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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-4)

ペリーの日本遠征計画についてアメリカ議会上院は、「米国と何の諍いもない日本に賠償金を求めるのか」と非難しますが、評決結果は半々で、翌日の『ニューヨーク・デイリー・タイムス』は上院が大統領に忖度していると批判します。
    1852年4月9日(NYDT):「第32回議会…上院…ワシントン、4月8日 「日本遠征」(注1)

議会は日本遠征の目的を知らされていない

 最近、海軍に命じられたインド洋、特に日本への遠征についてボーランド氏の、大統領に上院に説明をせよという決議案が取り上げられた。メイソン氏(James Mason: 1798-1871)が現時点では決議案に投票する権限がないと感じると述べた。彼は個人的にはこの遠征について何も知らないが、大統領は一般的な国益以外の目的は持っていないと推測すると言った。これに反する情報がもたらされるまでは、この決議案に投票することはできないと言ったが、これは普通ではない。 ボーランド氏が下院での議論を読み上げ、海軍委員会の議長が遠征隊がまもなく航海に出ると宣言したと示した。彼はまた、ボストンで出版された新聞記事を読み上げた。遠征は政権の主要メンバー(国務長官)によって立ち上げられ、特別機関として確立され、存命させられてきた。

米国と何の諍いもない国に賠償金を求めるのか

 デイヴィス氏(Jefferson Davis: 1808-89)—何の文書か? ボーランド氏—「私たちの国」(Our Country)という題名の文書だ。ウェブスター氏(Daniel Webster : 1782-1852, 当時の国務長官)を大統領にというあからさまな宣伝のために作られた文書だ。この中で、遠征の目的が様々あるが、日本から過去の損害賠償と未来の安全保証を得ることが目的だと主張されている。ボーランド氏が特に驚いたのは、この政権とその仲間たちが、メキシコ戦争が過去の損害賠償と未来の安全保障を得る目的だとして聖なる嫌悪(holy horror)を表明したのに、今や、我々が何の諍いも持たない国に対して同じような目的の遠征に着手し、奨励していることだ。政権が信頼している新聞がこのような情報を与えられ、遠征によって得られる偉大な目標を賛美する一方、遠征の費用負担の責任を担わされる上院が遠征に関する情報を要求するのはひどいと言う。ノースキャロライナの上院議員(マンガム氏、Willie Mangum: 1792-1861)が民主党に進歩と干渉の教義について訓戒した時、我が国の領土からはるか遠い国の人々に対する海外遠征を称揚したのは些か矛盾してはいないか?

評決結果は半々

 マンガム氏は自分は民主党にもその他いかなる政党にも訓戒などしたことはないと言った。あの政党は肉体的倫理的勢いで動くから、自分が抵抗しようとするなどとは馬鹿げている。西洋の竜巻きをわら1本で止めようとするか、ジブラルタルの岩を火薬1粒で爆破しようとするに等しい。彼が何を言ったとしても、それがどの程度にせよ、民主党を支配したり、導いたり、改善したり(これがはるかに重要だ)するなどと考えもしない。(笑い)。 ボーランド氏は上院が民主党の権力の正しい概念を抱いていることを知って嬉しいと述べた。彼は繰り返し、この上院議員が干渉の教義を非難し、この遠征に賛成していることは矛盾していると考えると述べた。(中略) グウィン氏が評決を動議し、結果は賛成20、反対20だった。 グウィン氏は決議案を延期する動議を出し、ボーランド氏が反対した。(中略) 結局、延期の動議が勝った。
 この議会の内容について、翌日のNYDTにボーランド議員擁護の意見記事が掲載されます。この記事もかなり長いので、原文にない小見出しをつけて、段落を多くして訳します。
    1852年4月10日:「日本への遠征」(注2)

上院は大統領に忖度している

 ボーランド上院議員は困難な中で情報の追求をしているようだ。日本への遠征の目的を尋ねる彼の決議は再び延期された。上院は知りたがっていると見えることを望んでいない。上院は大統領の尊敬すべき意図を絶大に信頼している。遠征の意図が何か尋ねることで、大統領を怒らせたり、また不信感を表すことを恐れている。また、多分、尋ねた結果、回答が満足できるものでないことを恐れている。あるいは大統領が回答を拒否するかもしれない。しかし、動機が何であれ、ボーランド氏はこの問題に関する情報を行政部から引き出そうとする努力に対して明らかに大きな障害に遭遇している。 我々は彼の困惑を共有しているから、彼の失敗に特別な同情を感じる。この遠征の計画と目的に関する信頼できる確たる情報を手に入れることに大きな困難を経験している。政府機関によって至る所で、これが非常に大きな出来事となる;この国の商業に新たな分野を開く;東洋世界と合衆国の新たな関係をもたらす;様々な方法でこの共和国[の地位]を地球上の国家の中で高め、拡大する可能性が大きいと我々は聞かされ、安心させられている。これら全ては非常に喜ばしいが、あまり明確ではない。また、同じように強調されているのが、このアメリカ艦隊は日本当局が我々に被らせた損害の賠償を要求すること;日本の港を我々の商業に対して開港するよう強要すること;「どんな危険を冒しても」(原文強調”at all hazards”)日本の「首都」(Capital)に入ること;あの尊敬すべき国に地球上の1強国として義務を教えることだ。これらのより明確で、従ってより満足できる発表は政府機関のコラムを通して我々に伝えられた。

アメリカ政府の日本への過剰な介入に黙従するのは恥

 政府は他国の出来事に参加することに対して最も暴力的に抵抗してきた。多分この状況が我々をして政府を信用できなくさせている。彼ら[アメリカ政府]はヨーロッパの介入を恐怖に駆られるほど恐れているのに、日本に介入しようとする。その過剰な熱意に黙従することに恥ずかしさを感じると告白する。しかし、この明らかな矛盾を一致させようと試みる価値はないだろう。(中略) 議会の様々なメンバーはアメリカが自分たちのことに集中し、他国にも自国のことに集中させることを表明する目的のために、ワシントンの誕生日をこれ見よがしに祝福したが、我々は疑念を抱いている。ウェブスター氏[国務長官]やその他権力の地位にある著名な男たちの見方では、「我々自身のこと」(原文強調”our own business”)というのは必ずしも我が国の地理的境界には縛られていないようだ。

国務長官ウェブスターは日本に干渉することを仄めかした

 我らの輝かしい国務長官は多くの場で、他国の問題も我々の「こと」(原文強調”business”)であるという意見を仄めかしている。海の向こうの国々がしていることが我々には直接的に重要なことかもしれないこと;国際法と商法の様々な問題上、国際関係に触れる様々な事柄において、他の強国に警戒の目を光らせるのが我々の権利であり義務であること;地球上のあらゆる国と同様、我々が所有する権益を主張することである。(中略)数年前に彼が中国に送る我が国の大使に与えた指示を思い出せば、現政権が意図していることが次のようなことだと信じるのは不可能ではない。政権の機関が凄まじい聖戦で、我々特有の殻から外に出ることに反対したにもかかわらず、日本との関係、そしてその他の東洋の国々との関係を現在よりも良い立場に置くのが政権の意図だ。(中略)

アメリカ人船乗りが日本に虐待されたので日本の港を封鎖し爆破する

 この遠征が、東洋の海における我が国の商業[捕鯨]と船乗りたちを保護するために日本に行くと知ることで、我々は喜ぶべきだ。アメリカ人の船乗りたちが日本当局によって地下牢に閉じ込められたり、カゴで晒されたり、その他の方法で虐待されていると発見されたら、噂は間違いではなかったと信じる。[そうであれば、]彼らを解放するために必要な、いかなる方法を使っても解放するであろう。アメリカ人船乗りたちがこのような経験をしたと言われているので、このような扱いをこれ以上容認するよりは、日本のあらゆる港がアメリカ艦隊によって封鎖され、爆破されるのを見る方がいい。我が国に関しては、日本は主張する権利も、乱暴する権利もない。そんなことは地球上のいかなる文明国から、一瞬たりとも認められもしないし、我慢もされない。

キリスト教の神の教えは国家や先住民族の領土権を無視して文明国に与えること

いかなる国も[世界と]「交際を断ち」(to isolate itself原文斜体で強調)、世界中を敵として扱う権利があるとは我々は信じない。国家の「領土」(原文強調Territory)に対する主権はいつも神の主権の下位にある。そして世界の政府のために神が確立した正義の道の下位にある。あらゆる国家の絶対的義務はその国の人民の幸せを促進することだと疑うことはできない。それは文明と開化とキリスト教を国境を通して広げ、人類の進歩と向上に向かって役割を果たすことである。この大陸の初期入植者たちが土地を奪い、その土地の野蛮な住民たちを追い払い、彼らの土地を人間の使用と栽培のために征服する者の手に委ねてきたことに、我々はどんな原則を正当化できるだろうか。土地は人間が耕し、征服し、産業と文明と幸福の住処とするために人間に与えられたという神の幅広い命令以外にはないのだ!(原文強調) したがって、普遍的進歩の道に永遠の躓きの石を置く権利はどの国にもない。(中略)

日本が文明国に領土を使わせないのは、神が創造した地球の乱用だ

 我々は戦争を始めることも、仕掛けられることも望んでいないし、領土の不当な強奪も、独断的強制も望んでいない。しかし、地球上の他の全コミュニティが要求するように、日本から我々への対応に正義を求め、他の強国を敬意を持って認めることを要求する権利がある。日本は世界を無視する権利はないし、他の国々の存在がまるで自分たちの権利を侵害するものだという扱いをする権利もない。地球は人間の使用のために創造され、人類の幸福と文明の進歩に貢献しない時は乱用されているという感じ方が一般的になり、強まっている。全国家はたとえそれぞれの機関は異なっていても、共通の義務と共通の権利があるという感じ方が強まり、広がっているのだから、日本やその他の東洋世界の国々が現在の孤立し、停滞した孤独の立場を永久に維持することは許されない。 我が政府が日本に送ろうとしている遠征隊が新たな関係と「新たな発展と新たな時代」を東洋の国々に開くという名誉ある顕著な役割を果たすことを信じている。
訳者コメント:これまでの論調からトーンダウンしたような、矛盾した内容に思えますが、皮肉か反語的表現とも読めるし、日本に開国を迫る声が強まっているので、多少妥協したような論調に変わったようにも読めます。キリスト教文明国が世界中の土地と自然を征服し利用することが神の教えと信じた結果が、現在の世界規模の環境問題だと教えてくれるような内容です。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-3)

『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の日本遠征計画に対する批判は続き、「艦隊を江戸湾に送るのは日本人を恐怖に陥れ、不信感を持たせるだけだ」と警告します。 以下の記事も長いので、原文にはない小見出しをつけて、段落を細かくして訳します。

日本と合衆国

    1852年2月24日(NYDT):「日本と合衆国」(注1) この初春に出発するとされている日本遠征について、我々はほとんど聞かされていない。ペリー 提督がこの遠征を指揮するよう命じられ、主に蒸気戦艦で構成される大きな艦隊になる。この遠征の真の目的について、その公式の性格は何も暴露されていないが、最近出回っている噂が概ね正しいと思う。もし日本と我が国の通商が確立したら、双方にとって利益があると証明されるだろう。我々の意見は、もし優秀な外交官をこの目的のために採用すれば、通商までの段階は平和に、好戦的な態度を示さずに達成されるというものだ。

艦隊を江戸湾に送るのは日本人を恐怖に陥れ、条約に不信感を持たせるだけだ

 ペリー 提督は今ワシントンで遠征の準備をしているそうだ。そして、彼が取るべき手段を海軍と国務省から口頭で指示を受けていると聞く。噂では、この遠征の準備を「威風堂々」(原文強調”pomp and circumstance”)と表現しているが、そこから判断するに、その指示がどんなものか知るのは簡単だ。数隻の蒸気戦艦と護衛のフリゲート艦と1,2隻のコルベット艦で構成されている艦隊が平和的な行進であるわけがない。そして、これらの船が日本の海に現れたら、かわいそうに海沿いの町の日本人を恐怖に陥れ、同時に正気を失わせるだろうと心配だ。そうなれば、彼らと誠意を持って交渉できるはずがない。その危機感から何らかの条約を結ばせることはできるかもしれないが、戦艦が離れたら条約を自由に破棄できると感じるだろう。

日本は信用できない国か?

 野蛮人を扱う際には、武力に訴える前に彼らの信頼と善意を得る努力が必要だと思う。もし彼らが信用できないとしたら、その裏切りは強制的な条約の後に現れるだろう。(中略)しかし、日本が信用できない国だという知識を我々は持っていない。[そうだとしたら]昔、日本と交易が許されたポルトガル人から、日本はこの[裏切りの]術を学んだのかもしれない。(中略) 日本には、我が国の地理的位置、広さ、我が国の軍事力、日本製品と生産物に対する我が国の需要が大きいこと、そして我々が代わりに何を与えられるかなどを十分に理解させるべきだ。そして最後に我々が国として度量が広いことを感じさせる必要がある。彼らにそう感じさせるためには、我々がそう振舞わなければならない。我々が彼らをそう扱うのは長い時間がかかるかもしれない。(中略)軍事力の強い国が弱い国に対して強制的手段を採る衝動と精神を我々は憎む。

日本はキリスト教国から悪い助言を得ていた

 日本には昔からアドバイザーがいた—しかも、非常に悪いアドバイザーだ—あるキリスト教国である。もし我々が望んでいることを日本との間で平和裡に達成できなければ、それは日本が唯一貿易を許可しているその国より、我々が外交において劣ることを認めるに等しい。我々の考えでは、[軍人ではない]一般人で十分な外交力と著名な能力を持つ人物に、重要な貿易交渉を任せるのがいい。船は1隻だけで、強制的目的で「脅しの」(in terrorem)艦隊を実際に[日本の港に]配置することは必要条件ではない。(後略)。
解説:ペリーの日本遠征の準備の様子を「威風堂々」(pomp and circumstance)と表現していると指摘している引用の出典はシェークスピアの『オセロー』のようです。オセローを貶めようとする部下のイアーゴーが、オセローの新婚の妻デズデモーナとオセローの部下との間によからぬ関係があるとデマを吹き込み、それに惑わされたオセローが嘆く場面で、この文言が発されます。武将として数々の戦勝を誇るオセローが輝かしい経歴ともお別れだと叫ぶように言う場面(第3幕第3場)です。日本語訳は福田恆存の訳(注2)です。 Farewell the neighing steed and the shrill trump, The spirit-stirring drum, th' ear-piercing fife,The royal banner, and all quality,Pride, pomp, and circumstance of glorious war!And O you mortal engines, whose rude throats The immortal Jove’s dead clamors counterfeit, Farewell! Othello’s occupation’s gone. ああ、みんなお別れだ! いななく軍馬、鋭い喇叭らっぱの音、心を躍らす太鼓の響き、耳に突裂つんざく笛の声、軍旗の荘厳、輝かしい戦場のすべて、その誇り、名誉、手柄、一切とお別れだ! それに、ああ、あのすさまじい巨砲のとどろきき、荒々しい咽喉のどうなりに雷神ジュピターの怒号すら吹消してしまうお前ともお別れだ! オセローの、命をけた事業も、ついに終ってしまった! “pomp and circumstance”を「威風堂々」としたのは、この文言がイギリスの作曲家エドワード・エルガー(Edward Elgar: 1857-1934)が1901年に作曲した行進曲名” pomp 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-2)

1852年2月の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』は、開国した方が安全というオランダ国王からの忠告に対し、将軍から回答があったことを紹介し、「外国人の完全な排除以外に平和はあり得ない」という回答は賢明な対応だと評価しています。 以下の記事は非常に長く、この時代のスタイルらしく、段落も非常に長いので、読みやすくするために、適宜、原文にない小見出しを付けて、段落を増やしました。

アメリカが日本を滅ぼす前に知っておくべきこと

    1852年2月7日(NYDT):「日本に関するあれこれ」(注1) アメリカの州の最西端から5000-6000マイル離れたアジアの東海岸に沿って、火山の島々が多数散在している。この島々はベーリング海峡からセイロン[現在のスリランカ]まで不規則に延びている。4万ほどの島々が中国の海岸線に相対するように延びているのが日本の帝国である。我が国の港から間もなく出発する遠征隊の目的地だ。この「テラ・インコグニタ」(原文強調terra incognita未知の大陸)に付与された関心は通商が開かれるという期待である。そこで『タイムズ』はあれこれの情報を提供する。我々が多くのことを教えてあげると提案する相手の国民について少しは知っておくのが賢明だろう。彼らの制度についてわずかでも知ること—この島国の王国について我々が知っている全ては「わずか」(原文強調)としか言えない—は無駄ではないかもしれない。我々が彼らを物質的に変えてしまい、多分、彼らを滅ぼしてしまう前に。(中略:日本の政治機構と欧米との接触の歴史が続きます)

将軍からの返答

 オランダは[日本の]当局に苦情も言わずに服従することで、わずかの利益しかもたらさない出島の商館を維持してきた。1844年にウィリアム王[ウィレム二世]は[日本の]禁止政策の緩和を得ようと考えた。その目的で、将軍に書簡を送り、中国の戦争の結果を詳しく伝え、ヨーロッパの貿易大国に有利になるよう酷い貿易禁止を止めるよう要請した。この提案を大人らしく2年も[原文強調]熟考した結果、将軍は中国帝国の基本的法律が廃止させられたことを含め、あの帝国の出来事の進展を注意深く見守ってきたと述べた。この出来事はオランダ国王が彼の[開国を勧める]議論の元にしたのだが、将軍にとっては現行の政策を再確認する非常に強力な理由になっている。外国人の完全な排除以外に平和はあり得ないことが明確だ。中国がイギリスにカントンに足がかりを得させなかったら、中国の国内機関は邪魔されずに残っただろう。将軍は言う。 「1点でも譲ったら、我々は完全に弱くなる。これが、私の祖先が自由貿易を貴国に許可すべきかの妥当性を討議した時の論拠である。貴国が度々我が国に示した誠実な友好の証拠がなければ、貴国も他の西洋諸国と同じように厳しく除外されたことは確かだ。貴国が特権を得ており、今後も続くことを望んでいる。しかし、この特権をどんなことがあっても他の国には与えないよう特に注意しよう。保存状態のいい堤防を維持する方が、開いてしまってから裂け目が広がるのを防ぐより、ずっとたやすいからだ。我が国の役人にそのように命じた。我が国のこの政策の方が中国帝国のより賢明だと歴史が証明するだろう」。 日本はかなり洞察力があると言えよう。将軍は巧妙に主張している。
解説:オランダ国王ウィレム二世の幕府宛親書(1844年2月13日付)と幕府の返答について「オランダ国王ウィレム二世の親書再考」(注2)という論文から紹介します。親書の形式は「オランダ植民省文書中の国王の布告の形に良く似て」おり、「明らかに上から下へ向けた文書形式で、かなり非礼だと言わざるを得ない」(p.12)と評されていますが、日本側が問題にした形跡はないとのことです。親書の要点は、アヘン戦争を起こしたイギリスの東アジア進出と軍事衝突の危険性を日本は理解しているかの確認;アヘン戦争の情報によって薪水給与令が発令された[1842年]と「オランダ政府は認識しているが、薪水給与だけでは不十分な場合は、貿易を開始したほうがよいという示唆」(p.13)でした。 幕府からの返書は1845年7月5日付で、オランダ国王の親書の内容は「ヨーロッパ諸国の通商拡大要求は強いので、日本へもイギリス・フランスが通商を要求してくる可能性がある」と理解するが、領土を取ろうと思って来るのではないから、手荒に扱うと事態を悪化させるだろうと述べています。親書にはフランスへの言及はなかったのに、幕府側が付け足したのは、フランス海軍のセシーユ提督が琉球に宣教師を残して(3-2参照)、日本進出を狙っているという情報を幕府が得ていたからだろうとのことです。 返書の後半には、日本が近世初期は諸外国との通交を行なっていたこと;朝鮮・琉球は「通信之国」、オランダ・中国は「通商之国」に限定していたこと;オランダは「通商之国」だから「国王親書への返事を書くことは『祖法』に反し、返事はできない」が、「老中からオランダの『摂政大臣』『政府諸公閣下』宛に返書を送る。しかし、今後は、書翰を送って寄越さないように、送ってきても開封せずに返送する」(p.16)という主旨の内容が書かれていました。 オランダ国王親書に対する幕府の姿勢が明らかになったので、オランダは薪水給与令を1851年まで広報しませんでした。各国が“日本が排外政策を放棄しつつある”と解釈するのを恐れたからですが、幕府は” 薪水給与令は、ただ人道的な漂流民の救済を目的としたものであり、従来の国法を変更するものではないので、誤解のないように、各国に再確認せよ“とオランダ商館長に命令し、オランダ植民大臣が外務大臣に要請したのは1851年3月でした。また、日本沿岸の測量を禁止する1843年令をオランダは1847年にイギリス・フランス・アメリカに伝えました(p.19)。この幕府の返書が将軍からとされて、1年後に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』に紹介されたということのようです。

アメリカの過去の開国交渉

 合衆国政府は繰り返しこの島国に拠点を確保しようと試みてきたが、他のヨーロッパの国々と同じく成功しなかった。1846年にビドル提督(1-2参照)がこの帝国の法を犯すというミスをして、江戸湾内でフリゲート艦の錨を下ろそうと入港した。目的は通商関係を結ぶことで、将軍に手紙でその目的を知らせた。提督が交渉を始める目的のこの失態に怒った将軍は素っ気なく以下のように言った。 「日本の法律では、日本人はオランダ人と中国人としか貿易ができない。アメリカが日本と条約を結ぶことは許されないし、この帝国との通商も許されていない。その他の国にも許されていない。それに、外国に関することは江戸湾ではなく、長崎で対応することになっている。したがって、出来るだけ早く出て行き、二度と戻ってきてはならない」。 その後間もなくして、スループ型軍艦が日本のある島で難破したアメリカ人の船乗り2,3人の返還を要求するために派遣された。この点に関する日本の法律にもかかわらず、彼らはすぐに丁重に引き渡された。

米日政府間に存在する敵意の根拠は?

 現在両国政府の間に存在する敵意の根拠が何かあるのか我々は知らない。[日本遠征の]手段を提案した者はもちろん我々よりも知っているのだから、近く我々を啓蒙する努力をしてくれることは疑いない。それまで我々は今持っている光[情報]で我慢しなければならない。以下が集めた光の焦点である。 日本は半野蛮の帝国である。その全歴史において退化もしなければ、進歩もしない国で、人類国家に対して奇妙な見世物を晒している国である。合衆国の我々は明白な使命(manifest destiny)によって「その迷信を征服」(原文強調”conquer its prejudices”)しなければならないと確信しているので、銃弾と弾丸と砲弾でノックし、通路を開く提案をする。目的は天啓を[日本に]入れ、綿布の貨物船を年に2,3隻入れることだ。日本の法律、習慣、社会的慣習は[日本]歴史の最初期から変わっていないと証明されている。これは人類から完全に隔離された結果である。だから、我々はこの授業[日本遠征]をするのだ。多分これから持つ全ての往来に匹敵する価値がある。この授業とは、どの国も他国との交流から自らを遮断し、世界の常識に従うことを断り、国際義務を分担することを拒否することは不可能であり、感覚力と活力のある存在ではなく、現在の日本のように、ミイラになってしまうと教えることだ。この授業の教科書はすでにコシュート氏が発表している。

コシュートの英米講演旅行

  上記の記事の最後の文「この授業の教科書はすでにコシュート氏が発表している」の意味は、ハンガリーの革命家コシュート・ラヨス(ハンガリーでは姓名順Kossuth Lajos: 1802-94)が当時アメリカで遊説していて、その中のスピーチで日本について言及していることを指します。コシュートは英米でハンガリーの独立運動を支援してほしいと訴える遊説を行い、英米両国で熱狂的に受け入れられたことが、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(ILN)と『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(NYDT)の報道でよくわかります。両紙で毎日のようにコシュートのスピーチが掲載され、NYDTには挿絵はないのですが、ILNの挿絵と同じ状況がアメリカでもあったことが記事からわかります。 M. Kossuth Addressing the People from the Mayor’s House, at Southampton.((注3), p.545)The Illustrated London News, Nov. 1, 1851. コシュート氏—クローデによるダゲレオタイプ(銀版写真)から((注3), 1851年11月22日) 以下の挿絵はイギリスのサウサンプトンでのコシュートのための晩餐会の様子(1851年11月1日付ILN)ですが、アメリカでも豪華な晩餐会の模様が報道されています。12月11日にニューヨークで行われた晩餐会のメニューの全容がスープからデザートまで、合計100点余まで掲載されています[ref]”The Kossuth Dinner.—Magnificent Banquet.—Kossuth’s Great Speech—Doctrine of Non-interference”, The New York Daily Times, Dec. 12, 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-1)

アメリカ政府の日本遠征計画がアメリカ議会で議論され始め、創刊間もない『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が日本に対する「事実上の宣戦布告」だと反対の声をあげます。

ペリーは武力行使する可能性があったのか?

ントン攻撃の情報をオランダ商館長から得て、ハリスとの交渉にあたっていた幕府は商館長から忠告を受けて、担当部局から意見を求めます。目付などの評定所一座は、最初にペリー来航時の幕府の対応について、「厳しく拒絶遊ばされるべきところを、こちら側の武装が十分でないため、その場の処置として穏便な扱いになり、大方アメリカ側の要望をお聞き届けなされた」という趣旨の苦情を述べています。そこで、1857年の幕府の対応を見る前に、ペリーが武力を行使する可能性があったかどうかを『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(NYDT)と『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(ILN)の記事から探ってみました。英米の新聞読者に何がどう伝えられたかを知ることは21世紀の日米関係を理解する一助になると思います。NYDTの創刊号は1851年9月18日なので、それ以前の記事はILNから探りました。
    1851年8月2日(ILN):「化学」((注1), p.162) 金は日本に極めて豊富に存在すると言われている。しかし、この排他的な島国の皇帝は自由貿易の利点について全く無知だし、自国の金を大事にしているから、彼の兄弟である中国にも少しも与えない。中国では金が非常に少ない。 1851年12月12日(NYDT):アメリカ議会上院(12月11日)「日本との通商」(注2) 議長は上院にアーロン・パーマー(Aaron H. Palmer)からの日本との通商に関する未刊の本を提出した。討議の結果、通商委員会に付託することにした。 1852年1月13日(NYDT):アメリカ議会上院(1月12日)「日本」(注3) 通商委員会のスワード氏(William Seward:1801-72)が、日本の通商に関するパーマーの本をこれ以上検討することから委員会を免除する決議がなされたと報告し、承認された。

初期の日本遠征計画とアメリカによる「最後通牒」

解説:アーロン・パーマーの「未完の本」というのが1857年に出版されています。『日本への使節団の発端を証明する文書と事実—合衆国政府によって1851年5月10日に認定され、合衆国海軍ペリー提督と日本の長官たちによって江戸湾神奈川で1854年3月31日に締結された』[ref]Aaron Haight Palmer, Documents and Facts Illustrating the Origin of the Mission to Japan Authorized by Government of the United States, May 10th, 1851, and Which finally Resulted in the Treaty Concluded by commodore M.C. Perry, U.S. Navy, with the Japanese Commissioners at Kanagawa, Bay of Yedo, on the 31st March, 1854, to 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-6)

19世紀の不当な戦争が21世紀にも続いていること、そこにメディアがどう関わっているかを概観します。

21世紀の侵略戦争

二次アヘン戦争、またはアロー戦争と、第一次イギリス・アフガニスタン戦争のきっかけがでっち上げによる不当な戦争だったというイギリス議会の議事録(6-2-1〜6-3-3, 6-5-5参照)を読みながら、イラク戦争を思いました。主要メディアが政権の主張に乗っかって、好戦的報道を行った点も同じです。 2019年3月に日本で封切られたアメリカ映画『記者たち—衝撃と畏怖の真実—』(原題Shock and Awe, 2017)は、イラクへの侵略戦争開始前に政府の説明がおかしい、納得できないと思った地方紙のワシントン支部編集長と記者たちが真実を求めて取材を続けるうちに、イラクがアルカイダと共謀しているという説も、大量破壊兵器があるという説も疑わしいことを突き止めます。しかし、主要紙、『ワシントン・ポスト』も『ニューヨーク・タイムズ』も政府の説明を報道するだけで、国民は信じ込まされ、戦争賛成の気運が出来上がっていきます。異論を唱える記事を書いた記者たちは非愛国者と呼ばれて苦しむ姿を描いた映画です。 この編集長ジョン・ウォルコット(John Walcott)の記事「イラクについてドナルド・ラムズフェルドが知っていて、私たちが知らなかったこと」(2016年1月24日、(注1))は、不確かな情報によってブッシュ政権がイラクに大量破壊兵器があると断定して、侵略戦争を開始したこと、アメリカ兵4,500人とイラク人165,000人が犠牲になり、サダム・フセインを処刑させる戦争を続けたこと、結果的には大量破壊兵器もなかったし、証拠もない不確かな情報を元に侵略戦争を起こした経緯を記しています。恐ろしいのは、『ニューヨーク・タイムズ』の記事「フセインが原子爆弾部品の製造を加速させているとアメリカが言う」(2002年9月8日、(注2))をブッシュ政権の閣僚たちがテレビで度々引用して、侵略戦争の正当性を印象付けたことです。後に『ニューヨーク・タイムズ』は誤報道だったと謝罪しています。この記事を削除せずに今でもデジタル版に掲載していることは反省材料として、歴史的資料としている意図が窺え、感心します。 ブッシュ政権がイラク侵略を発表しようとしていた2002年9月9日に諜報機関の極秘報告書が提出され、そこには大量破壊兵器プログラムについての知識は0%から75%と書かれていたのです。「大量破壊兵器について我々が知らないことについての文書」とメモ書きした国防長官ドナルド・ラムズフェルドが、この文書はブッシュ政権のイラク戦争計画を傷つけると知っていたことを示すとウォルコットは述べています。そして、政権の主要メンバー、国務長官のコリン・パゥエルやCIAのトップなどに共有されなかったと、国務省・ホワイトハウス・CIAの匿名情報提供者たちが証言したそうです。この報告書は消えてしまい、その代わりに、サダム・フセインの核・生物・化学兵器の脅威がアメリカと同盟国にいかに危険かというストーリーが主要メディアで流され始めます。 アメリカ統合参謀本部は「イラクの核兵器プログラムに関する我々の知識は90%不正確な情報の分析に基づいている」と報告していましたが、この文書が機密解除になった後の2016年大統領選でも、両陣営にはイラク戦争推進派の人々がアドバイザーになっていると指摘しています。現在トランプ政権の国家安全保障問題担当補佐官のジョン・ボルトンもその一人で、2019年5月にはベネズエラの大統領を追放するような発言をしたり(注3)、イランを挑発して戦争に持っていくかもしれないと報道されたりしています[ref]Max Boot, “John Bolton may be trying to provoke Iran into firing the first shot”, The Washington 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-5)

19世紀後半のイギリス・メディアが権力と化した姿勢に警鐘を鳴らしたジャーナリストと、パーマーストン首相/政権と『タイムズ』の報道の関係を厳しく批判したマルクスの論を紹介します。

19世紀後半のメディア

 19世紀のイギリス人ジャーナリストW.T.ステッド(William Thomas Stead: 1849-1912)が、1886年にメディアが権力になりつつあるという警告論文「ジャーナリズムによる政府」(注1)を発表しています。この論文発表時、ステッドは37歳ですが、惜しいことに、タイタニック号の沈没で亡くなってしまいました(注2)
    新聞は時には極めて重要な問題を決定づける力を持っている。 政治家と新聞の関係:国会で通したい法案を抱えている大臣は2,3人のジャーナリストを友達にして、その法案支持の記事を書くよう勧め、記事が報道されたら、「世論が支持している」と宣言する。いわゆる「世論」というのは、その友達が自分の言葉を再生したものに過ぎないということは大臣自身がよく知っている。 新聞は国家の決定におけるキャスティングボート(決定票)を握っている。 現在の未発達で原始的な状態のジャーナリズムでさえ、その力は強く、今後、国家において更に力を増すかもしれない。ジャーナリズムの将来は完全にジャーナリストにかかっている。現在その展望はあまり望めない。ほとんどのジャーナリストにとって、ジャーナリズムが政府の手先だという考え方は異質なものだ。しかし、もし、このことを考えられたら、社説のペンは権力の王笏(おうしゃく)である。 私は比較的若いジャーナリストに過ぎないが、私は以下のことが新聞の手でなされたことを見てきた。内閣がひっくり返され、大臣が辞任に追いやられ、法律が破棄され、大きな社会改革が推進され、法案が変えられ、概算が改作され、計画が修正され、条例が通され、将軍が推薦され、知事が任命され、軍隊が世界中に送られ、戦争が宣戦布告され、戦争が回避されてきた。1874年にグラッドストン氏が保守派大臣に冗談めいて、「ポール・モール・ガゼット[夕刊紙]に注意しろ。私を悩ませた新聞だから、君を困らせないように注意した方がいい」と言った。 新聞が内閣の決定に与える影響力は下院がふるう影響力よりはるかに大きいことは疑いない。平和か戦争かの問題では、議会の権力は、不名誉な平和を達成するか、犯罪的戦争に突入するかの決定を行った人たちを、事件が終わった後で懲戒免職にする権力だけだ。

ジャーナリストのあるべき姿

    ジャーナリストの義務は見張りの義務である。「もし見張りが剣が来るのを見ても、人々に警告を発するためのトランペットを吹かず、誰かが剣にやられたら、その人は自分の悪行のために殺されるが、私はその血の責任を見張りの手に求める」[旧約聖書エゼキエル書33-6]。人間の義務はできる限りの善を行い、全ての悪を防ぐことである。善を行うことを知っていながら行わない者には、直面するのを用心しなければならない非難よりもずっと激しい非難が来る。 事実を知ることが第一の、そしてあらゆるものの中で最も不可欠なものである。 ジャーナリズムの扇情主義は世論の目を引きつけて、行動の必要性を認めさせるものであれば、正当化できる。単なる喚き自体は人間の行の中で最も下品な行為だ。しかし、ジャーナリズム的広報記事「ロンドン浮浪者の苦しみの叫び」の扇情主義が貧困層の住居に関する英国審議会を立ち上げさせたのだ。

『タイムズ』とパーマーストン首相の関係

 カントン攻撃に関する『タイムズ』の記事から、当時の一部イギリス・メディアの酷さがわかりますが、マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1861年10月5日、(注3))と題する記事で批判しています。
    「イギリス人は『タイムズ』を読むことで、自分の国の政府に参加している」。これはある著名なイギリス人作家が言ったことだが、この王国の外交政策に関する限り全くその通りだ。国内の改革政策に関しては、国民は決して『タイムズ』の指示に動かされない。 過去30年間パーマーストン卿は大英帝国の国力をふるう絶対的権力を奪って、この国の外交の道筋を決定してきた。同時に『ロンドン・タイムズ』がイギリスの全国紙の地位を獲得した。つまり、外国に対して、イギリスの心を代表する地位を獲得したのだ。 国家の外交を管理する独占権が(中略)たった一人の男に移ったら、イギリスの外務大臣、すなわち、パーマーストン卿に移ったら、対外関係について国家のために考え、判断する独占権と、対外関係に関する世論を代表する独占権がプレスからプレスの1組織、『タイムズ』に移ったということである。 パーマーストン卿は秘密裏に、国民にも、議会にも、彼の同僚にも知られていない動機から、大英帝国の外交を管理した。彼が自分の秘密の行いについて、世論の批判を下す権力を奪ったこの唯一の新聞を手に入れようとしなかったとしたら、彼は大馬鹿に違いない。 『タイムズ』の語彙には徳という言葉はどうしても見つからない。(中略)『タイムズ』はパーマーストンの単なる奴隷になってしまった。パーマーストンは『タイムズ』の徳の何人かを内閣の下位のポストにこっそりつかせたり、その他の者をおだてて彼の社交仲間にした。その時以来、『タイムズ』のすること全てが、大英帝国の外交に関する限り、パーマーストン卿の外交政策に合う世論を製造することに制限されてきた。パーマーストンがしようとしていることのために世論を準備し、彼がしたことについて世論が黙従するようにしてきた。 この仕事を達成するための『タイムズ』の奴隷的労働は最近の議会の報道によく現れている。この議会はパーマーストン卿にとって全く不利なものだった。下院のリベラルと保守の独立系議員たちがパーマーストンの独裁に反逆した。彼の過去の不正行為を明らかにして、同一人物の手に同じ制御不可能な権力が握られる状態が続く危険性を国民に知らせようとしたのである。 ダンロップ氏がアフガン文書に関する特別委員会の設置を動議することで攻撃を開始した。これはパーマーストンが1839年に議会に提出したものだが、実は捏造された文書だった。 『タイムズ』は議会報告の中で、ダンロップ氏のスピーチを全て隠した。ご主人[パーマーストン]にとって最も致命的だと『タイムズ』が考えたからだ。 その後、モンターニュ卿が1852年のデンマーク条約に関する全文書を提出するよう動議を出した。(中略)パーマーストンはこの動議を出させないために、事前に議会流会を企んでいた。議会は実際に流会にされたが、その前にモンターニュ卿は1時間半スピーチをした。 『タイムズ』はパーマーストンから流会があることを知らされていた。議会報告を骨抜きにし、料理する役割を特別に担っていた編集長は休暇をとったため、モンターニュ卿のスピーチは骨抜きにされずに『タイムズ』のコラムに現れた。
マルクスは他の記事で、はっきりと次のように述べています。「パーマーストンの新聞:『タイムズ』『モーニング・ポスト』『デイリー・テレグラフ』『モーニング・アドバタイザー』『サン』は[パーマーストンから]命令を受けた」(注4)

イギリス・アフガニスタン戦争

 マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」の中で言及している「捏造された文書」は、第一次イギリス・アフガニスタン戦争に関する外交文書です。1839年に議会に提出された時、最重要文書が捏造され、イギリス・アフガニスタン戦争を始めたのはアフガニスタンのドースト・ムハマド・ハーン(Dost Muhammad Khan: 1793-1863)王だとされました(注5)。実際には在カブールのイギリス代表、アレクサンダー・バーンズ(Alexander Burnes: 1805-1841)がドースト・ムハマド王と交渉した結果、1838年10月にインド総督の宣戦布告が出されました。 現在のブリタニカの解説(注6)によると、イギリスは植民地インドを基地に、アフガニスタンにも影響力を拡大し、ロシアの影響力に対抗しようとして、イギリスが起こした戦争とされています。ドースト・ムハマド王が反英で、ロシアの侵入に抵抗することができないと恐れたイギリスは、亡命中のシュジャー・シャー(Shah Shoja: 1803-1842)を王位に就け、1839年4月にイギリス軍をアフガニスタンに送ります。外国による占領や、列強が即位させた王に不満を持ったアフガニスタン人はドースト・ムハマドのもとに結集してイギリスと戦います。1940年11月に降伏したドースト・ムハマドはインドに送られます。その後も国中で戦いが勃発し、イギリス軍は防御不能になって、1842年1月にカブールから撤退します。イギリス軍の撤退後、シュジャー・シャーは暗殺され、1843年にドースト・ムハマドはカブールに戻って、王位に就きます。 第一次イギリス・アフガニスタン戦争の詳細を『アフガニスタンにおける戦争の歴史』(1851)が伝えていますが、2巻もの長いものなので、フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-4)

1858年4月から10月まで英米メディアで報道された第二次アヘン戦争、インドの反乱、日本関連記事を概観します。
    1858年4月17日(NYT,(注1)):「イギリスの中国政策」『ロンドン・タイムズ』4月1日我が政府が成功裏に始めたことを続ける仕事が残っている。イギリス国民は永続する利益を世界に与える機会がある。インドが炎に燃えている時、カントンを封鎖し続ける勇気がある。アワドが再び完全に占領される頃には、中国の島の都市と航行可能な川にイギリス国旗が上がるのを見るだろう[原文は斜体で強調]。(中略)我々が他国の協力を求める原則は誰の目にも明らかだ。それは我々がこの仕事を1国だけではできないという理由からではない。あらゆる国が共通の条約という利益を共有すべきだからである。(中略)舟山[Chusan, Zhoushan]を占領しよう。もし我が隣人フランスが舟山の占領を望んでいれば、彼らにも中国の海に植民地を作らせればいい[原文強調]。中国シルクのフランスへの輸入は非常に大きいが、この貿易は主にイギリスとアメリカの船で行われている。フランスにも植民地を設立する土地を得る資格は公平にある。我が国は隣人たちに嫉妬していないが、我々の東アジアにおける偉大で増え続ける権益があり、自分たちの商業と我々の広大な保護領の商業の発展のために必要な領土的権利を手にいれる完全な自由度は保持しなければならない。 1858年4月24日(ILN,(注2)):「日本とコリアのスケッチ」 1858年5月22日(NYT):一面「アメリカの南方への拡大を願うイギリス」『ロンドン・タイムズ』より アメリカ合衆国による中南米の弱い共和国の吸収はこれ以上遅れてはならない[原文強調]。メキシコとニュー・グラナダ[ヌエバ・グラナダ共和国:現在の中南米の複数の国の一部から構成されていた]は自然の腐敗によって陥落寸前だが、国籍の降伏に向かう動きが始まっている。ベネズエラも似たような運命に向かっている。メキシコに関しては、国土のうち最も豊かな地域の買収が進んでいる。アメリカ政府はもう少し待ちさえすれば、国[メキシコ]そのものを[アメリカの]言い値で手にいれられるかもしれない。(中略)ニュー・グラナダに関しては、たいして時間はかからないだろう。この1,2年この共和国と合衆国の間で紛争があった。共和国の国民がパナマ地峡をめぐる暴動で負傷したので、その賠償をアメリカに求めているからだ。アメリカは地峡の通行権を将来的に保証する条約を求めているが、ボゴタ議会で反対が続いている。もし条約が批准されれば合衆国にとっては重要な権益をもたらす。もし拒否されたら、武力で要求するものすべてを取る理由となるだろう。(中略)ニュー・グラナダがアメリカに併合されたら、ベネズエラの吸収は当然のこととして続いて起こる。(中略)ニカラグア・コスタリカ・サルヴァドール・ホンジュラス・ガテマラなどの小国もこの流れに続く。これらの国々の唯一の障害は、合衆国とイギリスが中央アメリカを支配することを禁じている「クレイトン・ブルワー条約」(注3)である。しかし、ワシントンではこの条約を破棄する動きが進んでいる。 1858年7月15日(NYT):「日本人船乗りの救助—興味深い詳細」 1858年7月17日(ILN):「インドと中国」((注3), p.54)インドと中国からの7月7日付情報によると、中央インドで反乱軍が再び問題になっている。バラックポール(西ベンガル)連隊は解散か中国派兵に応じるかの選択がある。
The 70TH Bengal Native Infantry Drawing Rations at the Commissariat Stores, Canton.カントンの兵站部で配給する第70ベンガル原地人歩兵隊(ILN, 1858年7月17日)
    1858年7月22日(NYT):「キューバ獲得/ コマンチェ・インディアンの略奪」 1858年8月5日(NYT):「満州—中国におけるロシア—アムール川—占領進む」 1858年8月11日(NYT):「同盟国が北京へ進軍」 海河(Peiho)河口の砦を英仏同盟軍が占領。同盟国の軍事力によって遅かれ早かれ中国皇帝は同盟国の要求に同意せざるを得ないだろう。これらの要求の正当性はロシアとアメリカ合衆国によって認められた。残念ながら、我が国の政府は彼ら[イギリス]が使わざるを得ない暴力的方法に反対している。しかし、過去18ヶ月の中国問題の歴史に精通している人なら誰もが武力による以外、武力のみが中国政府と国民に国際法の原則を認め受け入れさせることができるのだという結論に達するだろう。(中略) 中国帝国を文明と貿易に開かせる偉大な仕事がイギリスとフランスによって精力的に始められたが、同様のエネルギーで続けられていないことは遺憾である。中国との交渉で多くの失敗や遅延があったのは無用というよりもっと悪い。 1858年10月9日(ILN, p.335):7月22日付、本紙特別アーティスト・特派員より 3日前、[ここカントンの]繁華街は勤勉な人々の活気に満ち溢れていたのに、わずかの間に本当に恐ろしい荒廃の情景に変わってしまった。全焼し、全壊した家々の骨組みしか残っていないが、そこから巨大な煙の塊が上がっている。[この後、兵士たちによる略奪の様子も描かれていますが、省略します。下の2葉の挿絵がカントンの廃墟と略奪の様子です]
Appearance of a busy street in Canton after a visit from “Ye Barbarians” 「汝ら野蛮人」の訪問の後のカントンの繁華街の様子(ILN, 1858年10月9日, p.335)
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-3)

幕府はインドの反乱について、早い時期に把握していました。当時、日本が置かれた立場を理解するために、英米メディアで報道される第二次アヘン戦争とインドの反乱と並んで、ネイティヴ・アメリカンとの戦争や奴隷貿易、日本との条約交渉を辿ります。

幕府が把握していたインドの反乱

府がインドの反乱について1857年8月には知っていたことが、目付の岩瀬震忠(ただなり:1818-1861)の書簡からわかります。岩瀬が長崎に出張し、到着の挨拶を江戸の同僚に送った書簡が『幕末外國関係文書』に残っています。1857年8月10日(安政4年6月21日)付書簡「六月二十一日長崎へ出張の目付岩瀬伊賀守震忠書翰在府同役へ 清國騒亂蘭船購入貿易談判等の件」(注1)のインドの反乱関係部分を要約します。前日に長崎に到着し、早速オランダ商館から情報を入手した内容の報告ですが、最初に阿部正弘の病状について心配を書いています。「春以来、血色も悪く心配していました。多事の折柄、一日も早く出勤できるようになることを祈っております」という趣旨から始まっている書簡です。
    廣東の騒乱がますます難しくなっている様子の上に、インドでイギリスによる苛政を憤って、イギリス士官を殺し、一揆のような騒ぎになっているそうです。 この地はかねてよりロシアが欲しがっていた地ゆえ、この節の騒乱に乗じて、ロシアが進出を企て、いよいよやかましくなるかなと思います。
岩瀬震忠の手紙はこの後はカントン攻撃にフランスもアメリカも参加し、大国中国も数多くの強敵を引き受けて、どうなるのだろうか、オランダ人も非常に危うい事になってきたと言っていると、情報を伝えています。こんな中で日本が欧米列強と交渉しなければならないという危機感も伝わってきますから、英米の報道に現れた中国の戦争、インドの反乱、日本に関する情報、その他、気になった記事を時系列で紹介します。後に紹介するように、この時代には新聞の力が政治をも変える危険な側面が警告されており、政治家にとっても経済界にとっても新聞を味方につけるなど、メディアを利用する重要性が認識されていましたから、現在のメディアの影響力の功罪を考える上でも参考になると思います。日本関連の記事は見出しだけで、記事内容は後に紹介します。

第二次カントン攻撃、インドの反乱ほか

    1857年6月5日(NYDT):「奴隷貿易の復活」(注2) 1857年7月30日(NYDT):「中国とインド」「インディアン戦争の恐れ/ビッグスー川にインディアンの大集会」セント・ポール・デイリータイムズより、7月24日イエロー・メディスン川(Yellow Medicine River:ミネソタ州)にスー族インディアンが集結して不穏な動きだ。もし戦争が起これば、10,000人のインディアンに対し、200人の部隊で戦うことになる。イエロー・メディスンの白人家族は駐留地に移った。兵卒の報告によると、インディアンはサルのように生意気に部隊を取り囲み、戦えと挑んでいるという。 1857年8月14日(NYDT):「インドの反乱/デリーはまだ陥落せず/セポイの連隊50が反乱/中国の戦争」 1857年8月18日(NYDT)「フォルモサ(台湾)島の占領/中国のアメリカ市民への賠償/ デリー陥落のニュースの一部確認」:NYDT特派員、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年6月9日付 アメリカ海兵隊のJ.D.シムズ大佐が以下の指令を受けた。フォルモサ(台湾)のフォンシャン市にアメリカ国旗を揚げて台湾島を正式に領有することだった。今回の戦争でアメリカ市民が被った損害の賠償として領有するのである。 これは在中国のイギリス当局に大きな満足を与えた。中国とのさらなる衝突に向けて各段階で行われるからだ。私の考えでも、これは中国における我々の権利を確保するための賢明な方法である。我々の損失に対する報酬として確実で安全な方法である。世界のこの地域で我々が領土獲得を求めるなら、中国帝国の領土のうち獲得できるものの中で、フォルモサほど望ましい所はない。鉱物と農産物が豊かで、石炭も価値が高いし、世界の海洋国家が熱望する場所だ。
 1857年9月14日に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が『ニューヨーク・タイムズ』に変更されてからはNYTと省略します。
    1857年9月23日(NYT):二面「インドへのイギリス軍の大規模な補充部隊」 1857年11月19日(NYT): NYT特派員、上海発、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年9月7日付 アメリカ合衆国軍艦ポーツマス号が日本に向けて8月22日に上海を出航した。箱館と下田に寄港する予定だ。箱館にはアメリカの領事代理がおり、下田には総領事がいる。 1857年12月21日(NYT):「中国戦争再開」 Chinese Reading Proclamation宣戦布告を読む中国人『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1858年2月27日号, p.221, (注3)1857年12月31日(NYT):一面「 Friends of Chinaより、1857年10月31日付 カントン攻撃の準備/合衆国と日本との新条約交渉/インドの反乱」:香港発(10月3日)ロンドン・タイムズ特派員 エルギン卿はカントン攻撃の結果がわかるまで香港に滞在するだろう。海兵隊部隊全体が到着次第、作戦が開始される。最初の補充部隊がインペレイター号で28日に到着した。戦艦コモラント号とランターター号がマニラから昨日到着。 1858年1月1日(NYT):一面NYT特派員、香港発、アメリカ軍艦ポーツマス号より、1857年10月29日付「日本からの重要ニュース/ ハリス総領事と[日本]との新条約交渉/下田と箱館にアメリカ市民の居住が許可される/下田沖に危険な礁を発見」、二面「中国におけるイギリスの位置/ ロシアと中国/ インドの反乱」 1858年1月2日(ILN):巻頭言「昨年[を振り返って]」ペルシャ戦争という現実があり、中国との切迫的な戦闘があったが、これら遠くの野蛮国との抗争は我々の見方では、戦争と呼べるものではない。 1858年1月26日(NYT):一面、NYT特派員、上海・呉淞(Woosung)発、アメリカ軍艦サン・ジャシンタ号、1857年11月6日付、一面「ロシアとアメリカの日本との条約」(10月付) 1858年2月6日(ILN, p.131):「日本」 日本からの情報によると、昨年10月16日に長崎において、日本とオランダ政府の間で条約が批准された。上記の日に長崎港はオランダ貿易に開け放たれた。10ヶ月後には箱館港が開放される。同じ情報によると、日本政府は全文明国と同様の条約を締結する用意がある。そして、キリスト像を踏みつける習慣は廃止される。 1858年2月8日(NYT):一面「中国戦争における英仏協力の計画/ 葉への最後通牒/ カントン攻撃間近」、二面「日本—国の様子—現地人の住居、慣習などーアメリカ総領事」1857年12月16日付ほか 1858年2月15日(NYT):一面「[インド]反乱軍の敗北/カントンは即刻攻撃されるべき/最後通牒に従うことを葉は拒絶」1857年12月16日付他 1858年3月6日(ILN, p.227):「中国における戦争:葉の捕虜、カントンで王室宝物を押収」1月14日付シーモア提督の公式報告書:カントン当局は我々[英仏]が市を攻略したことを認めなかったので、1月1日に部隊が市中を行進することにした。女王陛下の領事、パークス氏が喜ばしい情報を持って到着した。葉を捕虜にし、地方の全記録、銀で30万ドル相当の王室宝物を押収入手した。これら一連の行為に対して中国側からの抵抗はなかった。銀はカルカッタ号上で保護している。 1858年3月8日(NYT):「カントン砲撃の詳細/中国、ロシアに宣戦布告/ラクナウ近くの反乱者の敗北」 本社特派員より、アメリカ合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港1857年12月28日 長く延期されていたカントン攻撃が始まった。12月28日夜明けとともにカントンに向けて砲撃が開始された。市内の各所で火があがった。戦艦からは1日に60砲市に向けて撃たれ、3日間続いた。12月29日に英仏部隊が市の後方の2砦を襲い占領した。中国軍は勇敢に抵抗したが、小規模な武器で防戦し、占領されると逃走した。カントン市は完全に破壊されるだろう。 1858年3月11日(NYT):一面「英仏軍によるカントン占領—葉が捕虜」1858年1月15日付Friend of Chinaによると、1月5日に葉が捕らえられた。 1858年3月15日(NYT):一面「葉の捕虜の詳細」1月15日付情報によると、葉はイギリスの病院船に収容された。カントンは英仏同盟国の保護領となり、新政府が設立される。 1858年4月3日(ILN, p.345):「中国における戦争」(本紙特別アーティスト・特派員より、カントン、1月28日)  市内に秩序が次第に戻っている。通りは(もしそう呼べるなら)活気を取り戻し、どこでも開店されつつある。住民は全体的に最近の屈辱に関心がないように見え、新しい支配者に服従している。多くの士官が現地人とすれ違う時はお辞儀をする。これを最下位の中国人役人に対してもする。この小さな儀式が東洋の全ての国々で最重要なことだとみなされている。 1858年4月6日(NYT):「フランスとイギリスに協力するアメリカとロシア」 1858年4月13日(NYT):一面「北京に対する示威運動—英仏同盟によるカントンの要塞化」本社の特派員より、合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港、1858年1月28日  これまでも現在も、中国・日本・マニラの港の必要性が緊急に求められているが、この要求に服従していない。1年間も一人置き去りにされている、[アメリカ]国の船が近くまで来てくれないというハリス領事の苦情は国務省の目を開かせたに違いない。 1858年4月17日(ILN, P.383):「中国」(本紙特別アーティスト・特派員より、香港、2月28日) 葉のやつはインフレキシブル号でカルカッタに行った。そこで彼がどうなるか知らない。カントンは今は静かだ。北部がどうなるか我々は皆待っている。北京[政府]が礼儀正しいか否か、それが5月かどうかもわからない。エルギン卿はまもなく上海に行くだろう。ひょっとすると、北京の前に日本に行くかもしれない。ありえないことではないと思う。あの国[日本]の皇帝は外国列強に対して好意的のようだから、これはいい機会だろう。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-2)

Indian Crisis「インドの危機」挿絵キャプションBritish Attack of Mandarin Junks in Fatsham Creek, Canton River—Sketched from the Fort. カントン川[支流]佛山水道の中国ジャンクを攻撃する英国—砦からのスケッチ出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号((注1), p.129)

中国への攻撃とインドの反乱

節で紹介したイギリスによるカントン攻撃の情報を幕府に伝えたオランダ商館長の幕府への忠告を受けて老中が各部署に出したお達しと、それに対する各部署からの意見書がどんなものだったかを見る前に、第二次カントン攻撃やその他の「戦争」を英米の新聞から辿ります。欧米列強の世界戦略の中で、幕府が置かれていた立場がよく見えてくると思います。 上の中国を攻撃するイギリス軍を描いた挿絵は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号の第一面に掲載されましたが、第一面の記事の見出しは「インドの危機」です。セポイの反乱として知られているインドの反乱は5月から始まっており、挿絵の中国攻撃作戦は6月1日に行われました。これらが英米のメディアでどう伝えられたかを見ていきます。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』経由のロンドン『タイムズ』の報道と、1857年7月以降の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記事を中心に見ます。 「インドの反乱」の最初の詳細ニュースは「ボンベイ発5月11日」の報告が掲載された1857年6月24日の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(注2)です。この頃のアメリカの新聞には「インディアン」の反乱や戦争という見出しが多発し、国内でもインド人との戦争が起こっているのかと驚きますが、国内の「インディアン」とは当時、アメリカ・インディアンと呼ばれていたネイティヴ・アメリカンのことです。 5月11日ボンベイ発の報道では、ボンベイからの報告は誇張されているようだと断った上で、「ベンガル騎兵隊の第三連隊が公然と反乱を起こし、将校数人と兵士が死傷して、将校のバンガローが全焼した」と伝えています。以下にインドの反乱に関する報道の流れを、特徴的な部分だけ抄訳します。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事はNYDT、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はILNと略しています。

1857年7月4日(ILN,(注1), p.19)「インド:現地人部隊の反乱とヨーロッパ人の虐殺」

「インド」(カルカッタ発5月18日;マドラス発5月25日;ボンベイ発5月27日)
    ベンガル軍の反乱は恐るべき方法で広がっている。メーラト[Meerut:インド北部]の第3ベンガル軽騎兵隊の1部隊がパレードで、政府が供給した弾薬筒を装填して発射するよう指令された。90人のうち5人しか指令に従わなかった。拒否した85人は軍法会議にかけられ、5年から10年の厳しい求刑があった。5月9日に部隊全員が見る前で彼らは刑務所に行進した。救助の試みもなく、怪しい動きはなかった。 5月10日、日曜の夕方、連隊が突然、怒りの暴動を市民の参加で起こした。11日と20日はこの地区に駐屯している現地人の歩兵連隊2隊が立ち上がった。彼らは刑務所から仲間たちとその他1,200人の囚人を解放し、血なまぐさい仕事を始めた。 メーラトはインド最大の駐屯地で、軍のヨーロッパ隊は女王陛下の第6ドラゴン衛兵隊、第60ライフル隊、砲兵隊だ。駐屯地の半分は炎に包まれ、我々の兵士たちの妻や子どもたちは激怒した兵士たちの野蛮な手にかかった。彼らは前代未聞の残酷さで殺した。 将校たちはバンガローから飛び出し、男たちに忠誠を呼びかけようとしたが、射殺された。ヨーロッパ部隊が到着する前に、残虐行為はほぼ終わっていた。 男たちは100マイルほど先にあるデリーに逃げた。デリーのベンガル人部隊の間にすでに反乱の種は広まっていた。市に逃亡者として入った反乱者たちはすぐに、この地の3現地人連隊、第38・54・74隊はデリーに駐屯しており、彼らを監視するヨーロッパ部隊はいなかった。その結果は酷いものだった。 反乱した兵士たちは市を完全掌握し、卑屈な従順さからヒンドゥーの性質である残酷な獰猛さに即座に変身し、デリーのヨーロッパ人居住者を年齢性別に関係なく無差別な虐殺を始めた。銀行を略奪し、故皇帝の息子をインドのムガル王と宣言した。 この不満の原因について確かなことはまだ伝えられていないが、カーストに関するインド人の思いを蹂躙する行為があったという疑いに基づいている。セポイ[インド人傭兵]に供給された新しい弾薬筒はイギリスから直接送られたもので、塗られているのは不浄の動物の油脂だとセポイたちは聞かされた。不満が密かにゆっくりと拡散し、デリーでの惨劇は密かに完全に組織化された陰謀が存在していたことを証明している。 メーラトの反乱部隊が宿営地におけるインド兵の対応がヨーロッパ人と平等ではないと思ってデリーに逃げたのは明らかに偶然ではない。デリー駐屯の3連隊が同じ思いを持っていることを知っていて、デリーに行けば、反乱の共謀者が見つかると確信していたに違いない。 ペルシャ湾にいる3ヨーロッパ連隊は和平によって解放されているので、カルカッタに直接航行できる。反乱を鎮圧し、反逆者を罰する作戦がすぐに取られた。全地域の反乱者を圧倒する量の軍隊が行軍した。 月曜朝に公式の報告がロンドンに届くと、午後には閣議が行われた。東インド会社の幹部との長時間の会議も行われ、夜議会で発表される前に、女王陛下の軍隊の大部隊が出発の準備を始めていた。香港の出来事で、4連隊が行先をインドから中国に変えなければならなかった。中国での仕事が済み次第、元々の行く先インドに向かうことになっている。
同じ7月4日号の表紙に「インドの反乱」という見出しの巻頭言が掲載されています。
    インドの我々の家が燃えている。この家には保険がかけられていない。この家を失うことは、我々の力と特権と性格を失い、世界ランキングで地位が落ち、我々の過去の栄光と現在の野望によってではなく、ヨーロッパの地図における我が国のサイズに応じた地位に落ちるということだ。この火はどんなことをしてでも消さなければならない。このような危機の大きさと突然性の前にはあらゆる普通の配慮はなくなる。幸い[英国]インド政府はこの危機に対する十分な力があるし、もし資力がなければ、大英帝国のすべての富・軍事力・エネルギー・リソースで支援されるだろう。その場合は恨み言などないだろう。 我々が剣でインドに勝つことが望ましいかどうかなど、もはや問題ではない。勝ったのだから、インドを保持しなければならない。剣がインドを獲得したのだから、剣がインドを守らなければならない。現在の我が国の力に対する恐れと、我が国の過去の無敵さの記憶によって我々は支配する。この恐れと記憶はいかなる危険があろうとも、いかなる犠牲があろうとも維持されなければならない。

1857年7月8日(NYDT,(注3)):(ロンドン『タイムズ』6月27日)「英印軍における反乱の大拡大/現地民部隊に暴動と反乱/デリーでヨーロッパ人の虐殺」

本節の最初に掲載した8月8日号第一面の記事「インドの危機」は社説のように国民を鼓舞する内容になっていますので、抄訳します。
1857年8月8日(ILN, p.129)第一面「インドの危機」
    [イギリス国民は日常に追われているが]最初の警告の叫びで、彼らは事件の大きさに耳目を開けた。そして、世論と政府の行動によって、インド全体と両側の世界に向かって、東洋の帝国を守るために、いかなる流血や宝物の犠牲を被ろうと、必要なことは躊躇なく行う精神が十分あると証明した。また、3年前に世界の最強の君主国の一つ[である我が国]がヨーロッパの均衡を守るために全力をあげたことを示したように、アジアの均衡を守るために国内外の敵と戦う用意があると、インド全体と世界全体に示す。 増強軍は本国の英国人が海外の英国人と同じくらいの強い目的を持っていると証明するだろう。[インドの]反乱者たちは計画も主導者もなく、英国軍の全力で戦うこの紛争に勝ち目はないと証明するだろう。必要な時は全英国軍が反乱者たちに向かって行くことは確かだと証明するだろう。 反乱者たちは自分たちを野蛮性[の時代]に追い戻すようなアワドの王も、その他の彼のような野蛮で残忍な暴君も望んではない。 そして、もしいつか反乱者たちがヨーロッパの白い顔の異人の支配からの自由と独立に署名するとしても、英国政府より1000倍も酷い暴君にならない首長と頭首を自分たちの人種の中から探すだろうが無駄だ。
The Princes of Oude and Suit—from A Photograph by Mayallアワドの王子たちと随行者たち—写真より左からInterpreter通訳、Brother of the King of Oudeアワド王の兄弟、Eldest Son and the Heir of the Deposed King of 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-1)

アロー号事件とイギリスによるカントン攻撃のニュースは日本にいつ、どう伝えられたかみます。

幕府に伝えられたアロー号事件とカントン攻撃の情報

府にアロー号事件とカントン攻撃の情報が伝えられたのは、ちょうどイギリス議会でアロー号事件の真相解明とカントン攻撃の是非が議論され始めた時期(1857年2月24日〜3月3日:6-2-1〜6-3-3参照)ですから、幕府の情報把握の早さがわかります。『幕末外國関係文書』に記録されている1857年2月26日(安政4年2月3日)付のオランダ商館長の書簡から始まります。その後、長崎奉行所が口頭で聞き取った記録が続きます。オランダ商館長は、欧米列強と交渉をしている日本にとって英仏のカントン攻撃は重要な考慮すべき事件だ、対岸の火事と思うなと忠告しました。その忠告を受けて、1857年3月から6月の間に幕府の中で17通もの文書がやりとりされていますから、幕府がいかに重要視していたかが窺えます。 切迫感の理由の一つはタウンゼント・ハリス(Townsend Harris: 1804-1878)がこの半年前の1856年8月21日に下田に来航し、幕府と通商条約の交渉を開始して、様々な要求をしていたからです。同時期に英仏露が接近し、出入りが頻発していますから、幕府がどんなに大変だったか、老中首座の阿部正弘(1819-1857年8月6日)がその最中に病死してしまったのも、過労からだと理解されています。心労・過労は通詞も同じで、外交用語「領事」「総領事」などの概念さえなかった時代に、武力をチラつかせて開国を迫る欧米列強との交渉の通訳/翻訳をしなければならない通詞たちの苦労が偲ばれます。2-3で紹介したオランダ語の大通詞・西吉兵衛がイギリス艦隊のスターリング提督との会見を通訳する予定の朝、1854年10月8日(安政元年8月17日)に43歳で急逝してしまったのも、過労死だったと推測されています。

アメリカ領事の常駐をめぐるペリーと幕府の応接掛との応酬とその結果

 ハリスが領事として常駐する目的で来航したのに対し、日本側にとっては予想外という齟齬がありました。ペリーと交渉した時の大学頭だった林復斎(ふくさい:1801-1859)を代表とする応接掛の交渉記録『墨夷応接録』(ぼくいおうせつろく)の現代語訳が最近出版されたので、領事を常駐させるペリーの要求について確認します。領事を日本に常駐させる要求は「承服しがたい」と繰り返す林復斎に対して、ペリーは「結論を先送りにして、もし何か問題が発生したら、一人常駐させるというのが適切かと考える。また十八ヶ月後に、わが国の使節がやって来るはずなので、そのときにこの件について談判に及ぶのが良いだろう」((注1), p.57)と答えます。ところが、日米の条約文が違っているのです。日本側の条約文では「第十一条 両国政府によって、止むを得ない事情によりその必要性が認められた場合、本条約調印から十八ヶ月より後に、アメリカ合衆国は役人を下田に駐在させることができる」(p.189)となっています。アメリカ側の条約では、”Article XI There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Shimoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the Signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary” (注2)となっています。日本語条約文では、両国が必要だと合意した時とされているのに、英語版では「日米いずれかの政府」となっており、「いずれか」は「アメリカが必要と認めれば」と理解できます。 この違いを検証した石井孝は、そもそもペリーが18ヶ月後に「使節」を送り、その時に談判すればいいと言った段階で、「使節」は「領事」だとペリー側が考えており、領事が来航してから領事を置くかどうか談判しても「仕方ないではないか。通訳の間におけるなんらかの誤解であると思う」((注3), p.98)と書いています。 翌日応接掛の代理としてペリーのもとに派遣された徒目付平山謙二郎は手記の中でペリーの意図を正しく伝えている上、オランダ語訳から日本語に訳された和文は英文の通りだったそうです。しかし、漢文訳が和文と同じになっており、英文を漢文に訳す時に誤りが生じたと推測されること、オランダ語から和訳された条約と漢文との照合を怠ったのだろうという推測です(pp.106-107)。ペリーが誘導した論理に応接掛が引っかかったのか、「領事」という概念がまだ定着していない時期に「使節」=「領事」というペリーのごまかしは見抜けなかったのかもしれません。ハリスがアメリカ政府から日本領事に正式に任命されたのは1855年8月4日(注4)でした。

オランダ商館長の情報と幕府への忠告

オランダ商館長がカントン攻撃について幕府にどう伝えたのか、その忠告も含めて概観します。ハリスを下田に運んだ船は、カントン攻撃を報道していた『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員が乗船していたサン・ジャシンタ号でした(6-4-2参照)。サン・ジャシンタ号のアームストロング提督は6ヶ月後に戻ってくると約束したのに、8ヶ月後の1857年5月5日も現れない、「アメリカの軍艦が長い間やってこないのはどうしたわけか。イギリス人はどこにいるか。フランス人はどこに?」「一隻の軍艦のいないことは、また、日本人に對する私の威力を弱めがちである。日本人は今まで、恐怖なしには何らの譲歩をもしていない。我々の交渉の將来のいかなる改善も、ただ我々に力の示威があってこそ行われるであろう」(注5)と、ハリスは日記に書いています。待ち焦がれたアメリカ軍艦がハリスの前に現れるのは来日約1年後の1857年9月8日でした。ですから、アロー号事件とカントン攻撃について知ったのは、幕府の方が半年以上も早かったわけです。

オランダ商館長の情報

 最初の情報提供者は長崎のオランダ商館の最後の長官だったヤン・H.ドンケル・クルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius: 1813-1879)でした。その書簡と口頭説明をオランダ通詞が和訳したものが『幕末外國関係文書』に残っています。「二〇二 二月五日 和蘭甲比丹キュルチュス口演書 長崎奉行支配吟味役永持亨次郎へ口演 英人廣東焼拂の件」(注6)と題された文書です。「キュルチュス」とか「ドングル、キュルレユス」となっているのは「クルチウス」に、イギリス海軍提督「セイムール」を「シーモア」に直しますが、当時の理解がわかるもの、例えば、カントン長官の葉の役職を「奉行」としている点などは、そのままにして現代語で要約します。文書の日付「安政4年2月5日」は西暦1857年2月28日です。西暦を主に、必要な場合は和暦をカッコ内に記します。 クルチウスから情報と忠告を聞いた長崎奉行支配吟味役の永持亨次郎(ながもち・こうじろう:1826-1864)の長崎奉行宛の報告書です。聞き手、話し手を区別して記したインタビューの書き起こしの体裁になっています。通詞の名前は記されていません。なお、永持亨次郎は長崎海軍伝習所の一期生で、勝海舟と同じく幹部伝習生でしたが、官吏としての有能さを見込まれて、長崎奉行に引き抜かれていたそうです(注7)
    10年前の唐国と英国間の戦争の結果、唐は英国のためにアモイ、カントン、ニンポー、上海、福州の5港を開き、各港に商館を築き、領事を置き、両国官吏の接触法、貿易の方法、商船の租税規定を取り決めた。唐の産物のうち、茶と絹布を専一に交易し、ヨーロッパ同盟国も同様の取り決めをし、5港が次第に繁盛し、唐国にとっても交易が国益であることがわかった。港には勿論境界を定め、城内で外国人が借家、借地など自由にでき、唐人も自然に各国の言語に通じるようになり、当今は自他国民に差別が無くなっていた。 しかし、唐国の風儀は外国のものを軽蔑し、公の交渉も官吏は面会を拒み、多くは書簡の往復で間に合わせ、ひたすら尊大に構えているため、外国人[欧米人]は常日頃不快に感じていた。今度のカントンの件も、英人が現地の奉行に直談判したかったが、拒んだため大事になったのである。 5港のうち、香港は英国が割譲し、その土地人民全てをイギリスが支配し、イギリス人は平常唐船を借り受け、唐人の乗組員で英国国旗を用いて、諸港に往来している。イギリス人の政治は公平だから、唐人も他港より香港に移住した。 また、カントンは条約開始から2年以内に開港という取り決めだったが、10年たっても唐国は約束を守らないため、在唐のイギリス人は武力で違約の罪を正そうと望んだ。しかし、イギリス政府は唐国内で内乱が続いて国民が困窮しているので、その気はなかった。 この度のカントンの変は小さなことから始まった。香港在住のイギリス人が唐船を借り、配下の唐人12人を乗り組ませ、英国の国旗を立ててカントンへ入港したところ、唐人の乗組員が一揆の残党という理由で、カントンの奉行所が捕え、英国国旗も奪取したことをイギリス商人がカントン在住の領事に訴え、領事が奉行所に掛け合い、咎めた。乗組員と国旗を返還し、謝罪したら無事に済むと言ったところ、奉行からは返答なしだったので、海軍提督シーモア(昨年秋、長崎港に渡来したイギリス提督[原文のまま])は部隊を率いてカントンの1砦を奪取した。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-4-4)

DISCHARGING OPIUM FROM THE “PEKIN.”(北京号からアヘンを荷揚げ) 出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年7月11日(注1) アロー号事件に端を発するカントン攻撃は「アロー戦争」、あるいは「第二次アヘン戦争」と呼ばれていますが、以下の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事でも指摘されているように、中国にアヘン貿易の合法化を求めることも戦争を仕掛けた理由だとされています。

アヘン貿易会社からの訴え

 『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』にはアヘン密輸に携わるアメリカ企業からの要請文書が掲載されています。

1857年6月6日:第1面「我々と中国との関係/香港のアメリカ人商人とアームストロング提督との重要な書簡」(香港 1857年3月23日、(注2)

カントンのオーガスティン・ハード商会(Augustine Heard & Co.)、キング商会(King & Co.)、ラッセル商会(Russell & Co.)連名の手紙
    アメリカはこの国[中国]との貿易をイギリスと同じくらい前から行っています。(中略)知っていただきたいのは、イギリスが過去12年間に、香港から上海までの入江と港を含め、中国の海岸線全ての測量を出版してきたのに、アメリカ海軍がこの国の海岸線に関して同様の貢献をしたとは聞いていません。ペリー提督が日本の新しい港とフォルモサ[台湾]の測量はしましたが。 閣下に懇願したいのは、5港における領事裁判権の見直しの必要性を我が国の政府に訴えていただきたいことです。
訳者コメント: この前の文章には、アメリカ軍がカントンのアメリカ人を守ってくれないから、イギリス軍に頼るしかないという苦情があります。この後に同じ連名者から、海賊に襲われるアメリカの商船をアメリカ海軍に守ってくれという訴えもなされています。わかっている限りでは、この連名者の2商会(キング商会以外)はアヘン貿易に従事していたアメリカの貿易商だということです(注3)。そのアヘン貿易について、イギリス議会で問題になりました。

1857年6月12日:第1面「英国の政治とニュース」

(『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員、ロンドン、1856年5月29日:1857年の間違いのようです)
    昨日、貴族院の事務局が中国とのアヘン貿易に関する書類を発表した。1842年から去年1月までの書類である。H.ポッティンジャー卿[6-4-1の1857年2月12日に掲載された投書参照]の意見によれば、中国政府がアヘン禁止を実施する力がないので、アヘン貿易に関してイギリスが出来ることはなかったし、今後も何もできないだろうという。中国人はアヘンを欲しがっているし、中国役人の多くはアヘンが入ってくるのを黙認している。イギリス政府がインドでの生産を禁止しても、唯一の効果はインド産業の支店を自治王子たちの領地に移すことだけだ。 ジョン・ボーリング卿によると、アメリカの主要商社の多くがアヘン貿易を主に手がけていることは有名だ。アヘン貿易に関する限り、イギリス商人とその他の国の商人との違いはない。悪と犯罪の量がどうであれ、全商業界が等しく参加している。 イギリス全権大使とポッティンジャー卿は、中国政府がアヘン貿易を合法化するよう勧めている。
 カール・マルクスは、英印政府が中国へのアヘン貿易で得ている収入額が国家の全収入の1/6にも上ることが第二次アヘン戦争の前提にあると指摘しています。これが「キリスト教と文明[の嘘]を煽り広める英国政府の自己矛盾」だと批判します。自由貿易というのは21世紀現在の欧米列強のキャッチフレーズですが、この時代も「英国の自由貿易の性質をよく検討すると、『自由貿易』の底には独占がいたる所にある」(マルクスの記事「自由貿易と独占」『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1858年9月25日、(注4))という批判がされています。 本節の最初に掲載した『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員による挿絵「北京号からアヘンを荷揚げ」を見た時は、アヘン密輸を非難する意図があるのかと思い期待しましたが、記事の文脈からアヘン密輸は正当な利権であり、当然すぎて弁明すら必要ないという思いが読み取れました。以下はこの特派員による挿絵の解説です。
スケッチ「北京号からアヘンを荷揚げ」では中国人人夫がアヘンの梱を懸命に荷揚げする様子を描いた。左端の帽子の役人は梱の数を記録し、セポイ[インド人傭兵]は石板にその数を書いている。船が出るとき、絹の梱が運び込まれる。(香港発、1857年5月12日、1857年7月11日号, p.28)

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員報道

『イラステレイテッド・ロンドン・ニュース』1857年7月18日 1857年7月からの『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』報道の特徴的な部分を抄訳します。

1857年7月4日: p.19「中国」

 5月10日のOverland Mailによる中国からの最新情報。中国問題に関して母国[イギリス]政府が直面した反対のニュースは香港の[イギリス人]コミュニティに大きな暗雲を投げかけた。しかし、その後の情報で、中国におけるイギリスの利権を守るために取られた即座のエネルギッシュな手段は中国のイギリス・コミュニティを完全に安心させ、彼の国[中国]と我々の関係がようやく適切で確固たる基盤に置かれたという自信に満ちた希望を与えた。 カントンでは極度な悲惨が続いており、コメは非常に高い。カントン川のイギリス船を爆破する試みが数回あり、(中略)1回は成功するところだった。船の15ヤードのところで爆破があったが、幸いけが人はいなかった。(中略)暑さのため、イギリス軍による作戦は10月まで行われない。
 以下の記事は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員記者兼アーティストからの報告です。「中国でのスケッチ」と題した挿絵は、中国でスケッチする自画像のようです。

1857年7月11日:p.27-30「中国への途上で(本紙の特派員記者兼アーティスト)」

香港発、1857年5月12日 ほとんどのイギリス人は今まで中国人が酷い国民だとみなしてきた。私たちは村々を回ったが、現地人からは注目と喜ばせたいという彼らの思い以外に出会ったことはない。(中略)

1857年7月18日:p.50「中国」

5月25日付China Mailより。[カントン川での戦闘準備について記した後] [カントン]市内では飢餓が続き、憂慮すべきレベルに達している。貴族階級はこことマカオに代理人を配置しており、スープ・キッチンに提供するためのコメを購入している。スープ・キッチンは被災者救済のためにカントン市内の色々な所に開かれている。

1857年7月18日:第2増補版, pp.73-74.

「中国より(本紙の特派員記者兼アーティスト)」 中国人は外国人嫌いでは決してない。これは偏見を持たない人や、中国に10〜12年暮らしたイギリス人から聞いた。彼らは内陸部や海岸部の現地人の中で暮らした人々で、中国について最も信頼できる事実を話す資格のある人々である。その上、彼らはカントンで商館を焼かれたのだから、中国人に対して苦々しい思いを抱いてもいい人々だ。彼らが言うには、中国人は好戦的な人々ではなく、本質的に貿易と商売をする国民で、自分たちを支配する国、むしろ、悪政で彼らを苦しめる国に対して特別な愛情を持っておらず、彼らの思いを占めているのはビジネスで、彼らほど勤勉な国民を探すのは難しいだろう。 ジョン・チャイナマンを軽蔑すべきではない。いい政府のもとで、貿易が奨励されれば、ジョンは類のない忍耐心では、世界で最良の国民になるだろう。ヨーロッパがジョンをよく知れば、驚嘆するだろう。 中国人は我々[イギリス]がカントンを取ったことに全く反感を持っていない。現在香港はカントンの店主であふれている。彼らはここに来て暮らせることを喜んでいる。彼らはイギリスの植民者のうちでも、まともな人間と非常に親しくなっている。これは信頼していい。もし中国人が本当に反抗的だったら、ヨーロッパ人全員が大昔に殺されていただろう。 [カントン]砲撃は10分毎に砲弾1個をカントン市内ではなく、町を超えた地点めがけて発射され、町は無傷だった。「カントン」(特派員より) カントンの商業基地としての重要性を過小評価した『タイムズ』は明らかに間違っている。「商人たちが望んでいるのは、失った財産の賠償金を得ることで、自分たちの会社を上海か別の自由港に移す事だ」と書いたが、正当性はないと思う。(中略) ここでの一般的意見は、最初にすべきだったのはカントンを取ることだった。この人々[中国人]に教えてやらなければならないのは、我々を責めるのではなく、我々を尊敬することであり、彼らが我々の軍事力に抗っても全く勝ち目はないことである。さもなければ、彼らが現在固く信じているのは、自分たちが武力でも芸術でも我々より優れているから、先の戦争で彼らが自慢していたように、自分たちが立ち上がれば、野蛮人[イギリス人]を絶滅できると信じ込んでいることだ。(中略)言葉と攻撃が必要だが、攻撃がまず先だ。 訳者コメント:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員報告は、一見人種偏見がないかのような書き始め方ですが、イギリス利権確保のために抵抗する中国を従わせるには攻撃ありきだと主張する内容に、人種偏見と欧米優越主義の根深さを感じます。カントン攻撃の正当性を訴える表現も、グラッドストンが議会で引用した海軍将校の報告と全く違います(6-3-2参照)。 この後も毎号「中国における戦争」という題名の記事で、カントン川における攻撃作戦について「この勇敢な作戦行動」(1857年8月8日)、「中国の川で我が戦艦が素晴らしい列をなして進む」(8月29日)など、軍事的弱者の中国を攻撃するイギリス海軍に陶酔しきっているような表現が続きます。「中国」と題された記事の間に、日本に関する内容が記されているのは不気味です。読者は、日本が中国のように不平等条約に抵抗したら攻撃するという含みを読み取るでしょう。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-4-3)

1857年の英米メディアには、中国に対する戦争を煽る記事と、アメリカの参戦拒否に関する記事が掲載されます。 The Late Engagement with Chinese Junks in Fatsham Creek(佛山水道で中国ジャンクとの最近の戦闘)左よりWar Junks, Mounting Twelve to Fourteen Guns(戦争ジャンク、12-14の銃を装備)、Snake Boats(スネーク・ボート)、A Small Creek—Sampans(サンパン船)、Mandarin Town of Toung Konan(役人町)、Fort(砦)、Point Dividing the Creeks(支流の分岐点)出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月29日(注1)

フランス他ヨーロッパ列強の参戦

『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』掲載のイギリス・メディア記事の紹介です。

1857年5月2日: 第2面「中国皇帝から引き出すべき譲歩/中国の防衛準備/合衆国が対中国同盟への参加拒否」(『ロンドン・スタンダード』パリ特派員より、(注2)

    イギリスの更なる中国作戦にフランス政府が協力することは最も元気付けられる。カトリック協会がフランス皇帝[ナポレオン3世]に、中国にいる多くの宣教師を保護するために、戦争に積極的に参加することを訴えた。 エルギン卿は北京内閣に条約の更新を要求すると言われている。商業に関しては、5港の代わりに、9港をヨーロッパに開港すること;外交使節団をロシアと同じ条件で北京に常駐させること;攻撃と防衛に関して、イギリス政府は領事がいる場所全てに軍の駐屯地を設立し、軍艦がどこの港にも入港する権利を要求すると言われている。 エルギン卿はイギリス政府から全権限を委任され、戦争の機会の決定権も、いつ戦争を始めるかの権限も持つ。

「ポルトガルが中国に遠征隊」(『ロンドン・タイムズ』のパリ特派員より, p.2)

    リスボンからの私信によると、ポルトガル政府は中国の事件に関して、王国の港[マカオ]に遠征隊を送る準備をしており、マカオ駐屯地の人員をポルトガル軍の最強の部隊から選んで4,000人に増強する。

アメリカの参戦拒否

「合衆国と中国におけるイギリスの紛争」(『マンチェスター・ガーディアン』より, p.2)

    イギリスがカントン人と[葉]帝国長官に道理を悟らせるため、外国住民、外国商人と中国人住民、中国人役人との関係を満足いく条件にする努力に、アメリカ政府が協力を拒否した。もしこれが本当なら、ブキャナン大統領政権は深く後悔することになるだろう。 世界最強の3国家がカントンに集結して、最近ここで犯されている暴虐の弾圧に一致団結して強硬な方法で当たること(中略)を中国政府が見たら、頑固な中国帝国もこの3国に耐えることはできないとわかるだろう。

中国の防衛準備

「中国の防衛準備」(Moniteur de la Flotte[パリの雑誌]より, p.2)

    中国は現在、強力な防衛準備をしている。カントン攻撃以来、黄海に流れこみ、北京に通じる海河の22箇所に航行を妨げるための石のダムを作る巨大工事を行なっている。 中国人は生まれつき悪意に満ちており、その邪悪さは狂信性によって増幅され、筆舌に尽くしがたい。彼らを征服する方法は一つだけ、武力の示威や海軍の大規模な実演によって彼らを恐怖におとしいれることである。それはイギリス政府によって達成されようとしている。

戦争を煽るイギリス・メディア

1857年5月16日:第1面「中国戦争/暴動と虐殺/合衆国と中国/イギリスの中国攻撃」

「イギリスの中国攻撃」(Paris Paysより):第2面

    イギリス軍遠征隊の規模は15,000部隊から20,000部隊に増強され、連隊を最強のまま維持する方針だ。中国が協定を拒否したら、この戦争は1回の戦役では終わらないと考えられている。 イギリスはフォルモサ[台湾]島の占領を始めるつもりだという。フォルモサは17世紀後半に激しい戦闘の舞台になり、1683年についに中国帝国に併合されたので、中国の宮廷はこの島の占有を特別に重要視している。

「ロンドン・タイムズ」より, p.2

    事態は危機に達した。この不誠実な人種を罰するには、我が帝国の全軍事力を使うしかない。我々は現状を「小さな戦争」と捉えるべきではない。我々はアジアの半分に分布している3億人と戦っているのだ。 ペルシャとの和平が達成するようなので(中略)、[和平条約の]批准が終わったらすぐに、この戦力を中国に向かわせる。 インドの反乱については、かなり不安な状況だが、一番反抗的な連隊が流血なしに解散させられたというので、やがて終わるだろう。 ペルシャの戦争が終わり、インドが静穏になり、ヨーロッパが平和状態で、我々の兵器庫と港が戦争関連店舗と軍船でいっぱいに詰まっている今、中国戦争を迅速に成功裡に成し遂げる準備は万端だ。しかし、我々のアジアの帝国の繁栄と、存在さえもが深刻な絶滅寸前になるのを見るのでなければ、司令官たちの気力と母国からの支援が必要である。
訳者コメント: 最後の文章は意味不明ですが、深読みすれば、イギリスが戦争を仕掛けて占領しなければ、中国は自滅するとでもいうのでしょうか。アメリカ人読者がこの記事を読んでいる頃、下田でハリスが日本人について、「奸智と狡猾と虚偽」「あらゆる詐欺、瞞着、虚言、そして暴力さえもが、彼らの目には正当なのである」(1857年5月14日、(注3))と日記に書いていたことを思い出します。

参戦拒否のアメリカを批判するイギリス・メディア

「中国との戦争における合衆国の態度」(『ロンドン・ポスト』より, p.2)

    ネイピア卿(Francis Napier: 1819-1898)を通して、英国政府が中国における戦争遂行に合衆国の協力を求めた。 同時に合衆国から必要とされているのは精神的支えだけで、「戦闘は全てイギリスとフランスでする」と知らせた。この提案に対し、カス長官[Lewis Cass: 1782-1866,アメリカ国務長官]は決定的拒否だったと伝えられている。 2隻の蒸気フリゲート艦を含む艦隊がアメリカの道義力外交を支援するために中国近海へ向かうよう指令された。(中略)戦闘の舞台でアメリカ艦隊の存在がどんな効果をもたらすのだろうか? 激しい血なまぐさい戦争の最中に交渉するというのは、賢明な人間ならまともに考えもしない。凶悪で卑怯な中国人に厳しい復讐と適切な罰を与えるまでは、外交の出番はない。 この孤立政策というのは、利己的で、偉大で開明的な国民にふさわしくないように見えることを告白せねばならない。しかし、合衆国政府がグラッドストンやコブデンの中国紛争に関する見解(6-3-1, 6-3-2参照)を採用したり、彼らの見解を元に行動したりしたのではないようなので、満足である。 もし、この2人の紳士の論が正当だったら、もし、ジョン・ボーリング卿がとった方法が国際法に違反しているなら、合衆国政府はアメリカ商館の破壊に対する賠償を要求することが義務付けられている。これは不法に起こされた戦争によって起こった正当な報復の一つだということになるからだ。 アメリカの排他性にもかかわらず、
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