toggle
記事

英米に伝えられた攘夷の日本(5-1-1)

警告: 整合性のない脚注開始用の簡単コード:

この警告が見当違いであれば、管理画面の 全般設定 > 脚注の開始・終了用の簡単コード > 簡単コードの整合性を検査 にある構文検査の機能を無効にしてください。

整合性のない脚注開始用の簡単コード:

“Encyclopaedia Britannica or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature.Seventh Edition, with Preliminary dissertations on the History of the Sciences, and Other Extensive Improvements and Additions; Including the Late”

地球上で最も閉ざされた国」日本から「驚くほど優雅なデザイン」の家具などが1854年にロンドンで展示され、その挿絵が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されています。ジャポニズムの先駆けとも言える役割をこの新聞が果たしていました。

ジャポニズムの先駆け

本の開国に伴って、北斎漫画や浮世絵がヨーロッパに広まり、特に美術界でジャポニズムが一世を風靡しましたが、一般庶民におけるジャポニズムは日本風の家具や陶磁器、扇子、着物などを購入するという消費に結びついたとも言われています。イギリスにおけるジャポニズムの先駆け役を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が果たしたのではないかと思える記事が、1853年から掲載されています。日本の工芸・美術品が正式に多くの人に展示されたのが、1862年にロンドンで開催された万国博覧会とされていますから、その10年前に日本の工芸品が展示されたのです。 「大勧業博覧会ダブリン」(Great Industrial Exhibition, Dublin)が1853年5月から10月末までアイルランドのダブリンで開催され、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも連日のように内容について紹介されています。1853年6月4日号には「ジャパン・コレクション」([ref]The Illustrated London News, vol.22, Jan.-June, 1853. Hathi Trust Digital Library.https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=chi.60765664[/ref], p.450)という見出しで、「オランダ王室の日本コレクションが送られてきた。見事な細工の家具、着物、武具、傘、掛け軸、屏風、扇、盆、金銀銅貨のケースなど」と紹介されました。この公式カタログ[ref]Official Catalogue of the Great Industrial Exhibition (in Connection with the Royal Dublin Society), Dublin, Exhibition of Art and Art-Industry, Royal Dublin Society, 1853.https://archive.org/details/officialcatalogu00exhi[/ref]には、オランダの国名の下に「オランダ政府の命により展示される日本品はヘイグ博物館の所蔵品」と書かれ、番号付きで95点挙げられています(pp.117-118)。そのうちの一つの番号に46点入れられているので、合わせると150点近く展示されたことになります。中に「日本で作成された日本地図」「金貨・銀貨・紙幣の入った箱」刀などがあり、解説に「いかなる武器も貨幣も地図も日本から持ち出すことは死罪として禁じられているので、これらがヨーロッパで目にできるのは非常に稀で、興味深い」(p.118)と書かれています。

1854年の日本博覧会

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1854年2月4日号に「日本博覧会」という見出しで以下の長い記事と絵が掲載されています([ref]The Illustrated London News, vol.24, Jan-June, 1854. Hathi Trust Digital Library.https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015049891974[/ref], p.98)。
 地球上で最も閉ざされた国の一つ、日本から珍しい品を積んだ貨物がロンドンに到着した。鎖国の扉を超えてきたこの国の製品の希少性は世界市民[the Citizen of the Worldと大文字で強調]がオランダ商人の卑劣さにムカムカしてきた思いを呼び覚ます。我々がこれまで慣れてきた彼らの密かな取引を通して、日本美術と産物の準見本を我々だけが受け取るのだ。 このコレクションは先週月曜日にポールモール・イーストの水彩画家協会のギャラリーで一般公開された。これは我が国初の直接輸入と言われている。日本と毎年貿易を許されているヨーロッパで唯一の船はオランダ商人の船である。コレクションはテーブル・キャビネット・箱など、表面に日本の装飾(japanned upon wood)、中に真珠やエナメルなどが施された木製品;その極度の軽さと滑らかさと、絵がないことで、この国のパピエマシェとは区別され、そのデザインの特異性はほとんどの場合、驚くほど優雅だ。また、色のついたわらの非常に美しいデザインのものもある。これは日本独特の装飾で、本紙の版画に見られる鳥が彫られたキャビネットがその最高のものである。ブロンズはまれで、ほとんどがアンティークである。二つの最大のブロンズ壺はその形状において非常に純粋で、本紙のイラストレーションにあるテーブルの上のものだが、これはマルボロー・ハウスの実用芸術美術館が購入したということだ。また、非常に美しく装飾された小物入れ(glove box)と、本当に希少な赤と緑の漆塗りの箱数点、わらで装飾された小テーブルも購入したそうである。 磁器も目だった展示品で、優美な形の花瓶や水差し、いくつかはグロテスクな性質のもの、カップなど、それらはすべて尋常じゃない軽さと透明さで、そのいくつかは非常に素晴らしい装飾がほどこされている;その多くは周囲を竹で見事に編み込まれ、カップの厚さが卵の殻ほどなことを考えると素晴らしい。本紙のイラストレーションの中のテーブルの上の高い花瓶、水差しとカップはこの展覧会を代表するものとして選ばれた。竹の編みかごの細工は素晴らしく、その形と模様には独創性がある。 また、絹の着物と包装物もある。非常に柔らかく、軽く綿入れがされ、日本の貴族が着るものである。壁には日本の全階層の人々の絵がかけられている。男も女も、様々な衣装を着て、本紙のイラストレーションに描かれているのは、花嫁と扇のようなパラソルをさして歩く女性である。このパラソルはかの国でよく使われている。他にイラストレーションに描かれているのは、数種類の屏風のうちの一つで、人家と人々の生活習慣が描かれている。イラストレーションの背後にあるのは、象嵌細工のワードローブで、純粋の日本製である;ほとんどの家具の形は明らかにヨーロッパのものだが、装飾はすべて日本のものである。中央のテーブルが一番いい;テーブル上部は非常に優雅なデザインで、真珠がはめ込まれている;鉤爪足は斬新な形で、3匹のオオコウモリを表し、その羽が支柱を形作っている。支柱がサルと魚になっているテーブルもある;様々な種類のパズル・ボックス;一般用よりはるかに優れていると言われる醤油など。これらすべてが非常に珍しいコレクションを成している;そして、疑いなく、最近のアメリカ合衆国の日本遠征に対する興奮からして、これは非常に魅力的なものになろう。
 この日本製品展示会の説明の中で、"japanned upon wood"とJapanが動詞として使われているので、『ブリタニカ百科事典』第7版第12巻(1842)を調べたところ、"japanning"という項目で説明されていました。「ジャパニングとは木材の表面にニスや絵を施す技術で、日本の方法を真似たため、この名称が使われる」([ref]Encyclopaedia Britannica or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature.Seventh Edition, with Preliminary dissertations on the History of the Sciences, and Other Extensive Improvements and Additions; Including the Late 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-12)

ペリー来航前に日本に来たアメリカ船についての19, 20世紀の論考を紹介します。

ペリー来航の半世紀前に長崎に来航したアメリカ船

ローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された解説「英国と日本の通商記録」の中で、「奇妙なことは、イギリスの船がイギリス人(スチュアート船長)の指揮で1797年と1798年に実際に日本を訪れている」こと、「この船がアメリカの旗を掲げ、アメリカの通行証を携えて、バタビアのオランダ当局によって日本に送られた」ことと記されています。この点はラッフルズが『ジャワの歴史』(1817)第2巻の付録「日本貿易について」で触れています。その内容をラッフルズはHogendorpから引用とだけ記していますが、ディルク・ファン・ホーヘンドルプ(Dirk van Hogendorp: 1761-1822)のようです。1-1で紹介したリチャード・ヒルドレスも『日本—過去と現在—』(1855,(注1), p.448)の中で、ラッフルズが引用している”Heer Hagendorp”と述べ、これは1800年にこの人物がバタビヤで出版したジャワに関する小論文に掲載されているというのです。 『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(注2)によると、ホーヘンドルプはオランダの軍人・政治家、後にオランダ東インド会社の役員としてインドやジャワに滞在します。そしてイギリスのベンガルの植民地統治法に感銘を受け、「バタビヤ領土の現状報告」という小論文で、インドネシア人もヨーロッパ人と同じ経済原則で導かれるべきだと主張し、当時の東インド総督の怒りをかって投獄され、オランダに逃げたそうです。 以下が、ラッフルズが引用符でくくった部分の拙訳です。
 わが国と日本との通商関係は非常に奇妙な性質のものである。誰もが知っているように、わが国はヨーロッパで唯一日本から通商許可をもらっている国である。そのために苦しまなければいけないとは、何という屈辱であろうか。江戸城へ使節を送る費用の何と大きなことか。日本貿易は昔は儲かったのに、近年は費用をまかなうだけの利益がないと思う。船や船員の損失を考えたら、このような屈辱を受けさせられる正当性はない。 それなのに、我々は貿易を諦めることができないでいる。諦める必要があるか、または、そうした方が懸命なのかだろうか。1797年と1798年に奇妙な船、実際はイギリスの船なのに、隠すためにアメリカの旗を揚げて、生粋のイギリス人のスチュアート船長に指揮をさせ、彼はマドラスかベンガルの所属なのにアメリカの通行証を持っているという、そんな船を送ることをバタビヤ政府がどう説明できるのか、途方にくれる。この貿易を放棄するのは馬鹿げているが、日本の規則に従うしかないし、この規則を取り払うのはほとんど不可能だろうし、日本をオープンで自由にすることは実現できないかもしれない。国家のためや会社のためにこれを追求するのでは、目的を達成することには決してならない。したがって、私は1,2年間バタビヤで船1隻か2隻に限られた積荷を日本で取引するための許可証やパスをオークションにかけ、最高値の入札者に与えようと思う。出島の館長を任命しなければならない。その維持は政府がして、館長には一種の領事の役割をさせ、必要なら江戸に使節として行かせる。しかし、これ以外は貿易の規則やシステムすべては船主に任せなければならない。我々の取引に課される日本の法律以外は。 毎年の使節は非常に費用がかかる。すでに日本側がしなくてもよいと言っているが、時々なら利用価値があるので、将来は10年に1回ぐらい使節を送るか、[出島の]新居住者が来た時や新領事が着任した時に、滞在中1回だけ[江戸に]行くことの許可を得るのが得策かもしれない。それ以外の特権や自由を得るのは容易なことではないだろう。あちらにいる我々の社員の何人かがこの点で我々に何を信じこませようとしても、我々が行こうと行くまいと、日本人が全く無関心なことは明らかで、我々にそうさせる許可を出すこと自体が単なる彼らの気まぐれなのだ。この貿易が個人に開かれたら、すぐさま人々はリスクや危険を犯してでも利益を上げる方法を見つけることは疑う余地がない。そしてこの利益の価値が高まるにつれ、許可証の価値も増すだろう。--Hogendorp((注3), Appendix B.: Japan Trade, pp.xxix-xxx)
 ヒルドレスは1800年刊の小論文と言いながら題名を記していませんが、初版は1799年で、1800年に再版されたそうです(注4)。この日本語訳は国会図書館からアクセスできます。『鹿児島大学史録』4号(1971)から11号(1979)にかけて連載された田淵保雄訳註「バタビヤ領土の現状報告(1799)」です。この11号(1979)に掲載されている「ディルク・ファン・ホーヘンドルプ著、田淵保雄訳註 バタビヤ領土の現状報告(1799)[7]」に「日本貿易」という小見出しで2ページにわたって見解が述べられています。

ヒルドレスの指摘

 ヒルドレスはこのスチュアート船長なる人物について、重要な指摘をしています。まず乗ってきた船エリザ号がニューヨークの船である事、出島のオランダ商館ではスチュアートがアメリカ人だと信じていた事です。1799年にオランダ商館の職員として来日し、1803年に商館長に就任して、1817年に帰国するまで出島にいたヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff: 1777-1835)が1835年に出版した『日本回想録』で、スチュアートはアメリカ人だと述べているという指摘です。この回想録の英訳はみつかりませんでしたが、インターネット・アーカイブに1922(大正11)年刊斎藤阿具著の『ヅーフと日本』(注5)という本が掲載されています。 ヒルドレスはオランダ語の『日本回想録』を丁寧に読んだようで、当時の日本の状況はドゥーフによるところが大きいと述べて、スチュアート船長の長崎来航について詳しい要約をしています。ゴローニンの『日本幽囚記』改訂版の解説「英国と日本の通商記録」(1852)はラッフルズの『ジャワの歴史』(1817)を参照したことを明言していますから、イギリスではスチュアートがイギリス人だったことが伝わっていたようです。興味深いのは、「英国と日本の通商記録」ではイギリスの日本との通商努力という視点からイギリス人を強調していること、ヒルドレスは意地悪な見方をすれば、逆にイギリス人でこんな怪しい人間もいたという視点を持ちながら、ドゥーフのアメリカ人説を否定していることです。この点で興味深いのは、ペリーの『日本遠征記』(1856)の序で「西洋文明国と日本帝国との過去の関係」という節で、ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシアは詳しく述べていますが、アメリカについてはモリソン号事件(1837)以降のことしか記載されていません。 ヒルドレスはなぜ1790年代後半にオランダがアメリカ船を使ったかの説明から始めています。「フランス軍によるオランダ占領はオランダ船がイギリスに拿捕される危険に晒されただけでなく、オランダが東洋植民地を失うことになり、したがって、日本貿易に関しても新たな障害をもたらすことになった」(p.446)と述べています。この状況下でイギリスに捕らえられないために、アメリカ船を雇う傭船手法を使ったというのです。『ヅーフと日本』でも同様の解説をし、この頃の幕府とオランダ商館とのやりとりを述べています。ナポレオン戦争の影響を日本が感じ始めたのも1795年からです。この年に入港したのはオランダ船1隻だけで、商品も欠乏していて、商館長は「奉行の譴責を受けたり」と述べ、1796年には入港なし。1797年に1隻入港したが、「中立國たる米國の一小船エリザ丸(Eliza)を臨時に雇入れしものにて、積荷も有合せ品のみにて、獻上品・御用品を始め一般商品も整はざりしかば、又奉行の為に詰責せられたり」(p.12)と解説しています。以後ほとんど毎年「雇入米國船のみ我國に來りし所以なり」と書かれた後、バタビアの重役はオランダ商館長に貿易の復興を計れ、さもないと日本貿易は廃止すると厳命され、商館長と幕府との交渉が始まったとのことです。幕府は1790(寛政2)年に秋田銅産出額減少を理由に、オランダには年1隻に限り、銅の輸出高を60万斤に減らしたのに、商館長の懇願で、1798年に以後5年間25万2千斤増額、船2隻を許可したそうです(p.13)。1798年にもバタビアから1隻入港したけれど、同じくスチュアート船長のエリザ号(直接引用の場合以外は「号」に統一)で、しかも、オランダ東インド会社に内密に、会社の徽章を揚げず、商品も不足していたのですが、「此時に至りては奉行も最早蘭人を虚喝するの勇氣を失ひ、却て之を憐憫し」た(p.15)と書かれています。 ヒルドレスの関心は、最初にエリザ号が入港した時の奉行所の混乱ぶりで、「乗組員は英語を話したけれど、『イギリス人』ではなく別の国であること、さらにもっと基本的な点は、この船が貿易とは何の関係もなく、拿捕逮捕されないために商品を運ぶ雇われに過ぎなかったことだった。その説明の結果、エリザ号はオランダの船だと理解することで合意した」(p.447)と記されています。

太平洋戦争中の米日交流史論

 アメリカ人にとってはペリー来航前にアメリカ船が日本に来ていたというのは魅力的なテーマのようで、1909年刊の『昔のセーラムの船と船員』や、太平洋戦争の真っ最中に発表された「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」(1944年10月)などがあります。前者は「1853年に日本の古い鎖国を壊滅させたペリー提督の艦隊の印象的な日本訪問前にアメリカの船がこの国の港に留まり、貿易を許されたことはないと一般的に思われてきた」((注6), p.330)と述べて、1799年にボストンで所有されていたフランクリン号が長崎に行ったこと、1800年にマサチューセッツ号、1801年にマサチューセッツ州セーラム市の船マーガレット号が長崎に行ったことを記しています。1909年時点で、これらの[航海]記録が「まるでヨーロッパ中世の歴史の1章のように古めかしく聞こえる」(p.331)と書いています。 私は後者の米日交流史論「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」に、その発表年月日の点で注目しました。太平洋戦争の最中、American Antiquarian 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-2)

1673年のリターン号来航時の日英交渉記録が「英国と日本の通商記録」(1852)で紹介され、日本との通商を希望していた1850年代の人々がリターン号の交渉記録のどこに関心を示していたのかがわかります。

「日本日記」の解説

 まず、前節の「日本日記」に記されていることについて、解説します。

「聖ジョージ十字」

 聖ジョージ(St George)はイギリスの守護聖人とされ、4月23日が「聖ジョージの日」とされていて、2018年4月23日にBBCが解説を掲載しているので紹介します(注1)。ゲオルギオスという名前の実在のクリスチャンのローマ兵で、西暦270年頃にトルコのカッパドキアに生まれ、303年にローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧によって、パレスチナのローマ州で殉教したと伝えられています。イギリスの守護聖人にされた理由は、聖ジョージにまつわる伝説の中から、拷問の末に殺されたために勇気、栄誉を象徴し、軍所属ということなどで、イギリスの価値観を代表すると考えられたのだろうといいます。15世紀初頭に彼が殉教したとされる4月23日が「聖ジョージの日」とされるようになったそうです。 BBCの記事にアクセスすると、白地に赤の十字の旗がみられます。ただ、2012年の記事「聖ジョージの旗は人種差別のシンボルだとイギリス人の4分の1が言う」(注2)によると、「聖ジョージの十字」の旗にイギリス人としての誇りと愛国心を感じるという人は61%で、24%は「この旗は人種差別の旗」だと考えるという世論調査結果が出たそうです。それは極右グループ「イギリス防衛同盟」(English Defence League)がこの旗を使ってデモをするからだと分析しています。

第三次英蘭戦争

 「日本日記」の1673年7月7日に、デルボーが英蘭戦争が始まったことを知らなかったと言っていますが、イギリスとオランダの間で1652年から1783年まで4回戦争が起こって、そのうちの第三次英蘭戦争(1672)を指しています。英蘭戦争の理由は商業的権益をめぐる争いで、最初の3回の戦争が起こった頃、アジアの植民地における貿易大国だったポルトガルに代わってオランダが絶頂期にありました。オランダ東インド会社はその富と権力において抜きん出ていて、イギリスがその権益を狙い、やがて、オランダに代わってイギリスが商船事業の中心を占めます。第三次英蘭戦争では、チャールズ国王がフランスと秘密の取引をして、イギリスの東海岸、ソールベイでフランスとイギリスがオランダと戦った「ソールベイ海戦」(1672)では、イギリス、オランダ双方が勝利宣言をしていますが、いずれも損害がひどかったそうです(注3)

踏絵について

 「日本日記」には踏絵をさせられたとは書かれていませんが、日本側の資料では「イギリス人はオランダ人と同じ宗旨であると言っているが、その事実を試すために踏絵をさせるので、オランダ人に同行してほしい」((注4), p.7)と奉行所役人がオランダ商館に求めたそうです。同行したオランダ商館の助手によると、踏絵を求める時の「通詞の話し方は非常に特異だった」から、「イギリス人がこれをよく理解しなかったと考えている。(中略)すでに暗かったので船長は何を踏んでいるのかわからなかったと思う」と書いています。

長崎奉行所の情報網

 最初の日(1673年6月29日)に役人たちが質問した内容で、この当時の幕府の情報通は明らかです。オランダ人に世界の動向について情報提供を義務付けることが1641年から始まり、「オランダ風説書」として1659年には慣例化していたからだそうです((注5), p.63)。デルボーの答え(内乱が20年ほど続き)についても、幕府側はすでに1662年のオランダ風説書で知っていたし、チャールズ1世が処刑されたこともオランダから伝えられています((注4), p.3)。 奉行所の役人たちがデルボーにオランダ商館側が言ったことの真偽を聞いたり、オランダ商館長宛の手紙の内容を確かめたりしたことは、幕府側が「外国人から得た情報を比較検討」((注5), p.62)するためだったというは、リターン号でのやり取りが表しています。

1852年のイギリスの関心

 「英国と日本の通商記録」(4-9参照)の筆者はリターン号の日本派遣について、「イギリスの王政復古の後すぐに商業事業精神が復活し、1673年の遠征をチャールズ2世が即座に承認し、王の後援のもとに実行された」((注6), p.19)と解説して、ケンペルの記述をほぼ忠実に要約しています。解説者の関心が特にどこにあったのかは、直接引用を長くしている箇所、解説者の感想などに見られると思うので、以下に挙げてみます。
    リターン号の船長以下全員が日本に来るのは初めてだと知った役人たちの驚きが大きく、水先案内人なしにどうやって港に入って来られたのか聞かれ、海図を見せると納得した(pp.21-22)。 船から陸に運んだ武器一切を正確に書き留め、上級役人の前でキャビンの記録と照合して、この役人が承認すると、非常に丁寧に出て行った。 本文では解説が加えられていないやりとりについて、「英国と日本の通商記録」では「日本側が最近警戒し困っている海賊と、イギリス人が関係を持っているらしいと、オランダ人たちが言いふらしていることについて、イギリスの船長は虚偽だと否定した」と述べられています。 日本側の質問方法が、まずポルトガル語かスペイン語で質問し、次にオランダ語でするため、同じ内容が5,6回繰り返されることです。そのたびに彼らの理解が確かなものになっていくとイギリス側が解釈している点が直接引用で指摘されています。 長崎奉行所側がイギリス人をオランダ人と同じように守ると約束したくだりについて紹介したあと、「これらの詳細なやりとりは、日本人側の良識と穏健さを示しており、イギリスに対する好意を明らかに示している」と感想が書かれています。
 今から345年も前の交渉記録を読んで感心するのは、双方が礼儀をもって忍耐強く対応していることです。特にイギリス側が貿易交渉を達成するためとはいえ、2ヶ月も上陸させてもらえず、その間、幕府役人が入れ替わり立ち代わりやってきて、同じ質問に答えさせられるのは苦痛以外の何物でもなかったでしょうが、怒りや苛立ちを抑えて対応したことと、日本側が2ヶ国語以上で同じ質問と答えを求めることで、理解が確かなものになると洞察していることです。幕府側も礼儀を示しながらも譲らなかったことが、3世紀半後の安倍政権の対米隷属と対照的です。そして何よりも、公文書偽造・改ざん・隠蔽・破棄などが常態化している安倍政権下で生きている私たちにとって、この交渉記録を読むと、記録の大切さが身にしみます。「経済産業省幹部が省内外の打ち合わせ記録を残さないように指示」したというニュース(注7)を読むと、安倍政権は自分の時代を歴史的空白の時代にしようとしているのだと感じます。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が将軍に送られた

 幕府の情報収集という観点から非常に興味深い記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1854年2月11日号 [ref]The Illustrated London News, 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-1)

イギリス国王の親書と1613年の家康の朱印状を携えて通商を求めて、1673年に長崎に来たイギリス船リターン号の船長と長崎奉行所とのやりとりを紹介します。 815 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記5

有吉佐和子が『複合汚染』で農薬は化学兵器の平和利用だと批判してから44年後の今、ベトナム戦争の枯葉剤が日本全国に埋設され、豪雨と地震が頻発する現在の日本で、ダイオキシンが漏出する可能性が指摘されています。 812 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記4

世界中で除草剤の成分グリホサートやミツバチ大量死の原因とされているネオニコチノイドなどの農薬が問題視されている時に、日本では大々的に販売・使用され続けています。 809 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記3

2018年8月にアメリカの裁判所がモンサント社の除草剤ラウンドアップが原告の末期がんの原因だと認めました。一方、日本ではラウンドアップの成分グリホサートの水道水と食品中の残留値を大幅に上げています。 792 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記2

水道の民営化で大きな被害を被ってきた欧米の再公営化を目指す動きが「津波」のようだと表現されている現在、安倍政権は世界が羨む公営水道の民営化を進めています。民営化によってどんな被害があり、再公営化によってどんなメリットが得られたか、欧米の事例を紹介します。 790 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)追記1

軍事力をちらつかせて日本に開国を迫る欧米列強に苦慮する幕府役人たちと真逆の動きをしているのが21世紀の安倍政権です。私たちの命を脅かす政策について見ます。 759 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-10)

「英国と日本の通商記録」(1852)に、セーリス船長が家康からもらったという特許状を全文掲載しているので検証します。 749 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-9)

ゴローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された長い解説「英国と日本の通商記録」の内容を紹介します。 746 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-8)

「日本、そしてロシアの戦争」(1854)という記事の背景に、ゴローニンの『日本幽囚記』が再版されたことも関係があるか探ります。 736 続きを読む
1 5 6 7 8 9 10 11 12