材料として、歴史的資料としている意図が窺え、感心します。 ブッシュ政権がイラク侵略を発表しようとしていた2002年9月9日に諜報機関の極秘報告書が提出され、そこには大量破壊兵器プログラムについての知識は0%から75%と書かれていたのです。「大量破壊兵器について我々が知らないことについての文書」とメモ書きした国防長官ドナルド・ラムズフェルドが、この文書はブッシュ政権のイラク戦争計画を傷つけると知っていたことを示すとウォルコットは述べています。そして、政権の主要メンバー、国務長官のコリン・パゥエルやCIAのトップなどに共有されなかったと、国務省・ホワイトハウス・CIAの匿名情報提供者たちが証言したそうです。この報告書は消えてしまい、その代わりに、サダム・フセインの核・生物・化学兵器の脅威がアメリカと同盟国にいかに危険かというストーリーが主要メディアで流され始めます。 アメリカ統合参謀本部は「イラクの核兵器プログラムに関する我々の知識は90%不正確な情報の分析に基づいている」と報告していましたが、この文書が機密解除になった後の2016年大統領選でも、両陣営にはイラク戦争推進派の人々がアドバイザーになっていると指摘しています。現在トランプ政権の国家安全保障問題担当補佐官のジョン・ボルトンもその一人で、2019年5月にはベネズエラの大統領を追放するような発言をしたり(注3)、イランを挑発して戦争に持っていくかもしれないと報道されたりしています[ref]Max Boot, “John Bolton may be trying to provoke Iran into firing the first shot”, The Washington 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-5)

19世紀後半のイギリス・メディアが権力と化した姿勢に警鐘を鳴らしたジャーナリストと、パーマーストン首相/政権と『タイムズ』の報道の関係を厳しく批判したマルクスの論を紹介します。

19世紀後半のメディア

 19世紀のイギリス人ジャーナリストW.T.ステッド(William Thomas Stead: 1849-1912)が、1886年にメディアが権力になりつつあるという警告論文「ジャーナリズムによる政府」(注1)を発表しています。この論文発表時、ステッドは37歳ですが、惜しいことに、タイタニック号の沈没で亡くなってしまいました(注2)
    新聞は時には極めて重要な問題を決定づける力を持っている。 政治家と新聞の関係:国会で通したい法案を抱えている大臣は2,3人のジャーナリストを友達にして、その法案支持の記事を書くよう勧め、記事が報道されたら、「世論が支持している」と宣言する。いわゆる「世論」というのは、その友達が自分の言葉を再生したものに過ぎないということは大臣自身がよく知っている。 新聞は国家の決定におけるキャスティングボート(決定票)を握っている。 現在の未発達で原始的な状態のジャーナリズムでさえ、その力は強く、今後、国家において更に力を増すかもしれない。ジャーナリズムの将来は完全にジャーナリストにかかっている。現在その展望はあまり望めない。ほとんどのジャーナリストにとって、ジャーナリズムが政府の手先だという考え方は異質なものだ。しかし、もし、このことを考えられたら、社説のペンは権力の王笏(おうしゃく)である。 私は比較的若いジャーナリストに過ぎないが、私は以下のことが新聞の手でなされたことを見てきた。内閣がひっくり返され、大臣が辞任に追いやられ、法律が破棄され、大きな社会改革が推進され、法案が変えられ、概算が改作され、計画が修正され、条例が通され、将軍が推薦され、知事が任命され、軍隊が世界中に送られ、戦争が宣戦布告され、戦争が回避されてきた。1874年にグラッドストン氏が保守派大臣に冗談めいて、「ポール・モール・ガゼット[夕刊紙]に注意しろ。私を悩ませた新聞だから、君を困らせないように注意した方がいい」と言った。 新聞が内閣の決定に与える影響力は下院がふるう影響力よりはるかに大きいことは疑いない。平和か戦争かの問題では、議会の権力は、不名誉な平和を達成するか、犯罪的戦争に突入するかの決定を行った人たちを、事件が終わった後で懲戒免職にする権力だけだ。

ジャーナリストのあるべき姿

    ジャーナリストの義務は見張りの義務である。「もし見張りが剣が来るのを見ても、人々に警告を発するためのトランペットを吹かず、誰かが剣にやられたら、その人は自分の悪行のために殺されるが、私はその血の責任を見張りの手に求める」[旧約聖書エゼキエル書33-6]。人間の義務はできる限りの善を行い、全ての悪を防ぐことである。善を行うことを知っていながら行わない者には、直面するのを用心しなければならない非難よりもずっと激しい非難が来る。 事実を知ることが第一の、そしてあらゆるものの中で最も不可欠なものである。 ジャーナリズムの扇情主義は世論の目を引きつけて、行動の必要性を認めさせるものであれば、正当化できる。単なる喚き自体は人間の行の中で最も下品な行為だ。しかし、ジャーナリズム的広報記事「ロンドン浮浪者の苦しみの叫び」の扇情主義が貧困層の住居に関する英国審議会を立ち上げさせたのだ。

『タイムズ』とパーマーストン首相の関係

 カントン攻撃に関する『タイムズ』の記事から、当時の一部イギリス・メディアの酷さがわかりますが、マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1861年10月5日、(注3))と題する記事で批判しています。
    「イギリス人は『タイムズ』を読むことで、自分の国の政府に参加している」。これはある著名なイギリス人作家が言ったことだが、この王国の外交政策に関する限り全くその通りだ。国内の改革政策に関しては、国民は決して『タイムズ』の指示に動かされない。 過去30年間パーマーストン卿は大英帝国の国力をふるう絶対的権力を奪って、この国の外交の道筋を決定してきた。同時に『ロンドン・タイムズ』がイギリスの全国紙の地位を獲得した。つまり、外国に対して、イギリスの心を代表する地位を獲得したのだ。 国家の外交を管理する独占権が(中略)たった一人の男に移ったら、イギリスの外務大臣、すなわち、パーマーストン卿に移ったら、対外関係について国家のために考え、判断する独占権と、対外関係に関する世論を代表する独占権がプレスからプレスの1組織、『タイムズ』に移ったということである。 パーマーストン卿は秘密裏に、国民にも、議会にも、彼の同僚にも知られていない動機から、大英帝国の外交を管理した。彼が自分の秘密の行いについて、世論の批判を下す権力を奪ったこの唯一の新聞を手に入れようとしなかったとしたら、彼は大馬鹿に違いない。 『タイムズ』の語彙には徳という言葉はどうしても見つからない。(中略)『タイムズ』はパーマーストンの単なる奴隷になってしまった。パーマーストンは『タイムズ』の徳の何人かを内閣の下位のポストにこっそりつかせたり、その他の者をおだてて彼の社交仲間にした。その時以来、『タイムズ』のすること全てが、大英帝国の外交に関する限り、パーマーストン卿の外交政策に合う世論を製造することに制限されてきた。パーマーストンがしようとしていることのために世論を準備し、彼がしたことについて世論が黙従するようにしてきた。 この仕事を達成するための『タイムズ』の奴隷的労働は最近の議会の報道によく現れている。この議会はパーマーストン卿にとって全く不利なものだった。下院のリベラルと保守の独立系議員たちがパーマーストンの独裁に反逆した。彼の過去の不正行為を明らかにして、同一人物の手に同じ制御不可能な権力が握られる状態が続く危険性を国民に知らせようとしたのである。 ダンロップ氏がアフガン文書に関する特別委員会の設置を動議することで攻撃を開始した。これはパーマーストンが1839年に議会に提出したものだが、実は捏造された文書だった。 『タイムズ』は議会報告の中で、ダンロップ氏のスピーチを全て隠した。ご主人[パーマーストン]にとって最も致命的だと『タイムズ』が考えたからだ。 その後、モンターニュ卿が1852年のデンマーク条約に関する全文書を提出するよう動議を出した。(中略)パーマーストンはこの動議を出させないために、事前に議会流会を企んでいた。議会は実際に流会にされたが、その前にモンターニュ卿は1時間半スピーチをした。 『タイムズ』はパーマーストンから流会があることを知らされていた。議会報告を骨抜きにし、料理する役割を特別に担っていた編集長は休暇をとったため、モンターニュ卿のスピーチは骨抜きにされずに『タイムズ』のコラムに現れた。
マルクスは他の記事で、はっきりと次のように述べています。「パーマーストンの新聞:『タイムズ』『モーニング・ポスト』『デイリー・テレグラフ』『モーニング・アドバタイザー』『サン』は[パーマーストンから]命令を受けた」(注4)

イギリス・アフガニスタン戦争

 マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」の中で言及している「捏造された文書」は、第一次イギリス・アフガニスタン戦争に関する外交文書です。1839年に議会に提出された時、最重要文書が捏造され、イギリス・アフガニスタン戦争を始めたのはアフガニスタンのドースト・ムハマド・ハーン(Dost Muhammad Khan: 1793-1863)王だとされました(注5)。実際には在カブールのイギリス代表、アレクサンダー・バーンズ(Alexander Burnes: 1805-1841)がドースト・ムハマド王と交渉した結果、1838年10月にインド総督の宣戦布告が出されました。 現在のブリタニカの解説(注6)によると、イギリスは植民地インドを基地に、アフガニスタンにも影響力を拡大し、ロシアの影響力に対抗しようとして、イギリスが起こした戦争とされています。ドースト・ムハマド王が反英で、ロシアの侵入に抵抗することができないと恐れたイギリスは、亡命中のシュジャー・シャー(Shah Shoja: 1803-1842)を王位に就け、1839年4月にイギリス軍をアフガニスタンに送ります。外国による占領や、列強が即位させた王に不満を持ったアフガニスタン人はドースト・ムハマドのもとに結集してイギリスと戦います。1940年11月に降伏したドースト・ムハマドはインドに送られます。その後も国中で戦いが勃発し、イギリス軍は防御不能になって、1842年1月にカブールから撤退します。イギリス軍の撤退後、シュジャー・シャーは暗殺され、1843年にドースト・ムハマドはカブールに戻って、王位に就きます。 第一次イギリス・アフガニスタン戦争の詳細を『アフガニスタンにおける戦争の歴史』(1851)が伝えていますが、2巻もの長いものなので、フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-4)

1858年4月から10月まで英米メディアで報道された第二次アヘン戦争、インドの反乱、日本関連記事を概観します。
    1858年4月17日(NYT,(注1)):「イギリスの中国政策」『ロンドン・タイムズ』4月1日我が政府が成功裏に始めたことを続ける仕事が残っている。イギリス国民は永続する利益を世界に与える機会がある。インドが炎に燃えている時、カントンを封鎖し続ける勇気がある。アワドが再び完全に占領される頃には、中国の島の都市と航行可能な川にイギリス国旗が上がるのを見るだろう[原文は斜体で強調]。(中略)我々が他国の協力を求める原則は誰の目にも明らかだ。それは我々がこの仕事を1国だけではできないという理由からではない。あらゆる国が共通の条約という利益を共有すべきだからである。(中略)舟山[Chusan, Zhoushan]を占領しよう。もし我が隣人フランスが舟山の占領を望んでいれば、彼らにも中国の海に植民地を作らせればいい[原文強調]。中国シルクのフランスへの輸入は非常に大きいが、この貿易は主にイギリスとアメリカの船で行われている。フランスにも植民地を設立する土地を得る資格は公平にある。我が国は隣人たちに嫉妬していないが、我々の東アジアにおける偉大で増え続ける権益があり、自分たちの商業と我々の広大な保護領の商業の発展のために必要な領土的権利を手にいれる完全な自由度は保持しなければならない。 1858年4月24日(ILN,(注2)):「日本とコリアのスケッチ」 1858年5月22日(NYT):一面「アメリカの南方への拡大を願うイギリス」『ロンドン・タイムズ』より アメリカ合衆国による中南米の弱い共和国の吸収はこれ以上遅れてはならない[原文強調]。メキシコとニュー・グラナダ[ヌエバ・グラナダ共和国:現在の中南米の複数の国の一部から構成されていた]は自然の腐敗によって陥落寸前だが、国籍の降伏に向かう動きが始まっている。ベネズエラも似たような運命に向かっている。メキシコに関しては、国土のうち最も豊かな地域の買収が進んでいる。アメリカ政府はもう少し待ちさえすれば、国[メキシコ]そのものを[アメリカの]言い値で手にいれられるかもしれない。(中略)ニュー・グラナダに関しては、たいして時間はかからないだろう。この1,2年この共和国と合衆国の間で紛争があった。共和国の国民がパナマ地峡をめぐる暴動で負傷したので、その賠償をアメリカに求めているからだ。アメリカは地峡の通行権を将来的に保証する条約を求めているが、ボゴタ議会で反対が続いている。もし条約が批准されれば合衆国にとっては重要な権益をもたらす。もし拒否されたら、武力で要求するものすべてを取る理由となるだろう。(中略)ニュー・グラナダがアメリカに併合されたら、ベネズエラの吸収は当然のこととして続いて起こる。(中略)ニカラグア・コスタリカ・サルヴァドール・ホンジュラス・ガテマラなどの小国もこの流れに続く。これらの国々の唯一の障害は、合衆国とイギリスが中央アメリカを支配することを禁じている「クレイトン・ブルワー条約」(注3)である。しかし、ワシントンではこの条約を破棄する動きが進んでいる。 1858年7月15日(NYT):「日本人船乗りの救助—興味深い詳細」 1858年7月17日(ILN):「インドと中国」((注3), p.54)インドと中国からの7月7日付情報によると、中央インドで反乱軍が再び問題になっている。バラックポール(西ベンガル)連隊は解散か中国派兵に応じるかの選択がある。
The 70TH Bengal Native Infantry Drawing Rations at the Commissariat Stores, Canton.カントンの兵站部で配給する第70ベンガル原地人歩兵隊(ILN, 1858年7月17日)
    1858年7月22日(NYT):「キューバ獲得/ コマンチェ・インディアンの略奪」 1858年8月5日(NYT):「満州—中国におけるロシア—アムール川—占領進む」 1858年8月11日(NYT):「同盟国が北京へ進軍」 海河(Peiho)河口の砦を英仏同盟軍が占領。同盟国の軍事力によって遅かれ早かれ中国皇帝は同盟国の要求に同意せざるを得ないだろう。これらの要求の正当性はロシアとアメリカ合衆国によって認められた。残念ながら、我が国の政府は彼ら[イギリス]が使わざるを得ない暴力的方法に反対している。しかし、過去18ヶ月の中国問題の歴史に精通している人なら誰もが武力による以外、武力のみが中国政府と国民に国際法の原則を認め受け入れさせることができるのだという結論に達するだろう。(中略) 中国帝国を文明と貿易に開かせる偉大な仕事がイギリスとフランスによって精力的に始められたが、同様のエネルギーで続けられていないことは遺憾である。中国との交渉で多くの失敗や遅延があったのは無用というよりもっと悪い。 1858年10月9日(ILN, p.335):7月22日付、本紙特別アーティスト・特派員より 3日前、[ここカントンの]繁華街は勤勉な人々の活気に満ち溢れていたのに、わずかの間に本当に恐ろしい荒廃の情景に変わってしまった。全焼し、全壊した家々の骨組みしか残っていないが、そこから巨大な煙の塊が上がっている。[この後、兵士たちによる略奪の様子も描かれていますが、省略します。下の2葉の挿絵がカントンの廃墟と略奪の様子です]
Appearance of a busy street in Canton after a visit from “Ye Barbarians” 「汝ら野蛮人」の訪問の後のカントンの繁華街の様子(ILN, 1858年10月9日, p.335)
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-3)

幕府はインドの反乱について、早い時期に把握していました。当時、日本が置かれた立場を理解するために、英米メディアで報道される第二次アヘン戦争とインドの反乱と並んで、ネイティヴ・アメリカンとの戦争や奴隷貿易、日本との条約交渉を辿ります。

幕府が把握していたインドの反乱

府がインドの反乱について1857年8月には知っていたことが、目付の岩瀬震忠(ただなり:1818-1861)の書簡からわかります。岩瀬が長崎に出張し、到着の挨拶を江戸の同僚に送った書簡が『幕末外國関係文書』に残っています。1857年8月10日(安政4年6月21日)付書簡「六月二十一日長崎へ出張の目付岩瀬伊賀守震忠書翰在府同役へ 清國騒亂蘭船購入貿易談判等の件」(注1)のインドの反乱関係部分を要約します。前日に長崎に到着し、早速オランダ商館から情報を入手した内容の報告ですが、最初に阿部正弘の病状について心配を書いています。「春以来、血色も悪く心配していました。多事の折柄、一日も早く出勤できるようになることを祈っております」という趣旨から始まっている書簡です。
    廣東の騒乱がますます難しくなっている様子の上に、インドでイギリスによる苛政を憤って、イギリス士官を殺し、一揆のような騒ぎになっているそうです。 この地はかねてよりロシアが欲しがっていた地ゆえ、この節の騒乱に乗じて、ロシアが進出を企て、いよいよやかましくなるかなと思います。
岩瀬震忠の手紙はこの後はカントン攻撃にフランスもアメリカも参加し、大国中国も数多くの強敵を引き受けて、どうなるのだろうか、オランダ人も非常に危うい事になってきたと言っていると、情報を伝えています。こんな中で日本が欧米列強と交渉しなければならないという危機感も伝わってきますから、英米の報道に現れた中国の戦争、インドの反乱、日本に関する情報、その他、気になった記事を時系列で紹介します。後に紹介するように、この時代には新聞の力が政治をも変える危険な側面が警告されており、政治家にとっても経済界にとっても新聞を味方につけるなど、メディアを利用する重要性が認識されていましたから、現在のメディアの影響力の功罪を考える上でも参考になると思います。日本関連の記事は見出しだけで、記事内容は後に紹介します。

第二次カントン攻撃、インドの反乱ほか

    1857年6月5日(NYDT):「奴隷貿易の復活」(注2) 1857年7月30日(NYDT):「中国とインド」「インディアン戦争の恐れ/ビッグスー川にインディアンの大集会」セント・ポール・デイリータイムズより、7月24日イエロー・メディスン川(Yellow Medicine River:ミネソタ州)にスー族インディアンが集結して不穏な動きだ。もし戦争が起これば、10,000人のインディアンに対し、200人の部隊で戦うことになる。イエロー・メディスンの白人家族は駐留地に移った。兵卒の報告によると、インディアンはサルのように生意気に部隊を取り囲み、戦えと挑んでいるという。 1857年8月14日(NYDT):「インドの反乱/デリーはまだ陥落せず/セポイの連隊50が反乱/中国の戦争」 1857年8月18日(NYDT)「フォルモサ(台湾)島の占領/中国のアメリカ市民への賠償/ デリー陥落のニュースの一部確認」:NYDT特派員、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年6月9日付 アメリカ海兵隊のJ.D.シムズ大佐が以下の指令を受けた。フォルモサ(台湾)のフォンシャン市にアメリカ国旗を揚げて台湾島を正式に領有することだった。今回の戦争でアメリカ市民が被った損害の賠償として領有するのである。 これは在中国のイギリス当局に大きな満足を与えた。中国とのさらなる衝突に向けて各段階で行われるからだ。私の考えでも、これは中国における我々の権利を確保するための賢明な方法である。我々の損失に対する報酬として確実で安全な方法である。世界のこの地域で我々が領土獲得を求めるなら、中国帝国の領土のうち獲得できるものの中で、フォルモサほど望ましい所はない。鉱物と農産物が豊かで、石炭も価値が高いし、世界の海洋国家が熱望する場所だ。
 1857年9月14日に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が『ニューヨーク・タイムズ』に変更されてからはNYTと省略します。
    1857年9月23日(NYT):二面「インドへのイギリス軍の大規模な補充部隊」 1857年11月19日(NYT): NYT特派員、上海発、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年9月7日付 アメリカ合衆国軍艦ポーツマス号が日本に向けて8月22日に上海を出航した。箱館と下田に寄港する予定だ。箱館にはアメリカの領事代理がおり、下田には総領事がいる。 1857年12月21日(NYT):「中国戦争再開」 Chinese Reading Proclamation宣戦布告を読む中国人『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1858年2月27日号, p.221, (注3)1857年12月31日(NYT):一面「 Friends of Chinaより、1857年10月31日付 カントン攻撃の準備/合衆国と日本との新条約交渉/インドの反乱」:香港発(10月3日)ロンドン・タイムズ特派員 エルギン卿はカントン攻撃の結果がわかるまで香港に滞在するだろう。海兵隊部隊全体が到着次第、作戦が開始される。最初の補充部隊がインペレイター号で28日に到着した。戦艦コモラント号とランターター号がマニラから昨日到着。 1858年1月1日(NYT):一面NYT特派員、香港発、アメリカ軍艦ポーツマス号より、1857年10月29日付「日本からの重要ニュース/ ハリス総領事と[日本]との新条約交渉/下田と箱館にアメリカ市民の居住が許可される/下田沖に危険な礁を発見」、二面「中国におけるイギリスの位置/ ロシアと中国/ インドの反乱」 1858年1月2日(ILN):巻頭言「昨年[を振り返って]」ペルシャ戦争という現実があり、中国との切迫的な戦闘があったが、これら遠くの野蛮国との抗争は我々の見方では、戦争と呼べるものではない。 1858年1月26日(NYT):一面、NYT特派員、上海・呉淞(Woosung)発、アメリカ軍艦サン・ジャシンタ号、1857年11月6日付、一面「ロシアとアメリカの日本との条約」(10月付) 1858年2月6日(ILN, p.131):「日本」 日本からの情報によると、昨年10月16日に長崎において、日本とオランダ政府の間で条約が批准された。上記の日に長崎港はオランダ貿易に開け放たれた。10ヶ月後には箱館港が開放される。同じ情報によると、日本政府は全文明国と同様の条約を締結する用意がある。そして、キリスト像を踏みつける習慣は廃止される。 1858年2月8日(NYT):一面「中国戦争における英仏協力の計画/ 葉への最後通牒/ カントン攻撃間近」、二面「日本—国の様子—現地人の住居、慣習などーアメリカ総領事」1857年12月16日付ほか 1858年2月15日(NYT):一面「[インド]反乱軍の敗北/カントンは即刻攻撃されるべき/最後通牒に従うことを葉は拒絶」1857年12月16日付他 1858年3月6日(ILN, p.227):「中国における戦争:葉の捕虜、カントンで王室宝物を押収」1月14日付シーモア提督の公式報告書:カントン当局は我々[英仏]が市を攻略したことを認めなかったので、1月1日に部隊が市中を行進することにした。女王陛下の領事、パークス氏が喜ばしい情報を持って到着した。葉を捕虜にし、地方の全記録、銀で30万ドル相当の王室宝物を押収入手した。これら一連の行為に対して中国側からの抵抗はなかった。銀はカルカッタ号上で保護している。 1858年3月8日(NYT):「カントン砲撃の詳細/中国、ロシアに宣戦布告/ラクナウ近くの反乱者の敗北」 本社特派員より、アメリカ合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港1857年12月28日 長く延期されていたカントン攻撃が始まった。12月28日夜明けとともにカントンに向けて砲撃が開始された。市内の各所で火があがった。戦艦からは1日に60砲市に向けて撃たれ、3日間続いた。12月29日に英仏部隊が市の後方の2砦を襲い占領した。中国軍は勇敢に抵抗したが、小規模な武器で防戦し、占領されると逃走した。カントン市は完全に破壊されるだろう。 1858年3月11日(NYT):一面「英仏軍によるカントン占領—葉が捕虜」1858年1月15日付Friend of Chinaによると、1月5日に葉が捕らえられた。 1858年3月15日(NYT):一面「葉の捕虜の詳細」1月15日付情報によると、葉はイギリスの病院船に収容された。カントンは英仏同盟国の保護領となり、新政府が設立される。 1858年4月3日(ILN, p.345):「中国における戦争」(本紙特別アーティスト・特派員より、カントン、1月28日)  市内に秩序が次第に戻っている。通りは(もしそう呼べるなら)活気を取り戻し、どこでも開店されつつある。住民は全体的に最近の屈辱に関心がないように見え、新しい支配者に服従している。多くの士官が現地人とすれ違う時はお辞儀をする。これを最下位の中国人役人に対してもする。この小さな儀式が東洋の全ての国々で最重要なことだとみなされている。 1858年4月6日(NYT):「フランスとイギリスに協力するアメリカとロシア」 1858年4月13日(NYT):一面「北京に対する示威運動—英仏同盟によるカントンの要塞化」本社の特派員より、合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港、1858年1月28日  これまでも現在も、中国・日本・マニラの港の必要性が緊急に求められているが、この要求に服従していない。1年間も一人置き去りにされている、[アメリカ]国の船が近くまで来てくれないというハリス領事の苦情は国務省の目を開かせたに違いない。 1858年4月17日(ILN, P.383):「中国」(本紙特別アーティスト・特派員より、香港、2月28日) 葉のやつはインフレキシブル号でカルカッタに行った。そこで彼がどうなるか知らない。カントンは今は静かだ。北部がどうなるか我々は皆待っている。北京[政府]が礼儀正しいか否か、それが5月かどうかもわからない。エルギン卿はまもなく上海に行くだろう。ひょっとすると、北京の前に日本に行くかもしれない。ありえないことではないと思う。あの国[日本]の皇帝は外国列強に対して好意的のようだから、これはいい機会だろう。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-2)

Indian Crisis「インドの危機」挿絵キャプションBritish Attack of Mandarin Junks in Fatsham Creek, Canton River—Sketched from the Fort. カントン川[支流]佛山水道の中国ジャンクを攻撃する英国—砦からのスケッチ出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号((注1), p.129)

中国への攻撃とインドの反乱

節で紹介したイギリスによるカントン攻撃の情報を幕府に伝えたオランダ商館長の幕府への忠告を受けて老中が各部署に出したお達しと、それに対する各部署からの意見書がどんなものだったかを見る前に、第二次カントン攻撃やその他の「戦争」を英米の新聞から辿ります。欧米列強の世界戦略の中で、幕府が置かれていた立場がよく見えてくると思います。 上の中国を攻撃するイギリス軍を描いた挿絵は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号の第一面に掲載されましたが、第一面の記事の見出しは「インドの危機」です。セポイの反乱として知られているインドの反乱は5月から始まっており、挿絵の中国攻撃作戦は6月1日に行われました。これらが英米のメディアでどう伝えられたかを見ていきます。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』経由のロンドン『タイムズ』の報道と、1857年7月以降の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記事を中心に見ます。 「インドの反乱」の最初の詳細ニュースは「ボンベイ発5月11日」の報告が掲載された1857年6月24日の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(注2)です。この頃のアメリカの新聞には「インディアン」の反乱や戦争という見出しが多発し、国内でもインド人との戦争が起こっているのかと驚きますが、国内の「インディアン」とは当時、アメリカ・インディアンと呼ばれていたネイティヴ・アメリカンのことです。 5月11日ボンベイ発の報道では、ボンベイからの報告は誇張されているようだと断った上で、「ベンガル騎兵隊の第三連隊が公然と反乱を起こし、将校数人と兵士が死傷して、将校のバンガローが全焼した」と伝えています。以下にインドの反乱に関する報道の流れを、特徴的な部分だけ抄訳します。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事はNYDT、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はILNと略しています。

1857年7月4日(ILN,(注1), p.19)「インド:現地人部隊の反乱とヨーロッパ人の虐殺」

「インド」(カルカッタ発5月18日;マドラス発5月25日;ボンベイ発5月27日)
    ベンガル軍の反乱は恐るべき方法で広がっている。メーラト[Meerut:インド北部]の第3ベンガル軽騎兵隊の1部隊がパレードで、政府が供給した弾薬筒を装填して発射するよう指令された。90人のうち5人しか指令に従わなかった。拒否した85人は軍法会議にかけられ、5年から10年の厳しい求刑があった。5月9日に部隊全員が見る前で彼らは刑務所に行進した。救助の試みもなく、怪しい動きはなかった。 5月10日、日曜の夕方、連隊が突然、怒りの暴動を市民の参加で起こした。11日と20日はこの地区に駐屯している現地人の歩兵連隊2隊が立ち上がった。彼らは刑務所から仲間たちとその他1,200人の囚人を解放し、血なまぐさい仕事を始めた。 メーラトはインド最大の駐屯地で、軍のヨーロッパ隊は女王陛下の第6ドラゴン衛兵隊、第60ライフル隊、砲兵隊だ。駐屯地の半分は炎に包まれ、我々の兵士たちの妻や子どもたちは激怒した兵士たちの野蛮な手にかかった。彼らは前代未聞の残酷さで殺した。 将校たちはバンガローから飛び出し、男たちに忠誠を呼びかけようとしたが、射殺された。ヨーロッパ部隊が到着する前に、残虐行為はほぼ終わっていた。 男たちは100マイルほど先にあるデリーに逃げた。デリーのベンガル人部隊の間にすでに反乱の種は広まっていた。市に逃亡者として入った反乱者たちはすぐに、この地の3現地人連隊、第38・54・74隊はデリーに駐屯しており、彼らを監視するヨーロッパ部隊はいなかった。その結果は酷いものだった。 反乱した兵士たちは市を完全掌握し、卑屈な従順さからヒンドゥーの性質である残酷な獰猛さに即座に変身し、デリーのヨーロッパ人居住者を年齢性別に関係なく無差別な虐殺を始めた。銀行を略奪し、故皇帝の息子をインドのムガル王と宣言した。 この不満の原因について確かなことはまだ伝えられていないが、カーストに関するインド人の思いを蹂躙する行為があったという疑いに基づいている。セポイ[インド人傭兵]に供給された新しい弾薬筒はイギリスから直接送られたもので、塗られているのは不浄の動物の油脂だとセポイたちは聞かされた。不満が密かにゆっくりと拡散し、デリーでの惨劇は密かに完全に組織化された陰謀が存在していたことを証明している。 メーラトの反乱部隊が宿営地におけるインド兵の対応がヨーロッパ人と平等ではないと思ってデリーに逃げたのは明らかに偶然ではない。デリー駐屯の3連隊が同じ思いを持っていることを知っていて、デリーに行けば、反乱の共謀者が見つかると確信していたに違いない。 ペルシャ湾にいる3ヨーロッパ連隊は和平によって解放されているので、カルカッタに直接航行できる。反乱を鎮圧し、反逆者を罰する作戦がすぐに取られた。全地域の反乱者を圧倒する量の軍隊が行軍した。 月曜朝に公式の報告がロンドンに届くと、午後には閣議が行われた。東インド会社の幹部との長時間の会議も行われ、夜議会で発表される前に、女王陛下の軍隊の大部隊が出発の準備を始めていた。香港の出来事で、4連隊が行先をインドから中国に変えなければならなかった。中国での仕事が済み次第、元々の行く先インドに向かうことになっている。
同じ7月4日号の表紙に「インドの反乱」という見出しの巻頭言が掲載されています。
    インドの我々の家が燃えている。この家には保険がかけられていない。この家を失うことは、我々の力と特権と性格を失い、世界ランキングで地位が落ち、我々の過去の栄光と現在の野望によってではなく、ヨーロッパの地図における我が国のサイズに応じた地位に落ちるということだ。この火はどんなことをしてでも消さなければならない。このような危機の大きさと突然性の前にはあらゆる普通の配慮はなくなる。幸い[英国]インド政府はこの危機に対する十分な力があるし、もし資力がなければ、大英帝国のすべての富・軍事力・エネルギー・リソースで支援されるだろう。その場合は恨み言などないだろう。 我々が剣でインドに勝つことが望ましいかどうかなど、もはや問題ではない。勝ったのだから、インドを保持しなければならない。剣がインドを獲得したのだから、剣がインドを守らなければならない。現在の我が国の力に対する恐れと、我が国の過去の無敵さの記憶によって我々は支配する。この恐れと記憶はいかなる危険があろうとも、いかなる犠牲があろうとも維持されなければならない。

1857年7月8日(NYDT,(注3)):(ロンドン『タイムズ』6月27日)「英印軍における反乱の大拡大/現地民部隊に暴動と反乱/デリーでヨーロッパ人の虐殺」

本節の最初に掲載した8月8日号第一面の記事「インドの危機」は社説のように国民を鼓舞する内容になっていますので、抄訳します。
1857年8月8日(ILN, p.129)第一面「インドの危機」
    [イギリス国民は日常に追われているが]最初の警告の叫びで、彼らは事件の大きさに耳目を開けた。そして、世論と政府の行動によって、インド全体と両側の世界に向かって、東洋の帝国を守るために、いかなる流血や宝物の犠牲を被ろうと、必要なことは躊躇なく行う精神が十分あると証明した。また、3年前に世界の最強の君主国の一つ[である我が国]がヨーロッパの均衡を守るために全力をあげたことを示したように、アジアの均衡を守るために国内外の敵と戦う用意があると、インド全体と世界全体に示す。 増強軍は本国の英国人が海外の英国人と同じくらいの強い目的を持っていると証明するだろう。[インドの]反乱者たちは計画も主導者もなく、英国軍の全力で戦うこの紛争に勝ち目はないと証明するだろう。必要な時は全英国軍が反乱者たちに向かって行くことは確かだと証明するだろう。 反乱者たちは自分たちを野蛮性[の時代]に追い戻すようなアワドの王も、その他の彼のような野蛮で残忍な暴君も望んではない。 そして、もしいつか反乱者たちがヨーロッパの白い顔の異人の支配からの自由と独立に署名するとしても、英国政府より1000倍も酷い暴君にならない首長と頭首を自分たちの人種の中から探すだろうが無駄だ。
The Princes of Oude and Suit—from A Photograph by Mayallアワドの王子たちと随行者たち—写真より左からInterpreter通訳、Brother of the King of Oudeアワド王の兄弟、Eldest Son and the Heir of the Deposed King of 続きを読む
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