19世紀後半のイギリス・メディアが権力と化した姿勢に警鐘を鳴らしたジャーナリストと、パーマーストン首相/政権と『タイムズ』の報道の関係を厳しく批判したマルクスの論を紹介します。
19世紀後半のメディア
19世紀のイギリス人ジャーナリストW.T.ステッド(William Thomas Stead: 1849-1912)が、1886年にメディアが権力になりつつあるという警告論文「ジャーナリズムによる政府」を発表しています。この論文発表時、ステッドは37歳ですが、惜しいことに、タイタニック号の沈没で亡くなってしまいました。
新聞は時には極めて重要な問題を決定づける力を持っている。 政治家と新聞の関係:国会で通したい法案を抱えている大臣は2,3人のジャーナリストを友達にして、その法案支持の記事を書くよう勧め、記事が報道されたら、「世論が支持している」と宣言する。いわゆる「世論」というのは、その友達が自分の言葉を再生したものに過ぎないということは大臣自身がよく知っている。 新聞は国家の決定におけるキャスティングボート(決定票)を握っている。 現在の未発達で原始的な状態のジャーナリズムでさえ、その力は強く、今後、国家において更に力を増すかもしれない。ジャーナリズムの将来は完全にジャーナリストにかかっている。現在その展望はあまり望めない。ほとんどのジャーナリストにとって、ジャーナリズムが政府の手先だという考え方は異質なものだ。しかし、もし、このことを考えられたら、社説のペンは権力の王笏(おうしゃく)である。 私は比較的若いジャーナリストに過ぎないが、私は以下のことが新聞の手でなされたことを見てきた。内閣がひっくり返され、大臣が辞任に追いやられ、法律が破棄され、大きな社会改革が推進され、法案が変えられ、概算が改作され、計画が修正され、条例が通され、将軍が推薦され、知事が任命され、軍隊が世界中に送られ、戦争が宣戦布告され、戦争が回避されてきた。1874年にグラッドストン氏が保守派大臣に冗談めいて、「ポール・モール・ガゼット[夕刊紙]に注意しろ。私を悩ませた新聞だから、君を困らせないように注意した方がいい」と言った。 新聞が内閣の決定に与える影響力は下院がふるう影響力よりはるかに大きいことは疑いない。平和か戦争かの問題では、議会の権力は、不名誉な平和を達成するか、犯罪的戦争に突入するかの決定を行った人たちを、事件が終わった後で懲戒免職にする権力だけだ。
ジャーナリストのあるべき姿
ジャーナリストの義務は見張りの義務である。「もし見張りが剣が来るのを見ても、人々に警告を発するためのトランペットを吹かず、誰かが剣にやられたら、その人は自分の悪行のために殺されるが、私はその血の責任を見張りの手に求める」[旧約聖書エゼキエル書33-6]。人間の義務はできる限りの善を行い、全ての悪を防ぐことである。善を行うことを知っていながら行わない者には、直面するのを用心しなければならない非難よりもずっと激しい非難が来る。 事実を知ることが第一の、そしてあらゆるものの中で最も不可欠なものである。 ジャーナリズムの扇情主義は世論の目を引きつけて、行動の必要性を認めさせるものであれば、正当化できる。単なる喚き自体は人間の行の中で最も下品な行為だ。しかし、ジャーナリズム的広報記事「ロンドン浮浪者の苦しみの叫び」の扇情主義が貧困層の住居に関する英国審議会を立ち上げさせたのだ。
『タイムズ』とパーマーストン首相の関係
カントン攻撃に関する『タイムズ』の記事から、当時の一部イギリス・メディアの酷さがわかりますが、マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1861年10月5日、)と題する記事で批判しています。
「イギリス人は『タイムズ』を読むことで、自分の国の政府に参加している」。これはある著名なイギリス人作家が言ったことだが、この王国の外交政策に関する限り全くその通りだ。国内の改革政策に関しては、国民は決して『タイムズ』の指示に動かされない。 過去30年間パーマーストン卿は大英帝国の国力をふるう絶対的権力を奪って、この国の外交の道筋を決定してきた。同時に『ロンドン・タイムズ』がイギリスの全国紙の地位を獲得した。つまり、外国に対して、イギリスの心を代表する地位を獲得したのだ。 国家の外交を管理する独占権が(中略)たった一人の男に移ったら、イギリスの外務大臣、すなわち、パーマーストン卿に移ったら、対外関係について国家のために考え、判断する独占権と、対外関係に関する世論を代表する独占権がプレスからプレスの1組織、『タイムズ』に移ったということである。 パーマーストン卿は秘密裏に、国民にも、議会にも、彼の同僚にも知られていない動機から、大英帝国の外交を管理した。彼が自分の秘密の行いについて、世論の批判を下す権力を奪ったこの唯一の新聞を手に入れようとしなかったとしたら、彼は大馬鹿に違いない。 『タイムズ』の語彙には徳という言葉はどうしても見つからない。(中略)『タイムズ』はパーマーストンの単なる奴隷になってしまった。パーマーストンは『タイムズ』の徳の何人かを内閣の下位のポストにこっそりつかせたり、その他の者をおだてて彼の社交仲間にした。その時以来、『タイムズ』のすること全てが、大英帝国の外交に関する限り、パーマーストン卿の外交政策に合う世論を製造することに制限されてきた。パーマーストンがしようとしていることのために世論を準備し、彼がしたことについて世論が黙従するようにしてきた。 この仕事を達成するための『タイムズ』の奴隷的労働は最近の議会の報道によく現れている。この議会はパーマーストン卿にとって全く不利なものだった。下院のリベラルと保守の独立系議員たちがパーマーストンの独裁に反逆した。彼の過去の不正行為を明らかにして、同一人物の手に同じ制御不可能な権力が握られる状態が続く危険性を国民に知らせようとしたのである。 ダンロップ氏がアフガン文書に関する特別委員会の設置を動議することで攻撃を開始した。これはパーマーストンが1839年に議会に提出したものだが、実は捏造された文書だった。 『タイムズ』は議会報告の中で、ダンロップ氏のスピーチを全て隠した。ご主人[パーマーストン]にとって最も致命的だと『タイムズ』が考えたからだ。 その後、モンターニュ卿が1852年のデンマーク条約に関する全文書を提出するよう動議を出した。(中略)パーマーストンはこの動議を出させないために、事前に議会流会を企んでいた。議会は実際に流会にされたが、その前にモンターニュ卿は1時間半スピーチをした。 『タイムズ』はパーマーストンから流会があることを知らされていた。議会報告を骨抜きにし、料理する役割を特別に担っていた編集長は休暇をとったため、モンターニュ卿のスピーチは骨抜きにされずに『タイムズ』のコラムに現れた。
マルクスは他の記事で、はっきりと次のように述べています。「パーマーストンの新聞:『タイムズ』『モーニング・ポスト』『デイリー・テレグラフ』『モーニング・アドバタイザー』『サン』は[パーマーストンから]命令を受けた」。
イギリス・アフガニスタン戦争
マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」の中で言及している「捏造された文書」は、第一次イギリス・アフガニスタン戦争に関する外交文書です。1839年に議会に提出された時、最重要文書が捏造され、イギリス・アフガニスタン戦争を始めたのはアフガニスタンのドースト・ムハマド・ハーン(Dost Muhammad Khan: 1793-1863)王だとされました。実際には在カブールのイギリス代表、アレクサンダー・バーンズ(Alexander Burnes: 1805-1841)がドースト・ムハマド王と交渉した結果、1838年10月にインド総督の宣戦布告が出されました。 現在のブリタニカの解説によると、イギリスは植民地インドを基地に、アフガニスタンにも影響力を拡大し、ロシアの影響力に対抗しようとして、イギリスが起こした戦争とされています。ドースト・ムハマド王が反英で、ロシアの侵入に抵抗することができないと恐れたイギリスは、亡命中のシュジャー・シャー(Shah Shoja: 1803-1842)を王位に就け、1839年4月にイギリス軍をアフガニスタンに送ります。外国による占領や、列強が即位させた王に不満を持ったアフガニスタン人はドースト・ムハマドのもとに結集してイギリスと戦います。1940年11月に降伏したドースト・ムハマドはインドに送られます。その後も国中で戦いが勃発し、イギリス軍は防御不能になって、1842年1月にカブールから撤退します。イギリス軍の撤退後、シュジャー・シャーは暗殺され、1843年にドースト・ムハマドはカブールに戻って、王位に就きます。 第一次イギリス・アフガニスタン戦争の詳細を『アフガニスタンにおける戦争の歴史』(1851)が伝えていますが、2巻もの長いものなので、フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels:
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1858年4月から10月まで英米メディアで報道された第二次アヘン戦争、インドの反乱、日本関連記事を概観します。
1858年4月17日(NYT,):「イギリスの中国政策」『ロンドン・タイムズ』4月1日我が政府が成功裏に始めたことを続ける仕事が残っている。イギリス国民は永続する利益を世界に与える機会がある。インドが炎に燃えている時、カントンを封鎖し続ける勇気がある。アワドが再び完全に占領される頃には、中国の島の都市と航行可能な川にイギリス国旗が上がるのを見るだろう[原文は斜体で強調]。(中略)我々が他国の協力を求める原則は誰の目にも明らかだ。それは我々がこの仕事を1国だけではできないという理由からではない。あらゆる国が共通の条約という利益を共有すべきだからである。(中略)舟山[Chusan, Zhoushan]を占領しよう。もし我が隣人フランスが舟山の占領を望んでいれば、彼らにも中国の海に植民地を作らせればいい[原文強調]。中国シルクのフランスへの輸入は非常に大きいが、この貿易は主にイギリスとアメリカの船で行われている。フランスにも植民地を設立する土地を得る資格は公平にある。我が国は隣人たちに嫉妬していないが、我々の東アジアにおける偉大で増え続ける権益があり、自分たちの商業と我々の広大な保護領の商業の発展のために必要な領土的権利を手にいれる完全な自由度は保持しなければならない。 1858年4月24日(ILN,):「日本とコリアのスケッチ」 1858年5月22日(NYT):一面「アメリカの南方への拡大を願うイギリス」『ロンドン・タイムズ』より アメリカ合衆国による中南米の弱い共和国の吸収はこれ以上遅れてはならない[原文強調]。メキシコとニュー・グラナダ[ヌエバ・グラナダ共和国:現在の中南米の複数の国の一部から構成されていた]は自然の腐敗によって陥落寸前だが、国籍の降伏に向かう動きが始まっている。ベネズエラも似たような運命に向かっている。メキシコに関しては、国土のうち最も豊かな地域の買収が進んでいる。アメリカ政府はもう少し待ちさえすれば、国[メキシコ]そのものを[アメリカの]言い値で手にいれられるかもしれない。(中略)ニュー・グラナダに関しては、たいして時間はかからないだろう。この1,2年この共和国と合衆国の間で紛争があった。共和国の国民がパナマ地峡をめぐる暴動で負傷したので、その賠償をアメリカに求めているからだ。アメリカは地峡の通行権を将来的に保証する条約を求めているが、ボゴタ議会で反対が続いている。もし条約が批准されれば合衆国にとっては重要な権益をもたらす。もし拒否されたら、武力で要求するものすべてを取る理由となるだろう。(中略)ニュー・グラナダがアメリカに併合されたら、ベネズエラの吸収は当然のこととして続いて起こる。(中略)ニカラグア・コスタリカ・サルヴァドール・ホンジュラス・ガテマラなどの小国もこの流れに続く。これらの国々の唯一の障害は、合衆国とイギリスが中央アメリカを支配することを禁じている「クレイトン・ブルワー条約」である。しかし、ワシントンではこの条約を破棄する動きが進んでいる。 1858年7月15日(NYT):「日本人船乗りの救助—興味深い詳細」 1858年7月17日(ILN):「インドと中国」(, p.54)インドと中国からの7月7日付情報によると、中央インドで反乱軍が再び問題になっている。バラックポール(西ベンガル)連隊は解散か中国派兵に応じるかの選択がある。
The 70TH Bengal Native Infantry Drawing Rations at the Commissariat Stores, Canton.カントンの兵站部で配給する第70ベンガル原地人歩兵隊(ILN, 1858年7月17日)
1858年7月22日(NYT):「キューバ獲得/ コマンチェ・インディアンの略奪」 1858年8月5日(NYT):「満州—中国におけるロシア—アムール川—占領進む」 1858年8月11日(NYT):「同盟国が北京へ進軍」 海河(Peiho)河口の砦を英仏同盟軍が占領。同盟国の軍事力によって遅かれ早かれ中国皇帝は同盟国の要求に同意せざるを得ないだろう。これらの要求の正当性はロシアとアメリカ合衆国によって認められた。残念ながら、我が国の政府は彼ら[イギリス]が使わざるを得ない暴力的方法に反対している。しかし、過去18ヶ月の中国問題の歴史に精通している人なら誰もが武力による以外、武力のみが中国政府と国民に国際法の原則を認め受け入れさせることができるのだという結論に達するだろう。(中略) 中国帝国を文明と貿易に開かせる偉大な仕事がイギリスとフランスによって精力的に始められたが、同様のエネルギーで続けられていないことは遺憾である。中国との交渉で多くの失敗や遅延があったのは無用というよりもっと悪い。 1858年10月9日(ILN, p.335):7月22日付、本紙特別アーティスト・特派員より 3日前、[ここカントンの]繁華街は勤勉な人々の活気に満ち溢れていたのに、わずかの間に本当に恐ろしい荒廃の情景に変わってしまった。全焼し、全壊した家々の骨組みしか残っていないが、そこから巨大な煙の塊が上がっている。[この後、兵士たちによる略奪の様子も描かれていますが、省略します。下の2葉の挿絵がカントンの廃墟と略奪の様子です]
Appearance of a busy street in Canton after a visit from “Ye Barbarians” 「汝ら野蛮人」の訪問の後のカントンの繁華街の様子(ILN, 1858年10月9日, p.335)
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幕府はインドの反乱について、早い時期に把握していました。当時、日本が置かれた立場を理解するために、英米メディアで報道される第二次アヘン戦争とインドの反乱と並んで、ネイティヴ・アメリカンとの戦争や奴隷貿易、日本との条約交渉を辿ります。
幕府が把握していたインドの反乱
府がインドの反乱について1857年8月には知っていたことが、目付の岩瀬震忠(ただなり:1818-1861)の書簡からわかります。岩瀬が長崎に出張し、到着の挨拶を江戸の同僚に送った書簡が『幕末外國関係文書』に残っています。1857年8月10日(安政4年6月21日)付書簡「六月二十一日長崎へ出張の目付岩瀬伊賀守震忠書翰在府同役へ 清國騒亂蘭船購入貿易談判等の件」のインドの反乱関係部分を要約します。前日に長崎に到着し、早速オランダ商館から情報を入手した内容の報告ですが、最初に阿部正弘の病状について心配を書いています。「春以来、血色も悪く心配していました。多事の折柄、一日も早く出勤できるようになることを祈っております」という趣旨から始まっている書簡です。
廣東の騒乱がますます難しくなっている様子の上に、インドでイギリスによる苛政を憤って、イギリス士官を殺し、一揆のような騒ぎになっているそうです。 この地はかねてよりロシアが欲しがっていた地ゆえ、この節の騒乱に乗じて、ロシアが進出を企て、いよいよやかましくなるかなと思います。
岩瀬震忠の手紙はこの後はカントン攻撃にフランスもアメリカも参加し、大国中国も数多くの強敵を引き受けて、どうなるのだろうか、オランダ人も非常に危うい事になってきたと言っていると、情報を伝えています。こんな中で日本が欧米列強と交渉しなければならないという危機感も伝わってきますから、英米の報道に現れた中国の戦争、インドの反乱、日本に関する情報、その他、気になった記事を時系列で紹介します。後に紹介するように、この時代には新聞の力が政治をも変える危険な側面が警告されており、政治家にとっても経済界にとっても新聞を味方につけるなど、メディアを利用する重要性が認識されていましたから、現在のメディアの影響力の功罪を考える上でも参考になると思います。日本関連の記事は見出しだけで、記事内容は後に紹介します。
第二次カントン攻撃、インドの反乱ほか
1857年6月5日(NYDT):「奴隷貿易の復活」 1857年7月30日(NYDT):「中国とインド」「インディアン戦争の恐れ/ビッグスー川にインディアンの大集会」セント・ポール・デイリータイムズより、7月24日イエロー・メディスン川(Yellow Medicine River:ミネソタ州)にスー族インディアンが集結して不穏な動きだ。もし戦争が起これば、10,000人のインディアンに対し、200人の部隊で戦うことになる。イエロー・メディスンの白人家族は駐留地に移った。兵卒の報告によると、インディアンはサルのように生意気に部隊を取り囲み、戦えと挑んでいるという。 1857年8月14日(NYDT):「インドの反乱/デリーはまだ陥落せず/セポイの連隊50が反乱/中国の戦争」 1857年8月18日(NYDT)「フォルモサ(台湾)島の占領/中国のアメリカ市民への賠償/ デリー陥落のニュースの一部確認」:NYDT特派員、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年6月9日付 アメリカ海兵隊のJ.D.シムズ大佐が以下の指令を受けた。フォルモサ(台湾)のフォンシャン市にアメリカ国旗を揚げて台湾島を正式に領有することだった。今回の戦争でアメリカ市民が被った損害の賠償として領有するのである。 これは在中国のイギリス当局に大きな満足を与えた。中国とのさらなる衝突に向けて各段階で行われるからだ。私の考えでも、これは中国における我々の権利を確保するための賢明な方法である。我々の損失に対する報酬として確実で安全な方法である。世界のこの地域で我々が領土獲得を求めるなら、中国帝国の領土のうち獲得できるものの中で、フォルモサほど望ましい所はない。鉱物と農産物が豊かで、石炭も価値が高いし、世界の海洋国家が熱望する場所だ。
1857年9月14日に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が『ニューヨーク・タイムズ』に変更されてからはNYTと省略します。
1857年9月23日(NYT):二面「インドへのイギリス軍の大規模な補充部隊」 1857年11月19日(NYT): NYT特派員、上海発、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年9月7日付 アメリカ合衆国軍艦ポーツマス号が日本に向けて8月22日に上海を出航した。箱館と下田に寄港する予定だ。箱館にはアメリカの領事代理がおり、下田には総領事がいる。 1857年12月21日(NYT):「中国戦争再開」
Chinese Reading Proclamation宣戦布告を読む中国人『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1858年2月27日号, p.221, ) 1857年12月31日(NYT):一面「 Friends of Chinaより、1857年10月31日付 カントン攻撃の準備/合衆国と日本との新条約交渉/インドの反乱」:香港発(10月3日)ロンドン・タイムズ特派員 エルギン卿はカントン攻撃の結果がわかるまで香港に滞在するだろう。海兵隊部隊全体が到着次第、作戦が開始される。最初の補充部隊がインペレイター号で28日に到着した。戦艦コモラント号とランターター号がマニラから昨日到着。 1858年1月1日(NYT):一面NYT特派員、香港発、アメリカ軍艦ポーツマス号より、1857年10月29日付「日本からの重要ニュース/ ハリス総領事と[日本]との新条約交渉/下田と箱館にアメリカ市民の居住が許可される/下田沖に危険な礁を発見」、二面「中国におけるイギリスの位置/ ロシアと中国/ インドの反乱」 1858年1月2日(ILN):巻頭言「昨年[を振り返って]」ペルシャ戦争という現実があり、中国との切迫的な戦闘があったが、これら遠くの野蛮国との抗争は我々の見方では、戦争と呼べるものではない。 1858年1月26日(NYT):一面、NYT特派員、上海・呉淞(Woosung)発、アメリカ軍艦サン・ジャシンタ号、1857年11月6日付、一面「ロシアとアメリカの日本との条約」(10月付) 1858年2月6日(ILN, p.131):「日本」 日本からの情報によると、昨年10月16日に長崎において、日本とオランダ政府の間で条約が批准された。上記の日に長崎港はオランダ貿易に開け放たれた。10ヶ月後には箱館港が開放される。同じ情報によると、日本政府は全文明国と同様の条約を締結する用意がある。そして、キリスト像を踏みつける習慣は廃止される。 1858年2月8日(NYT):一面「中国戦争における英仏協力の計画/ 葉への最後通牒/ カントン攻撃間近」、二面「日本—国の様子—現地人の住居、慣習などーアメリカ総領事」1857年12月16日付ほか 1858年2月15日(NYT):一面「[インド]反乱軍の敗北/カントンは即刻攻撃されるべき/最後通牒に従うことを葉は拒絶」1857年12月16日付他 1858年3月6日(ILN, p.227):「中国における戦争:葉の捕虜、カントンで王室宝物を押収」1月14日付シーモア提督の公式報告書:カントン当局は我々[英仏]が市を攻略したことを認めなかったので、1月1日に部隊が市中を行進することにした。女王陛下の領事、パークス氏が喜ばしい情報を持って到着した。葉を捕虜にし、地方の全記録、銀で30万ドル相当の王室宝物を押収入手した。これら一連の行為に対して中国側からの抵抗はなかった。銀はカルカッタ号上で保護している。 1858年3月8日(NYT):「カントン砲撃の詳細/中国、ロシアに宣戦布告/ラクナウ近くの反乱者の敗北」 本社特派員より、アメリカ合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港1857年12月28日 長く延期されていたカントン攻撃が始まった。12月28日夜明けとともにカントンに向けて砲撃が開始された。市内の各所で火があがった。戦艦からは1日に60砲市に向けて撃たれ、3日間続いた。12月29日に英仏部隊が市の後方の2砦を襲い占領した。中国軍は勇敢に抵抗したが、小規模な武器で防戦し、占領されると逃走した。カントン市は完全に破壊されるだろう。 1858年3月11日(NYT):一面「英仏軍によるカントン占領—葉が捕虜」1858年1月15日付Friend of Chinaによると、1月5日に葉が捕らえられた。 1858年3月15日(NYT):一面「葉の捕虜の詳細」1月15日付情報によると、葉はイギリスの病院船に収容された。カントンは英仏同盟国の保護領となり、新政府が設立される。 1858年4月3日(ILN, p.345):「中国における戦争」(本紙特別アーティスト・特派員より、カントン、1月28日) 市内に秩序が次第に戻っている。通りは(もしそう呼べるなら)活気を取り戻し、どこでも開店されつつある。住民は全体的に最近の屈辱に関心がないように見え、新しい支配者に服従している。多くの士官が現地人とすれ違う時はお辞儀をする。これを最下位の中国人役人に対してもする。この小さな儀式が東洋の全ての国々で最重要なことだとみなされている。 1858年4月6日(NYT):「フランスとイギリスに協力するアメリカとロシア」 1858年4月13日(NYT):一面「北京に対する示威運動—英仏同盟によるカントンの要塞化」本社の特派員より、合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港、1858年1月28日 これまでも現在も、中国・日本・マニラの港の必要性が緊急に求められているが、この要求に服従していない。1年間も一人置き去りにされている、[アメリカ]国の船が近くまで来てくれないというハリス領事の苦情は国務省の目を開かせたに違いない。 1858年4月17日(ILN, P.383):「中国」(本紙特別アーティスト・特派員より、香港、2月28日) 葉のやつはインフレキシブル号でカルカッタに行った。そこで彼がどうなるか知らない。カントンは今は静かだ。北部がどうなるか我々は皆待っている。北京[政府]が礼儀正しいか否か、それが5月かどうかもわからない。エルギン卿はまもなく上海に行くだろう。ひょっとすると、北京の前に日本に行くかもしれない。ありえないことではないと思う。あの国[日本]の皇帝は外国列強に対して好意的のようだから、これはいい機会だろう。
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Indian Crisis「インドの危機」

挿絵キャプションBritish Attack of Mandarin Junks in Fatsham Creek, Canton River—Sketched from the Fort. カントン川[支流]佛山水道の中国ジャンクを攻撃する英国—砦からのスケッチ出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号(, p.129)
中国への攻撃とインドの反乱
節で紹介したイギリスによるカントン攻撃の情報を幕府に伝えたオランダ商館長の幕府への忠告を受けて老中が各部署に出したお達しと、それに対する各部署からの意見書がどんなものだったかを見る前に、第二次カントン攻撃やその他の「戦争」を英米の新聞から辿ります。欧米列強の世界戦略の中で、幕府が置かれていた立場がよく見えてくると思います。 上の中国を攻撃するイギリス軍を描いた挿絵は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号の第一面に掲載されましたが、第一面の記事の見出しは「インドの危機」です。セポイの反乱として知られているインドの反乱は5月から始まっており、挿絵の中国攻撃作戦は6月1日に行われました。これらが英米のメディアでどう伝えられたかを見ていきます。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』経由のロンドン『タイムズ』の報道と、1857年7月以降の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記事を中心に見ます。 「インドの反乱」の最初の詳細ニュースは「ボンベイ発5月11日」の報告が掲載された1857年6月24日の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』です。この頃のアメリカの新聞には「インディアン」の反乱や戦争という見出しが多発し、国内でもインド人との戦争が起こっているのかと驚きますが、国内の「インディアン」とは当時、アメリカ・インディアンと呼ばれていたネイティヴ・アメリカンのことです。 5月11日ボンベイ発の報道では、ボンベイからの報告は誇張されているようだと断った上で、「ベンガル騎兵隊の第三連隊が公然と反乱を起こし、将校数人と兵士が死傷して、将校のバンガローが全焼した」と伝えています。以下にインドの反乱に関する報道の流れを、特徴的な部分だけ抄訳します。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事はNYDT、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はILNと略しています。
1857年7月4日(ILN,, p.19)「インド:現地人部隊の反乱とヨーロッパ人の虐殺」
「インド」(カルカッタ発5月18日;マドラス発5月25日;ボンベイ発5月27日) ベンガル軍の反乱は恐るべき方法で広がっている。メーラト[Meerut:インド北部]の第3ベンガル軽騎兵隊の1部隊がパレードで、政府が供給した弾薬筒を装填して発射するよう指令された。90人のうち5人しか指令に従わなかった。拒否した85人は軍法会議にかけられ、5年から10年の厳しい求刑があった。5月9日に部隊全員が見る前で彼らは刑務所に行進した。救助の試みもなく、怪しい動きはなかった。 5月10日、日曜の夕方、連隊が突然、怒りの暴動を市民の参加で起こした。11日と20日はこの地区に駐屯している現地人の歩兵連隊2隊が立ち上がった。彼らは刑務所から仲間たちとその他1,200人の囚人を解放し、血なまぐさい仕事を始めた。 メーラトはインド最大の駐屯地で、軍のヨーロッパ隊は女王陛下の第6ドラゴン衛兵隊、第60ライフル隊、砲兵隊だ。駐屯地の半分は炎に包まれ、我々の兵士たちの妻や子どもたちは激怒した兵士たちの野蛮な手にかかった。彼らは前代未聞の残酷さで殺した。 将校たちはバンガローから飛び出し、男たちに忠誠を呼びかけようとしたが、射殺された。ヨーロッパ部隊が到着する前に、残虐行為はほぼ終わっていた。 男たちは100マイルほど先にあるデリーに逃げた。デリーのベンガル人部隊の間にすでに反乱の種は広まっていた。市に逃亡者として入った反乱者たちはすぐに、この地の3現地人連隊、第38・54・74隊はデリーに駐屯しており、彼らを監視するヨーロッパ部隊はいなかった。その結果は酷いものだった。 反乱した兵士たちは市を完全掌握し、卑屈な従順さからヒンドゥーの性質である残酷な獰猛さに即座に変身し、デリーのヨーロッパ人居住者を年齢性別に関係なく無差別な虐殺を始めた。銀行を略奪し、故皇帝の息子をインドのムガル王と宣言した。 この不満の原因について確かなことはまだ伝えられていないが、カーストに関するインド人の思いを蹂躙する行為があったという疑いに基づいている。セポイ[インド人傭兵]に供給された新しい弾薬筒はイギリスから直接送られたもので、塗られているのは不浄の動物の油脂だとセポイたちは聞かされた。不満が密かにゆっくりと拡散し、デリーでの惨劇は密かに完全に組織化された陰謀が存在していたことを証明している。 メーラトの反乱部隊が宿営地におけるインド兵の対応がヨーロッパ人と平等ではないと思ってデリーに逃げたのは明らかに偶然ではない。デリー駐屯の3連隊が同じ思いを持っていることを知っていて、デリーに行けば、反乱の共謀者が見つかると確信していたに違いない。 ペルシャ湾にいる3ヨーロッパ連隊は和平によって解放されているので、カルカッタに直接航行できる。反乱を鎮圧し、反逆者を罰する作戦がすぐに取られた。全地域の反乱者を圧倒する量の軍隊が行軍した。 月曜朝に公式の報告がロンドンに届くと、午後には閣議が行われた。東インド会社の幹部との長時間の会議も行われ、夜議会で発表される前に、女王陛下の軍隊の大部隊が出発の準備を始めていた。香港の出来事で、4連隊が行先をインドから中国に変えなければならなかった。中国での仕事が済み次第、元々の行く先インドに向かうことになっている。
同じ7月4日号の表紙に「インドの反乱」という見出しの巻頭言が掲載されています。
インドの我々の家が燃えている。この家には保険がかけられていない。この家を失うことは、我々の力と特権と性格を失い、世界ランキングで地位が落ち、我々の過去の栄光と現在の野望によってではなく、ヨーロッパの地図における我が国のサイズに応じた地位に落ちるということだ。この火はどんなことをしてでも消さなければならない。このような危機の大きさと突然性の前にはあらゆる普通の配慮はなくなる。幸い[英国]インド政府はこの危機に対する十分な力があるし、もし資力がなければ、大英帝国のすべての富・軍事力・エネルギー・リソースで支援されるだろう。その場合は恨み言などないだろう。 我々が剣でインドに勝つことが望ましいかどうかなど、もはや問題ではない。勝ったのだから、インドを保持しなければならない。剣がインドを獲得したのだから、剣がインドを守らなければならない。現在の我が国の力に対する恐れと、我が国の過去の無敵さの記憶によって我々は支配する。この恐れと記憶はいかなる危険があろうとも、いかなる犠牲があろうとも維持されなければならない。
1857年7月8日(NYDT,):(ロンドン『タイムズ』6月27日)「英印軍における反乱の大拡大/現地民部隊に暴動と反乱/デリーでヨーロッパ人の虐殺」
本節の最初に掲載した8月8日号第一面の記事「インドの危機」は社説のように国民を鼓舞する内容になっていますので、抄訳します。
1857年8月8日(ILN, p.129)第一面「インドの危機」 [イギリス国民は日常に追われているが]最初の警告の叫びで、彼らは事件の大きさに耳目を開けた。そして、世論と政府の行動によって、インド全体と両側の世界に向かって、東洋の帝国を守るために、いかなる流血や宝物の犠牲を被ろうと、必要なことは躊躇なく行う精神が十分あると証明した。また、3年前に世界の最強の君主国の一つ[である我が国]がヨーロッパの均衡を守るために全力をあげたことを示したように、アジアの均衡を守るために国内外の敵と戦う用意があると、インド全体と世界全体に示す。 増強軍は本国の英国人が海外の英国人と同じくらいの強い目的を持っていると証明するだろう。[インドの]反乱者たちは計画も主導者もなく、英国軍の全力で戦うこの紛争に勝ち目はないと証明するだろう。必要な時は全英国軍が反乱者たちに向かって行くことは確かだと証明するだろう。 反乱者たちは自分たちを野蛮性[の時代]に追い戻すようなアワドの王も、その他の彼のような野蛮で残忍な暴君も望んではない。 そして、もしいつか反乱者たちがヨーロッパの白い顔の異人の支配からの自由と独立に署名するとしても、英国政府より1000倍も酷い暴君にならない首長と頭首を自分たちの人種の中から探すだろうが無駄だ。
The Princes of Oude and Suit—from A Photograph by Mayallアワドの王子たちと随行者たち—写真より

左からInterpreter通訳、Brother of the King of Oudeアワド王の兄弟、Eldest Son and the Heir of the Deposed King of
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アロー号事件とイギリスによるカントン攻撃のニュースは日本にいつ、どう伝えられたかみます。
幕府に伝えられたアロー号事件とカントン攻撃の情報
府にアロー号事件とカントン攻撃の情報が伝えられたのは、ちょうどイギリス議会でアロー号事件の真相解明とカントン攻撃の是非が議論され始めた時期(1857年2月24日〜3月3日:6-2-1〜6-3-3参照)ですから、幕府の情報把握の早さがわかります。『幕末外國関係文書』に記録されている1857年2月26日(安政4年2月3日)付のオランダ商館長の書簡から始まります。その後、長崎奉行所が口頭で聞き取った記録が続きます。オランダ商館長は、欧米列強と交渉をしている日本にとって英仏のカントン攻撃は重要な考慮すべき事件だ、対岸の火事と思うなと忠告しました。その忠告を受けて、1857年3月から6月の間に幕府の中で17通もの文書がやりとりされていますから、幕府がいかに重要視していたかが窺えます。 切迫感の理由の一つはタウンゼント・ハリス(Townsend Harris: 1804-1878)がこの半年前の1856年8月21日に下田に来航し、幕府と通商条約の交渉を開始して、様々な要求をしていたからです。同時期に英仏露が接近し、出入りが頻発していますから、幕府がどんなに大変だったか、老中首座の阿部正弘(1819-1857年8月6日)がその最中に病死してしまったのも、過労からだと理解されています。心労・過労は通詞も同じで、外交用語「領事」「総領事」などの概念さえなかった時代に、武力をチラつかせて開国を迫る欧米列強との交渉の通訳/翻訳をしなければならない通詞たちの苦労が偲ばれます。
2-3で紹介したオランダ語の大通詞・西吉兵衛がイギリス艦隊のスターリング提督との会見を通訳する予定の朝、1854年10月8日(安政元年8月17日)に43歳で急逝してしまったのも、過労死だったと推測されています。
アメリカ領事の常駐をめぐるペリーと幕府の応接掛との応酬とその結果
ハリスが領事として常駐する目的で来航したのに対し、日本側にとっては予想外という齟齬がありました。ペリーと交渉した時の大学頭だった林復斎(ふくさい:1801-1859)を代表とする応接掛の交渉記録『墨夷応接録』(ぼくいおうせつろく)の現代語訳が最近出版されたので、領事を常駐させるペリーの要求について確認します。領事を日本に常駐させる要求は「承服しがたい」と繰り返す林復斎に対して、ペリーは「結論を先送りにして、もし何か問題が発生したら、一人常駐させるというのが適切かと考える。また十八ヶ月後に、わが国の使節がやって来るはずなので、そのときにこの件について談判に及ぶのが良いだろう」(, p.57)と答えます。ところが、日米の条約文が違っているのです。日本側の条約文では「第十一条 両国政府によって、止むを得ない事情によりその必要性が認められた場合、本条約調印から十八ヶ月より後に、アメリカ合衆国は役人を下田に駐在させることができる」(p.189)となっています。アメリカ側の条約では、”Article XI There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Shimoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the Signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary” となっています。日本語条約文では、両国が必要だと合意した時とされているのに、英語版では「日米いずれかの政府」となっており、「いずれか」は「アメリカが必要と認めれば」と理解できます。 この違いを検証した石井孝は、そもそもペリーが18ヶ月後に「使節」を送り、その時に談判すればいいと言った段階で、「使節」は「領事」だとペリー側が考えており、領事が来航してから領事を置くかどうか談判しても「仕方ないではないか。通訳の間におけるなんらかの誤解であると思う」(, p.98)と書いています。 翌日応接掛の代理としてペリーのもとに派遣された徒目付平山謙二郎は手記の中でペリーの意図を正しく伝えている上、オランダ語訳から日本語に訳された和文は英文の通りだったそうです。しかし、漢文訳が和文と同じになっており、英文を漢文に訳す時に誤りが生じたと推測されること、オランダ語から和訳された条約と漢文との照合を怠ったのだろうという推測です(pp.106-107)。ペリーが誘導した論理に応接掛が引っかかったのか、「領事」という概念がまだ定着していない時期に「使節」=「領事」というペリーのごまかしは見抜けなかったのかもしれません。ハリスがアメリカ政府から日本領事に正式に任命されたのは1855年8月4日でした。
オランダ商館長の情報と幕府への忠告
オランダ商館長がカントン攻撃について幕府にどう伝えたのか、その忠告も含めて概観します。ハリスを下田に運んだ船は、カントン攻撃を報道していた『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員が乗船していたサン・ジャシンタ号でした(
6-4-2参照)。サン・ジャシンタ号のアームストロング提督は6ヶ月後に戻ってくると約束したのに、8ヶ月後の1857年5月5日も現れない、「アメリカの軍艦が長い間やってこないのはどうしたわけか。イギリス人はどこにいるか。フランス人はどこに?」「一隻の軍艦のいないことは、また、日本人に對する私の威力を弱めがちである。日本人は今まで、恐怖なしには何らの譲歩をもしていない。我々の交渉の將来のいかなる改善も、ただ我々に力の示威があってこそ行われるであろう」と、ハリスは日記に書いています。待ち焦がれたアメリカ軍艦がハリスの前に現れるのは来日約1年後の1857年9月8日でした。ですから、アロー号事件とカントン攻撃について知ったのは、幕府の方が半年以上も早かったわけです。
オランダ商館長の情報
最初の情報提供者は長崎のオランダ商館の最後の長官だったヤン・H.ドンケル・クルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius: 1813-1879)でした。その書簡と口頭説明をオランダ通詞が和訳したものが『幕末外國関係文書』に残っています。「二〇二 二月五日 和蘭甲比丹キュルチュス口演書 長崎奉行支配吟味役永持亨次郎へ口演 英人廣東焼拂の件」と題された文書です。「キュルチュス」とか「ドングル、キュルレユス」となっているのは「クルチウス」に、イギリス海軍提督「セイムール」を「シーモア」に直しますが、当時の理解がわかるもの、例えば、カントン長官の葉の役職を「奉行」としている点などは、そのままにして現代語で要約します。文書の日付「安政4年2月5日」は西暦1857年2月28日です。西暦を主に、必要な場合は和暦をカッコ内に記します。 クルチウスから情報と忠告を聞いた長崎奉行支配吟味役の永持亨次郎(ながもち・こうじろう:1826-1864)の長崎奉行宛の報告書です。聞き手、話し手を区別して記したインタビューの書き起こしの体裁になっています。通詞の名前は記されていません。なお、永持亨次郎は長崎海軍伝習所の一期生で、勝海舟と同じく幹部伝習生でしたが、官吏としての有能さを見込まれて、長崎奉行に引き抜かれていたそうです。
10年前の唐国と英国間の戦争の結果、唐は英国のためにアモイ、カントン、ニンポー、上海、福州の5港を開き、各港に商館を築き、領事を置き、両国官吏の接触法、貿易の方法、商船の租税規定を取り決めた。唐の産物のうち、茶と絹布を専一に交易し、ヨーロッパ同盟国も同様の取り決めをし、5港が次第に繁盛し、唐国にとっても交易が国益であることがわかった。港には勿論境界を定め、城内で外国人が借家、借地など自由にでき、唐人も自然に各国の言語に通じるようになり、当今は自他国民に差別が無くなっていた。 しかし、唐国の風儀は外国のものを軽蔑し、公の交渉も官吏は面会を拒み、多くは書簡の往復で間に合わせ、ひたすら尊大に構えているため、外国人[欧米人]は常日頃不快に感じていた。今度のカントンの件も、英人が現地の奉行に直談判したかったが、拒んだため大事になったのである。 5港のうち、香港は英国が割譲し、その土地人民全てをイギリスが支配し、イギリス人は平常唐船を借り受け、唐人の乗組員で英国国旗を用いて、諸港に往来している。イギリス人の政治は公平だから、唐人も他港より香港に移住した。 また、カントンは条約開始から2年以内に開港という取り決めだったが、10年たっても唐国は約束を守らないため、在唐のイギリス人は武力で違約の罪を正そうと望んだ。しかし、イギリス政府は唐国内で内乱が続いて国民が困窮しているので、その気はなかった。 この度のカントンの変は小さなことから始まった。香港在住のイギリス人が唐船を借り、配下の唐人12人を乗り組ませ、英国の国旗を立ててカントンへ入港したところ、唐人の乗組員が一揆の残党という理由で、カントンの奉行所が捕え、英国国旗も奪取したことをイギリス商人がカントン在住の領事に訴え、領事が奉行所に掛け合い、咎めた。乗組員と国旗を返還し、謝罪したら無事に済むと言ったところ、奉行からは返答なしだったので、海軍提督シーモア(昨年秋、長崎港に渡来したイギリス提督[原文のまま])は部隊を率いてカントンの1砦を奪取した。
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DISCHARGING OPIUM FROM THE “PEKIN.”(北京号からアヘンを荷揚げ)

出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年7月11日 アロー号事件に端を発するカントン攻撃は「アロー戦争」、あるいは「第二次アヘン戦争」と呼ばれていますが、以下の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事でも指摘されているように、中国にアヘン貿易の合法化を求めることも戦争を仕掛けた理由だとされています。
アヘン貿易会社からの訴え
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』にはアヘン密輸に携わるアメリカ企業からの要請文書が掲載されています。
1857年6月6日:第1面「我々と中国との関係/香港のアメリカ人商人とアームストロング提督との重要な書簡」(香港 1857年3月23日、)
カントンのオーガスティン・ハード商会(Augustine Heard & Co.)、キング商会(King & Co.)、ラッセル商会(Russell & Co.)連名の手紙 アメリカはこの国[中国]との貿易をイギリスと同じくらい前から行っています。(中略)知っていただきたいのは、イギリスが過去12年間に、香港から上海までの入江と港を含め、中国の海岸線全ての測量を出版してきたのに、アメリカ海軍がこの国の海岸線に関して同様の貢献をしたとは聞いていません。ペリー提督が日本の新しい港とフォルモサ[台湾]の測量はしましたが。 閣下に懇願したいのは、5港における領事裁判権の見直しの必要性を我が国の政府に訴えていただきたいことです。
訳者コメント: この前の文章には、アメリカ軍がカントンのアメリカ人を守ってくれないから、イギリス軍に頼るしかないという苦情があります。この後に同じ連名者から、海賊に襲われるアメリカの商船をアメリカ海軍に守ってくれという訴えもなされています。わかっている限りでは、この連名者の2商会(キング商会以外)はアヘン貿易に従事していたアメリカの貿易商だということです。そのアヘン貿易について、イギリス議会で問題になりました。
1857年6月12日:第1面「英国の政治とニュース」
(『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員、ロンドン、1856年5月29日:1857年の間違いのようです)
昨日、貴族院の事務局が中国とのアヘン貿易に関する書類を発表した。1842年から去年1月までの書類である。H.ポッティンジャー卿[6-4-1の1857年2月12日に掲載された投書参照]の意見によれば、中国政府がアヘン禁止を実施する力がないので、アヘン貿易に関してイギリスが出来ることはなかったし、今後も何もできないだろうという。中国人はアヘンを欲しがっているし、中国役人の多くはアヘンが入ってくるのを黙認している。イギリス政府がインドでの生産を禁止しても、唯一の効果はインド産業の支店を自治王子たちの領地に移すことだけだ。 ジョン・ボーリング卿によると、アメリカの主要商社の多くがアヘン貿易を主に手がけていることは有名だ。アヘン貿易に関する限り、イギリス商人とその他の国の商人との違いはない。悪と犯罪の量がどうであれ、全商業界が等しく参加している。 イギリス全権大使とポッティンジャー卿は、中国政府がアヘン貿易を合法化するよう勧めている。
カール・マルクスは、英印政府が中国へのアヘン貿易で得ている収入額が国家の全収入の1/6にも上ることが第二次アヘン戦争の前提にあると指摘しています。これが「キリスト教と文明[の嘘]を煽り広める英国政府の自己矛盾」だと批判します。自由貿易というのは21世紀現在の欧米列強のキャッチフレーズですが、この時代も「英国の自由貿易の性質をよく検討すると、『自由貿易』の底には独占がいたる所にある」(マルクスの記事「自由貿易と独占」『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1858年9月25日、)という批判がされています。 本節の最初に掲載した『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員による挿絵「北京号からアヘンを荷揚げ」を見た時は、アヘン密輸を非難する意図があるのかと思い期待しましたが、記事の文脈からアヘン密輸は正当な利権であり、当然すぎて弁明すら必要ないという思いが読み取れました。以下はこの特派員による挿絵の解説です。
スケッチ「北京号からアヘンを荷揚げ」では中国人人夫がアヘンの梱を懸命に荷揚げする様子を描いた。左端の帽子の役人は梱の数を記録し、セポイ[インド人傭兵]は石板にその数を書いている。船が出るとき、絹の梱が運び込まれる。(香港発、1857年5月12日、1857年7月11日号, p.28)
『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員報道

『イラステレイテッド・ロンドン・ニュース』1857年7月18日 1857年7月からの『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』報道の特徴的な部分を抄訳します。
1857年7月4日: p.19「中国」
5月10日のOverland Mailによる中国からの最新情報。中国問題に関して母国[イギリス]政府が直面した反対のニュースは香港の[イギリス人]コミュニティに大きな暗雲を投げかけた。しかし、その後の情報で、中国におけるイギリスの利権を守るために取られた即座のエネルギッシュな手段は中国のイギリス・コミュニティを完全に安心させ、彼の国[中国]と我々の関係がようやく適切で確固たる基盤に置かれたという自信に満ちた希望を与えた。 カントンでは極度な悲惨が続いており、コメは非常に高い。カントン川のイギリス船を爆破する試みが数回あり、(中略)1回は成功するところだった。船の15ヤードのところで爆破があったが、幸いけが人はいなかった。(中略)暑さのため、イギリス軍による作戦は10月まで行われない。
以下の記事は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員記者兼アーティストからの報告です。「中国でのスケッチ」と題した挿絵は、中国でスケッチする自画像のようです。
1857年7月11日:p.27-30「中国への途上で(本紙の特派員記者兼アーティスト)」
香港発、1857年5月12日 ほとんどのイギリス人は今まで中国人が酷い国民だとみなしてきた。私たちは村々を回ったが、現地人からは注目と喜ばせたいという彼らの思い以外に出会ったことはない。(中略)
1857年7月18日:p.50「中国」
5月25日付China Mailより。[カントン川での戦闘準備について記した後] [カントン]市内では飢餓が続き、憂慮すべきレベルに達している。貴族階級はこことマカオに代理人を配置しており、スープ・キッチンに提供するためのコメを購入している。スープ・キッチンは被災者救済のためにカントン市内の色々な所に開かれている。
1857年7月18日:第2増補版, pp.73-74.
「中国より(本紙の特派員記者兼アーティスト)」 中国人は外国人嫌いでは決してない。これは偏見を持たない人や、中国に10〜12年暮らしたイギリス人から聞いた。彼らは内陸部や海岸部の現地人の中で暮らした人々で、中国について最も信頼できる事実を話す資格のある人々である。その上、彼らはカントンで商館を焼かれたのだから、中国人に対して苦々しい思いを抱いてもいい人々だ。彼らが言うには、中国人は好戦的な人々ではなく、本質的に貿易と商売をする国民で、自分たちを支配する国、むしろ、悪政で彼らを苦しめる国に対して特別な愛情を持っておらず、彼らの思いを占めているのはビジネスで、彼らほど勤勉な国民を探すのは難しいだろう。 ジョン・チャイナマンを軽蔑すべきではない。いい政府のもとで、貿易が奨励されれば、ジョンは類のない忍耐心では、世界で最良の国民になるだろう。ヨーロッパがジョンをよく知れば、驚嘆するだろう。 中国人は我々[イギリス]がカントンを取ったことに全く反感を持っていない。現在香港はカントンの店主であふれている。彼らはここに来て暮らせることを喜んでいる。彼らはイギリスの植民者のうちでも、まともな人間と非常に親しくなっている。これは信頼していい。もし中国人が本当に反抗的だったら、ヨーロッパ人全員が大昔に殺されていただろう。 [カントン]砲撃は10分毎に砲弾1個をカントン市内ではなく、町を超えた地点めがけて発射され、町は無傷だった。
「カントン」(特派員より) カントンの商業基地としての重要性を過小評価した『タイムズ』は明らかに間違っている。「商人たちが望んでいるのは、失った財産の賠償金を得ることで、自分たちの会社を上海か別の自由港に移す事だ」と書いたが、正当性はないと思う。(中略) ここでの一般的意見は、最初にすべきだったのはカントンを取ることだった。この人々[中国人]に教えてやらなければならないのは、我々を責めるのではなく、我々を尊敬することであり、彼らが我々の軍事力に抗っても全く勝ち目はないことである。さもなければ、彼らが現在固く信じているのは、自分たちが武力でも芸術でも我々より優れているから、先の戦争で彼らが自慢していたように、自分たちが立ち上がれば、野蛮人[イギリス人]を絶滅できると信じ込んでいることだ。(中略)言葉と攻撃が必要だが、攻撃がまず先だ。
訳者コメント:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員報告は、一見人種偏見がないかのような書き始め方ですが、イギリス利権確保のために抵抗する中国を従わせるには攻撃ありきだと主張する内容に、人種偏見と欧米優越主義の根深さを感じます。カントン攻撃の正当性を訴える表現も、グラッドストンが議会で引用した海軍将校の報告と全く違います(
6-3-2参照)。 この後も毎号「中国における戦争」という題名の記事で、カントン川における攻撃作戦について「この勇敢な作戦行動」(1857年8月8日)、「中国の川で我が戦艦が素晴らしい列をなして進む」(8月29日)など、軍事的弱者の中国を攻撃するイギリス海軍に陶酔しきっているような表現が続きます。「中国」と題された記事の間に、日本に関する内容が記されているのは不気味です。読者は、日本が中国のように不平等条約に抵抗したら攻撃するという含みを読み取るでしょう。
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1857年の英米メディアには、中国に対する戦争を煽る記事と、アメリカの参戦拒否に関する記事が掲載されます。 The Late Engagement with Chinese Junks in Fatsham Creek(佛山水道で中国ジャンクとの最近の戦闘)

左よりWar Junks, Mounting Twelve to Fourteen Guns(戦争ジャンク、12-14の銃を装備)、Snake Boats(スネーク・ボート)、A Small Creek—Sampans(サンパン船)、Mandarin Town of Toung Konan(役人町)、Fort(砦)、Point Dividing the Creeks(支流の分岐点)出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月29日
フランス他ヨーロッパ列強の参戦
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』掲載のイギリス・メディア記事の紹介です。
1857年5月2日: 第2面「中国皇帝から引き出すべき譲歩/中国の防衛準備/合衆国が対中国同盟への参加拒否」(『ロンドン・スタンダード』パリ特派員より、)
イギリスの更なる中国作戦にフランス政府が協力することは最も元気付けられる。カトリック協会がフランス皇帝[ナポレオン3世]に、中国にいる多くの宣教師を保護するために、戦争に積極的に参加することを訴えた。 エルギン卿は北京内閣に条約の更新を要求すると言われている。商業に関しては、5港の代わりに、9港をヨーロッパに開港すること;外交使節団をロシアと同じ条件で北京に常駐させること;攻撃と防衛に関して、イギリス政府は領事がいる場所全てに軍の駐屯地を設立し、軍艦がどこの港にも入港する権利を要求すると言われている。 エルギン卿はイギリス政府から全権限を委任され、戦争の機会の決定権も、いつ戦争を始めるかの権限も持つ。
「ポルトガルが中国に遠征隊」(『ロンドン・タイムズ』のパリ特派員より, p.2)
リスボンからの私信によると、ポルトガル政府は中国の事件に関して、王国の港[マカオ]に遠征隊を送る準備をしており、マカオ駐屯地の人員をポルトガル軍の最強の部隊から選んで4,000人に増強する。
アメリカの参戦拒否
「合衆国と中国におけるイギリスの紛争」(『マンチェスター・ガーディアン』より, p.2)
イギリスがカントン人と[葉]帝国長官に道理を悟らせるため、外国住民、外国商人と中国人住民、中国人役人との関係を満足いく条件にする努力に、アメリカ政府が協力を拒否した。もしこれが本当なら、ブキャナン大統領政権は深く後悔することになるだろう。 世界最強の3国家がカントンに集結して、最近ここで犯されている暴虐の弾圧に一致団結して強硬な方法で当たること(中略)を中国政府が見たら、頑固な中国帝国もこの3国に耐えることはできないとわかるだろう。
中国の防衛準備
「中国の防衛準備」(Moniteur de la Flotte[パリの雑誌]より, p.2)
中国は現在、強力な防衛準備をしている。カントン攻撃以来、黄海に流れこみ、北京に通じる海河の22箇所に航行を妨げるための石のダムを作る巨大工事を行なっている。 中国人は生まれつき悪意に満ちており、その邪悪さは狂信性によって増幅され、筆舌に尽くしがたい。彼らを征服する方法は一つだけ、武力の示威や海軍の大規模な実演によって彼らを恐怖におとしいれることである。それはイギリス政府によって達成されようとしている。
戦争を煽るイギリス・メディア
1857年5月16日:第1面「中国戦争/暴動と虐殺/合衆国と中国/イギリスの中国攻撃」
「イギリスの中国攻撃」(Paris Paysより):第2面
イギリス軍遠征隊の規模は15,000部隊から20,000部隊に増強され、連隊を最強のまま維持する方針だ。中国が協定を拒否したら、この戦争は1回の戦役では終わらないと考えられている。 イギリスはフォルモサ[台湾]島の占領を始めるつもりだという。フォルモサは17世紀後半に激しい戦闘の舞台になり、1683年についに中国帝国に併合されたので、中国の宮廷はこの島の占有を特別に重要視している。
「ロンドン・タイムズ」より, p.2
事態は危機に達した。この不誠実な人種を罰するには、我が帝国の全軍事力を使うしかない。我々は現状を「小さな戦争」と捉えるべきではない。我々はアジアの半分に分布している3億人と戦っているのだ。 ペルシャとの和平が達成するようなので(中略)、[和平条約の]批准が終わったらすぐに、この戦力を中国に向かわせる。 インドの反乱については、かなり不安な状況だが、一番反抗的な連隊が流血なしに解散させられたというので、やがて終わるだろう。 ペルシャの戦争が終わり、インドが静穏になり、ヨーロッパが平和状態で、我々の兵器庫と港が戦争関連店舗と軍船でいっぱいに詰まっている今、中国戦争を迅速に成功裡に成し遂げる準備は万端だ。しかし、我々のアジアの帝国の繁栄と、存在さえもが深刻な絶滅寸前になるのを見るのでなければ、司令官たちの気力と母国からの支援が必要である。
訳者コメント: 最後の文章は意味不明ですが、深読みすれば、イギリスが戦争を仕掛けて占領しなければ、中国は自滅するとでもいうのでしょうか。アメリカ人読者がこの記事を読んでいる頃、下田でハリスが日本人について、「奸智と狡猾と虚偽」「あらゆる詐欺、瞞着、虚言、そして暴力さえもが、彼らの目には正当なのである」(1857年5月14日、)と日記に書いていたことを思い出します。
参戦拒否のアメリカを批判するイギリス・メディア
「中国との戦争における合衆国の態度」(『ロンドン・ポスト』より, p.2)
ネイピア卿(Francis Napier: 1819-1898)を通して、英国政府が中国における戦争遂行に合衆国の協力を求めた。 同時に合衆国から必要とされているのは精神的支えだけで、「戦闘は全てイギリスとフランスでする」と知らせた。この提案に対し、カス長官[Lewis Cass: 1782-1866,アメリカ国務長官]は決定的拒否だったと伝えられている。 2隻の蒸気フリゲート艦を含む艦隊がアメリカの道義力外交を支援するために中国近海へ向かうよう指令された。(中略)戦闘の舞台でアメリカ艦隊の存在がどんな効果をもたらすのだろうか? 激しい血なまぐさい戦争の最中に交渉するというのは、賢明な人間ならまともに考えもしない。凶悪で卑怯な中国人に厳しい復讐と適切な罰を与えるまでは、外交の出番はない。 この孤立政策というのは、利己的で、偉大で開明的な国民にふさわしくないように見えることを告白せねばならない。しかし、合衆国政府がグラッドストンやコブデンの中国紛争に関する見解(6-3-1, 6-3-2参照)を採用したり、彼らの見解を元に行動したりしたのではないようなので、満足である。 もし、この2人の紳士の論が正当だったら、もし、ジョン・ボーリング卿がとった方法が国際法に違反しているなら、合衆国政府はアメリカ商館の破壊に対する賠償を要求することが義務付けられている。これは不法に起こされた戦争によって起こった正当な報復の一つだということになるからだ。 アメリカの排他性にもかかわらず、
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イギリス議会下院でカントンへの攻撃を非難する決議が可決され、パーマーストン政権が解散総選挙にします。その経緯を英米のメディアがどう報道しているか検証します。
アメリカ特派員のイギリス批判
1857年3月25日:第1面「解散は5月に行われる/イギリス政府の対中国政策の未来/中国からの重要なニュース」
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員:ロンドン(1857年3月6日)
ここの事態は非常に驚くべき状態である。糾弾された首相は敗北に反抗して、議会が非難した政策を続けると主張した。4晩も続いた活発な討論の後、満場の議会で16票のマジョリティによって、中国における不法の、人倫に背く、愚劣な、完全に弁明の余地のない、不当な戦争を続けると大臣たちは宣言されたのだ。議会の早期段階では辞任が自然でふさわしく、そうすれば、女王が他のアドバイザー、つまり大臣たちを選ぶことができるのに、ザ・ミニスター[原文は唯一の意味のtheを斜体で強調:the Minister]、ここでは大臣は実際は一人だけだ。彼はこの投票を笑い飛ばし、解散を宣言した。 この大臣[首相の意味で皮肉に使っている]は(中略)蒸気戦艦と様々な種類の船を現場に向かわせ、激しく活動すると言った。野党の中心メンバー、コブデン、グラッドストンその他は質問を繰り返し、説明を求めた。それでもパーマーストンは沈黙のままだったが、中国にいるイギリス人の生命は守られること、主要な目的遂行のためのエネルギーと警戒は緩めないことを部下に言わせた。
アメリカ人特派員の記事はこの後延々と続き、イギリスの奇妙さ、パーマーストンのメディア操作の巧みさについて述べています。
カントン攻撃の是非を問うイギリス総選挙
この時のイギリス総選挙の報道と同列でイギリス軍艦が長崎港入港を幕府の抗議を無視して強行したことが報じられていますが、ここでは見出しだけで内容は省略します。
1857年4月10日:第1面「イギリス総選挙はパーマーストン卿支持/日本の長崎港に強行入港/イギリスを調停すべき」1857年4月13日:第1面「中国皇帝の降伏/日本の港へのイギリス船2隻の強行入港」 イギリス戦艦の長崎入港に関するニュースは4月10日の内容に情報が追加されています。
1857年4月16日:第1面「英国の選挙/野党の敗北/パーマーストン卿が中国の事件についてスピーチ」
英国の選挙は、現在時点で、パーマーストン卿の疑いのない勝利の様相を呈している。 ロンドンの『タイムズ』はリチャード・コブデン[6-2-1参照]の敗北について述べるに寛大であるが、以下で『タイムズ』が述べている以上に寛大ではない。 [『タイムズ』から] 彼[コブデン]は欠けたレンガにように廃棄することができない男である。(中略)我々は過去10年間、この2人の紳士[コブデンとジョン・ブライト]の公人生活の全てについて、ほぼ全部反対してきたが、今、下院の名簿にジョン・ブライト(John Bright: 1811-1889)とリチャード・コブデンの名前が削除されているのを見て、我々は深く遺憾に思うと正直に言わなければならない。 パーマーストン卿は自分の成功だけでなく、彼の反対者が敗北したことでも、非常に幸運だった。「マンチェスター党」と一般に知られている、コブデン・ブライト、その他全員が大敗北した。この人々が中国問題で政府を少数派に追いやったのであり、そのために議会の解散が起こったのである。 パーマーストンの不信任投票で、コブデンを支持したグラッドストン氏はオックスフォード大学の不寛容を代表して、多少の困難はあったが、再選を果たした。(中略)グラッドストン氏は48歳、オックスフォードの2科目最優秀学位(double first class)を得て、偉大な政治家となることが期待されており、雄弁な政治家である。
パーマーストンによる中国攻撃正当化
「パーマーストン卿が中国の事件についてスピーチ」
3月28日にパーマーストンが行なったスピーチを抄訳します。
[戦闘]行為の舞台が非常に遠く離れている所であったこと、戦闘の限られた性格が非常にうまくいっていることが、外国に強い印象を与え、英国民の愛国心をさらに強く示したことは最高に満足を感じている。 これは、諸君の代表を侵害しても、罰されることも、抵抗もないと思っているかもしれない他の国々[日本を含む?]との関係に関して、最高の結果をもたらすだろう。なぜなら、1国にとって、その権利を油断なく監視していると示すのは立派な政策なのである。 これらの役人[ボーリング、パークス]が最初の兆しを止めるために時宜にかなった措置を取ったから、戦争好きだと言うのは全く間違っている。彼らは平和の守護者としてベストな人々だ。なぜなら、事件が知らされ、事件が進行した時に初めて、我々の代表者たちは[権利の]侵害を防ぐために監視し、そうすることで初めて、権利の侵害を止め、侮辱がなくなると期待できるのである。(Cheers) 能力の限りを尽くして義務を果たし、その行為を我々が胸中で承認した我らの代理人[ボーリング]を見捨てた下院の決議を覆すために、2,3票必要だ。英国の心を持つ全イギリス人なら、似たような状況で全く同じことをしただろう。(Cheers) ジョン・ボーリング卿は現在の役割を今後も果たし続け、彼は英国政府に信頼されている。
イギリス・メディアの2種類の論調
「パーマーストン卿の勝利と野党の圧倒的敗北」『ロンドン・タイムズ』4月1日より
英国貿易を行なっている平和な船に掲げられている英国旗を引き摺り下ろし、海賊の父親だと言われている老人を斬首する[パーマーストンの議会演説:6-3-3参照]目的で乗組員を逮捕する葉のようなやつの権利を、国民が立ち上がって擁護すると期待することに道理があるだろうか? 政治家だと公言している者がこのような訴えを首相に対して強要するなどとは、我々には愚の骨頂に思える。しかし、彼[パーマーストン]は国民を代表して、それを受け入れざるを得なかったが、その結果について、我々同様、彼は自信があった。この訴えがなされたことに我々は満足している。この満足感は日毎に増して、今や、政治的違いや法案によってではなく、単に国民の自然な感情と常識に対する訴えによって議会が選ばれたことで、イギリスは祝福されるべきである。
「反対の見解」『ロンドン・スター』4月1日より
彼[首相]の目的が最も明確に示されたのは、葉長官と中国人に対する激しい暴言という、ビリングスゲート[Billingsgate:口汚い暴言]そのものを、ひっきりなしに繰り返したことに表れている。この国の目をたった一つの目的に釘付けにするためだった。その間、彼は狡猾な手品で、有権者が気づかないうちに、彼らの票をちょろまかしてしまったのだ。
訳者コメント:この選挙結果について確認しておくべきは、当時の選挙権には女性は含まれていないこと、「年価値10ポンド以上の家屋、事務所、店舗などの所有者又は借家人」を含む、都市中流階級中層部まで選挙権が広がった」時代だという点です。つまり、中国での貿易、特にアヘン密輸にかかわっている商人が多く含まれている可能性があるということです。 『タイムズ』がパーマーストン首相のスピーチを引用して、中国当局が「海賊の父親だと言われている老人を斬首する」と、ファクト・チェックもせずに、首相の言葉を引用報道している点は、安倍首相とNHKの関係に似ていると思わされます。この後の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』では激化する中国関連のニュースが続き、2月14日香港発の特派員からの報道はイギリスの中国攻撃に批判的です。1857年4月17日:第1面「中国皇帝が戦争に反対」1857年4月22日:第1面「中国戦争/香港在住の外国人の不安/毒殺の企て/英国の増援艦隊/作戦計画/アメリカ艦隊の動き/海賊を追跡/ジャンクとの戦闘」(香港、1857年2月14日) 『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員がアメリカ戦艦サン・ジャシント号に乗船して、中国での英米戦艦の動きを報道しています。イギリス海軍の戦闘に批判的な視点も垣間見えますので、重要と思われる点を抄訳します。
イギリスはほぼ毎日、中国での軍隊を増強している。「中国との2回目の戦争」の開始以来、毎週インドのセポイ部隊が到着し、ここで行う戦闘には非常に効果的な男たちである。[インド兵だから中国人と戦わせるには効果があるという意味か?] 現在、中国の海にいるイギリス戦艦は23隻、1,232部隊が香港にいる。 増援隊が着いてからのイギリスの作戦は、フォルモサ[台湾]島を保持し、カントンを破壊し、大隊で北京へ行軍して、新たな条約を要求することだ。その条約の趣旨はイギリス人の性格を知っている者なら簡単に推測できる。我々はここ[香港]で、イギリスの影響という素晴らしい切り札で、英国人の卑劣な行為をするよう招集をかけられるまで待機しているのだ。「国際礼譲」(”Comitas inter gentes”)というやつだ。
1857年4月23日:第1面「中国皇帝戦争遂行を決意」1857年4月27日:第1面「ジョン・ボーリング卿、中国の野蛮性を語る」(香港 1857年2月24日)
友人宛の書簡が新聞に掲載されたようです。毒入りパンを食べて中毒で苦しんだ状況を伝えた後、これが中国式戦争だと言って、まるで中国政府の仕業と言わんばかりのデマ(パークス領事が中国政府の関与を否定、
6-3-3参照)を広めています。
このような形式の戦争は対応するのが難しいですが、一般人の同情と憤りを煽ると確信しています。 我々の家に火をつけたり、我々を誘拐したり、殺したりする者に高額の報奨金が役人によって払われます。全ての国(中国人の憎しみは無差別だからだ)の不運な犠牲者は捕らえられ、斬首され、彼らの首はカントンの塀に晒されました。暗殺者たちには高額な報酬が与えられました。彼らはキリスト教徒の墓を暴いて、頭蓋骨を公衆の目に晒すことさえしました。これら全ては十分に恐ろしいことですが、その結果は最も有益なものになるのは疑いありません。我々は過去の出来事の賠償金を取り立て、将来の安全の保証も手に入れるからです。 政府と議会と世論がこの大きな戦いにおいて我々の味方であることを疑っていません。我が国と人類の真の永久の利益のために私の命が永らえることを祈っています。
訳者コメント:戦争を仕掛けた現地の英国政府代表が、抵抗する中国市民の報復を中国政府の戦争方法だとみなして、犠牲になった[真偽のほどはわかりません]イギリス人さえ賠償金の理由になる、それが自分の手柄だ、人類の利益に貢献していると豪語する心理になるのが、グラッドストンが警告した野生の欲望(6-3-2参照)に目が眩むということでしょうか。メディアの見出しに、日本に関しても「強制する」(force to)という語が盛んに使われるのも、弱者を征服することが文明の証という心理が働いているように感じます。
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イギリスによるカントン攻撃について、当時のメディアがどう報道していたか、好戦的なパーマーストン政権が解散総選挙で圧勝したこととメディアとの関係を見ていきます。
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』に掲載された中国関係の記事
1857年前半の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はアーカイブにも、デジタル・ライブラリー(米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー)にも掲載されていませんが、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(『ニューヨーク・タイムズ』の前身)でロンドンの『タイムズ』その他の新聞がどう報道したのかを紹介しています。
1857年1月26日:第3面
『ロンドン・タイムズ』(1月8日):「中国は[武力で]文明国にさせるべき」(China to be forced into Civilization) カントンにおける軍事行動は両サイドによる計画的な戦闘である。カントン長官が最初に平和を破り、その後賠償を拒否した。イギリス海軍大将は敵対行為に進んだ。イギリス人の虐殺への報酬だ。それに対して葉は商館の破壊で対応した。そしてイギリス船の焼損を企てた。従って、我々は実際に中国と戦争状態にある。我々は賠償を要求しているが、今のところ賠償は支払われていない。それどころか、我々の居住区と船舶は当局によって攻撃された。これに対する十分な賠償が支払われなければならないことは言うまでもない。さらに、我々の名誉と利権が我々と中国との関係を新たな立ち位置に置くことを求めているのは疑うことができない。中国を強制的に文明国との完全な対話に持ちこまなければならない[原文は強調のゴシック体]。そして、中国を鎖国から引き摺り出す(dragging her from seclusion)役割は英国人がやるのがベストである。従って、人間性と文明のために、我々はこの問題をこのままにしておくべきではない。 我々は中国を征服することを望んでいない。数千年の麻痺状態から新たな生活に目覚めたこの巨大な帝国を改造する中心者はイギリスの影響力と冒険心(enterprise)であることを否定するのは誠実ではないだろう。そこで、我々が即刻準備しなければならないのは、この広大な領土の全地域で自由貿易とコミュニケーションを求める文明国家の権利を強要することと、我々の立場を主張することである。このような国を、まるでヨーロッパの開化国家のように扱うのは無意味だ。イギリス当局は何を要求するつもりなのか、その保証として何を取るつもりなのかについて、決断すべきだ。
訳者コメント:カントン攻撃の第一報を伝えた『ロンドン・タイムズ』(1856年12月30日,
6-1参照)が、150万の都市の攻撃によって膨大な人命が失われた可能性に言及し、攻撃が避けられなかったのかという疑問を呈した論調とあまりに違うので、最初の記者が左遷されたのかと思ってしまいます。「カントンにおける軍事行動は両サイドによる計画的な戦闘である」と断定する『タイムズ』が読者をミスリードしていることは、イギリス議会上院・下院での議論から明らかになります(6-2-1〜6-3-3参照)。 『タイムズ』の論調を見ると、安倍政権と日本のテレビ・メディアの関係のようなものが、パーマーストン政権と『タイムズ』に生じたのかと思わされます。当時の心あるジャーナリストやマルクスが政権とメディアの関係について指摘していることを後に紹介します。
1857年2月2日:第2面
『ホンコン・チャイナ・メイル』(1856年11月24日):「アメリカによるバリア砦の占領」最も奮起する出来事は、アメリカ軍艦のボートを中国帝国が攻撃し、それに対して大成功の罰が彼らに与えられたことだ。バリア砦が完全に破壊されたので、アメリカ軍とフランス軍はこの戦闘から退却するつもりだと報道されている。[この後に、カントン攻撃の詳細、葉長官の対応について長い記事が続きます]。
1857年2月7日:第1面「カントンは破壊されるべき—中国戦争をロシアはどう見ているか」
カントン市[の破壊]はもはや免れないと言われ、ロケットと砲弾の発砲が始まった。
1857年2月12日:第3面『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』への投書(2月6日)
投書者:アンドリュー・ハッパー(Andrew P. Happer)
「現在の紛争の歴史—その目的、終戦の可能性」 カントンにおける外国人[欧米人]に対する偏見と差別は、この国のどこより強いということが問題の根本にあるかもしれない。アヘン戦争終結時に、英国と中国が交わした条約ではイギリス領事と商人は、カントン・アモイ・福州・寧波・上海に住んでよいと規定されている。(中略)しかしカントン当局と市民は条約が調印された時から、外国人役人と商人を市内から排除する意思を明らかにし続けている。 1842年8月20日、南京で条約が署名された直後に、英国長官ヘンリー・ポッティンジャー(Henry Pottinger: 1789-1856)がリベラルで開明的な政治家Keying[Qiying耆英きえい:1787-1858]にカントン市内の邸宅での饗応に招待された。Keyingはタタール族で、カントン人の外国人排斥の偏見は全くない。ヘンリー卿は招待を受け入れたが、それが市民に知られるやいなや、市内での饗応に対する反対が起こった。この結果Keiyingはヘンリー卿に手紙で状況を説明し、市外での饗応の招待を受けてくれるよう依頼した。ヘンリー卿ほどの東洋通なら、この招待を受け入れたら前例となるからと、招待場所の変更を拒否すべきだった。しかし、市外での饗応の招待は受け入れられた。中国はヘンリー卿の例から、イギリスが問題を諦めたと主張するが、イギリスは[カントン]市と自由で制限なしの交流の権利を引っ込めたわけではない。そして、この要求が拒否された時、ヘンリー卿の後任、ジョン・デイヴィス卿(John Davis: 1795-1890)が強圧的方法で、この権利を中国に認めさせた。条約が調印された後も、2島を保持し続けた。この島は中国がアヘンを没収したことによる賠償金と戦争経費2,100万ドルを取り立てる保証としてイギリスが保持している。ジョン卿はカントン入市の要求が認められなければ、島は引き渡さないと言った。この結果、先の中国皇帝によって、市民が受け入れる準備ができたら、入市の権利が認められると約束された。しかし、この約束の不明瞭な表現が新たな紛争を引き起こした。市民の準備ができたと誰が判断するのか? 1848年から1849年にかけてのヨーロッパの状況のせいで、イギリス政府はジョージ・ボーナム卿(当時の香港総督、本サイト6-2-1参照)に指示を出し、条約履行は平和的方法[原文の強調はゴシック]で行い、決して武力を使わないこととした。この指示は中国提督にも知られた。(中略)現在の提督はこの時の提督と同じである。先の中国皇帝は提督がイギリス人を市内に入れないことで、提督に特別敬称を与えた。皇帝はイギリスに対するこの勝利を記念するために、市周辺に6本の凱旋アーチを建設するよう命じた。 [カントン]入市の問題はこの後二度と再開されなかった。彼らが考える勝利で、中国人の傲慢さが肥大する一方、イギリスは将来の調停の機会を待った。[中略:長々とアロー号事件をパークス・ボーリングの主張に沿って解説し、アメリカ軍の砦の攻撃も正当化する解説を展開しています] イギリス政府がこのように中国との戦争におとしいれられたので、ロンドン・タイムズは2国間の交渉が満足いくものになるよう政府が主張すべきだと強調している。カントン市内での自由な交流だけでなく、大臣が中国帝国の首都、北京に住むことが認められるよう要求すべきだという。現在、外国の代表はカントンの長官公邸でしか公式交流が認められていない。この主張は非常に重要で、条約締結国の3列強が共同で要求すれば、永久平和と人類にとって大きな促進力になるだろう。
訳者コメント:この投書者アンドリュー・ハッパーは同姓同名の別人でなければ、1884年から1891年まで中国で宣教活動をしたアメリカ人宣教師、Andrew P. Happer(1818-1894)で、カントン・クリスチャン大学を設立し、初代学長だった人物です。キリスト教の伝道者が中国に対する戦争を正当化し、抵抗する中国を傲慢だと批判し、武力で開国させることが人類のためになるとアメリカ人に主張するのは、この時期に日本でハリスが同じ調子で幕府相手に条約を強要していたことを考えると、イギリスだけでなく、アメリカも幕府が抵抗すれば、砲撃する用意があったことがわかります。
イギリス議会下院のコブデンの反戦動議スピーチの報道
1857年3月16日:第1面「下院で中国戦争について討論」
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員はコブデンのスピーチ(
6-3-1参照)をかなり長く紹介しており、賛同の”Hear! hear!”や”Cheers”(喝采)も挿入されているので、好意的に聞いた様子が伝わってきます。そのいくつかを訳します。
上院でダービー伯爵が雄弁に論じた以上の強く正しい指摘はできない。それは片方[中国]が礼儀正しく忍耐強く対応するのに、もう片方[イギリス]は傲慢で失礼千万だという評価である。[Hear! hear!] イギリス国旗を買うことが、イギリス船であるという証明ではない。[喝采] イギリスがカントン入市の口実を作ろうと前もって決めていたのは明らかだ。[Hear! hear!] 我らの役人[ボーリングとパークス]は、我が国の法律家が正当化できないような、世界が「恥を知れ」と叫ぶような、口実に飛びついたのだ。[喝采] ジョン・デイヴィス卿がカントンの暴動の後、1846年11月12日にパーマーストン卿宛の手紙で、中国人より我が国の国民の方がずっと対応が難しいと書いている。イギリス人商人たちのせいで生じた損害の賠償$16,000を[中国に]払わせるより、コンプトン氏に$200払わせる方がずっと難しかった。[喝采] 彼[コブデン]は、外国政府と条約を締結している状態で、現地にいる政府代表が宣戦布告したことを本議会は正当化し、承認するのかと尋ねた。[喝采]
訳者コメント:コブデンのスピーチの中で、1846年のカントン暴動とコンプトン氏に賠償金を払わせる困難さについて述べたと報道されているので調べたところ、カントン在住のイギリス人Charles Spencer Comptonが中国人に暴力を度々ふるい、中国人との暴動に発展して、複数の中国人が射殺され、負傷者も出たとされています。その裁判記録と領事館と当該イギリス人(複数)との文書のやり取りが25ページにわたって記録され、それが173年後の現在、米国大学図書館協同デジタルアーカイブ[ref]
The Chinese Repository, Vol.15, 1846, pp.540-565.
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“A Lesson to John Chinaman”(ジョン・チャイナマンへの教訓),
Punch, 9 May 1857.Scanned image and text by Philip V. Allingham,
The Victorian Web.
パーマーストン首相の反論
の『パンチ』の戯画で、Chinamanがぶら下げているプラカードの文言は”The Destroyer of Women and Children”(女子どもの破壊者)と記され、教師としていじめているのはパーマーストン首相です。カントン攻撃によってカントン市民を殺戮したのはイギリスなのに、その罪を中国人役人に着せて、中国をいじめるパーマーストン首相を風刺しているとも読めます。一方で、中国人役人が同国人に対して残酷だと主張するパーマーストン政権と、政権を支持するメディアがその論を報道していたので、『パンチ』の戯画もこの論を取り上げたのでしょうか。いずれにしろ、議会での議論を知らない読者には、女子どもを殺戮したのは中国人役人で、その中国に文明を教える首相と読めて、カントン攻撃を正当化するメディアの側面が見えます。 パーマーストンは初の首相就任が70過ぎという点で、史上初の首相とされ、メディアに人気があった点でもユニークだとされています。メディアは彼の「男らしい」外交手腕を好み、特に中国に対する高圧的な態度を好んだと評価されています。 下院の中国問題議論の4日目、最終日(1857年3月3日、)に、グラッドストンの後にパーマーストン首相が立ち上がり、グラッドストンと同じぐらいの長演説をしますが、彼の議論から戯画の意味が読み取れます。 パーマーストンは最初から動議を提出したコブデンの人格攻撃を長々とします。開口一番、「the Honourable Gentleman[コブデン]はアリストテレス時代前の中国の論理学についてお話しになったが、もし彼が中国の論理学かアリストテレス時代の論理学を勉強したなら、彼が提出した動議文を書くようなことはなかっただろう」と皮肉たっぷりに始めます。次に、コブデンが香港提督ジョン・ボーリングは友人だが彼の行為は糾弾されるべきだと言ったことを取り上げ、友人の過ちを大目に見るのが友情だと、延々とコブデンの人格攻撃を続け、次はカントンの葉長官の人格攻撃です。パーマーストンの発言中で彼と彼を支持する人々の特徴が見られる箇所を抄訳します。
この葉というのはどんな人物か? 国家を汚した最も残酷な野蛮人の一人である。人間性の品位を貶め、堕落させるあらゆる犯罪を犯した。これら二人の男[ジョン・ボーリングと葉]のコンテストにおいて、英国の代表にでなく、この野蛮人がえこひいきされたのは、あまりに異常だ。 私はウェスト・ライディング地区選出議員[コブデン]のスピーチの趣旨と調子を大きな痛みをもって聞いたことを告白しなければならない。なぜなら、スピーチ全体に反英感情が充満していたからだ。自分の国と国民とを結びつける絆全てを拒絶する言葉が下院議員の口から出るとは予想もしていなかった。イギリスの全てが間違いだ、イギリスに攻撃的なもの全ては正しい[と言った]。彼はイギリス商人は傲慢・横柄・粗暴・利己的・貪欲・金稼ぎの男たちの集団で、自分たちの勝手な目的のために、居住地で絶えずこの国を紛争に巻き込むと言った。彼はイギリス政府が弱者をいじめ、強者には腰抜けだと言った。 この船は実際のところ、どの点から見ても、イギリス船として保護される資格があると証明されたと思う。[中国が犯した]悪事に対する謝罪だけでなく、二度としないという保証を要求する権利がある。この船が海上にいたか、川にいたかという情けない区別をこの下院で議論するなど予想もしなかった。
この後、延々とアロー号事件について、中国側がどうやって海賊が乗船していると判断したかを、どこからの情報か示さずに述べます。例えば、川を航行していたアロー号と並走していた中国当局の船から、赤いターバンの男と前歯の欠けた男を見つけ、彼らが海賊だとしてアロー号に乗船した;しかし、どうやって並走している船から見えたのか;乗船してみたら、老人しかおらず、海賊の父親だと思われたので、尋問のために逮捕した;もし海賊が見つからなかったら、中国当局はこの老人を斬首しただろう等々。パーマーストンのスピーチはまだ続きます。
この紛争が起こって葉が最初に行ったのは、イギリス人の首に賞金を出すと公表したことだ。次に彼はこの憎むべき人種を根絶する秘密の方法を用いたと主張する声明を発表した。香港からの最新の情報で、この秘密の方法がいかに実行されたかわかる。シスル号[the Thistle: 郵便蒸気船] 内の残虐な殺人[カントンから香港に航行中、1856年12月30日に、乗客として忍び込んでいた中国兵が11人のヨーロッパ人を殺害した事件]と、香港のヨーロッパ人コミュニティの食事に毒を盛り込んだこと[1857年1月15日]だ。それなのに、本当に驚いたことに、オックスフォード大学選出議員[グラッドストン]は(中略)これらの残虐行為を擁護した。(”No! no!”と議場から叫ぶ声が挿入されていますが、グラッドストンが「違う!」と言ったのでしょうか)いや、そうだ。これは弱者が強者に対抗する自然で必要な手段だと彼は言った。だから、もしある国家が野戦で敵と戦うには弱すぎたら、この人の見解によれば、人類を貶めるような最も下劣で残虐な犯罪に正当性が十分あるということだ。(”No! no!”)(中略)この人の言葉とこの問題の対応の仕方は、彼がこのような恐ろしい犯罪のある種の言い訳をでっち上げていることを示していると言わざるを得ないのは悲しいことだ。(”No! no!”)彼は中国の弱さは野蛮国家でさえ、中国よりもはるかに文明度が低い国でさえ、カフラリア人[現在の南アフリカ共和国の東縁部で、当時イギリス領]とインド人でさえ恐ろしさで縮み上がるような防衛方法に頼ることが正当化できると言っているのだ。(”No! no!”) さて、我々が中国と戦争していると議論されたが、我々は中国と戦争状態ではないと主張したい。最新の出来事までは、この争いは純粋に地域的なものだった。残念ながらカントンの最高地位にある男の野蛮性が引き起こしたことだ。 中国に関する我が国の政策は将来どうあるべきかと聞かれた。これはもちろん、現在の中国との関係がどうなるか次第である。我々の第一の義務は、我々が防衛すると信じて中国に行った英国人が中国各地で蓄積した膨大な資産を守ることだ。 我々は中国を英国の王国にする気はない。イギリスが外国の他の地でしたことから、英中間で自由貿易が確立したら、中国の独立が侵害されると推論する資格は中国には全くない。(中略)我が国の商人がビジネスを立ち上げた国々を、我々が侵略したいという思いを示したことがあるか? 中国と他国との間にもっと大きな貿易関係ができれば、それは中国の人々にとっても大きな利益があることは明らかだ。 南京条約の結果、中国の港が開港した時、イギリスの生産者と商人は3億5000万人、世界全体の1/3に相当する人口に対する貿易ができるという期待が果てしなく膨らんだと言われている。 現在のところ、中国と我が国の貿易では、購入品の支払いのほんの一部が品物で、残りはアヘンと銀で払わなければならない。(中略)もし中国と友好な関係になれば、英国・フランス・アメリカ政府は貿易のためにさらなる開放を手に入れることに成功し、我々3国にとって利益は膨大なものになるだろう。中国自身にも計り知れない利点があるだろう。 昨夜、バッキンガムシャー選出議員(ディズレーリ)は短いがはっきりと、この投票は女王陛下の政府に対する不信任だと考えると言った。この議論のほとんどの点がその結論を示している。なぜなら、在中国の我々の役人たちの行為が残酷で軽率だから、我々は彼らを即刻譴責すべきなのに、そうせず、反対に彼らを支持し、彼らの行為を承認し、彼らが自分たちの能力と責任の限りベストを尽くしたと信じた我々に対するものが今夜の投票だと、オックスフォード大学選出議員[グラッドストン]が言った。 我々がしたいことは何か? 中国に使者を送って、葉が正しかったと言うことか? この議会の緻密な法律家たちが発見したことは、様々な法律上の専門知識に照らして、アロー号は英国法によるとイギリス船ではないと葉に言うことか? 従って、彼がしたことは正しかったと言うのか? そして、イギリス国旗を掲げていると彼がみなす船に対して同じことをしてもいいと言うのか? その結果はどうなるだろうか? 本議会に申し上げる。もしこの動議が賛成されたら、香港とカントンにおける我が国の貿易は、まるで海賊がカントンを乗っ取ったような、不安定なものになる。(中略)それだけではない。葉は勝利の歌を掲げて言うだろう。「臆病なイギリス人は私を恐れている。この野蛮人を全部追い払った。イギリスは偉大な国で、強大な陸軍と海軍を持っていると彼らは言ったが、イギリス人は私を恐れている。我、葉長官は今後彼らに対して何でもできる。私はカントン市の柵を中国人の首ではなく、イギリス人の首で飾ることもできる。私は何でも好きなようにできる。彼らの資産は望む者たちに略奪させよう」。このようなことがカントンだけで済むとお思いか? 我々はカントンだけでなく、他の港にも広大な利権がある。例えば、上海はほぼヨーロッパの町である。
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イギリス議会下院で政府が承認したアロー号事件対応とカントン攻撃に対する賛成、反対の議論が続き、グラッドストンが戦争反対の動議に賛成票を投じてほしいと熱弁をふるいます。院の4日間にわたる議論はA4の印刷ページ数にすると、合計186ページに及びます。上院の動議提出者のダービー卿のスピーチ(
6-2-1参照)は3時間だったと報道されていますので、他の戦争反対論の議員も同様だったと推測できます。議論の4日目、最終日には後に首相になるグラッドストン(William Ewart Gladstone: 1809-1898)がそれまでの議員たちの議論を引用しながら、自分の主張を展開しているので、きちんと聞いていることがわかります。動議に反論する議員の論に特徴的なのは、コブデンが批判したような「野蛮、半野蛮」という差別表現を使い、中国に対して武力で教えるのは正当だという趣旨の偏見に満ちたものが多いことです。 グラッドストンの議論の中で感銘を受けた箇所を抄訳します。グラッドストンはリバプールの裕福な商人の息子として生まれ、この議論の中でも自分は商人の出自だがと断って、議会で商人クラスを代弁するようなことはすべきではないと批判しています。政治の世界に入ったのは1832年で、1843年に保守党政権に入閣しますが、次第にリベラルに変わっていき、1859年に自由党に入党して、1867年に党首となり、翌年、首相となります。グラッドストンは4度首相となり、ヴィクトリア朝時代の中心的政治家とされています。
グラッドストンの議論
我々に対する中国の[守るべき]条約義務について話してきたが、中国に対する我々の[守るべき]条約義務について忘れてはならない。我々はどんな目的で香港を獲得したのか? この点に関する条項を諸君は見たことがあるか? 諸君が[香港を]手に入れた目的は次のように書かれている。「中国皇帝陛下は大英帝国女王に香港島を割譲する。英国国民が必要な時に船を修理する港があるべきで、この島は必要であり、望ましいことは明らかであるからだ」(グラッドストンが引用した条文:”His Majesty the Emperor of China cedes to the Queen of Great Britain the island of Hong Kong, it being obviously necessary and desirable that British subjects should have some port whereat they might careen and refit their ships when required”)。これが香港割譲の目的だった。もし我々がこの条約の精神に従って行動しなければならないとしたら、条約はこの目的のために適用されるのである。(中略)しかし、諸君の中国に対する条約義務はこれだけではない。もう一つある。追加条約の第12条だ。「公正で正常な関税とその他の税が制定された今、これまでイギリスと中国商人の間で行われてきた密輸システム、その多くの場合、中国税関の役人が黙認したり、共謀していたシステムが完全に止むであろう。この件に関して、全英国人商人に対して絶対的な布告がすでに英国全権大使によって発せられた。全権大使は領事たちにも、彼の監督下で貿易に従事する全英国人の行動を厳しく監視し、注意深く調査するよう指示した」(”A fair and regular tariff of duties and other dues having now been established, it is to be hoped that the system of smuggling which has heretofore been carried on between
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君の友達のために今、何が言えるかい、リチャード!

キャプション:「君の友達のために今、何が言えるかい、リチャード!」Scanned image by Philip V. Allingham; text by George P. Landow,
Punch, 2 May 1857.
カントン砲撃についてのイギリス議会での論争:下院
アロー号事件とカントン砲撃について、イギリス議会下院(庶民院)で、リチャード・コブデン(Richard Cobden: 1804-1865)が反戦の動議を提出しますが、上の『パンチ』の戯画はコブデン議員を揶揄しています。このようにメディアは戦争賛成の世論を形成していきます。下院での議論は1857年2月26日に始まり、2月27日・3月2日・3月3日と続いて、激しい議論が展開されます。まず動議を提出したコブデン議員の論点を紹介します。コブデンは貧しい生まれで、サラサ染め工場を始めて、お金を貯めると、29歳から35歳までフランス・ドイツ・スイス・米国・中近東を旅して、政治家になります。
コブデン議員の論点
:上院の議論と重なる内容は除外し、特徴的な論点を抄訳します。
今我々は中国と戦争状態にあり、資産の甚大な破壊と荒廃が起こった。私が尋ねたいのは誰がこの戦争の作者か、そしてなぜこの戦争が始まったかという点である。中国のために尋ねるのではなく、我々自身の名誉を守るために尋ねる。この問題を弱小国ではなく、強国と交渉していると仮定して検討していただきたい。この国には政策を2つの方法で追求する傾向があることを私は屈辱的に思っている。一つは強者に対する方法、もう一つは弱者に対する方法である。これはイギリス人が生まれ持っている性格ではない。時には多少傲慢で高圧的で喧嘩を売るような傾向もあったが、弱者をいじめ、強者に対しては腰抜という性格は一度も持ったことがない。この問題について、中国とではなく、アメリカと交渉すると仮定して検討しよう。我々は中国と条約を結んでおり、この国との国際関係で、我々は完全に対等な立場である。
最近提出された書簡に関して申したいことがある。このブルー・ブック[議会に提出される資料の呼称、]がなぜダービー伯爵がこの問題について話したその日の朝に議員のテーブルの前に置かれたのか、なぜ元首の名前で、「中国における侮辱に関する書簡」という揶揄する題名で提出されたのか? 私の経験からは、このブルー・ブックはあの朝、まさに我々を惑わす目的で置かれたのだと言いたくなる。多くの議員は単純な騙されやすい田舎紳士だから、ブルー・ブックに対して私のように貪欲ではない。彼らはこう言うだろう。「やめてくれ! 中国で我々が被った侮辱について、225ページも書いてある本だ。いい加減、クラレンドン卿がイギリスの権益を守るために仲介するべき時だ。この問題で必要なら戦争に行くのは全く正しい」。私はこの本を全部読んだが、1842年から1856年までの書簡の要領を得ない抜粋だ。暴動や村の紛争など。イギリス人が射撃のために居留地の外に出て、村人に野次られたとか。別のイギリス人が射撃に出かけて、男の子を撃ってしまい、その子が失明したとか。領事がその子に土地を買うための金200ドル与えたとか。これらに「中国における侮辱」という題名がつけられたのである。
リバプールの「東インドと中国協会」の商人たちが中国から何を求めているか、我が国の外務大臣に述べている。「イギリス政府は中国沿岸、航行可能な川の全港を外国貿易のためにいつでも開港し、その港に領事を配置し、我が国の戦艦がこれらの海岸と川を自由に航行する権利を主張すべきだ」。もっと身近なたとえで、お示ししよう。このような文書がモスクワから来て、中国ではなくトルコに対してだと想像してみてほしい。そうすると、こう読める。「ロシア政府はトルコ海岸、航行可能な川のあらゆる港を、いつでも外国貿易のために開港する権利、これらの港に領事を配置する権利、ロシア戦艦がトルコの全ての港と川に自由にアクセスし、航行する権利を主張すべきだ」。もしこのようなのがロシアから届いたら、リバプールで大暴動が起こるであろうことは想像できるはずだ。この紳士たち[リバプールの商人たち]の敵としてではなく、友人として言わなければならないことは、このような言い方は非難されるべきだ。なぜなら、商人階級に同情的な者を非常に不利な立場に置くからで、陸軍と海軍階級に関しても同様である。
あえて言うなら、世界に貿易がこれほど自由な大帝国はない。我々が中国で今享受しているのと同じ低関税の港を、1港でいいからフランス・オーストリア・ロシアに持てたらと願うばかりである。地球上で中国ほど貿易設備が優れている国はない。
リバプールの商人たちは何を望んでいるのか? 他に12港、暴力を使って開港させたら、貿易が増加すると思っているのか。先の戦争で実証済みだ。諸君、覚えているように、1842年の夏、この国には暗雲が垂れ込めていた。中国との条約の報告がこの国に届いた時、とてつもない期待が膨れあがった。ランカシャーの人が帽子を投げて「3億人の帝国で、北の港が自由に使えるようになり、中国人全員が我が社の綿ナイトキャップを買ったら、我が社の全工場は稼働が続けられる」と言った。我が国の輸出はどうなったか? 1842年以降、中国への輸出は全く伸びていないのである。
輸入の方は伸びている。この輸入の大半はアヘンで支払われてきた。我が国のインドに対する輸入も伸びたと言われている。確かに、我が国の商人はインドにロングクロス[白綿布]を輸出し、それをアヘンと交換して、そのアヘンが中国に行き、代償として銀がインドや英国に行く。1842年の戦争が我が国の中国貿易を伸ばしたから、新たな戦争も同じような結果をもたらすと信じるなど、惑わされてはならない。現在、中国で行なっている戦争行為は我が国の貿易を増すどころか、減少させると私は予想している。
諸君[パーマーストン政権]はフランスとアメリカが一緒になって、アロー号事件をもとに共通の[戦争]原因を作り上げることに参加すると思っているのか? アメリカ政府は今までに取られた方針を認めないと信じる。アメリカはこのような暴力的行動に参加しないと信じる。アロー号事件のような悪、卑劣、汚い事件に諸君の味方となって参加する人がいると思うのか?
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