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英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-2)

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“”THE SIX FOLDING SCREENS OF LIFE. AN ORIGINAL JAPANESE NOVEL”, People’s & Howitt’s Journal of Literature, Art, and Popular Progress, London, Willoughby & Co.,”

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号に掲載された柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』(1821)の英訳と原作を比較します。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー

年号の最後とはいっても、大判の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月3日)に2ページにわたって、日本の絵草紙を紹介した意図は何だったのか、どこを抜粋したのか、どんなコメントが付けられているのかを探ってみます。スネッセンの英訳を連載した『大衆とホイットのジャーナル』はこの4巻目をもって廃刊になったそうですから、購読者数が少なかったと推測できます。それでも「本作品が日本の人々の特徴、作法、考え方などを正確に伝えている」ことが紹介の理由なのかもしれません。 では6年後にこの英訳を要約したと考えられる『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』[ref]The Illustrated London News, Vol.29. July-Dec. 1856, この最後に1857年1月3日号が含まれています。https://archive.org/details/bub_gb_uJc0AQAAMAAJ[/ref]の記者はどんな思いで紹介したのでしょうか。以下に最初のコメントを抄訳します。
 今日読者諸氏に提供する本物の日本の物語の珍しさは、我々が知る限り他の物語が未だかつてヨーロッパとイギリスに届いていないという事実からも証明できる。旅行者を通して、日本帝国の一般的な民俗習慣については世界に知られるようになったが、その情報を役立てるのは主に博識な学者たちに限られていた。おそらく、この閉ざされた奇妙な国に関する情報を大衆に広める唯一の手段は、この新聞のコラムで度々提示されているイラストレーションだけだろう。 この物語の趣旨自体が中国の物語と驚くほどの対極にあるように見える。この二つの国はその近さと位置から、ほとんど同じだと推測されるかもしれないが、この2人種の民俗と感性は似た点が全くない。読者が中国の物語の紡ぎ方や行動について思い起こせば、その違いはどの段階でも驚くほど明らかだろう。
 この後、筋の紹介に入ります。ちなみに、イタリア語訳が1872年に、フランス語訳が1875年に出ているそうですから[ref] COMPILED BY FR. Von Wenckstern, A Bibliography of the Japanese Empire—Being a Classified List of all Books, Essays and Maps in European languages relating to DAI NIHON [GREAT JAPAN] Published in Europe, America and in the East from 1859-93 A.D., (フリードリヒ・フォン・ヴェンクシュルテン『大日本書史』)E. J. Brill, Leiden, 1895, pp.92-93.https://archive.org/details/abibliographyja00palmgoog[/ref]、スネッセンの英訳も『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者による要約も、ずっと早いわけです。英訳に関しては、1871年に新訳が「日本の女性、みさを」という題名で雑誌『フェニックス』に掲載されていますので、最後に紹介します。まずは、スネッセンの1851年訳を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がどう要約しているのか、ストーリーのどの部分を採用しているのか、どんな誤解があるのか見るために、原作の各エピソードの後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳を付します。原文[ref]柳亭種彦「浮世形六枚屏風」『近代日本文学大系』第19巻、国民図書、1929年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1883502[/ref]の要約にはR.T.(柳亭種彦)、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳にはI.L.N.と付して区別し、英訳の固有名詞と地名はローマ字のままにします。原文の旧漢字と旧仮名遣いは現代日本語に、会話文の旧仮名遣いは原文通りにしました。

R.T.

むかしむかし、関東の管領濱名入道の一族に、網干多門太郎員好(あぼしたもんたろうかずよし)という者ありけり。上総国半国を領し、文を好み武に長じ、名ある家来も多かりければ、勢いはおさおさ管領に劣らず、相州鎌倉小袋坂のほとりに、善美をつくしたる館をかまえ、又大潮金沢なんど所々に遊猟の亭をもうけ、いと目出度く富みさかえたり。 頃しも秋の末つかた、今を盛りの紅葉見がてら、射鳥狩せばやとて、かねてしつらえおきし大磯の下館へ赴き、日めもす遊び暮らして、はや黄昏の頃、鴫たつ沢にぞ至りける。実に「心無き身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮」と西行法師がよめりしも宜なり。はるか人家に引離れ、唯かたわらに古りたる辻堂の立てるのみ、いと物さびしき所なり。折しも遥か向こうの方に、鴫の一羽あさり居るを近習の侍、「あれあれ御覧候え、鴫立つ沢の名において、鴫の下り居るもひとしお興あり、先ず暫し此の堂にみ腰をかけられ、鴫の飛び立つを見給はば、時も秋の夕暮れなり、西行の歌のさまに少しも違ひ候まじ」と言いければ、多門太郎打笑い、「鴫立つ澤と詠みたるは、飛び立つ事にはあらず、唯何と無く下り居て、鳥の立てる様を云ふなり。斯の歌の体を描くに、鴫の飛ぶ所を描くは、返す返すもあやまりなり。あれ今あさりもやらず飛びもやらず、物寂しげに立てるこそ、鴫立つ澤とは云ふべけれ」と物語り給えども、歌道に疎き侍はよくも心得ざるにや、上の空に聞き流し、「彼の鳥の居る所までは凡そ三十間もあらん」と何気なく言い出ずるを、一人の侍聞きとがめ、「イヤ鴫と云ふのは鶉に等しき小鳥なり、斯くあざらかに見ゆるは二十間にはよも過ぎじ」と答うるに、以前の侍頭をふり、「人々のどよめく声に、恐れもやらず立てるこそ、遥かに隔たる證なれ」「イヤイヤ試みにこぶしを付け小的を射るべき心にて試し見るに、左まで遠くには覚えじ」と両人が言い募り、此の争いさらに果つべう様も見えず。時に員好が近習の侍、水間宇源太が倅同苗島之助、其の年漸く十四歳、お側去らずの小姓にて、今日もお供にありけるが、両人が前に進み出で、「先ず暫く此の争ひをやめ給へ、それがしが細矢を以て遠近を計り見るべし」と袴のそば高く取り上げ、弓に矢からりと打ちつがえ、よっぴいてひょうと放せば、矢はあやうくも鳥の背をすって蘆間に止まり、鳥は驚き飛びさりけり。多門太郎大いに怒り、「汝若輩の身を以て古老の武士を差置き、人も頼まぬでかし立て、あまつさえ鳥を射損じ、面目無くは思はずや」とさんざんにしかり給えば、島之助も其の怒り面に現れ、弓をかたえにはったと投退け、「あの矢取りて来るべし」と下部に向かい言い付けけるにぞ、何かは知らず沢に下り立ちようようにして拾い取り、件の矢を差出せば、島之助手に取り上げ、更に恐るゝ気色もなく、主人の前に進み出で、「鳥の下り居る其の所を、遠し近しと云ひ、二人が争ひ果てし無ければ、それがしが其の間を計り争論を静めんと存じ、始めより遠近を計らんとは申しつれど、鳥に射当てんとは申さず、是れ御覧候へ、それ故に征矢(そや)を用ゐず。陣頭の蟇目(ひきめ)の中へ鴫の羽を止めたれば、矢のとゞきしには疑ひも無し、東夷の荒くれしく歌の事は知らずと云へども、所も所折もをり、彼の鳥を射留めん心かつ以って候はず、如何に方々小腕と云ひ、未熟のそれがし目当はづれず、鳥の羽を蟇目に留め候こそ其の間近き證なれ」と言葉よどまず云ひ放つ。 多門太郎はますます怒り、「おのれに道理あるにもせよ、主人に言葉を返すのみか、今投げ捨てし其の弓は我に投打なせしも同然、其のまゝに差置きなば寵愛あまって道知らぬ曲者を召使ふと、世の人口にかゝりやせん。さある時には家の瑕瑾(かきん)、切腹さすべき奴なれど、前髪あれば小児も同然、今日よりしては勘当なるぞ。其處退れよ」と、眼色変え、はったとにらみ給いければ、島之助も今更に何と返さん言葉もなく、大小差置きすごすごと、其の場をそのまゝ立ち去りけり。 此の日島之助が父宇源太は御供に加わらず、島之助は面目無くや思いけん、立帰って父に対面する事も無く、何地へか立去りけん、絶えて行方は知れざりけりとなん。

I.LN.

 物語は高官 Abosi Tamontaraがシギ狩に出かけるところから始まる。夕暮れ時に近くの沼でシギを見ると、家臣の間でその種類について議論が始まる。また、その沼が飛び立つシギの沼という、よく知られている名前にふさわしいか、あるいは、「葬式の木の沼」がふさわしいかと議論していた。主人も議論に参加したが、その間、重臣の不運な息子が羽一本だけ取ってシギだと証明しようと、矢を射る。弓矢は日本では非常に洗練された技術だが、彼の技量は不幸をもたらした。Tamontaraはこの沼に与えられた名称の不明瞭さに決着つけようと、偉そうな微笑を浮かべていたが、目下の者が彼の面前で矢を射る行為に怒り、少年が説明したにもかかわらず、追放し、父親もお役御免とする。
訳者注:スネッセン訳で西行の和歌の解釈部分に注をつけて、「原文の表現があいまいで、二つの読み方ができる。Sigo tatsu sawa(鴫が飛び上がる沼)かSiki tatsu sawa(死の木trees of Death)が立っている沼」([ref]”THE SIX FOLDING SCREENS OF LIFE. AN ORIGINAL JAPANESE NOVEL”, People’s & Howitt’s Journal of Literature, Art, and Popular Progress, London, Willoughby & Co., 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-1)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月)に紹介された絵双紙。れは、『ペリー日本遠征記』(1856)を紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1856年12月13日号、5-1-2参照)の次の日本関連記事で、柳亭種彦作・歌川豊国画『浮世形六枚屏風』(1821:文政4)の粗筋紹介です。1857(安政4)年1月3日号(注1)に掲載されています。「THE FOLDING SCREEN: A JAPANESE TALE(屏風:日本の物語)」と題されていますが、作者名もなく、「記者より」としか書かれていません。研究者も出典が探せなかったようで、「記者より」をそのまま引用しています(注2)

ドイツ語訳『浮世形六枚屏風』

 柳亭種彦作『浮世形六枚屏風』を最初に訳したのは言語学者東洋学者アウグスト・プフィッツマイヤー(August Pfizmaier: 1808-1887)で、初めて外国語に翻訳された日本文学とされています(注3)。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franzvon Siebold: 1796-1866)が第1回日本滞在中(1823-1828)に収集した日本の書物のうち60冊をウィーン帝室図書館に寄贈し、その中に『浮世形六枚屏風』が入っていたそうです。それをプフィッツマイヤーが見つけて翻訳し、1847年にウィーン大蔵省印刷局から出版されました。 フィッツマイヤーの『浮世形六枚屏風』の題名はSechs Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Weltで、国立国会図書館デジタルコレクションとドイツの国立ヴァーチャル・ライブラリーBayerische Staatsbibliothecがデジタル化して、ネット掲載しています[ref]柳亭種彦作・歌川豊国画『浮世形六枚屏風』上下巻、1847年版。国立国会図書館デジタルコレクション。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1884392August Pfizmaier, Sechs Wandschirme in Gestalten der 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-1-2)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は『ペリー提督日本遠征』から何を選んだか?

の2葉の絵の最初のは『ペリー提督日本遠征』(1856:(注1))に掲載されているもの、2番目のは同じものを白黒版で『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がその年の12月13日号(注2)に掲載したものです。キャプションは『ペリー提督日本遠征』のものをそのまま使っています。それぞれ、早稲田大学図書館蔵の「大井川歩行渡/広重画」(注3)と比べてみてください。アメリカとイギリスで紹介されたこの絵の作者名は記されていません。『ペリー提督日本遠征』掲載のは落款部分が滲んでいて「廣重」かどうか判明しませんが、字体から想像つきます。ところが、『東洋・西洋美術の出会い』(Michael Sullivan, The Meeting of Eastern and Western Art, University of California Press, 1989, p.211)では、国貞作とされています。 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では、『ペリー提督日本遠征』がアメリカ議会の命によって出版されたと紹介していて、「100点のリトグラフと、同程度の数の木版画の挿絵がつき、すべてが日本人の賞賛すべき生活、習慣、景色の特徴が示されている。これらはダゲレオタイプ(銀板写真法)で行われたので、その正確性を保証している」と述べています。500ページを超えるこの本を買う余裕がない読者には、八つ折り版(octavo edition)が半分以下の値段で売られているというので、『ペリー提督日本遠征』が相当広く読まれたと想像できます。 『ペリー提督日本遠征』に掲載された広重の「大井川歩行渡[おおいがわかちわたし]」は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では「日本の特徴——アメリカ合衆国遠征」と題された長い記事の途中に挿入されていて、記事の内容がほぼ『ペリー提督日本遠征記』からの引用です。 この本から『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者は何を選んだのでしょうか。絵入り新聞らしく、最初に「美術」(原文強調)の例を3点印刷したと述べて、最初は第二回遠征で条約署名が終わった後に寄った下田の現地人(母親と娘)の絵を選んでいます。文章の方は、『ペリー提督日本遠征』の横浜と下田の記述が混在していますが、正確な時系列は次のように『ペリー提督日本遠征』では記されています。 1854年4月に署名済みの条約を一足先にワシントンに送るためにアダムス司令官に託してサラトガ号が出発します。ペリー提督一行は日本人の生活を見聞するために、許された範囲内(5マイル=約8km)を歩き、「この国の多くを見て、いくつかの村と多くの人々を見る機会があった」((注1), p.394)と記されています。以下の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の解説では、ペリー一行がその後に行った下田の記述で始まり、その次の日本女性観も下田での見聞のようになっていますが、実際はペリー一行が横浜で観察した時の記述です。
 『ペリー提督日本遠征』によると、人家は1,000、人口は7,000で、その5分の1は商人と職人である。人々は繁栄している様子を見せ、物乞いはほとんどいない。通りでは商取引の様子がなく、市場もなく、日常の売り買いは密かに行われているようで、通りすがりのよそ者には、下田はこの世の煩わしさや心配が全くない場所に見える。(中略) 条約の特権が保証された後だからか、ペリー提督と士官たちは下田の町を自由に歩き回った。平民はこの異人たちをとても歓迎しているようで、フレンドリーな会話を交わした。彼らはいつもの好奇心を見せて、アメリカ人の周りに群がり、アメリカ人の服を観察して、気に入った箇所について手振り身振りで英語の名前を聞いた。しかし、日本の役人たちはこのような接触を認めないので、武装兵士や警官が飛んできて、市民たちを追いやった。人々は逃げ、町の店も閉じられ、通りも人がいなくなり、まるで伝染病にやられてしまった町のような悲しい光景だった。(中略) 女性はヨーロッパの人口密集地の多くの地域と同じく、野に出て働いている姿をペリー一行は観察した。この人口の多い帝国では、一人でも多くの手が必要だということを示していた。最下級の人々さえ、快適な服装をしていた。上流階級の人と同じ粗い綿の同じ形の着物を着て、上流階級よりも短く、腰を隠すぐらいの長さのゆるい着物をまとっていた。ほとんどの男たちは裸足で、頭にも何もかぶっていなかった。女たちも男性とほぼ同じ服装だが、頭は男性のように剃ってはおらず、長い髪をてっぺんで結ったり、下で結わえていた。(中略) 『ペリー提督日本遠征』によると、日本社会には一つの特徴がある。それは他のすべての東洋の国々より優れていることがはっきりと示されている。女性が仲間、パートナーとして認められ、単なる奴隷として扱われているのではないことである。確かに、女性の地位はキリスト教の影響下にある国々ほどは高くないが、日本の母・妻・娘は中国のように家財、家庭内労働者として扱われるのでもなければ、トルコのハーレムのように気まぐれに購入した物として扱われるのでもない。一夫多妻制が存在しないことが日本をアジアで最も道徳的で洗練された国にしていることは明らかである。この下品な習慣がないことは女性を優れた性質に導き、家庭の徳を広める傾向にしている。 既婚女性のお歯黒を除いて、日本女性は不器量ではない。若い女の子は体つきがよく、かなり可愛い。彼女たちの振る舞いには自立心と陽気さが多く見られる。それは彼女たちが持つ比較的高い評価から生まれる尊厳の意識から出てくるものである。友人や家族との普通の会話や交流において、女性は同等に参加し、アメリカと同様、日本でもティー・パーティーや訪問などが活発に行われている。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に採用されなかった『日本遠征』の記述

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はここで終わっているのですが、『ペリー提督日本遠征』ではさらに続いています。
提督と一行がいるところで平伏する女性たちが見せる態度は、彼女たちの従属の証拠というより、異人に対する畏敬の印とみなすべきだ。日本の大きな町や都市に大歓楽街があることは、不幸なことだが、あらゆる大コミュニティーの普遍的な法則だとみなすのが合理的だ。しかし、日本女性の名誉のために述べておかなければならないのは、江戸湾に艦隊が停泊している間中、艦隊の様々な人間と女性とが時たま持つ関係において、普通見られる女性たちの側からのみだらな素振りは全くなかったことだ。((注1), pp.392-393)
 ただ、『ペリー提督日本遠征』では下田で見聞した公衆浴場の混浴について、「みだらな人々」と批判的です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で紹介している版は民間出版社の版で、本稿で引用しているのはワシントンでアメリカ議会が出版した版です。アメリカ議会刊の『ペリー提督日本遠征』には混浴の図( 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-1-1)

地球上で最も閉ざされた国」日本から「驚くほど優雅なデザイン」の家具などが1854年にロンドンで展示され、その挿絵が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されています。ジャポニズムの先駆けとも言える役割をこの新聞が果たしていました。

ジャポニズムの先駆け

本の開国に伴って、北斎漫画や浮世絵がヨーロッパに広まり、特に美術界でジャポニズムが一世を風靡しましたが、一般庶民におけるジャポニズムは日本風の家具や陶磁器、扇子、着物などを購入するという消費に結びついたとも言われています。イギリスにおけるジャポニズムの先駆け役を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が果たしたのではないかと思える記事が、1853年から掲載されています。日本の工芸・美術品が正式に多くの人に展示されたのが、1862年にロンドンで開催された万国博覧会とされていますから、その10年前に日本の工芸品が展示されたのです。 「大勧業博覧会ダブリン」(Great Industrial Exhibition, Dublin)が1853年5月から10月末までアイルランドのダブリンで開催され、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも連日のように内容について紹介されています。1853年6月4日号には「ジャパン・コレクション」((注1), p.450)という見出しで、「オランダ王室の日本コレクションが送られてきた。見事な細工の家具、着物、武具、傘、掛け軸、屏風、扇、盆、金銀銅貨のケースなど」と紹介されました。この公式カタログ(注2)には、オランダの国名の下に「オランダ政府の命により展示される日本品はヘイグ博物館の所蔵品」と書かれ、番号付きで95点挙げられています(pp.117-118)。そのうちの一つの番号に46点入れられているので、合わせると150点近く展示されたことになります。中に「日本で作成された日本地図」「金貨・銀貨・紙幣の入った箱」刀などがあり、解説に「いかなる武器も貨幣も地図も日本から持ち出すことは死罪として禁じられているので、これらがヨーロッパで目にできるのは非常に稀で、興味深い」(p.118)と書かれています。

1854年の日本博覧会

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1854年2月4日号に「日本博覧会」という見出しで以下の長い記事と絵が掲載されています((注3), p.98)。
 地球上で最も閉ざされた国の一つ、日本から珍しい品を積んだ貨物がロンドンに到着した。鎖国の扉を超えてきたこの国の製品の希少性は世界市民[the Citizen of the Worldと大文字で強調]がオランダ商人の卑劣さにムカムカしてきた思いを呼び覚ます。我々がこれまで慣れてきた彼らの密かな取引を通して、日本美術と産物の準見本を我々だけが受け取るのだ。 このコレクションは先週月曜日にポールモール・イーストの水彩画家協会のギャラリーで一般公開された。これは我が国初の直接輸入と言われている。日本と毎年貿易を許されているヨーロッパで唯一の船はオランダ商人の船である。コレクションはテーブル・キャビネット・箱など、表面に日本の装飾(japanned upon wood)、中に真珠やエナメルなどが施された木製品;その極度の軽さと滑らかさと、絵がないことで、この国のパピエマシェとは区別され、そのデザインの特異性はほとんどの場合、驚くほど優雅だ。また、色のついたわらの非常に美しいデザインのものもある。これは日本独特の装飾で、本紙の版画に見られる鳥が彫られたキャビネットがその最高のものである。ブロンズはまれで、ほとんどがアンティークである。二つの最大のブロンズ壺はその形状において非常に純粋で、本紙のイラストレーションにあるテーブルの上のものだが、これはマルボロー・ハウスの実用芸術美術館が購入したということだ。また、非常に美しく装飾された小物入れ(glove box)と、本当に希少な赤と緑の漆塗りの箱数点、わらで装飾された小テーブルも購入したそうである。 磁器も目だった展示品で、優美な形の花瓶や水差し、いくつかはグロテスクな性質のもの、カップなど、それらはすべて尋常じゃない軽さと透明さで、そのいくつかは非常に素晴らしい装飾がほどこされている;その多くは周囲を竹で見事に編み込まれ、カップの厚さが卵の殻ほどなことを考えると素晴らしい。本紙のイラストレーションの中のテーブルの上の高い花瓶、水差しとカップはこの展覧会を代表するものとして選ばれた。竹の編みかごの細工は素晴らしく、その形と模様には独創性がある。 また、絹の着物と包装物もある。非常に柔らかく、軽く綿入れがされ、日本の貴族が着るものである。壁には日本の全階層の人々の絵がかけられている。男も女も、様々な衣装を着て、本紙のイラストレーションに描かれているのは、花嫁と扇のようなパラソルをさして歩く女性である。このパラソルはかの国でよく使われている。他にイラストレーションに描かれているのは、数種類の屏風のうちの一つで、人家と人々の生活習慣が描かれている。イラストレーションの背後にあるのは、象嵌細工のワードローブで、純粋の日本製である;ほとんどの家具の形は明らかにヨーロッパのものだが、装飾はすべて日本のものである。中央のテーブルが一番いい;テーブル上部は非常に優雅なデザインで、真珠がはめ込まれている;鉤爪足は斬新な形で、3匹のオオコウモリを表し、その羽が支柱を形作っている。支柱がサルと魚になっているテーブルもある;様々な種類のパズル・ボックス;一般用よりはるかに優れていると言われる醤油など。これらすべてが非常に珍しいコレクションを成している;そして、疑いなく、最近のアメリカ合衆国の日本遠征に対する興奮からして、これは非常に魅力的なものになろう。
 この日本製品展示会の説明の中で、"japanned upon wood"とJapanが動詞として使われているので、『ブリタニカ百科事典』第7版第12巻(1842)を調べたところ、"japanning"という項目で説明されていました。「ジャパニングとは木材の表面にニスや絵を施す技術で、日本の方法を真似たため、この名称が使われる」([ref]Encyclopaedia Britannica or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature.Seventh Edition, with Preliminary dissertations on the History of the Sciences, and Other Extensive Improvements and Additions; Including the Late 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-12)

ペリー来航前に日本に来たアメリカ船についての19, 20世紀の論考を紹介します。

ペリー来航の半世紀前に長崎に来航したアメリカ船

ローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された解説「英国と日本の通商記録」の中で、「奇妙なことは、イギリスの船がイギリス人(スチュアート船長)の指揮で1797年と1798年に実際に日本を訪れている」こと、「この船がアメリカの旗を掲げ、アメリカの通行証を携えて、バタビアのオランダ当局によって日本に送られた」ことと記されています。この点はラッフルズが『ジャワの歴史』(1817)第2巻の付録「日本貿易について」で触れています。その内容をラッフルズはHogendorpから引用とだけ記していますが、ディルク・ファン・ホーヘンドルプ(Dirk van Hogendorp: 1761-1822)のようです。1-1で紹介したリチャード・ヒルドレスも『日本—過去と現在—』(1855,(注1), p.448)の中で、ラッフルズが引用している”Heer Hagendorp”と述べ、これは1800年にこの人物がバタビヤで出版したジャワに関する小論文に掲載されているというのです。 『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(注2)によると、ホーヘンドルプはオランダの軍人・政治家、後にオランダ東インド会社の役員としてインドやジャワに滞在します。そしてイギリスのベンガルの植民地統治法に感銘を受け、「バタビヤ領土の現状報告」という小論文で、インドネシア人もヨーロッパ人と同じ経済原則で導かれるべきだと主張し、当時の東インド総督の怒りをかって投獄され、オランダに逃げたそうです。 以下が、ラッフルズが引用符でくくった部分の拙訳です。
 わが国と日本との通商関係は非常に奇妙な性質のものである。誰もが知っているように、わが国はヨーロッパで唯一日本から通商許可をもらっている国である。そのために苦しまなければいけないとは、何という屈辱であろうか。江戸城へ使節を送る費用の何と大きなことか。日本貿易は昔は儲かったのに、近年は費用をまかなうだけの利益がないと思う。船や船員の損失を考えたら、このような屈辱を受けさせられる正当性はない。 それなのに、我々は貿易を諦めることができないでいる。諦める必要があるか、または、そうした方が懸命なのかだろうか。1797年と1798年に奇妙な船、実際はイギリスの船なのに、隠すためにアメリカの旗を揚げて、生粋のイギリス人のスチュアート船長に指揮をさせ、彼はマドラスかベンガルの所属なのにアメリカの通行証を持っているという、そんな船を送ることをバタビヤ政府がどう説明できるのか、途方にくれる。この貿易を放棄するのは馬鹿げているが、日本の規則に従うしかないし、この規則を取り払うのはほとんど不可能だろうし、日本をオープンで自由にすることは実現できないかもしれない。国家のためや会社のためにこれを追求するのでは、目的を達成することには決してならない。したがって、私は1,2年間バタビヤで船1隻か2隻に限られた積荷を日本で取引するための許可証やパスをオークションにかけ、最高値の入札者に与えようと思う。出島の館長を任命しなければならない。その維持は政府がして、館長には一種の領事の役割をさせ、必要なら江戸に使節として行かせる。しかし、これ以外は貿易の規則やシステムすべては船主に任せなければならない。我々の取引に課される日本の法律以外は。 毎年の使節は非常に費用がかかる。すでに日本側がしなくてもよいと言っているが、時々なら利用価値があるので、将来は10年に1回ぐらい使節を送るか、[出島の]新居住者が来た時や新領事が着任した時に、滞在中1回だけ[江戸に]行くことの許可を得るのが得策かもしれない。それ以外の特権や自由を得るのは容易なことではないだろう。あちらにいる我々の社員の何人かがこの点で我々に何を信じこませようとしても、我々が行こうと行くまいと、日本人が全く無関心なことは明らかで、我々にそうさせる許可を出すこと自体が単なる彼らの気まぐれなのだ。この貿易が個人に開かれたら、すぐさま人々はリスクや危険を犯してでも利益を上げる方法を見つけることは疑う余地がない。そしてこの利益の価値が高まるにつれ、許可証の価値も増すだろう。--Hogendorp((注3), Appendix B.: Japan Trade, pp.xxix-xxx)
 ヒルドレスは1800年刊の小論文と言いながら題名を記していませんが、初版は1799年で、1800年に再版されたそうです(注4)。この日本語訳は国会図書館からアクセスできます。『鹿児島大学史録』4号(1971)から11号(1979)にかけて連載された田淵保雄訳註「バタビヤ領土の現状報告(1799)」です。この11号(1979)に掲載されている「ディルク・ファン・ホーヘンドルプ著、田淵保雄訳註 バタビヤ領土の現状報告(1799)[7]」に「日本貿易」という小見出しで2ページにわたって見解が述べられています。

ヒルドレスの指摘

 ヒルドレスはこのスチュアート船長なる人物について、重要な指摘をしています。まず乗ってきた船エリザ号がニューヨークの船である事、出島のオランダ商館ではスチュアートがアメリカ人だと信じていた事です。1799年にオランダ商館の職員として来日し、1803年に商館長に就任して、1817年に帰国するまで出島にいたヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff: 1777-1835)が1835年に出版した『日本回想録』で、スチュアートはアメリカ人だと述べているという指摘です。この回想録の英訳はみつかりませんでしたが、インターネット・アーカイブに1922(大正11)年刊斎藤阿具著の『ヅーフと日本』(注5)という本が掲載されています。 ヒルドレスはオランダ語の『日本回想録』を丁寧に読んだようで、当時の日本の状況はドゥーフによるところが大きいと述べて、スチュアート船長の長崎来航について詳しい要約をしています。ゴローニンの『日本幽囚記』改訂版の解説「英国と日本の通商記録」(1852)はラッフルズの『ジャワの歴史』(1817)を参照したことを明言していますから、イギリスではスチュアートがイギリス人だったことが伝わっていたようです。興味深いのは、「英国と日本の通商記録」ではイギリスの日本との通商努力という視点からイギリス人を強調していること、ヒルドレスは意地悪な見方をすれば、逆にイギリス人でこんな怪しい人間もいたという視点を持ちながら、ドゥーフのアメリカ人説を否定していることです。この点で興味深いのは、ペリーの『日本遠征記』(1856)の序で「西洋文明国と日本帝国との過去の関係」という節で、ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシアは詳しく述べていますが、アメリカについてはモリソン号事件(1837)以降のことしか記載されていません。 ヒルドレスはなぜ1790年代後半にオランダがアメリカ船を使ったかの説明から始めています。「フランス軍によるオランダ占領はオランダ船がイギリスに拿捕される危険に晒されただけでなく、オランダが東洋植民地を失うことになり、したがって、日本貿易に関しても新たな障害をもたらすことになった」(p.446)と述べています。この状況下でイギリスに捕らえられないために、アメリカ船を雇う傭船手法を使ったというのです。『ヅーフと日本』でも同様の解説をし、この頃の幕府とオランダ商館とのやりとりを述べています。ナポレオン戦争の影響を日本が感じ始めたのも1795年からです。この年に入港したのはオランダ船1隻だけで、商品も欠乏していて、商館長は「奉行の譴責を受けたり」と述べ、1796年には入港なし。1797年に1隻入港したが、「中立國たる米國の一小船エリザ丸(Eliza)を臨時に雇入れしものにて、積荷も有合せ品のみにて、獻上品・御用品を始め一般商品も整はざりしかば、又奉行の為に詰責せられたり」(p.12)と解説しています。以後ほとんど毎年「雇入米國船のみ我國に來りし所以なり」と書かれた後、バタビアの重役はオランダ商館長に貿易の復興を計れ、さもないと日本貿易は廃止すると厳命され、商館長と幕府との交渉が始まったとのことです。幕府は1790(寛政2)年に秋田銅産出額減少を理由に、オランダには年1隻に限り、銅の輸出高を60万斤に減らしたのに、商館長の懇願で、1798年に以後5年間25万2千斤増額、船2隻を許可したそうです(p.13)。1798年にもバタビアから1隻入港したけれど、同じくスチュアート船長のエリザ号(直接引用の場合以外は「号」に統一)で、しかも、オランダ東インド会社に内密に、会社の徽章を揚げず、商品も不足していたのですが、「此時に至りては奉行も最早蘭人を虚喝するの勇氣を失ひ、却て之を憐憫し」た(p.15)と書かれています。 ヒルドレスの関心は、最初にエリザ号が入港した時の奉行所の混乱ぶりで、「乗組員は英語を話したけれど、『イギリス人』ではなく別の国であること、さらにもっと基本的な点は、この船が貿易とは何の関係もなく、拿捕逮捕されないために商品を運ぶ雇われに過ぎなかったことだった。その説明の結果、エリザ号はオランダの船だと理解することで合意した」(p.447)と記されています。

太平洋戦争中の米日交流史論

 アメリカ人にとってはペリー来航前にアメリカ船が日本に来ていたというのは魅力的なテーマのようで、1909年刊の『昔のセーラムの船と船員』や、太平洋戦争の真っ最中に発表された「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」(1944年10月)などがあります。前者は「1853年に日本の古い鎖国を壊滅させたペリー提督の艦隊の印象的な日本訪問前にアメリカの船がこの国の港に留まり、貿易を許されたことはないと一般的に思われてきた」((注6), p.330)と述べて、1799年にボストンで所有されていたフランクリン号が長崎に行ったこと、1800年にマサチューセッツ号、1801年にマサチューセッツ州セーラム市の船マーガレット号が長崎に行ったことを記しています。1909年時点で、これらの[航海]記録が「まるでヨーロッパ中世の歴史の1章のように古めかしく聞こえる」(p.331)と書いています。 私は後者の米日交流史論「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」に、その発表年月日の点で注目しました。太平洋戦争の最中、American Antiquarian 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-2)

1673年のリターン号来航時の日英交渉記録が「英国と日本の通商記録」(1852)で紹介され、日本との通商を希望していた1850年代の人々がリターン号の交渉記録のどこに関心を示していたのかがわかります。

「日本日記」の解説

 まず、前節の「日本日記」に記されていることについて、解説します。

「聖ジョージ十字」

 聖ジョージ(St George)はイギリスの守護聖人とされ、4月23日が「聖ジョージの日」とされていて、2018年4月23日にBBCが解説を掲載しているので紹介します(注1)。ゲオルギオスという名前の実在のクリスチャンのローマ兵で、西暦270年頃にトルコのカッパドキアに生まれ、303年にローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧によって、パレスチナのローマ州で殉教したと伝えられています。イギリスの守護聖人にされた理由は、聖ジョージにまつわる伝説の中から、拷問の末に殺されたために勇気、栄誉を象徴し、軍所属ということなどで、イギリスの価値観を代表すると考えられたのだろうといいます。15世紀初頭に彼が殉教したとされる4月23日が「聖ジョージの日」とされるようになったそうです。 BBCの記事にアクセスすると、白地に赤の十字の旗がみられます。ただ、2012年の記事「聖ジョージの旗は人種差別のシンボルだとイギリス人の4分の1が言う」(注2)によると、「聖ジョージの十字」の旗にイギリス人としての誇りと愛国心を感じるという人は61%で、24%は「この旗は人種差別の旗」だと考えるという世論調査結果が出たそうです。それは極右グループ「イギリス防衛同盟」(English Defence League)がこの旗を使ってデモをするからだと分析しています。

第三次英蘭戦争

 「日本日記」の1673年7月7日に、デルボーが英蘭戦争が始まったことを知らなかったと言っていますが、イギリスとオランダの間で1652年から1783年まで4回戦争が起こって、そのうちの第三次英蘭戦争(1672)を指しています。英蘭戦争の理由は商業的権益をめぐる争いで、最初の3回の戦争が起こった頃、アジアの植民地における貿易大国だったポルトガルに代わってオランダが絶頂期にありました。オランダ東インド会社はその富と権力において抜きん出ていて、イギリスがその権益を狙い、やがて、オランダに代わってイギリスが商船事業の中心を占めます。第三次英蘭戦争では、チャールズ国王がフランスと秘密の取引をして、イギリスの東海岸、ソールベイでフランスとイギリスがオランダと戦った「ソールベイ海戦」(1672)では、イギリス、オランダ双方が勝利宣言をしていますが、いずれも損害がひどかったそうです(注3)

踏絵について

 「日本日記」には踏絵をさせられたとは書かれていませんが、日本側の資料では「イギリス人はオランダ人と同じ宗旨であると言っているが、その事実を試すために踏絵をさせるので、オランダ人に同行してほしい」((注4), p.7)と奉行所役人がオランダ商館に求めたそうです。同行したオランダ商館の助手によると、踏絵を求める時の「通詞の話し方は非常に特異だった」から、「イギリス人がこれをよく理解しなかったと考えている。(中略)すでに暗かったので船長は何を踏んでいるのかわからなかったと思う」と書いています。

長崎奉行所の情報網

 最初の日(1673年6月29日)に役人たちが質問した内容で、この当時の幕府の情報通は明らかです。オランダ人に世界の動向について情報提供を義務付けることが1641年から始まり、「オランダ風説書」として1659年には慣例化していたからだそうです((注5), p.63)。デルボーの答え(内乱が20年ほど続き)についても、幕府側はすでに1662年のオランダ風説書で知っていたし、チャールズ1世が処刑されたこともオランダから伝えられています((注4), p.3)。 奉行所の役人たちがデルボーにオランダ商館側が言ったことの真偽を聞いたり、オランダ商館長宛の手紙の内容を確かめたりしたことは、幕府側が「外国人から得た情報を比較検討」((注5), p.62)するためだったというは、リターン号でのやり取りが表しています。

1852年のイギリスの関心

 「英国と日本の通商記録」(4-9参照)の筆者はリターン号の日本派遣について、「イギリスの王政復古の後すぐに商業事業精神が復活し、1673年の遠征をチャールズ2世が即座に承認し、王の後援のもとに実行された」((注6), p.19)と解説して、ケンペルの記述をほぼ忠実に要約しています。解説者の関心が特にどこにあったのかは、直接引用を長くしている箇所、解説者の感想などに見られると思うので、以下に挙げてみます。
    リターン号の船長以下全員が日本に来るのは初めてだと知った役人たちの驚きが大きく、水先案内人なしにどうやって港に入って来られたのか聞かれ、海図を見せると納得した(pp.21-22)。 船から陸に運んだ武器一切を正確に書き留め、上級役人の前でキャビンの記録と照合して、この役人が承認すると、非常に丁寧に出て行った。 本文では解説が加えられていないやりとりについて、「英国と日本の通商記録」では「日本側が最近警戒し困っている海賊と、イギリス人が関係を持っているらしいと、オランダ人たちが言いふらしていることについて、イギリスの船長は虚偽だと否定した」と述べられています。 日本側の質問方法が、まずポルトガル語かスペイン語で質問し、次にオランダ語でするため、同じ内容が5,6回繰り返されることです。そのたびに彼らの理解が確かなものになっていくとイギリス側が解釈している点が直接引用で指摘されています。 長崎奉行所側がイギリス人をオランダ人と同じように守ると約束したくだりについて紹介したあと、「これらの詳細なやりとりは、日本人側の良識と穏健さを示しており、イギリスに対する好意を明らかに示している」と感想が書かれています。
 今から345年も前の交渉記録を読んで感心するのは、双方が礼儀をもって忍耐強く対応していることです。特にイギリス側が貿易交渉を達成するためとはいえ、2ヶ月も上陸させてもらえず、その間、幕府役人が入れ替わり立ち代わりやってきて、同じ質問に答えさせられるのは苦痛以外の何物でもなかったでしょうが、怒りや苛立ちを抑えて対応したことと、日本側が2ヶ国語以上で同じ質問と答えを求めることで、理解が確かなものになると洞察していることです。幕府側も礼儀を示しながらも譲らなかったことが、3世紀半後の安倍政権の対米隷属と対照的です。そして何よりも、公文書偽造・改ざん・隠蔽・破棄などが常態化している安倍政権下で生きている私たちにとって、この交渉記録を読むと、記録の大切さが身にしみます。「経済産業省幹部が省内外の打ち合わせ記録を残さないように指示」したというニュース(注7)を読むと、安倍政権は自分の時代を歴史的空白の時代にしようとしているのだと感じます。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が将軍に送られた

 幕府の情報収集という観点から非常に興味深い記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1854年2月11日号 [ref]The Illustrated London News, 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-1)

イギリス国王の親書と1613年の家康の朱印状を携えて通商を求めて、1673年に長崎に来たイギリス船リターン号の船長と長崎奉行所とのやりとりを紹介します。 815 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記5

有吉佐和子が『複合汚染』で農薬は化学兵器の平和利用だと批判してから44年後の今、ベトナム戦争の枯葉剤が日本全国に埋設され、豪雨と地震が頻発する現在の日本で、ダイオキシンが漏出する可能性が指摘されています。 812 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記4

世界中で除草剤の成分グリホサートやミツバチ大量死の原因とされているネオニコチノイドなどの農薬が問題視されている時に、日本では大々的に販売・使用され続けています。 809 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記3

2018年8月にアメリカの裁判所がモンサント社の除草剤ラウンドアップが原告の末期がんの原因だと認めました。一方、日本ではラウンドアップの成分グリホサートの水道水と食品中の残留値を大幅に上げています。 792 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記2

水道の民営化で大きな被害を被ってきた欧米の再公営化を目指す動きが「津波」のようだと表現されている現在、安倍政権は世界が羨む公営水道の民営化を進めています。民営化によってどんな被害があり、再公営化によってどんなメリットが得られたか、欧米の事例を紹介します。 790 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記1

軍事力をちらつかせて日本に開国を迫る欧米列強に苦慮する幕府役人たちと真逆の動きをしているのが21世紀の安倍政権です。私たちの命を脅かす政策について見ます。 759 続きを読む
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