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英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-3)

柳亭種彦『浮世形六枚屏風』の主人公みさをが伯母一家を救うために身売りをする場面の原文(1821)と『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された要約(1857)です。

R.T.(原文)

[才蔵の口上を]まことと思い母朽葉、枕屏風を押しのけて「左様ならお前さまは、ご奉公のお目見えに今からお出まし遊ばしますか」「あい姉さんや戸平殿は、かねがね承知の事なれど、お前の病気の其の中へ、心無しと思ふ故、今日まで延べて置きました」「はて訳も無い事おっしゃります。戸平といふせがれはあり、嫁と云ふは勿体なけれど、花世殿はあれ程に、孝行にして下さりますれば、何も不自由はござりませぬ。申すではなけれども、取分け貴方は大切のお体、かう云ふ所にうかうかと置き申すのは心遣ひ、一日なりとも早い方が、此の婆は却って安堵、やれやれ貴方、ご苦労さまに存じます。して判官様のお屋敷はどの辺でござりまする」と問われて、才蔵が真面目になり、「上屋敷は扇が谷、南無三それは鎌倉だ、伯州でも遠すぎる。おゝそれそれ此の程奥方花世御前病気によって、ご保養がてら八幡辺にご逗留、あの山崎の渡し場を左へ取り、判官様のお屋敷はもうここかへと、お尋ねあらば早速あい知れ申すべし」と取繕へば尚すり寄り、「わたしもあの辺へ参った事もあったれど、見も聞きもせぬ其のお屋敷、いつ頃御普請なされました」と聞かれてはっと思いながら、「イヤ昔も昔、大むかし、彌勒十年辰の年、諸神の立ったる御屋敷」「お広いことでござりませう」「広いとも広いとも、お座敷なんぞを見てあれば、綾のヘリが五百畳錦のヘリが五百畳、高麗縁が五百畳千五百畳のたァたみを、さらりやさっと敷かァれたり」と、己が名から案じ付き、我を忘れて舞ひ出す才蔵。

I.L.N.(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)

年老いたKutsiwaは彼が言ったこと全部が本当だと思い、寝間の屏風を開いて、「何と!召使いとなるために直ぐ行きなさるのか」と言った。「そうです。姉さんとTofeiさんは嫌々ながらも同意してくれました。ご病気が今頃は治るだろうと想像して、今まで引き延ばしていたのです」「そんなこと構いません。息子Tofeiも嫁も私もとても残念です。主婦のFanayoが私の病気の世話をとてもよくしてくれるので、病気は問題ありません。あなたには今まであまり言ってこなかったが、あなたは本当に立派だと感じていました。この出来事で私が今心に感じていることを一刻も早く申し上げたく思いますが、長くなるから別の時にしましょう。私は貴方が仰ってるお方をよく知っていますが、この判官様のお屋敷はどの辺でしょうか?」 この質問にSaizoの顔色が変わり、ばつが悪そうな表情をした。「お屋敷は扇の谷にある。鎌部屋の平野[plain of sickle-rooms:鎌倉のことか?]があり、数百本の灌木を通らなければならない。本当に広大な景色だぞ。貴方はご病気だから、平癒の寺の近くの8本の旗の山で泊まるのがいいかもしれない。その山の向こうの渡し場で左に折れ、そこでお屋敷はどこか尋ねれば、すぐにわかる」「貴方の説明は最近の場所のようです。あの辺はよく行きましたが、そんな所は聞いたことも見たこともありません。そのお屋敷はいつ建てられたのでしょうか」 才蔵は非常に困ったが、「ああ、ずっと昔じゃ。Miraku10年だ。藩の人々が建てたお屋敷じゃ」と答えた。「とても広いお屋敷なのでしょうね」「これ以上ないほど広い。大広間は驚くほどだ。500枚の縞柄の縁付きカーペット、500枚の縁付きコリア・カーペット、500枚の刺繍のシルク・カーペット、全部で1500枚で誰もが驚く」。彼は名前を思い出そうとしたが、度忘れした。

R.T.

みさをは見るにあぶあぶと、「風が当たれば御身の毒、まァまァこちへ」と朽葉が手を取り、寝間に誘いあたふたと、枕屏風を引廻し、「どれ着物をきかようか」と口には云えど無い袖の、ふりも作らずみだれ髪、ついそこそこにかき上ぐる。才蔵は胴巻より百両の金取出せば、みさをは心得証文と引き換えに、件の金手に取りながらあたりを見回し、かねて認め置きたりけん、書置諸共かたわらなる、雛に並ぶ犬張子の中に隠して、「そんならば大切に養生遊ばせや」と云う声聞いて母朽葉、又もや寝間をさぐり出て、「もうお出で遊ばしますか、定めし今日は総模様、立派にお着替えなされた所を、たった一目見たけれど、云ふに甲斐ない此の盲目、どれ探ってなりと見ませう」とすり寄ればみさをは驚き、切ない時の神ならで、仏の前にかかった打敷昔模様の綸子の地黒をこれ幸いと仏壇よりそっと外して膝に押し当て、探らすればにこにこ顔、「おゝ是でこそ数村様のお娘御、随分お首尾なされまして、暑さ寒さは云ふに及ばず、あがり物に気をつけて、おわづらいの出ぬ様に、大切にお勤めなされませ」と売られて行くとはしらがの母、

I.L.N.

 これを見たMisawoは出し抜けに「ここは風がひどいので、風邪を引いてしまいます。こちらへ」と言って、Kutsiwaの手を取り、寝間に誘い、屏風を立てた。「何を着たらいいだろう?」と言うと、髪の毛を掻きあげたが、今言ったような着替えはしなかった。Saizoは銅の巻物から100両を取り出した。Misawoは交換に証文を渡し、金貨を手にして、周囲を注意深く見回した。そして以前書いておいて上記の人形の後ろに隠していた別れの手紙と金を犬の箱に隠した。 Kutsiwaは質問するために前に進み出た。また、娘がこの機会のためにどんな衣装を着ているか確かめようとした。しかしMisawoは部屋の仏壇にかけられていた古いシルクのカーテンを急いで取ると、普段着の上にかけた。盲目の老婆はそれを触って騙された。

R.T.

[母朽葉が]喜ぶ折から納戸より立ち出る小よしは頑是無く、「おやおやおかしな前垂れして」と云いかくるをみさをは打ち消し、「あゝ是れ姉がうつゝいベゝを着て、羨ましう思やらうが、おし付けそなたも大きうなると、わたしが方へ引取って、なァ申し朽葉さま」「おゝそれそれ小職(こじょく)とやら、小僧とやら、お使ひなされて下さりませ」とつい何となく云う言葉も、疵持つすねにあたりをきょろきょろ、合点行かねばうっかりと、小よしは二人の顔打守り、物も得云わず居たりけり。才蔵は打ちしわぶき「遅なはっては屋敷の手前、拙者何とも迷惑致す、いざ御越し」としかつべらしくすゝめられて涙を隠し、暇乞いさえそこそこに、みさをは外へ立ち出でて、小手招ぎして小よしを呼び出し、「母様か父さんか、今にも戻らしゃんした時、わたしを尋ねなさんしたら、毎晩教へて置いた通り、花咲爺の此の赤本ここの所をいつもの様に、絵解きして聞かせると、わたしが行った所が知れる、必ずわすれてたもんなや」と名残おし気に見返り見返り小声になって、「親方さんお待遠でござりませう」「イヤもう待遠より、云ひ付けぬ切口上によわり果てた、さァ急いでやらかさう」とみさをを駕籠に打乗せて、足を早めて帰りけり。

I.L.N.

Koyosiが入ってきて、その新しいエプロンについて言い始めたのをMisawoが止め、[Misawoは]訳のわからないことを言った。彼女は次にその子に、親族が戻って来たら、自分の留守の説明を子どもが読んでいた小さな絵本からするように指示した。この本には今の状況に似た話が含まれている。そして、[Misawoは]Saizoに急かされて行った。

R.T.

斯くとも知らず主人の戸平、忙しげに立帰り、そこら見回し上り口、忘れた煙管手に取り上げ、「南無三道で落としたかと、戻ってみればやっぱりここに、どうでもほんのあはう草、煙草のお陰で暇つひやした。それはさうと母者人、もうお目がさめましたか」「おゝさめた段かいの。今塩谷様のお屋敷から迎へが来て、みさを様は御奉公のお目見得に上がると云ふて、身ごしらへにも人手は無し、お一人で小袖を召し替へ、鋲打の乗物で行かれたに、彼のこなた道で逢ひはしやらぬか」と、云うに戸平は不審晴れず、「さう云ふ事が有るならば、何ぞお役に立たねばとて、一通りは私に、御相談も有る筈の事、どう云ふわけでせわし無く」と問えば朽葉は打笑い、「こなた衆夫婦はかねがねに、承知の事と貴方のお言葉、よもや嘘はおっしゃるまい、それを忘れてけたゝましい」「イエイエイエ此の戸平は真以って(しんもって)存じませぬ。フウ今道で見た四ツ手駕籠、おれに逢ふと垂を下し、どうやら急にかくれる様子、何にしても合点が行かぬ、後ぼっかけて」と駆出す、向うへ廻って娘の小よし、「これ父さん、今姉さんの行かしゃんした所はわたしが知って居る」「ヤ、そんなら吾が身が聞いて置いたか、さァどうぢゃ早う云ふやれ」と気をあせれど、頑是無い子のいたいけに、そばなる赤本押開き、「むかしむかし有ったとさ」と云うに戸平は気を焦ち、「是れ小よし其処どころぢゃ無い、みさを様のお行方は、さア何処ぢゃ、ちゃっと云うて聞かしや」「アイ此の赤本の絵解きをするとおれが行先が知れると、姉さんが云うてぢゃから、まァ下に居て聞かしゃんせ。そこで、正直爺と云ふものが有って、犬の子の命を助けてかはいがって育てたら、其の犬がだんだん大きく成って、ある時爺にいふには、明日私を連れて出て、転んだ所を掘って見ろと、教へると思ったら夢がさめたから、夜が明けると此の犬を連れて出て、転んだ所を掘ったれば、小判や小粒といふお金がたんと出て、それで一期栄えた」とまわらぬ舌で長々しく云うに、戸平は唯うろうろ、「えゝ何の事たか埒も無い、どうでも貴方に追付いて、様子を聞くのが近道」と、駆出す足に思わずも、蹴かえす雛の犬張子、「ヤ、ヤ、是りやこれ小判、フウ犬が転んで金が出ると、今の絵解きは犬張子が、ころべば金が出るとの謎々、中に込めたる此の一通、なにお両方へ申し置き、みさをと有るは合点行かず」と封おし切れば母朽葉、「何じゃみさを様のお文が有る。どう云ふ事ぢゃ読んで聞かしや」と、耳そば立つればくりひろげ、驚きながら笑いに紛らし、「お気遣ひなされますな、くれぐれもお国許の親御の事が案じられる、お前さまのご病気がお心ようなったなら、鎌倉へ私に下って安否を聞いてくれ、お気にさへ入ったならもう家へは戻るまい、直に屋敷へ落付く程に、宿下りまで逢われぬと、夫婦の者へ残し文。「イヤ申し母者人、風がひやひや当っては、ご気分にさはりませう、ま一寝入りなされませ」と寝屋に連行き障子を立て切り、

I.L.N.

 そのすぐ後にTofeiが戻り、Misawoが出て行ったことを呆然として聞いた。絵本の話は、親切な人に助けられた犬が、その人を宝が埋まっている所に連れて行ったというもので、問題を解き明かす役には立たなかった。絶望したTofeiがうっかりと犬の箱(日本ではこのような家具は空想的な形である)につまずくと、Misawoからの手紙と100両の金が出てきた。しかし、彼はMisawoが消えた理由をKutsiwaに隠し、部屋が寒すぎるからと彼女を部屋から出した。

R.T.

[戸平は]思はず知らぬ一人ごと、「もしみさをさま、お情過ぎてうらめしい、なんぼ貴君が編笠で顔をお隠しなされても、毎日通る南円堂、袖乞をなさること、知らいで何といたしませう、あゝ、身貧な此の暮し、貢いで下さるおこゝろざし、それを無足に致すまいと、今日までわざとしらぬ顔、陰で拝んでおりました、それさへ有るに勿体無い、おまへ様の身の代で、何と浮世が渡られませう」とどっかとすわってはらはら涙。いつの間にかは戻りけん、門に様子を聞き居る女房、「えゝ、そんならみさをはアノ曲輪へ」「おゝ様子はあらまし此の書置、母者人に聞えぬ様読んでみやれ」と投げ出せば取る手おそしとおし開き、 一筆申しのこし参らせ候、たゞ今まではごふうふに深くつゝみ、まい日まい日小よしをつれ、観音さまへ参るといつはり袖乞にいで、国もとよりの貢と申し、少しは御ちからになり候へども、それも思ふ様にはかどりかね、此の様にうかうか致し居り候ては、いよいよ貧苦の御身になり候はんかと、それが悲しく島之内之置屋へ、百両にこの身をうりまゐらせ候、此の金にておもふやうに朽葉様の御養生なされ、何になりとも少しも早く、御商売に御とりつき、若しも余計の金子あり候はば、鎌倉へ御下しくださるべく候、是れもにはかの御浪人の事に候へば、さぞ御不自由がちと察し参らせて、なにもなにも取急ぎあらあらかしこ。と読み下せば戸平は聞くに絶え兼ねて、件の金をひっつかみ、駆け出すもすそを花世は引き止め、「きつさう変へてこりゃ何処へ行かしやんす」「はて知れた事、此の金返してみさを様を」「イエイエ一旦証文すんだ上では、元金はさておいて一倍しても返さぬおきて、わしには現在姪の事、勤めさするは本意で無けれど、斯うなるからは仕方が無い、これ此の文にあれが書いて置いた通り、此の金を資本とし身を粉に砕いて身上仕上げ、国元の姉さん御夫婦御貢ぎ申して、其の内に見受けするより外は無い」とさまざまに云いなだめ、母は更なり鎌倉へも武家奉公といい下し、夫婦いよいよ心を用い、金にあかして養生なしけるにぞ、程無く母の眼病平癒なし、是れになおなお力を得て、すこししるべの有りければ、摂州難波へ引移りけるとぞ。 かくてみさをは島之内の芸子となり、其の名を小松と改めしが、きりょうよき其の上に、利発なる生まれなりければ、全盛ならぶ方も無く、常に二ッの櫛を押並べてさしけるにぞ、難波の人彼を仇名して、二ッ櫛の小松とぞ呼びなしける。 又米商人佐吉はみさをが行方知れずなりければ、せんかた無く是れも難波へ立返り、病気保養の其の為とて、折にふれ其処此処と浮かれあるき、月雪花の三ッ紋を付けるにぞ、誰云うと無くかれをも仇名して、三ッ紋の佐吉と呼び、同じ難波に住みながら、さすが繁華の土地なれば、未だみさをにはめぐり逢わざりけりとなん。

I.L.N.

 Fanayoが戻ってくると、その悲しい別れの手紙が読み上げられ、真実が告げられた。証文に署名がされ、金が支払われたので、取引を元に戻す望みはなかった。その金は一家の必要経費に使われ、Kutsiwaの盲目を治療し、夫婦がSi-SiouのNaniwaに引退するのに使われた。 Misawoはリュート奏者になり、日本の慣習に従って、Komatsuと名前を変えた。しかし、この名前の下品な接頭辞はFutatsugushiというあだ名である。SakitsiもまたMisawo、現在のKomatsuの行方が一切わからなくなり、絶望してNaniwaに戻り、そこでMitzumonという名前を称した。しかし、一度も愛人と接触することはなかった。それどころか、忙しく外出していた。
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英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-2)

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号に掲載された柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』(1821)の英訳と原作を比較します。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー

年号の最後とはいっても、大判の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月3日)に2ページにわたって、日本の絵草紙を紹介した意図は何だったのか、どこを抜粋したのか、どんなコメントが付けられているのかを探ってみます。スネッセンの英訳を連載した『大衆とホイットのジャーナル』はこの4巻目をもって廃刊になったそうですから、購読者数が少なかったと推測できます。それでも「本作品が日本の人々の特徴、作法、考え方などを正確に伝えている」ことが紹介の理由なのかもしれません。 では6年後にこの英訳を要約したと考えられる『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(注1)の記者はどんな思いで紹介したのでしょうか。以下に最初のコメントを抄訳します。
 今日読者諸氏に提供する本物の日本の物語の珍しさは、我々が知る限り他の物語が未だかつてヨーロッパとイギリスに届いていないという事実からも証明できる。旅行者を通して、日本帝国の一般的な民俗習慣については世界に知られるようになったが、その情報を役立てるのは主に博識な学者たちに限られていた。おそらく、この閉ざされた奇妙な国に関する情報を大衆に広める唯一の手段は、この新聞のコラムで度々提示されているイラストレーションだけだろう。 この物語の趣旨自体が中国の物語と驚くほどの対極にあるように見える。この二つの国はその近さと位置から、ほとんど同じだと推測されるかもしれないが、この2人種の民俗と感性は似た点が全くない。読者が中国の物語の紡ぎ方や行動について思い起こせば、その違いはどの段階でも驚くほど明らかだろう。
 この後、筋の紹介に入ります。ちなみに、イタリア語訳が1872年に、フランス語訳が1875年に出ているそうですから(注2)、スネッセンの英訳も『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者による要約も、ずっと早いわけです。英訳に関しては、1871年に新訳が「日本の女性、みさを」という題名で雑誌『フェニックス』に掲載されていますので、最後に紹介します。まずは、スネッセンの1851年訳を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がどう要約しているのか、ストーリーのどの部分を採用しているのか、どんな誤解があるのか見るために、原作の各エピソードの後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳を付します。原文(注3)の要約にはR.T.(柳亭種彦)、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳にはI.L.N.と付して区別し、英訳の固有名詞と地名はローマ字のままにします。原文の旧漢字と旧仮名遣いは現代日本語に、会話文の旧仮名遣いは原文通りにしました。

R.T.

むかしむかし、関東の管領濱名入道の一族に、網干多門太郎員好(あぼしたもんたろうかずよし)という者ありけり。上総国半国を領し、文を好み武に長じ、名ある家来も多かりければ、勢いはおさおさ管領に劣らず、相州鎌倉小袋坂のほとりに、善美をつくしたる館をかまえ、又大潮金沢なんど所々に遊猟の亭をもうけ、いと目出度く富みさかえたり。 頃しも秋の末つかた、今を盛りの紅葉見がてら、射鳥狩せばやとて、かねてしつらえおきし大磯の下館へ赴き、日めもす遊び暮らして、はや黄昏の頃、鴫たつ沢にぞ至りける。実に「心無き身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮」と西行法師がよめりしも宜なり。はるか人家に引離れ、唯かたわらに古りたる辻堂の立てるのみ、いと物さびしき所なり。折しも遥か向こうの方に、鴫の一羽あさり居るを近習の侍、「あれあれ御覧候え、鴫立つ沢の名において、鴫の下り居るもひとしお興あり、先ず暫し此の堂にみ腰をかけられ、鴫の飛び立つを見給はば、時も秋の夕暮れなり、西行の歌のさまに少しも違ひ候まじ」と言いければ、多門太郎打笑い、「鴫立つ澤と詠みたるは、飛び立つ事にはあらず、唯何と無く下り居て、鳥の立てる様を云ふなり。斯の歌の体を描くに、鴫の飛ぶ所を描くは、返す返すもあやまりなり。あれ今あさりもやらず飛びもやらず、物寂しげに立てるこそ、鴫立つ澤とは云ふべけれ」と物語り給えども、歌道に疎き侍はよくも心得ざるにや、上の空に聞き流し、「彼の鳥の居る所までは凡そ三十間もあらん」と何気なく言い出ずるを、一人の侍聞きとがめ、「イヤ鴫と云ふのは鶉に等しき小鳥なり、斯くあざらかに見ゆるは二十間にはよも過ぎじ」と答うるに、以前の侍頭をふり、「人々のどよめく声に、恐れもやらず立てるこそ、遥かに隔たる證なれ」「イヤイヤ試みにこぶしを付け小的を射るべき心にて試し見るに、左まで遠くには覚えじ」と両人が言い募り、此の争いさらに果つべう様も見えず。時に員好が近習の侍、水間宇源太が倅同苗島之助、其の年漸く十四歳、お側去らずの小姓にて、今日もお供にありけるが、両人が前に進み出で、「先ず暫く此の争ひをやめ給へ、それがしが細矢を以て遠近を計り見るべし」と袴のそば高く取り上げ、弓に矢からりと打ちつがえ、よっぴいてひょうと放せば、矢はあやうくも鳥の背をすって蘆間に止まり、鳥は驚き飛びさりけり。多門太郎大いに怒り、「汝若輩の身を以て古老の武士を差置き、人も頼まぬでかし立て、あまつさえ鳥を射損じ、面目無くは思はずや」とさんざんにしかり給えば、島之助も其の怒り面に現れ、弓をかたえにはったと投退け、「あの矢取りて来るべし」と下部に向かい言い付けけるにぞ、何かは知らず沢に下り立ちようようにして拾い取り、件の矢を差出せば、島之助手に取り上げ、更に恐るゝ気色もなく、主人の前に進み出で、「鳥の下り居る其の所を、遠し近しと云ひ、二人が争ひ果てし無ければ、それがしが其の間を計り争論を静めんと存じ、始めより遠近を計らんとは申しつれど、鳥に射当てんとは申さず、是れ御覧候へ、それ故に征矢(そや)を用ゐず。陣頭の蟇目(ひきめ)の中へ鴫の羽を止めたれば、矢のとゞきしには疑ひも無し、東夷の荒くれしく歌の事は知らずと云へども、所も所折もをり、彼の鳥を射留めん心かつ以って候はず、如何に方々小腕と云ひ、未熟のそれがし目当はづれず、鳥の羽を蟇目に留め候こそ其の間近き證なれ」と言葉よどまず云ひ放つ。 多門太郎はますます怒り、「おのれに道理あるにもせよ、主人に言葉を返すのみか、今投げ捨てし其の弓は我に投打なせしも同然、其のまゝに差置きなば寵愛あまって道知らぬ曲者を召使ふと、世の人口にかゝりやせん。さある時には家の瑕瑾(かきん)、切腹さすべき奴なれど、前髪あれば小児も同然、今日よりしては勘当なるぞ。其處退れよ」と、眼色変え、はったとにらみ給いければ、島之助も今更に何と返さん言葉もなく、大小差置きすごすごと、其の場をそのまゝ立ち去りけり。 此の日島之助が父宇源太は御供に加わらず、島之助は面目無くや思いけん、立帰って父に対面する事も無く、何地へか立去りけん、絶えて行方は知れざりけりとなん。

I.LN.

 物語は高官 Abosi Tamontaraがシギ狩に出かけるところから始まる。夕暮れ時に近くの沼でシギを見ると、家臣の間でその種類について議論が始まる。また、その沼が飛び立つシギの沼という、よく知られている名前にふさわしいか、あるいは、「葬式の木の沼」がふさわしいかと議論していた。主人も議論に参加したが、その間、重臣の不運な息子が羽一本だけ取ってシギだと証明しようと、矢を射る。弓矢は日本では非常に洗練された技術だが、彼の技量は不幸をもたらした。Tamontaraはこの沼に与えられた名称の不明瞭さに決着つけようと、偉そうな微笑を浮かべていたが、目下の者が彼の面前で矢を射る行為に怒り、少年が説明したにもかかわらず、追放し、父親もお役御免とする。
訳者注:スネッセン訳で西行の和歌の解釈部分に注をつけて、「原文の表現があいまいで、二つの読み方ができる。Sigo tatsu sawa(鴫が飛び上がる沼)かSiki tatsu sawa(死の木trees of Death)が立っている沼」([ref]”THE SIX FOLDING SCREENS OF LIFE. AN ORIGINAL JAPANESE NOVEL”, People’s & Howitt’s Journal of Literature, Art, and Popular Progress, London, Willoughby & Co., 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-1)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月)に紹介された絵双紙。れは、『ペリー日本遠征記』(1856)を紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1856年12月13日号、5-1-2参照)の次の日本関連記事で、柳亭種彦作・歌川豊国画『浮世形六枚屏風』(1821:文政4)の粗筋紹介です。1857(安政4)年1月3日号(注1)に掲載されています。「THE FOLDING SCREEN: A JAPANESE TALE(屏風:日本の物語)」と題されていますが、作者名もなく、「記者より」としか書かれていません。研究者も出典が探せなかったようで、「記者より」をそのまま引用しています(注2)

ドイツ語訳『浮世形六枚屏風』

 柳亭種彦作『浮世形六枚屏風』を最初に訳したのは言語学者東洋学者アウグスト・プフィッツマイヤー(August Pfizmaier: 1808-1887)で、初めて外国語に翻訳された日本文学とされています(注3)。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franzvon Siebold: 1796-1866)が第1回日本滞在中(1823-1828)に収集した日本の書物のうち60冊をウィーン帝室図書館に寄贈し、その中に『浮世形六枚屏風』が入っていたそうです。それをプフィッツマイヤーが見つけて翻訳し、1847年にウィーン大蔵省印刷局から出版されました。 フィッツマイヤーの『浮世形六枚屏風』の題名はSechs Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Weltで、国立国会図書館デジタルコレクションとドイツの国立ヴァーチャル・ライブラリーBayerische Staatsbibliothecがデジタル化して、ネット掲載しています[ref]柳亭種彦作・歌川豊国画『浮世形六枚屏風』上下巻、1847年版。国立国会図書館デジタルコレクション。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1884392August Pfizmaier, Sechs Wandschirme in Gestalten der 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-1-2)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は『ペリー提督日本遠征』から何を選んだか?

の2葉の絵の最初のは『ペリー提督日本遠征』(1856:(注1))に掲載されているもの、2番目のは同じものを白黒版で『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がその年の12月13日号(注2)に掲載したものです。キャプションは『ペリー提督日本遠征』のものをそのまま使っています。それぞれ、早稲田大学図書館蔵の「大井川歩行渡/広重画」(注3)と比べてみてください。アメリカとイギリスで紹介されたこの絵の作者名は記されていません。『ペリー提督日本遠征』掲載のは落款部分が滲んでいて「廣重」かどうか判明しませんが、字体から想像つきます。ところが、『東洋・西洋美術の出会い』(Michael Sullivan, The Meeting of Eastern and Western Art, University of California Press, 1989, p.211)では、国貞作とされています。 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では、『ペリー提督日本遠征』がアメリカ議会の命によって出版されたと紹介していて、「100点のリトグラフと、同程度の数の木版画の挿絵がつき、すべてが日本人の賞賛すべき生活、習慣、景色の特徴が示されている。これらはダゲレオタイプ(銀板写真法)で行われたので、その正確性を保証している」と述べています。500ページを超えるこの本を買う余裕がない読者には、八つ折り版(octavo edition)が半分以下の値段で売られているというので、『ペリー提督日本遠征』が相当広く読まれたと想像できます。 『ペリー提督日本遠征』に掲載された広重の「大井川歩行渡[おおいがわかちわたし]」は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では「日本の特徴——アメリカ合衆国遠征」と題された長い記事の途中に挿入されていて、記事の内容がほぼ『ペリー提督日本遠征記』からの引用です。 この本から『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者は何を選んだのでしょうか。絵入り新聞らしく、最初に「美術」(原文強調)の例を3点印刷したと述べて、最初は第二回遠征で条約署名が終わった後に寄った下田の現地人(母親と娘)の絵を選んでいます。文章の方は、『ペリー提督日本遠征』の横浜と下田の記述が混在していますが、正確な時系列は次のように『ペリー提督日本遠征』では記されています。 1854年4月に署名済みの条約を一足先にワシントンに送るためにアダムス司令官に託してサラトガ号が出発します。ペリー提督一行は日本人の生活を見聞するために、許された範囲内(5マイル=約8km)を歩き、「この国の多くを見て、いくつかの村と多くの人々を見る機会があった」((注1), p.394)と記されています。以下の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の解説では、ペリー一行がその後に行った下田の記述で始まり、その次の日本女性観も下田での見聞のようになっていますが、実際はペリー一行が横浜で観察した時の記述です。
 『ペリー提督日本遠征』によると、人家は1,000、人口は7,000で、その5分の1は商人と職人である。人々は繁栄している様子を見せ、物乞いはほとんどいない。通りでは商取引の様子がなく、市場もなく、日常の売り買いは密かに行われているようで、通りすがりのよそ者には、下田はこの世の煩わしさや心配が全くない場所に見える。(中略) 条約の特権が保証された後だからか、ペリー提督と士官たちは下田の町を自由に歩き回った。平民はこの異人たちをとても歓迎しているようで、フレンドリーな会話を交わした。彼らはいつもの好奇心を見せて、アメリカ人の周りに群がり、アメリカ人の服を観察して、気に入った箇所について手振り身振りで英語の名前を聞いた。しかし、日本の役人たちはこのような接触を認めないので、武装兵士や警官が飛んできて、市民たちを追いやった。人々は逃げ、町の店も閉じられ、通りも人がいなくなり、まるで伝染病にやられてしまった町のような悲しい光景だった。(中略) 女性はヨーロッパの人口密集地の多くの地域と同じく、野に出て働いている姿をペリー一行は観察した。この人口の多い帝国では、一人でも多くの手が必要だということを示していた。最下級の人々さえ、快適な服装をしていた。上流階級の人と同じ粗い綿の同じ形の着物を着て、上流階級よりも短く、腰を隠すぐらいの長さのゆるい着物をまとっていた。ほとんどの男たちは裸足で、頭にも何もかぶっていなかった。女たちも男性とほぼ同じ服装だが、頭は男性のように剃ってはおらず、長い髪をてっぺんで結ったり、下で結わえていた。(中略) 『ペリー提督日本遠征』によると、日本社会には一つの特徴がある。それは他のすべての東洋の国々より優れていることがはっきりと示されている。女性が仲間、パートナーとして認められ、単なる奴隷として扱われているのではないことである。確かに、女性の地位はキリスト教の影響下にある国々ほどは高くないが、日本の母・妻・娘は中国のように家財、家庭内労働者として扱われるのでもなければ、トルコのハーレムのように気まぐれに購入した物として扱われるのでもない。一夫多妻制が存在しないことが日本をアジアで最も道徳的で洗練された国にしていることは明らかである。この下品な習慣がないことは女性を優れた性質に導き、家庭の徳を広める傾向にしている。 既婚女性のお歯黒を除いて、日本女性は不器量ではない。若い女の子は体つきがよく、かなり可愛い。彼女たちの振る舞いには自立心と陽気さが多く見られる。それは彼女たちが持つ比較的高い評価から生まれる尊厳の意識から出てくるものである。友人や家族との普通の会話や交流において、女性は同等に参加し、アメリカと同様、日本でもティー・パーティーや訪問などが活発に行われている。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に採用されなかった『日本遠征』の記述

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はここで終わっているのですが、『ペリー提督日本遠征』ではさらに続いています。
提督と一行がいるところで平伏する女性たちが見せる態度は、彼女たちの従属の証拠というより、異人に対する畏敬の印とみなすべきだ。日本の大きな町や都市に大歓楽街があることは、不幸なことだが、あらゆる大コミュニティーの普遍的な法則だとみなすのが合理的だ。しかし、日本女性の名誉のために述べておかなければならないのは、江戸湾に艦隊が停泊している間中、艦隊の様々な人間と女性とが時たま持つ関係において、普通見られる女性たちの側からのみだらな素振りは全くなかったことだ。((注1), pp.392-393)
 ただ、『ペリー提督日本遠征』では下田で見聞した公衆浴場の混浴について、「みだらな人々」と批判的です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で紹介している版は民間出版社の版で、本稿で引用しているのはワシントンでアメリカ議会が出版した版です。アメリカ議会刊の『ペリー提督日本遠征』には混浴の図( 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-1-1)

地球上で最も閉ざされた国」日本から「驚くほど優雅なデザイン」の家具などが1854年にロンドンで展示され、その挿絵が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されています。ジャポニズムの先駆けとも言える役割をこの新聞が果たしていました。

ジャポニズムの先駆け

本の開国に伴って、北斎漫画や浮世絵がヨーロッパに広まり、特に美術界でジャポニズムが一世を風靡しましたが、一般庶民におけるジャポニズムは日本風の家具や陶磁器、扇子、着物などを購入するという消費に結びついたとも言われています。イギリスにおけるジャポニズムの先駆け役を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が果たしたのではないかと思える記事が、1853年から掲載されています。日本の工芸・美術品が正式に多くの人に展示されたのが、1862年にロンドンで開催された万国博覧会とされていますから、その10年前に日本の工芸品が展示されたのです。 「大勧業博覧会ダブリン」(Great Industrial Exhibition, Dublin)が1853年5月から10月末までアイルランドのダブリンで開催され、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも連日のように内容について紹介されています。1853年6月4日号には「ジャパン・コレクション」((注1), p.450)という見出しで、「オランダ王室の日本コレクションが送られてきた。見事な細工の家具、着物、武具、傘、掛け軸、屏風、扇、盆、金銀銅貨のケースなど」と紹介されました。この公式カタログ(注2)には、オランダの国名の下に「オランダ政府の命により展示される日本品はヘイグ博物館の所蔵品」と書かれ、番号付きで95点挙げられています(pp.117-118)。そのうちの一つの番号に46点入れられているので、合わせると150点近く展示されたことになります。中に「日本で作成された日本地図」「金貨・銀貨・紙幣の入った箱」刀などがあり、解説に「いかなる武器も貨幣も地図も日本から持ち出すことは死罪として禁じられているので、これらがヨーロッパで目にできるのは非常に稀で、興味深い」(p.118)と書かれています。

1854年の日本博覧会

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1854年2月4日号に「日本博覧会」という見出しで以下の長い記事と絵が掲載されています((注3), p.98)。
 地球上で最も閉ざされた国の一つ、日本から珍しい品を積んだ貨物がロンドンに到着した。鎖国の扉を超えてきたこの国の製品の希少性は世界市民[the Citizen of the Worldと大文字で強調]がオランダ商人の卑劣さにムカムカしてきた思いを呼び覚ます。我々がこれまで慣れてきた彼らの密かな取引を通して、日本美術と産物の準見本を我々だけが受け取るのだ。 このコレクションは先週月曜日にポールモール・イーストの水彩画家協会のギャラリーで一般公開された。これは我が国初の直接輸入と言われている。日本と毎年貿易を許されているヨーロッパで唯一の船はオランダ商人の船である。コレクションはテーブル・キャビネット・箱など、表面に日本の装飾(japanned upon wood)、中に真珠やエナメルなどが施された木製品;その極度の軽さと滑らかさと、絵がないことで、この国のパピエマシェとは区別され、そのデザインの特異性はほとんどの場合、驚くほど優雅だ。また、色のついたわらの非常に美しいデザインのものもある。これは日本独特の装飾で、本紙の版画に見られる鳥が彫られたキャビネットがその最高のものである。ブロンズはまれで、ほとんどがアンティークである。二つの最大のブロンズ壺はその形状において非常に純粋で、本紙のイラストレーションにあるテーブルの上のものだが、これはマルボロー・ハウスの実用芸術美術館が購入したということだ。また、非常に美しく装飾された小物入れ(glove box)と、本当に希少な赤と緑の漆塗りの箱数点、わらで装飾された小テーブルも購入したそうである。 磁器も目だった展示品で、優美な形の花瓶や水差し、いくつかはグロテスクな性質のもの、カップなど、それらはすべて尋常じゃない軽さと透明さで、そのいくつかは非常に素晴らしい装飾がほどこされている;その多くは周囲を竹で見事に編み込まれ、カップの厚さが卵の殻ほどなことを考えると素晴らしい。本紙のイラストレーションの中のテーブルの上の高い花瓶、水差しとカップはこの展覧会を代表するものとして選ばれた。竹の編みかごの細工は素晴らしく、その形と模様には独創性がある。 また、絹の着物と包装物もある。非常に柔らかく、軽く綿入れがされ、日本の貴族が着るものである。壁には日本の全階層の人々の絵がかけられている。男も女も、様々な衣装を着て、本紙のイラストレーションに描かれているのは、花嫁と扇のようなパラソルをさして歩く女性である。このパラソルはかの国でよく使われている。他にイラストレーションに描かれているのは、数種類の屏風のうちの一つで、人家と人々の生活習慣が描かれている。イラストレーションの背後にあるのは、象嵌細工のワードローブで、純粋の日本製である;ほとんどの家具の形は明らかにヨーロッパのものだが、装飾はすべて日本のものである。中央のテーブルが一番いい;テーブル上部は非常に優雅なデザインで、真珠がはめ込まれている;鉤爪足は斬新な形で、3匹のオオコウモリを表し、その羽が支柱を形作っている。支柱がサルと魚になっているテーブルもある;様々な種類のパズル・ボックス;一般用よりはるかに優れていると言われる醤油など。これらすべてが非常に珍しいコレクションを成している;そして、疑いなく、最近のアメリカ合衆国の日本遠征に対する興奮からして、これは非常に魅力的なものになろう。
 この日本製品展示会の説明の中で、"japanned upon wood"とJapanが動詞として使われているので、『ブリタニカ百科事典』第7版第12巻(1842)を調べたところ、"japanning"という項目で説明されていました。「ジャパニングとは木材の表面にニスや絵を施す技術で、日本の方法を真似たため、この名称が使われる」([ref]Encyclopaedia Britannica or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature.Seventh Edition, with Preliminary dissertations on the History of the Sciences, and Other Extensive Improvements and Additions; Including the Late 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-12)

ペリー来航前に日本に来たアメリカ船についての19, 20世紀の論考を紹介します。

ペリー来航の半世紀前に長崎に来航したアメリカ船

ローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された解説「英国と日本の通商記録」の中で、「奇妙なことは、イギリスの船がイギリス人(スチュアート船長)の指揮で1797年と1798年に実際に日本を訪れている」こと、「この船がアメリカの旗を掲げ、アメリカの通行証を携えて、バタビアのオランダ当局によって日本に送られた」ことと記されています。この点はラッフルズが『ジャワの歴史』(1817)第2巻の付録「日本貿易について」で触れています。その内容をラッフルズはHogendorpから引用とだけ記していますが、ディルク・ファン・ホーヘンドルプ(Dirk van Hogendorp: 1761-1822)のようです。1-1で紹介したリチャード・ヒルドレスも『日本—過去と現在—』(1855,(注1), p.448)の中で、ラッフルズが引用している”Heer Hagendorp”と述べ、これは1800年にこの人物がバタビヤで出版したジャワに関する小論文に掲載されているというのです。 『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(注2)によると、ホーヘンドルプはオランダの軍人・政治家、後にオランダ東インド会社の役員としてインドやジャワに滞在します。そしてイギリスのベンガルの植民地統治法に感銘を受け、「バタビヤ領土の現状報告」という小論文で、インドネシア人もヨーロッパ人と同じ経済原則で導かれるべきだと主張し、当時の東インド総督の怒りをかって投獄され、オランダに逃げたそうです。 以下が、ラッフルズが引用符でくくった部分の拙訳です。
 わが国と日本との通商関係は非常に奇妙な性質のものである。誰もが知っているように、わが国はヨーロッパで唯一日本から通商許可をもらっている国である。そのために苦しまなければいけないとは、何という屈辱であろうか。江戸城へ使節を送る費用の何と大きなことか。日本貿易は昔は儲かったのに、近年は費用をまかなうだけの利益がないと思う。船や船員の損失を考えたら、このような屈辱を受けさせられる正当性はない。 それなのに、我々は貿易を諦めることができないでいる。諦める必要があるか、または、そうした方が懸命なのかだろうか。1797年と1798年に奇妙な船、実際はイギリスの船なのに、隠すためにアメリカの旗を揚げて、生粋のイギリス人のスチュアート船長に指揮をさせ、彼はマドラスかベンガルの所属なのにアメリカの通行証を持っているという、そんな船を送ることをバタビヤ政府がどう説明できるのか、途方にくれる。この貿易を放棄するのは馬鹿げているが、日本の規則に従うしかないし、この規則を取り払うのはほとんど不可能だろうし、日本をオープンで自由にすることは実現できないかもしれない。国家のためや会社のためにこれを追求するのでは、目的を達成することには決してならない。したがって、私は1,2年間バタビヤで船1隻か2隻に限られた積荷を日本で取引するための許可証やパスをオークションにかけ、最高値の入札者に与えようと思う。出島の館長を任命しなければならない。その維持は政府がして、館長には一種の領事の役割をさせ、必要なら江戸に使節として行かせる。しかし、これ以外は貿易の規則やシステムすべては船主に任せなければならない。我々の取引に課される日本の法律以外は。 毎年の使節は非常に費用がかかる。すでに日本側がしなくてもよいと言っているが、時々なら利用価値があるので、将来は10年に1回ぐらい使節を送るか、[出島の]新居住者が来た時や新領事が着任した時に、滞在中1回だけ[江戸に]行くことの許可を得るのが得策かもしれない。それ以外の特権や自由を得るのは容易なことではないだろう。あちらにいる我々の社員の何人かがこの点で我々に何を信じこませようとしても、我々が行こうと行くまいと、日本人が全く無関心なことは明らかで、我々にそうさせる許可を出すこと自体が単なる彼らの気まぐれなのだ。この貿易が個人に開かれたら、すぐさま人々はリスクや危険を犯してでも利益を上げる方法を見つけることは疑う余地がない。そしてこの利益の価値が高まるにつれ、許可証の価値も増すだろう。--Hogendorp((注3), Appendix B.: Japan Trade, pp.xxix-xxx)
 ヒルドレスは1800年刊の小論文と言いながら題名を記していませんが、初版は1799年で、1800年に再版されたそうです(注4)。この日本語訳は国会図書館からアクセスできます。『鹿児島大学史録』4号(1971)から11号(1979)にかけて連載された田淵保雄訳註「バタビヤ領土の現状報告(1799)」です。この11号(1979)に掲載されている「ディルク・ファン・ホーヘンドルプ著、田淵保雄訳註 バタビヤ領土の現状報告(1799)[7]」に「日本貿易」という小見出しで2ページにわたって見解が述べられています。

ヒルドレスの指摘

 ヒルドレスはこのスチュアート船長なる人物について、重要な指摘をしています。まず乗ってきた船エリザ号がニューヨークの船である事、出島のオランダ商館ではスチュアートがアメリカ人だと信じていた事です。1799年にオランダ商館の職員として来日し、1803年に商館長に就任して、1817年に帰国するまで出島にいたヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff: 1777-1835)が1835年に出版した『日本回想録』で、スチュアートはアメリカ人だと述べているという指摘です。この回想録の英訳はみつかりませんでしたが、インターネット・アーカイブに1922(大正11)年刊斎藤阿具著の『ヅーフと日本』(注5)という本が掲載されています。 ヒルドレスはオランダ語の『日本回想録』を丁寧に読んだようで、当時の日本の状況はドゥーフによるところが大きいと述べて、スチュアート船長の長崎来航について詳しい要約をしています。ゴローニンの『日本幽囚記』改訂版の解説「英国と日本の通商記録」(1852)はラッフルズの『ジャワの歴史』(1817)を参照したことを明言していますから、イギリスではスチュアートがイギリス人だったことが伝わっていたようです。興味深いのは、「英国と日本の通商記録」ではイギリスの日本との通商努力という視点からイギリス人を強調していること、ヒルドレスは意地悪な見方をすれば、逆にイギリス人でこんな怪しい人間もいたという視点を持ちながら、ドゥーフのアメリカ人説を否定していることです。この点で興味深いのは、ペリーの『日本遠征記』(1856)の序で「西洋文明国と日本帝国との過去の関係」という節で、ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシアは詳しく述べていますが、アメリカについてはモリソン号事件(1837)以降のことしか記載されていません。 ヒルドレスはなぜ1790年代後半にオランダがアメリカ船を使ったかの説明から始めています。「フランス軍によるオランダ占領はオランダ船がイギリスに拿捕される危険に晒されただけでなく、オランダが東洋植民地を失うことになり、したがって、日本貿易に関しても新たな障害をもたらすことになった」(p.446)と述べています。この状況下でイギリスに捕らえられないために、アメリカ船を雇う傭船手法を使ったというのです。『ヅーフと日本』でも同様の解説をし、この頃の幕府とオランダ商館とのやりとりを述べています。ナポレオン戦争の影響を日本が感じ始めたのも1795年からです。この年に入港したのはオランダ船1隻だけで、商品も欠乏していて、商館長は「奉行の譴責を受けたり」と述べ、1796年には入港なし。1797年に1隻入港したが、「中立國たる米國の一小船エリザ丸(Eliza)を臨時に雇入れしものにて、積荷も有合せ品のみにて、獻上品・御用品を始め一般商品も整はざりしかば、又奉行の為に詰責せられたり」(p.12)と解説しています。以後ほとんど毎年「雇入米國船のみ我國に來りし所以なり」と書かれた後、バタビアの重役はオランダ商館長に貿易の復興を計れ、さもないと日本貿易は廃止すると厳命され、商館長と幕府との交渉が始まったとのことです。幕府は1790(寛政2)年に秋田銅産出額減少を理由に、オランダには年1隻に限り、銅の輸出高を60万斤に減らしたのに、商館長の懇願で、1798年に以後5年間25万2千斤増額、船2隻を許可したそうです(p.13)。1798年にもバタビアから1隻入港したけれど、同じくスチュアート船長のエリザ号(直接引用の場合以外は「号」に統一)で、しかも、オランダ東インド会社に内密に、会社の徽章を揚げず、商品も不足していたのですが、「此時に至りては奉行も最早蘭人を虚喝するの勇氣を失ひ、却て之を憐憫し」た(p.15)と書かれています。 ヒルドレスの関心は、最初にエリザ号が入港した時の奉行所の混乱ぶりで、「乗組員は英語を話したけれど、『イギリス人』ではなく別の国であること、さらにもっと基本的な点は、この船が貿易とは何の関係もなく、拿捕逮捕されないために商品を運ぶ雇われに過ぎなかったことだった。その説明の結果、エリザ号はオランダの船だと理解することで合意した」(p.447)と記されています。

太平洋戦争中の米日交流史論

 アメリカ人にとってはペリー来航前にアメリカ船が日本に来ていたというのは魅力的なテーマのようで、1909年刊の『昔のセーラムの船と船員』や、太平洋戦争の真っ最中に発表された「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」(1944年10月)などがあります。前者は「1853年に日本の古い鎖国を壊滅させたペリー提督の艦隊の印象的な日本訪問前にアメリカの船がこの国の港に留まり、貿易を許されたことはないと一般的に思われてきた」((注6), p.330)と述べて、1799年にボストンで所有されていたフランクリン号が長崎に行ったこと、1800年にマサチューセッツ号、1801年にマサチューセッツ州セーラム市の船マーガレット号が長崎に行ったことを記しています。1909年時点で、これらの[航海]記録が「まるでヨーロッパ中世の歴史の1章のように古めかしく聞こえる」(p.331)と書いています。 私は後者の米日交流史論「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」に、その発表年月日の点で注目しました。太平洋戦争の最中、American Antiquarian 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-2)

1673年のリターン号来航時の日英交渉記録が「英国と日本の通商記録」(1852)で紹介され、日本との通商を希望していた1850年代の人々がリターン号の交渉記録のどこに関心を示していたのかがわかります。

「日本日記」の解説

 まず、前節の「日本日記」に記されていることについて、解説します。

「聖ジョージ十字」

 聖ジョージ(St George)はイギリスの守護聖人とされ、4月23日が「聖ジョージの日」とされていて、2018年4月23日にBBCが解説を掲載しているので紹介します(注1)。ゲオルギオスという名前の実在のクリスチャンのローマ兵で、西暦270年頃にトルコのカッパドキアに生まれ、303年にローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧によって、パレスチナのローマ州で殉教したと伝えられています。イギリスの守護聖人にされた理由は、聖ジョージにまつわる伝説の中から、拷問の末に殺されたために勇気、栄誉を象徴し、軍所属ということなどで、イギリスの価値観を代表すると考えられたのだろうといいます。15世紀初頭に彼が殉教したとされる4月23日が「聖ジョージの日」とされるようになったそうです。 BBCの記事にアクセスすると、白地に赤の十字の旗がみられます。ただ、2012年の記事「聖ジョージの旗は人種差別のシンボルだとイギリス人の4分の1が言う」(注2)によると、「聖ジョージの十字」の旗にイギリス人としての誇りと愛国心を感じるという人は61%で、24%は「この旗は人種差別の旗」だと考えるという世論調査結果が出たそうです。それは極右グループ「イギリス防衛同盟」(English Defence League)がこの旗を使ってデモをするからだと分析しています。

第三次英蘭戦争

 「日本日記」の1673年7月7日に、デルボーが英蘭戦争が始まったことを知らなかったと言っていますが、イギリスとオランダの間で1652年から1783年まで4回戦争が起こって、そのうちの第三次英蘭戦争(1672)を指しています。英蘭戦争の理由は商業的権益をめぐる争いで、最初の3回の戦争が起こった頃、アジアの植民地における貿易大国だったポルトガルに代わってオランダが絶頂期にありました。オランダ東インド会社はその富と権力において抜きん出ていて、イギリスがその権益を狙い、やがて、オランダに代わってイギリスが商船事業の中心を占めます。第三次英蘭戦争では、チャールズ国王がフランスと秘密の取引をして、イギリスの東海岸、ソールベイでフランスとイギリスがオランダと戦った「ソールベイ海戦」(1672)では、イギリス、オランダ双方が勝利宣言をしていますが、いずれも損害がひどかったそうです(注3)

踏絵について

 「日本日記」には踏絵をさせられたとは書かれていませんが、日本側の資料では「イギリス人はオランダ人と同じ宗旨であると言っているが、その事実を試すために踏絵をさせるので、オランダ人に同行してほしい」((注4), p.7)と奉行所役人がオランダ商館に求めたそうです。同行したオランダ商館の助手によると、踏絵を求める時の「通詞の話し方は非常に特異だった」から、「イギリス人がこれをよく理解しなかったと考えている。(中略)すでに暗かったので船長は何を踏んでいるのかわからなかったと思う」と書いています。

長崎奉行所の情報網

 最初の日(1673年6月29日)に役人たちが質問した内容で、この当時の幕府の情報通は明らかです。オランダ人に世界の動向について情報提供を義務付けることが1641年から始まり、「オランダ風説書」として1659年には慣例化していたからだそうです((注5), p.63)。デルボーの答え(内乱が20年ほど続き)についても、幕府側はすでに1662年のオランダ風説書で知っていたし、チャールズ1世が処刑されたこともオランダから伝えられています((注4), p.3)。 奉行所の役人たちがデルボーにオランダ商館側が言ったことの真偽を聞いたり、オランダ商館長宛の手紙の内容を確かめたりしたことは、幕府側が「外国人から得た情報を比較検討」((注5), p.62)するためだったというは、リターン号でのやり取りが表しています。

1852年のイギリスの関心

 「英国と日本の通商記録」(4-9参照)の筆者はリターン号の日本派遣について、「イギリスの王政復古の後すぐに商業事業精神が復活し、1673年の遠征をチャールズ2世が即座に承認し、王の後援のもとに実行された」((注6), p.19)と解説して、ケンペルの記述をほぼ忠実に要約しています。解説者の関心が特にどこにあったのかは、直接引用を長くしている箇所、解説者の感想などに見られると思うので、以下に挙げてみます。
    リターン号の船長以下全員が日本に来るのは初めてだと知った役人たちの驚きが大きく、水先案内人なしにどうやって港に入って来られたのか聞かれ、海図を見せると納得した(pp.21-22)。 船から陸に運んだ武器一切を正確に書き留め、上級役人の前でキャビンの記録と照合して、この役人が承認すると、非常に丁寧に出て行った。 本文では解説が加えられていないやりとりについて、「英国と日本の通商記録」では「日本側が最近警戒し困っている海賊と、イギリス人が関係を持っているらしいと、オランダ人たちが言いふらしていることについて、イギリスの船長は虚偽だと否定した」と述べられています。 日本側の質問方法が、まずポルトガル語かスペイン語で質問し、次にオランダ語でするため、同じ内容が5,6回繰り返されることです。そのたびに彼らの理解が確かなものになっていくとイギリス側が解釈している点が直接引用で指摘されています。 長崎奉行所側がイギリス人をオランダ人と同じように守ると約束したくだりについて紹介したあと、「これらの詳細なやりとりは、日本人側の良識と穏健さを示しており、イギリスに対する好意を明らかに示している」と感想が書かれています。
 今から345年も前の交渉記録を読んで感心するのは、双方が礼儀をもって忍耐強く対応していることです。特にイギリス側が貿易交渉を達成するためとはいえ、2ヶ月も上陸させてもらえず、その間、幕府役人が入れ替わり立ち代わりやってきて、同じ質問に答えさせられるのは苦痛以外の何物でもなかったでしょうが、怒りや苛立ちを抑えて対応したことと、日本側が2ヶ国語以上で同じ質問と答えを求めることで、理解が確かなものになると洞察していることです。幕府側も礼儀を示しながらも譲らなかったことが、3世紀半後の安倍政権の対米隷属と対照的です。そして何よりも、公文書偽造・改ざん・隠蔽・破棄などが常態化している安倍政権下で生きている私たちにとって、この交渉記録を読むと、記録の大切さが身にしみます。「経済産業省幹部が省内外の打ち合わせ記録を残さないように指示」したというニュース(注7)を読むと、安倍政権は自分の時代を歴史的空白の時代にしようとしているのだと感じます。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が将軍に送られた

 幕府の情報収集という観点から非常に興味深い記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1854年2月11日号 [ref]The Illustrated London News, 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-1)

イギリス国王の親書と1613年の家康の朱印状を携えて通商を求めて、1673年に長崎に来たイギリス船リターン号の船長と長崎奉行所とのやりとりを紹介します。 「英国と日本の通商記録」(1852)では、1673年に長崎に来航したイギリス東インド会社のリターン号の顛末について8ページにわたって述べています。出典は示されていませんが、ケンペルの『日本の歴史』(The History of Japan, 1727)の第3巻の巻末に掲載されている「日本日記:1674年7月18日にオランダ船によってロバート・サウスウェル卿とナサニエル・ハーン卿に渡されたコピー」((注1), pp.341-360)と題した記録の要約です。長崎の奉行所とのやり取りを18ページにわたって克明に記していて興味深いので、原文を抄訳します。 「日本日記」の最後に3人署名しているのですが、役職名は記されていません。筆頭者のサイモン・デルボー(Simon Delboe)が船長・指揮官のようです。「西暦1673年6月29日、リターン号にて」と始まっています。
 午前11時頃、日本の旗をなびかせた1艘と、オランダの旗の船がやってきて、ポルトガル語で挨拶し、我々が何者か、どこから来たのか尋ねた。我々は英語とオランダ語で、バンタムから来たイギリス人だと答えた。彼らは乗船せず、我々に停泊するよう、トランペットを鳴らさず、銃も発射しないよう要望したので、従うと言ったら、彼らは帰って行った。 2時間後に岸から9艘の船で14人の役人と通詞がリターン号に乗船し、大きなキャビンに招き入れて、丁重にもてなした。日本側はポルトガル語の通詞1人、オランダ語の通詞4人を従えていた。奉行と呼ばれる人(one being called the governor)は通詞を通していろいろ質問した。
以下が記されている質問と答えの大要です。日本側の質問にJ、イギリス側の答えにEを付します。
J.あなた方はイギリス人か?E.そうだ。我々はイギリス国王[チャールズ2世:1660-1685]から東インド会社に対する貿易許可を与えられている。49年前にイギリスと日本は通商があった。イギリス国王と東インド会社から、日本の皇帝陛下宛の親書を持ってきた。(そして、我が国が最初に日本に入国した時に皇帝からもらった特許状の日本語のコピー[4-10参照]を手渡した。彼らはそれを読んで理解し、このオリジナルか、皇帝の印の付いたものが欲しいと言った。イギリスが平戸を出る時に幕府に返したので持っていないと答えた)。J.イギリスはポルトガルとスペインと平和状態にあるか? イギリス国王はポルトガル王の娘と結婚して何年か、女王に子どもはいるか。E.イギリスはすべての国と平和状態にある。国王は結婚して11年ほどで、女王との間に子どもはいない。我が国では国王が同盟国との関係を強めるために、同等の地位の人と結婚するのが習慣で、臣民とは結婚しない。(また、私が皇帝陛下へのいくつかのプレゼントを見せると、彼らは喜んだようだった)。J.あなた方の宗教は何か。E.オランダ人と同じクリスチャンだが、カトリック教徒ではない。 船でどんなものを運んできたか尋ねたので、おおまかな内容を答えると、彼らは満足して岸に戻った。役人たちは2時間後にまたやってきた。J.オランダ人と同じように通商を求めるなら、日本では銃と弾薬を引き渡さなければならない。皇帝[第4代将軍家綱:1641-1680]に知らせを出し、回答が来たら上陸して、家を持つことができる。[我々のボート2艘で、銃と弾薬を運ぶときに]、日本側は警護として両側に複数の船をつけたが、兵士でいっぱいだった。それから、船の全員の名前を書き取り、オランダ人を連れてきて、我々全員にポルトガル人ではなく、イギリス人かどうか確かめさせた。(中略)

6月30日

J.なぜ49年間も日本に来なかったのか?E.イギリスでは20年ほど内戦があり、オランダと2回戦争をしていたから、このような長い危険な航海をするのはかなり大きな出来事なのだ。J.この船には以前日本に来たことのある者がいるか?E.一人もいない。J.では、どうやって港に入る航路がわかったのか? 海図があるからと答えると、納得したようだった。我が社からのプレゼントだと、二連銃(double barrel gun)一丁と小さなピストル数丁を見せると喜んで、奉行に見せると岸に運んだ。奉行は我々が持ってきた珍品について皇帝に知らせるだろう。日本人は船から陸に運んだ物一切を正確に書き留め、上級役人(secretary)の前でキャビンの記録と照合して、この役人は承認すると、非常に丁寧に出て行ったが、その時、江戸からの回答がすぐに届き、通商が認められるはずだと約束した。また、船内の大きな銃は陸に持って行かず、我々の便宜のために残していくと言った。

7月1日

 奉行と通詞が再びやってきて、台湾の事件に関して尋問した。(中略)最初の日に来たオランダ人が言うには、台湾のジャンクが中国沿岸で海賊行為をする意図があると自分が言ったというので、それは事実ではない、そんなことは言っていないと答えた。すると日本人側は我々全員の調査をまた最初から始め、名前、年齢、階級を聞き、翌日、各自が持っている売買用の所持品と貴社の積荷全部を調べたいと言った。私は準備しておくと返答した。それから、彼らは船の大きさ、マスト等々を計測し、我々が何か望むことがあるときは、信号旗を出すよう、乗組員に死者が出たときは、水葬せずに、2本の信号旗を出すよう、そうすれば通詞と共に来ると言った。彼らは再度、皇帝に知らせを出したから、我々に安心するようにと言って去って行った。

7月2日

 通詞たちと皇帝の家来数人(some gentlemen of the Emperor's)がやってきて、我々が持っているニュースを知りたいというので、イギリスは国内外で平和を保っていることなど(中略)を知らせた。すると、我々が台湾から運んできたオランダ商館長宛のオランダ語の手紙を読んでほしいと言うので、内容を伝えた。[内容も記されていますが中略] 午後、生魚、桃、梅、卵、大根、きゅうり、うり、鶏6羽、小さなパン100個を持ってきた。途方もなく高い値段だったが、我々は何度も感謝して支払った。国旗を揚げることと、トランペットを吹く許可をもらいたいと言ったら、いいだろうというので、彼らが去る時にトランペットを吹いて見送った。皇帝に知らせをすぐに出してほしいと言うと、2日前に出したから安心して待てと言う。いい返事がすぐに来ることは疑いないと彼らは言ったが、我々は毎日祈り、聖歌を歌った。 注記:彼らが質問する時は、すべてポルトガル語で行われ、答えも同様だ。時にはスペイン語で行い、その後、同じことをオランダ語で行う。これを絶えず行うため、同じ質問を5,6回することになる。答えも毎回同じ繰り返しだから、彼らにとって理解は一層確かなものになる。したがって、この地域の人は全員これらの言語2ヶ国語でないにしても、少なくとも1ヶ国語はできなければならない。[訳者強調]

7月4日

 信号旗を出したが、彼らは来なかった。我々の信号旗の出し方を理解していないのだろう。

7月6日

 午後、6人の通詞と役人がきて、私にポルトガル人の宗教について質問した。J.ポルトガル人の宗教はローマ・カトリックというものか?E.そうだ。彼らは自分たちをそう称している。J.ポルトガル人は聖マリアという女性と、キリストという男性の像や絵を持っているか? それらの像を崇拝するために持っているのか? その他の聖人の像も持っているか?E.マリアとキリストの像を崇拝していると聞いたことがあるが、自分はカトリックじゃないから、マリアとキリスト以外いくつ像があるか知らない。
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英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記5

有吉佐和子が『複合汚染』で農薬は化学兵器の平和利用だと批判してから44年後の今、ベトナム戦争の枯葉剤が日本全国に埋設され、豪雨と地震が頻発する現在の日本で、ダイオキシンが漏出する可能性が指摘されています。

「複合汚染」(1974-75)時代より悪化している日本の汚染状況

 1974年10月〜1975年6月まで『朝日新聞』に連載された小説家・有吉佐和子(1931-1984)の「複合汚染」を読み直し、44年前に彼女が指摘した多くの農薬や食品添加物等による複合汚染(2種類以上の毒性物質の相乗効果)が2018年現在も継続していることに衝撃を受けます。1960年代後半にアメリカ全土で禁止されたDDTは「アメリカの真似ならなんでもする愛すべき日本国では、アメリカ全土が規制して一年後に全面禁止になった」((注1), p.109)と述べていますが、DDTの健康被害が現在でも続いていることを『ネイチャー』の記事「自閉症とDDT:100万の妊娠が示せる/示せないこと」(2018年8月16日、(注2))が指摘しています。フィンランドの100万人の妊婦の血液中のDDT残留濃度を調べた結果、濃度が高い人が生んだ子どもに知的障害のある自閉症の率が高かったという結果が『アメリカ精神医学雑誌』に発表されました。DDTは多くの国で数十年前から禁止されていますが、土壌と水に何十年も残り、植物に蓄積されて、それを食べた動物の体内にも蓄積されるそうです。 有吉は農林省や厚生省への批判を以下のように記していますが、現在にも当てはまります。
 医者や生物学の専門家たちが、AF2[豆腐や魚肉ソーセージの防腐剤として使用された]の強い毒性を指摘したとき、その安全が百パーセント立証できるまでは使用停止にするのが、厚生省の本来あるべき行政指導というものではなかっただろうか。疑わしきは罰せずというのは人間に対する法律であって、食品に関しては疑わしきはただちにストップをかけるべきではないか。(p.68)
 この当時の食品添加物は336種類とのことですが、2018年7月3日改正の「指定添加物」は455種類です(注3)。「複合汚染」では日本が「公害大国」と言われていた時代に、国際会議に出席した日本人研究者が海外の研究者から「日本では動物実験の必要がない」と言われるほど、人体実験が盛んな国だと評価されていたとデータで示しています。1970年代初頭に「国際科学連合の環境問題委員会」が全世界の科学者に呼びかけて5種類の汚染毒物(水銀・カドミウム・鉛・DDT・PCB)の調査を促しました。「このうち三つの物質が、日本では大量な人命を損なう公害事件を惹き起こしている。水銀の水俣病(それも二カ所)、カドミウムのイタイイタイ病、PCBはカネミ油事件」(p.127)と指摘されているPCBは、現在ペットボトル飲料・洗顔料・化粧品・練り歯磨き等に含まれるマイクロプラスチックに吸収されていて、それが海に流れ、魚経由で人間の体内に入ってくることが問題になっています(注4)。そして、海洋を漂うプラスチックゴミは日本発のものだという批判記事が最近出ました(注5)。家庭ゴミのプラスチックはリサイクルできず、中国に送っていたが、中国が厳しくなってからマレーシアに送り始めていること、結果として海に放棄されるプラスチックゴミは日本由来だという指摘です。安倍首相がG7の「海洋プラスチック憲章」に署名しなかったこと(注6)と関係あるのでしょうか。 カドミウムのイタイイタイ病の解明が公害認定から50年後の2018年5月に公開されました(注7)。富山大学の研究グループがイタイイタイ病で亡くなった36人の解剖資料を分析した結果、腎臓は6割縮小し、「水分調節や造血ホルモン分泌の機能を持つ部位が大きく損傷していた」ことがわかったそうです。また、カドミウム汚染の富山県の農地の土壌入れ替えが1979年に始まり、2012年に全地域でコメの作付けが可能になる農地復元事業が終わったとのことです(注8)。農林水産省の「コメのカドミウム濃度に基づく流通規制の歴史」(注9)によると、1970(昭和45)年に玄米中にカドミウム1ppm(1mg/kg)を超えてはならない、2010(平成22)年に玄米・精米に0.4ppm超えてはならないと改正されました。0.4mg/kg以上1mg/kg未満のカドミウム含有コメは食糧庁が2011年まで買い上げ、非食用(合板用のり等)として処理されたと書かれています。一方で、2008年に工業用として売却していた方針を止め、政府保有のカドミウム在庫米6千トンも含め、焼却処分にすると当時の石破茂農水相が発表しましたが(注10)、工業用の汚染コメが食用に転売された事件が起きた頃です。その後2010年に基準値を超すカドミウムが兵庫県ですでに消費された給食から検出されたというニュースもあります(注11)

化学兵器の平和利用としての農薬

 DDTをはじめとする農薬が第二次世界大戦中に使用された化学兵器で、戦後「平和目的」で農薬として大量に使われ始め、「軍需産業で急速に成長した大企業は、こうして大変結構な平和産業に切りかえられた」(p.105)と有吉は指摘し、除草剤2,4-D[2,4-ジクロロフェノキシ酢酸]と2,4,5-T[2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸]を紹介しています。ベトナム戦争でアメリカ軍がこの2種類を成分とした枯葉剤を散布し、「ジャングルの繁みを取り払い、作戦を有利に展開し、またベトコンの食糧資源を破壊するために」枯葉作戦と呼ばれる作戦を展開し、「子供を殺し、妊婦を流産させたあと、土や水にしみこんでベトナム人の健康をいつまでも脅かした。先天異常児の出生がふえたという報告がある。245Tの催奇性(つまり生れる子供に異常が出る可能性)が問題になり、国際世論が枯葉作戦を非難して」(p.187)、1970年にアメリカは散布を中止すると声明を出します。2,4-Dも「催奇性が動物実験で立証されているにもかかわらず」日本で除草剤として使われ続け、245Tを日本で生産し、ミカンの肥大促進剤として使っていると指摘しています。2018年現在、2,4-Dは「経済的で効果に優れた水稲用後期除草剤」(日産化学、(注12))などという宣伝文句で広く使われ、その上、政府は2018年5月に食品中の2,4-D残留規制値を緩和する決定をしています。小麦などは現行の5倍の危険度になります(注13)

日本で製造され、ベトナム戦争で使われた枯葉剤が日本中に埋設されている

 この枯葉剤兵器の成分2,4,5-Tが現在日本中に埋設され、漏出の危険性が高まっているという報道があります(2017年11月27日、2018年8月23日、(注14))。1960年代後半に林野庁が国有林に除草剤として散布していましたが、「奇形を生じさせる強い毒性がある」ダイオキシンが含まれ、「海外で問題になったため、71年4月に使用中止を決定(中略)、11月に地中に埋設するように全国の営林署に指示した」と報道され、全国の埋設場所と量が記されています。埋設方法は液体状と固形状で、総量的にはセメントで固めた固形状が多いですが、撤去済みを除いても、北海道6市町・青森1村・岩手6町村・福島1町・群馬2町村・愛知1町・岐阜2町・広島1町・愛媛3町村・高知4町村・佐賀1町・熊本3市町・大分1市・宮崎6市町8カ所・鹿児島5市町6カ所と全国に広がっています。総量は液状1835.5リットル、固形状24,982kgというので、豪雨・地震・土砂崩れなどで日本全国に大変な被害をもたらすと予想できます。 この記事の中で紹介されている北九州市立大学の原田和明氏の研究で、2,4,5-Tは日本でも製造され、アメリカが使用を中止したために、在庫を国有林に埋めたのだろうと分析しています。原田氏の『真相 日本の枯葉剤』(2013, 五月書房)は絶版で読めませんが、調査内容はメルマガ(「枯葉剤機密カルテル」2005.5〜2005.10)で配信されています。この調査を道しるべとして、当時の国会で議論されたことを時系列で追ってみます。

日本で製造していた枯葉剤

1967年〜1970年
    1967年4月にアメリカのメディアが「米軍が米国内での生産能力の4倍に当たる大量の245Tを発注した」と報道(注15)。 三井東圧化学が「外国からの引き合いで」大牟田工業所で1967年10月から塩素系除草剤245Tの中間製品245TCPを月産55トン生産し始め、1969年から245Tも月産15トン製造した(注16)。 1968年7月12日付『朝日新聞』が枯葉剤製造疑惑と作業員の皮膚疾患を報道(注17)。 三井東圧化学大牟田工業所で1968年に爆発事故があった;1968年1月〜7月までに約30人の被災者が皮膚炎・肝臓障害・白血球異常などを起こし、被害者が続出していると、1969年7月23日開催の衆議院外務委員会で楢崎弥之助(社会党)が指摘(注15)。 三井東圧化学副社長・平井威が記者会見をし、日本経済新聞(1969年7月25日)によると、「大牟田工場で245TCP生産の際に23人が皮膚炎にかかったのは、製造開始時の運転不慣れにより、多量に、または繰り返し245TCPに触れたためで、その後防護具の使用と排気装置の設置で解消した」と述べた。245Tの中間製品245TCPはパルプの防カビ剤として1割、245T原料として自家消費1割(石原産業、日産化学を通じて外販)、残り8割は英国・ニュージーランド・フランス・シンガポール・オーストラリア・米国の順で輸出(注16)。 ニュージーランドに輸出された245TCPは加工されて枯葉剤として第三国を経由して南ベトナムに輸出された可能性が、ニュージーランドのイワンワトキンス・ダウ社(現ダウ・アグロサイエンス社)の元幹部の証言(2000年)により判明。ニュージーランドはアメリカ・英国・オーストラリア・カナダと化学兵器開発協定を結んでいた(注18)。 イワンワトキンス・ダウ社の従業員は枯葉剤の有害性を知らされず、がんが多発し、国平均の2〜3倍の罹患率だった。枯葉作戦中止後に余った枯葉剤は245T除草剤として再利用され、数千トンの化学製品は工場近くに埋設した(注19)

日本の山林に散布された枯葉剤

    1970年4月15日:アメリカ農務・内務・厚生教育省は245Tを湖・池・人家付近・農作物には使用禁止、森林は厳重な規制をすると声明を出した。その理由はダイオキシンが入っているからだが、日本の林野庁は245Tにダイオキシンは入ってないという。245Tは催奇形性だから劇毒物扱いだと、川俣健二郎(社会党)が1970年10月9日開催の衆議院社会労働委員会で指摘(注20)1970年5月:林野庁が国有林に245Tを総量91トン散布していた;枯葉剤のもう一つの成分24Dも青森・秋田・岩手・山形の山林に合計370トン散布していた事実が、北海道大学医学部の調査を報道した『北海タイムス』(1970年5月)によって明るみに出た。林野庁はニホンザルとカモシカの生息域周辺でも散布した。秋田県玉川村では散布の三日後に口から泡をふいて死んでいるカモシカが発見され、青森県下北半島では猿の奇形児も発見され、枯葉剤で餌を失ったニホンザルが南下を始めていることも確認された。四国で日本カワウソの情報が途絶えたのも245Tが大量散布されていた1970年前後(注21)1970年7月10日:衆議院農林水産委員会で、津川武一(共産党)が以下の指摘をした(注22)。枯葉剤成分2,4-Dが宮城県・青森県・岩手県の山林2,620ヘクタールに370トン空中散布され、山菜や杉が枯れてしまった。宮城県の花山村長が営林署を尋ね、慎重にして欲しいと要請し、営林署が約束したのに、村に戻ったら既に散布されていた。 松本守雄林野庁長官は、2,4-Dは「劇物に指定されていない」「毒性は食塩よりも低い」、「245Tその他、十分影響はない」と答弁。 1970年10月9日:衆議院社会労働委員会で川俣健二郎(社会党)が以下の指摘をした(注20)
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英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記4

世界中で除草剤の成分グリホサートやミツバチ大量死の原因とされているネオニコチノイドなどの農薬が問題視されている時に、日本では大々的に販売・使用され続けています。

農薬の危険性に関する欧米メディアの報道

 2018年8月15日にアメリカ・メディアが一斉に「がんの原因とされる除草剤成分が子どもの朝食用食品に見つかった」というニュースを報道しました(注1)。これはNPO団体「環境ワーキング・グループ」(EWG)の調査報告で、アメリカの子どもたちが朝食に食べるシリアルなど45検体のうち、43検体からグリホサートが検出され、そのうちの31検体はEWGが独自に設定している許容レベル(160ppb=0.16mg/kg)を超えていたそうです(注2)。商品名を明記して、それぞれのグリホサート残留レベルを記しています。EWGは有機栽培の食品も検査し、16検体のうち5検体からグリホサートが検出されました。10ppbから30ppbという量ですが、その理由は、農薬を使用している近隣の畑から飛来したか、グリホサートが近年爆発的に使用されているために土壌と水、川、空気を通して有機農家の畑にも入ってきているからだろうとのことです。

ネオニコチノイド系農薬をめぐる研究

 同じ2018年8月15日にBBCは「新たな農薬は『ミツバチにリスクを与える可能性』」[ref]Helen Briggs, “New pesticides ‘may have risks for bees’”, BBC, 15 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記3

2018年8月にアメリカの裁判所がモンサント社の除草剤ラウンドアップが原告の末期がんの原因だと認めました。一方、日本ではラウンドアップの成分グリホサートの水道水と食品中の残留値を大幅に上げています。

TPPは食の安全を脅かす

倍政権のもう一つの悪政は、水と食の安全に関わる政策です。日本は「農地面積あたりの農薬使用量」(注1)が世界一です。それなのに、健康被害が明らかにされ、世界中で禁止されている毒性の強い農薬の水道水と食品中の残留規制値を大幅に緩和し始めています。これは2018年3月に署名された「TPP11協定」(注2)、そして、7月4日に成立したTPP関連法と結びついているようです。国連人権理事会の報告書で、TPPその他の自由貿易協定というものが人権と環境、国家の主権さえ脅かす危険なものだから署名も批准もしないように、ノーベル経済学賞受賞者たちが警告していると述べています(1-4追記参照)。そのノーベル経済学賞学者の一人、ジョセフ・スティグリッツ教授(Joseph Stiglitz: 1943-)が2016年に来日し、TPPについて警告したので、食の安全の視点から解説した論文「TPPの本質と食の安全性」(注3)から要点を拾います。
    ⚫TPPは、人口の1%しか占めないが米国の富の40%を握る巨大企業の「1%の1%による1%のための」協定で、99%の人々が損失を被っても、「1%」の人々の富の増加によって総計としての富が増加すれば効率だという乱暴な論理である。(p.292) ⚫TPPは米国企業の利益を守ろうとするもので、日米国民の利益にはならない、途上国の発展も妨げる。 ⚫TPPでは、カーギルなどの穀物商社、モンサントなどの種子ビジネス、多くの食品加工業、肥料・農薬・飼料産業、輸出農家などが、例外なき関税撤廃で各国の食料の生産力を削ぎ、食の安全基準などを緩めさせる規制緩和を徹底し、食の安全を質と量の両面から崩すことによって、「食をめぐる戦争」に勝利し、利益を拡大することを目指している(p.293)。
 「北海道がんセンター」の名誉院長・西尾正道氏も同様の指摘をして、TPPによる医療崩壊と食の安全の危機を訴えています(注4)

日本と外国の水道水中のグリホサートの残留基準値の比較

 実例として、遺伝子組み換え種子と併用されるモンサントの除草剤「ラウンドアップ」の成分グリホサートの水道水の残留基準値の大幅緩和の実態を検証します。モンサント社の除草剤ラウンドアップは農家だけでなく、公園でも一般家庭の庭でも使用されています。その成分グリホサートに耐える作物が遺伝子組み換え作物の80%を占めています。グリホサート耐性の遺伝子組み換え作物は成長の過程でグリホサートを減らすのではなく溜め込むため、食品中にグリホサートの残留度が高いと言われています。牛の餌にモンサントの「ラウンドアップ・レディ大豆」を使っているため、牛の健康被害が高いそうです。デンマークの乳牛の尿検査でグリホサートのレベルと肝臓・腎臓障害レベルと相関関係があるという研究結果もあります。先天性欠損症をもって生まれた子豚の肺・心臓・腎臓中のグリホサート・レベルが非常に高いという調査結果も出ています(注5)。 モンサントの除草剤ラウンドアップは広範囲に使われていますから、当然地下水に浸透し、水道水にも入っています。日本政府は水道水中の残留農薬管理目標値の見直しを最近行いました。以下に日本と欧米の対応を比較する表を作ってみました。各国が許容する水道水中のグリホサート最大残留限界値(MRL: Maximum Residue Limit)です。ただし、日本の水道水には残留農薬の限界値は設定されておらず、「管理目標値」として示されています。 水道水中のグリホサート最大残留限界値
日本現行管理目標値見直し後(注6)
2 mg/L2 mg/L2018年2月15日審議済み)
EU現行最大残留限界値(注7)農薬1種類につき:0.0001mg/L全農薬総量:0.0005mg/L2018年見直し案(注8)農薬1種類につき:0.0001mg/L全農薬総量:0.0005mg/L
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英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記2

水道の民営化で大きな被害を被ってきた欧米の再公営化を目指す動きが「津波」のようだと表現されている現在、安倍政権は世界が羨む公営水道の民営化を進めています。民営化によってどんな被害があり、再公営化によってどんなメリットが得られたか、欧米の事例を紹介します。

世界の潮流に逆行する安倍政権の水道法改悪案

 2018年7月5日、気象庁が異例の記者会見で西日本豪雨の警告を出した日に、衆議院本会議では水道法改正案が可決しました(注1)。災害報道と翌日の地下鉄サリン事件の死刑囚7人同時処刑の報道で、命の綱である水道を民営化しようという水道法改正案について、メディアが注意を向けられないタイミングを狙ったかのようです。 『日本経済新聞』の論調は、民営化すれば老朽化対策が進む、水道経営が効率化されるというものです。『産経ニュース』は大阪北部地震(2018年6月18日)で21万人以上が水道の被害を受けたことで、水道の「民営化」と「複数の事業者をまとめる『広域化』を促す水道法改正案」(注2)が必要だと述べています。似たような論調が西日本豪雨災害でも出されるでしょう。本当にそうなのでしょうか? 識者の間では早くから民営化の危険性が訴えられていましたが、テレビ・メディアが取り上げることは少なく、問題点が知られていません。 水道を含めた公共サービスを1980年代〜1990年代に民営化した欧州では、民営化による値上がり、水質汚染など様々な問題が噴出して、再公営化を始めています。再公営化の流れはアジア・アフリカなどでも起こっている時に、公営水道を民営化しようとする安倍政権は異様な逆行を強行しようとしています。「何十年と民営化を経験してきた結果の失敗が積み重なって、ドイツ、フランス、イギリス、スペインなどの各地で再公営化の動きが広がりつつ」ある実情について、生協パルシステムの記事「みんなの水が、企業のものになったらどうなるか?『水道民営化』を世界の事例から考える」(2018年3月26日、(注3))で解説しています。 「サッチャー・イデオロギーの国であるイギリスにも再公営化の波が押し寄せている。他の国々同様、経費節約と質の管理の必要性がサービスを国有・公有に戻そうという原動力になっている」と調査報告書『公共サービスを取り戻す:どうやって市町村と市民が民営化を追い出しているか』(2017年6月、(注4))が分析しています。イギリスの場合、水道だけでなく、電気・ガス・鉄道なども再公営化の流れで、2018年1月の『ガーディアン』紙は最近の世論調査の結果で「水道の国有化賛成が驚くべき83%、電気・ガス77%、鉄道76%」だったと「民営化を取り消すことができる。しかも一銭もかからない」(注5)という記事で報道しています。

水道民営化の問題点

 民間企業の利益の追求が公共サービスの義務を無視してきたというのが幅広い市民の見解で、その例として、上記の記事はテムズ・ウォーター社の運営をあげています。
テムズ・ウォーター社は言語道断の最悪の例である。ルクセンブルクの持株会社を経由して、未公開株式所有者に過剰な配当を分配して、とてつもない負債をこしらえた。ルクセンブルクの会社経由というのは、イギリスの納税義務を最小限にする方法である。テムズ社の現在の投資率ではロンドンの水道本管を更新するのに357年かかる。日本では10年である。
 日本を比較に出しているところに、日本は公営水道で羨ましいというニュアンスが窺えます。『ガーディアン』の記事はこの後、いかにすれば公営化に戻せるかという提案が続きます。ヨーロッパのメディア『ニュー・ヨーロッパ』も2018年4月の記事「もはやコンセンサスはいらない:ヨーロッパの市営化の波は民営化にどうやって異議申し立てをしているか」(注6)で、1990年代にヨーロッパを襲った公共サービスの民営化が、今、再公営化の「津波」状態だと述べています。民営化がどんな弊害、被害をもたらしたか抄訳します。
 消費者保護という見せかけの名目で、民営化は公共サービスの質と利便性を破壊した。アムステルダムのトランスナショナル研究所(TNI)が最近発表した報告書『公共サービスを取り戻す:どうやって市町村と市民が民営化を追い出しているか』(注4)は公共サービスを公営化に戻すパターンを示している。TNIの研究者、ラヴィナ・ステインフォートに聞いた。TNI:この報告書では、公共サービスの再公営化に戻した国々のうち、835例が自治体による市営、49例が国営ですが、両者は多くの共通点があります。両方の戦略が採用されたのは、公共サービスの民営事業者が市民の期待に応えられなかったからです。公共サービスを自治体や国が運営することは、市民の環境への懸念や政治的要求に応えられるのです。 ヨーロッパ・アジア・アメリカ両大陸でPPP(Public Private Partnership官民連携)が失敗したのを受け、公営事業者は専門技術の交換、単価の切り詰め、生産性の増強を求めて、Public Public Partnership(官-官連携)の実験を続けてきました。外国資本が公共サービスを乗っ取ってコントロールする場合の第一の目的は株主のために利益を得ることです。この文脈で「経営・運営の合理化」と言うとき、それが意味するのは人件費の削減で、給料の賃下げや解雇から組合攻撃までを意味します。公共サービスの民営化の影響を見ると、「生産性の増強」の代わりに、サービスへのアクセス・質・効率の悪化があることは明らかです。これは「官民連携」に関する世界銀行とIMFの共同報告書の結論です。 オスロの廃棄物処理でケース・スタディをしたところ、労働条件の恐ろしい悪化とサービスの悪化に関する数万の苦情という結果になり、2017年にオスロ市が民営会社から廃棄物処理を取り戻したのです。ヴィリニュス[リトアニア共和国]その他の自治体の暖房システムが15年間民営でしたが、ヴェオリアの子会社が一般家庭の光熱費を値上げして、自社に2430万ユーロも利益をもたらしました。ですから、2017年にこのシステムも自治体の公営化に戻されました。

再国営化・公営化の代償

 記事はこの後、民営化した水道を公営に戻すにはどの程度の費用がかかるのかの情報が続きますが、TPPで問題視されたISD(投資家対国家間の紛争解決)がこの場合も使われて、多くの国が公共サービスを再国営化・公営化した結果、企業や投資家から巨額の賠償金を要求されています。安倍政権が水道民営化を強行すれば、日本も予想しておかなければならない危険性です。例えば、上記のヴェオリア社(すでに日本の水道事業に進出)はヴィリニュスが暖房システムを公営化したことで、「フランス・リトアニア2国間投資協定」の元にリトアニア共和国を訴え、1億ユーロ求めました。アルゼンチンは空輸システムの再国営化のために外国投資家に3億2080万ドルの支払いを命じられました。民営化が失敗して国営化・公営化に戻すために、上限なしの額が納税者にのしかかってくるのです。そんなことなら、民営化せずに同じ額をインフラ整備にかけられたのにというニュアンスで記事は終わっています。 安倍政権はアメリカが脱退してもTPP11締結とISDに固執して、「TPP11では、ISDの投資部分を凍結することで、ISDの懸念をかなり抑制しているが、ISD適用範囲を広く解釈すれば、理不尽な訴訟が起こり得る」(注7)と専門家は警告しています。

官民連携(PPP: public-private partnershipとPFI: private finance initiative)に対する警告

 水道法改正法案には「官民連携の推進:水道施設に関する公共施設等運営権を民間事業者に設定できる仕組みを導入する」[ref]「水道法の一部を改正する法律案の概要」厚生労働省 続きを読む
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