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英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)

「英国と日本の通商記録」(1852)に、セーリス船長が家康からもらったという特許状を全文掲載しているので検証します。1613年11月24日平戸にて:ウィリアム・アダムスが貿易を彼個人の利益のために行わないと東インド会社に誓約した手紙の証人として署名したリチャード・コックス等3人とアダムス(注1)

セーリス船長が家康に提出した特許請願書

 『日本及び日本人——日本幽囚記と英国と日本の通商記録』(1852)の解説「英国と日本の通商記録」に、東インド会社のジョン・セーリス船長が1613年に家康からもらったという特許状(article of privilege)の全文が掲載されています。ところが、セーリスが家康からもらったという特許状が、家康が出した朱印状の原文と違うことを、アーネスト・サトウが1900年に指摘しています。サトウの編集・解説付きの『ジョン・セーリス船長の1613年日本渡航記』(1900)で、その経緯の一部が初めて明らかになりました((注2), pp.lxxxi〜lxxxv)。村上直次郎譯註『異國往復書翰集 増訂異國日記抄』(1929)でも同様の指摘がされていますので((注3), pp.184-188)、両方を参考にしながら、経緯を見ていきます。 セーリスは最初にイギリスが求めている特許の14か条請願書を家康に出しますが、それを短縮するよう求められて、2番目の請願書を提出します。7か条の短縮請願書をセーリスはイギリスに送り、それがサミュエル・パーチェス(Samuel Purchas: c.1577-1626)の『パーチェス廻国記』(Purchas His Pilgrimes, 1625, (注4))に日本語訳(以下)と共に掲載されます。 これはセーリスの請願書を日本語訳し、その模写版ということで、この模写版の文は以下の通りです((注3), pp.190-193)。
   覚一日本へ今度初而渡海仕候、萬商賣方之儀御じゆんろニ被仰付可被下候事、一兩御所様へ御用之御物之儀は、御目録を以被召上可被下候事、一、 於日本いきリスふねの荷物、おしかいらうせき不致様に被成可被下候事、一、 いきりすふね大風にあい、日本の内何れのみなとへ着申候共、無相違様ニ被仰付可被下候、何方ニ而も望のみなとニ家をたて、賣買可仕候間、御屋敷可被下候事、一、 日本ニ而かい申度物御座候は、其商人相對次第かい取申候様ニ、被仰付可被下候事、一、 日本人といきりすの者けんくわ仕出候は、理非を御せんさく被成、理非次第、有體ニ被仰仕可被下候事、一、 いきりすへ歸國仕度候は、何時ニ而も歸國仕候様ニ被成可被下候事但歸國仕候は、立申候家をはうり候て歸申候様ニ、被成可被下候事、
 17世紀初頭の本に日本語原文を掲載する点は評価できますが、『パーチェス廻国記』では、これが「お御所様、日本の皇帝から与えられた特許状」という題名になっています。そして、セーリスの請願書(英文)が続きます。日本語版と英語版の違いに関するサトウと『異國往復書翰集』の解説を読んでも、なかなか理解できませんでしたが、『パーチェス廻国記』の実物を見て合点がいきました。 以下に『パーチェス廻国記』に掲載されているセーリスの請願書を拙訳します。1625年以降の欧米の読者は、これが「日本の皇帝」が出した朱印状だと理解して読んできたわけです。大きな問題と思われるのは、これが「英国と日本の通商記録」(1852)にも、リチャード・ヒルドレスの『日本—過去と現在—』(1855, 1-1参照)にも、ペリーの『日本遠征記』(1856, 1-1参照)にも丸ごと掲載されて、欧米に広く流布していたことです。これが欧米列強との不平等条約につながっていったのではないかとさえ思えます。「英国と日本の通商記録」の解説者は「これらの条項の将来的重要性はそれをここに挿入する正当性がある」((注5), pp.10-11)と強調しています
    英国王の臣民、東インド会社総督トーマス・スミス卿と東インド会社の冒険商人が我が帝国日本のどこの港へでも永久に安全に行ける無償の許可を与える。船と商品を持ち込むことを妨げず、居住し、すべての国と売買、物々交換をする時の彼らの方法で行い、希望するだけの日数日本に滞在でき、随意に帰国する許可を与える。 彼らが我が帝国に持ち込んだすべての商品の関税を無税とすることを許可する。また、今後持ち込む商品、その後どの外国にも輸送する商品も無税とする。また、今後到着する船を認可し、イギリスから来る船がその商品を幕府に送ることなく、販売することを認可する。 もしそれらの船が難破の危険がある時は、我が国の国民が援助するだけでなく、救助された船荷も船長、または交易所の商人長か任命された商人に返す。イギリス人は我が帝国のどこにでも自分たちが適当と思う所に、家を1軒ないしそれ以上建ててもよい。帰国の際は、それを自由に売ってもよい。 もしイギリス人商人その他が我が国で死亡したときは、死者の持ち物は交易所の商人の裁量によって自由にできる。イギリス人が犯した罪すべてはこの交易所商人の裁量によって罰せられ、我が国の法律はその人間も物品も制することはない。 我が国民がイギリス人の商品を買う場合は、合意の値段を遅滞なく払い、または、その商品を彼らに返却する。 イギリス人が持ち込んだ商品、今後持ち込む商品は我々が適切に使用できるものであり、我々の役に立つものであること。我々は阻止はしないが、値段は交易所の商人が他に売るのと同じ値段にすること、そして、商品が届いたときに支払うことを許可する。 もし他国での交易が見つかったり、イギリスの船が戻る際には、人員か食料を必要とするだろう。イギリス人の必要に応じて、我が国民は金銭を取って提供する。 イギリス人が蝦夷地または、我が帝国のその他の地域や周辺の発見に向かうときは、パスポートなしで行ってもよい。
於:駿河の我が城、我が国の年号の18年9月1日我が国の国璽、署名:源家康(Minna Mottono Yei. Ye. Yeas.)
 日本の国璽が付けられていると偽るのは、文書偽造罪に問われるレベルではないでしょうか。この文書の信ぴょう性を更に印象付けたのが、ウィリアム・アダムスが「日本皇帝の特許状の翻訳」と題したものを、1613年12月付の長い手紙と共に東インド会社に送り、それが1850年に公開されたことです。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-9)

ゴローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された長い解説「英国と日本の通商記録」の内容を紹介します。

ゴローニンの『日本幽囚記』を1852年に再版する理由

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記事「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日号)にゴローニンの『日本幽囚記』の英訳が何らかの影響を与えたかという視点で、1852年刊の改訂版に付された解説「英国と日本の通商記録」を見ていきます。1819年刊の『日本の思い出——宗教・言語・政府・法律・日本人の生活習慣・地理・気候・人口・生産物——及び英日通商関係の始まり・終焉・再生の年代記』の解説を編集したもののようです。1852年版の「編者の序」((注1), pp.iii-v)に、この解説を付す理由が述べられています。
 現在、日本に関するあらゆることに関心が集まっている。この国に関して我々が持つ情報は限られており、この状況下で本書を一般読者に提供する意義があると確信している。2世紀もの間、日本政府は国民が他国の人々と接することを禁じてきた。外国との交渉を禁じた厳しい法律は17世紀中葉に施行され、わずかにオランダに対してだけ緩和されていた。オランダの商人は一定の規則のもとに長崎港で貿易をすることを許されていた。その結果、日本に関するわずかな情報がヨーロッパに届くのは、オランダ語を通してであり、したがって、イギリスの一般大衆がアクセスできるのは一部だけだった。これが本書を再版することにした理由である。 ゴローニン艦長と彼の仲間が幽閉された経緯についての驚くべき出来事は、この物語に奇妙でロマンチックな趣を与えている。一方、類い稀な冒険を詳細に語る中で、著者は日本人の風俗習慣に関する風変わりな事実を次々と明らかにしていく。(中略)本書の最初に付けられている解説が現時点で余分だとみなされないことを願う。昔、イギリスと日本の間に、非常に限られた形ではあったが、通商関係が存在しており、それが復活する見込みが現在あるからである。 ゴローニン艦長の洞察力ある知性と偏見のない感性が、注意深い観察を可能にし、現在文明世界が注目している国の人々の国民的性格に現れる多くの奇妙な特徴を正確に偏見なく判断することを可能にしているのである。日本人の性格に関する著者の知識から度々導き出される推論は、日本人と人類の大家族のその他の分家との間に友好的な関係を構築する任務を委譲された交渉者に役立つヒントを提供するかもしれない。日本の鎖国の速やかな消滅[annihilation全滅の意味もある]に疑いがないのと同様、まもなくこのような関係が構築されるのも疑いない事実である。

「英国と日本の通商記録」の概要

 日本との通商関係が再開されそうな今(1852年)、知っておくべき英日関係の歴史を解説で述べると書いていますが、32ページもの長い解説です。1600年のウイリアム・アダムス(William Adams日本名「三浦按針」: 1564-1620)から始まり、アダムスの1611年の手紙で、日本との貿易の希望を持ったイギリスが[東インド会社の]ジョン・セーリス(John Saris: c.1580-1643)船長を日本に送ったと書かれています。セーリスが駿府の家康に会ってジェームズ国王の親書を渡し、家康から江戸の息子[秀忠]に会うように言われ、江戸で将軍に拝謁して、帰りに駿府に寄ると、家康から特別の朱印状を渡されます。その内容が全て記されているのですが、原文と英訳版との違いがありますので、後に検証します。 その後、リチャード・コックス(Richard Cocks: 1566-1624)を館長にしたイギリス商館が平戸に開設され、イエズス会宣教師が国外追放になってもイギリス商館は1615-1616年に平戸を基地に日本だけでなく、シャム(タイ)や琉球との交易も行っていたと述べています。しかし、オランダの邪魔によって貿易がうまくいかなくなり、1623年に平戸のイギリス商館を閉鎖し、日英交易は終わりを告げます。 それから、日本で内乱が起きた頃、イエズス会宣教師が日本に8隻の戦艦を送るようポルトガル王に依頼したという報告があり、それが信じられて、1641年にはポルトガル人が日本から追放されたと述べられています。このくだりは、オランダのでっち上げかもしれないという含みが読み取れますが、日本が占領に抵抗するなら皇帝を殺害して従わせる計画だったというので、4-7で紹介した『ブリタニカ百科事典』(1842)の記述と同様で、後節で検証します。 こうしてオランダが日本貿易を独占することになり、その利益は巨大だったと、オランダが1671年まで巨額の富を日本から得ていたと報告したラッフルズの『ジャワの歴史』(1817)を引用しています。その後、1673年に長崎に来航したリターン号の顛末について8ページにわたって述べています。出典は示されていませんが、ケンペルの『日本の歴史』(The History of Japan, 1727)からの引用です。リターン号は日本との通商を達成できずにイギリスに戻り、東インド会社は1682年には日本との通商を諦めます。中国との貿易は諦めるには大きすぎ、1699年には中国貿易の基礎を固めて、中国を通じて日本との貿易を打診し始めますが、これも成功せず、日本との通商は考えることさえできない状況になります。1792年に東インド会社の特別委員会が設置され、日本との通商について報告します。出された結論は、イギリス製品を輸出したとしても、利益は銅だけで、銅はイギリス国内で産出されて、国内需要としても、輸出としても十分なので、日本への輸出に重要性はないというものでした。 ところが、「奇妙なことは、イギリスの船がイギリス人(スチュアート船長)の指揮で1797年と1798年に実際に日本を訪れている」(p.28)と述べています。しかも「この船がアメリカの旗を掲げ、アメリカの通行証を携えて、バタビアのオランダ当局によって日本に送られたという」のです。この事実はラッフルズが『ジャワの歴史』の注で引用しているHogendorpの本に述べられていると出典を示しています。 次に強調されているのは、日本政府は外国との自由な交流を阻止しているが、一般民衆はそうではないという実例をイギリス海軍の船プロヴィデンス号で1795〜97年に日本の調査に行ったブロートン船長の観察を1ページ半にわたって紹介しています。ブロートンの航海記録は『北太平洋への発見の航海:1795, 1796, 1797, 1798年』という題で、1804年に出版されていますから、この本から引用しているのでしょう。 19世紀初頭から数多くの日本探検記が出版され、それらを参照しながら紹介しています。ロシア海軍のクルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern: 1770-1846)の『世界周航記:1803, 1804, 1805, 1806年』(1810)の英訳が1813年に出ていますが、その中に、1803年にカルカッタのイギリス商社が長崎に船を送ったけれど、すぐに追い返されたこと、その2年前にアメリカも試みたが成功しなかったことを述べていると紹介しています。クルーゼンシュテルンに途中まで同行したラングスドルフ(Georg Heinrich von Langsdorff: 1774-1852)の英訳版『世界の様々な場所への航海と旅:1803-7年』(1814)の中で、1792-93年に大黒屋光太夫を連れて日本に通商を求めに行ったラックスマン(Adam Laxman: 1766-1806)が日本側から伝えられた対外交渉に関する規則に触れています。ラングスドルフの観察が日本との通商交渉に参考になると考えてか、2ページ半にわたって紹介しています。そして、以下の文章で締めくくっています。
迫りつつある出来事が示しているのは、日本では重要な変化がまさに起ころうとしているようだ。これまで日本の人々は厳しい法律と習慣のうちに満足する生き方をしてきた。しかし、外国人との自由な交流が彼らの知性を広げ、センスを進歩させずにおかない。ヨーロッパの発明と産業による製品は彼らの関心を刺激するだろう。そして、大衆の間で生活の単なる必需品を得ることにおいても、この世の望み全てに境界など無いことがわかるだろう。これらの変化が、これまでイギリスの営利事業に閉ざされてきた世界の一部における商取引きにとって、有利で新しい市場を開くだろう。
  この解説は「日本、そしてロシアの戦争」のような過激な扇情的な論調ではありませんが、「日本、そしてロシアの戦争」で論じられている要素が盛り込まれているように思います。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-8)

「日本、そしてロシアの戦争」(1854)という記事の背景に、ゴローニンの『日本幽囚記』が再版されたことも関係があるか探ります。

ゴローニンの『日本幽囚記』の影響

 前節では『ブリタニカ百科事典』(1842)の影響を検証しましたが、「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日)の1, 2年前に改訂再版されたゴローニンの『日本幽囚記』の影響も大きいのではないかと思えます。 1811年に千島列島の測量をしていたロシアのディアナ号艦長ゴローニンと一行は国後島で松前藩に捉えられ、1813年に釈放されるまでを記録した本を1816年に出版します。その英訳が1818年に出版されてから、改訂版が次々と出されます。インターネット・アーカイブに掲載されているだけでも、関心の深さが分かるので、リストにしてみます。
    1818:『日本幽囚記——1811, 1812, 1813年——及び日本と日本人の観察、リコルド艦長による日本沿岸航海とゴローニン艦長と仲間たちの救出のための日本との交渉記録』(注1) 1819:『日本の思い出——宗教・言語・政府・法律・日本人の生活習慣・地理・気候・人口・生産物——及び英日通商関係の始まり・終焉・再生の年代記』(注2) 1824(再版):『日本幽囚記——1811,
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英米に伝えられた攘夷の日本(4-7)

「日本、そしてロシアの戦争」の情報源として、『ブリタニカ百科事典』(1842)掲載の「JAPAN」の内容を紹介します。

1842年刊『ブリタニカ百科事典』の日本に関する情報

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の巻頭記事「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日号、4-5参照)の情報源は何でしょうか。最初に思いつくのは百科事典です。1854年の記者が参考にできる『ブリタニカ百科事典』の最新版は1842年刊第7版第12巻掲載の「JAPAN」です。13ページもの長い詳細な情報が掲載されています((注1), pp.510-522)。内容のほとんどはケンペル(Engelbert Kaempfer: 1651-1716)の英訳版『日本の歴史』(The History of Japan, 1727)から引用されています。ケンペルは1690(元禄3)〜1692(元禄5)年の間オランダ商館の医師として日本に滞在したので、150年前の日本ということになります。 その他の出典は、スウェーデン人植物学者のツンベルク(Carl Peter Thunberg: 1743-1828)で、同じくオランダ商館の医師として1775(安永4)〜1776(安永5)年日本に滞在し、『ツンベルク日本紀行』(Voyages de C.P. Thunberg au Japon, 1796)を出していますが、英訳はされていないようです。出典として1842年に最も近いものは、『トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿の人生と公職の回顧録——特に1811〜1816年のジャワ政府と1817〜1824年のベンクレーン[ブンクル]の植民地政府における公職と、東群島の商業と資源に関する詳細および、書簡選集——』(1830)からの引用です。ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles: 1781-1826)は大英帝国の東アジア進出の立役者であり、シンガポールを植民地化した創始者とされています(注2)。彼が英領ジャワの知事だった1812年に日本との通商の可能性を探りに使節を日本に送ります。その報告が『ブリタニカ百科事典』に引用されています。 同時期に日本進出を狙っていたロシアの使節、クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern: 1770-1846)の『世界周航記:1803, 1804, 1805, 1806年』(英訳1813)、ゴローニン(英語表記はVasilii GolovninまたはVasily Golownin: 1776-1831)の『日本幽囚記——1811, 1812, 1813年——及び日本と日本人の観察、リコルド艦長による日本沿岸航海とゴローニン艦長と仲間たちの救出のための日本との交渉記録』(英訳1818)などからも引用しています。

日本は金・銀・銅の宝庫

 『ブリタニカ百科事典』(1842)から「日本、そしてロシアの戦争」の内容に該当しそうな情報を拾って紹介抄訳します。「広大で強力な日本帝国はアジアの東海岸上の幾つかの島から構成されている」と始まり、地理、動植物、気候、産物、政治形態、海外との交流、鎖国政策に至った経緯、今後の展望という内容です。「日本、そしてロシアの戦争」の中で「蜜」という比喩を使っていた日本貿易の魅力は、貴金属が豊かな国という記述に該当します。金・銀・銅以外の金属についても述べられていますが、産地まで記述しているのはこの3種類の金属だけです。
 日本は金属が豊かな国である。(中略)金は帝国の幾つかの地域で見つかり、金鉱から精錬されたり、幾つかの川の砂から集められたり、また銅と混ざって見つかったりする。最も豊富で質の高い金鉱は日本(Niphon)の本島の北の地方に存在する。ここには非常にいい砂金も存在し、ここの領主は自分のために砂金を集めさせている。次に駿河の金鉱は最も豊富だと言われている。ここでは掘り出された銅の中に金が混ざっている。他にも生産性のある金鉱が存在し、採掘労働が報われるだろう。しかし、その幾つかは湧水が多く、排水方法を教えられていない現地人は排水処理方法を知らない。 銀は他の地域で見つかっている。特に北部地域のKattamiという所で採掘できるが、金ほどの量はない。日本貿易にとって最重要で、最も豊富な金属は銅である。帝国の異なる地域に埋蔵量の非常に多い銅山がある。駿河ではAtsingo、そしてKijnokuni。後者の銅山の銅が世界中で最も良質で、可鍛性が高く、細工がしやすい。場所によっては前述のように、大量の金を含んでいる。この精錬に関して、日本は大きく進歩した。全ての銅が堺(Saccai)という帝国の5大都市の一つに集められ、そこで精錬され、小さな円筒に鋳られる。これは四角い箱に詰められて、オランダ人に高い値で売られる。銅は日本の主要輸出品である。(p.512)

著者によって異なる日本人観

 『ブリタニカ百科事典』の「JAPAN」の筆者が誰か分かりませんが、過去150年間に日本に滞在したヨーロッパ人の記した日本人観が人によって異なることをさりげなく述べています。最新の訪問者はラッフルズが日本視察に送ったエインズリー(Dr Ainslie)という人で、彼の1812年の日本人観は「神経質(nervous)、活気あふれる人々で、その肉体的、知的活力はアジア人より、ずっとヨーロッパ人に近い」(p.515)というものでした。一方、ツンベルクが1775〜1776年に見た日本人は以下のように記されていると紹介しています。『ブリタニカ百科事典』の筆者のコメントも含まれているかもしれませんが、該当箇所を抄訳します。
ツンベルクは日本人を質素、器用、慎重、公正、フレンドリーと述べているが、恨んでいる時の日本人は、疑い深く、迷信深く、自尊心が強く、執念深いという。傷つけられたことを決して許さないが、その憎しみを用心深く隠し、相手の心臓に一突きする機会を忍耐強く待つ。この根深い怨恨は全ての野蛮国家に共通の特徴だ。だから、我々が耳にする彼らの間の抗争は世代から世代に引き継がれていく。この復讐の精神は自尊心と、日本人が抜きん出ている尊大な名誉心から起こる。ツンベルクはこの特異な人々の性質を描く際に、日本の進歩状況とは一致しない性質が原因だとしているように見える。彼は自由を好むこと、放縦に堕落する種類の自由ではない自由を日本人が熱望しているという。しかし、日本人には自由はなく、残酷な法律に縛られ、気まぐれな暴君の慈悲に国民の生命と財産が委ねられている。これほど堕落した社会に自由を愛する気持ちなど存在しない。この気持ちは洗練された人々の間でのみ花開き、それは権力の暴力に立ち向かう平等な法律によって守られるものである。(p.515)
 日本女性についても、エインズリーは「中国やその他のアジアの国々と違って、[日本の]女性は家庭に閉じ込められていない。ヨーロッパの女性と同じように外に出て、社会と自由に交わる」(p.515)と述べていると紹介しています。一方、出典は明らかにされていませんが、日本の結婚式について紹介するくだりで、日本人の性行動についての文脈で「純潔とはほど遠い。女性の多くはヨーロッパ人その他と一時期暮らし、売春の賃金を受け取る。その後、彼らの性質を十分に知った上で、いい結婚をするのである」(p.516)と書いています。

日本転覆計画という噂

 「日本、そしてロシアの戦争」で、日本を侵略すれば「侵略者に味方する大きな陽動作戦が起こることは疑いない」と述べていますが、その根拠が『ブリタニカ百科事典』に見られるかのヒントになるのが以下の記述です。キリシタン迫害について詳述した後に、以下の内容が続きます。
ケンペルの主張によると、ポルトガル人がオランダ人の性質を中傷するために、酷い悪意に満ちた話をこしらえた。オランダ人が反乱者と海賊の代表であり、信用するに足らない人々だというのである。オランダ人の方も同じ策略に頼り、成功した。オランダ人が拿捕したポルトガル船の中で、オランダ人が発見したのはポルトガル王に宛てた手紙だったと述べられている。それは日本人でキリスト教改宗者のMoro船長という人物が書いたもので、[日本の]現政権を倒す陰謀計画が含まれていた。オランダ人はこの貴重な発見から利益を得ようとすぐに動いた。直ちに日本当局にこの手紙を知らせた。モロ船長は逮捕され、懸命な無実の主張にもかかわらず、火あぶりの刑に処せられた。ポルトガルの謀反の証拠として押収された手紙が示され、噂によると、陰謀の全容は皇帝の命と王位を狙った計画だったという。そして陰謀者たちがポルトガルから送ってほしいという船と兵士、陰謀にかかわっている日本の領主たちの名前、その他様々な項目が明らかになった。これらは大規模な反逆の証拠として受け止められた。この発見によって、1637年に即座に布告が出された。外国人とのあらゆる交流を禁止し、反する者は死罪、また、キリスト教の布教は禁じられ、こちらも厳しい処罰が伴うこと、日本人が外国人から商品を購入することも禁止となった。ポルトガル人はマカオに追放、日本列島から全ての外国が永久に締め出された。(中略)この時から日本貿易はオランダ人に限定された。(中略)この大変革がもたらされたのは、主にオランダ人の陰謀によると思われる。ポルトガル人が被った迫害が日本政府に対する策略を企てさせたのは当然かもしれない。しかし、この話全体がポルトガル人のライバルであるオランダ人の証拠に基づいている。オランダ人はポルトガル人を破滅させようと躍起になっていたので、その目的達成の方法について良心の呵責などあまり感じず、この陰謀を明らかにした結果、キリスト教信仰の撲滅の布告、虐殺と数千人のヨーロッパ人の追放がもたらされたので、最も卑劣な動機によって、これらのことが実現されたことは明らかである。(p.520)
 この後もオランダに対する非難が続きますが、実際にケンペルがどう述べているのかなど、後節で検証します。『ブリタニカ百科事典』掲載「JAPAN」の最後の段落ではロシアの日本進出の試みについて述べています。ロシアのゴローニン艦長の『日本幽囚記』から引用し、後半は「JAPAN」執筆者の意見のようです。
日本人はロシアとイギリスの東洋での支配的勢力について極端に警戒している。ロシアが北方沿岸で、イギリスがアジアの南方沿岸で確立したことについてだが、これら[日本人]の警戒心はオランダ人によって助長されていると考えられる理由が多々ある。オランダだけが日本にアクセスでき、しかも、ヨーロッパが東洋で獲得した領土に日本を加えるつもりだと、日本人に納得させているのだ。したがって、現在のところ、この特異な国の鎖国政策に変化が訪れる見込みはない。日本の排除の原理は中国より厳しい。中国は広東の自由港を通して全ての国と無差別に貿易している。ところが日本は通商の特権を1港だけ、2国だけに限っている。この2国は、もし現行の制限が撤廃されたら必要とされる程度の外国製品を日本に提供するのが自分たちの利益だとは思えないし、思わない。この点で、1814年の英蘭協定によって、ジャワをオランダに譲渡したことは深く悔やまれるべきだ。これによって、イギリスが日本と交渉する窓口が閉ざされてしまった。スタンフォード・ラッフルズ卿による[日本]列島と自由な交流と拡大した貿易を推進するという賢明で開明的な計画を挫折させてしまったのだ。
 百科事典というより、帝国・植民地主義のプロパガンダのような内容です。イギリスのジャワ島占領(1811)とオランダへの返還(1814)については、「イギリスの1811年ジャワ侵略」という視点から当時のイギリス・メディアの1側面に焦点を当てた論文「19世紀の反帝国主義:イギリスの1811年ジャワ侵略の現代的批判」(2014, (注2))を紹介します。長引くナポレオン戦争で平和を求める機運が高まっていた時に、イギリス軍とイギリス東インド会社の軍隊がジャワ島のバタビアのオランダ軍を襲い、勝利してジャワを占領します。ラッフルズがジャワの知事になったのはこの時ですが、ナポレオン戦争終結で、1814年の「英蘭協定」では1803年前の状態に戻すという意味で、ジャワをオランダに返還することになります。『ブリタニカ百科事典』は返還すべきではなかったという意見表明のようです。 1811年のジャワ占領については、政治家・企業家はもちろん、多くのメディアも快挙と喜ぶ中、ウィリアム・コベット(William Cobbett: 1763-1835)というジャーナリスト・活動家は、ジャワ島占領がイギリスの農民や労働者のためにならない帝国主義・植民地拡張主義だと、自分が立ち上げた新聞『ポリティカル・レジスター』(Political 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-6)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の日本に対する悪意に満ちた記事(4-5)がなぜ書かれたのかを探っていくと、イギリスがロシアに宣戦布告する1854年3月28日まで戦争回避を訴える首相が好戦的なメディアに負けた様子が見えてきます。

ロシアへの宣戦布告まで

 前節で紹介した「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日号)という記事の10日ほど前の3月28日にロシアに対する宣戦布告がイギリスの官報で公表されました(注1)。その2ヶ月前のイギリス議会では、当時の首相だったアバディーン伯爵が戦争を避ける演説をを行い、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース付録』(1854年2月4日号 (注2))が記録しているので、抄訳します。この記事も段落が長いので、適宜段落を変えています。
「貴族院」でのアバディーン伯爵の発言 アバディーン伯爵が非常に強い調子で、それまで言ってきた戦争の恐ろしさと反戦の思いを述べた。最近の交渉で彼が「ロシアの道具と手段」になっていたというおぞましい非難に対して、ロシア政府に対応する上で自分ほど積極的な役割を果たした公人はいないと主張した。いかなる国とも戦争しない、特にロシアとは交戦しないと、今まで主張してきたことを繰り返した。我が国の国民は後で後悔するような戦争を軽率に性急にすることがしばしばあった(Hear, hear、そうだ)。いかなる状況下であろうとも、最初に可能な限りの手段を行使して止める努力せずに、戦争は決してしないというのが自分の義務であり、女王陛下の政府の義務だと考える。現在の場合のように、感情が自然で称賛すべき場合であってもだと彼は言った。現在の国民感情は、[ロシアの]侵略であり、不当だと見えることに対する憤慨だと認めなければならないが、それでも、慎重さと理性の範囲内でその感情に溺れることを抑えるのが政府の義務である。自己防衛のための戦争と理解されるのでなければ、いかなる戦争も正当化できないということは、道徳家の声明や教えだけでなく、すべての政治家の意見であり宣言だということを議会に気づいてほしいと言った。彼自身の戦争に対する意見は、戦争ほど恐ろしいものはないのに、それを正当だと考えることが人間性の完全な欠如と腐敗だという最大の証拠だと信じるものである。しかし、残念ながらそれが現実で、すべての惨事の中で戦争が最大級の惨事であり、あらゆる愚行と邪悪の中で戦争が一番の愚行と邪悪だということを全員が認めなければならない。(中略)
「貴族院」でのアバディーン伯爵の発言(続き) しかし、現在行われているトルコとロシアの戦争では我が国に危険はないかもしれないが、ヨーロッパで確立されてきた均衡関係を適切に維持するために、全体の安全保障に必要な様々な国の相対的地位と力を維持することを求める時には、ある意味では自衛としての武装と考えられるかもしれない状況が疑いなくあるかもしれないと認める用意はある。彼がロシアの野望の道具だったと非難されたことについて、オーストリアについても同じ非難が彼に向けられた。それは彼が40年前にオーストリア大使に任命されていたからだが、彼は日本に対して同様、何の関心もない。 もっと強い道を望む人々に対する回答として、自慢ゲームでは何も得るものはないし、もし去年の春にロシアを脅していたら、[ロシアが]コンスタンチノープルに即座に進軍するよう挑発しただけだっただろう。それに対し、トルコ側は抵抗する準備などできていなかったという主張をくりかえした。彼はまた、フランスとの同盟に冷淡だと非難されてきた。その長い人生の間ずっと一貫してこのような関係が必要だと主張してきた彼、「友好協定」(entente cordiale)という語の作者でありながら!
 本当にまどろっこしい言い方をしていますが、好戦的な世論とメディアを気にしながら、戦争を避けようという首相の思いが表れているように感じます。突然、「日本」が出てくるのも不思議ですが、「日本、そしてロシアの戦争」のような論調を指しているとも思えます。日本に武力で開国を迫ることに関心がないという含みかもしれません。 現在のイギリス政府の歴代首相のホームページによると、アバディーン政権は平和維持と和解を求めたのですが、閣内に強硬派もいて、メディアが政治家間の対立を煽り、1855年2月に総辞職に追い込まれて、アバディーンは国を戦争に陥らせた責任を感じて、二度と役職につくことはしなかったそうです(注3)

扇動するメディア

 当時のメディアと国民感情が好戦的だったという点で、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の論調を見ていくと、なるほどと思わされる記事が多いことに驚きます。アバディーン伯爵の議会演説後の記事(1854年3月4日号)は「戦争の準備万端」と題する巻頭記事で、議会の好戦派議員を支持する内容です。まだ宣戦布告さえ出ていないのに、メディアは早く戦争始めろと煽っているようです。煽るメディアと踊らされる国民という構図が見えてくるので、重要点を訳します。
「戦争の準備万端」 英国議会の様々な議員は、現在ロシアとの間が平和なのか戦争中なのか迷っているようだ。素晴らしい艦隊に人員配置し、連隊の乗船、陸海軍の概算増加の投票は、戦争状態にあることを強く示唆することは明らかだ。それなのに、正式な宣戦布告が発せられない限り、我々が戦争状態だとどうして言えるのかという疑問が出された。(中略) 現実的に我が国は戦争状態である。理論的には、ロシア皇帝はトルコ以外の世界とは平和状態にあるという思いにふける時間はまだ2,3日ある。(中略) 平和時に生まれ育った国や世代は、戦争が自分たちに課す負担や、先祖が被った悲惨さ以外に戦争のことを知らないから、自分たちの時代と自分たち自身に再び起こると恐れの思いで戦争を見るしかない。見えない巨人というぼんやりした恐れは実際の怪物の出現よりもはるかに耐えがたいものだ。不確かさが半分以上このいたずらを引き起こす。(中略) 心配が戦争を避けることはもはやない。男らしく戦争に突入し、雄々しく最後まで戦うべきだ。(中略)国民の側には弱気の意気地なさなど微塵もない。イギリスでもフランスでも、熱狂が最高潮にある。(中略)年老いたヨーロッパは怒りに燃えた道義心という強い刺激を受けて、若さと強さを感じている。(中略)我々はあの偉大な犯罪者に現在の義務を教えてやるだけでなく、過去のことで罰し、未来のために彼を押さえつけるべきだと感じている。 イギリスはその役割を陽気な気持ちで始めるのだ。(中略)利己的な目的で戦争を始めるのではない。イギリスの理由は一般法と道徳と規律である。力や領土の増加を求めているのではない。イギリスだけの利益を求めて戦うのではない。これはイギリスが行う原理原則の戦争である。正義の敵以外イギリスに反対することはできない。(中略)ロシアのような半分野蛮な国は自分の立場をわきまえなければならない。さもなくば、文明国と競争する方法を学ばなければならない。
 戦争の正当化を主張する論調が苦しく聞こえます。宣戦布告前から戦争を始めてよいのだと言わんばかりの論調は、さらに宣戦布告の10日前の3月18日号で最高潮に達します。トルコ軍の戦闘の絵・バルチック艦隊のウェリントン公号の絵・バルチック艦隊を見送る群集・フランス軍の連隊の出発風景・バルト海の地図・「バルチック艦隊」の歌詞と楽譜等々、付録まで付いて、戦争を煽る記事と挿絵が満載です。 2-4でイギリス艦隊の長崎寄港時(1854年10月)に長崎奉行所の役人たちがウェリントン公号の絵を確かめたがったことを紹介しました。日本の役人がこのバルチック艦隊のウェリントン公号について聞いていたからだとは時系列的に考えにくいですが、1854年3月18日号掲載の絵を見たら度肝を抜かれただろうと推測できます。

蒸気を使った最初の戦争

 3月18日号の「バルチック艦隊の出発」と題した記事で、蒸気船の艦隊が戦争に使われたことはかつてなかった、「近代戦に蒸気が使われたことで快速性が新しい最強の要素になった」((注2), p.242)と書かれています。そして以下のように締めくくられます。
我々の敵にとって科学が大きな役割を果たしたとしたら、我々にはもっと大きな役割を果たしている。世界が蒸気の威力の恩恵を受けているのは、イギリスの天才とエネルギーのおかげである。その偉大な発展はこの国に端を発しているか、この国で現在の効率性にまで持ってこられたのである。従って、十分な根拠のある自信を持って、我々の大義の正当性において、また、我々の兵器の強さと完璧さにおいて、英国人全ての心がバルチック艦隊の成功を願い、魂を鼓舞する叫びをあげよう、ヴィクトリー!ヴィクトリア!(VICTORY! VICTORIA! 勝利を!ヴィクトリア!)。

21世紀の米英仏のシリア攻撃との比較

 164年後の2018年4月7日に起こったシリア・ダマスカス近郊の東グータ地区ドゥーマ(Dourma)における化学兵器攻撃と、それに対する米英仏の動きが構図的に似ていながら、メディアと議会の対応が異なるので、概観してみたいと思います。 この化学兵器攻撃をシリアのアサド政権と、その後ろ盾であるロシアによるものだとしたアメリカのトランプ大統領は「ロシアよ、準備しろ。なぜならミサイルが行くことになるからだ」と4月11日にツイッターに書き込みました(注4)。その翌日、国防長官のジム・マティスはシリアに対する軍事行動の正当性を世界に示すには、化学兵器使用がアサド政権によるものだという確かな証拠を掴まなければならないと、ホワイトハウスの秘密会議で強調したと伝えられました(注5)。イラク戦争時に指揮官として戦ったマティスは「イラク侵略は戦略的ミスだった」と述べたそうです[ref]“Iraq war 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-5)

クリミア戦争でイギリスがロシアに宣戦布告した直後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に「日本、そしてロシアの戦争」という巻頭記事が掲載されます。節で長崎奉行所の役人がイギリスは「平和を好む国々の船を略奪することで生きていて、全ての国に貢ぎ物を強要する」と言ったと、バラクータ号のトロンソンが記していることを紹介しました。彼の記録によると、1854年9月7日〜10月20日の間の発言です。この5ヶ月前の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1854年4月8日)の付録版(Supplement (注1))第一面に「日本、そしてロシアの戦争」(JAPAN AND THE RUSSIAN WAR)と題した長文の記事と、「戦争の準備」というキャプションの挿絵が掲載されています。この記事がなぜ『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899』(2006)に収録されていないのか疑問です。以下の拙訳は、長段落の本文を短い段落に修正しています。
「日本、そしてロシアの戦争」 ロシア帝国に対する世界は、物理的観点からも強敵である。しかし、さらに恐ろしいのは、人類の普遍的な良識が否定しがたい真実を宣言していることである。それは、名誉と正義のあらゆる原則が等しく反対しているということである。同時に、我々の勝率がどんなに高くても、敵をみくびるなというのは賢い公理である。なぜなら人間のする事は奇妙な偶然に満ち溢れているからだ。このリスクをあえて犯している国は地球上のあらゆる所で、その巨大な軍事力を全力を尽くして使う必要性に気づいているからだ。そして、大戦争は今や、チェス・ゲームのような小さな領域に限られるのではない。その影響は広がり、世界中に響いている。そこで、現在我々が見ているように、平和の感情をゆるめたり、ゆさぶったりすることで、地球上の強大な古代の地域、全ヨーロッパとアジアの国益が広範囲に影響されている。北アフリカはこの状況のプレッシャーに動かされ、新世界のアメリカはこの出来事の展開を用心深く見続けなければならない。 この複雑な状況の最中に、2,3週間前に読者に示した、中国に関するある情報と同じ情報源から、日本帝国を付加するというテーマに関する2,3のコメントについてお伝えする。日本の海を周航するうちに、我々はロシア戦艦を複数見つけ、アメリカの艦隊もこの守りの固い海岸に向かって2回目の訪問の途にある。日本も中国の後に続かなければならない。ロシアは半世紀もそのとっかかりを得ようとしたが無駄だった。イエズス会とポルトガル人は嫌悪され、追放された。オランダ人は唯一長崎港と素晴らしく窮屈な通商しか許されなかった。中国人はもう少し認められたが、ごろつきと盗人とみなされた。
 この記事の掲載の仕方は1850年8月10日号(4-1参照)と同じです。下の挿絵は記事とは関係ないのですが、「戦争の準備」と題して、クリミア戦争でイギリスがロシアに宣戦布告する直前の1854年3月にウインガ海峡(現在スウェーデンのヨーテボリ (注2), p.121)に到着した戦艦の中で銃や刀の点検をして、戦闘の準備をしている兵士たちを掲載することで、読者に何を印象付けたいのか想像できます。
「日本、そしてロシアの戦争」(続き) しかし、ubi mel ibi apes [where there is honey, there are bees.]蜜のあるところには蜜蜂が群がっている。そして、儲かる商売用の品物が豊富なところでは、最終的には忍耐がこの神聖なる国に入り込む効果をもたらす。これがこの危機の条件のようだ。東洋の海におけるその他の変化によって、今やこの危機が固く閉ざした日本帝国に近づいている。 日本の変更不能の制度の中で革命に向かって相互に協力しているのは、今まで述べてきたように、カムチャッカ国境からやってくるロシアの再挑戦、アメリカの新たな侵入、中国の大変革[痙攣の意味もあるconvulsion]の伝染、そして、とりわけイギリス商業の企業魂がこの「開けゴマ」の呪文に取り残されてはならじと、あらゆる段階で懸命に手を貸し、この競争で最大の利益を得るだけの多くの強みがあるのだ。 これらの国々の流入に抵抗する日本の力は、主にこの帝国の島々の地理的性質と、島々をいつも覆っている暗い霧にあった。この自然現象によって守られる安全性のレベルに満足しないこの国の政府は大昔から政治的予防措置を採ってきた。この措置によって、キリスト教徒の血の激流に溺れ死んだ宗教的反乱以来、この国は危険から守られてきた。周知のように、この政策に従って、日本の港に到着するすべての船は逮捕され、乗組員は投獄された。戦艦は岸に近づくことも許されなかった。限られた貿易用にただ一つの港が一年に特定の季節だけ認められた。この国の内地に入り込むことは、帰れないという痛みをともなわない限り認められなかった。異人に対しても、土着民に対しても、いかなる宗教的儀式も信仰も認められなかった。例外は準仏教(semi-Buddhist belief)と、ラマ教のような精神的指導者の下にいる放蕩的聖職者たちによって行われる儀式である。ラマ教のような精神的指導者は在任中の皇帝の上に位置し、ほとんど神として崇拝されているが、現世的権力は全くない。この権力は、我が国の昔の封建領主のやり方と非常に似たやり方で、実際の支配者と共有している。慣習に囚われてはいるが、領主(Princes)の中には、現存の形式と古代の制度については意見が一致しているわけではないと言われている。 この国の人々は極度に小さく(diminutive)、弱々しい(feeble)人種なのに、頑丈な毛深いクリル人を奴隷にして、牛馬の如く使う。日本人はあらゆる弱い畜生(weak creature)同様に、嫉妬深く(jealous)、用心深く(cautious)、臆病で、ずる賢く、卑劣である。この国の要塞と強い場所(住居として)は、ほとんどが木造で、それは頻発する地震で石造りの建物が不向きだからだ。日本の防衛の性格を隠し、偽装するために、塀を布の垂れ幕で覆い隠すという彼らの行為に日本人の性格が表れている。火縄銃と数丁のマスケット銃、弓矢、槍、投槍、サーベルで武装し、それに2,3の大砲、品質の劣った火薬など、兵士数は多い(15万人だが、戦時にはその二倍以上が可能とみなされている)が、こんなものでできた軍隊が恐るに足るとは到底言えない。たとえ素晴らしい鎧を身につけた長官たちに指揮された軍隊だとしても。 しかし、我々の情報提供者は我々がまだ気づいていない要素が勢いよく存在し続けていることに強い期待を寄せている。土着民の中に、キリスト教徒と呼ぶ以外、他にもっと正確な呼び名がないが、かなりの数が存在し、中国のトライアドやその他の秘密結社のような集団が野蛮な信仰を密かに維持していて、機が熟せば、迫害者に対して立ち上がる。この事実の証拠は、圧制者たちが持っているこの集団に関する情報で、わずかでもキリスト教に似ていると認められれば、容赦しないことで明らかである。 自分たちの[土着の]宗教に注意を払わないと疑われただけで、不運な者は死罪という、極悪非道な犯罪でも稀な罰を与えられることに、極端な政治的警戒心が読み取れる。オランダ商人たちが十字架を踏みつけさせられたという昔の話が、現在に至るまで続いていることは、長崎の(多分帝国全体でも)多くの住人が毎年寺まで行進させられ、キリスト教信仰の聖なる象徴物を踏みつけるよう命じられることに表れている。 侵略の際には、侵略者に味方する大きな陽動作戦が起こることは疑いない。同じ問題を示す理由がたくさんある時代において、これから起きうることに注意せよと、このコミュニティに教える賢者の警告である。それはすぐに起こり、中国や日本だけでなく、インド群島(Indian Archipelago)の隣接する地域すべてにおいてである。氷はいたる所で氷解し始めている。その澄んだ水を最初に利用する者が最も豊かな利益を収穫するだろう。
 この記事の内容を端的な表現に直すと、以下のようになります。 ロシアの強敵は軍事力の強大な英仏である。これは名誉と正義の戦争であり、世界がロシアに反対している。勝算は英仏にあるが、戦争では何が起こるかわからないから、気を許してはいけない。 これはクリミアだけの戦争ではない。全ヨーロッパとアジアの国益が影響される戦争だ。ここに日本が加えられる。ロシアは日本との通商を狙っている。アメリカは日本を開国させるために二度目の訪問に向かっている。アヘン戦争で敗れた中国はイギリスに香港を割譲[1842年]した。日本も中国の後に続かなければならない。 ポルトガル人は日本から追放され、通商を許されたオランダには自由な通商は許されていない。中国は日本との通商はもう少し認められているが、日本人から非難されている。それでも、日本には蜜[金・銀・銅など]があるから、世界中からミツバチが群がってくる。日本の鎖国制度を破るための革命を起こそうと協力しているのは、カムチャッカ経由で日本に近づくロシア、侵入を試みているアメリカ、中国国内の革命軍(1-5参照)と香港割譲などの大変革が日本にも伝染することだ。イギリスは乗り遅れてはならない。イギリスの強みは東インド会社に象徴される起業魂だから、日本開国のために列強に手を貸して、最大限の利益を得るべきだ。 日本は今までは島国という地理的条件と、霧に覆われて船が近づくのを妨げる自然条件に守られてきたが、それでも日本政府は入り込んでくる欧米を阻止するためにキリスト教禁制の政治手法を使って国を守ってきた。宗教の点で仏教と神道だけが例外として認められたが、正当の仏教ではないし、神官たちは腐敗している。天皇には政治的権力はない。 日本人は臆病でずる賢く、卑劣で、千島列島のアイヌを奴隷にして酷使している。日本には海外からの侵入を防御できる仕組みがないことを隠すために、垂れ幕で見せないよう偽装するところに、日本人の性格が表れている。日本の軍隊は取るに足らない。日本政府を転覆し、侵略するのに最強の要素がある。キリスト教とはとても呼べないが、彼らがキリシタンと呼ぶ人々の秘密結社的な犯罪集団((注3))が存在し、機が熟せば政府に立ち向かうという情報がある。欧米が侵略する場合は、味方してくれることは疑いない。このような革命はすぐに起こり、それは中国や日本だけでなく、東南アジア全体([ref]記事の中で「インド群島」というのは、1837年刊の『インド群島への航海と冒険——1832-1834——ジャワ島、ボルネオ、マレー半島、シャム等々とシンガポールの現状』という題名の本に現れているように、東南アジアを指し、イギリスが植民地や貿易の対象とする地域を指していることがわかります。George Windsor Earl, The Eastern Seas; or, Voyages and adventures in the Indian 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-4)

1854年9月に長崎に来航したイギリス艦隊の軍医助手に対して、長崎奉行の役人が、イギリスはなぜ平和を好む国を略奪し、戦争するのかと質問をぶつけました。

幕府役人のイギリス人への疑問:なぜ戦争するのか?

節で箱館の役人とウィッティンガムが意見の相違をぶつけ合ったことを正直に書いているのを紹介しましたが、長崎の役人も軍医助手のトロンソンに対して鋭い質問をぶつけたことをトロンソンが正直に紹介しています。1854年9月7日〜10月20日の間に、奉行所役人の何人かが毎日のようにバラクータ号にやってきて、デッキの上の「銃・銃弾・ロープ・カトラス[船乗り用短剣]・数字・我々の制服の各部位の名称」などを英語で何というか聞き、熱心に英語を習得しようとしていたと述べています((注1), p.19)。この頃の長崎奉行所の役人たちの様子と、トロンソンの感想も興味深いので抄訳します。
彼らはどこに行ってもいいと許可されていた。扇子であおぎながら、覚えたばかりの英語を繰り返して、歩き回っていた。我々からの贈り物やお土産は断ったが、ワインを1,2杯飲むことには異論がなかった。飲むとすぐに顔が赤くなり、気が大きくなった。乗組員の一人がオランダ出身なので、通訳として私たちの話を訳してくれたが、彼らはとてもおしゃべりになった。 一人のはっきり物を言う役人が言った。イギリスは西欧ではとても小さな国だが、強い海洋国で、平和を好む国々の船を略奪することで生きていて、全ての国に貢ぎ物を強要すると言った。この無知な友人を啓蒙するのに非常に苦労した。大英帝国が辿ってきた道を地図を使って説明した。ヴィクトリア女王の支配を認めた様々な国を列挙し、イギリスの使命は全ての国々に対して平和と友好を宣言し、権利を守り弱者を擁護し、世界中に文明を広めて、抑圧された人々を解放することだと説明した。この役人は、あなた方が言うことはすべてとてもいいことだが、それなら、なぜロシアと戦争するのか、イギリスとフランスが一緒になって1国と戦うのかと聞いた。我々もロシアとの戦争は望まなかったが、トルコは弱いし、我々の同盟国だから、トルコを守る必要があるのだと返答した。彼はアフリカの奴隷問題に関してイギリスがしたことを聞いたと言い、女王の心は「善意に満ちて広い」(good and large)に違いないと言った。次に彼はフランスについて聞いてきた。私はフランスの巨大な軍事力と国民性、進歩、法律、そしてエネルギッシュな支配者について語った。フランスとイギリスを隔てる海があんなに狭いのに、なぜ言語が異なるのか、彼には納得できなかった。日本人が探究心を持っていることがとても嬉しかった。それで、彼に毎日会いたいと言ったが、彼は二度とやって来なかった。次に彼に会えたのは、箱館港だった。(pp.20-21)

幕府役人の世界情勢把握

 トロンソンと応酬した長崎奉行所役人が「アフリカの奴隷問題に関してイギリスがしたことを聞いた」と言ったのは、具体的に何を指すのでしょうか。この時の長崎奉行所の役人達が共有していた『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が何年のものかもわかりませんが、1854年以前のものを調べてみました。役人がヴィクトリア女王が慈悲深いに違いないとコメントしたことから、ヴィクトリア女王と奴隷というキーワードで調べると、とても興味深いことがわかりました。 1850年11月23日号((注2), p.412)に以下の記事が掲載されています。

ダオメ王国の王女が女王に披露された

 英国軍艦ボネッタ号のフォーブス大佐が最近、ダオメ王から提供された若いアフリカの王女を我が国に連れてきた。女王陛下は状況を聞いて、寛大にもこの子どもを庇護するというご意思を示された。そして、フォーブス大佐と王女の披露を先週の土曜日に指定され、その日、大佐はこの興味深い預かり物を伴って、ウィンザー城の披露に出席した。まだ8歳ぐらいの王女は、プリンス・コンソート[王配、ヴィクトリア女王の配偶者]、皇太子、第一王女、その他のローヤル・ファミリーと王室の数人の前に披露された。フォーブス大佐がこの黒人王女を所有することになった経緯は奇妙なものだった。勇敢な大佐(ウィンザー近くのウィンクフィールドのフォーブス大佐の息子)はダオメ王国の奴隷港を終結させる目的で、ダオメ王と条約を交渉中だった。この興味深い子どもは高位の出だと考えられているが、ダオメ王が近隣の支配者と戦闘中に王によって捕虜にされた。低いランクの捕虜を殺すのがダオメ王の習慣だったが、この子どもはポルトガルやブラジルの奴隷売買人に渡すために監禁されていた。2年間も厳重に監禁された頃に、王がフォーブス大佐に特別な好意と尊敬の印として彼女を提供したのだ。この小さな王女がウィンザー城で女王陛下に正式にお披露目された後、フォーブス大佐と共にウィンクフィールドに戻った。女王陛下の支援で彼女の教育がされるため、その準備が整うまでウィンクフィールドに滞在する。彼女が我が国に到着して以来、英語の習得に目覚しい進歩が見られる上、音楽の才能に恵まれており、知性も並外れていることがわかった。彼女の髪の毛は短く、黒く、縮れていて、アフリカ出身であることをはっきりと示している。一方、顔は美しく気持ちの良い顔立ちで、マナーと行動は非常に穏やかである。
 ヴィクトリア女王(1819-1901)は年取ってからの写真しか見たことがありませんでしたが、このころの『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には頻繁に挿絵が掲載されていて、若い姿がわかります。この時、31歳でした。以下の挿絵は1年後の1851年6月7日号((注3), p.522)に掲載されたヴィクトリア女王と夫のアルバート殿下、皇太子と王女の姿です。ロンドン万博(the Great International Exhibition)のクリスタル・バレス開会式(5月1日)のボランティアをした母親の子どもたちから皇太子と王女が花束を受けるのを許可したと説明されています。

ヴィクトリア女王の庇護を受けたアフリカの少女

 この少女について、アフリカ系アメリカ人とその他の国のアフリカ系の人々の歴史のリファレンス・サイト、ブラック・パースト(BlackPast.org)に掲載されている内容(注4)を紹介します。この少女、サラ・フォーブス・ボネッタ(Sarah Forbes Bonetta: 1843-1880)は現在のナイジェリア南西部のヨルバ民族(Yoruba people)のエグバド族(Egbado clan)のプリンセスでした。西アフリカのダオメ王国のゲゾ王は奴隷貿易で悪名高く、1847年、サラが4歳の時に奴隷狩りをし、サラの家族はみな殺され、彼女だけが捕虜とされました。フォーブス大佐がゲゾに奴隷狩りと奴隷貿易をやめるよう説得しに行った時、サラの存在を知り、少女をゲゾ王からヴィクトリア女王への贈り物にしてはどうかと持ちかけ、救い出します。翌年まで、サラはフォーブスと共に西アフリカに残り、洗礼を受け、サラ・フォーブスという名前を付けてもらいます。フォーブスは「この少女は完璧な天才だ。今では英語が上手になり、音楽の才能もあり、同じ年頃の白人の子どもより勉学の適性があり、心も強く、優しい」と書いています。 フォーブスが1851年に亡くなると、ヴィクトリア女王はサラの教育費を支援し、サラはウインザー城に度々女王を訪ねるようになります。イギリスに到着して1年ほどすると、咳が止まらなくなり、イギリスの気候のせいだと考えられたので、ヴィクトリア女王はサラの健康のためにシエラレオネのキリスト教系女学校に入れます。彼女は音楽でもアカデミック教科でも抜きん出ていましたが、シエラレオネでは不幸だったので、女王は1855年にイギリスに連れもどします。 1862年にヴィクトリア女王の長女が結婚した時、サラは結婚式にゲストとして招かれます。同じ年にサラも女王の許可を得て、シエラレオネのビジネスマンと結婚します。ブライトンの立派な教会で結婚式を挙げました。サラは10台の馬車の随行団に伴われて教会に来たそうです。シエラレオネでサラは教師になります。最初の子どもが女の子だったので、ヴィクトリア女王の許可を得て、ヴィクトリアと名付け、1867年に二人でヴィクトリア女王を訪ねました。その後、サラは結核と診断されて1880年に37歳の若さで亡くなります。ヴィクトリア女王はサラの娘の支援を続けたそうです。 王室コレクションのサイトに「サラ・フォーブス・ボネッタと家族」(注5)というページがあり、サラの写真と共に娘のヴィクトリアとその子供達の写真も掲載されています。上記の内容を縮めた解説が付けられていますが、サラがフォーブス大佐へのプレゼントか、女王へのプレゼントとしてフォーブスが要求したのかは「はっきりしていない」と書かれています。ボネッタという苗字は、大佐が自分の乗っていた船の名前を付けたとのことです。大人になってからのサラの写真がガーディアン紙の「隠された歴史—イギリスで写真撮影された最初の黒人たち」(注6)という記事に掲載されています。ヴィクトリア女王とサラの関係については長い間忘れられていましたが、テレビ・ドラマ・シリーズVictoria(NHKでは「女王ヴィクトリア:愛に生きる」)でこのエピソードが2017年クリスマス・スペシャルで放映されたそうです[ref]”How Queen 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-3)

1850年代後半に出版されたイギリス艦隊の日本訪問記録を読むと、イギリスがクリミア戦争における兵站の地として日本を利用し、理不尽な要求をしていたことが見えてきます。1854年から1855年にかけて長崎・箱館に寄港したイギリス艦隊に乗船していた人たちの手記から見えてくるのは、ロシアの極東進出を阻止しようとするイギリス・フランス連合艦隊がタタール海峡付近に度々複数の艦隊を派遣し、6か月のロシア追跡の航海の間に箱館・長崎で合流していたことです。日本の港が食料補給地点として、また、お互いの情報交換の場として利用されていました。食肉や卵などが一般的でない日本で、予告なしに寄港して、1,000人分、時には3,000人分ぐらいの肉・卵・魚・野菜などを即刻調達しろと要求する欧米艦隊に、日本側がどんなに苦労したか想像に難くありません。なお、当時の記述に従って、箱館と表記します。 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記事「英国艦隊の日本到着」(1855年1月13日号、2-2参照)で紹介されているジェームズ・スターリング卿率いる艦隊4隻のうちの1隻、バラクータ号に乗船していたトロンソン(John M. Tronson)という軍医助手(注1)が手記を出版しています。『イギリス海軍艦艇バラクータ号の日本・カムチャッカ・シベリア・タタールと中国沿岸への航海についての個人記録』(1859刊、以後『イギリス艦艇バラクータ号』、(注2))で述べられている内容が興味深いので、紹介します。まず、イギリス側がどんな食料を要求したのかを見ていきます。

イギリス艦隊の食料調達

○1854年9月7日〜10月20日:ジェームズ・スターリング提督率いる艦隊の長崎訪問

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記事「英国戦隊の日本到着」((注3), p.46)の最後に長崎で調達した食料の種類、量、支払い額が掲載されています。 これは「士官用」と断り、その金額は174ポンド相当と書いてあります。総勢1,000人の乗組員用にどのくらいの量が調達されたかは記されていませんが、金額は600ポンドと記載されていますので、量的にも士官用に調達された3.4倍に相当すると思われます。新聞掲載の長崎で調達した食料は次の通りです。
豚2頭・豚肉・アヒル138羽・鶏522羽・サツマイモ・小麦・魚・お茶・日本産砂糖・赤唐辛子・卵・生果物・醤油104瓶
 この下に注として「調達できなかったもの:羊・羊肉・ガチョウ・ベーコン・コーヒー・胡椒・オランダ産ジン」と記載されています。そして調達されたものは、卵まで全て一級の品質だと書いてあります。 ところが、『イギリス海軍艦艇バラクータ号』の記述では、量と質について正反対のコメントがあります。
 提供されたものは量も少なく、質も良くなかった。豚は小さく、太っていて、柔らかく、中国で飼育されているのと似ていた。鶏は小さく、半ば飢餓状態で、我々が別の機会に見た良質の鳥とは全く違っていた。野菜は日本の農業が酷いと我々に思わせる目的にかなったものだった。土着民は野菜の形をしていれば何でもイギリス人水兵にはふさわしいのだと考えたに違いない。なぜならハコベ(chickweed)を大量に送ってよこしたからだ。(中略)多くの者が、この大量の微妙なものをよこしたのは、我々に二度と日本に来たくないと思わせるためだと考えた。((注2), p.12)
 七草の一つ、ハコベを雑草だと捉え、日本人がイギリス人を追い払うために送ってきたと思ったというのは、食文化の違いによる誤解ですが、同じような誤解による不満が肉の提供が少ないことにも向けられます。長崎出港前に渡された補給食料の金額について、トロンソンは「法外な値段」(p.19)だと苦情を述べています。特にアヒルと鶏は小さいのに「法外な値段」、野菜は「安いが量が少ない」というのです。 それなのに、艦隊の1,000人の健康は「この訪問で著しく改善した。バラクータ号の乗組員が長崎に到着した時、28人の病人がいたが、出港する時はわずか5人だった」(p.21)と述べています。4隻の病人数を単純計算すれば、艦隊全体で112人いた病人が長崎滞在中に20人に減ったことになります。

殺生しないはずの日本人はなぜ魚を殺すのか?

 この当時、複数のイギリス艦隊が日本近海でロシア軍を追っていました。その一つ、エリオット提督(Charles Elliot: 1818-1895)率いる艦隊、フリゲート艦シビル号(H.M.S. Sibylle)、蒸気コルベット艦ホーネット号(steam corbette Hornet)、帆船ビターン号(brig Bittern)のうち、シビル号に参観者(visitor)として乗船したバーナード・ウィッティンガム(Bernard Whittingham)というイギリス陸軍工兵隊の隊長の手記から紹介します。1856年刊『東シベリアのロシア植民に対抗する最近の遠征と、日本およびタタール沿岸とオホーツク海の調査報告』(以後『東シベリア遠征』、[ref]Bernard Whittingham, Royal Engineers, Notes on the Late Expedition Against the Russian Settlements in Eastern Siberia; 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-2)

1850年10月にイギリス戦艦が琉球に行き、宣教師の処遇改善を要求します。琉球側に要求をのませるには、武力の示威が有効だと考えていることも伝えられています。下は1850年10月に琉球王国に来航したイギリス海軍レイナード号の報道です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1851年3月8日号に掲載されました。「1816年にバジル・ホール艦長の訪問以来、この興味深い島についてほとんど知られていなかったが、女王陛下の蒸気スループ船レイナード号の最近の訪問が、我が国の人々にこの島に関する知識のストックを増やす機会を与えてくれた」と始まる長い記事と4葉の挿絵です(注1)

琉球のスケッチ

 この琉球訪問の目的は、琉球に滞在中の医療宣教師のDr. J.B. ベッテルハイムに関する琉球政府の対応について、イギリス政府からのメッセージを琉球政府に渡すことで、彼の琉球でのミッションを琉球政府に知らせるために、香港司教が乗船しており、いい結果をもたらすよう、断固とした、しかし、懐柔的な調子をとることになっている。 レイナード号は那覇ロードに[1850年]10月3日に到着し、1週間滞在した。その間、当局と3回会談を行った。10月5日の最初の会見で、Dr.ベッテルハイムの様々な苦情が当局に伝えられた。最も深刻なのは、彼がミッショナリー活動をしている時に当局のスパイか調査官に暴行を加えられたというものだった。当局の説明が要求された。 次の会見には琉球の総督か主席が同席し、Dr.ベッテルハイムの扱いは今後非常に違ったものになるという確証を得た。最後の会見では、武力誇示が政治的に有利だと考えて、クラクロフト艦長(Captain Cracroft)と司教は50人の護衛を伴い、レイナード号の全士官が制服を着て従った。9日に司教と官吏たちが船上のエンターテイメントに参加し、プレゼント交換が行われた。琉球に蒸気船が来たのはこれが初めてで、[琉球人は]エンジンとプロペラの音に驚き、翌日の離港に大きな安堵を覚えたのは間違いない。 士官たちが銃を持って自由に歩き回ることを阻止する様子はなかったが、ヤマシギには早すぎ、スポーツマンたちが手に入れたのはうずら2,3羽とムナグロ・チドリだけだった。那覇の自然は非常に美しい。(中略:風景描写)琉球の人々はフレンドリーで親切で、彼らのサービスに対して支払いをしようとしても、すべて断った。サツマイモと米が主食のようで、外見は極貧とはほど遠く見えるが、明らかに貧困の最低ラインだ。この土地の所有者である政府は、生産の半分で官僚と知識階級を養い、彼らは人口の大半を占めて、安逸を貪っている。(中略:琉球の人々の衣服についての記述)

琉球のスケッチ(続き)

 琉球は300年か400年前に中国の明朝の皇帝によって王国に格上げされたと言われている。中国と日本の間で戦争が行われ、中国が日本の[琉球に対する]関心から琉球を引き離そうとするためだったと言われている。 琉球は隷属の印に、毎年中国の福州市の港に船を送っている。これは福建の大きな首都の貿易港で、我が国にも開かれている。この都市に琉球の学者たちは勉学に訪れる。中国語がこの国の丁寧語(polite language)だが、琉球人の日常の話し言葉や顔つき、習慣、気質は明らかに日本人である。日本の影響は、地方政府の役職すべての任命を日本の内閣が指示することに現れている。 今回の訪問によって、Dr.ベッテルハイムの状況改善という効果があることが期待されている。ベッテルハイムは布教の熱意にあふれすぎているが、彼の意見や行動には奇妙な点もある。したがって、この遠隔の地に於ける彼の布教活動はキリスト教伝道に対してはほとんど効果も益もない。しかし、この地のフレンドリーな性格の人々と彼が接触することを当局が妨げているので、当然である。しかしながら、彼は時間を無駄に過ごしたわけではない。一人も改宗させられなかったが、ルカ福音書と使徒行伝を琉球語に翻訳した。 掲載のイラストのうち、Dr.ベッテルハイムの家は、元は寺だったが、今は管理状態が悪い。その下の椅子はこの島の唯一の移動手段である。この島には馬はほとんどおらず、いても、それは役人しか使えない。首都・首里の風景は二重の城壁に囲まれている王の城である。ヨーロッパ人は入ることを禁じられているが、レイナード号の士官候補生の一人が城壁のてっぺんに登って、中を見た。群集が集まってきて、彼をそれ以上行かせないよう止めたので、それ以上この都市を検分することはできなかった。

琉球王国の成立

 「琉球のスケッチ」の中で気になるのは、「300年か400年前に」「中国と日本の間で戦争が行われ」、その理由が、中国が日本の関心を琉球から離し、そのために琉球を王国にしたという部分です。この記述の根拠が英語で1850年前にあったのかを知ろうと、1816年のバジル・ホール艦長の記録『コリアと琉球島への航海』(Voyage to Corea, and the Island of Loo Choo, 1820,(注2))や、ケンペル、シーボルトをチェックしましたが、該当する記述はありません。来間泰男著『琉球王国の成立』(上下2014、(注3))を読んでみました。これは多くの先行研究を紹介しながら、それぞれの問題点と著者の疑問点をまとめてあり、大変参考になりました。定説と著者の見解などを拾ったものが以下です。 1372年に明朝が琉球に使節を送って、朝貢関係を呼びかけ、当時中山・山北・山南と三つの勢力に分かれていた沖縄本島の中山王察度(さっと)が1377年に、山南王承察度(しょうさっと)が1380年に、山北王岶尼柴(はにし)が1383年に朝貢使を明に送ったとされています。これは服属を目的とした関係ではなく、貿易の交渉や遭難者の送還などの交渉を円滑に行うための制度とされていました。明が琉球と朝貢関係を結ぼうという目的は、光武帝が新王朝の成立を周辺国に知らしめると共に、沿岸を荒らしていた倭寇の禁圧でしたが、期待した日本が南北朝の動乱期だったため、関係を築けない状況下で、琉球が登場しました。 多くの歴史家は琉球王国の成立を、正史によって記述が異なりますが、1422年か1429年の三山統一の時期としているそうです。著者は明が琉球に三王国あると認めた時であり、明によって王国にさせられたので、内側から支配者が王国を作ったのではないと主張します。そもそも、中国側が琉球という名称も王という称号も与え、「初期の琉球王国の政治は中国人が主要な役割を果たしていた」(下p.42)ことは、明から与えられた交易船の航海術も、通訳も、外交文書も中国人が主導したことからも明らかだとのことです。 日本は1404年に中国と朝貢関係を結びました。一方、琉球と日本との間の交流は、現存の資料で最古のものが1404年頃に「をきなう船」が足利幕府への使船として記録されており、1414年の将軍義持が「りうきう国のよのぬしへ」(琉球国代主)進物品の受け取り状を出していることでも証明されています(下p.319)。興味深いのは、将軍から琉球宛の文書がかな書き、琉球国からの外交文書が和様漢文で、琉球国王が東南アジアや朝鮮の国王とやりとりした文書は、中国の同レベルの官庁間で用いられる公文書を基本としているという点です。

ペリーの前任者が日本へ向かう

 1851年にはもう一つ日本関連の記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されています。1851年7月12日号の「国内外ニュースの概略」と題するコラム(注4)です。
 アメリカ合衆国フリゲート艦サスケハナ号のオーリック提督が最近、サンフランシスコから日本に向けて出発した。もしできたら、この帝国との通商を開始せよという指令を受けている。彼は数人の日本の漂流民も連れている。カリフォルニアとそれ以前の[獲得]州はサンドイッチ島[ハワイ]を切望の眼差しで見ている。なぜなら、この島はアメリカ捕鯨にとって主要兵站地であり、中継貿易地だからだ。しかも、アジアへの中間地だ。
 オーリック提督(John H. Aulick: 1791頃-1873)は1850年に東インド艦隊を指揮するよう命令を受け、国務長官に日本との通商交渉を提案します。国務長官はフィルモア大統領に伝え、大統領はオーリックに日本政府との友好通商条約の交渉役を任命します。そして、1851年6月にサスケハナ号で出発しますが、途中でサスケハナ号の船長と喧嘩をし、寄港したブラジルで船長を降ろし、その後の些細な誤解が発展して、オーリック提督は任務途中で解任されてしまいます(注5)

アメリカが日本に開国を求めた理由

 なぜ19世紀中葉にアメリカが日本の開国を求めたのか、アメリカ国務省のサイト(注6)で次のように説明しています。
 中国の港が通常取引用に開港したことと、カリフォルニアの併合によってアメリカの港が太平洋側にできたことにより、北アメリカとアジアとの間の海運が安定的に続くことが確かなものになった。その頃、太平洋におけるアメリカの貿易商は帆船から蒸気船に変えて航海しため、石炭補給地を必要とした。アメリカから中国へ行く長い航海の途中で食料や石炭を補給できる港が必要だった。日本は地理的に[アメリカにとって]有利な条件を満たしている上、日本には石炭の膨大な鉱床があるという噂があったので、日本と貿易・外交的接触を確立する要請が増していた。その上、アメリカの捕鯨産業は18世紀中頃には北太平洋に進出していたので、難破時に援助を得るための安全な港、安定した補給地を求めていた。ペリー使節団が行くまでに、多くのアメリカの船乗りが難破して日本にたどり着き、歓迎しない日本人の手で酷い扱いを受けた話が全米の商人コミュニティの間に広まっていた。 経済的考慮と、北アメリカ大陸全土に拡張するアメリカを動かしていた「明白な天命」(Manifest Destiny)の信仰という同じ組み合わせが、多くのアメリカの商人と宣教師を駆り立てて、太平洋を渡りたいと思わせたのである。この頃、多くのアメリカ人が中国人と日本人を文明化・近代化させる特別な責任があると信じていた。日本の場合、宣教師たちはカトリックが拒否されたところでは、プロテスタントは受け入れられると感じていた。その他のアメリカ人は、たとえ日本人が西洋の理想を受容しなくても、世界との交流と通商を強制することは不可欠であり、最終的には両国にとってプラスになると主張した。
 「明白な天命」という考え方は、南北戦争(1861-65)前にオレゴン・テキサス・ニューメキシコ・カリフォルニアの獲得を正当化するために使われ、南北戦争後にもこの概念が使われ続け、スペインとの戦争、ハワイ併合などにアメリカの外交政策の武器として再確認されたそうです[ref]David S. Heidler, Jeanne T. Heidler, “Manifest Destiny: United States 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-1)

ペリー来航3年前の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に、アメリカが中国と日本に戦争を仕掛けるかもしれないという長文記事が掲載されています。 『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899』(2006)には、日本関連の記事は1853年から始まったと書いてありましたが、その3年も前から日本関連の記事が掲載されていることを知りました。米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリーに掲載されている『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1853年前のものを調べたところ、1850年からJapanという名前がイギリス市民に広まっていたことがわかりました。の世界初の挿絵入り新聞の影響力がいかに大きかったは、その発行部数でも明らかです。創刊号が1842年5月で、その時の発行部数は26,000部でしたが、1855年には20万部に、1863年には31万部に達しました((注1), p.ix)。当時の最も人気のあった日刊新聞『タイムズ』は7万部だったそうですから、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された記事が、少なくとも数の上でいかに影響力があったかがわかります。1854年時点で、長崎奉行所がこの新聞を持っていたことは2-4で紹介した通りです。 以下に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の最も早い時期(1850年8月10日号、(注2), pp.109-110)の記事を抄訳します。

カリフォルニアとアジアの隣人たち

 最初の部分はカリフォルニアのゴールド・ラッシュについて、筆者の苦々しい思いが書かれていますが、それが中国と日本に対する欲望というトピックにつながっていきます。
カリフォルニアの獲得とその後の宝の発見は野望と喧嘩好きな性質によってもたらされた。また、悪事と不正によってもたらされた。合衆国は弱い隣人に喧嘩をふっかけ、長い間ほしかった領土のうち、価値ある部分をその隣人が引き渡してからようやく、和平を結んできた。(中略)中国と日本には、長い間野次馬はいなかったが、今やブラザー・ジョナサン(Brother Jonathan=アメリカ)が隣人だ。メキシコに喧嘩をふっかけ、征服したあのブラザー・ジョナサンだ。欲深く、悪辣で、生意気なブラザー・ジョナサンだ。ブラザー・ジョナサンは金掘りに飽きたら、遅かれ早かれ、今度は新しい場所で、彼特有のエネルギーと好奇心を発揮させるために、この二つの閉鎖的自治体(close corporations)の様子を見に行くだろう。目的は「異人たち」(原文強調:”strangers”)がどんな人々か見ることと、もしできればビジネスをするために知り合いになることだ。そうでなければ、喧嘩の理由を見つけるためだ。
 この記事は社説のようにトップに掲載されていて、その下の挿絵とは関係ないのですが、アメリカが日本に戦争を仕掛けるという警告の内容なので、まるで、こうなるぞという含みが込められているようです。現在はドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州とされているデンマークに隣接している地方をめぐって、当時のプロイセンとデンマークが戦った第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の様子です。

カリフォルニアとアジアの隣人たち(続き)

 今やカリフォルニアの人口を占めているアングロ・サクソンの特徴を考えると、そして、排他的で傲慢だが、弱くて無気力な中国人と日本人を考えたら、喧嘩の方がずっと現実的で、ありえる結論だろう。複数の国家の大家族の中で、このような時には、この2国が長いこと維持してきた孤立という位置を守ることができるのは距離だけだ。この2国の場合、忙しく動き回るヨーロッパと、ヨーロッパの分派であるアメリカから身を守るセーフガード、唯一ではないがベストなセーフガードが突然取り払われてしまった。時代の壁が壊されたのである。そして、カリフォルニアは生命力と野望と大胆不敵さに溢れかえっており、汚い手を使うか、フェアな方法かで、「花のような人々」("flowery people")の品定めをして、この人々の国を世界の好奇心と文明の前に晒すのを、次の世代まで待つようなことはしないだろう。アメリカはすでにこの思いをめぐらせ始めた。そして、カリフォルニアから人がいなくならない限り、この方角から二つの偉大な帝国を開国させることは時間の問題だ。 アメリカもヨーロッパもこの行動を正当化することも、推奨することもしない。中国や日本との戦争はメキシコとの戦争と同じくらい犯罪的だ。しかし、遅かれ早かれ、この二つの帝国が譲歩して、周囲の生命力と行動力の世界と友人にならない限り、傲慢な無知と弱々しい愚かさに付き物の普遍的な運命を共有することになるだろう。北アメリカ大陸でアングロ・サクソンが、現在メキシコを所有しているスペイン人子孫の劣った人種を、まさに必要性から次第に追い出しつつあるように、より強い文明が打倒するだろう。 アメリカの偉大なエッセイスト、エマーソンが最近出版した『代表的人間像』(注3)の中で、この問題を説明しているかのようだ。「物は一見あることをいっているようでも、実はそれと反対のことをいっているのだ。外見は不道徳でも、結果は道徳的なのだ。物は下降し、失望に正当な理由を与え、悪人を世に出し、正しい人間を打ちたおすように見える。しかもまことの目的は、殉教者だけではなく、悪漢たちの手によっても押しすすめられるのである。あらゆる政治闘争で悪漢が勝ち、社会は、その政府が変わるやいなや、一組の罪人たちの手からやっと救われたと思うのもつかのま、またもや別の組の罪人たちに引きわたされるように思え、そして、なるほど文明の進歩は重罪の連続ではあるけれども、——しかし全体をつらぬく目的は、何としてでも達せられるものだ。こうして歴史の流れのいたるところで、天は卑しく粗末な手段のほうを好んでいるように思われるのである。年をつうじ世紀をつうじ、悪の力をつうじて、さては玩具や原子をつうじて、ひとすじの偉大な慈悲の河が、さからいがたい勢いで流れつづけているのだ」(注4)。このカリフォルニアの場合も、同じことになるだろう。 中国と日本の排他性と警戒心を最後に打ち破るのは非道徳的な手段かもしれない。しかし、その結果は、強者が弱者を征服すべき、あるいは光が闇を追い払うべきという絶対の必要性と同じに思える。この2国の排他性と警戒心はそれ自体が非道徳的であったから、物事が進む中で、彼らは不可避な罰を受けなければならない。それは、自然の偉大な道徳律に反する国すべてに天が命じたものである。1国家がうぬぼれのうちに閉じこもり、普遍的人間性の歩みや視線に対して領土を解放することを拒否する道徳的権利はない。どの国家の市民でも、一般の幸福のために制定された法律の運用から自分を孤立させることができないのと同じである。誰もが他人に何らかの義務を負っている。そして、どの国も文明の大家族内では、あらゆる他の国に対して行わなければならない兄弟としての義務がある。極東の文明はこの教訓をこれから学ばなければならない。カリフォルニアは、それを彼らに教える道具になるよう運命付けられているようだ。出来事の内部に次の出来事が組み込まれ、人間が各自の行動の道徳性をどう考えようとも、「偉大な慈悲の傾向」が世界の進歩と一般の利益のために、それを覆す。
 引用されているエマーソンの『代表的人間像』はこの記事掲載の年、1850年に出版されたエマーソンの7つの講演集で、引用箇所は「モンテーニュ:または懐疑論者」の章からです。一部中略していますが、ほぼ原文に忠実な引用です。ただ、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の最終文で引用されている「偉大な慈悲の傾向」は酒本訳では「偉大な慈悲の河」となっているのですが、原文は”a great and beneficent tendency”なので、「傾向」としました。 「閉鎖的自治体(close corporations)」という語は、1835年以前のイギリスの地方自治法からきていて、民主的に選ばれた政府ではなく、自己永続的な寡頭政治が支配する世界で、イギリスでは1835年の地方自治体法によって廃止されましたが、アメリカでは19世紀を通して、自己永続的組織を指す意味で使われたそうです(注5)。 「花のような人々」という表現は主に中国について「花の王国」などと、当時使われていたようですが、日本にも使われていたことが、アメリカ議会図書館のサイトに掲載されている写真のキャプション、「花のような王国の中心で:日本の奈良」(注6)からもわかります。

非道徳的手段の結果は道徳的?

 この記事で一番驚かされるのは、アメリカが中国と日本に戦争をしかけるぞと、まるでイギリスは中国に戦争をしかけてはいないかのような論調です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1843年3月11日号には「中国の貢ぎ物」と題して、戦争の賠償金として中国の純銀貨、20トンが届き、英国造幣局に運び込まれる様子が大きく掲載されています(注7)。 アヘン戦争の様子は、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1842年11月12日号に「広東川でネメシス[報復の女神]号が中国の戦争帆船を撃沈」[ref]Peter C. Perdue, “The First Opium War: The Anglo-Chinese War 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(3-4)

サン・フェリペ号事件の背景にあった、日本をめぐるポルトガルとスペイン、イエズス会士とフランシスコ会士などの托鉢修道士との確執を見ます。

イエズス会の特色

 前節でサン・フェリペ号事件に関する証言などから、日本をめぐるポルトガルとスペイン、イエズス会士とフランシスコ会士との覇権争いのようなものが見えてきました。ボクサーがサン・フェリペ号事件を紹介している第4章の題名「イエズス会士と托鉢修道士」(Jesuits and Friars)にボクサーの主眼点が表されているようです。私自身、イエズス会士と托鉢修道士がどう違うのか知らなかったので、まずボクサーが指摘するイエズス会の特色について解説していることを拾ってみます。
    フランシスコ・ザビエル[1506-1552]が薩摩に到着した1549年は、イエズス会が設立されてから10年に満たなかった。彼の友人であり同胞であるイグナチオ・ロヨラ[1491-1556]が1540年に設立したイエズス会憲章には、「ロヨラの軍隊的本能と軍隊訓練の影響が明らか」に表れ、会は最初からその軍隊的性格を反映していた。会のメンバーには厳しい規律と盲目的服従が基本的徳として教え込まれ、この組織全体が軍人精神を反映していた(第二章「イエズス会のメガネを通してみた日本」、(注1), pp.45-46)。
    イエズス会より古い托鉢修道士教団(ベネディクト会、ドミニコ会、フランシスコ会など)は、明確に民主的で共和的傾向があった。修道院長などは評決、任期は限定的で、その権限も制限されており、総会も頻繁に開かれた。一方、イエズス会の「総長」[ボクサーは英語名Generalを強調し、この名称が軍隊用語の大将であることを指摘]は名実ともに最高司令官である。選挙はされるが、任期は終身制で、あらゆることに歯止めのない権力を行使することができた。戦時中の軍隊で最高司令官が部下の任命も解任も自由にできるように、イエズス会の総長も好き勝手にどんなポストの任命、解任もできた(p.46)。
    ポルトガルのイエズス会が1540年に、ゴアが1542年、日本が1549年、中国が1583年に設立された。ローマにいる総長はこれらの支部の管理のために、定期的に特任巡察師(specially appointed visitors)を送り、極秘報告書を書かせて、個人の管理まで徹底して行っていた。この「戦う教会」(Church Militant)の新たな、よく組織化された支部がプロテスタントの進出を止めたのも不思議ではない(p.48)。
    日本でイエズス会が初期の頃に成功した理由の一つは、十字架の兵士たちの訓練と、武士道のスパルタ教育で育ったサムライとの間にある類似かもしれない。類似点を強調しすぎることはいけないが、[例えば]イエズス会では神意にのみ従って行動するために、世俗的執着から解き放たれた心を持つことが最重要であり、サムライは藩主のためにすべてを犠牲にすることに満足している(p.48)。
    ヴァリニャーノ[Alessandro Valignano: 1539-1606, 巡察師]の報告書と、それに対してローマがどう反応したかを概観すると、一つの事実が明確になる。日本におけるキリスト教は最初から最後まで、あらゆる時期において、マカオからの「巨大船」(注2)に頼っていた。イエズス会士が日本に来たのも「巨大船」だったし、将来性のあるこの地で彼らの布教活動を支えたのも、船の積荷の販売から得た分け前だった。敵対的、あるいは無関心な大名たちがイエズス会士を迎えて、家来に布教するのを許したのも、巨大船に対する野心からだった。イエズス会士を追い出してしまったら、巨大船が来なくなるという恐れから、秀吉も家康も、宣教師追放の間際に何度も躊躇した。つまり、巨大船が日本布教の頼みの綱で、二者の緊密な関係は、一方が消えれば、もう一方が事実上崩壊するというものだった(p.104)。
    ヴァリニャーノの1592年の報告書には、日本のイエズス会士の苦難の一つについて説明されている。多くの大名がイエズス会士に金塊ブローカーになってほしいとしつこく懇願した。1570年頃には中国と日本の間の金銀の異なる比率によって、日本から銀を中国に送り、中国で金を買うことで利益が得られることがわかったからである。ヴァリニャーノによると、この悪質な行為は最初、大村や有馬のようなキリシタンの小大名が、銀を少量中国に送って、金に換えるという小規模で始まったという。パードレ[神父]たちはいやおうなく仲介役をさせられ、キリシタン大名たちに恩を売るということで反対は起きなかった。豊後の大友宗麟は同じ行為を大規模にして、1578年に改宗するまでに年間3,000ダカット金の資本に達していた。これらの行為の結果、キリシタン大名だけでなく、異教徒の大名までがパードレたちに広東・マカオ・長崎間の金塊ブローカーとして手伝ってくれと、絶えずしつこくせがんだ(pp.111-112)。
ヴァリニャーノは映画『沈黙』(マーティン・スコセッシ監督、2016)の最初に登場しています。

イエズス会士と托鉢修道士との確執

 ボクサーはヴァリニャーノが日本をよく理解した人物として、彼の報告書を信頼しているようです。「力のあるイタリア人イエズス会士、ヴァリニャーノは遠回しにものを言う人物ではなく、最初の来日の時から、フィリピンのスペイン人托鉢修道士の存在が今後混乱を招くことになるという不信感を表明していた」(p.155)と書いています。キリスト教にしろ、仏教にしろ、各宗派/教団間の確執は歴史を通じて見られるが、キリスト教の記録は仏教よりも「ずっと黒い」(p.154)と評しています。たとえば、イエズス会が托鉢修道士を非難し軽蔑する時に使う「キチガイ托鉢修道士」(crazy friars)という語を紹介して、「この軽蔑的あだ名にどの程度正当性があるかは、以下に要約するヴァリニャーノとセルケイラ[Luis Cerqueira:1552-1614,イエズス会日本司教]の報告を読み、補遺IIIに掲載しているフランシスコ会士のヴァージョンを公正に比べて、読者自ら判断することができる」(p.155)と述べています。以下にボクサーの解説をまとめます。
 ポルトガルとスペインの関係については、1580年に両国がフェリペ2世のもとに同君連合王国として統一されたが、この二つの植民地帝国は従来通り別々に統治され、完全に独立していた。さらに、スペイン君主が認めたのは、東洋におけるポルトガルの宗教的特権で、カトリック教皇の勅書でも保証しているが、ポルトガル国王がアジアにおける布教活動の唯一の監督権を持つことだった。 しかし、スペインが1575年にルソンを征服してから、マニラにあった托鉢修道士教団は中国大陸の福建と広東にも足場を伸ばそうと試みた。この試みは中国が非協力的対応で失敗したが、托鉢修道士たちがポルトガルの布教保護権を無視する対応を示すものだった。したがって、スペイン人がやがて中国から日本に布教先を変えるだろうというヴァリニャーノの予想には理由があった。ポルトガルとスペインの政治的経済的ライバル関係は、マカオのポルトガルが素晴らしい富をもたらす中国—日本貿易を独占していることを、当然ながらスペインが嫌うことによって生まれており(p.156)、それが教団の嫉妬を悪化させていた。イエズス会が長崎で貿易船と協力していたため、托鉢修道士たちもマニラの貿易商を通して日本に足場を作りたいと思ったのである。 このように、ポルトガルとスペインの貿易商人と聖職者が協力し、ポルトガルとイエズス会士が、侵入しようとするスペイン人と托鉢修道士を入れまいと努力する一方、「征服者と托鉢修道士(conquistadores and frailes)」は同じく[日本に]入ろうと決意していた。

イエズス会—ポルトガルの日本独占の理由

 イエズス会以外の教団が日本に入るとなぜ不都合なのかをヴァリニャーノが1583年のセミナリオで長々と述べていると、ボクサーが要点を紹介していますので(pp.156-159)、抄訳します。
    日本でイエズス会が成功した主な理由の一つは、仏教が数多くの宗派に別れたために仏教が崩壊したと多くの日本人が感じていたところに、イエズス会の教えが統一されていることが神性な起源だと印象付けられたことである。もし托鉢修道士が入ってきたら、この印象が破壊される。なぜなら、様々な教団の僧衣や習慣が多様なため、名目上は一人の最高神と一つの聖書だというキリスト教も、現実には仏教のように多くの異なる小派で構成されていると信じてしまう。 ヴァリニャーノはメキシコやフィリピンから来る托鉢修道士は、半野蛮のアステカ人やフィリピンの新改宗者に使った征服者的方法に慣れていることを念頭に置いていたようだ。ヴァリニャーノは次のように述べている。「日本は外国人が支配できる国ではない。日本人は外国人による支配を許すような弱いバカな人種ではない。スペイン王はこの国で権力や司法権を持ってもいないし、決して持つこともできない」、「日本ではすべてにおいて日本のやり方に従わなければならない」。 もし托鉢修道士が大勢日本に入ってきたら、財政支援はあるのだろうか。托鉢修道士教団はその地の慈善によってまかなわれるべきだという提案をヴァリニャーノは非難し、日本は貧しい国で、もし托鉢修道士たちが強行しようとすれば、ヨーロッパの宣教師たちは伝道の名のもとに、実は生活費を得るために日本に来るのだという仏教僧たちの批判を強めることになる。王も教皇も托鉢修道士たちを維持するための巨額の追加費用を払うとは期待できない。 4. ヴァリニャーノの最後の理由は最も興味深い。この後に起こる展開を考えると、予言しているようだ。ヴァリニャーノはこう述べている。「日本の多くの大名たちは我々イエズス会士が日本で何か悪巧みをしていると酷く恐れている。自分の領土でキリスト教改宗を許可すれば、その改宗者たちを使って、イエズス会士を支援しているスペイン王のために立ち上がって反乱を起こすのではないかというのだ。布教した国を占領するという最終目的がなければ、[ポルトガルとスペインの]王たちがなぜ布教に巨額を費やすのか[日本人は]理解できない。数人の大名が多くの機会にこのことをあからさまに言った。なぜなら、仏教僧が我々に反対する申し立ての主要な点がこれだからだ。スペインとポルトガル王国が統一されたことを知った今、新たな外国の宗教が入ることによって、この疑惑はさらに強まり、我々とこの地のキリシタンに簡単に危害を加える気になるかもしれない」。
 これらの理由をあげて、ヴァリニャーノはローマのイエズス会長に、托鉢修道士を日本に入れないよう、教皇の勅書を求めるよう依頼し、教皇もフェリペ国王も同意します。しかし、スペイン国王が国民の利益を犠牲にしてポルトガルをなだめたにもかかわらず、現実にはイエズス会と托鉢修道士との闘いは始まったばかりでした。托鉢修道士たちは教皇の声明は間違った情報と隠謀によって出されたと主張して、声明を無視し、マニラの非キリスト教当局も、マカオのポルトガル人に対する政治的経済的妬みから、托鉢修道士たちを支持しました。

フランシスコ会士の暴挙

 1590年以前はフランシスコ会士が2,3人日本に上陸しただけですが、イエズス会—ポルトガルの日本独占を破る機会が1592年に起こります。いろいろな経緯を経て、スペイン当局がドミニコ会托鉢修道士、フアン・コボ[Juan Cobo: 1546-1592]を使節として日本に送ります。彼は1592年6月に薩摩に上陸し、ペルー商人と一緒に肥後の名護屋に向かいます。この商人は長崎のポルトガル商人コミュニティに搾取されている(彼自身の言)と不満を持っていました。長崎のポルトガル人に対する、二人のスペイン人の不満は快く受け入れられませんでしたが、秀吉はコボに命じて、スペイン植民地帝国の位置と広がり方について、地球儀を使って説明させました。ボクサーは「この4年後に起こったことを考えると、これは重要な出来事だ」とコメントを挿入しています。このドミニコ会士はフィリピン総督への返書を持たされて返されますが、マニラに戻る途中に難破し、フォルモサ(台湾)の首狩り族の手で死にます。 2回目の外交団が、フランシスコ会のペドロ・バウティスタ(Pedro Bautista)に率いられ、3人の仲間と共に、1593年に秀吉に丁重に迎えられます。秀吉が迎え入れた理由はこのスペイン人たちが将来ポルトガルの貿易競争相手になると見たからです。そうすれば、望んでいた中国の絹と金を、マカオに独占されている長崎貿易に払っていた値段より安い値段で手に入れることができると思ったからです。そこで秀吉は4人のフランシスコ会士に京都滞在を認め、マカオからの「巨大船」で行われる貿易の一味とみなされているイエズス会士と同じく、マニラの貿易商をおびき寄せる餌になることを期待しました。 フランシスコ会士は秀吉の応対を額面通りに受け取り、大喜びして、ミサを公開して、まるでローマにいるかのように振る舞い、キリスト教が禁止されている国にいることを無視しました。イエズス会士たちも、キリスト教に好意的な日本の役人たちも驚愕し、托鉢修道士たちに何度となく忠告しました。日本ではイエズス会士がするように、仏教僧の格好をし、無謀な行いを慎むようにと。托鉢修道士たちは笑い飛ばし、イエズス会士が変装して布教をするのは卑怯だと責めました。 ボクサーによると、当時のフランシスコ会士はメキシコ、ペルー、フィリピン、ポルトガル領ブラジルで成功した方法を採用しただけで、これらの国の文化、信仰、迷信などは無視して布教できたからです。ボクサーは以下のように述べています。「このような極端な方法を、日本・中国・ヒンドスタン[インド北部]のような古い、多くの点でヨーロッパよりも優れている文化の国々の住民に適用したら失敗するのは目に見えていた。イエズス会士たちはフランシスコ会士やドミニコ会士よりもずっと早くこの事実を認識していた」(p.162)。フランシスコ会士の中にはこの見解を持つ者もいて、この理由からフランシスコ会が改宗の対象としていたのは「無知な忘れられた」(p.163)下層階級だったのです。一方、イエズス会は上層階級に焦点を当て、彼らが改宗すれば、下層階級にも及ぶと考えたのです。 キリスト教布教に対する秀吉の寛容な態度が、スペイン人貿易商から得られる利益を見込んでいるためだと、スペイン人托鉢修道士たちが理解せず、こんな時にガレオン船「サン・フェリペ号」が四国沖で難破したことから、一連の出来事が起こり、それはヴァリニャーノが10年前に予言していたことが正しかったことを示していると、ボクサーは指摘しています。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(3-3)

日本におけるキリシタン迫害の元凶とされる1596年のサン・フェリペ号事件がどう伝えられているか、同時代人の証言と、明治時代に日本で伝えられた解説を見ます。サン・フェリペ号事件の真相は? 「サン・フェリペ号事件」について信頼出来る記述があるか調べてみました。1951年刊の『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』(The Christian Century in Japan 1549-1650, (注1))という歴史書が信頼できる証拠を示していることがわかりました。日本には信頼できる一次資料がほとんど残されておらず、著者のチャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は大英博物館やポルトガルの古文書館の第一次資料と日本を含めた先行研究を丹念に調べて、根拠をもとに経緯を述べています。 チャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は、ヨーロッパの初期海外進出の歴史、特にアジアやブラジルにおける帝国建設の歴史の専門家として、イギリス屈指の歴史家だと『ガーディアン』紙の訃報記事(2000年5月16日「チャールズ・ボクサー:ポルトガルの行政とその暗い帝国主義の過去の歴史家」(注2))が伝えています。ボクサーは本国イギリスよりも外国でよく知られ、高く評価されていると述べられています。訃報が伝えられると、ポルトガルの文化外交によって進められた黄金時代のイメージの陰にある汚職と搾取の広大なパノラマを昔の行政文書から明らかにした学者として、ボクサーはポルトガルで賞賛されたそうです。『ニューヨーク・タイムズ』も長い訃報記事(2000年5月7日「チャールズ・ボクサー、愛と戦争のレジェンド、96歳で死す」(注3))を出し、彼の最も有名な著作の一つに『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』をあげています。 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」についてどう記述しているか、どんな一次資料に基づいているか、第4章「イエズス会士と托鉢修道士」(Jesuits and Friars)から該当箇所を訳します。
[サン・フェリペ号]は150万シルバー・ペソ以上の価値のある積荷を載せて、7月にアカプルコに向けてマニラを出帆した。台風で航路を変更せざるを得ず、1596年10月19日に土佐の海岸沖に接近した。サン・フェリペ号事件に関するペドロ・マーティンス(Pedro Martins)司教の宣誓証言が信用できるとしたら、航海長(pilot)は船の壊滅的損傷状態にもかかわらず、長崎に向かうのがいいと提言した。しかし、司令官(スペインでは「将軍」と呼ぶ)はフアン・ポブレ修道士(Fray Juan Pobre)の説得で、この提言を退けた。ポブレは前年に日本に来ていて、秀吉が京都のフランシスコ会士たちの父のような存在だと請け負ったのである。その2日後に船は難破し、積荷と乗船者たちは困難な中、船を離れるしかなかった。その地域の大名はフレンドリーとはほど遠く、四国のさむらいは積荷のほとんどを着服した。この点ではヨーロッパのどの国でも海岸沿いの住民は同じことをしただろう。スペイン側は京都に代表団を送って、秀吉に彼らのために善処してくれるよう懇願した。 日本在住のフランシスコ司教代理、ペドロ・バウティスタ(Pedro Bautista)は必ず成功すると希望的観測を述べただけでなく、(もしマーティンス司教が信頼できればだが)、仲介をしようというイエズス会の申し出を素っ気なく拒絶するよう、スペイン人たちをそそのかした。なぜなら、彼はすべてをうまく握っていたからだ。同じ情報源が述べるには、フランシスコ会修道士たちはあまりに不器用で、関白にとりなしてもらうためにフレンドリーな京都所司代の前田玄以法印宗久(Maeda Genni Hoin Munehisa)を使う案を同様に拒否した。彼らはその代わりに奉行で秀吉の特別調査官だった増田長盛(Masuda Nagamori)を選んだ。増田は彼らを「裏切った」。小西行長が増田にいい通訳を同行させるよう提言すると、増田は「合意に達するのが目的なら、いい舌が必要だろうが、私の目的は盗品を回収することだから、必要なのは手だけだ」とぞんざいに言い返した。これだけでもいい前兆ではなかったが、この後にやってきたのは更に悪かった。((注1), p.164)
 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」の根拠として注で挙げているのは、大英博物館所蔵(文書番号付き)のペドロ・マーティンス司教、1596年日本航海のカピタン・モール(戦隊司令官)だったルイ・メンデス・デ・フィゲイレド(Ruy Mendes de Figueiredo)とその他の目撃者の宣誓証言書です。ペドロ・マーティンス司教はサン・フェリペ号事件の2ヶ月前の1596年8月に日本に到着したポルトガル人の最初の司祭です[ref]Jesús López-Gay, S.J. , “Father Francesco Pasio (1554-1612) and His Ideias About the Sacerdotal Training of the 続きを読む
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