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英米に伝えられた攘夷の日本(4-1)

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整合性のない脚注開始用の簡単コード:

“Peter C. Perdue, “The First Opium War: The Anglo-Chinese War”

ペリー来航3年前の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に、アメリカが中国と日本に戦争を仕掛けるかもしれないという長文記事が掲載されています。 『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899』(2006)には、日本関連の記事は1853年から始まったと書いてありましたが、その3年も前から日本関連の記事が掲載されていることを知りました。米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリーに掲載されている『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1853年前のものを調べたところ、1850年からJapanという名前がイギリス市民に広まっていたことがわかりました。の世界初の挿絵入り新聞の影響力がいかに大きかったは、その発行部数でも明らかです。創刊号が1842年5月で、その時の発行部数は26,000部でしたが、1855年には20万部に、1863年には31万部に達しました([ref]Terry Bennett (編), Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899, Global Oriental, 2006.[/ref], p.ix)。当時の最も人気のあった日刊新聞『タイムズ』は7万部だったそうですから、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された記事が、少なくとも数の上でいかに影響力があったかがわかります。1854年時点で、長崎奉行所がこの新聞を持っていたことは2-4で紹介した通りです。 以下に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の最も早い時期(1850年8月10日号、[ref]The Illustrated London News, vol.17, 1850 July-December.https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015031404612[/ref], pp.109-110)の記事を抄訳します。

カリフォルニアとアジアの隣人たち

 最初の部分はカリフォルニアのゴールド・ラッシュについて、筆者の苦々しい思いが書かれていますが、それが中国と日本に対する欲望というトピックにつながっていきます。
カリフォルニアの獲得とその後の宝の発見は野望と喧嘩好きな性質によってもたらされた。また、悪事と不正によってもたらされた。合衆国は弱い隣人に喧嘩をふっかけ、長い間ほしかった領土のうち、価値ある部分をその隣人が引き渡してからようやく、和平を結んできた。(中略)中国と日本には、長い間野次馬はいなかったが、今やブラザー・ジョナサン(Brother Jonathan=アメリカ)が隣人だ。メキシコに喧嘩をふっかけ、征服したあのブラザー・ジョナサンだ。欲深く、悪辣で、生意気なブラザー・ジョナサンだ。ブラザー・ジョナサンは金掘りに飽きたら、遅かれ早かれ、今度は新しい場所で、彼特有のエネルギーと好奇心を発揮させるために、この二つの閉鎖的自治体(close corporations)の様子を見に行くだろう。目的は「異人たち」(原文強調:”strangers”)がどんな人々か見ることと、もしできればビジネスをするために知り合いになることだ。そうでなければ、喧嘩の理由を見つけるためだ。
 この記事は社説のようにトップに掲載されていて、その下の挿絵とは関係ないのですが、アメリカが日本に戦争を仕掛けるという警告の内容なので、まるで、こうなるぞという含みが込められているようです。現在はドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州とされているデンマークに隣接している地方をめぐって、当時のプロイセンとデンマークが戦った第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の様子です。

カリフォルニアとアジアの隣人たち(続き)

 今やカリフォルニアの人口を占めているアングロ・サクソンの特徴を考えると、そして、排他的で傲慢だが、弱くて無気力な中国人と日本人を考えたら、喧嘩の方がずっと現実的で、ありえる結論だろう。複数の国家の大家族の中で、このような時には、この2国が長いこと維持してきた孤立という位置を守ることができるのは距離だけだ。この2国の場合、忙しく動き回るヨーロッパと、ヨーロッパの分派であるアメリカから身を守るセーフガード、唯一ではないがベストなセーフガードが突然取り払われてしまった。時代の壁が壊されたのである。そして、カリフォルニアは生命力と野望と大胆不敵さに溢れかえっており、汚い手を使うか、フェアな方法かで、「花のような人々」("flowery people")の品定めをして、この人々の国を世界の好奇心と文明の前に晒すのを、次の世代まで待つようなことはしないだろう。アメリカはすでにこの思いをめぐらせ始めた。そして、カリフォルニアから人がいなくならない限り、この方角から二つの偉大な帝国を開国させることは時間の問題だ。 アメリカもヨーロッパもこの行動を正当化することも、推奨することもしない。中国や日本との戦争はメキシコとの戦争と同じくらい犯罪的だ。しかし、遅かれ早かれ、この二つの帝国が譲歩して、周囲の生命力と行動力の世界と友人にならない限り、傲慢な無知と弱々しい愚かさに付き物の普遍的な運命を共有することになるだろう。北アメリカ大陸でアングロ・サクソンが、現在メキシコを所有しているスペイン人子孫の劣った人種を、まさに必要性から次第に追い出しつつあるように、より強い文明が打倒するだろう。 アメリカの偉大なエッセイスト、エマーソンが最近出版した『代表的人間像』[ref]R.W. Emerson, Representative Men: Seven Lectures, Boston, Phillips, Sampson and Cimmpany, 1850, pp183-184. https://archive.org/details/representativeme00eme[/ref]の中で、この問題を説明しているかのようだ。「物は一見あることをいっているようでも、実はそれと反対のことをいっているのだ。外見は不道徳でも、結果は道徳的なのだ。物は下降し、失望に正当な理由を与え、悪人を世に出し、正しい人間を打ちたおすように見える。しかもまことの目的は、殉教者だけではなく、悪漢たちの手によっても押しすすめられるのである。あらゆる政治闘争で悪漢が勝ち、社会は、その政府が変わるやいなや、一組の罪人たちの手からやっと救われたと思うのもつかのま、またもや別の組の罪人たちに引きわたされるように思え、そして、なるほど文明の進歩は重罪の連続ではあるけれども、——しかし全体をつらぬく目的は、何としてでも達せられるものだ。こうして歴史の流れのいたるところで、天は卑しく粗末な手段のほうを好んでいるように思われるのである。年をつうじ世紀をつうじ、悪の力をつうじて、さては玩具や原子をつうじて、ひとすじの偉大な慈悲の河が、さからいがたい勢いで流れつづけているのだ」[ref]酒本雅之訳、エマソン選集6『代表的人間像』(デジタル・オンデマンド版)、日本教文社、2014年、pp.147-148.[/ref]。このカリフォルニアの場合も、同じことになるだろう。 中国と日本の排他性と警戒心を最後に打ち破るのは非道徳的な手段かもしれない。しかし、その結果は、強者が弱者を征服すべき、あるいは光が闇を追い払うべきという絶対の必要性と同じに思える。この2国の排他性と警戒心はそれ自体が非道徳的であったから、物事が進む中で、彼らは不可避な罰を受けなければならない。それは、自然の偉大な道徳律に反する国すべてに天が命じたものである。1国家がうぬぼれのうちに閉じこもり、普遍的人間性の歩みや視線に対して領土を解放することを拒否する道徳的権利はない。どの国家の市民でも、一般の幸福のために制定された法律の運用から自分を孤立させることができないのと同じである。誰もが他人に何らかの義務を負っている。そして、どの国も文明の大家族内では、あらゆる他の国に対して行わなければならない兄弟としての義務がある。極東の文明はこの教訓をこれから学ばなければならない。カリフォルニアは、それを彼らに教える道具になるよう運命付けられているようだ。出来事の内部に次の出来事が組み込まれ、人間が各自の行動の道徳性をどう考えようとも、「偉大な慈悲の傾向」が世界の進歩と一般の利益のために、それを覆す。
 引用されているエマーソンの『代表的人間像』はこの記事掲載の年、1850年に出版されたエマーソンの7つの講演集で、引用箇所は「モンテーニュ:または懐疑論者」の章からです。一部中略していますが、ほぼ原文に忠実な引用です。ただ、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の最終文で引用されている「偉大な慈悲の傾向」は酒本訳では「偉大な慈悲の河」となっているのですが、原文は”a great and beneficent tendency”なので、「傾向」としました。 「閉鎖的自治体(close corporations)」という語は、1835年以前のイギリスの地方自治法からきていて、民主的に選ばれた政府ではなく、自己永続的な寡頭政治が支配する世界で、イギリスでは1835年の地方自治体法によって廃止されましたが、アメリカでは19世紀を通して、自己永続的組織を指す意味で使われたそうです[ref]Harwell Wells, “The Rise of the Close Corporation and the Making of Corporation Law”, Berkeley Business Law Journal, vol.5, issue 2, September 2008,https://scholarship.law.berkeley.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1055&context=bblj[/ref]。 「花のような人々」という表現は主に中国について「花の王国」などと、当時使われていたようですが、日本にも使われていたことが、アメリカ議会図書館のサイトに掲載されている写真のキャプション、「花のような王国の中心で:日本の奈良」[ref]"In the heart of the flowery kingdom, Nara, Japan", Library of Congresshttps://www.loc.gov/item/2011649586/[/ref]からもわかります。

非道徳的手段の結果は道徳的?

 この記事で一番驚かされるのは、アメリカが中国と日本に戦争をしかけるぞと、まるでイギリスは中国に戦争をしかけてはいないかのような論調です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1843年3月11日号には「中国の貢ぎ物」と題して、戦争の賠償金として中国の純銀貨、20トンが届き、英国造幣局に運び込まれる様子が大きく掲載されています[ref]The Illustrated London News, vol.2, 1843, Jan.-June.https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006972882[/ref]。 アヘン戦争の様子は、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1842年11月12日号に「広東川でネメシス[報復の女神]号が中国の戦争帆船を撃沈」[ref]Peter C. Perdue, “The First Opium War: The Anglo-Chinese War 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(3-4)

サン・フェリペ号事件の背景にあった、日本をめぐるポルトガルとスペイン、イエズス会士とフランシスコ会士などの托鉢修道士との確執を見ます。

イエズス会の特色

 前節でサン・フェリペ号事件に関する証言などから、日本をめぐるポルトガルとスペイン、イエズス会士とフランシスコ会士との覇権争いのようなものが見えてきました。ボクサーがサン・フェリペ号事件を紹介している第4章の題名「イエズス会士と托鉢修道士」(Jesuits and Friars)にボクサーの主眼点が表されているようです。私自身、イエズス会士と托鉢修道士がどう違うのか知らなかったので、まずボクサーが指摘するイエズス会の特色について解説していることを拾ってみます。
    フランシスコ・ザビエル[1506-1552]が薩摩に到着した1549年は、イエズス会が設立されてから10年に満たなかった。彼の友人であり同胞であるイグナチオ・ロヨラ[1491-1556]が1540年に設立したイエズス会憲章には、「ロヨラの軍隊的本能と軍隊訓練の影響が明らか」に表れ、会は最初からその軍隊的性格を反映していた。会のメンバーには厳しい規律と盲目的服従が基本的徳として教え込まれ、この組織全体が軍人精神を反映していた(第二章「イエズス会のメガネを通してみた日本」、(注1), pp.45-46)。
    イエズス会より古い托鉢修道士教団(ベネディクト会、ドミニコ会、フランシスコ会など)は、明確に民主的で共和的傾向があった。修道院長などは評決、任期は限定的で、その権限も制限されており、総会も頻繁に開かれた。一方、イエズス会の「総長」[ボクサーは英語名Generalを強調し、この名称が軍隊用語の大将であることを指摘]は名実ともに最高司令官である。選挙はされるが、任期は終身制で、あらゆることに歯止めのない権力を行使することができた。戦時中の軍隊で最高司令官が部下の任命も解任も自由にできるように、イエズス会の総長も好き勝手にどんなポストの任命、解任もできた(p.46)。
    ポルトガルのイエズス会が1540年に、ゴアが1542年、日本が1549年、中国が1583年に設立された。ローマにいる総長はこれらの支部の管理のために、定期的に特任巡察師(specially appointed visitors)を送り、極秘報告書を書かせて、個人の管理まで徹底して行っていた。この「戦う教会」(Church Militant)の新たな、よく組織化された支部がプロテスタントの進出を止めたのも不思議ではない(p.48)。
    日本でイエズス会が初期の頃に成功した理由の一つは、十字架の兵士たちの訓練と、武士道のスパルタ教育で育ったサムライとの間にある類似かもしれない。類似点を強調しすぎることはいけないが、[例えば]イエズス会では神意にのみ従って行動するために、世俗的執着から解き放たれた心を持つことが最重要であり、サムライは藩主のためにすべてを犠牲にすることに満足している(p.48)。
    ヴァリニャーノ[Alessandro Valignano: 1539-1606, 巡察師]の報告書と、それに対してローマがどう反応したかを概観すると、一つの事実が明確になる。日本におけるキリスト教は最初から最後まで、あらゆる時期において、マカオからの「巨大船」(注2)に頼っていた。イエズス会士が日本に来たのも「巨大船」だったし、将来性のあるこの地で彼らの布教活動を支えたのも、船の積荷の販売から得た分け前だった。敵対的、あるいは無関心な大名たちがイエズス会士を迎えて、家来に布教するのを許したのも、巨大船に対する野心からだった。イエズス会士を追い出してしまったら、巨大船が来なくなるという恐れから、秀吉も家康も、宣教師追放の間際に何度も躊躇した。つまり、巨大船が日本布教の頼みの綱で、二者の緊密な関係は、一方が消えれば、もう一方が事実上崩壊するというものだった(p.104)。
    ヴァリニャーノの1592年の報告書には、日本のイエズス会士の苦難の一つについて説明されている。多くの大名がイエズス会士に金塊ブローカーになってほしいとしつこく懇願した。1570年頃には中国と日本の間の金銀の異なる比率によって、日本から銀を中国に送り、中国で金を買うことで利益が得られることがわかったからである。ヴァリニャーノによると、この悪質な行為は最初、大村や有馬のようなキリシタンの小大名が、銀を少量中国に送って、金に換えるという小規模で始まったという。パードレ[神父]たちはいやおうなく仲介役をさせられ、キリシタン大名たちに恩を売るということで反対は起きなかった。豊後の大友宗麟は同じ行為を大規模にして、1578年に改宗するまでに年間3,000ダカット金の資本に達していた。これらの行為の結果、キリシタン大名だけでなく、異教徒の大名までがパードレたちに広東・マカオ・長崎間の金塊ブローカーとして手伝ってくれと、絶えずしつこくせがんだ(pp.111-112)。
ヴァリニャーノは映画『沈黙』(マーティン・スコセッシ監督、2016)の最初に登場しています。

イエズス会士と托鉢修道士との確執

 ボクサーはヴァリニャーノが日本をよく理解した人物として、彼の報告書を信頼しているようです。「力のあるイタリア人イエズス会士、ヴァリニャーノは遠回しにものを言う人物ではなく、最初の来日の時から、フィリピンのスペイン人托鉢修道士の存在が今後混乱を招くことになるという不信感を表明していた」(p.155)と書いています。キリスト教にしろ、仏教にしろ、各宗派/教団間の確執は歴史を通じて見られるが、キリスト教の記録は仏教よりも「ずっと黒い」(p.154)と評しています。たとえば、イエズス会が托鉢修道士を非難し軽蔑する時に使う「キチガイ托鉢修道士」(crazy friars)という語を紹介して、「この軽蔑的あだ名にどの程度正当性があるかは、以下に要約するヴァリニャーノとセルケイラ[Luis Cerqueira:1552-1614,イエズス会日本司教]の報告を読み、補遺IIIに掲載しているフランシスコ会士のヴァージョンを公正に比べて、読者自ら判断することができる」(p.155)と述べています。以下にボクサーの解説をまとめます。
 ポルトガルとスペインの関係については、1580年に両国がフェリペ2世のもとに同君連合王国として統一されたが、この二つの植民地帝国は従来通り別々に統治され、完全に独立していた。さらに、スペイン君主が認めたのは、東洋におけるポルトガルの宗教的特権で、カトリック教皇の勅書でも保証しているが、ポルトガル国王がアジアにおける布教活動の唯一の監督権を持つことだった。 しかし、スペインが1575年にルソンを征服してから、マニラにあった托鉢修道士教団は中国大陸の福建と広東にも足場を伸ばそうと試みた。この試みは中国が非協力的対応で失敗したが、托鉢修道士たちがポルトガルの布教保護権を無視する対応を示すものだった。したがって、スペイン人がやがて中国から日本に布教先を変えるだろうというヴァリニャーノの予想には理由があった。ポルトガルとスペインの政治的経済的ライバル関係は、マカオのポルトガルが素晴らしい富をもたらす中国—日本貿易を独占していることを、当然ながらスペインが嫌うことによって生まれており(p.156)、それが教団の嫉妬を悪化させていた。イエズス会が長崎で貿易船と協力していたため、托鉢修道士たちもマニラの貿易商を通して日本に足場を作りたいと思ったのである。 このように、ポルトガルとスペインの貿易商人と聖職者が協力し、ポルトガルとイエズス会士が、侵入しようとするスペイン人と托鉢修道士を入れまいと努力する一方、「征服者と托鉢修道士(conquistadores and frailes)」は同じく[日本に]入ろうと決意していた。

イエズス会—ポルトガルの日本独占の理由

 イエズス会以外の教団が日本に入るとなぜ不都合なのかをヴァリニャーノが1583年のセミナリオで長々と述べていると、ボクサーが要点を紹介していますので(pp.156-159)、抄訳します。
    日本でイエズス会が成功した主な理由の一つは、仏教が数多くの宗派に別れたために仏教が崩壊したと多くの日本人が感じていたところに、イエズス会の教えが統一されていることが神性な起源だと印象付けられたことである。もし托鉢修道士が入ってきたら、この印象が破壊される。なぜなら、様々な教団の僧衣や習慣が多様なため、名目上は一人の最高神と一つの聖書だというキリスト教も、現実には仏教のように多くの異なる小派で構成されていると信じてしまう。 ヴァリニャーノはメキシコやフィリピンから来る托鉢修道士は、半野蛮のアステカ人やフィリピンの新改宗者に使った征服者的方法に慣れていることを念頭に置いていたようだ。ヴァリニャーノは次のように述べている。「日本は外国人が支配できる国ではない。日本人は外国人による支配を許すような弱いバカな人種ではない。スペイン王はこの国で権力や司法権を持ってもいないし、決して持つこともできない」、「日本ではすべてにおいて日本のやり方に従わなければならない」。 もし托鉢修道士が大勢日本に入ってきたら、財政支援はあるのだろうか。托鉢修道士教団はその地の慈善によってまかなわれるべきだという提案をヴァリニャーノは非難し、日本は貧しい国で、もし托鉢修道士たちが強行しようとすれば、ヨーロッパの宣教師たちは伝道の名のもとに、実は生活費を得るために日本に来るのだという仏教僧たちの批判を強めることになる。王も教皇も托鉢修道士たちを維持するための巨額の追加費用を払うとは期待できない。 4. ヴァリニャーノの最後の理由は最も興味深い。この後に起こる展開を考えると、予言しているようだ。ヴァリニャーノはこう述べている。「日本の多くの大名たちは我々イエズス会士が日本で何か悪巧みをしていると酷く恐れている。自分の領土でキリスト教改宗を許可すれば、その改宗者たちを使って、イエズス会士を支援しているスペイン王のために立ち上がって反乱を起こすのではないかというのだ。布教した国を占領するという最終目的がなければ、[ポルトガルとスペインの]王たちがなぜ布教に巨額を費やすのか[日本人は]理解できない。数人の大名が多くの機会にこのことをあからさまに言った。なぜなら、仏教僧が我々に反対する申し立ての主要な点がこれだからだ。スペインとポルトガル王国が統一されたことを知った今、新たな外国の宗教が入ることによって、この疑惑はさらに強まり、我々とこの地のキリシタンに簡単に危害を加える気になるかもしれない」。
 これらの理由をあげて、ヴァリニャーノはローマのイエズス会長に、托鉢修道士を日本に入れないよう、教皇の勅書を求めるよう依頼し、教皇もフェリペ国王も同意します。しかし、スペイン国王が国民の利益を犠牲にしてポルトガルをなだめたにもかかわらず、現実にはイエズス会と托鉢修道士との闘いは始まったばかりでした。托鉢修道士たちは教皇の声明は間違った情報と隠謀によって出されたと主張して、声明を無視し、マニラの非キリスト教当局も、マカオのポルトガル人に対する政治的経済的妬みから、托鉢修道士たちを支持しました。

フランシスコ会士の暴挙

 1590年以前はフランシスコ会士が2,3人日本に上陸しただけですが、イエズス会—ポルトガルの日本独占を破る機会が1592年に起こります。いろいろな経緯を経て、スペイン当局がドミニコ会托鉢修道士、フアン・コボ[Juan Cobo: 1546-1592]を使節として日本に送ります。彼は1592年6月に薩摩に上陸し、ペルー商人と一緒に肥後の名護屋に向かいます。この商人は長崎のポルトガル商人コミュニティに搾取されている(彼自身の言)と不満を持っていました。長崎のポルトガル人に対する、二人のスペイン人の不満は快く受け入れられませんでしたが、秀吉はコボに命じて、スペイン植民地帝国の位置と広がり方について、地球儀を使って説明させました。ボクサーは「この4年後に起こったことを考えると、これは重要な出来事だ」とコメントを挿入しています。このドミニコ会士はフィリピン総督への返書を持たされて返されますが、マニラに戻る途中に難破し、フォルモサ(台湾)の首狩り族の手で死にます。 2回目の外交団が、フランシスコ会のペドロ・バウティスタ(Pedro Bautista)に率いられ、3人の仲間と共に、1593年に秀吉に丁重に迎えられます。秀吉が迎え入れた理由はこのスペイン人たちが将来ポルトガルの貿易競争相手になると見たからです。そうすれば、望んでいた中国の絹と金を、マカオに独占されている長崎貿易に払っていた値段より安い値段で手に入れることができると思ったからです。そこで秀吉は4人のフランシスコ会士に京都滞在を認め、マカオからの「巨大船」で行われる貿易の一味とみなされているイエズス会士と同じく、マニラの貿易商をおびき寄せる餌になることを期待しました。 フランシスコ会士は秀吉の応対を額面通りに受け取り、大喜びして、ミサを公開して、まるでローマにいるかのように振る舞い、キリスト教が禁止されている国にいることを無視しました。イエズス会士たちも、キリスト教に好意的な日本の役人たちも驚愕し、托鉢修道士たちに何度となく忠告しました。日本ではイエズス会士がするように、仏教僧の格好をし、無謀な行いを慎むようにと。托鉢修道士たちは笑い飛ばし、イエズス会士が変装して布教をするのは卑怯だと責めました。 ボクサーによると、当時のフランシスコ会士はメキシコ、ペルー、フィリピン、ポルトガル領ブラジルで成功した方法を採用しただけで、これらの国の文化、信仰、迷信などは無視して布教できたからです。ボクサーは以下のように述べています。「このような極端な方法を、日本・中国・ヒンドスタン[インド北部]のような古い、多くの点でヨーロッパよりも優れている文化の国々の住民に適用したら失敗するのは目に見えていた。イエズス会士たちはフランシスコ会士やドミニコ会士よりもずっと早くこの事実を認識していた」(p.162)。フランシスコ会士の中にはこの見解を持つ者もいて、この理由からフランシスコ会が改宗の対象としていたのは「無知な忘れられた」(p.163)下層階級だったのです。一方、イエズス会は上層階級に焦点を当て、彼らが改宗すれば、下層階級にも及ぶと考えたのです。 キリスト教布教に対する秀吉の寛容な態度が、スペイン人貿易商から得られる利益を見込んでいるためだと、スペイン人托鉢修道士たちが理解せず、こんな時にガレオン船「サン・フェリペ号」が四国沖で難破したことから、一連の出来事が起こり、それはヴァリニャーノが10年前に予言していたことが正しかったことを示していると、ボクサーは指摘しています。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(3-3)

日本におけるキリシタン迫害の元凶とされる1596年のサン・フェリペ号事件がどう伝えられているか、同時代人の証言と、明治時代に日本で伝えられた解説を見ます。サン・フェリペ号事件の真相は? 「サン・フェリペ号事件」について信頼出来る記述があるか調べてみました。1951年刊の『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』(The Christian Century in Japan 1549-1650, (注1))という歴史書が信頼できる証拠を示していることがわかりました。日本には信頼できる一次資料がほとんど残されておらず、著者のチャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は大英博物館やポルトガルの古文書館の第一次資料と日本を含めた先行研究を丹念に調べて、根拠をもとに経緯を述べています。 チャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は、ヨーロッパの初期海外進出の歴史、特にアジアやブラジルにおける帝国建設の歴史の専門家として、イギリス屈指の歴史家だと『ガーディアン』紙の訃報記事(2000年5月16日「チャールズ・ボクサー:ポルトガルの行政とその暗い帝国主義の過去の歴史家」(注2))が伝えています。ボクサーは本国イギリスよりも外国でよく知られ、高く評価されていると述べられています。訃報が伝えられると、ポルトガルの文化外交によって進められた黄金時代のイメージの陰にある汚職と搾取の広大なパノラマを昔の行政文書から明らかにした学者として、ボクサーはポルトガルで賞賛されたそうです。『ニューヨーク・タイムズ』も長い訃報記事(2000年5月7日「チャールズ・ボクサー、愛と戦争のレジェンド、96歳で死す」(注3))を出し、彼の最も有名な著作の一つに『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』をあげています。 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」についてどう記述しているか、どんな一次資料に基づいているか、第4章「イエズス会士と托鉢修道士」(Jesuits and Friars)から該当箇所を訳します。
[サン・フェリペ号]は150万シルバー・ペソ以上の価値のある積荷を載せて、7月にアカプルコに向けてマニラを出帆した。台風で航路を変更せざるを得ず、1596年10月19日に土佐の海岸沖に接近した。サン・フェリペ号事件に関するペドロ・マーティンス(Pedro Martins)司教の宣誓証言が信用できるとしたら、航海長(pilot)は船の壊滅的損傷状態にもかかわらず、長崎に向かうのがいいと提言した。しかし、司令官(スペインでは「将軍」と呼ぶ)はフアン・ポブレ修道士(Fray Juan Pobre)の説得で、この提言を退けた。ポブレは前年に日本に来ていて、秀吉が京都のフランシスコ会士たちの父のような存在だと請け負ったのである。その2日後に船は難破し、積荷と乗船者たちは困難な中、船を離れるしかなかった。その地域の大名はフレンドリーとはほど遠く、四国のさむらいは積荷のほとんどを着服した。この点ではヨーロッパのどの国でも海岸沿いの住民は同じことをしただろう。スペイン側は京都に代表団を送って、秀吉に彼らのために善処してくれるよう懇願した。 日本在住のフランシスコ司教代理、ペドロ・バウティスタ(Pedro Bautista)は必ず成功すると希望的観測を述べただけでなく、(もしマーティンス司教が信頼できればだが)、仲介をしようというイエズス会の申し出を素っ気なく拒絶するよう、スペイン人たちをそそのかした。なぜなら、彼はすべてをうまく握っていたからだ。同じ情報源が述べるには、フランシスコ会修道士たちはあまりに不器用で、関白にとりなしてもらうためにフレンドリーな京都所司代の前田玄以法印宗久(Maeda Genni Hoin Munehisa)を使う案を同様に拒否した。彼らはその代わりに奉行で秀吉の特別調査官だった増田長盛(Masuda Nagamori)を選んだ。増田は彼らを「裏切った」。小西行長が増田にいい通訳を同行させるよう提言すると、増田は「合意に達するのが目的なら、いい舌が必要だろうが、私の目的は盗品を回収することだから、必要なのは手だけだ」とぞんざいに言い返した。これだけでもいい前兆ではなかったが、この後にやってきたのは更に悪かった。((注1), p.164)
 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」の根拠として注で挙げているのは、大英博物館所蔵(文書番号付き)のペドロ・マーティンス司教、1596年日本航海のカピタン・モール(戦隊司令官)だったルイ・メンデス・デ・フィゲイレド(Ruy Mendes de Figueiredo)とその他の目撃者の宣誓証言書です。ペドロ・マーティンス司教はサン・フェリペ号事件の2ヶ月前の1596年8月に日本に到着したポルトガル人の最初の司祭です[ref]Jesús López-Gay, S.J. , “Father Francesco Pasio (1554-1612) and His Ideias About the Sacerdotal Training of the 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(3-2)

セシーユ提督率いるフランス艦隊が1846年に長崎に来航し、日本でカトリックの布教が始められるという期待からか、「日本の布教」と題する長い文章が『1849年の伝道年報』に掲載されます。

フォルカード神父の報告書

節でフランスが宣教師2人の琉球滞在を認めさせたと紹介しましたが、それはフォルカード神父と中国人伝道士のオーギュスタン・高でした。フォルカード神父(Théodore-Augustin Forcade: 1816-1885)自身の手紙形式の報告書が『1846年の伝道年報』に掲載されています。 フォルカード神父(注1)「琉球諸島の布教」と題された報告で、日付けは1845年8月12日ですから、1844年5月6日の琉球到着から15か月後です。15ページの長い報告((注2), pp.266-281)で、フランス語原文からの日本語訳が『幕末日仏交流記—フォルカード神父の琉球日記』(1993, (注3))の第3章に掲載されています。宣教師たちの報告書が、欧米列強の帝国主義発展のためにいかに重要視されていたかがわかるのは、『伝道年報』のフランス語版がパリで、英語版がロンドンで同時に出版されていたことです。最初の10ページは泊の寺に幽閉され、監視がつけられ、外出もできない状況に置かれていたという訴えです。残りの5ページには、フォルカードが推測できた琉球と中国・日本との関係、行動の自由を布政官に再三願い出たこと、たまに見張りをまいて住民と接触しようとしたことなどが書かれています。

琉球は日本布教の入り口

1846年当時のフランスの思惑が『1849年の伝道年報』に掲載されたルテュルデュ師(Reverend Mr. Leturdu)の香港発1849年1月27日付の書簡に垣間見えます。ルテュルデュ師は琉球にいるフォルカード神父に合流する使命を受けてセシーユ提督率いるフランス艦隊で、1846年5月1日に琉球に到着します。その時の様子をルテュルデュ師は次のように記しています。「セシーユ提督の艦隊が琉球諸島の海域に入ると、フォルカード神父に対してフランス船が停泊地圏内に入り、救助はもうすぐだと知らせるために、21発の大砲が発射されました。神父の耳に鳴り響いたこの大砲の音ほど、人間の心に感謝の思いを起こした音楽はないと思います」。この後、フォルカード神父は長崎に向かうセシーユ提督に同行して、1846年7月17日に琉球を出帆し、長崎での交渉後に琉球に戻る予定でしたが、航海上の問題と艦隊の食糧不足のために、琉球に寄ることができず、再び琉球の地を踏むことはありませんでした。ルテュルデュ師は2年間琉球に滞在し、その状況を記しているので、重要点を以下にまとめます。
    セシーユ提督の目的は琉球・日本・朝鮮・中国北部を訪問することで、最初の琉球に到着すると、琉球政府と交渉して、あらゆる影響力を駆使して、信仰の自由を認めさせると約束した。
    現実には、我々[宣教師]が現地人と会話する自由、僧堂の中にも外にも[琉球の]軍隊を配置しないこと、我々自身が使用人を選べること、警察に尾行されず、現地人が我々に扉を閉ざさないことなどが認められた。提督は宗教については触れなかったが、現地人との関係を持つことができるようになったので、宗教への鍵も得たことになる。
    セシーユ提督が出港するやいなや、我々はフォルカード神父が強いられた地位に落とされた。苦情を言うと、そのような譲歩はこの王国の法に反していて、全く無効だと言われた。
    アドネット宣教師が[琉球に]到着した。彼はフォルカード神父に情報を運ぶ役割で、神父が琉球で私一人だったので、送ったのである。アドネット宣教師は1846年9月15日に琉球に着くとすぐに病気になった。航海の途中で真水を飲んだ結果、発病した。1848年7月に亡くなるまで、ずっと病気が続いていた。
    彼の死で、私は叫ばずにはいられなかった。「哀れな日本よ、汝がいかに試練を受けていることか! 2年間も汝の司教を奪われ、汝の救済に大きく貢献できたはずの使徒を今亡くした。今や汝の救済に尽くせるのは、ここに残る一人だけだ。その彼も生きながらえるか誰がわかろう! 王たちが共謀して謀っているのは、私の死でないとしたら、少なくとも私の離島だ。神よ、神よ! あなたは私たちを見捨てたのか? おお、マリアよ! これはあなたの島ではないのか? この島々はあなたの汚れなき心の庇護のもとにあるのではないのか? 我々がこの島から追放されるのをあなたは認めるのか? なんということか! 母なるあなたが所有する島から国外追放されるのを認めるのか! いや、いや、あなたはそれを認めないだろう」。
    1848年8月27日にフランスのコルベット艦が琉球に入港したので、マニラまで乗船して、そこでイギリスの蒸気船に乗って、ここ香港に到着した。我々は琉球に戻ることになるのだろうか? むしろ日本に行くべきではないか? まだ何も決まっていない。日本行きは最も危険だが、上陸できれば、不可能ではないし、日本の方が成果があると思う。神の摂理が決めることだが、イギリスかアメリカの大砲が私たちに道を開いてくれる。((注4), pp.232-241)
 ルテュルデュ師はこの後、「中国に呼び戻され、広東の牢獄で信仰の告白をして、聖なる死を遂げた」((注3), p.268)と、後年出版されたフォルカード神父の日記の編者は述べています。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(3-1)

1840年代にはフランスのカトリック教会が日本進出を狙う様子が「伝道協会」刊の報告書から読み取れます。イギリスの軍事力で日本にも開国を迫れという調子の文章がカトリック神父の報告書に書かれています。

西欧列強が中国の次に狙う日本

トリックの伝道を世界中で展開する「伝道協会」(Society for the Propagation of the Faith)の1840年代からの年報を読むと、西欧帝国主義の実態が見えてくるようです。この年報は「新旧世界の布教に従事する宣教師と司教の書簡集および伝道協会と布教に関するすべての文書」という副題がつき、世界中に派遣された宣教師が各地の様子を伝える内容です。この協会はローマ・カトリック教会が世界中で伝道するための資金援助組織で、1822年にフランスのリヨンで組織され、1922年に本部がフランスからローマに移されて、ローマ教皇がすべてのローマ・カトリック伝道のための募金・分配機関にしたそうです(注1)。 イエール大学図書館のデジタル・アーカイブに1842年〜1853年の年報が掲載されています。その中に日本に関する記述がないか調べたところ、興味深い内容に溢れています。たとえば、『1846年の伝道年報』(注2)に、中国での布教について書かれているのですが、第一次アヘン戦争(1839-1842)後のことが以下のように書かれています。
中国の古い帝国はぐらついている。今までキリスト教への対応を固守していた障壁を、中国は初めて下げて、キリスト教禁止令の不当な厳しさを緩めた。拷問や死をも恐れない勇敢な使徒たちは、朝鮮半島の、人を寄せ付けない海岸に再び上陸した。朝鮮半島を囲む海は使徒たちの英雄的な企てから日本を守りはしないだろう。日本で再び聖なる旗を上げることになっている者たちは、すでに日本の海岸に近づいている。(p.141)
 次に、報告書「中国の布教」に掲載されている1844年10月13日付のクラヴリン神父[Father Clavelin]の手紙(pp.174-188)にも、日本について言及されています。彼が上海に上陸してからの見聞記です。
[広州湾の舟山島]定海で最も強く印象付けられたのは、古代の寺院は今やイギリス兵の兵舎に変わっていたことです。(中略)寺院に設置されている像をイギリス兵が面白がって破壊しました。一人は鼻をへし折り、もう一人はツノを、そして3人目の兵士は歯を攻撃しました。こうして哀れなブッダは像全てを失いました。(中略)寺院を出ると、私たちは丘に登りました。丘は[町を囲う]塀の内側に位置しており、頂上から[上海の]街全体と港、その周辺が見渡せました。イギリスは第二次戦争[1841年10月の舟山島占拠]開始時にこの高さをよじ登ることで、この町の所有者になったのです。最初の休戦はすぐに破られてしまいましたが、休戦の結果、イギリス軍は定海から引き上げました。中国軍は次の[イギリスの]侵略から自分たちを守るために、ヨーロッパ人が以前やってきた場所に堅硬な城壁を急いで築き、その上に大砲50基を据えました。イギリス軍はすぐに戻ってきて、自分たちが以前上陸したところが強固な要塞と化しているのを見て、ポジションを変えただけでした。一つの連隊が反対方向から町を攻撃し、短期間の抵抗はありましたが、町に入りました。それは中国人にとって驚きで、彼らは「この野蛮人たちは魔法使いだ。我々はここを強固な要塞にしたのに、彼らは大砲に向かってくるのではなく、何の防護もない別の方向から町を奪還した」と言っていました。これで中国人が高い軍事知識を持っていることがお分かりでしょう。彼らは爆弾の使い方も知りませんでした。イギリス軍が最初に爆弾を彼らに向けて発射した時、それが砲弾のように真っ直ぐ飛んでくるのではなく、上から落ちてくると知ると、弾を避ければ十分だと思って、その後、一見無害に見える発射体を検分しようと、彼らは破裂弾に走って行きました。それが爆発した時の彼らの驚きがどんなものだったか想像してみてください。(pp.177-180)

アヘン戦争でイギリス軍として戦ったインド兵

 近代兵器の威力を知らない中国兵を侮蔑する神父の言葉に戦慄を覚えますが、第一次アヘン戦争の犠牲者は、1847年にイギリス政府に提出された報告によると、イギリス軍の死者69人、負傷者451人、中国軍は推測で死傷者18,000〜20,000人とされています((注3), p.1)。 クラヴリン神父は、この舟山島の戦で、イギリス軍は1,200人の兵士を投入し、そのうち200人がインド人で「異教徒かモハメッド教徒」だと述べ、以下のように続けます。「この戦いの間、これらの黒人兵があまりの不品行を働いたために、中国人、特に商業に従事していない階級の中国人の心にイギリスの名前に対する深い憎しみを生みました」(p.181)。弱体化していた中国政府はこの感情を取り締まるために、イギリスの交易所に放火した者や、イギリス船員を虐殺した者を公開処刑するなどしたと述べています。 第一次アヘン戦争でインド兵がイギリス軍として戦っていたというのは、正式なイギリス領インド帝国成立が1857年ですし、どういうことだろうと調べてみると、以下のことがわかりました。「舟山島定海をイギリス軍が占領した時、イギリス軍にはベンガル志願兵隊、マドラス工作・鉱夫隊、マドラス砲兵隊、マドラス原住民歩兵隊の第18, 26, 49, 41連隊が含まれていた」([ref]:Madhavi 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(2-4)

1854年10月14日に長崎で「日英約定」が調印された後、宴が催され、その様子を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は克明に伝えています。驚くべきことは、日本の役人達が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を持っていて、耳で聞いていたイリギスのニュースをこの新聞の銅版画で確かめたいと、イギリスの士官たちに尋ねたことです。

日英約定署名式の後((注1), pp.14-15)

約の署名式の後[1854年10月14日]、「ヨーロッパ式の素晴らしい夕食が用意された」と、食器についても詳しく述べられています。そして、食事は船上の士官たちにも運ばれたこと、夕食後に船に戻る頃には暗くなっていたけれど、「幕府の紋章のついた、美しい提灯を持つ男たちが通りに並んで」提督一行の足元を照らしたこと、水上を覆い尽くす多くの小舟が「これらの趣味の良い、優雅な提灯をそれぞれ数本かざして、その光景全体が斬新で鮮やかな効果をもたらした」と述べた後に、以下の文章が続きます。
 礼儀正しく丁寧だが、押し付けがましくない、控え目なもてなし方、惜しみない、敏感な気の配り方、称賛すべき秩序と規律、この奇妙な人々の良識は、彼らの客人たちを驚かせ、喜ばせた。この人々は自然で自発的な親切心を持っている。現在の状況は以前と比べるとなんという進歩だろう。2,3週間前にはイギリスの船は追い払われ、港に近づくことも許されなかった。投錨すると、監視船に取り囲まれ、厳重に見張られた。上陸も、補給物資を買うこともできず、彼らの言い逃れ、遅れ、言い訳が続き、疑いと不安に満ちていた。この不快な状況を忍耐強く耐えた結果、だんだんと改善していったのである。我々の側で払った細心の注意は、士官も海兵隊員もボートも、決められた境界線を越さないこと、現地人とコミュニケーションを持つことも、取引もしないことだった。これを守るようにという厳重命令が出て、皆気持ちよく陽気に従った。 日本とかわされた条約には貿易は一切触れられていないが、この重要な点について将来の交渉に道を開くことだろう。この条約は暴力や威嚇なしに達成された。この条約は費用もかからず、不都合ももたらさなかったどころか、その反対に、4隻の船は1年のうちで悪天候の季節に長崎のすばらしい港に投錨することができ、安全と健康を手に入れることができた。新鮮な食料と水を与えられ、乗組員の健康は良くなり、6週間の滞在の間に1人の死者も出なかった。(中略) 日本の役人たちは[我々が]彼らの法律に従い、彼らの権利を尊重したことを喜んだ。彼らは驚くほど敏感で、理解が速い人種だ。わずかの侮辱も本能的と言えるくらいに感じ取り、彼らの感じ方は過度に繊細である。ラフで荒っぽい扱いを受けると怯む。彼らが自由に、本当の善意で認め受け入れたことは、よく守り、完璧に行動する。威嚇によって彼らから強要したことは何であれ、公正を約束するかもしれないが、満足いく結果や長続きする結果をもたらさないだろう。そして、ジョームズ・スターリング卿が長崎で静かに行ったことは、江戸でアメリカ人がしたことより、価値においても耐久性においても、はるかに勝ることはほぼ確実である。アメリカ人の特別ミッションは世界に向かって大音声のトランペットで宣伝され、費用もかかっているにもかかわらずである。 この条約が重要に見えるもう一つの点がある。日本人は傑出した島国という地位を有しているが、海の高速道路を走る蒸気船[を持つ国々]にとって、艦隊が休憩し、修理するいい港がある日本で、彼らの鎖国が不可能になる出来事が必ず起こると思い知らされたことだ。世界規模の関心が強大な圧力で襲っている中で、彼らは他国と同じように行動することを求められ、文明的慣習のランクの中に強制的に入れられなければならない。 日本人にはロシアとヨーロッパの戦争について伝えられた。その戦争の原因と戦争が不可避であったこと、同盟国が早急に終戦を図っていることなどが示された。イギリスが今まで日本に介入しなかったのに、なぜ今任務を遂行しなければいけないか、敵が日本の寛容さを利用したり、攻撃的な戦艦や信用できない民間武装船などが日本の隔離された港に隠れることのないよう監視しなければいけないことを理解した。
この後、日本側から提督や士官たちに贈られた品の説明と、ジェームズ・スターリング卿が奉行に2本のリボルバー(連発拳銃)を贈ったこと、そのお返しに奉行から陶器の品々などが贈られたことなどが述べられています。「これらの贈り物は飛び抜けて美しいものだった」と記述されます。 [1854年]10月20日、イギリス艦隊が長崎に到着してからちょうど6週間目に、艦隊は長崎港を出発し、6日後に香港に到着します。この記事は全部でA4サイズにびっしり書かれて、丸8ページもある長い記事です。長崎港の測量図、港と長崎市、日本の大型船、小舟が港を埋め尽くす絵、出島のオランダ商館、イギリス艦隊の一行が上陸する事、長崎奉行の屋敷、日本の様々なランクの侍の衣装の挿絵も掲載されています。最後の2段落に日本で調達したものの支払い金額が合計600ポンドで、オランダ人を通して海軍が支払った事、その内訳が、「豚2頭、豚肉、アヒル138羽」等々、細かく記されています。そして、以下の記述が続きます。

1850年代前半に日本で『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が共有されていた!

 日本の市場価格を知りたい読者には、この明細は興味深いだろう。品はどれも第1級の品質で、卵の一つに至るまで素晴らしい。日本人は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のことを知っていた。彼らは挿絵を見せてくれと言った。イギリスが世界最大のスクリュープロペラの軍艦を建造したと聞いたから、その絵を見せてほしいと言った。イギリスの士官たちが持ってきた『イラステレイテッド・ロンドン・ニュース』のファイルに、「ウエリントン公号」(the Duke of Wellington)の見事な銅版画を見つけると、彼らは非常に喜んだ。日本の役人たちが奉行の屋敷の廊下にしゃがんで、銅版画の数々を食い入るように眺める姿を見ると、この素晴らしい新聞がいかに広く評価されているかの嬉しい証拠である。イギリスの士官たちは銅版画の説明を熱心にし、日本人はそのほとんどの銅版画の意味を実際によく理解していた。このようにして、地球の半周を超えて1国家の国益が生み出されたのである。製作者:L.トライプ艦長(Capt. Linnaeus Tripe , English, 1822-1902) (注2)提供:ポール・ゲティ美術館(L.A.)Courtesy of The J. Paul Getty Museum, Los Angeles  この時、実際に日本人側が見た『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の「ウエリントン公号」の絵は、ウィキペディアの”HMS Duke of Wellington (1852)”(注3)に掲載されています。この時代の日本人がこの新聞を知っていたというのは驚きですが、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1855年4月28日号に、そのエピソードが語られているので、抄訳します。この記事は「最近の日本遠征(特派員より)」と題され、1月13日の記事が読者に非常に関心を持たれたので、日本滞在中の見聞録を紹介すると、A4サイズ丸3ページの長い記事です。この記事の最後に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を持ってきた日本人について、以下のように述べています。
 ある時、数人の役人が私のところに『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の大きな束を持ってきて、何度も熱心に「ウエリントン」という名前を言った。そして彼の肖像画を見たいと身振りで伝えた。しばらく探すと、この高齢の公爵の顔が見つかった。No, No—と彼らは言った。彼らが見たかったのは我々の大きな船だったのだ。我々が世界一大きな蒸気船の軍艦を造ったことを彼らは知っていたのである。その見事な船の美しい銅版画を掲載している『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を見つけ、彼らに見せると、彼らは大喜びした。「無知の目は耳よりずっと知識がある」(”The eyes of the ignorant are more learned than their ears”)ということで、この人々は我々の言語は知らなくとも、銅版画は我々の巨大な力と進歩を示したのである((注1), p.20)。
 最後のことわざのような文はシェークスピアの『コリオレイナスの悲劇』(The Tragedy of Coriolanus)の台詞のようです。1922年刊の『コリオレイナスの悲劇』(注4)の解説によると、この作品はシェークスピアの後期、1608年から1609年作とされ、その根拠としてあげられているのが、作品中に描かれている食糧難が実際にイギリスで起こっていたこと、1607-1608年にテームズ川が凍り、氷の上で火が燃やせたこと、また、イギリスの政情(国王ジェームズと議会の紛争)などです。 1852年に進水式が行われた「イギリス海軍ウエリントン号」について、1854年に長崎の役人達が知っていたこと、その銅版画が掲載されている『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の束を持っていたというのは驚きです。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(2-3)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には日英約定署名(1854年10月14日)までのの交渉の様子が書かれていますが、これはイギリス側の準備不足やコミュニケーションの問題が逆にいい結果を生み出したと指摘されています。

通訳と外交用語の問題

 「東アジアにおけるクリミア戦争」の一環として、カムチャッカ半島ペトロパブロフスクの戦いでロシアに惨敗したイギリスは、スターリング卿の日本ミッションを急遽計画し、準備期間もありませんでした。きちんと訓練を受けた外交通訳やベテラン宣教師が得られなかったために、漂流民の音吉を通訳にしたわけですが、彼はひらがなしか読めず、外交文書の翻訳や複雑な外交交渉の通訳はできなかったそうです。その他にも日英間のコミュニケーションの齟齬がありましたが、それが逆にいい結果を生んだと、スターリング卿は「交渉は私が最初に考えていたものよりも、ずっと幅広い重要なものになった」と述べています((注1).p.142)。 日英双方とも、出島のオランダ商館長に英語文書をオランダ語に翻訳させ、それをオランダ大通詞・西吉兵衛に翻訳させたそうです。しかし、ロシアのプチャーチンとゴンチャロフが1853年に日本と交渉した時に、西が理解しなかったり、意図的に内容を変更したりしたとして、ロシア側には不評の通詞だったようです(p.144 )。『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』の著者ラスは「どんなに真面目で優秀な日本人通訳でも、1850年代に彼らが直面したのは、「領事」というような外交用語が日本語には存在しないという大問題だった」(p.144)と指摘しています。ラスが依拠した文献は『帝国主義との交渉—不平等条約と日本の外交文化—』2004, (注2))です。著者のマイケル・オースリンもラスも21世紀の若手の研究者として、欧米中心主義ではない目線で、幕末日本の交渉史を論じています。 ラスは当時、西洋の概念がいかに日本語にできないかの例を、イギリス国立公文書館のスターリング卿の文書と日本語訳とを比較して論じています。スターリングの最初の日本宛要求書は英語では率直で簡単なものだと、以下の外交文書をあげています。
現在の争いにおける交戦国の戦艦の入港を許可するかに関して、日本政府の見解と意図を彼[スターリング]に知らせることは不可欠であります。戦闘状態によって彼に課された義務を遂行するにあたり、日本の皇帝と臣民を不快にするようないかなる行動もできる限り避けるつもりであります。“it is absolutely necessary that he (Stirling) shall be informed of the views and intentions of the Japanese Government with respect to the admission into the ports of the ships of war of the belligerent parties in the present contest.” The British query, however, was accompanied by an assurance that “in the execution of the duties imposed on him by a state of war,” Stirling “anxiously
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英米に伝えられた攘夷の日本(2-2)

下田で3回目の日露交渉が始まる3カ月半前にイギリス艦隊が長崎に来航します。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でどう伝えられているでしょうか。クリミア戦争との関連からも見ていきます。

東アジアにおけるクリミア戦争

 1854年9月7日イギリス艦隊の長崎来航の目的がクリミア戦争と関連していたことを、『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』(2015、(注1))をもとに解説します。ギリス海軍の東インド・中国基地の司令官だった海軍少将ジェームズ・スターリング卿は1854年6月時点で、ロシアの脅威は北は中国、東は日本にあると予想していました(p.118)。ロシアが北部中国支配計画を発展させれば、日本と緊密な関係を構築する重要性が明らかになると恐れ、ロシア戦艦を探し、クリミア戦争中はロシアに日本の港と資源を使わせないようにするために長崎に来航したのです(p.142)。イギリス外務省と外務大臣クラレンドン卿は1854年6月に、日本から経済的譲歩を得るよりも、中国における商業的利益とイギリス船舶に対するロシアの脅威と海賊除去が優先すると、明確な指示を出していました(p.142)。したがって、スターリング卿が同行者として選んだのは、外交や通商の代表者ではなく、海軍の交渉専門家で、スターリング卿曰く、彼らは日本を通商ではなく、政治的に最重要な国と見ており、日本の長い伝統[鎖国を意味する?]に逆らって通商を強制すべきではないという考えの持ち主だったそうです(p.143)。 スターリング卿が4隻の戦艦を率いて長崎に到着する1週間前の1854年8月31日にカムチャッカ半島ペトロパブロフスクでロシア軍と英仏連合軍の戦闘が始まりました。英仏軍は地勢を知らず、準備も不足していた上、連携も悪く、惨敗します。負けた連合軍の戦隊がカムチャッカを去った同じ日に、別のイギリス戦隊が長崎に来航したのです。このニュースは1855年1月には下田に「ロシア軍が英仏の蛮人たちに圧勝した」と伝えられたそうです(p.141)。 この頃、ロシアのプチャーチンが日魯通好条約締結のために下田にいました。川路聖謨の日記にはプチャーチンとの厳しい国境問題交渉の最中に、クリミア戦争と日本の関係について以下のように記されています。「皇国へは、天幸いを下し玉うか。此節再び西洋各国みだれて、魯戎と英・仏の二夷、大戦争となりたり。もし此戦、魯戎敗られたらば、遅かるべし。勝たらんには、早かるべし」(安政元年11月29日/1855年1月17日、(注2), p.170)。この2週間後には、ペトロパブロフスクの戦を知ったと書かれています。「アメリカ人はなしにては、英・仏の二夷、魯戎のカムサスカを攻め候て、大に戦い、二夷共に敗軍、英の大将敗死いたし候由」(安政元年12月14日/1855年1月31日、p.185)。

英国戦隊の日本到着

 「英国戦隊の日本到着」という、日本側にとっては恐ろしい題名の記事がアメリカのペリー提督の記事の後、1855年1月13日号に掲載されました。この記事のオリジナルと日本語全訳は「音吉顕彰会」ホームページ掲載のpdf版(注3)で読めますが、私が関心ある部分だけ拙訳します。記事の内容は4ヶ月前に長崎に到着した時の様子です。

英国戦隊の日本到着((注4), p.8)

 [1854年]9月7日イギリス海軍の船、ウィンチェスター号、エンカウンター[遭遇戦]号、バラクータ[クロタチカマス科の細長い魚]号、スティックス[ギリシャ神話の三途の川]号が日本・長崎の外港に投錨した。港のはるか外で、数艘の小舟がそれぞれ12人の漕ぎ手を乗せて、戦隊のそばに近づいてきた。船首の木の屋根の上で2,3人が竹に結びつけた白い旗を振り、戦隊を追い返そうと必死になっているようだった。この激しいジェスチャーは無視されたが、1,2の注意書は船に載せられた。港に入ることは何人にも禁止されており、処罰や危険の対象であると日本語・ロシア語・オランダ語・英語で書かれてあった。 昼頃、奉行の副官である港長(Captain of the Port, the Governor’s Aide-de-Camp)と税関検査官(Inspector of the Customs)が旗艦に上船してきた。17人が随行してきて、それぞれ2本の刀を差していた。その刀の細工は最高級で、カミソリの刃のように鋭く、輝いていた。男たちは刀の絵を描かれるのも、見られるのも、触られるのも嫌がった。 [日本の]士官たちは船長のキャビンに通され、通訳を介して会話が始まった。通訳はオトウ(Otō)という日本人で、提督が上海から連れてきた男である。彼は20年以上前に難破した貿易船に乗っていた。イギリスに行ったことや、故ギュツラフ博士などの宣教師たちに一時雇われたことを含めて、人生の様々な変遷を経て、現在は上海のデント商会のビール氏の倉庫管理人をして、高額を得ている。日本側が彼を上陸させたいと言ったが、彼は上海に妻と子どもがいるので、イギリスの保護下にいる方を選ぶといった。日本人の1人が「妻が悲しみ、子どもが泣く」と言ったが、オトウはその返答として[イギリスの]旗を指差しただけだった。

漂流民・音吉について

 上記の記事はまだ続くのですが、「オトウ」と描かれている日本人について、彼の出身地の愛知県美浜町公式ウェブサイトに「にっぽん音吉漂流の記」(2014年4月1日、(注5))が掲載されています。要約すると、1832年11月に米や陶器を乗せて鳥羽から江戸へ向かう廻船に乗っていた音吉は、当時14,5歳の見習い船員でした。船は14カ月も漂流して、14人の乗組員のうち、音吉を入れて3人だけが生き残り、アメリカからイギリス、マカオへと送られ、マカオでドイツ人宣教師のカール・ギュツラフ(Karl Gutzlaff: 1803〜1851)の世話を受けます。そして、ギュツラフは3人から日本語を学び、彼らの助けを得て聖書のヨハネ伝を翻訳します。この翻訳は明治学院大学デジタルアーカイブスから読むことができます(注6)。シンガポールで1837年頃に出版されたそうです。一方、熊本から漂流した4人の船乗りがマカオに送られてきて、合計7人の日本送還を図ったアメリカ人商人やギュツラフたちは、モリソン号という船で浦賀に行きますが、砲撃され、帰国を諦めます。これがモリソン号事件です。 この後の経緯はシンガポール国立図書館のサイト記事「シンガポールの最初の日本人市民:山本音吉」(注7)から要約します。母国から拒否された音吉は名前をジョン・マシュー・オットサン(John Mathew Ottoson)と改名し、キリスト教徒になります。中国語もできたので、アヘン戦争(1839〜1842)の頃にイギリス政府の通訳として雇われます。同時に日本の漂流民の送還の援助をし、東アジアを幅広く旅して、シンガポールに行きます。 彼はイギリス海軍マリナー号の通訳として、1849年に浦賀に行き、林阿多(Lin Ah Tao)という中国名で上陸しました。この軍艦は地形測量が目的でした。その後、1854年にジェームズ・スターリング提督が日英和親条約を構築する手伝いをしました。この条約によって、長崎がイギリスとフランスに開かれました。音吉はこれらの重要な行いの褒美として、イギリス市民権と報奨金を与えられ、1862年にシンガポールに永住することにしました。彼の最初の妻はマカオの宣教師プレスで会ったスコットランド人の女性で、2番目の妻は上海のデント商会で共に働いている時に知り合ったドイツ系とマレー系のシンガポール・ユーラシアン[欧亜混血の人々を指す]だったそうです。

英国戦隊の日本到着(続き, p.8)

 音吉についての記述の後、記事は日本側とのやり取りを詳細に記しています。
 提督が日本の皇帝宛の書簡を渡し、乗組員の運動のために上陸させてほしいと要求した。日本側からは提督の書簡を江戸の皇帝に送ること、返事は40日かかること、2,3日前に港に着いていたオランダ軍艦はイギリス側とのコミュニケーションを禁じられていることなどが伝えられた。その結果、4隻のイギリス軍艦は3週間も身動きできない状態で停泊させられ、こんな侮辱的な制限に我慢して、いや、礼儀正しく従わされたことはない。 提督が食料を購入したいと申し入れると、日本の法律では外国との貿易は一切禁じられているので、必要な水や食料を供給すると、9月9日に3艘の船で運ばれてきたのは、豚3匹、鳥42羽、梨とサツマイモ8袋、大根、玉ねぎ、卵1カゴだった(重さも記述しています)。 甲板を磨くための砂も所望したところ、最初に運ばれたのは3艘分の石英の砂利だったので役に立たず拒否すると、1,2日のうちに、3艘の船いっぱいの茶色ぽい、クリーンで鋭利な砂が運ばれてきた。 魚釣り用の地引網を島の砂浜に張ることの許可を提督が求めると、許可できないがと言って、[1854年9月]22日に良質の生魚を6,7カゴ分供給してくれた。タイ、ボラ、カレイで、彼らは少量であることを謝罪した。ウインチェスター号の乗組員の1日分でしかなかった。26日に3カゴ分のイワシが供給されたので、エンカウンター号に送った。2番目の小舟にいっぱいの生野菜、鳥2,3羽、4,5ポンド[2,268グラム]程度の良質のお茶が入った壺が提督への贈り物として差し出された。日本人は4隻の船の乗組員が何人か確かめたがり、総勢約1000人と知ると、自分たちが供給したのは十分ではないとわかった。しかし、[イギリスの]船は日本側から無償の食料を受け取ることはできない、ただ「初めまして。ロシア船について情報がありますか? さようなら」と言いに来ただけだと伝えられた。これは日本の無愛想な対応に対してイギリス海軍の最高司令官の最初の訪問の要約としては妥当だと思う。

イギリス海軍の脅し行為?

 この後も不満タラタラの記述が続きますが、そのあとは、4隻のイギリス軍艦が長崎湾で「戦隊点検」を始めるという描写です。海軍の「点検」(inspection)というのは、アメリカ海軍のホームページによると、軍艦があらゆる点で準備ができているかを試すもので、アメリカの場合は1882年に議会で制定されたそうです(注8)

英国戦隊の日本到着(続き, p.9)

 [1854年9月]26日、提督は戦隊のすべての船の点検を行った。武装はしなかったが、全員配備についた。10時に250人の水兵と21人の士官を乗せた22艘のボートが旗艦の周囲を囲んだ。密集隊形で一列を作ったあと、全部の船が帆を広げた。そして、号令によって、魔法のように、すべてのマストと帆を下げた。甲板上の天幕全てが広げられた。ボートはゆっくりと戦隊の周りを漕いだ。そして、岸に沿って、横列隊になった。最後に旗艦に向かって競争した。この美しい港を見下ろす山の上から眺めたら、素晴らし光景だったに違いない。日本の巡視船全てが監視していた。彼らはこの光景が何を意味するのかわからなかった。
この翌日、9月27日にウィンチェスター号の船長と砲術長がボートで島々を探検し、外海の島に良質の石炭を見つけたことが記されています。ボートで運び出せる位置に炭鉱があるので、日本側に船に載せてもらいたいと依頼します。最初、彼らは何のことかとわからないふりをしていたけれど、提督が石炭を見たと知ると、炭鉱はある大名に所属していて、長崎奉行は介入できないと言ったと書かれ、次にスターリング提督が動きます。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(2-1)

1853年の最初のペリー来航の記事の後に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されたのは、クリミア戦争でロシアに宣戦布告したイギリスは、日本に進出しているロシアを追い出さなければいけない、第2回目のペリー来航でアメリカが達成したことをイギリスも追わなければいけないという論調の記事(1854年9月)です。

1854年9月16日:「香港と上海」((注1), p.7)

 南京と上海の他に、ジョン卿は日本訪問を希望している。ロシアが日本に行って、ある種の条約締結に成功したと報告されている。ロシアのコリアにおける植民は間近で、ロシアにとって日本との友好関係を確立することは最重要課題である。戦争が布告された今、我々はロシアをこの地域から追い出さなければならない。我が提督はイギリスがこの地に向かう途中だと言った。 アメリカは日本が彼らの排他的反社会的慣習を多少ゆるめるよう説得した。アメリカは正しい原則に則って日本に働きかけるために行ったのである。アメリカは礼儀をもって受け入れられた。アメリカは日本に鉄道の完全な模型を持って行った。エンジンも車両も必要な付属品すべてである。長さは1マイル(1.6km)で、日本が許可したので、海岸に敷いて、電信装置をつけた。これを見に数千の日本人が集まった。日本人はこれらの現象に驚嘆した。ヤンキーたちは、群衆の中で最も知性が高そうな数人に、エンジンと電信の操作方法を教えた。喜んだ日本人は1週間以上も、昼夜を問わず、休みなく動かし続けた。まるで新しいおもちゃに飽きることを知らない子どものようだった。 アメリカがこのような巧みさとエネルギーを使ったことは称賛に値する。この通商によって大きな利益を得るまでに飛躍するだろう。しかし、アメリカがその独占を享受するままにしてはならないし、彼らはそんな期待もしていない。とは言っても、彼らが先陣を切ったのであり、アメリカはどの国とも、あるいは全ての国と競争する用意は出来ている。
 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には、この後、第2回目のペリー来航で、提督が日本から持ち帰った品々の紹介記事が掲載されています。ペリーが艦隊を江戸に向かわせようとすると、日本人側が刀を差し出して、自分を切ってくれ、そうすれば、切腹せずに済むし、家族に対する不名誉や家族の死を避けることができると言ったと記述され、ペリーは船を戻し、武士たちは切られずに済んだと述べた後、突然、日本の銅貨は素晴らしいと、天保通寳の挿絵が掲載されています。

東アジアにおけるクリミア戦争

記の記事で「戦争が布告された今、我々はロシアをこの地域から追い出さなければならない」という点は、1853年10月に始まったオスマントルコとロシアの間のクリミア戦争に英仏が参戦し、1854年3月にロシアに対し宣戦布告したことを指すのでしょう。 クリミア戦争と当時の日本がどう関係しているのかという疑問に答えてくれた研究書があります。『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』(アンドリュー・ラス著, 2015, (注2))です。この本をもとに、日本をめぐるイギリス・ロシアの駆け引きを概観します。 当時、ロシアは「強欲なイギリスがカムチャッカを征服し、中国と日本の沿岸を支配し、ロシアを太平洋から引き剥がす」(p.113)と恐れ、一方、英仏連合軍はロシアの拡張主義を警戒していました。ロシア海軍の太平洋指揮官、プチャーチン海軍中将に率いられたロシア艦隊は1853年8月に長崎に来航します。ロシア政府はペリー来航の前から日本に艦隊を送ることを計画していましたが、1ヶ月ほど遅れをとったことになります。ロシア艦隊は準備万端で、特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがロシア外務省のアドバイザーとして、日本との交渉にベストなアプローチを助言し、日本を刺激しないように長崎に来航するなどしたことは大きかったといいます(p.146)。1855年2月に下田で日魯通好条約を調印するまで、4回日本に来航しますが、1回目の長崎来航時にクリミア戦争が勃発し、プチャーチンは日本からの回答を待たずに、10月23日に出港します。英仏側はロシアが条約を勝ち取らずに日本を出たことを嘲笑ったと、著者ラスはフランス防衛アーカイブの文書を引用して指摘しています(p.146)。しかし、日本側は別の見方をしていたと、伊豆韮山の代官江川英龍の言葉を引用しています。これはラスが依拠した三谷博著『ペリー来航』(注3)の英訳からの抜粋ですから、現代日本語で訳します。
ロシアは今まで丁寧だったと同じくらい、どこまでも粘り強い恐れがあります。もし拒否されたら、アメリカと同じ立場に置かれ、我が聖なる国は前にも後ろにも敵を持つことになりましょう。これは受け入れがたいので、ロシアに通商を許可する条約を締結すべきです。(中略)これが現在の世界情勢に基づいた私の愚見であります。(p.147)
 ラスはこの後、ロシアとの交渉に当たった川路聖謨としあきらの日記から引用して、日露の交渉役の対応を比較しています。これはプチャーチンが3回目の交渉のために下田に来航した時のことで、川路の「下田日記 第一回下田行」掲載の安政元年11月29日(1855年1月17日)の日記です。なお、ラスも『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』も西暦で記していますし、21世紀の私たちには西暦の方がわかりやすいので、原典の旧暦の後に西暦を付します。 まず、ラスの記述(p.147)を訳し、原典をその下に記します。
ラス(注2):一方、勘定奉行で全権委員の中心だった川路聖謨は日記の中でこう打ち明けている。ロシアは1689年のネルチンスク条約調印以来、「明らかに大国になり」、航海術の能力を「日夜」改良してきた。[出典:川路聖謨『長崎日記・下田日記』1855年1月17日]川路(安政元年11月29日、(注4), p.170):魯戎は其時[二国会盟=ネルチンスク会盟]よりは遥に又大国と成りて、且つ航海のこと、其時よりは雲壌を隔てたり。ラス:川路は「フランスのナポレオンという者が大戦を始め」、一時的にロシアを負かした後、日本が「惨事を免れた」と認めているが、彼は「(日本の)国土には限りがあるが、野蛮人の欲望には限りがない」と評している。川路:文化のはじめ、既に大事に及ばんとせしかど、幸いにまぬがれたり(フランスのボナパルテと申し候者、大戦争を仕かけ、魯西亜一旦は敗北して、其国都迄奪われたり。文化十二年の事也)。(中略)地にかぎり有りて、夷人の欲にかぎりなし。恐るべき事也(pp.170-171)。
 日本が「惨事を免れた」事件は、文化元年(1804)ロシアのレザーノフが長崎に来航し、通商を求めたが拒否されたため、威嚇のために1806〜1807年に樺太・択捉を襲撃した事を指すと、『長崎日記・下田日記』の注に記されています。しかし、ラスは解説していないので、英語圏の読者には引用箇所の意味がよくわからないかもしれません。レザーノフは襲撃事件を計画はしましたが、その前に病死してしまい、実行したのは部下だったそうです。レザーノフの『日本滞在日記:1804-1805』は日露関係の真相が書かれていたため、1994年まで190年も公開されなかったといいます(注5)

イラストレイテッド・ロンドン・ニュースで伝えられた安政東海地震

 川路とプチャーチンは3回目の日露交渉会議を嘉永7年11月1日(1854年12月20日)に下田で始めますが、その3日後の11月4日(12月23日)にマグニチュード8.4(注6)の地震に見舞われます。ロシア一行が経験した地震の様子が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1856年1月5日号)に「日本の地震」という見出しで、1854年12月23日にロシア艦ディアナ号の乗組員が経験したこととして報告されています。繰り返し襲う津波に翻弄される様子ですが、まだ「ツナミ」という言葉はなく、「大波」という表現で、どんな破壊力を持っているかが記されています。 この地震に際して、日露が助け合った様子が『日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」報告書』(注7)に記されています。川路とプチャーチンは地震の対応をしながらも、13日後には外交交渉を再開しています。川路の『長崎日記・下田日記』を『百代の過客—日記に見る日本人—』で取り上げたドナルド・キーンは、この地震でロシア側が見せた人道的支援を目の当たりにした川路の日記には、「魯戎ろじゅう」(ロシアの野蛮人)という言葉が「魯人」に代わられたと指摘しており(注8)、ラスも紹介しています(p.148)。 この指摘を確認しようと、『長崎日記・下田日記』に記載されている「魯人」と「魯戎」の使われ方を調べてみたところ、必ずしも地震の前は「魯戎」で、地震後は「魯人」に代わったわけではないことがわかりました。ロシア人を意味する語の初出は、川路が長崎に到着した翌日、嘉永6年12月9日(1854年1月7日)に江戸より届いたプチャーチンからの日露の国境問題と通商問題の交渉開始を催促する書簡について述べている箇所です。確かに「魯戎」が使われています。でも、その3日後に「魯西亜人共」、5日後は「魯戎」と「魯人」の混用などが続きます。傾向としては、ロシア側が無理難題を主張していると感じた時は、「魯戎共殊の外むつき事共申出候て」(12月15日)などの使い方をしているようですが、統一はされていません。「魯戎使節」(12月14日)、「魯西亜使節」(12月18日)などの混用の後は、「魯人と対話」などが続きます。下田到着後、地震までの13日間も「魯戎」の方が多いにしても、「魯人」も使われています。地震の後は確かに「魯人」使用の方が多いようですが、「魯戎の布恬廷[プチャーチン]」(安政元年12月8日、1855年1月25日)とも表現しています。ただ、この記述ではプチャーチンを賞賛しているので、逆説的な意味合いで使っているようでもあります。国境論争などお互いに譲らずに激論を戦わせるうち、大地震にあい、助け合った二人が賞賛し合うという印象的な文章なので、以下に引用します。
再びおもえば、魯戎の布恬廷は、国を去ること既に十一年(航海三十年に及ぶといいき)、家を隔つること一万里余、海濤の上を住家として、其国の地を広くし、其国を富まさんとしてこころをつくし、去年巳来は英・仏二国より海軍を起して魯国と戦い、彼も海上にて一たびは戦いけん、長崎にて見たりし船は失いて、今は只一艘の軍艦をたのみにて、三たび、四たび日本へ来りて、国境のことを争い、この十一月四日をはじめにて、一たびつなみに逢い、再び神のいぶきにトリヒシガれて、艦は深く千尋ちひろの海底に沈みたり。(中略)常には布恬廷フテイヤツなどいいて、罵りはすれど、よくおもえば、日本の幕府、万衆のうちより御騰[登]用ありて、かく御用いある左衛門尉などの労苦に、十倍とやいわん、百倍とやいわん、実に左衛門尉などに引くらぶれば、真の豪傑也。(pp.181-182)
左衛門尉さえもんのじょう」というのは、川路聖謨の任官後の称号ですから、プチャーチンに比べたら自分の苦労など比べものにならないと賞賛している文章を家族に送ったようです。この中で、クリミア戦争にも言及しています。

川路聖謨の『長崎日記・下田日記』

 『長崎日記・下田日記』には興味深いことがいくつも記されています。川路聖謨はプチャーチンの2回目の長崎来航時に幕府の全権委員に選ばれ、嘉永6年10月30日(1853年11月30日)に江戸を出発して、12月8日(1854年1月6日)に長崎に到着します。当時53歳の川路が碓氷峠越えで、「途中日暮れかかりたれば、飛ぶが如くに歩行したるに、案内の手代坂みちにて息切れて、途中にへたばりたり」(1853年12月4日、p.8)と自慢気に書いています。その後に、自分が元気な理由を、普段から「甲冑歩行」しているからだと述べています。注釈によると、弘化3年(1846)頃から日課として励行している身体鍛錬法で、彼の奈良奉行時代(弘化3〜嘉永4/1846〜1851)の日記『寧府紀事』から引用しています。「孫子軍争篇によれば、敵陣と味方との間、三里は必ずあることなり・・・甲冑惣目かた三貫目位にて、二尺三寸に壱尺三寸の脇差をさし、三里歩行し、馬にて五里往来せねば、武士の役は立たずとしるべし」。約11kgの甲冑をつけ、70cmと40cmの脇差をさして、約12km歩けと言っているので、ある程度は日常的に実行していたのでしょう。 また、熊谷通過の11月1日(1853年12月1日)に「大いにさむし。往来の打水氷たり。四十度位なるべし」(p.6)と初めて温度の記述が始まり、その後度々温度が記されています。これは華氏温度で、摂氏4.4度です。注釈によると、寒暖計を携帯していたらしい事、寒暖計所持の初見は天保11年(1840)なので、その頃入手かとされています。ドナルド・キーンはこの日記が日々の温度を記録した日本で最初の日記だと指摘していますが、天保11年に佐渡奉行だった時の日記『島根のすさみ—佐渡奉行在勤日記—』にも温度が記されているので、こちらが最初かもしれません。 川路聖謨はペリー来航の時に、徳川斉昭に「ぶらかし策」という海防策を述べて、斉昭の信用を得たといいます。日本側から確固たる意思表明をせずに、回答を引き延ばし、外国が退去するのを待つという策です。プチャーチンとの交渉では、国境に関して主張をしながら、粘り強く交渉を続ける様が日記から窺えます。安政元年12月21日(1855年2月7日)に調印された日魯通好条約(日露和親条約)は、「日露間の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間とすること、樺太(カラフト)島には国境を設けずに、これまでどおりの両国民の混住の地とすること」「双務的な領事裁判権」(注9)が規定されました。 慶応4年3月15日(1868年4月7日)が江戸開城と聞いた当日、川路聖謨は自尽します。68歳でした。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(1-5)

ペリーは幕府側に、中国で反乱があり、南京が占拠されたと言いかけて、幕府の役人から「反乱の話をしない方がよろしい」と諌められたのですが、太平天国の乱は同時代人のイギリス人からどう受け止められていたのでしょうか。

太平天国の乱

ギリスの読者に伝えられた情報という点で、1866年にロンドンで出版された『太平天国—太平革命の歴史—』(注1)から引用します。著者はLin-Leと中国名を使っていますが、リンドリー(Augustus Frederick Lindley:1840-1873)というイギリス人貿易商、冒険家で、彼の序によると太平天国のリーダーに依頼されて、革命の歴史を記したそうです。 ペリーが日本側に「暴徒による反乱が起こり、暴徒は南京とアモイを占拠し、新たな宗教を導入しようとしている」と言ったのは1853年7月14日です。『太平天国—太平革命の歴史—』によると、革命軍が南京を占拠したのは1853年3月19日です。アモイ(Amoy,福建省廈門)を占拠したのは太平軍ではなく、トライアド(Triads)と呼ばれる反体制組織で、7月末頃とされています(p.166)。この本の解説によると、トライアドの行動が穏やかなので、非常に人気があり、村人が食料物資を供給し、政府軍と戦ったのはこれら村人たちだったそうです。トライアドは太平軍に参加したいと申し出たそうですが、規律の厳しさに耐えられず、全員が参加することにはならなかったが、関係は近いものがあったと言っています。 日本では清朝として知られている政府は、この本では一貫してManchoo government(満州政府)、Manchoo Emperor(満州皇帝)と称され、民衆はChinese(中国人)と呼ばれているのに対し、満州王朝の人々はTartars(タタール人)と称されています。太平天国の乱の原因としてリンドリーが上げているのは、満州王朝の残酷さです。「満州支配の野蛮さは古代歴史上でも、現代史上でも、匹敵するものがないほどである。彼らの拷問による処罰の悪魔的性質、特に反逆に対する処罰と、彼らが制定した『処罰委員会』の記録は人類史の中で最も危険な地域をなしている」(p.105)と書いた上で、ヴィクトリアの司教(香港, George Smith: 1815-1871)の1854年の文章を引用して革命が起こった理由を説明しています。
政府は腐敗しており、学者たちは弱く、抵抗もせず、上流階級は臆病で隷従し、下層階級は生存の闘いで精一杯で、国全体が精神的エネルギーが麻痺したまま手足を縛られた状態であった。彼らの知的機能は阻まれ、人権や自由権は権力にしっかり握られ、また、頽廃した官能の影響下[アヘンの影響]にあった。 この中から改革者が現れることはありそうもなかった。(中略)しかし、この難局と落胆の状況の中から、現在の運動が起こった。その主要人物たちと彼らの達成したことを見ることができる栄誉を神に感謝する。(p.105)

太平天国を興した人物

 リンドリーは太平天国を興した人物、Hung-Sui-Tshuen[洪秀全:1813-1864]について、洪秀全の側近から直接聞いた話と、セオドア・ハンバーグ[Theodore Hamburg: 1819-1854]の『洪秀全の幻想』(The Visions of Hung-Siu-Tshuen, 1854, 日本語訳1941)、そして『太平天国—太平革命の歴史—』の中でも度々引用しているヴィクトリアの司教の本を基に概説していますので、太平天国までの主要点を抄訳します。
 洪秀全は1813年に広東の近くの小さな村で生まれた。祖先は広東省の北東部の出身だったが、満州のタタール人による中国支配がほぼ完全になった1685年頃に、満州政府の迫害を逃れて、広東省の最南端に移った。この人々は現在に至るまで移住者という意味のハッカ(Hakkas客家)と呼ばれてきた。 洪秀全の家族は中国で最も古い家柄の一つで、11世紀の宋代の頃から著名な知識階級だった。洪は小さい時から学問に優れ、18歳の時に村の教師に選ばれた。この頃から科挙試験に挑戦したが、満州政府の腐敗のため、官僚に賄賂を与えることしか合格の道がなく、彼は合格できなかった。そんな時、街で明代の衣服を着た男に出会い、洪がやがて最高の地位を得ると言われる。翌日、2人の男たちに会い、9冊の本を渡される。「時代を導くいい話」(Good Words for Exhorting the Age)という題名で、洪は読みもせずに本箱にしまった。 1837年に試験に再挑戦した。高得点だったにもかかわらず、ランクが下げられ、試験官の不公平さに落胆して、病気になってしまう。そして不思議な夢を見る。(pp.31-36)その後、数年間、洪は勉強を続け、村の教師としての役割も果たしていく。ある日、従兄弟のリーが洪の本箱を眺めるうちに、「時代を導くいい話」を見つけ、借りて読む。それは聖書の翻訳だった。それらが中国の本とは全く違う、素晴らしい内容だとリーから聞いて、洪は精読し始める。その内容が6年前に見た夢を説明するものだったので、驚嘆する。洪は長い夢から目覚めたような思いで、天国への道を見つけた喜びと、永遠の生と幸福に希望を見つけた。そして、本に書いてある通りの洗礼方法でお互い洗礼の儀式を行う。 洪とリーは友人や親戚を改宗させ、やがて宣教の旅に出る。1845-46年に洪は多くの宗教的読物を書き、それが後に修正されて「太平天国宣言」になる。1847年に広東のキリスト教宣教師ロバート氏のアシスタントに洪の宣教活動が伝わり、洪は広東でキリスト教を学ぶよう招待されて、しばらくロバート氏の元で学ぶ。その後、宣教の旅に再び出て、この原始的キリスト教は2000人もの教徒を得るまでになり、その数は日毎に増えていた。洪は教徒にアヘンやタバコ、酒を禁じ、安息日は厳格に守るように指導した。 すでに地域の当局から迫害を受け始め、逮捕され、殺害される者が増えてきていた。満州政府が軍隊を送って迫害しようとしていた時、洪秀全は迎え撃つ準備を始めた。洪秀全のグループに参加したのは、不満を持つ客家、トライアド、無法者、満州政府に反対する者たちで、独自の政府を樹立する流れができた。ヴィクトリアの司祭によると、洪秀全の文学的才能、道徳的偉大さ、管理能力、知的エネルギー、秀でた指揮力などから、リーダーに選ばれ、1851年末に中国王朝が宣言された。洪秀全は最初、4人のリーダー仲間と共同で最高権威者になろうと申し出たが、信者たちの熱烈な歓呼で皇帝に選ばれた。(pp.37-54)
 「太平天国の乱」をコロンビア大学の「教育者のためのアジア」サイト(注2)では、1850〜1864年としています。1853年3月に太平軍による南京占拠の成功が誇張されて上海のイギリス軍に伝えられ、革命軍が上海も襲うという噂が広まりました。満州王朝が盛んに「外国の『野蛮人』が南京の暴徒を退治するために軍艦を送る」という噂を広めたために、イギリスの中国全権大使ジョージ・ボーナム卿(Sir George Bonham: 1803-1863)は1853年4月に南京に行って、太平革命軍に対し、イギリスは完全に中立の立場を取ると宣言します(pp.138-145)。太平天国の乱の勢いは凄かったようですし、彼らのキリスト教的宗教観もリンドリーには好もしく映っていたようで、革命軍に同情的です。 なぜ満州王朝が中国全土を支配できたかの理由を、1863年7月発行のFriend of Chinaという新聞から引用しています。3点挙げられていますが、その第一番目は弁髪です。「中国人全員に前頭部分を剃らせ、テールを作らせた。従わない者は反逆者として斬首した。満州政府がこれに成功するには長い年月がかかり、南部には全く従わない人々もいた」(p.104)と解説されています。太平軍と政府軍の兵士の髪型が80ページに挿入されています。

太平天国の乱に対する英仏の対応

 リンドリーは母国イギリスの対応について批判的です。イギリス軍の軍事介入さえなければ、革命軍の北京占拠も可能だっただろうと述べています。後に日本に派遣されるイギリス公使たちやイギリス海軍の提督が、この頃の中国でイギリス政府を代表していた人々なので、彼らが太平天国の乱にどう対応したのか興味のあるところです。 1854年9月に上海がトライアドに占拠され、まずフランスが、次にイギリスが満洲政府の支援という形で革命軍だけでなく、市民をも虐殺した様子をリンドリーは複数の証言をもとに語っています。
 トライアドが上海を占領している間に、ヨーロッパのコミュニティーの中で、最初は秘密裏に、狡猾で恐ろしい革命軍対策—イエズス会の暴力的陰謀—が進行していた。(中略)太平天国の成功は、イエズス会がしてきたことと中国で築いてきた彼らの地位を脅かすため、太平天国に参加すると言っているトライアドを打倒する策略を始めた。フランス領事と上官は二人とも司祭の支配下にあり、頑迷な男たちで、帝国軍を支援して、トライアドを追い出したが、そこには正義や正当な理由は微塵もなかった。 1854年12月に、フランス海軍提督が彼自身の野望とイエズス会の仲間の不正な目的のために動く時が来たと決断した。トライアドは何の挑発行為もしなかったのに、突然襲われ、フランス水兵に虐殺された。提督は2万人の無辜の民が住んでいた上海の町を爆撃し、残忍な満州軍とフランス軍が共に町を封鎖した。(中略)1855年2月17日頃、フランス軍に投降したトライアド300人は満州軍に引き渡され、拷問されて死んだ。その後3日間に町の無辜の民と反逆者2,000人が虐殺された。(中略) 一方、トライアドが上海を占領した時に殺したのは2人、拷問は1人もせず、私有財産は尊重した。上海の新聞は「フランス軍と帝国軍が市を占拠した時、虐殺が起こった。市の壁の周囲には斬首された頭がぶら下げられ、橋には19も下げられ、所によってはうず高く積み上げられていた」と書いている。 ジョン・スカース牧師が著書『中国での12年間』(注3)の中で、その場で目撃したことを述べているので引用する。「中国軍とイギリス海兵隊がトライアドのリーダーと上海の市民を捕らえようとしていた。[イギリスの]副領事代行(驚くべき動機を持っているようだった)が随行していた」。 このようなことを知っている者には、この「驚くべき」企みが何かわかるが、中国事情を知らない人は、副領事の友人である[満州]政府役人がトライアドのリーダーの首に15,000ドルの報奨金をかけていたことはわからないかもしれない。イギリスの役人たちが満州同盟に食指を動かしたのは、1855年の上海虐殺だけではなかった。1854年から1856年にかけて、イギリスは抑圧された中国人の蜂起を鎮圧するための介入を続けたのである。 1854年ボウリング卿(Sir James Bowring: 1792-1872, イギリスの中国全権大使)は帝国軍と同盟してイギリス軍艦を送り、広東州の絶滅戦略に貢献したのである。帝国軍が広東市の男、女、子どもの絶滅と、革命軍が通った村々のほぼ全部を焼き払うのに忙しくしている間、イギリス海軍の戦艦複数は革命軍の船を追って中国沿岸を航行した。革命軍の船をいかに破壊したか、『中国での12年間』から引用する。 「ジャンクの数々は破壊され、乗組員は射殺されるか、溺死し、最後に総勢1,000人ほどを帝国軍が岸で虐殺するのを[イギリス軍が]手伝った! イギリス戦艦に対する海賊行為の証拠が、犠牲者が処刑された後で[強調原文のまま]集められた(『香港ガゼット』、1855年10月12日)」。 過去10年間のイギリスの中国政策は中国税関の傭兵数人に影響されていた。彼らは満州政府に雇われ、ボウリング卿だけでなく、エルギン伯爵[James Bruce, Earl of Elgin:
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英米に伝えられた攘夷の日本(1-4)追記

2016〜2017年の日米関係が「黒船トランプ?:日本はNOと言えるか」とアメリカのメディアに評されています。

21世紀の日米交渉

 160年以上前の日米のやり取りを訳しながら、現在起こっていることと通じるという思いを強くしました。特に2017年2月10〜12日に行われた日米首脳会談をめぐって、アメリカのメディアでどう報じられたかに焦点を当てると、安倍自民党政権の対米交渉が、国を守ろうとした幕府と真逆の対応であることに絶望します。 倍首相の訪米直前に発行された『Newsweek日本版』(2017年2月14日号、(注1))のカバー・ストーリーは「黒船トランプ?:日本はNOと言えるか」で、ペリー提督の軍服を着たトランプ大統領の姿が大きく印刷されています。特別レポートは「トランプの『外圧』は理不尽か:通商関係や為替について不満をこぼすトランプ米大統領だが新政権の対日姿勢は大騒ぎするほどのものではない」という見出しで、トランプ氏の発言に対し日本のメディアが過剰に反応して、「あろうことか先週、安倍政権がアメリカで70万人の雇用創出に向けた投資計画を準備していると報じられた。同盟国とはいえ、なぜわざわざ世界第1の経済大国(しかも完全雇用に近い)のために雇用創出プランを作る必要があるのか。(中略)日本はトランプのATMではない」(pp.23-24)と批判しています。そして、「うろたえずに泰然と構え、理不尽な要求には毅然と向き合えばいい」と結んでいるのが、1853年にペリーに対応した幕府の役人たちの態度と重なります。 70万人の雇用を創出するための投資額は51兆円とされ、この巨額をアメリカのインフラ整備に投資するというニュースも世界を駆け巡りました。2月10日のBBCとCNNニュースでも取り上げられましたが、CNNは,借金大国の日本が51兆円もアメリカに投資するというcharm offensiveという伝え方でした。CNNの女性アンカーはcharm offensiveという語を2回も使い、呆れたを通り越した表情だったことも印象的です。Charm offensiveという語は、主に政治家がご機嫌取りのために魅力的なものを計算づくでキャンペーンとして使うという否定的な意味があるようです。また、offensiveには攻撃的という意味以外に、不快な行為というニュアンスもあります。 借金大国日本というのは本当で、2016年の対GDPの国の借金は日本がダントツで、250.35%、2位のアメリカは108.25%で、日本はアメリカの2.3倍、ドイツ(68.17%)の3.7倍もの借金を抱えた国です(注2)。その上、日本の道路(60km/h以上)のインフラ整備水準はアメリカの10分の1、高速道路では33分の1(注3)というお粗末さです。その日本がなぜアメリカのインフラ整備に資金提供しなければならないのでしょう。 安倍外交がcharm offensiveだという表現は、イギリスの主要メディア『ガーディアン』(2017年2月10日、(注4))も使って報道しています。該当箇所を抄訳します。
安倍は手ぶらでワシントンに来るわけではない。外務大臣・岸田文雄と財務大臣・麻生太郎とともにやってきて、高速電車やその他のインフラに公的・民間資金から投資して、70万の雇用を生み出す野心的な政策パッケージをトランプに開陳して直接アピールするとみられる。(中略)安倍はトランプの移民政策を批判しなかった数少ない世界のリーダーの一人である。(中略)今週末の会談は安倍のcharm offensiveの集大成である。それは11月にまだ次期大統領だったトランプと会った時に始まった。この時、二人は「ゴルフ外交」の基礎を固めた。トランプは安倍にゴルフ・シャツを、安倍は$3,700の金色のゴルフ・クラブをお返しした。ニューヨークから戻ると、安倍はトランプが世界が信頼できるリーダーだと主張したが、大統領就任後に選挙中の公約であったTPPからの離脱を実行して東京を絶望に陥れた。

国民の年金を世界一の経済大国に貢ぐ安倍自民党政権

 70万の雇用を生み出す投資資金が日本国民の年金から出ることも世界のメディアで大きく取り上げられています。『エコノミスト』は「日本の首相がドナルド・トランプと『また』会う—安倍晋三は豪華な投資のオファーを携えてやってくる」(2017年2月11日、(注5))という見出しで、以下の点が報道されています。
    トランプが当選した直後に「飛行機に飛び乗って次期大統領に会いに行き、金メッキのゴルフ・クラブを贈り物として持って行った」。 「2017年2月9日に安倍氏はまたアメリカに飛び、今度はもっと豪華な贈り物:70万の雇用を生み出すプランを持ってくる」。 「安倍のプランはアメリカ軍艦の老朽化した原子力発電の廃炉や、ハイテック兵器の開発などに投資するというもので、その資金は世界最大である日本の135兆円の公的年金からも出る」。
 この前日には福島第一原発の2号機格納容器内が毎時650シーベルト(注6)、1週間前には530シーベルトと報道されましたが(注7)、この線量を浴びれば即死ですから、廃炉作業など不可能だという事実が次々と表面化しています。日本国内の安全も確保できずに、アメリカの廃炉事業に国民の年金を投資するとは、安倍自民党政権は何を狙っているのでしょう。福島第一の廃炉作業と超高線量に対する責任ある対応を日本政府に求めるという声明が中国政府から出されました(注8)。近隣諸国は気が気ではないでしょう。 『フィナンシャル・タイムズ』は「安倍晋三はトランプに言い寄るためにビジネス誓約を大宣伝—日本企業は大統領向けのプレゼンテーションにアメリカ投資を列挙せよと要求」(2017年2月7日、[ref]Robin Harding, Leo Lewis and Kana Inagaki, “Shinzo Abe drums up business 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(1-4)

第一次ペリー日本遠征の主任通訳だったウィリアムズの日誌には、ペリーと日本側の会談の様子が正直に、そして共感をもって記されていますが、ペリーの公式報告書には書かれていないことがあります。

第一次ペリー日本遠征:久里浜上陸

よいよアメリカ大統領からの親書を幕府側が受け取る準備ができたので、ペリー一行が指定された久里浜に到着します。その一部始終をウィリアムズが記しているので、主要点を抄訳します。挿絵は第二次日本遠征の記述部分に挿入されているものですが、描写はウィリアムズの第一次遠征時の記述にマッチするものが多いです。●[1853年]7月14日火曜日:11時に久里濱[ウィリアムズの漢字]に到着した。15艘のボートに300人を乗せていた。112人の海兵隊、40人の楽隊、40人の士官、100人以上の水兵だ。全員武器を持ち、ほとんどの拳銃は装填してあった。((注1),p.59) 第二次ペリー遠征Landing of Americans at Uraga(アメリカ人の浦賀上陸,(注2), pp.386-87)第二次ペリー遠征(pp.404-405) 第二次ペリー遠征(pp.404-405)第二次ペリー遠征(pp.388-389) 第二次ペリー遠征(pp.388-389)

ペリーを諌めた幕府の役人

 大統領からの親書が渡された時の様子をウィリアムズは日誌に詳細に記していますが、ペリーを諌める幕府の役人の発言まで記録しているのは驚きです。
オランダ語と日本語の受取書がポートマン氏に渡され、[親書の]オリジナルは箱に納められたままの姿で開かれた。その後、すぐにペリー提督が2,3日中に琉球と中国に向けて出発するつもりであること、もし[日本の]使節団が[琉球に]あてた手紙などがあれば持って行くと言った。そう聞いた日本人側は何の反応も示さなかった。するとペリーは中国で暴徒による反乱が起こり、暴徒は南京とアモイを占拠し、新たな宗教を導入しようとしていると言った。「今ここで、反乱の話をしない方がよろしい」という重要な(significant)返事があったが、これは全く適切な返事だった。なぜなら、こんな話題を持ち出すのは非常に場違いで時宜を得ない(very mal-apropos)と私は思った。しかし、日本人に今後振りかかるかもしれない重要な変化の兆しとしては、これは興味をもって見るべきことだろう。この会談がその[変化の]いい始まりだった。 このようにして会話が止められ、茶菓が出てくる気配はなかったので、去る以外することはなかった。対談者たちの間のコントラストは際立っていた。前列には外国人士官たちのグループ、その後ろに絵のような姿の頭を剃りあげた日本人が格子模様のスクリーン[障子]を背景に浮き彫りになっていた。左には1列に座った正装の士官たちが刀と肩章などをつけ、精一杯の輝きを示していた。右には2使節団と長官、その2列の間にそれほど立派ではない服装の男たちが座っていた。(p.62).
 この箇所をペリーの公式報告書はどう述べているのか調べてみました。以下が該当箇所(p.261)の翻訳です。
 2,3分の沈黙の後、提督が通訳に命じて日本人に伝えたことは、艦隊と共に2,3日後に琉球と中国に向けて出発すること、[日本]政府が何かこれらの地に伝達や通信するものがあれば、提督は政府のお役にたつつもりがあるということだった。提督は来春、4月か5月にまた日本に来るつもりだと述べた。辰之助はオランダ語通訳に、提督の出発と戻ってくるということを繰り返すよう依頼した。オランダ語通訳は前と同じ言葉で繰り返した。すると質問が来た。「提督は4隻全部の船で戻ってくるのか?」提督の答えは「全部だ、もっと多くの船で来るだろう。これら[4隻]は艦隊のごく一部なのだ」だった。中国の革命について言及があった。通訳はそれを君主たち(princesと訳され、奉行を指す)に通訳せずに、原因は何かと聞いた。提督は「政府のせい」(“on account of the Government”)だと答えた。
 1853年5月の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1-1参照)には、ペリーの日本遠征に15隻の軍艦、4,000人の戦隊が準備されていたと書かれていますから、ペリーが次回は「もっと多くの船で来るだろう。これら[4隻]は艦隊のごく一部なのだ」と言ったのは、アメリカに都合のいい返答が日本から来なければ、日本にも戦争をしかけるぞという含みの言葉でしょう。それでも、「中国の革命」についてぺリーが言及した時に、「今ここで、反乱の話をしない方がよろしい」と諌めた幕府の役人の勇気とプライドと静かな怒りが伝わってきます。誰の発言かウイリアムズが書いていないのは、彼の知らない人物からの発言か、あるいは、香山栄左衛門か、通訳をした堀達之助だったのかもしれませんが、香山か堀だった場合は、名前を記すことによって彼らに被害が及ぶと考えたのでしょうか。 ペリーが言った革命というのは、太平天国の乱とその他の内乱を指しているようです。次節で太平天国の乱について、当時中国に滞在していたイギリス人の観察記録などから探っていきたいと思います。 続きを読む
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