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ミットフォード訳「鳩翁道話」

『昔の日本の物語』巻II(1871 (注1))所収「日本の説教」(pp.125-189)の2節目の題は「説教I(鳩翁道話 第1巻)」となっています。鳩翁道話についてのミットフォードの解説は本サイト「ミットフォード訳の日蓮宗法話」で紹介した日蓮宗法話の最後にありますので、以下に訳します。
 日本では多くの説教本が出版されており、それらすべてに利点や風変わりな面白さがある。しかし、私が目にしたものの中で、『鳩翁道話』ほど私の好みにかなうものはない。以下の三つの説教がその第1巻の内容である。これらの説教は心学派の僧によって書かれた。この派は仏教と儒教と神道の優れた教えを総合せよと公言している。人間の心は生まれつき善だという立場を守り、我々が生まれた時に埋め込まれている良心の命令に従うだけでよいと教える。そうすれば、正しい道に進めるのだという。テキストは中国の古典から採られていて、我々イギリスの説教師が聖書から説教を採るのと同じようなものだ。その中のジョークや物語は我々の潔癖な言語には翻訳不可能な場合があるが、会衆の人々を指して応用されたりして、講話を活気づかせている。徳の話で聴衆を退屈させないための、日本の説教師の原則なのである。
の解説で”Shingaku sect”(心学派)とあるのは、石田梅岩(1685-1744)を祖とする石門心学を指すのでしょう。梅岩が1729年から講義を始め、門弟たちとの問答『都鄙問答』(1739)が出版されました。その後、梅岩の教えを継承し広めた手島墸庵とあん(1718-1786)、その弟子・中沢道二どうに(1725-1803)、そして柴田鳩翁(1783-1839)と続きます。中沢道二が心学の最盛期を作り、「道話聞書」(1794)によって「道話」という語が広まりました(注2)。石門心学の中で最も名高いのが「鳩翁道話三巻」(1834)、「続鳩翁道話三巻」(1835)、「続々鳩翁道話三巻」(1838)だとされています(注3)。1936年の解説「鳩翁道話の構造及び性格」によると、いずれも広く読まれ、「明治以後の活版本も、十餘種に達し、又その一部は、早くも英文に翻譯せられて外國にも紹介せられてゐる」というので、ミットフォードの訳を指すのかもしれません。 ミットフォードが手島墸庵や中沢道二の道話を読んだ上で、「鳩翁道話」が一番いいと評価したのか、彼の日本語教師の評価かはわかりませんが、この時代の英国公使館の通訳や書記官の日本語教科書としても使われたこと、実際に鳩翁道話が行われていたこと、ミットフォードが高く評価して、英訳という労をとり、出版して1870年代の英語圏に広まっていたことは、とても興味深いです。しかも、これらの道話が日本語の標準語制定に寄与していたらしいという論も、現在の私たちにつながっている点で二重に興味深いものがあります。標準語を「明治四十年代初めに出来上がった話し言葉で、文字化すればいわゆる言文一致となるもの」と定義して、その源流はどこにあるかを探った森岡健二は、鳩翁道話などの心学道話の聞書に注目しました(注2)。「時代・地域・身分・職業・年齢・性を超えた所にあり、できる限り、個人的性格を排除した中立的(ニュートラル)な言語表現」が標準語・共通語であるとして、その口語サンプルを心学道話の聞書に求めたそうです。「鳩翁道話」は「ござります」を主にし、他の道話は「じゃ体」という違いを除いては、どれも、話者が京阪地方出身者にもかかわらず、「方言的特色が希薄で、位相性もなく、しかも文語的あるいは文章的要素を加味している点、道話の口語は、中立性の高い口語」だと評価しています。つまり、口語標準語の形成に寄与したという結論です。

『鳩翁道話』の原本

 これは国立国会図書館デジタルコレクション所収の明治37年版冨山房刊『鳩翁道話 前編』です。題名の次にある「男 武修聞」は、柴田鳩翁の養子である武修の聞書によるという意味です。森岡健二は「他の道話の書に比べると、全体も統一し、文体も洗練されているのであるが、このことはかえって武修による校訂と推敲の手が加わっていることを示すのではないかという見方もある」と述べています。 ミットフォードの翻訳を日本語訳する作業で経験したのは、「鳩翁道話」原本を読むのは難しく、180年あるいは150年も前の「昔」という感じが強いのに、ミットフォードの英訳では「今」を強く感じ、とてもわかりやすいのです。それは、日本語原本の文章・表記法が古いのに、1870年代の英語は現代英語と変わりないからでしょう。同じ感じ方は『仮名手本忠臣蔵』原文とディキンソンの英訳を読み比べた時にも経験しました。ミットフォードが聞いた説教は幕末の日本語ですし、彼が読んだ「鳩翁道話」のテキストは1835(天保6)年に出版されたのですが、ミットフォードの英訳で読むと、現代人が話している/書いているような印象です。そこで、この感じ方を表すために、現代語訳にします。また、英語国民対象に書かれている点を留意して、”farmer”には「百姓」という語ではなく、「農夫」という語にするなど、江戸時代の日本を連想しながら読むと違和感を覚えるかもしれませんが、1870年代のイギリス人読者の視点で読むと想像すると、原本との違いが見えてくるかもしれません。

ミットフォード訳「説教I(鳩翁道話 第1巻)」

 孟子(原註)がこう言っています。「仁は人の心である。義は人の道である。この道を踏み外し、道に迷うのはなんと悲しむべきことか。この心を投げ捨て、心をどこに探せるのかを知らないというのはなんと悲しむべきことか!」 これは孟子の告子(注釈者)の第1章の文章です。 私たちが仁と呼ぶものは、多くの教師の注釈の題材でした。しかし、これらの注釈は理解が難しく、女子どもの耳に非常に入りにくかったのです。そこで私はたとえや物語を使って、この仁を取り上げようと思います。 昔々、京都に今大路という高名な医者が住んでおりました。この人のもう片方の名前は忘れましたが、とても有名な男でした。昔、鞍馬口という所の男がコレラに効く薬を調合して、その薬の宣伝をしたいと思い、今大路に宣伝文句を書いてもらいました。今大路は宣伝文句でその薬がコレラに効くと言う代わりに、コレラという言葉を簡単にするために、間違った字を使いました。男は自分が雇った今大路のところに来て、非難して、どうしてそんなことをしたのか問い詰めると、今大路は笑いながら言いました。 「鞍馬口は都への入り口にあたり、通行する人は貧しい農夫や山の木こりだけです。もし長々と『コレラ』と書いたら、彼らはわかりませんから、簡単に書いたのです。そうすれば、誰にも通じます。真理というものは人々が理解しなければ、その価値は無くなります。薬の効能が損なわれない限り、コレラという言葉をどんな字で書くかなど意味がありますか?」 なんと素晴らしいことじゃないですか? 同じように、聖人の教えが女子どもに理解されなければ、単なるちんぷんかんぷんの話です。さて、私の説教は学問のある人のために書かれているのではありません。毎日の仕事に追われて勉強の時間がない農夫や商人に向けて、私は聖人の教えを知ってもらいたいと思っています。私の先生の考え方を実行するために、たとえ話や面白い話を持ち出して、言わんとする意味をできるだけ簡単にしているのです。このように、神道や仏教やその他の宗派の教えを混ぜることによって、物事の真義に近いものに到達できるのです。私が時々軽口話を紹介しても、決して笑ってはいけません。軽さが目的ではなく、私はただ物事を単純かつ易しい方法で説明したいのです。 さて、この仁というものは実は完璧なのです。そしてこの完璧こそ孟子が人の心と言ったものなのです。この完璧な心で、人は親に仕えて孝行を達成し、主人に仕えて忠誠を達成し、同じ精神で妻や兄弟や友人に接すれば、人生の中の五つの関係の原則は困難なく調和するのです。完璧を実践するについて、親は親の義務があり、子は子の特別な義務があり、夫は夫の特別な義務、妻は妻の特別な義務があります。これらの特別な義務が間違いなく実行された時に、真の仁に到達するのです。そして、それが人の真の心なのです。 この扇を例にとりましょう。これを見る人は誰でも扇だとわかります。これが扇だと知っているから、これで鼻をかむなどとは考えないでしょう。扇の特別な使い方は儀式に行く時のためです。または涼しい風を起こすために開くものです。それ以外の使い方はありません。同じように、この書見台は棚の代わりに使うことはできません。枕の代わりにするなんてできません。ご覧のように、書見台は書見台だけの特別な機能がありますから、そのように使わなければなりません。つまり、皆さんの親御さんを親としてみて、孝行心を持って接することが、子どもの特別な義務なのです。それが真の仁なのです。それが人の心なのです。私がこのようにお話しすると、皆さんは、他の人のことで、自分のことではないと思うかもしれませんが、あなた方すべての人の心は生まれつき真の仁だというのは本当です。私は店員が棚から品物を下ろすように、皆さんの心の良い点、悪い点を指摘しているだけなのです。でも、私の言うことを皆さんが自分で始めなければ、自分のことじゃなくて、他人のことだと考え続けたら、私の努力は全部無駄になります。 よく聞きなさい! 親に無礼な答え方をして、親を泣かせる者よ、主人に苦労と悲しみを起こす者よ、夫を激怒させる者よ、妻を悲しませる者よ、弟を憎む者よ、兄を軽蔑して接する者よ、悲しみを世界中に撒き散らす者よ、扇で鼻をかみ、書見台を枕にする以外、何をしているのか? そんな人はここにはいないと思いますが、こういう人はたくさんいるのです。例えば、インドの裏通りなどに。どうか私が言ったことを心に留めてください。 よく考えてみてください。もし人が生まれつき悪い性格だとしたら、何と恐ろしいことでしょう! 幸い、皆さんも私も完璧な心を持って生まれましたから、この心をたとえ千金、いや万金でも手放そうなどと思いません。ありがたいことではありませんか? この完璧な心を私の教えでは「人の本心」と呼びます。仁も人の本心だというのは本当です。しかし、この二つにはわずかながら違いがあります。ただ、その違いについて説明すると長くなるので、人の本心が完璧なものだとみなすだけで十分です。そうすれば、間違うことはありません。原註:孟子は中国の哲学者Meng Tseの日本語式発音。ヨーロッパ人はMenciusと呼ぶ。
 原文と比較して、ミットフォードの翻訳が違う点は「霍乱」(日射病)という病名を「コレラ」に変えているのと、扇で「尻をぬぐふ人もいない」という表現を省略している点です。前者について、ミットフォードの英訳は”misspelt the word cholera so as to make it simpler”となっています。英語圏の人にはcholeraという綴りが間違えやすいので、「簡単にするために(意図的に)間違った綴りにした」というのは、よくわかりますし、ミットフォードの訳が巧みだと感心します。ちなみに、1817(文化14)年に長崎に持ち込まれたコレラが1822(文政5)年には大阪で広まり、300〜400人の死者を出したこと、1858(安政5)年に再び長崎に上陸したコレラが江戸まで広がり、江戸では50日間で4万人の死者を出したことを(注4)、ミットフォードは聞いて知っていた可能性は高いと思います。 扇の喩え話は、解説の中でミットフォードが言っていたことに該当する例だと思います。「ジョークや物語は我々の潔癖な言語には翻訳不可能」(Jokes, stories which are sometimes untranslatable into our more fastidious tongue”)という”more fastidious tongue”が、日本語より厳密な英語とも読めますし、潔癖とも読めます。後者の意味で、「尻をぬぐふ」を省略したということかなと思いました。 この後の話でミットフォードが変えたり、省略した点を見ると、文化の違いを考慮していることがわかります。たとえば、鳩翁が中澤道二から聞いた話を紹介しているくだりで、ある豪家に逗留したおり、その家の14,5歳の娘が様々な花嫁修業をしていると聞いて、道二があんまを習わせよ、結婚後に舅姑が病気になった時に役立つからと勧めたという話で、「肩こしをなでさすり」という箇所は「シャンプー」に変えています。別のたとえ話では、夜寝る時に用心して雨戸や戸締りをどんなにしても、雨戸や戸は「大きなおならをしても、ひびき破れる位」の薄さではないかという箇所も、”may be blown down with a breath”(一息で吹き倒される)としています。 続きを読む

ミットフォード訳の日蓮宗法話

ミットフォードは『昔の日本の話』(1871)に「日本の説教」と題した長い章を設けて、彼が実際に聞いた日蓮宗法話の様子を克明に描いています。挿絵も付いているので、1860年代後半の日本の庶民の様子が伝わってきます。

ミットフォードによる日蓮宗長応寺での法話の描写

トウが来日早々にアメリカ人宣教師S.R.ブラウン師が選んだ日本語教材として「鳩翁道話」を読んだとのことなので、ミットフォードも読んだ可能性があると思いました。実際に彼は「四十七士」を収めた『昔の日本の物語』巻Iに続く巻II(1871 (注1))で「鳩翁道話」の第1巻を翻訳して紹介しています。「日本の説教」(Japanese Sermons)と題した64ページにわたる章で、最初の10ページはミットフォードが実際に聞いた日蓮宗の長応寺の法話です。法話に集まってくる人々の様子と法話の内容をユーモラスに克明に描いています。日時は記していないのですが、かなり日本語がわかるようになった頃と想定すれば、来日2年目の1866年後半から1869年末までの間となります。この文章はスティーヴンソンも読んだわけですし、ラングも読んだと推測できるので、抄訳します。「法話」の部分は”sermon”と訳され、英語圏の読者はキリスト教の説教をイメージするので、翻訳では「説教」にします。その他の部分も読者が英語圏の人々ですから、「紳士淑女の皆さん」というように、英語圏の読者が受け取る英語的表現を維持するようにしたいと思います。
「説教は毎月8日、18日、28日に行われます」という内容の掲示板が、私が毎日通る長応寺に貼られていて、毎日私を誘惑していた。私がこの説教を聞くことに、説教師も信徒たちも反対がないと確かめてから、私は説教に参加することにした。友人2人と、私の画家と、説教を筆記する書記も一緒だった。 私たちは小さな寺に隣接している建物に招き入れられた。石灯籠と小さな木の趣のある庭に面した部屋だった。その部屋の中で説教師用に準備された場所には、高いテーブルが置かれ、白と緋色の絹布がかけられており、その布は花と唐草模様の豊かな刺繍がほどこされていた。その上には鐘と経典の巻物が入った盆と古代中国の陶磁器の香炉が置いてある。テーブルの前には吊り太鼓があり、テーブルの後ろには、どの仏教寺院にも飾られている高い、背骨が折れそうな肘掛け椅子があった。 信徒たち用のスペースの片隅には低い文机があり、そこに座っているというか、しゃがんでいるのは寺の書記で、大きな角メガネをかけて、入ってくる者たちをメガネ越しに睨みつける姿は醜い小鬼のようだった。人々は名前とお布施を記帳した。お布施はわずかだったに違いない。この信徒集団はかなり貧しく見えたから。この集団は主に老女と、グロテスクな顔をして、ぴかぴかのハゲ頭の尼、そして、けちな商人が2,3人で、6人ほどの太った子どもたちは行儀作法と敬虔さの完璧な小さな模範だった。そこにいた1人の婦人は他の者たちよりちょっと裕福そうだった。いい着物を着て、女性の召使を従えて、ある種ちょっともったいぶった衣擦れの音をさせて入ってきた。彼女は少し色っぽさを振りまいていたが、その素足は非常に美しい。席につくと、お洒落な小さなキセルとタバコ入れを取り出し、タバコを吸い始めた。火入れ(fire box)と痰壷が自由に渡されることを申し述べなければならない。このようにして、説教が始まるまでの30分ほどを皆、気持ちよく過ごすのだ。
 ここで「日本の説教」という章の最初に挿入されている挿絵を紹介します。 この挿絵の前面に足を投げ出して座っているのがミットフォードと2人の友人のようです。その右隣で説教師の言葉を書いている様子の日本人が、ミットフォードが連れて行った書記でしょう。友人というのは、サトウかもしれません。長時間、日本語の説教を聞くだけの日本語力があるイギリス公使館関係者のうち、ミットフォードと在任期間が重なる人物といえば、サトウ以外では1864年から1889年まで日本にいたウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston: 1841-1911)です。『日本語口語文典』(1869)を初めとして日本語・日本文化・日本歴史について本を著しています。ちなみに、1866年時点で、ミットフォードは29歳、サトウは23歳、アストンは25歳です。挿絵を描いたのは『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の極東特派員兼画家だったチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman: 1832-1891)かもしれません。彼の挿絵の一部はネットで見ることができます(注2)

説教師の登場

 この後、ミットフォードは説教の始まりを描写し、説教の内容の翻訳とともに、聴衆がどんな反応をしたかも記しています。
 この間、寺の本堂ではミサが行われていた。単調な詠唱のブーンという鼻にかかった音が遠くからかすかに聞こえた。これが終わるとすぐに、寺の書記が吊り太鼓の側に座り、太鼓に合わせてお祈り「南無妙法蓮華経」(Na Mu Miyo Ho Ren Go Kiyo)を詠唱し始めた。その声に合わせて、会衆も熱心に詠唱を始めた。何度も何度も繰り返されるこれらの言葉は、この寺、長応寺が奉っている仏教宗派の日蓮の典型的なお祈りである。サンスクリット語の発音に似ているが、日本語では何の意味もなく、この言葉を使う信徒たちもその価値を知らない。 まもなく、説教師が豪華な赤と白の法衣姿で現れた。その後に侍者が聖典・法華(これをもとに日蓮宗が創設された)を、緋色と金の錦織に覆われた盆に載せて従ってきた。上人(his reverence)は床の間(tokonoma)にかかっている聖画にお辞儀をした。床の間というのは、和室の中で他の床部分より2,3インチ[5,6センチ]高くなっている所で、敬いの場とされている。上人はテーブルの前に座ると法衣を整え、顔の筋肉を引き締めて完全な集中の表情を見せた。テーブルの上の鐘を3回鳴らし、小さな香を燃やして、聖典を恭しく頭上に掲げてから、その一節を読み始めた。会衆は一斉に合唱した。彼らは信心深くはあったが、理解力はなかった。なぜなら、その言葉は古代中国語で書かれていたので、ラテン語の祈祷文がノルマン人の背高帽子をかぶった農婦に意味不明なのと同じく、一般の日本人信者には意味不明だったからだ。この人々の群れが銅銭を紙に包んでお布施としてテーブルの前に投げている間、僧侶は一人だけで文章を朗読していたが、寺の書記は不敬にも、お布施に触ったとか何とかと、会衆の1人と喧嘩を始めた。儀式の前段が終わり、小さな坊主頭の少年がお茶を持って入ってきた。上人のお茶としてその後3回も補充され、上人は顔の筋肉を緩めて、満面の笑みを浮かべ、咳払いをすると、お茶を飲み、我々の方を晴れやかに見下ろした。 彼の話法は最も身近なやさしくわかりやすいもので、聖典の一節について即興(原典は斜体による強調 extempore)で行う論説だった。彼が強調したり、一息ついたりする時は必ず「南無妙!」という会衆の叫びが割って入った。これは前述のお祈りの最初の3語で、説教師の意味に賛成という表現を彼らなりに考案したものでもある。 「今日ここに多くの紳士淑女が、心底の信仰心から鬼子母神(原註:仏教徒の女神)の御会式を祝ってお集まりくださったことは、言いようもない喜びです」と日輪上人は穏やかな笑みを浮かべて聴衆を見渡した。 「南無妙!南無妙!」と会衆から謙遜の(self-depreciatory)叫びが起こった。 「みなさんの信心が鬼子母神の気に入らないということはないと確信しています。鬼子母神はいつも、火宅に住んでいる人類の苦しみを嘆き、いつも助ける方法を見つけようと本当に努力なさっているのです」。 「南無妙!南無妙!」ありがたく、恭しく。
 この後7ページにわたって説教と、「南無妙!南無妙!」という会衆の叫びが続きます。まるで目の前で人々が「南無妙!南無妙!」と感謝や悲しみを込めて、説教の合間に叫んでいるのが聞こえてくるほど、臨場感が溢れたリズム感のある文章です。そして以下のように結ばれています。
 以上が私の書記が筆記した説教の頭の部分である。最後に説教師は微笑みながら周囲を見回して、まるで、彼がそれまで説き聞かせた厳粛な真実は、壮大な冗談以外の何物でもないと言っているかのようだった。会衆全員が「南無妙!南無妙!」と大きく、長く叫び続けた。それから、寺の書記が再び釣り太鼓の側に座って、この礼拝は始まった時と同じように終わった。お祈りのコーラスの間に僧侶が退室し、その前を侍者が聖典を捧げて退いた。 時たまだが、上記の場合のように、月の特別な日の礼拝の一部として、説教が行われることがある。連続したコースの中で説教がたびたび行われ、2週間かかるが、その間、毎日2つの説教が行われる。説教師が行脚僧のこともよくあり、彼らは町や村を回って、寺の本堂で説教したり、住職の客間で説教をすることもある。
 この次に「鳩翁道話」の解説と翻訳に移りますので、次項で紹介しますが、説教師が町や村を回るという説明は、福井県における柴田鳩翁(1783-1839)と代講の道話スケジュール(注3)を見ても、1826(文政9)年から1867(慶応3)年にかけてだけでも、頻繁に行なわれていることがわかります。ミットフォードたちが実際の「鳩翁道話」を聞いたかは「日本の説教」からはわかりませんが、代講による説教は彼らが日本在住の時代ですから、可能性はあるかもしれません。 続きを読む

サトウ、ミットフォードらの日本語力

R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)で高く評価しているA.B.ミットフォードの『昔の日本の物語』(1871)は「四十七士」で始まっています。ミットフォードは泉岳寺を訪れた時に見せてもらった四十七士の遺品を書き写して英訳しています。訪日3年以内に日本語の文書を書き写し、英訳したというので、ミットフォードを含めた当時のイギリス公使館の通訳官や外交官の日本語学習とその日本語力について調べてみました。

サトウ、ミットフォードらの日本語力

ットフォード(A.B. Mitford: 1837〜1916)の『昔の日本の物語』(1871 (注1))には著者の名前の後に「在日本イギリス公使館二等書記官」(Second Secretary to the British Legation in Japan)と肩書きが付けられています。ミットフォードは1858年に外務省に入り、ペトログラード、北京での任務を経て、1866年10月から1869年末(1870年1月1日に日本を出帆)まで江戸に勤務し、1873年に外務省を辞職しているので(注2)、この本の出版時(明治4年)にはまだ外交官だったということです。ちなみに、彼の日本滞在を1870年までとしている論文が多いようですが、ここでは彼の死の1年前、78歳の時に出版された『回想』(Memories, 1915)の記録を典拠とします。46年以上たって、高齢になってからの回想とは言え、序に書かれているように、アーネスト・サトウ(Ernest Satow: 1843〜1929)から詳細な記録を借りて確認したそうで、この事実はサトウの『一外交官の見た明治維新 上下』(A Diplomat in Japan, 1921 (注3))の序でもサトウがミットフォードに貸したと述べていますから、信頼に足る記録です。 サトウの『一外交官の見た明治維新』や日記を読むと、この時代の英国外交官・通訳の日本語力が卓越したものだと、よくわかります。サトウが英国公使館の通訳生として来日したのが1862年9月で、その時の彼の日本語力はゼロだったのに、2年後の1864年9月4日の日記の一部を以下のような日本語で書いています。 この時、4カ国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)連合艦隊が下関海峡の開放を実現すべく横浜から下関に向かっていて、サトウは通訳として日本語教師と共に乗っていました。日本語文の最初の部分は、「九月四ツ日 朝九時 下関ヲ志して出帆。佐(左)ハ仏国軍艦三艘、亜国(アメリカ)商船一艘、右ハ蘭ノ四艘、中ハ我国軍艦八艘、石炭商船一艘、出帆ノ頃ヨリ、飛脚軍艦コケット、姫嶋ニ倒(到)来、行力ヲ増シテ、段々追駈ケ、当艦迄来タリケリ」と始まっています。漢字はもちろん旧字体です。『薩英戦争 遠い崖—アーネスト・サトウの日記抄2』(注4)にこの部分の日記の写真が掲載されているので、彼の筆跡もわかります。 また、来日4年半後の1867(慶応3)年3月末から4月1日にかけて、大坂城内で行われた将軍慶喜の外国公使謁見をめぐって、イギリスとフランスの理解の違いが通訳の能力に影響されている側面を萩原延壽が指摘しています(注5)。当時、日本語を解する部下を持っていなかったフランス公使ロッシュが入手できる情報が限られていたのに対し、イギリス公使パークスはサトウという有能な通訳の理解を介して、当時の日本の政治を動かしていたのは、天皇(朝廷)、将軍(幕府)、大名(雄藩)という三つの要素が存在していたと理解したのに対し、ロッシュの念頭には将軍慶喜しか存在していなかったといいます。その端的な現れが、4カ国の代表のうち、パークスだけが慶喜に対し、”His Majesty”(陛下)の使用を拒んで、”His Highness”(殿下)という呼称を用い、通訳を務めたサトウは「殿下」という言葉を避けて、「上様」と訳して、「気まずい場面が生ずるのを防いだ」そうです。 ところが、将軍は一国を代表して外国との条約に署名できる身分ではないから、”His Majesty”とは呼べないと言ったのはサトウ自身だったというのです。慶喜の謁見の前年1866年3〜5月にかけて、サトウがJapan Timesに匿名で論説を3編投稿したとされています。その内容について、サトウ自身は『一外交官の見た明治維新』で以下のように述べています。
大君[将軍]と締結した条約が不満足なものであることを述べたてた。その条約は、外国人との貿易を大君の直轄地の住民だけに局限して、この国の大部分の人々を外国人との交渉から断ち切るものであった。そこで私は、条約の改正と日本政府の組織の改造とを求めたのである。私の提案なるものは、大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである、というのであった。それ以来私は、現存の条約の改良と修正について、いろいろの提言をするようになった。阿波侯(訳注 蜂須賀斉裕)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これらを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。(中略)しまいには、その日本文が英人サトウの「英国策論」、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった。これは、勤王、佐幕の両党から、イギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは、もちろん私の関知するところではなかった。(上、pp.197-198)
 日本の内政に関して中立であるべきだというイギリス外務省の方針に反する論説を書いたことを、『一外交官の見た明治維新』を書き始めた42歳の頃には、「はなはだ規則を無視したもので、実によろしくない行為であることは言うまでもないが、そんなことには私はほとんど無頓着だった」と書いています。1866年にサトウは23歳でした。 サトウの研究者であるイアン・ラックストンは、サトウが論説の中で、将軍が国家元首でもないのに外国との条約に調印したことは詐欺的だと述べていると紹介しています。そして、「幕府の条約調印が外圧によって強制されたことをサトウは都合よく忘れている」、「1858年の日本では西欧のような条約締結という伝統がなかったことも無視している」、「ここには西欧の価値観を東洋のコンテクストに押し付けようという意図がある」と批判しています(注6)。 上記の引用からもわかるように、サトウたちは日本語教師を雇っていました。サトウは『一外交官の見た明治維新』の中で、度々ミットフォードの日本語力にも言及しています。
ミットフォードは、彼が以前に北京でシナ語を勉強した時のように、絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見た。私は、彼の役に立てようと思って、一連の文章と対話を編纂しはじめたが、これは数年後に会話篇という標題で出版された。(1867年の記述、上p.247)ミットフォードは、この国へ来てからまだ十二か月以上たってはいなかったが、だれの助けも借りずに日本語で会話をやってのけることができた。それは、同君が語学力を有していた著しい証拠である。(下、p.84)
 サトウとミットフォードは日本各地を一緒に公用で旅していますが、そんな旅にも、それぞれの日本語教師を同道させていました。慶喜の謁見はミットフォードも随行しましたが、1868年3月26日に行われた天皇引見にはハリー・パークス公使の他にはミットフォードだけが随行しています。その理由をサトウは次のように述べています。「謁見の席に陪席を許される公使館員は、ミットフォード一人だけであるが、これは同君がイギリス本国で宮廷に伺候した経験があるからだ。山階宮がミットフォードを天皇に紹介し、天皇は彼に『苦労』という言葉をかけられる。これは意訳すると、”Good to see you”となる」(下、p.182)。翌年1869年1月5日の天皇謁見にはサトウも同席しています。

サトウの日本語学習方法

 サトウが日本語学習について詳しく記しているので、当時のイギリス公使館の人々がどうやって日本語を習得していったかがわかります。サトウは日本に到着した翌日には『会話体日本語』を仕上げたばかりのアメリカ人宣教師S.R.ブラウン師と、日本語辞書を作成中のJ.C.ヘボン博士に紹介され、公使館を説得してブラウン師から週2回の教授、日本人の教師を雇うことを認められました。もう一人日本人教師が必要でしたが、こちらは自分たちのポケットマネーで支払わなければならなかったと書いています(上、p.66)。 ブラウン師は「鳩翁道話」という訓話集を一緒に読んでくれたので、文語の構成がわかりかけたといいます。この「鳩翁道話」はミットフォードが英訳していますので、後に紹介します。サトウの日本人教師の一人は紀州和歌山出身の医師・高岡要で、書簡文を教え、高岡が草書で短い手紙を書き、それを楷書に書き直して、その意味をサトウに説明し、サトウはその英訳文を作り、数日後に英訳文を日本語に訳し直す訓練をしたそうです(上、p.68)。書道の教師にもついたそうですが、商人用流派の「御家流」の教師を選んでしまい、維新後に「多くの大名を弟子に持ち、東京の能書家六人の中の一人に数えられていた」高斎単山に師事したが、「書道は少しも上達せず、普通の日本人ほどにも書けなかった」(上、p.69)と述べています。 そして書簡文の訓練が実践で初めて役に立ったのが、1863(文久3)年6月に、幕府の閣老から短い書面がイギリス公使館に来た時に、忠実な訳文ができたことだと誇らしく述べています。サトウが横浜に着いたのが1862年9月7日でしたから、来日9か月目に外交文書を忠実に英訳出来たということになります。

サトウの日記・手紙の日本語

 20年後の1884年にサトウが日本人妻の武田兼と、2人の息子に会った時の様子を日記にローマ字日本語で書いています。「ヒルゴ(午後)、コドモヲミニイッタラ、フタリトモソウケンデ、オトナシクテ、メズラシイ。エイタロウ(栄太郎)ハ、イッサクネンヨリ、カクベツセイガノビナイ。チエガツイタ。ヒサキチ(久吉)、イロシロク、ワガオトウト、セオドーア(Theodore)ニヨクニタリ」(注7)。 さらに、この約30年後の1913(大正2)年に、イギリスで引退生活を送っていたサトウが武田兼に宛てた日本語の手紙が以下です。この手紙の背景として、サトウと兼の間に生まれた息子2人のうち、長男の栄太郎がアメリカに渡っていて、1908(明治11)年にアメリカ女性と結婚し、アメリカ永住が濃厚になった頃、次男の久吉(1883-1972)が植物学研究のためにイギリスに留学したという事実があります。1910(明治43)年から6年間、ロンドンのインペリアル・カレッジ・オブ・サイエンス(Imperial College of Science)、バーミンガム大学、キュー・ガーデンなどで研究を続けていました。そんな背景で、母親の兼は長男に続き、次男も海外に行ったまま帰らないのではないかと不安になったらしく、サトウに不安を訴える手紙を書き、それに対する返事が以下のサトウの手紙(1913(大正2)年5月31日付)です。尚、「即(すなはち)」以外の漢字のルビは1980年刊の単行本所収の手紙にはついていないので、サトウの手紙にもルビはなかったと思われます。21世紀の読者用に振られたルビでしょう。原文が縦書きであることを念頭にお読みください。
て久吉の儀に付、仔細御申越候趣致承知しょうちいたし候。御心配に
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アンドリュー・ラングとアーネスト・サトウの出会い

R.L.スティーヴンソンのコラム「挿絵の寄り道」が1883年刊のThe Magazine of Art(vol.6)に掲載されていますが、内容は忠臣蔵の紹介です。F.V.ディキンズ訳の『仮名手本忠臣蔵』(1880)と、斎藤脩一郎・グリー共訳「伊呂波文庫」抄訳『忠義の浪人』(1880)のフランス語訳を紹介し、A.B.ミットフォードの「四十七士」(1871)に言及しています。スティーヴンソンの記事が1883年に出版されていることが、ラングと日本との関連でとても興味深い出来事とつながっていることを発見しましたので、この出来事から紹介します。

出会い:ラング、アーネスト・サトウ、ハーバート・スペンサー、森有礼、伊藤博文

末から明治にかけて、厳密には1862(文久2)年から1882(明治15)年まで、日本で活躍したイギリス人通訳・外交官のアーネスト・サトウ(Ernest Satow: 1843〜1929)が1883(明治16)年に休暇で帰国中に、ハーバート・スペンサーに招待されたサヴィル・クラブで、伊藤博文・森有礼と共に、アンドリュー・ラングにも会ったと日記に記しています。サトウの日記を翻訳し、経緯について解説している萩原延壽の『遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄14』(2001 (注1))から引用します。
 帰国後[1883年2月27日]約一ヶ月がすぎたころ、サトウは森[有礼]を訪ねた。「森によると、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)が非常にわたしに会いたがっているそうである。そこで先方の都合がよいときに、いつでもアシニーアム・クラブ(Athenaeum Club)に出かけると約束した。」 スペンサーは、日本の自由民権運動にも大きな影響を与えた、社会進化論と自由放任主義を説くイギリスの著名な社会学者であり、アシニーアムは、メンバーに文人や学者を多く擁する有名なクラブで、スペンサーも森もそのメンバーであった。 ハーバート・スペンサーがサトウから日本の神道について話をききたがっていることは、すでに外務省の知人から耳に入っていたが(三月十九日の項)、森有礼の斡旋で、会合は四日後に実現した。「四月九日、アシニーアム・クラブに出かけ、森からハーバート・スペンサーに紹介された。スペンサーは五十五歳(じつは六十二歳)ぐらいの、やせ形の男で、頭ははげ上がっているが、あごの下までつづくほおひげをたくわえている。神道の儀式に関連したいくつかの事項について、私から話を聞き出そうとしたが、残念ながら、わたしは答えることができなかった。かれはわれわれをサヴィル・クラブ(Savile Club)の夕食に招待してくれた。」 サトウがイギリスの著名な季刊誌『ウエストミンスター評論』(1878年7月号)に発表した論文「古代日本人の宗教的儀式」(The Mythology and Religious Worship of the Ancient Japanese)などを通して、サトウの神道研究のことは、スペンサーの耳にもつたわっていたのであろう。 まもなくサトウはサヴィル・クラブでの夕食会の席で、スペンサーと森ばかりでなく、当時滞英中の伊藤博文とも会うことになった。「四月二十八日 サヴィル・クラブで、ハーバート・スペンサーと夕食をともにし、そこで伊藤、森、アンドリュー・ラング、化学の教授だというドイツ人某と会った。」
 この会合について、ラングの側からの言及は今のところ見つかっていませんが、スペンサーがサトウを招待した理由が、サトウの日本の宗教に関する論文(注2)にあったので、ラングもサトウの話を聞きたかったということでしょう。こんな歴史的会合にラングが同席していたというのを知って興奮しました。森有礼は1879(明治12)年11月から1884(明治17)年4月までイギリス駐在特命全権公使としてロンドンに滞在していました。1881年から参事院議長だった伊藤博文は1882(明治15)年3月から1883(明治16)年8月まで、立憲制度調査のために渡欧していました。この会合の年、サトウは40歳、森有礼は36歳、伊藤博文は41歳、ラングは39歳でした。 ハーバート・スペンサー(1820—1903)については、熊楠がラングについて述べた文章で、スペンサーやダーウィンなどと共に「素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり」と紹介しています(本サイト「アンドリュー・ラング紹介(1)」参照)。スペンサーはこの頃、社会学者、哲学者として絶頂期にありました。最初の本『社会静学』(Social Statics, 1851)は1881(明治14)年に『社会平権論』という題名で日本語に訳されました。その後、『心理学原理』(The Principles of Psychology, 1855)、『第一原理』(First Principles, 1862)、『生物学原理』(Principles of Biology, vol.1, 1864, vol.2, 1867)、『社会学研究』(The Study of Sociology, 1874)、『社会学原理』(The Principles of Sociology)の最初の部分が1876年に出版されています。『第一原理』は1883年に日本語訳が出ています。スペンサーは「適者生存」(survival of the fittest)という言葉を作ったことでも有名です。19世紀後半のアメリカでもスペンサーは大人気で、アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie: 1835—1919)などの「抑制がなく、悔やむこともない資本主義」を鼓舞したと批判されていますが、現在では、スペンサーの再評価が始まっているそうです(注3)。 スペンサーと明治日本との関係は、福沢諭吉がスペンサーの『社会学研究』を出版されてすぐに愛読し、反論も含めて多数の書き込みをしていること(注4)や、自由民権運動に大きな影響を与えたとされること、また、森有礼が1884(明治17)年に英文の憲法草案を書き、スペンサーに贈呈して、スペンサーが意見を述べたことなど(注5)、かなり深いものがあるようです。

ロンドンのクラブ

 サトウの日記に記されていた、アシニーアム・クラブとサヴィル・クラブについても、当時のイギリス文化を知る上で見ておく必要があります。萩原延壽の解説では、「アシニーアムは、メンバーに文人や学者を多く擁する有名なクラブで、スペンサーも森もそのメンバーだった」とあります。サヴィル・クラブと共に、「ジェントルマンのクラブ」と称される、これらのクラブとはどんなものだったのでしょうか。「19世紀後半のロンドン・クラブ」[ref]Antonia Taddei 続きを読む

ラングの「未開人」論(5)

The Magazine of Art (1882)掲載のラングの「未開人の芸術」の第二部「II—描写」(The Art of Savages.—II. Representation.(注1))の続きです。アフリカの洞窟の壁画を『ケープ月間雑誌』(Cape Monthly Magazine)からコピーしたが、これは多分、魔法の儀式を描いたものだろう。ブッシュマンたちが雨を降らせるために、大きな淡水動物—サイかその種の動物—をおびき出して、陸地を走らせるように仕向けている。この考え方の関係は文明人にはほとんど見えないが、フランスの一般的な迷信である、絞首刑に使われたロープを持っているとカードゲームに運をもたらすという関係の不明瞭さも同じようなものだ(注2)。 ブッシュマンの洞窟絵はオーストラリアの洞窟絵のように、黒、赤、白で描かれている。未開人はアッシリア人や古代ギリシャ人のように、そして、子どもたちのように、人間を描くより動物を描く方がずっとうまい。[この記事の]頭文字に使ったブッシュマンの犬はケンタウロスのケイロン[centaur Chiron: 半獣神ケンタウロスの1人]に従っている犬と同じくらい生命感に満ちあふれている。大英博物館の壺に描かれているのは、アキレスを育てるケンタウロスの姿である。(中略) 未開人の芸術の歴史において、私たちに気付かせてくれる1つの事実は、未開人は文明人同様、様々な文化程度を持ち、様々な芸術的能力を持っていることだ。ヨーロッパの最も古い居住者は彼らの生活の痕跡や手工品を多く残しているが、彼らも未開人だったはずだ。彼らの道具や武器は研磨石器で造られたものではなく、荒削りのフリント石だった。この種の道具を使った人びとは機械設備などなく、洞窟生活でも、洞窟熊を追い払わなければならなかったし、雪の中でトナカイやマンモスに忍び寄っていくような生活は本当に大変だったにちがいない。これらヨーロッパの最初期の人びとは古代の研磨されていない石の武器を使ったことから、「旧石器時代人」と呼ばれている。彼らは大氷河期前に、現在フランスとイギリスとして知られている国に住んでいた。これは彼らの時代を計り知れない古い時代にしてしまって、「暗い過去の時の淵」(”dark backward and abysm of time”(注3))によって、私たちと彼を離れさせてしまっている。(中略)しかし、彼のスキルは他のどの人種よりも、私たちの現代アートの精神に近いものがあると認めなければならない。 旧石器時代人は他の未開人のように自分の武器を装飾したが、彼は未開人によく見られるように、装飾紋様で装飾したのではない。(中略)彼の時代の大きな頭の馬の図案を描いた。以下のページに印刷したものである。(中略) ブッシュマンの壁画(Bushman Wall-Painting)ブッシュマンの壁画(Bushman Wall-Painting) 旧石器時代の芸術(Palaeolithic Art) ギリシャの芸術が、荒っぽい子どもっぽい作品からエーゲ海大理石の優美なものに、2,3世紀の間にどうやって一足飛びに変貌したのか、そして、そこからフィディアス[Phidias:紀元前490〜430年頃のギリシャの彫刻家]の作品に見られるような完全な自由と、完璧で近づきがたい美へと変貌したのかを発見することは、芸術史の最も特異な課題である。アッシリアとエジプトの僧侶たちがユーフラテス川とナイル川の谷で精巧に作った芸術を、ギリシャの初期の人々が何か学んで、洞察を得たことは疑いない。これが、未開芸術からフォーマル芸術や神官芸術(formal and hieratic art)に急速に発展した理由を説明しているかもしれない。しかし、ギリシャ人をこんなにも速く、完全に自由で自然で神のような芸術に導いたインスピレーションはどこから飛んできたのだろう?これは人種のミステリーであり、神々しい才能のミステリーでもある。「天なる神々が人間に与えたのだ」(”The heavenly gods have given it to mortals.”)。  大分はしょりましたが、上記の段落で「未開人の芸術II—描写」を締めくくっています。最後の引用文がどこからの引用かわかりません。彼が共訳した『ホメロスのオデッセイ』(1879)や『ホメロスのイリアス』(1883)などからかもしれませんが、全く同じ文言ではみつかっていません。いずれにしろ、ホメロスに関するラングの見解はラングの全体像を理解する上でも重要なので、後に紹介します。 この節で抄訳したラングの「未開人」論には、彼と同時代のヨーロッパ「文明人」の迷信と並列したり、ギリシャ神話と同等に高く評価したりして、「未開人は文明人同様、様々な文化程度を持ち、様々な芸術的能力を持っている」と注意喚起しています。また、旧石器時代の人々が「現在フランスとイギリスとして知られる国に住んでいた」と、土壌を通して未開と文明がつながっていることを再確認するよう促しています。後者は日本でも縄文人とのつながりなどで私たちにも通じる視点です。しかし、ラングが意図していたのは、彼の時代のイギリス植民地に住む同時代人の「未開人」に目を向けさせることだったように思えます。ラングの時代にこのような視点を訴えたことは貴重だと思います。 続きを読む

ラングの「未開人」論(4)

The Magazine of Art (1882)掲載のラングの「未開人の芸術」の第一部「I—装飾美術」は4月号に掲載され、第二部「II—描写」(The Art of Savages.—II. Representation.(注1))は5月号に掲載されました。今回は、当時のイギリスと未開人の芸術の表現方法の類似点を強調している個所に注目したいと思います。「ラングの未開人論(3)」で紹介したように、人骨の調査をする形質人類学の専門家がヨーロッパと未開人の違いを強調することによって、ヨーロッパ人の優位性を浮かび上がらせることを目的としていたのに対し、ラングは類似性に着目することによって、アーリア人優位の時代に異を唱えたと読めるからです。 この記事は文章の最初の字をドロップ・キャップ(Drop Cap)という飾り文字を使っていますが、この手法に、アフリカの「ブッシュマンの犬」の絵の1部なのか、先住民族のアートに似せた飾り文字に使っています。最初の文章は”It appeared in a former paper that the art which aims at decoration is better adapted to both the purposes and materials of savages than the art which aims at representation”(前の記事では、装飾を目的とする芸術は描写を目的とする芸術よりも、未開人の目的と材料に適していると述べた)で、最初の文字”I”をドロップ・キャップにしています。走る犬の絵と文の内容とが重なり、巧みなデザインで、これはラングのアイディアなのか、編者のヘンリーか、デザイン担当者がいたのかはわかりませんが、他にも日本の団扇をドロップ・キャップに使うなど、魅力的な装飾が施されていますので、後にご紹介します。 未開人の芸術 II 描写(pp.303〜307)  この記事では「国会の審議中に雄鶏の鳴き声を真似る議員」が「そのスキルを行使するのに私心のない喜びを感じている」のに対し、「未開人」が動物の真似をする時は論理的合理的な理由があると、19世紀の「文明人」の愚かさを皮肉に辛辣に述べています。21世紀の日本では首相が国会審議中に何度も「ヤジ」を飛ばしていることが話題になっています(注2)。以下が「未開人の芸術II」の主要部分です。回は未開人がいかに努力して表現しようとしたかを見なければならない。ここでも、未開人がどんな目的に触発され、どんな材料が手に入るのかを検討しなければならない。未開人の絵には実際的な目的があり、模倣のための模倣が好きだからなどと簡単に結論付けてはならない。確かに、現代のモダン・アートは絵画や彫刻で自然を模倣したいという気持ちが生来の衝動、もって生まれた本能になっているかもしれない。しかし、そうなる理由があったに違いない。私たちが模倣芸術に対する私心のない愛をはるか昔の祖先から受け継いでいる可能性もないわけではないが、彼らの模倣癖には直接的で、私心のある、実際的な目的があった。国会の審議中に雄鶏の鳴き声を真似る議員や、暇つぶしに犬のように吠える浮浪少年(street boy)などは、そのスキルを行使するのに私心のない喜びを感じている。 しかし進歩的な知識人は同意すると思うが、犬や雄鶏やその他の動物の声を真似た最初の人びとは、単に楽しくてやったわけではない。仲間にこれらの動物が近づいていると知らせるという実際的な目的があったのだ。(中略)この理論が正しいか否かは別として、未開人が模倣芸術を試さなければならない実際的理由は確かにあったのだ。(中略) ここに掲載しているアメリカ・インディアン(Red Indian)の絵文字(picture-writing)は北米の原住民に関するコール[Johann Georg Kohl: 1808〜1878,ドイツの地理学者]の本(注3)から採ったものだ。読者はこの未熟な芸術品をたいして重要ではないと思うかもしれないが、実は大洪水を記録したカルデアの粘土板と同じくらい重要な文書なのである。荒っぽく描かれた人物たちはこのアーティストの心にはManabozhoの神話を呼び起こすもので、それはこの大きな湖のそばに住む人びとにとっては、プロメテウスとデウカリオン(注4)、あるいはカインとノアに匹敵する。Manabozhoは偉大な酋長で、二人の妻がいたが、二人は喧嘩していた。ずんぐりした2人の姿[コールの絵で4番が付されている両脇の人物]がこの妻たちを示している。2人の間にある塚はManabozhoの不快感を表している。その隣に見えるのは2本の木にはさまれたManabozhoで、困った状況だが、狼もリスもManabozhoを救うのを拒否している。ピラミッドのような山の上に人がいる図は、Manabozhoが祖母を洪水から守るために置いたことを示している。同じような図が[隣の]自分の山の上にいるManabozhoである。次に見える動物たちは、洪水がどの程度かを確認するためにManabozhoが送り、同時に祖母にメッセージを伝えるために送られた動物たちである。この巻物は文学的素養のあるアメリカインディアンによって、多分白樺の皮に描かれ、コールに差し出された(その動作が右下に描かれている)のは、Manabozhoの洪水のストーリーを決して忘れないためである。ヨーロッパ人が知る限り、アメリカインディアンはいつもこの絵文字を、彼らの伝説や詩やまじないを記憶するために使っている。言うまでもなく、メキシコの絵文字も古代エジプトの象形文字も同じ未開のプロセスから生じている。(中略)図の出典:J.G. コール『スペリオル湖周辺の旅』(1860)、J.G. Kohl, Kitchi-Gami. Wanderings round Lake Superior, Chapman and Hall, London, 1860, p.387.図の題名:「もう1つの白樺の皮」(Another Birch Bark)図の題名:「もう1つの白樺の皮」(Another Birch Bark)  絵文字に加えて、宗教も未開人の具象芸術を発展させた。トカゲかクマを崇拝する人はトカゲやクマを表したお守りや偶像を身につけるのが便利だと思うだろう。未開人の世界観は、似たものは似たものに影響を与えるという理論である。これが肖像画に描かれている人を燃やす行為の源である。ケープ[Cape:南アフリカ]の入植者たちがグラッドストーン氏[William Ewart Gladstone: 1809〜1898, この当時のイギリス首相]の肖像を燃やした時、この政治家に危害を加えてはいないとよくわかっていた。しかし、この儀式を未開時代から引き継いでいて、人間の肖像を燃やしたり、槍で突き刺したり、肖像が蝋人形なら火で溶かしたりすることは、生きている人を溶かし、消し去ることと考えられていた。この考え方は、人間とその肖像を共通とみなす理由からきている。この考え方は未開人が肖像画を描かせないことにつながる。彼らは、肖像画が魔法や悪意のある使い方にされると考えたのだろう。しかし、もしトカゲやクマを崇拝しているなら、祈りや崇拝の行為を動物の像に向かってするなら、その動物たち自身が喜び、動物たちに幸運をもたらすとも考えただろう。  コールの本から図を採用して、図の意味を説明しているラングの注目点に対し、コールがこの絵を描いたインディアンから実際に聞いた説明がどうだったか、要約します。 No.1:地上を流れる川No.2:華やかな戦闘装束のMenaboju(Manabozhoの変化形)。彼は偉大な勇士の酋長。No.3: Menabojuの家。ここで2人の妻と暮らした。No.4: 2人の妻が大げんかをし、間にある岩はMenabojuの「止めろ」という命令を表す。No.5: 森でよく起こることは、隣あった木の枝が風でこすれ、森中にこすりあう音が響いたり、こすれる熱で火事が起こったりする。Menabojuはその音を止めようとしたか、山火事を恐れてか、枝を折ろうと木に登り、挟まってしまう。そこに3日間はさまったまま、飲まず食わずで、通りかかる動物たちに助けを求めるが、最初に来た狼は「あれ、Menabojuよ! お前さん、そこでちゃんと守られてるよ!」と言って、木の下で朝ごはんを食べ、残りを布にくるんで木の下に置いて行ってしまった。次に来たリスはMenabojuに懇願されて、木をかじり始めたが、歯が痛くなったと言った。彼らは甘いナッツを砕くのには慣れているが、こんな硬い木を切る仕事には慣れていないと言い、他の動物たちも同じような弁解をしたが、そのうち、クマが来てMenabojuを苦境から救ってくれた。No.6: Menabojuの孫が狩りに出て、川に行くと、カメの王がいたので、向こう岸に連れて行ってくれと頼む。カメの王は悪者で、助ける代わりに川を広げてしまい、孫は渡ろうとして溺れてしまう。カメは孫を食べてしまうが、その最中にMenabojuに殺される。カメたちはMenabojuに宣戦布告して、大洪水を起こす。No.7: Menabojuは最初に祖母を高い山の上に連れて行く。彼自身も世界一高い山の一番高い松の木に登り、洪水が引くのを待つ。彼の両側に描いた鳥のアビとマスクラットは彼のもとに来た動物だ。No.9: 2つの島はMenabojuが作ったもので、小さい方は彼の重さに耐えられない、大きいものは彼を支えられ、これが新世界になった。 続きを読む

ラングの「未開人」論(3)

The Magazine of Art (1882)掲載の「未開人の芸術I—装飾美術」の続き(pp.250—251)を訳します。 ュージーランド人はオーストラリア人よりはるかに優れた才能に恵まれ、ヨーロッパ人が到来した時には、オーストラリア人と同じく金属の道具は持っていなかったが、ずっと高い文明を持っていた。彼らの石の武器はもっと硬く、鋭く、これで硬い木に彫った様々ならせん形や渦巻き形の例は前ページの道具の装飾と、このページに示す通りだ。ニュージーランドの文化と芸術はアジアを源とすると時に言われる。マオリの酋長の顔に彫られている渦巻きやらせんや、木の家具のデザインにはアジアの影響が見られるかもしれない。この問題はここで触れることはできない。この解決には私たちには手の届かない人類学的、言語学的知識がもっと必要だろう。確かに、地球上の人種は遠くまで移動し、素晴らしく混じり合い、彫られた石や墓碑をうろつく幽霊を保管してくれたおかげで、彼らの移動の痕跡はいたる所に残っている。しかし、文明化しているものと未開のものと、2つの芸術作品が似ている場合、この類似が2つの人種の関係や接触があったとか、影響が1つの人種からもう1つの人種に移入したことを証明するとみなすのは危険である。

キリスト教主教の権威のシンボルはマオリの模様と同じ

 ニュージーランドの作品はアジアが源かもしれないし、数世紀にわたって、より低い文明と未発達な道具によって劣化したのかもしれない。あるいは、ニュージーランド人が既に手に入れていたような原初の形から進化した芸術がアジアの装飾かもしれない。マオリが好きならせん模様は[キリスト教]主教の杖の頭部分(注1)に似ていて、ニュージーランドの巨大なシダに感嘆して、その形を採ったのだと思いたい誘惑にかられる。この類似が初期の自然な考え方が発展したものだと説明できる例はギリシャの初期の土器である。ギリシャ人がアメリカの文明人から借用したとは誰も言うまい。2,3人の熱狂者はアメリカの文明人、特にペルー人は人種としてはアーリア人だと言う。しかし、アルゴスやミケナイのような古代ギリシャ遺跡に残っているペラスジ人の(Pelasgic,(注2))巨大な石の建物(Cyclopean buildings)と、ペルー人の宮殿の遺跡はそのスタイルにおいて、決して似ていないわけではない。可能性としては、同じような社会的条件に暮らし、同じような道具を使う人間は、無意識に意図せずに、似たような結果に到達するということだろう。 この問題に興味を持つ人で、ペルーとミケナイに行って自分の目で建造物の比較研究ができる人はそういないだろう。しかし、世界中の人間の精神の奇妙な一致を研究したい人はみな大英博物館に行って、アメリカと古代ギリシャの土器を調べることができる。ペルーとメキシコの壺は2階の右側の最初の部屋にある。ぴかぴかした古いコートを着た剥製のサイを通り過ぎた場所だ。ギリシャの壺の中心的模様と波模様を比べてほしい。そして、鳥の顔、あるいは鳥の顔に非常によく似ている人間の顔と、シュリーマン博士[Heinrich Schliemann: 1822〜1890]がトロイで発掘した土器の壺に描かれている同じような顔を比べてほしい。後者はトロイに関する博士の本に掲載されている(注3)。ペルーのジャーに描かれているいわゆるカトル・フィッシュ[cuttle-fish, イカの俗名]と、古代ギリシャの壺に描かれている同じ絵を比べてほしい。これらはみな2階の古代の壺の展示室にある。もう1つ、メキシコとペルーの展示室にある小さな粘土の「渦巻き」(whorls)と、シュリーマン博士がヒッサリク(Hissarlik)でたくさん見つけたものと比べてほしい。これらのものすべてが、その形においても、目的においても、装飾の特徴も同じで、その理由が、これらの場所の文明の初期段階では特に、人間の心も材料も同じだという確信を持つことは抑えられなくなる。ペルーのコレクションの中に、古代ギリシャの土器の壺などを紛れ込ませるか、逆に、ヒッサリクの土器の宝庫の間に、メキシコのものをこっそり入れたら、最も賢い考古学者もだまされるだろう。(中略)

スワスティカに宗教的神秘的な意味は全くない

 ギリシャの雷紋様(fret pattern)は特に最初期の人間が学んだ描き方の一つのようだ。「スワスティカ」(svastika)と呼ばれる十字の各腕に右斜めに線を入れているものは、インドでも、ギリシャでも、ペルーでも、自然な飾りの一種として、いたるところでみつかっている。インド人の寓話化好きはこの印に神秘的な意味を与え、知識人たちがこの「前キリスト教の十字」の上に、私には理解不能な宗教的理論の世界を築き上げたが、実際は、この十字は宗教的神秘的意味など全くない。ただ急いで作り上げた装飾作品にすぎないものだ。この種の装飾は人間がこの初期芸術を学ぶと同時に、木や骨から粘土に使われるようになった。オーストラリア人は土器製造技術を獲得しなかったが、そう遠くない地のニューカレドニア人は獲得していた。 らせんと曲線の模様はニュージーランド人などが手に入れるとすぐに、数種類の人種、特にケルト人に好まれるようになった。ミケナイの装飾品や昔のスコットランドやアイルランドの装飾品コレクションを研究する人は、これらの芸術にマオリの装飾の発展した跡を見つけるだろう。一方、古代ギリシャは直線と斜線の古代様式を踏襲し、その後のギリシャ芸術には、渦巻きやらせんの組み合わせへの好みが見られない。ケルト人の渦巻きやらせんへの好みは驚くほどで、同じくミケナイの装飾品の宝庫にも強く現れている。これは多分古代ギリシャの英雄時代のものだろう。装飾の発達におけるこれらの違い、ケルト人の天才が1つの道を進み、その美的限界を極めて初期の「モチーフ」にたどり着いた一方で、古典美術がより厳しい線に進んだという理由は、現時点では確認することはできないだろう。しかし、明らかにわかることは、教育のない人種がすでによく知っていた装飾のアイディアを、後代の芸術は多少発展させた以外何もしていないことである。マオリの顔の刺青(TATOO ON A MAORI’S FACE)16-06-23-001左:マオリのデザイン(A MAORI DESIGN) 右:マオリの顔から(FROM A MAORI FACE)

スワスティカをめぐる問題

 ラングが1882年に「スワスティカ」(かぎ十字、ドイツ語ではハーケンクロイツ)と呼ばれる模様が、「インドでも、ギリシャでも、ペルーでも、自然な飾りの一種として、いたるところでみつかっている」と指摘し、この模様に神秘的意味などない、ただの装飾にすぎないと言っているのは重要です。特にこの半世紀後にナチスが「スワスティカ」をアーリア人優位の象徴として使ったことを思うと、ラングの先見性には目を見張ります。この視点は右傾化が危惧されている21世紀に再び強調されています。BBCが2014年に「ヒトラーが盗むまで、いかに世界がスワスティカを好んだか」(注4)と題する記事を発表しました。日本の寺院の卍の写真も交えて、先史時代のスワスティカ模様の写真を盛り込んだ記事なので、ご覧になってください。 マオリの紋様が19世紀後半のキリスト教主教の杖の紋様と同じだという指摘でも、先住民族が未開だと蔑むなら、キリスト教界の権威のシンボルを見ろと言っていると読めます。翻訳で「比べてほしい」と訳した箇所は、Compareと命令形で、くだけた表現では「比べてごらん」となります。畳み掛けるように「くらべてごらん、わからないかい?」とでも言うように、白人優位主義に警鐘を鳴らしているように読めます。大英博物館を紹介したくだりでは、笑いを誘うようなユーモラスな表現ですし、何よりも、21世紀に通じるような、博物館の活用法を説いているように思います。大英博物館の歴史[ref]”History 続きを読む

ラングの「未開人」論(2)

ラングの一貫性」で紹介した彼の最初の論文(1877)で、先住民族アボリジニを「下等人種」としてヨーロッパ人がばかにすると批判していますが、The Magazine of Artの最初の掲載論文も未開人に注目した内容です。植民地・帝国主義時代のまっただ中のイギリスで、美術に関心のある中流階級の読者に向かってラングが何を言っているか、「未開人の芸術I—装飾芸術」(1882, (注1))を抄訳します。この時ラングは38歳、ロンドンで文芸評論家として出発してから6年目です。この2年後に出版されたラング著『慣習と神話』(Custom and Myth, 1884,(注2))に収録されましたが、内容は多少変えています。こちらは題名からも本の体裁からも、専門家向けと言えるでしょうが、The Magazine of Artは一般読者向けです。1882年当時の段落は長いので、読みやすくするために、段落を増やし、また、小見出しを訳者の独断で付けました。

「未開人の芸術I—装飾美術」(“The Art of Savages.—I. Decorative Art” )

開人の芸術について書くにあたって、芸術の起源とか、人間の芸術的能力といった形而上的抽象的ななぞなぞを論じるつもりはない。そんなトピックについては今までも膨大な量が書かれてきたし、これからも書かれるだろうが、それらは私たちが本当に知りたいことに、新たな知見などほとんどもたらしていない。未開人の芸術的能力やその起源を、たとえ私たちが発見し証明できたとしても、それが動物の習性の中のぼんやりした兆しにたどり着くとしても、それは農民が赤ワインを何本か飲んだ後に言うように「これ以上、行けねえ」(”no forwarder”)。なぜなら、下等動物に強力な美的センスが存在するから、最も美しい斑点のついた鳥や獣やマスが一番立派な伴侶を得て、種はそうやって美的に進化したのだと、ダーウィンの進化論者と共に認めなければならないとすれば、多くの哲学者たちは耳の聞こえない毒ヘビ(adder)の先天的欠陥に苦しんでいることになる。彼らは私たちの話に耳を傾けないし、私たちも賢いから、彼らに惑わされることは決してない。たとえば、彼らが論ずるように、オウムの美しい色がオウムに備わっている美的センスと自然選択説の結果だとしたら、同じ理屈で、人類も模様や青陶磁器(blue china)の鮮やかな色を持ってこの世に生まれてきたかもしれない。なぜなら、幾多の世紀にわたって、知られている限りの人種のほとんどが入れ墨という芸術を実践してきたからだ。ここに示しているダヤク族の入れ墨文様には昔の南京陶磁器の青は含まれていない。もし最も美しいオウムが最も美しい伴侶を見つけて、その豊かな色をヒナに遺産として残していたら、なぜ最も優れた入れ墨の人間の男女が皮膚に彫られた文様と色を遺伝として伝えなかったのだろうか。このこじつけ論に対して、ずる賢い無礼者の進化論者たちはもちろん答えはいくつか持っているが、神の力によって、私たちが荒削りな形に造られたと矛盾なく論じることはできない。とにかく、進化論者の視点から芸術の起源を研究することは時間とスペースの無駄だけでなく、精神の無駄でさえある。(中略)

アリストテレスもカントもヘーゲルも芸術の起源解明には役に立たない

芸術の起源について、形而上学者の視点からアプローチすることも賢明ではない。アリストテレスの『詩学』を引用して、すべての芸術は人間の模倣機能の表れで、模倣に喜びを見いだすのだと断言する人がいるかもしれない。しかし、なぜ人間が模倣に喜びを見いだすのだろうか?それがなぜ、人間が世界の美に見いだす喜びを高めるのだろうか?これらの疑問で、すぐに私たちが考えることは、相反する概念の和解(the reconciliation of antagonisms)、つまり、知覚可能な時間とスペースの「図式」(注3)、ヘーゲルの「概念」(それが何だとしても、概念を持つ人はほとんどいない)、定言命法(注4)、その他の形而上学、正確に言うと、表現不可能なことがらだ。したがって、私たちは芸術の起源というあいまいな問題そのものを避けなければならない。そして、人間は芸術が好きだから芸術に専念するという単純で、女性的とも言える仮説を採用しなければならない。ここで言っておかなければならないことは、芸術が人間の模倣機能の表れだという理論は、私たちが知っている初期芸術から見る限り、正当化されないことである。暫定的に私たちが採用する仮説は、私たちが知っている最初期の芸術は現代の未開人種、あるいは、絶滅した人種の芸術である。ある哲学者は次のように言うかもしれない。私たちが知っている未開人種すべては、初期の文明人の退化した子孫にすぎず、不運にも、また不可解にも、彼らの文明の遺物は残っていないと。しかし、私たちは反対の理論を主張する。たとえば、オーストラリア人の芸術は、ニューカレドニアのような、土器の技術を持っていた人々よりもずっと遅れた未開状態である。ニューカレドニアの人種だって、メキシコやペルーの昔の人種よりはもっとずっと遅れている。メキシコやペルーもエジプトの芸術に対しては多少進んでいた痕跡はあるものの、遅れていた。エジプトの芸術は、少なくとも古代帝国時代後は、完璧なギリシャ芸術の方向に向かってゆっくりと進んでいた。オーストラリア人に関して、未開芸術がいかにしてニュージーランドのような野蛮芸術に発展していったか示すことができる。ペルーやメキシコのような奇妙な文明の芸術が一段と発達している一方で、ギリシャの初期芸術には、ペリクレス[Pericles: アテナイの将軍政治家]よりもずっと前の時代のギリシャ芸術には、野蛮な文明の型の遺物があり、それが次第に美に和らげられていった。しかし、進化の過程で断絶も、継続という解決も必ずある。( pp.246—247) A DYAK’S HAND, (From Bock’s “Head Hunters of Borneo”)ダヤク族の手(ボックの「ボルネオの首狩族」より) A DYAK’S FOOT, (From Bock’s “Head Hunters of Borneo”)ダヤク族の足(ボックの「ボルネオの首狩族」より)(p.217)

未開人の芸術は装飾目的

初期芸術の最も奇妙な問題が私たちの前に立ちはだかっている。それはすでに述べた問題に関係している。芸術は模倣機能の欲求を満たすものなのか? ここで、現代の未開人種のうち、最下等で、最も教育がなく、道具も持たない人種にとって、芸術は大体において、模倣ではなく、装飾である。オーストラリア人の楯やこん棒に描かれている模様や、入れ墨で皮膚に彫る印が自然界のものの模倣という場合はほとんどない。オーストラリア人は、アメリカインディアンやアフリカ人やインドの先住民族、ペルー人、その他のように、家族を様々な動植物の名前で区別している。そこから、自分の家族の血統を誇る。このように、カンガルーと呼ばれる家族は自分たちがカンガルーの子孫だと想像する。他の家族はオウム、黒ヘビというように。地球の多くの地域で、この習慣と迷信は人間の模倣機能と結びついて、芸術の形を生み出し、それによって家族が血統を主張する物を表す。この芸術は一種の未開の紋章、多分、紋章の起源である。このように、もしアメリカインディアン(たとえば、デラウェア族)がカメの家族だとすると、彼は自分の盾や上着にカメの紋章を描くし、多分、自分の胸にカメの入れ墨をしたり、絵を描いたりする。そして彼が死ぬと、墓の上の柱にカメの「逆さ」の絵を描くが、それはちょうど私たちの中世の年代記にあるように、イギリス国王の死亡記録の反対側のエスカッシャン[楯型紋章]の上のヒョウが逆さまになっているのと同じである。しかし、オーストラリア人は自分たちの先祖は動物だと信じてはいるが、ふつう紋章を皮膚に刻むとか、埋葬された場所の近くの木に刻むとかは、私が知る限りしていない。彼らはまだこの模倣芸術の段階まで到達していない。しかし、一種の記号を発明したか、受け継いできたか、棒に刻んだ印でお互いに秘密のメッセージを伝えていた。ただ、アッパー・ダーリング[ダーリング川上流]地域の原住民は家族の紋章を楯に彫っている。模倣芸術の代わりに、ムリの人々[Murri:クイーンズランドとニューサウスウェールズ北西部]は家族の区別を示すのに、腕や胸に模様、線、点などを刺青にしたり、埋葬地の近くの木の皮に彫ったりすると言われているが、どこまで真実かは私にはわからない。とにかく、模倣芸術を生み出す社会的条件すべてを備えている人種に、紋章の未発達な模倣芸術が見られないという事実は注目すべきである。このこと自体が、我々が知っている限り、最も遅れた人種の土着の芸術が基本的に模倣ではないことを示す。オーストラリア人の武器や道具を見た者はみなこの結論にたどり着く。楯と棒は精巧に彫られているが、ほとんどは植物や動物や人間を表していない。一般的に装飾は単純な「杉あや」模様(”herring-bone” pattern)か、その他、らせんや曲線や円を使わずに描けるものである。模様のこの選択には自然で必然的な理由がある。オーストラリア人は硬い木に、フリント[石英]かガラス片か、鋭い貝殻などの道具で彫るため、曲線を彫るのは簡単ではない。(pp.248) オーストラリアの楯(AN AUSTRALIAN SHIELD)オーストラリアの楯(AN AUSTRALIAN SHIELD) オーストラリアの楯(AN AUSTRALIAN SHIELD)

未開人の装飾模様と現代スコットランドの模様の類似

誰もが少年時代に木の皮に名前を彫ったことがあるだろう。その時、MとAを彫るのは簡単なのに、SとGはうまくいかなかったことを覚えているだろう。MとAは真っ直ぐな線か斜めの線だからだ。未開のアーティストも同じく、未発達な武器で曲線やらせんを描くのは難しいのだ。(中略)[オーストラリアの]アーティストも可能なら、完璧な円を彫ったかもしれない。彼の失敗は、少年がGとSを彫れなかったのと全く同じだ。しかしながら、ここに掲載している3つの楯は、古代ケルトの小土瓶(下の3つの図の一番高いもの)のように、未開人の装飾芸術として知られている最古のものを示している。この形は「山形模様」(chevron)とか「杉あや模様」(herring-bone)という名前で今も残っている。この模様は粘土に爪やとがった棒で作る。ろくろを使わずに作る土器の原始的装飾方法は、その他の未開芸術の遺物とともに、スコットランドの西の島々に今でも残っている。オーストラリア人は初期的な土器の小土瓶の作り方は習っていなかったが、昔のケルト人や現代のスコットランドの老女が杉あやの線を彫って土鍋を装飾するように、オーストラリア人も楯を装飾したのだ。色については、オーストラリア人は白と赤の粘土(white clay and red orchre)を好む。それを楯の木の割れ目にすり込む。彼らが待ち伏せを決定すると、身体中を白く塗り、この格好で突然現れる幽霊が敵の最も勇敢な者も震え上がらせると、ちゃんと考えている。しかし、白と黒のこの種の配置は初期の芸術という名にふさわしくない。オーストラリア人の尖った楯に見られるように、彼らは時に人間の形を原始的な装飾として試みた。これらオーストラリアのデザインはブロー・スミス氏[Brough Smyth: 1830—1889]の『ヴィクトリアのアボリジニ』[Aborigines of Victoria, 1878, [ref]R. Brough Smyth, The Aborigines of Victoria: with Notes relating to the Habits of the Natives of 続きを読む

ラングの「未開人」論(1)

ングが最初の論文で、オーストラリア先住民族の文化を研究することによって、イギリス人が「人種の誇りという愚かさを投げ捨てること」を目指したと紹介しましたが、それが彼の一貫性の表れだという視点から、ラングの未開人論を辿ってみたいと思います。「未開人」と訳した語は”savage“で、「野蛮人」という意味もあります。日本語の「未開人」は今では差別用語とされていますが、19世紀の植民地時代には植民地の先住民族をこの語で呼んでいましたので、そのまま翻訳します。ラング自身がグリムのメルヒェン集の英訳『グリムの家庭のお話』(Grimm’s Household Tales, 1884 (注1))の解説の中で定義を述べているので、紹介します。
”savage”という語を、オーストラリア人、ブッシュマン、アルゴンキン族のようなアメリカの部族やマオリのような人種という意味で使う。この膨大な数の種族には微妙に異なる初期文明と「文化」の多くの段階が見られる。しかし、我々が参照する人種はみな今のところ未開であり、彼らは未開の知性の特徴的な性質を示している。(p.xlix)
 これに対し、ラングがヨーロッパの先史時代の人々を指す場合は”barbarian”(野蛮人)という語を使う場合が多いように思いましたので、日本語でも使い分けようと思います。帝国主義時代における”barbarian”という言葉の使い方について、一つの例をご紹介します。1858年にイギリス統治によるインド帝国とされたインドには、10世紀にイランから逃げてきたパルシー(ゾロアスター)教徒が住んでいましたが、19世紀にイギリスが来てくれたおかげで、インド人でない自分たちが「野蛮(barbaric)とみなされていたインドで上位に立てた」と人種的優位性を感じたそうです(注2)

植民地・帝国主義時代のアボリジニの人権

 ラングの未開人論を見る前に、19〜20世紀にかけてのアボリジニの人々に対する政策を概観します。ラングが上記引用の文章で、オーストラリアのアボリジニを「オーストラリア人」と呼んでいることは、当時まだ白人入植者を「オーストラリア人」とは認識していないことの表れでしょうが、その後のアボリジニの人々が受けた仕打ちを知ると、19世紀に「オーストラリア人」と呼んだことが印象的です。 1786年にイギリスはオーストラリアをイギリス国内の囚人の流刑地としました。オーストラリアをイギリス領とできたのは、先住民アボリジニの存在を無視して、「無主」(terra nullius)の地とみなしたことから始まります。200年後の1982年にエディ・マーボ(Eddie Mabo)氏ら5人のアボリジニが原告となってオーストラリア政府に対する訴訟を起こし、10年後の1992年に高裁判決が6対1で、オーストラリアは植民地化が始まった時に「無主」の地ではなかったという判決を下しました(注3)。この時、私は西オーストラリア州のマードック大学で教鞭をとっていましたが、法科の学生たちが小躍りして喜び、興奮しきって授業にならなかったことが強烈な印象として残っています。残念なことに、この時、5人の原告のうち、マーボ氏を含め3人が既に亡くなっていました。 オーストラリア建国記念日の1月26日は、イギリスの囚人たち759人を乗せた最初の船がシドニー湾に到着した日(1788年)で、アボリジニの人々にとっては侵略された日であり、祝うことはできないと、長い間抗議が続いていました。2016年現在、オーストラリアの建国記念日を別の日にすべきだという意見が出ているそうです(注4)。 ラングが「オーストラリア人」と呼んだアボリジニの人々は、1901年にオーストラリアがイギリス植民地から独立国家になってから1967年まで、「オーストラリア人」の資格も与えられず、国勢調査の対象からも外されていました。1967年に国民投票が行われたのですが、それは1901年制定のオーストラリア憲法の条文に含まれているアボリジニに対する差別の是非を問うものでした。この憲法では、議会の立法権について、「アボリジニを除く、すべての人種」の平和と秩序を守るためと記され、さらに、人口調査に「原住民族アボリジニは含まれるべきではない」と書かれています(注5)。アボリジニを除外するという文言を憲法から除外するという案に対して、国民投票で90.77%が賛同し、史上最高の賛成率だったと、国立アーカイブスの解説で述べられています。ところが、現在のオーストラリア議会ホームページ掲載の憲法「大要」(注6)には以下のように書かれています。
オーストラリア憲法は1900年にイギリス議会法の一部として可決され、1901年1月1日に発効した。1901年以前のオーストラリアはイギリスの6自治植民地で、植民地に対する絶対的権力はイギリス議会にあるため、イリギリス法となるのは必要だった。しかし、現実には、この憲法の文書はオーストラリア人によって草案され、オーストラリア人によって認められたのである。(p.iv)
 国家対国家という視点からは、オーストラリア人による、オーストラリア人のための憲法だと誇れるのでしょうが、「オーストラリア人」という名称とその実態をめぐっては見てきたように悲惨な歴史があったのです。

ラングの選んだダンピアの未開人観

 1887年、ラングが40歳の時に出された『神話・儀式・宗教』(Myth, Ritual and Religion,[ref]Myth, Ritual and Religion, Vol. II, Longmans, Green and Co., 1913. 初版は1887年ですが、インターネット・アーカイブ掲載のものは1913年版です。初版から10年近く絶版だったものが1899年に再販され、1901年、1906年、1913年と4刷目です。序の中で、ラングは10年の間に新たな知見が得られたので多少書き換えたと断っています。 続きを読む

ラングとThe Magazine of Art

ングの新聞雑誌掲載の文章は追跡不可能なほど多いのですが、1882年頃からのもので、The Magazine of Art掲載のものは追跡できました。インターネット・アーカイブがトロント大学所蔵のものを掲載してくれています。 The Magazine of Artという雑誌は1878年創刊で1904年まで続きましたが、1881〜1886年に詩人のウィリアム・アーネスト・ヘンリー(William Ernest Henley: 1849〜1903)が編集長として担当した時期に変貌を遂げ、中産階級の美的センスに多大な影響を与えたと評されています(注1)。それは美術分野だけでなく、詩、散文、批評、考古学、民俗学なども含め、定期的な執筆者にはヘンリーの友人であったロバート・ルイス・スティーブンソンもいます。ラングも頻繁に寄稿しています。 ヘンリーについて、彼の詩「インビクタス」(Invictus, 1875)がネルソン・マンデラの伝記映画の題名(2009, (注2))になり、マンデラが獄中で心の拠り所にした詩とされています。ヘンリーの略歴については、「ヴィクトリアン・ウェブ」掲載の論文(Dr. Andrzej Kiniejko, (注3))から抄訳します。ヘンリーは12歳で骨結核と診断されて、十代で片足をなくし、病院での長い闘病生活中に文芸誌に詩を投稿して認められます。1875年、26歳の時に入院中の彼をR.L.スティーブンソンが訪れたことから二人の友情が始まり、スティーブンソンの『宝島』(1883)の片足のジョン・シルバーはヘンリーをモデルにしたということです。ヘンリーはまた、編集者としての才能にも恵まれ、The Magazine of Artを含め、4種類の雑誌の編集をしました。 以下に1882〜1886年発行のThe Magazine of Artに掲載されているラングおよびその他、私が注目した記事を紹介します。尚、1881年刊はデジタル化されていないようです。この雑誌は月刊誌だったようですが、前年11月号から翌年10月号までを1冊にまとめたものがデジタル化されているため、それぞれの記事が何月号掲載だったか、はっきりわかりません。

ウィリアム・アーネスト・ヘンリー編集のThe Magazine of Art

1882年:The Magazine of Art, vol.5(注4)
Andrew Lang, 「未開人の芸術I—装飾美術」(“The Art of Savages.—I. Decorative Art”, pp.246—251)
Andrew Lang, 「未開人の芸術II—描写」(“The Art of Savages.—II. Representation”, pp.303〜307)
Andrew Lang, 「テームズ川とその詩情」(“The Thames and Its Poetry”, pp.377〜383)
1883年: The Magazine of Art, vol.6[ref]The Magazine of Art,
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ラングの一貫性

ラングは若い時から死ぬまで一貫した見解の持ち主だった

 ングを評する時に使われる”versatile”という語の意味は「多才、多方面」だというのは、見てきた通りです。ところが、もう一つの意味に「変わりやすい、きまぐれ」があることに着目して、「ラングはversatileではない」と主張した同時代人の評論家がいました。文学評論家のエドモンド・ゴッセ(EdmundGosse: 1849〜1928)がラングの死の翌年に出したエッセイ集『ポートレートとスケッチ』(Portraits and Sketches, 1913, (注1))にラングについて以下のように述べています。尚、翻訳にあたって、[ ]でくくった部分は、訳者として私が参考になると思う内容を付け加えたことをお断りしておきます。
 ラングの功績の巨大さと大量なことには言葉を失う。どこから始め、どこで終わればいいのかわからない。彼の著作物はあまりに多く、その中に分け入って、著書目録を作るのは手に負えない作業になる。どの本も卓越していて、彼の人となりも、知性も品性も同じで、あまりに多くの矛盾に満ちており、早まって断定してしまうと、多くの落とし穴に落ち入ってしまう。衝動的な奇妙な気まぐれが多過ぎて、全体を分析するのは長い作業になるだろうし、すべてに公平な評価を下すことはほとんど出来ない。それでも、あえて書き留めることにする。彼の死に際して、ラングについて書いた人々は多くは好意的に書いていたが、中には不正確な記述や、見逃されていると思えたものもあった。それらを思い出すままに書こうと思う。この前提として、私が彼に頻繁に会っていた1877年から1890年にかけてのラングについて述べる。 彼が亡くなった時、すべての新聞が彼の「多才さ/多方面」(versatility)を声高に書いていた。だが、彼は多才/多方面の正反対だったのではないだろうか。私は、”versatility”を、変わりやすく、移り気で、風見鶏の方向に絶えず転換しやすいことだと理解している。文学分野でそのいい例はラスキン[John Ruskin: 1819〜1900]だ。彼は同じテーマについて、人生の各段階で全く異なる見解を示し、それを同じ情熱で主張した。”versatile”ということは、不安定で変わりやすいということだ。 しかし、ラングは彼の長いキャリアの間、全く変わらず、見解を決して変えなかった。青年時代に好きだったもの、賛美したものを、年とってからも好きだったし、賛美していた。彼の関心と知識は驚くべき多くの道に活発に向かっていったが、豊富ではあっても、変わりやすい(versatility)とは私には思えなかった。(中略)ラングは並外れて多形でありながら、彼のバラエティはオックスフォード大学時代から墓場まで全く一貫していた。[pp.199-200]
 この後、ゴッセはラングの大学時代と文学分野での彼の関心について述べていますが、文学以外の分野については全く触れていません。私が注目したのは、見解が変わらなかったというゴッセの見方がラングの最初の論文(1877年)と死の前年刊の『トーテミズム研究の方法論』(Method in the Study of Totemism , 1911)に共通していることです。終生一貫したテーマを追ったことが窺えます。研究者としての最初の論文は『アリストテレスの政治学』(W.E. Bolland (tr.), Aristotle's Politics Books I. III. IV. (VII.). The Text of Bekker, 1877, (注2))に付けられたラングの解説(Introductory Notes)ですが、驚いたことに、解説文は105ページ(pp.1—105)、W.E. Bollandによる対訳本体は198ページ(pp.107—305)です。解説の最後の章「社会の起源」(The Origin of Society, pp.90—105)で、古代ギリシャ社会とオーストラリア先住民族アボリジニの家族制度との比較をした上で、以下のように締めくくっています。
 家族の起源は不愉快な側面を持つ問題である。私たちが人種の誇りという愚かさを投げ捨てることを家族の研究が教えてくれるなら、この研究の苦しさは報われるかもしれない。人種の誇りという愚かさは、いわゆるアーリア人が「下等人種」をばかにする時に、半科学的言い訳をさせるのである。「下等人種」という理由は、彼らの習慣がアーリア人の制度に影響を与えたことである。
 ラング独特の皮肉を込めたひねりで見解を伝えているように読めます。「アーリア人」という語で、私たちはナチスのアーリア人優越論を思い出しますが、ラングのこの発言はその半世紀も前のことです。ナチスのアーリア人優越論とユダヤ人迫害の犠牲者が戦後50年以上たってから語り始めたというニュースがありました。ナチスに家族を殺された当時、幼い子どもだったその人に、「アーリア人(ユダヤ人以外の白人)」に見えるから、ユダヤ人であることを隠して生き延びろと、逮捕した巡査が忠告して逃がしたというのです。この記事(「家族を殺害したナチスのマスコットになった少年、50年後に真実を語る」2007年9月24日、AFP (注3))を読み、ラングの1877年の発言を読むと、アーリア人優越論が19世紀から顕著だったことが窺えます。

19世紀の「アーリア人仮説」

 1877年のラングのこの見解の背景には、どんな動きがあったのでしょうか。最近第4版が出た『人類学理論の歴史』(A History of anthropological Theory, Fourth Edition, トロント大学出版局、2013)の著者ポール・エリックソン(Paul A. Erickson)が「19世紀自然人類学におけるインド・ヨーロッパ仮説」(”The Indo-European Hypothesis in Nineteenth Century Physical Anthropology” (注4))という1973年発表の論文で説明していることを紹介します。
    「アーリア人種」はペルシャ語・古代ギリシャ語・ラテン語・ドイツ語の構造的類似性に気付いた18世紀の言語学者によって作られた。[古代ペルシャ語でariya-はペルシャ人が自分たちについて使う名前で、イランIranはここから来た。サンスクリット語のarya-は同胞を意味し、その後は貴族という意味で使われた。(注5)] 現代の人類学者は「インド・ヨーロッパ仮説」を冷笑しているが、19世紀に魅力的な仮説になった理由は、(1)言語と人種を同一視する理論に成り立っていたこと、(2)「白人」のアーリア人は西洋文明の源と捉えられたこと、(3)アーリア種族からは多くの人種が除外されたため、人種分離主義(doctrine
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